故郷と呼べる場所1
簡素な言葉で綴られた、少年たちの何げない日常。
こちらを心配する言葉すら簡潔で、一枚だけの短い手紙。
過去に受け取るはずだったそれを毎日、大切に読み進める。
届かぬ内に古くなってしまった紙を胸に抱き、リディアは、ほうと息を吐いた。
一通読む度、彼からの愛の深さを知る。
手紙を読むのは最近の、眠る前の日課。
イグナスと再会できてから日常は目まぐるしく変わり、近頃では王太子妃からの帽子の注文という口実で、店主と共に王城へ赴くことが増えた。
登城の本当の目的は、リディアが知らぬ間に抱えていたトラウマの克服のため。王太子妃との茶会で、貴族の雰囲気に慣れる練習をしている。
子爵家の三男であり爵位を継がないイグナスの職業は騎士だから、彼と結婚しても貴族達との社交は必要ない。
練習している訳は、結婚の挨拶でウォルシュへ帰った際に、不要な心配を掛けさせたくないからだ。
それと、伯父であるコルソン侯爵からの頼まれ事も関係していた。
「結婚した後で構わない。いつか時間を作り、母に、会ってはくれないだろうか」
生まれがどうあれ、リディアは平民だ。
だが伯父と祖母は貴族で、イグナスの家族も貴族。トラウマが克服できなければ、皆に気を使わせてしまう。
ただでさえ傷付けてしまっただろう人々に、更なる傷を与えてしまう。
そうなるのは、嫌だから。
新居は決まり、家具の運び入れも完了した。
身の回りの品は明日、新居へ運ぶ。その足で、イグナスと子爵と共にウォルシュへ向かう予定だ。
「リディア。ちょっといいかしら?」
扉が叩かれ、顔を出したのは、黒髪に紫の瞳を持つ帽子屋の店主。王都に来てからずっと、リディアを支え続けてくれた人。
「もう、準備は完璧?」
「……はい」
思わず涙ぐんだリディアに素早く近付いたグウィニスが、笑いながらリディアの額を突ついた。
「泣くの早過ぎぃ」
「だって〜……」
結婚式はウォルシュで行う予定で。王都へ戻れば、帰る場所はイグナスとの新居となる。
毎日、仕事でこの場所へは通うことになるが、三年間の思い出が詰まった部屋で寝起きすることは、なくなるのだ。
「今夜はここに泊まるからさぁ」
一緒に寝る? と聞かれ、リディアは迷わず頷いた。
互いに寝支度を整えた二人は、一つのベッドへ潜り込む。
向かい合って横になり、グウィニスが、リディアの金髪を撫でた。
「結婚式用にヘッドコサージュ作ったからさ〜。持って行ってよ」
「はい。絶対、使います」
「あんたのウェディングドレス姿、見たかったなぁ」
「こっちでも、します」
「楽しみにしてるぅ」
互いの瞳を見つめ合い、二人は同時に笑顔になる。
「周りの店の奴らもさ、あんたの結婚、祝う気満々だから」
母のように、姉のように、優しく頭を撫でる手。
目を閉じて、リディアは、涙が溢れるのを堪える。
「あんたは絶対、幸せになる。私が保証する」
奥歯を噛み締めても、鼻の奥がじんと熱くなった。
目を閉じていても変わらないと気付き、目を開けたリディアの瞳に映ったのは、慈愛に満ちた微笑み。
「……グウィニスさん。大好きです」
他に言葉は浮かばなくて、気持ちをそのまま声に出す。
「私も。あんたが大好きよ」
その夜は、空が白むまで、話が尽きなかった。
※
馬車の中、断続的な振動。
頬に触れるのは、さらりとした衣服の感触。
鼻腔を満たすのは、愛する人の香り。
「イグナス」
鼓膜を震わせたのは、幼い頃によく聞いたイグナスの父親の声。
「この光景。……皆、必ず泣くだろうな」
半分夢の中のリディアには見えないが、声の主は涙ぐんでいるだろうと感じられた。
「ジェレーナが……彼女が、生きていたからこそ。俺を、諦めずにいてくれたからこその涙です。ならば、泣けば良いのです。泣いて良いのですよ、父上」
「ああ。お前の言うとおりだな」
剣だこの出来た手のひらが頭を撫で、向かい側から伸ばされた、乾いた指先が手に触れた。
「ジェレーナ。……リディア。我が家の、私の、息子の……愛しい、愛らしい人よ。おかえり。君の故郷は、もう、すぐそこだ」
膝の上で脱力した手に触れる温もりが優しくて、髪を撫でる手が心地良くて、深い眠りへ誘われる。
ーー明るい、光の中
恋い焦がれた父と母に、強く抱きしめられる、夢を見た。
目を覚ますと、そこは未だ馬車の中で。
視線を持ち上げてかち合ったのは、イグナスと同じ色の、優しい瞳。
子爵へ微笑み掛けてから更に視線を上に移動させれば、見つけたのは愛しい人の顔。
「もうすぐ、着く」
「……ごめんね。すっかり、眠っちゃった」
「良く寝ていた。昨夜は眠れなかったのか?」
「うん。グウィニスさんと、遅くまでおしゃべりしちゃって」
「そうか」
額に唇が触れて、幸せで、笑みがこぼれた。
「みんな、元気かしら?」
「俺も、しばらく会っていない」
自然と二人の視線は向かい側へ向けられて、子爵が穏やかな表情で応える。
「皆、変わらず元気にしている」
「ロナウドの子供たちに会うのも楽しみだわ。そうだ。ロナウドの奥様はどんな方? 私、結婚式でお会いしたきりなの」
ウォルシュ子爵家の長男が結婚したのは、アリソン伯爵が亡くなる二カ月前のこと。
壊れる前の家族で参加した輝かしい一日が、遠い昔のようだなと、リディアは思う。
「レイチェルは少し気が強いが柔軟で、頭の固いロナウドとも上手くやってくれている」
「仲良くなれるかしら?」
「君とレイチェルは、気が合うと思うぞ」
「おじ様が仰るのなら、そうなのでしょうね」
軽やかな笑みが空気を揺らし、澄んだアメジストが、窓の外へと向けられた。
「ああ……。ウォルシュだわ。私、帰ってきたのね」
アメジストがキラリと光り、涙の気配に気付いた男二人の手が、リディアへと伸ばされる。
右手はイグナスの左手で包まれて、左手の甲には、子爵の手が乗せられた。「おかえり」と二人から言われ、リディアは涙を堪え、笑みを浮かべる。
「ただいま」
もう、来られないと思っていた場所。
生きるため、捨てざるを得なかった思い出の数々。
本当の故郷には、もう帰れない。
だけれどウォルシュは、アリソン伯爵領と同じぐらいの、優しい思い出に満ちた場所だから。
「さて。サプライズの準備だ。手伝っておくれ」
いたずらっぽい笑みでウィンクした子爵へ頷いて、馬車の中で簡単に身支度を整えた。
乱れた髪を直し、子爵の指示で帽子を深く被る。
馬車がゆっくりと止まり、降りた先。
真っ先に感じたのは、懐かしい風の匂い。
帽子のつば越しに見えた、会いたかった人々。
「ここには、君が会いたかっただろう人が、他にもいる」
子爵と夫人の後を追い、帽子で顔を隠したまま屋敷へ入る間際に耳元で囁かれた言葉の意味はーー涙の再会の後に、明かされた。
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