故郷と呼べる場所2

 ウォルシュ子爵夫人の腕の中、リディアの顔は涙でぐちゃぐちゃで。イグナスの兄二人と子爵も、ぼろぼろに泣いていた。

 そんな中で冷静だったのは、子爵家長男の嫁レイチェルと、イグナスの二人。


「義姉上」


 静かな声に呼ばれ、視線を向けた先。あまり会う機会の無かった義理の弟が、穏やかな表情をレイチェルへと向けていた。


 レイチェルの中でのイグナスは、第一印象は、物静かな少年だった。


 次男であるデンハムは明るい性格で、容姿は父親によく似ている。

 長男のロナウドは生真面目で、両親の特徴をバランス良く受け継いでいた。


 ロナウドとデンハムは、末の弟は母親似だとよく言うが、レイチェルからすると、常に険しい顔ばかりのイグナスは、長男であるロナウドと似ていると思っていた。

 子爵夫人は穏やかで優しい人だから、張り詰めた空気を纏ったイグナスが母親似であるとは思えなかったのだ。


 だけれど今、目の前に立つ彼は、まるで別人だった。


「義姉上、お茶の支度を頼めますか? そろそろ皆が、干からびてしまいそうです」


 楽しげに笑ったイグナスの空気は柔らかで。優しいその表情は、確かに子爵夫人とよく似ている。


「……貴方のそのような顔は、初めて見るわ」


 告げてから、記憶に引っかかるものがあった。


 結婚式の日。緊張と歓びの中で紹介された多くの人々の中に、人形のように美しい一人の少女がいたことを思い出す。

 ロナウドから、末弟の婚約者だと紹介された、その少女。

 彼女に寄り添う少年は今と同じように、優しい空気を纏っていた。


「これは……わたくしも、泣いてしまいそうだわ」


 イグナスと婚約者の過去をロナウドから聞いたものの、それはまるで物語のようで、身近に感じることはできなかった。


 だけれど、幸せそうに笑う義弟を前にすれば、込み上げるものがある。


 三年前、虚ろとなった彼を見た。

 からからに干からびてしまった心のまま、触れれば一瞬で壊れてしまいそうなほどに張り詰めた状態で生きていた彼を、知っている。


「イグナス。……おめでとう」


 泣き笑いで告げれば、義弟は、ふわりと優しく笑った。


「ありがとうございます」


 涙がこぼれる前に指先でそっと払い、レイチェルは家族が干からびてしまう前にお茶の支度するため、部屋を出る。


 いつものように己の侍女へ声を掛けたところで、ふと気付く。


「あの子、目が腫れてしまうわね」


 追加のタオルと目を冷やす物を頼んでからレイチェルは、再会の場へと戻った。



   ※



 皆の涙も落ち着いて、説明の前に一段落入れようと、お茶の支度が整えられる。

 温かなお茶の香りが鼻腔をくすぐり、顔を埋めていたタオルから視線を上げたリディアは、子爵家の使用人の中に懐かしい顔を見つけ、目を細めた。

 イグナスが言っていた「ここには、君が会いたかっただろう人が、他にもいる」という言葉は、この事かと得心する。


 床に座り込んだままの子爵夫人へ駆け寄った年嵩の侍女は、子爵家へ遊びに来る度に世話になった人。

 他にも見知った顔が多くいて、懐かしさに、胸がじんと痺れる。


 使用人達もリディアに気が付いたようで、微かな動揺が見受けられた。

 だが、プロである彼らは声を上げず、すぐに平静を装い仕事を続けている。

 彼らは恐らく、イグナスが亡くなった婚約者とよく似た女性を連れてきたと考えて動揺したのだろう。

 自分が本物だと知れば大騒ぎになるのだろうかと考えながらぼんやりしていたリディアのもとへ、イグナスが歩み寄り、手を差し出した。


「いつまで、床へ座っているつもり?」


 笑い含みの優しい声。

 リディアは鼻をすすりながら、大きな手に自分の手を乗せる。


「腰が抜けちゃった」

「仕方のない人だな」


 ふわりと体が浮いて、逞しい腕に抱き上げられた。

 イグナスの首に手を回し、リディアは微笑む。


「軽い?」

「重い」

「子供の頃の私と比べたら?」

「体感的には、軽いかな」

「昔は、おんぶがやっとだったものね」

「そうだったな」


 軽口を叩き合う二人に自然と視線は集まり、イグナスの両親と兄達は、嬉しそうに二人を眺めていた。


「ーーお嬢様?」


 一人の女性が、愕然とした様子で声をこぼす。


 声の主を探して視線を巡らせたリディアは、レイチェルの傍らに立つ侍女へと目を留めた。


「……マリッサ?」


 声に反応したのか、イグナスが静かに、リディアを下ろす。


 自分の足で立った後も、リディアは動くことができなかった。

 無意識のうちに右手でイグナスの服を掴んだまま、侍女からイグナスへと視線を移す。


 見上げた先で、イグナスは静かに微笑んでいた。


「君の葬儀の時に、気付いたから。父上と兄上達が探し出して、行き場のなかった者はウォルシュへ迎え入れたんだ」

「それは……他にも?」

「いるよ。君が、会いたかっただろう人達」


 子爵と、ロナウドと、デンハムへと順に視線を向けて、ありがとうの言葉は掠れて音にならなかったけれど、口の動きを読んだ彼らは笑顔で頷いてくれた。


 気付けば、再び涙で頬が濡れていて。


 視線の先では、生家で世話になっていた侍女が、震える両手で口を抑え、泣いている。


「イグナス様と……お嬢様……? ジェレーナお嬢様……?」


 返事をしようと開いた口からは嗚咽が漏れて、言葉を発せないままに両手を広げ、駆け出した。

 幼い頃、同じように両手を広げ、彼女に抱きついたことを思い出す。


 会いたかった人。救えなかった人。

 ずっと、心の隅で気に掛かっていた。


「まり、っさ……ごめ、ごめんっ……ごめんなさ、い」


 何とか言葉を紡いだ。

 あの時、助けられなくて、何もできなくてごめんなさい。力のない子供だった己の、大きな悔恨。


「ああっ、お嬢様!」


 懐かしい人の両腕が、リディアの体をきつく抱き締める。


「謝るのはこちらのほうです! 何もできず、お側を離れ、私は、のうのうと生き延びて……!」


 状況を理解した人々に涙が伝播し、リディアが誰なのかに気付いた使用人達が、嗚咽を噛み殺した。


 多くの声が、イグナスとジェレーナを呼んだ。


「お嬢様、もう一度、お顔を見せてくださいませ。よく……よくぞ、生きていてくださいましたっ」


 そうして涙の再会を繰り返し、ウォルシュ子爵家の人々が全てを知る頃には日が暮れて、リディアの目はパンパンに腫れ上がってしまっていた。

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