まわり道
伯爵夫人アマンダを失ってからのアリソン伯爵邸は、光を失ってしまったようだった。
あの頃、兄二人は寄宿学校へ通っていて、イグナス自身も、二年後には通い始める予定で準備を進めていた。
それまでは、まだ許されていた子供としての時間。
イグナスはジェレーナが心配で、以前よりも頻繁にアリソン伯爵邸を訪れるようになっていた。
時には母と。
時には父と。
両親が揃ってイグナスを連れて訪問することも、よくあった。
少し前までは、イグナスが訪れると明るい笑顔で子犬のように駆け出て来ていた彼女は、この頃には淑女らしい動作でゆっくりと現れ、訪問者を迎えるようになっていた。
だけど、いざ二人きりになると――
「会いたかったわ、すごく! 本当に……息が詰まりそうなの!」
全体重を預けてイグナスの首へと縋り付き、弱音をこぼす。
「お母様を亡くされてから、お父様はすっかり変わってしまわれたわ。何とか元気付けたくて、お父様が望む完璧な淑女になろうと頑張っているのだけど……」
彼女の父が言う完璧な淑女像は、本来の彼女とは別の生き物のようだなと、この頃のイグナスは、よく考えていた。
「危ないから川に近付いては駄目。包丁を握るなんて以ての外! 走らず歩きなさい。知識を身に着け過ぎてはいけないと仰るけれど、家庭教師は増えたのよ? 一体どういうことなのよ!」
首筋にぐりぐりと顔を押し付け甘えてくる彼女が愛らしく思え、イグナスは微かに笑みを漏らす。
ともすれば泣き出してしまいそうな彼女を落ち着かせようと背中をそっと叩けば、少女の両腕から、わずかに力が抜けた。
「君は十分頑張っていると、僕は思うよ。伯爵に、君の気持ちは話してみた?」
絡みつく腕を優しく解いてソファへと誘導すれば、彼女は大人しくついて来る。
「わたくしが突き放してしまっては、お父様のお心は更に大きく損なわれてしまいそうで……恐ろしいのよ」
「僕の両親も、何とか元気付けようとしているんだけどね」
「お母様じゃないと、無理だわ」
「そうだけど……今のままは、良くないよ」
どう見ても状況は良くないように思えて。
だけど、まだ子供のイグナスには何もできなくて。
ひどく歯痒かった。
「お母様が仰っていたのだけど……誰か一人でも自分を肯定してくれる人がいれば、人は立っていられるんですって。だから、わたくしがお父様のそれになろうと思うのよ。わたくしにとっての、イグナスのようにね」
それにと告げて、彼女は己を奮い立たせるように、努めて明るく笑う。
「わたくしとイグナスが大人になれば、お父様を支えて差し上げられるわ」
「うん。そうだね。寄宿学校へ入る前に、領地運営のこととか、父上から教わっているんだ。早過ぎるということは、ないだろうからね」
「わたくしも、イグナスとお父様の力になれるように頑張るつもりよ!」
一緒に頑張ろうと、あの時、二人で誓った。
だけれど……時が傷を癒すどころか喪失感は増していき、状況は、悪化の一途を辿っていった。
「イグナス、はっきり言おう。お前は大事な友人の息子だが、我がアリソン伯爵家の一人娘を任せるには、何もかもが足りない」
言われた言葉は、そのとおりで。もっともっと、今以上に努力するとしか応えられなかったイグナスへ返されたのは……最もな要求に思えた。
「王都へ行き、騎士になれ。そして地位を築くのだ。お前、一人の力で。一人でも成し得ることを証明しなさい」
いずれ義理の父となる相手との、二人きりでの対話。
この時にイグナスは、己の進路を決めた。
それが遠回りだったのかも、正解だったのかも、はたまた失敗だったのかも。
今でも、わからない。
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