欲したもの2
隣に座った少年が、そわそわと窓の外を気にしていることに、彼女は気付いていた。
眩い午後の日差しが降り注ぐ窓辺。
背中にぬくもりを感じながら並んで長椅子へ腰掛け本を読んでいたのだが、少年の膝上に置かれた本は一向にページが進まない。
二人の母親たちは、すぐ隣の部屋でおしゃべりに興じている。
父親たちは、どこか別の部屋で仕事の話をしているのだろう。
「デンハムとロナウド、遅いわね」
あまりにも彼が外を気にするものだから、少しだけ拗ねた気持ちで、彼女はつぶやいた。
この日は、寄宿学校へ行っている長男と次男が長期休暇で帰ってくる予定。だから、久し振りに皆で過ごそうと、少女と彼女の両親はウォルシュ子爵邸へ招かれた。
少年の夜空色の瞳が自分に向けられたが、直後に外から聞こえた物音で、すぐにそらされてしまう。
だけど、その聞こえた音が馬の蹄と車輪の音だったから、少女も慌てて窓の外へと視線を向けた。
押し合うようにして窓から身を乗り出して、少女が落下することを心配した少年の左手が、少女の背中の服をつかむ。
「帰ってきたわ、イグナス!」
「うん! 行こう、ジェレーナ!」
少年の顔が喜びで輝いて、二人は手を繋ぎ玄関へと駆け出した。
いつもなら屋敷の中を走ると怒られるが、この日は誰もが気が逸り、隣の部屋にいた母親たちも待ち人の到来に気付いて駆け足となっている。
使用人の手により開け放たれた玄関の扉。
くぐり抜けた先には、あと一年で大人の仲間入りをする長男と、まだまだあどけなさが抜けきらない次男が、丁度、馬車から降り立ったところだった。
「兄さん!」
二人の姿を見た瞬間、繋がれていた手は自然と離れ、少年が走る速度を上げる。
少女は反対に速度を落とし、兄二人と弟の久方ぶりの再会を、澄んだアメジストに映した。
「イグナス、久しぶりだな!」
満面に笑みを浮かべた次男が、弟の黒髪をくしゃくしゃと撫で。
「背、伸びたんじゃないか?」
飛び付いた末弟を受け止めた長男が、優しく目を細める。
後からやってきた子爵夫妻とも言葉を交わし、年に数回しか揃うことのない家族が、肩を抱き合う。
彼らの表情は、喜びに溢れていた。
それを彼女は、離れた場所で眺める。
子爵婦人と共にやってきた彼女の母と、すぐに父もやってきて、少女は己の両親とともに喜ばしい光景に目を細めながら順番を待った。
すぐに、デンハムとロナウドはこちらへやって来るだろう。
少女の両親と再会の挨拶をして、二人は、少女の頭を少しだけ乱暴に撫でてくれる。もしかしたらロナウドは、彼女を抱き上げてくれるかもしれない。
目の前ではイグナスが、次兄のデンハムとじゃれ合い、笑っている。
長兄のロナウドも、父親と言葉を交わしながらも右手を伸ばし、末弟の黒髪をぐしゃぐしゃと掻き回していた。
整えた髪をめちゃくちゃにされながらも兄たちに甘える少年の姿を眺める少女の心に浮かぶのはーー
親とは違う存在である『兄弟』への、羨望だった。
※
ウォルシュの領主である子爵一家が住む屋敷では、晴れた日には、幼い子供たちが庭で日向ぼっこを楽しむ姿がよく見られる。
子供たちは、三歳と、一歳になる男の子。二人とも長男ロナウドの息子だ。
ウォルシュ子爵の三人の息子のうち、結婚しているのは長男のロナウドのみ。
次男のデンハムは、仕事が忙しいことを口実に婚活には力を入れていない。
子爵夫人がそれを嘆き、良き相手を見繕っては縁談を持ち掛けるが、のらりくらりと逃げる日々を送っている。
結婚の話題での呼び出しだと何も言わずともそれを察して家に寄り付かなくなるというのに、弟の一大事には報せを受け取ってすぐ帰って来たあたり、学者というのは鼻が利くのかもしれないと、子爵夫人と長男の嫁の間では笑い話となっていた。
三男は、唯一、幼い頃から婚約者がいた。
彼が望んで結んだ縁だった。
相手の少女も、心からそれを望んでいた。
家族も二人を祝福していた。
不幸があって、その婚約話が無くなってから三年。
彼の隣には今、柔らかな金髪と澄んだアメジストの瞳を持つ女性が寄り添っている。
「ねえ、イグナス」
腕を絡めて身を寄せながら、女性が彼の名を呼んだ。
すぐに彼の視線は女性へと向けられて、無自覚に、甘く優しく、夜空色の瞳がとろける。
「私ね、子供はたくさん欲しいわ。兄弟って、いいわよね」
微笑む女性の視線が向かう先。そこには、二人の小さな男の子がいた。
兄のほうは、叔父であるデンハムにまとわり付き遊んでもらっていて、一歳になったばかりの弟は祖母の膝の上。
日当たりのいいテラスでは、子供たちの両親と祖父母が談笑しながらお茶を楽しんでいる。
先程までは二人もその中に混じっていたのだが、久方ぶりに訪れた子爵邸の庭を散策するため、席を立った。
「幸せな光景ね」
「そうだな」
イグナスが、穏やかな笑みとともに同意する。
隣を歩く愛しい女性を見つめ、その顔に浮かんだ微かな憂いに、彼は首を傾げた。
「……リディア?」
どうかしたのかという意味を込めた呼び掛け。それを受け、彼女は背の高いイグナスの顔を見上げて、静かに笑った。
「私ね、羨ましかったのよね、イグナスが。デンハムとロナウドは、なんだかんだで良いお兄様でしょう? だから私も……義姉達と、良い関係を築きたかったんだけどなぁ」
過去を想い、哀しげに伏せられた視線。
リディアは、もう二度と、義姉達と会うことはない。
義姉達の知る彼女は既に死人で、帽子屋のリディアは、義姉達とは無関係な人間なのだから。
「……彼女達は、良い人間ではない」
イグナスが発した不機嫌な声音に気付き、リディアは再び顔を上げた。
見上げた先、愛しい男の眉間には、深い苦悩が刻まれている。
「どうして、そう思うの?」
彼女の記憶では、イグナスと義姉達に接点はほとんどないはずだった。
それなのに彼女達の人となりを断言するイグナスに違和感を覚え、首を傾げる。
リディアの視線の先。
濃く、長い睫毛を伏せたイグナスは、考えに沈んで足を止めた。
少しの間のあとでゆっくりと足を踏み出し、手を繋いだままだったリディアをどこかへ誘う。
リディアは、黙ってそれに従った。
たどり着いたのは、一つのベンチ。
咲き乱れる花々の鑑賞と、散策の小休止のために置かれたそれへ、二人は腰を降ろした。
「……君が、死んでしまう前」
静かに、イグナスは言葉を紡ぐ。
まるで、泣き出しそうなのを我慢しているようなその声に、リディアは耳を傾けた。
「直前の社交シーズンに、悪い噂が流れたんだ。……君が、悪女だと」
膝に置かれたイグナスの拳が、怒りで震えていた。
それを視界の隅に捉えつつ、リディアはきょとんと、目を丸くする。
「悪女? 悪女って……ええっと、それは……どのくらい、悪いのかしら。例えば、そう、性格がとっても悪いとか、そういったこと?」
彼女はその時、王都には連れていってもらえず領地で過ごしていた。
その頃には使用人達は皆、継母の味方ばかりになっていたから監視の目が煩わしかったが、意地悪ばかりの義姉達と殺意を向けてくる継母の不在は、羽を伸ばせる少ない機会だったのを覚えている。
イグナスの言うその社交シーズンはちょうど、決意を固める前の、調べ物に没頭していた時だ。
「俺は、警護以外で茶会やパーティーへ参加することはなかったが、同僚が教えてくれたんだ。殿下も、お怒りだった」
王太子の耳に届くほどということは、予定どおりその翌年に社交界デビューを果たしていれば針のむしろだったのだろうなと、リディアはのんびり思う。
今ではもう、彼女には関係のない場所だ。
行きたくても行けない場所。
子供の頃は、イグナスにエスコートされての社交界デビューに憧れたものだが、そこは既に、捨てた世界。
「その噂の出どころが、あの二人だったんだ」
「ナンシーと、ジュエル?」
名を聞くことすら腹立たしいといった様子で、口を引き結んだイグナスが頷いた。
「それで、その悪女は何をしたの?」
「君がしないようなこと」
「それってなぁに?」
興味が湧いたリディアは、隣に座るイグナスの顔を見つめて問い掛ける。
リディアの視線をまっすぐに見返して、イグナスが口を開いた。
一体どんな悪事が飛び出すのかとわくわくしていたリディアは、イグナスが距離を詰めたことを内緒話でもするのだと受け取って、彼の口元へ己の耳を寄せる。
「わあっ! ――ちょっとイグナス!」
咄嗟に距離を取り、耳をおさえた。
顔も耳も、全てが熱くなる。
「くっ、くくく……ハハッ」
イグナスが盛大に笑いだし、拗ねたリディアは拳で彼の二の腕を殴る。
鍛えられた騎士の腕は硬くて、殴った彼女の手のほうが痛かった。
「もう! 耳を、か……噛む、なんてっ。信じられないわ!」
「だって、キスしようと思ったんだ。それなのに君が可愛らしい耳を差し出すから、つい、食べてみたくなった」
「今の流れでキスになるのもわからないわよ!」
身の危険を感じたリディアは立ち上がり、座ったままでいるイグナスから距離を取る。
警戒した猫のようになった彼女を愛しげに見つめたイグナスは「甘噛だよ」という、意味のわからない主張をした。
「……噂のことを聞いてすぐ、君に、会いに行ったんだ」
社交界デビュー前の未成年でも、家族とともに王都へ出てきてタウンハウスで過ごすものだから。
「その前の年は、喪に服していただろう? 一年遅れの義姉達の社交界デビューだ。君も当然、王都へ来ていると思っていた」
義姉達は一歳差の姉妹。姉が妹に合わせて同じ年にデビュー予定だったのだが、その年に伯爵が亡くなってしまったため、先延ばしとなっていた。
「伯爵家のタウンハウスで、あの女に会った。君は、領地に残ったと聞いた」
ベンチへ腰掛けたまま視線をうつむけてしまったイグナスの隣へ、リディアは戻った。
静かに座り直して、彼の腕に触れる。
「そこで噂のことを問い詰めたんだ。そしたらあの女が、君はもう、俺の知る君ではなくなったと、手に負えなくて困っているなんて言うんだ。……やけに豪勢な、宝石とドレスを身に着けた状態でね」
皮肉げに、イグナスの口元が歪んだ。
その時、社交界に広まっていた噂。
それは、アリソン伯爵家のジェレーナ・ローゼンフェルドは、悪女であるというものだった。
アリソン伯爵の死後、遺産を好き勝手に使い潰し、あらゆる贅沢品を買い漁る。領民の暮らしには見向きもせず、改善を要求する継母や義姉達の言葉にも聞く耳を持たない。
まるで箍が外れたように、わがまま放題だと――。
「あの時、俺がすぐにでも君のもとへ行っていたのなら。君はジェレーナのままでいられたのかもしれないね」
社交シーズンは王都に多くの人が集まるため、騎士にとっても慌ただしい季節なのだ。
すぐには王都を離れられなかったから、手紙を書いた。
忙しさが落ち着いたら休暇を取って、会いに行くつもりだった。
「君の悪い噂は、騎士仲間と殿下方の協力のおかげで消せたけど、俺があの時すべきだったのは、君のもとへ駆け付けることだったんだ」
後悔は次から次へと湧き出して、尽きることがない。
再会できるまでの三年間、ずっと、後悔の中で生きていた。
己の不甲斐なさに憤り、今でもイグナスは、己のことを許せないままなのだ。
「イグナス――」
イグナスがどんな人かは、よく知っている。
彼の浮かべる表情から、何を考えているかも推測できる。
彼女はずっと、彼のことばかりを考えて生きてきたのだから。
だからこそ名を呼び、手を伸ばし。
リディアは両手で思いっきり、彼の頬をむにりとつまんで引き伸ばした。
「…………いはい」
痛いと言おうとして、上手く言葉を紡げないイグナス。
抗議の色を浮かべた夜空色の瞳を見つめ返し、リディアは明るく微笑んだ。
「私のために頑張ってくれて、ありがとう。あなたはあの時、私と伯爵家の名誉を守ったのよ。それは、間違いなんかじゃないわ」
反論しようにも、両頬を思い切り引き伸ばされたままでは話せない。
少し身を引いて解放を促すが、彼女は楽しそうな笑顔のまま、今度は手のひらでイグナスの頬を押しつぶす。
そのまま顔を寄せて、無理矢理尖らされた唇へ、キスをした。
「あの時は離れていたけれど、これからは、ずっと一緒よ。手紙が届かなくたって問題にならないほど、毎日、会えるわ」
だから話をしよう。
たくさんの言葉を、想いを、意見を交わそう。
「私、あなたが思っているよりもずっと、あなたのことを愛してるの。だから、あなたがこの手に戻ったのなら、私はそれで、充分幸せよ」
自然と力が抜けて、そっと添えられるだけになった両の手。
イグナスはその手の甲に触れて、泣きそうな思いで微笑みを返す。
「俺だって、君が自覚しているよりも、もっと、ずっと……君を愛してる」
「あら、私、知っていたわ」
「……君には、敵わないな」
どちらからともなく手を繋ぎ、立ち上がった二人は、緑豊かな庭を歩く。
歩幅を合わせ、ゆっくり進みながら時折視線を合わせ、幸せがにじむように笑いあった。
「イグナスは、子供は何人ほしい? 私は、五人はほしいと思っているの」
「俺は三人ぐらいで考えていたけれど、家族が多いのは楽しそうだね」
並んで歩くリディアとイグナスが向かうのは、二人を待っていた、家族のもと――。
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