第4話 聖地エスティム(4)

 騎兵と歩兵、合わせて一万三千のリオルディア軍のうち四千のみを本陣に残し、九千の手勢を引き連れて丘を下りたメリッサは、この聖戦の軍監でもあるゴルディアヌス・ネルウァ枢機卿の命令に従い、エスティムの城壁の内側に立て籠もるアラジニア軍を野戦に誘き出すため、付近にあるアイン・ジャミーラという村に攻め込もうとしていた。


 ちなみに、「アイン」とはアラジニア語で「泉」という意味で、砂漠に近く乾燥した平野が広がるこの地方では各地に点在するオアシスの周囲を選んで人が住むため、このアイン・ジャミーラやアイン・ハレド以外にも、泉のほとりにあってアインと名がつく村や町はいくつか見られる。


「いくら異教徒とはいえ、武器も持たない無力な農民たちを手にかけるのは騎士道にもとるわね。神様のご意思ではあるかも知れないけど、この私の流儀じゃない」


「では、いかがなさるのですか?」


 弱者を踏みにじることを非とする騎士道精神はもっともだが、至高の神の叡慮とちっぽけな人間の信念や信条とでは、当然ながら前者の方が正しく尊いものとして絶対的に優先されなければならない。不安げに主君の顔を覗き込んでその意向を訊ねてくるアマーリアに、メリッサは悪戯っ子のような笑みを見せながら言った。


「兵たちの疲れを鑑みて、移動速度を少し落とすことにするわ。全軍、隊列を保ってゆっくりと行軍せよ!」


 アイン・ジャミーラに近づいたメリッサは兵たちの足取りを極端に遅らせ、敢えて住民に避難する時間を与えつつ悠然と部隊を前進させた。その上、自分たちの接近をわざと知らせるようにこんな下知まで出したのだ。


「異教徒の討伐に臨む前に、士気を高めて神の祝福を願い求めましょう。皆で賛美歌を歌うわよ」


 こんなことをしていいのかと戸惑いながらも、神の栄光と力強さを讃える賛美歌をリオルディア兵たちは命令通りに大声で合唱しながら進んでゆく。歌声を耳にして神聖ロギエル軍の襲来に気づいた村人たちは慌てふためいて我先にと逃げるが、兵士たちは隊列を一糸たりとも乱すなというメリッサの厳命を守って牛歩の如くのろのろと行進を続け、誰一人として逃げる村人を追って走り出したりはしない。


「天罰が下りませんか? これは意図的な怠慢と非難されても仕方がありません。軍法会議にも宗教裁判にもかけられかねない行為ですよ」


「このうだるような暑さの中、朝からずっとエスティムの南の城門を休みなく攻め続けていたのよ。できればもっと急ぎたいところだけど、もう疲労困憊でこれ以上は速く走れないわ」


 神や教会の怒りを本気で恐れているアマーリアに、メリッサはわざとらしくおどけてその反応を楽しむ。しかしあまりやり過ぎるのも可哀想なので、メリッサはこの律儀で実直な副官のために真面目な説明もつけ加えた。


「敵を野戦に誘い出すために領地を荒らすというゴルディアヌス枢機卿の考えは理解できるけど、それなら要は城内にいる敵を挑発できればいいだけで、民の屍の数にこだわる戦術上の意味はないはずだわ。ゆっくり乗り込んでいって、村人たちが逃げた後で一軒か二軒、大きめの燃えやすい建物を選んで火をつけましょう。炎がエスティムの中から見えれば、アラジニア軍は村が全滅させられたと誤認して怒って飛び出してくるかも知れない。そうなれば作戦は十分に成功でしょう?」


「はあ……それはそうですが、しかし……」


 メリッサの考えは軍事的な観点のみで見れば正論だが、異教徒を征伐するというこの聖戦の宗教的な意義も考えればやはり問題があるような気がする。アマーリアが更に何かを言おうとしたその時、偵察に出していた兵の一人が慌てた様子でこちらに馬を駆けさせてきて彼女らに報告した。


「申し上げます! アイン・ハレドで異教徒を討伐していたヴェルファリア軍が敵の奇襲を受けております。あまりに突然のことにて、軍勢は壊乱し多数の戦死者が出ている模様!」


「何ですって!?」


 アイン・ハレドの後背にそびえる険しい岩山の上から、アラジニア軍の騎兵集団が突如として攻めかかってきたというのである。予想もできなかった敵の出現に、不意を突かれたゲルトらのヴェルファリア軍は次々と将兵を討たれて窮地に陥っている。


「逃げた村人たちを追うのをやめる、いい口実ができたわね」


 不謹慎とは思いながらも、メリッサはそう言って馬上でにやりと笑うのを止められなかった。友軍の危機ともなれば、無抵抗の民をわざわざ追跡して殺す作業などにかまけている場合ではない。


「直ちにヴェルファリア軍の救援に向かうわよ。続け!」


 のらりくらりと時間を稼ぐように進んでいたリオルディア軍は向きを転じ、それまでの呑気で緩慢な歩みから一変、唸りを上げて猛然と全速での前進を開始した。

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