故郷と呼べる場所3

 涙の再会から一夜が明けて、リディアはベッドの中、鈍い頭痛を感じて小さく唸る。

 両目は未だ、じくりと熱く。目を開けば視界が狭いことに気付く。


 喉が酷く乾いていた。


「お嬢様。お目覚めですか?」


 扉を叩く音の直後、懐かしい声がした。

 一瞬思考が混乱し、ぐるりと室内を見回してみる。

 リディアが寝ていた場所は、ウォルシュ子爵邸に滞在する時に使用していた、彼女のための部屋。

 頭がぼんやりしているせいで、夢と現実の境が曖昧だ。


「マリッサ……」


 掠れた声で呼べば、扉を開けて入ってきていた侍女がうれしそうに微笑む。

 記憶の中の彼女と、変わらぬ笑顔。


「まずは水分補給ですね。果物もお持ちしました。目を冷やさなくては、イグナス様にお会いできませんね」

「……マリッサ」

「はい。お嬢様」


 再び両目が熱くなり、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。

 侍女は優しく笑いながら、清潔なハンカチで、そっと涙を拭ってくれた。


「しばらくお会いしないうちに、随分と泣き虫さんになられたのですね」

「……うん。本当に、最近は泣いてばかりだわ」


 差し出されたグラスを受け取り、一息で飲み干した。常温の水が、乾いた体に染み渡る。


「……マリッサは、レイチェル様の侍女なのでしょう?」


 自分の世話をしていて良いのかと問えば、侍女はおっとりと笑って応えた。


「レイチェル様は優しいお方です。昨日の時間だけでは足りないだろうと、お嬢様のおそばにいることを許してくださいました」

「ロナウドが好いた方だけあって、懐の広い女性なのね」


 侍女が用意してくれた温かいお茶と果物を腹に収め、身支度を整えてから、再び目を冷やす。

 鏡を見たが、化粧はできそうにないなと思った。


「こんな顔で部屋から出たら、皆をびっくりさせてしまうかしら?」


 この顔を見られるのは恥ずかしいが、やっと会えた懐かしい人々と、もっと話がしたいとも思う。


「お嬢様は、どんなお顔でも素敵ですよ」


 微かな笑みを漏らし、温かな気遣いへ感謝の言葉を伝えた。

 目を冷やしているせいで顔は見えないが、侍女は本気でそう思っているのだろう。嘘は、吐かない人だった。


 全てが懐かしく、胸がじわりと熱くなる。


 誰かが扉を叩く音が室内へ響き、侍女が応対に向かった。


 誰が来たのかはなんとなくわかり、リディアは窓辺の椅子に腰掛けたままで目を冷やし続ける。

 静かな足音が近付いてきて、優しい手が、結っていない金髪へと触れた。


「おはよう。愛しい人。……顔を見せてくれないの?」

「おはよう、イグナス。すごい顔なの。見せられないわ」

「君は、涙と鼻水に塗れていても綺麗だよ」

「からかわないで!」


 確かに昨日の自分の顔は酷かっただろう。

 タオルは何枚あっても足りなかったし、泣きすぎたせいで声もしわがれている。


「顔が見たいな」


 耳元で甘く囁かれても、応じることはできない。

 リディアは声とは反対側へ顔を向けて、拒絶を示した。

 そんな彼女の態度に怒るでもなく、イグナスが楽しげに笑う声が聞こえる。


「本当にかわいいなぁ、君って」


 一体どんな表情でそんなことを言ってのけたのかが気になって、そろりと濡れタオルをずらし、声の方向へ視線を向けた。


 そこにあったのは、極上の砂糖菓子よりも甘く美しい男の顔。

 気付けば全身が、ぶわりと熱い。

 慌てて濡れタオルを目に押し当てて、顔を隠した。


「今日は、何をする?」


 離れているのは寂しくて、こつりと頭を彼の体に預けてみる。


「イグナスの予定は?」


 優しい手に後頭部を包まれると、心が満たされ、笑みがこぼれた。


「俺は、君と過ごす予定」


 すっかり聞き慣れた、大人になった彼の声。鼓膜をくすぐるその声は、目を閉じて聞くと胸がドキドキすることに気が付いた。

 だけど、そのドキドキも、心地いい。


「せっかく会えたのだから、もっとみんなと話がしたいわ。だけど、目の腫れが引かないと無理かしら?」

「俺が君を運ぼうか?」

「嫌よ。きっと笑われてしまうわ」


 頭の上で、くすりと彼が笑った。


「笑うよりも、皆、泣くだろうな。君と俺が共にいる姿は、我が家の者の涙腺を刺激するらしい」

「……そうよね。たくさん、傷付けてしまったわ」


 触れていた温もりが離れ、背中と膝裏に彼の手が差し込まれる感触。


 驚いて目を開けば、浮遊感とともに、リディアの体はイグナスの腕の中にあった。

 横抱きにされた状態で見上げた先。イグナスが、いたずらが成功したという顔で笑っている。


「見慣れればいいんだ。さぁ、部屋から出よう」

「自分で歩けるわ」

「この状態なら、皆も呆れて泣かないかもしれない」

「あなたが、こうして歩きたいだけでしょう?」

「うん。そのとおり」


 そばで全てを見ていた侍女が既に涙ぐんでいたが、ウォルシュ子爵邸の人々が二人を見ても泣かなくなるのには、そう時間は掛からなかった。

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