手に入れたのは、思いを晴らす機会4

「イグナス、大好きよ」


 彼女が心のままに感情を言葉にすると、彼は口を引き結び、耳を赤くしながら目を逸らす。

 視線をうろうろさまよわせて、何か言いたそうに唇をもごもごさせては何も言えないまま。

 最終的には、無言で彼女を見つめ返す。


 言葉は返されない。

 だけど、夜空色の瞳はいつでも甘く優しく、彼女への愛をたたえていた。


 その瞳が見たくて。

 照れる彼が愛おしくて。

 彼女はいつでも、何回でも告げたのだ。


 あなたが大好きよと――。



   ※



 手を繋ぎ、隣を歩く青年の横顔を盗み見る。


 昔はよく、どちらの身長が高いかと背比べをしていたというのに、今では比べようもない身長差。

 少し長めの前髪に見え隠れする目元は涼やかで、切れ長のその目は、見る人によっては怖いとか目付きが悪いという印象を与えるらしい。

 彼女の前ではいつでも甘くとろけているから、そんな印象を抱いたことはない。


 ただ、怒らせるとすごく怖いことは知っている。


 幼い頃に喧嘩した時は、彼の釣り上がる目元を見て涙を堪えたものだ。

 泣いてしまえば彼が先に謝ることを知っていたから、対等でいるために、泣きたくなかった。


 そう考えるようになる前には散々泣いて暴れて彼を困らせていたことも、今では懐かしい思い出だ。


「ねえ、イグナス」


 呼べば、必ずこちらへ向けられる夜空色の瞳。


 大好きよと告げて、同じ言葉が返されないことを不満に思っていた時期もあった。

 だが、頬を膨らませて拗ねる彼女に、母が言ったのだ。


――イグナスの背が貴女よりもずぅっと大きくなる頃には、きっと違う反応が見られるわ。それにね、彼をよく見てごらんなさい? あの子は全身で、貴女のことが大好きだと言っているわ。


 初めの頃は、母の言葉は全く理解できなかったが、同年代の他の女の子と接する彼を見た時に理解した。


 彼女に接する時とは、彼の態度も声も目付きも、何もかもが違っていたから。


「どうした、リディア?」


 彼が呼ぶのは、あの頃とは違う名前。

 だけどあの頃と変わらず、夜空色の瞳が向けられたことに、あふれそうなほどの幸福で満たされる。


「……大好き」

「俺もだ」


 迷わず返されるようになった言葉は、まだ照れくさいけれど。とてもうれしいなとも思う。


「私のほうが、絶対に、大好きは大きいと思うわ」


 照れ隠しに告げてみた。そう思っているのも事実だから。

 だけど、すぐに後悔した。

 彼はもう、照れ屋で感情表現を苦手とする男の子ではなく、余裕のある大人の男性になってしまっていることに、未だ慣れることができない。


 昔以上に甘い色を浮かべた夜空色の瞳が熱くとろけて、口角を上げた彼が、不敵に笑った。


「君がそう言うのなら、比べてみるか?」


 どうやって? と問う前に、繋いでいた手が引き寄せられる。


 ぽすりと腕の中に捕らわれて、繋がっていないほうの手が、彼女の頬を撫でた。


「愛している」

「う、うん……」

「君が居る場所が、俺の居たい場所だ」

「私だって、同じだよ」

「君が望むなら、どこへでも共に行く」

「……今は、お家、見に行くんでしょう?」


 往来で立ち止まったままの彼が醸し出す空気に耐えられなくなり、早く行こうと促した。

 こんな場所で恥ずかしいと付け足せば、彼は昔と変わらない笑顔で、楽しそうに笑う。


「君が、好きの大きさについて語るから。物申しただけだ」

「……どこでもイチャイチャできちゃいますよっていうのが、イグナスが言う好きの大きさなの?」


 柔らかな腕の拘束から抜け出して、繋いだままの手を引きながら、ちらりと視線を向けた先。


 彼は変わらず、微笑んでいた。


「周囲なんて関係なく、俺には君しか見えない」


 胸が詰まったような、微かな苦しさ。

 それはつらい訳ではなく、甘く痺れるような感覚だった。

 そのせいで咄嗟に言葉が返せなくなり、ぐっと押し黙る。


 なんだか負けた気分だ。


「私もあなたを愛しているけれど、往来で愛を確かめ合うのは、嫌だわ」

「それは仕方がないだろう。二人きりになれる場所がないのだから」

「結婚して一緒に暮らすようになったら、もう少し自重してくれるの?」

「どうだろうな。今よりは落ち着けるかもしれない」


 そのほうがいいのは確かなのだが、少し残念だなという気持ちもあって。

 彼女はつま先立ちになり、彼の耳元で囁いた。


「私とイグナスだけの場所なら、落ち着かなくてもいいのよ」


 耳へと吹き込んだ本音。


 何故だか彼は片手で顔を覆い隠し、耳を赤くしながら唇を引き結ぶ。


「君は本当に……」


 首を傾げながら続く言葉を待てば、隠れることをやめた夜空色の瞳が、彼女を捉えた。


「ずるい」


 何故そんなことを言われるのかがわからず更に深く首を傾けて見せれば、彼は困ったような顔で、優しく笑う。


「早く、共に暮らしたい」

「そうね」

「その時には、覚悟してくれ」


 覚悟と言われ、破顔する。


「覚悟するのは、イグナスのほうよ」


 離れていた分。我慢していた分。たくさん甘えて、甘やかしたい。


 そんな会話を繰り広げながら向かう先は、騎士団が所有する家族向け物件だ。


「今日で決まるかしら?」

「どうだろうな。君が気に入り、俺が納得すれば、決まるんじゃないか?」

「イグナスは、納得なの? 気に入るじゃないの?」


 共に暮らす場所だ。できるなら、彼も気に入る場所を選びたい。


「俺にとっては君の安全と、君が気に入るかが重要だから」

「イグナスは昔から、過保護よね」


 少し拗ねた気持ちで呟けば、繋いだ手が持ち上げられた。

 どうしたのだろうと思ったことで、彼女の視線は自然と彼を捉える。


 無意識で向かった視線の先、彼女の手の甲に、彼が口付けた。


 ぶわりと全身が熱くなり、思考が沸騰するような感覚に襲われる。


「い、イグナス、ちょっと……! まだ二人きりじゃないわ!」


 羞恥心から抗議する彼女をまっすぐ見つめ返し、彼はにこりと微笑んだ。


「二度と、失いたくない」


 冷水を浴びせられたように、沸騰していた思考は一気に冷えた。

 泣きそうな気持ちになったけれど、彼を安心させてあげたくて、彼女も微笑む。


「もう、どこにも行かないよ。ずっと、一緒」


 新居が決まれば、次はウォルシュへの里帰り。

 結婚式をして、夫婦になって。新しい名前で、新しい人生を本格的に始める。

 これまでの三年間は、いつでも逃げられるよう心積もりをしていて落ち着けなかったから。


 これからが、本当の始まりなのだ。


 三年前に王都へ来た時には、全てを捨てて身一つ。胸の中には不安しか存在しなかった。

 だけど今は、彼女の隣には、彼がいる。

 仕事もある。

 恩人がいて、知り合いも増えた。


 あの頃一人きりで歩いた王都の道は恐ろしく冷たい場所に思えたけれど、今は明るく、心地よい。


「イグナス、大好き!」


 子供の頃と同じように心のままに感情を言葉にすれば、それを受け止めた彼は昔と違い、甘くとろりと微笑んだ。


「大好きだよ、リディア」


 あふれそうな幸福を胸に、幸せいっぱいの笑顔を交わし合い、二人は並んで歩いていく――。

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