両手いっぱいの春を、君へ

 世界一、大切な女の子が泣いていた。


 小さな体を更に小さくして、泣いていた。


 彼女の父親ですら打ちのめされ、女の子は一人、泣いていた。


「ジェレーナ……」


 振り向いた彼女の顔は、涙でぐちゃぐちゃで。


「イグナスっ」


 いつもは楽しげに彼を呼ぶ声は、救いを求めていた。


「おかあさまが」


 舌がもつれた、たどたどしい言葉。

 掠れた声。


 衝動のままに駆け寄り、手を伸ばす。

 左手で小さな手を握り、右手でそっと、壊れてしまいそうなほどに震える肩へと触れた。


「お母様……」


 震える唇はひたすらに、母親を呼んでいた。


 彼はただ、体温を分け合うことしか、できなかった。



   ※



 両手いっぱいの、色とりどりの花。

 彼女には、春が似合う。

 明るい色が似合う。

 楽しそうな笑顔が好きだ。

 泣かないでほしいと、願う。


 気付けば通い慣れた道。


 花束を抱えて歩く彼は目立つようで、多くの視線を集めていた。


 たどり着いた店の扉を開ければ、そこには見知った顔。

 黒髪の女性がアメジストの瞳をまん丸にして、直後に破顔した。


「いいわね、それ。あの子は奥よ」


 礼を告げてから、店の奥へと進む。


 緊張なのか何なのか、喉がカラカラに乾いていた。


「リディア」


 彼女の新しい名を呼べば、澄んだアメジストが向けられる。


「イグナス。どうしたの、それ?」


 抱えきれないほどの花束を見て、彼女が驚きの声を上げた。


 唾を飲み込もうにも口の中に水分はなく。舌で唇を湿らそうと試みるも、何の効果も得られない。


「俺は、君の役に立てていないけれど」


 アリソン伯爵家の現状を調べたのは、王太子。


 彼女の腹違いの弟を助けられるのは、イグナスの実家と、彼女の伯父。

 あの日、執務室で。コルソン侯爵は彼女へ、アリソン伯爵家のことは任せてくれて構わないと告げていた。

 それが償いだと。亡き妹を想い睫毛を伏せた表情が、印象的だった。


「そばにいることしかできないのに、それすら、できなかった俺だけど」


 彼女が頑張ってくれなければ、再会すら叶わなかった。


「誰よりも、君を愛してる。君は、俺の全てだ。君が好きだ。大好きなんだ。どうか――君と添い遂げる栄誉を、俺に与えてほしい」


 跪き、懇願する。

 永遠の約束を与えてほしいと。


「イグナス」


 彼女が呼ぶ、自分の名が好きだった。幼い頃から、ずっと。


「あなたという支えがなければきっと、私はとうに、折れていたわ」


 ほっそりした指先が、花束の中から一輪を選び取り、イグナスの胸元へと刺した。

 それは、雪色の花びらに、中心がイグナスの瞳と同じ色の花。


 思い出の、あの花。


「答えはずっと決まってる。変わらないわ。私はずっと、あなたのものになりたかった」


 頬に触れた、彼女の手のひら。


 唇へ与えられた、柔らかな熱。


「やっと手に入れたわ。もう、逃がさないんだから」

「それは、俺の台詞だ」


 深く熱い口付けを交わす二人を包んだのは、柔らかな、春の花の香り――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る