第5話 聖地エスティム(5)

 馬が通れるとは思えない急峻な坂を物ともせずに駆け下り、アイン・ハレドの村を襲っていたヴェルファリア軍を奇襲した騎兵集団。その指揮官の青年が馬上で振り向き、純血のアラジニア人らしからぬ色白の顔と紫色の瞳を自分の方へ向けると、それまでずっと怯えていた少女は驚き、やがて目を輝かせて歓喜の声を上げた。


「マムルークのラシード様!」


「何っ……ラシードだと?」


 マムルークのラシード。少女が口にしたその名を聞いて、彼と対峙していたゲルトが戦慄する。


「おぬし、もしや獅子将軍ラシードとか申す者か」


 右の首筋に見える小さな火傷の痕跡が、稀代の勇将と畏怖されるその男の代名詞なのはヴェルファリア人のゲルトですら知っている。押し出すような声で問い質された青年はゲルトの方に向き直り、小さく口元を歪めると、ゆっくりとうなずいて彼の言葉を肯定した。


「ご存じのようで光栄だ。マムルークの将軍ラシード・アブドゥル・バキ、都におわす国王陛下の命により、我が国の王土を荒らすお前たちアレクジェリア人の賊徒どもを退治するため推参した」


 アラジニア王国には、マムルークと呼ばれる特殊な戦士集団が存在する。「買われた者」という意味の古いアラジニア語を語源とする名で、健康で素質のある奴隷の子供たちを各地から集めて幼い頃から厳しい武芸の訓練を積ませ、屈強な戦士に鍛え上げて王侯貴族などの私兵としたものである。アラジニアの正規の王国軍とは別個の、近年になって創設されたばかりの独立部隊で、奴隷上がりという卑しい出自ながら、その勇猛さと精強ぶりは正規軍以上とさえ評されている。


 そんなマムルークの中でも近頃特に名を上げている若い武将の一人が、十八歳になるこのラシード・アブドゥル・バキであった。アレクジェリア大陸系の人種を思わせる白い肌を持ち、栗色の髪をまるでライオンのたてがみのように長く無造作に伸ばした彼は、その風貌と勇敢さから獅子将軍アミール・アサード、もしくは大いなる獅子アサードゥッディーンという異名で呼ばれている。


 これまでは北の国境地帯の守りについており、聖地を巡る一連の戦いには参戦していなかったそのラシードが、突如としてこのアイン・ハレドに姿を現わしたのだ。予期せず降って湧いた災難に己の不運を呪うゲルトだったが、異教徒を相手に臆するなどという醜態は彼の強い信仰心が決して許さなかった。


「黙れ。愚かな異教徒め。唯一絶対の神ロギエルを冒涜したのみならず、その神のご意思による聖戦までも賊の蛮行と同列視するとは天をも畏れぬ物言い。罰当たりにも程があるわ」


 自分が篤く信じているものを容赦なく侮辱されて激昂したゲルトは、掲げた長剣の刃を眩しく煌めかせてラシードに向けた。


「貴様のような悪人、生かしてはおけぬ。すぐに地獄へ送ってやる。覚悟せよ!」


「やれるものならやってみろ。狂信者」


 跨っていた馬の脇腹を力強く蹴り、ゲルトが突進を開始する。ラシードも曲刀を構えて自分の馬を猛然と駆け出させ、両者は交錯した。


「地獄に落ちるのは、お前だ」


 勝負はまさに一瞬で決した。勢いよく振り下ろされたラシードの曲刀がゲルトの剣を弾き飛ばし、彼の左肩から右腰までを着ていた鎧ごと斜めに深く斬り下げたのである。


「ぐわぁっ!」


 飛び散る鮮血。短い呻き声と共に、ゲルトはどさりと落馬して地面の草むらに身を沈めた。


「男爵様が討たれたぞ!」


 指揮官を倒されたヴェルファリア兵たちはたちまち戦意を失い、慌てふためきながら我先にと逃げてゆく。聖地エスティムを巡る戦闘の局地戦となるアイン・ハレドの戦いは、こうしてラシード率いるマムルーク部隊の大勝利に終わったのである。


「もう大丈夫だ。怪我はないか」


 追撃は無用と判断したラシードは逃げる敵兵をそのまま見送ると馬を下り、自分の後ろで身を固めたままずっと立ち尽くしていた少女に声をかけた。先ほどまでの刃のような鋭利さとは対極の、親しみと安心感を与える落ち着いた温かみのある声である。


「はい。お助け下さり、ありがとうございました。アサードゥッディーン将軍様」


 ラシードのことを尊称で呼びながら少女が礼儀正しく一礼して感謝の言葉を述べると、ラシードは鷹揚に笑って後ろを振り向く。


「ハミーダ」


 ラシードが呼ぶと、離れた場所にいた一騎の兵が身軽な動作で乗っていた馬から飛び降り、こちらに駆けてきて跪いた。


「お呼びですか。ラシード隊長」


 ハミーダ・サリーマ。耳に心地良い高く柔らかな声でラシードに答えたこのマムルークは、黒い髪を少年のように短く切った若い女戦士である。ラシードが信頼を置いている側近の一人で、人柄は穏和で温厚、しかしその武芸の腕前は同じマムルークの男たちにも決して引けを取らない。東方の山岳民族の顔立ちが窺える素朴な明るさと優しさが調和した彼女の表情には、怯えきっていた少女の緊張を解く母性が感じられた。


「この子を安全な場所まで送り届けろ。生き残った他の村人たちも集めて一緒にな」


「はい。心得ました」


 少女を送還するよう命じられたハミーダは膝を屈めて目線の高さを合わせ、明るく微笑んで安心させてから、彼女を抱き上げて優しく自分の馬の鞍に乗せる。


「さあ、行きましょう。大丈夫。もう怖くないわよ。敵はみんな、私たちがやっつけてあげたからね。お父さんとお母さん、無事だといいわね」


 腕組みをしながらその様子を微笑ましげに見守っていたラシードは、不意に背後で何かが動いた気配を感じて咄嗟に振り向いた。


「まさか、な」


 ヴェルファリア軍に虐殺された村人たちの亡骸の一つが、伸ばした右手を一瞬わずかに動かしたような気がする。血まみれの状態でうつ伏せに倒れているその若い農夫にラシードは近づき、屈んで顔を近づけながらよく観察してみたが、剣で斬られた背中の傷は深く、もはや命がある状態とは思えなかった。例え虫の息で何とか生きていたとしても、手当てをして助かるような傷ではなく、哀れだがこのまま静かに死を待つしかないだろう。


「ラシード隊長! 一大事です!」


 安らかに眠れ。そう心の中で祈りつつ深く嘆息して立ち上がったラシードの元へ、別の配下の若者が馬を駆けさせてきて大声で叫んだ。ハミーダと共にラシードを支えているもう一人の副将で、彼の軍師でもあるカリーム・イマードである。


「どうした。カリーム」


「敵の新手です。北東の方角より九千騎ほど。リオルディア勢と見えます」


 まるで東洋の僧侶のように頭髪を丸刈りにし、その上に白いターバンと兜を被っているカリームは、知性と人の良さがにじんだ浅黒い顔に焦りの色を浮かべつつ、ラシードに新たな敵の襲来を報告した。


「来たか。相手になってやる」


 怖気づく素振りもなく、ラシードはそう言って自分の馬に跨った。奇襲が功を奏して一方的な圧勝となったこの村での戦闘では、彼が率いる六千騎の手勢はほとんど無傷である。およそ九千のリオルディア軍とも、十分にやり合える。


「急いで軍勢をまとめ、陣形を組ませろ。この村で迎え撃つ」


「承知しました」


「それで、敵の指揮官は誰だ」


 ふと気になって、ラシードが敵の部隊を率いている将について訊ねると、カリームは彼に特別な警戒を促す口調で答えた。


「メリッサ・ディ・リーヴィオ伯爵。リオルディア軍を取りまとめている大将で、まだ若い女貴族ながら、その武勇は男でも国内に比肩する者なしと謳われている名将です」


「リオルディア国内では比肩する者がいなくても、このアラジニアではどうかな」


 相手が武勇に優れた強者となれば、自ずと血が騒ぐのは戦士たる者の本能である。だがそれとは別に、ラシードはこのメリッサという名に不思議な聞き心地を覚えていた。胸のどこか奥深くに眠っている何かが、静かにさざ波を立てるような奇妙な感覚である。


「何にせよ、勝つか負けるかだけだ」


 その感覚の正体が何なのか、ラシードには分からなかったし、敢えて分かろうともしなかった。例えメリッサという女が何者であろうと、今の彼にとってはただ倒すべき敵将の一人でしかない。それ以上の答は、必要ないはずであった。


「行くぞ」


 黒い愛馬の手綱を引いて走らせ、ラシードは兵たちの元へ向かった。馬がいななきと共に地面を蹴って駆け出したその時、鎖帷子に固められたラシードの胸元で、彼がかけている縄紐の首飾りについた金色の琥珀のような宝石が太陽の光を反射し、妖しい輝きを放った。

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