第3話 聖地エスティム(3)

 遥か昔、人間は万知万能の神ロギエルを崇め、神から与えられた美しい楽園で、何の苦しみや悲しみも味わうことなく幸福に暮らしていたという。


 ところがある時、レオニダスという名の使徒が神に背き、決して食べてはならないと神から命じられていた禁断の果実を盗んで食べてしまった。神は大いに怒り、反逆したレオニダスと彼に従う人々を楽園から追放して、それまで天から豊かに降り注いでいた神の恵みがもはや地上に届かないようにした。こうして始まったのが、悪と苦難とに満ちた現在の悲惨な世界である。しかし神はやがて来る終末の日には再び地上に降臨し、信心のない罪深い悪人たちを全て滅ぼして、敬虔な信徒だけが住まうことを許される新たな楽園を築いて人類に与え給うであろう――


 アルステアと呼ばれる世界の北西部に位置するアレクジェリア大陸。その全土であまねく信仰されているロギエル教の基本的な教義を概略すれば、おおよそ以上のような内容となる。


 そのロギエル教の教えが書かれた聖典に、聖地として記されている特別な場所がある。東のラハブジェリア大陸の西部に古代から栄えてきた、エスティムという歴史ゆかしき都市である。

 ロギエル教の聖者や預言者や使徒たちが数多くの足跡を残してきたその聖地エスティムは、現在では別の一神教であるジュシエル教を奉じるアラジニア王国の領土となっている。憎き異教徒の手から聖地を取り戻すべく、ヴェルファリア帝国、ジョレンティア王国、リオルディア王国、フィリーゼ王国、ザフカール王国、そしてテオノア帝国のアレクジェリア大陸六ヶ国は教皇ウェスパシアヌス十八世の呼びかけの下に連合軍を結成し、大挙アラジニアへと攻め込んだ。旗印として掲げられた神の御名を取って、この聖戦のための軍勢は神聖ロギエル軍と呼ばれている。


 アレクシオス帝暦一二一四年・六月十六日。

 ラハブジェリア大陸への上陸を果たした神聖ロギエル軍は、必死の抗戦を続けるアラジニア軍から聖地エスティムを奪回すべく、この日も激しい攻撃を展開していた。




「神に逆らう異教徒どもを、一人残らず血祭りに上げよ」


 神聖ロギエル軍の一翼を成すヴェルファリア帝国軍の騎士と従士たちに、部隊を率いるゲルト・シュティーリケ男爵は占領した村の殲滅を命じた。


「例え女子供であろうと情けはかけるな。異教徒どもがその生涯を通じて犯してきたあまりに重すぎる罪は、死をもって償わせる他ないのだからな」


 神聖ロギエル軍とアラジニア軍の激闘が続く、エスティムの近郊。聖地を巡る攻防の主戦場からはやや離れた、険しい岩山の麓に佇むアイン・ハレドという小さな村に乗り込んだゲルトの部隊は、民家に火を放ち、小麦畑や野菜畑を踏み荒らし、逃げ惑う村人たちに襲いかかって次々と斬り殺す。偉大なる神の名の下に、殺戮は容赦なく遂行された。


「た、助けてくれ! どうか命だけは!」


「今更、悔やんで命乞いをしても遅いわ。神の裁きを受け、地獄に落ちて永遠の炎で焼かれるがいい」


 悲痛な叫び声が、農民たちの屠殺場と化した村に響く。馬小屋の陰にうずくまって小さな身を隠しながら、少女は赤ん坊の頃から自分が世話になってきた近所の若い農夫が発した痛ましい絶叫に耳を塞いだ。


「神様、どうか助けて……」


 恐怖に震えながら必死に祈る少女の願いに、彼女たちが信じる神ジュシエルは残念ながら応えてはくれなかった。血に塗れた長剣を提げて獲物を探し回っていたヴェルファリア兵の一人に、敢えなく見つかってしまった少女は乱暴に首を掴まれて騎士たちの前へ引きずり出される。


「この娘、いかが致しましょうや。男爵様」


 騎士の一人はゲルトにそう訊ねたが、これは指示を仰ぐというよりは単なる確認作業である。例え年齢がいくつであろうと、聖典で死すべき悪だと繰り返し明記されている異教徒をどう処遇すべきかなど答は初めから決まっている。


「いかが致すも何も、邪悪な異教徒は全て抹殺せよというのが神ロギエルの教えであり、教皇猊下の名代たるゴルディアヌス枢機卿のご意向だ。幼い子供であろうと、死の天罰を下す以外に道はあるまい」


 当然のようにそう言い放ってから、やれ、とゲルトは馬上で首を小さく動かし、配下の一人に顎で指示した。命令を受けた騎士が長剣を振り上げ、他の従士たちに左右の腕を押さえられて身動きできない少女の首を刎ねようとする。


「首と胴とを切り離して一瞬で即死させてやるのが、幼子に対するせめてもの慈悲というものだ。火炙り、釜で、のこぎり引き。異教徒を罰するのに、もっと苦しい処刑の方法はいくらでもあるがな。父なる神の愛に倣わんとするロギエル教徒の一人として、子供を相手にそこまで残酷な真似はわしもできぬさ」


 敬虔な信徒としての自分に酔ったように、ゲルトはそう言ってわらった。だが彼の配下の騎士が少女の首に剣を振り下ろそうとしたまさにその時、まるで少女の祈りに彼女たちの神が応えたかの如く、村を見下ろす高い岩山の上から耳をつんざくような喚声が響いてきたのである。


「敵だ! 敵が山の上から攻めて来たぞ!」


 狼狽して叫ぶ兵士たちの声を、大地を揺るがす軍馬の疾走音がかき消す。頭に白いターバンを巻き、手には槍や曲刀を提げたアラジニア軍の騎兵たちが崖の上から次々と駆け下り、ヴェルファリア軍が虐殺を行なっていた村の中へと勢いよく雪崩れ込んできた。


「おのれ、奇襲か!」


 主戦場であるエスティムの方角からアラジニア軍が攻めて来ないかについては十分に警戒していたゲルトも、まさかこの峻嶮な岩山を敵が真っ逆様に攻め下ってくるなどとは全く予想していなかった。不意打ちを受けて大混乱に陥ったヴェルファリア軍の騎士や従士たちを、アラジニア軍の軽騎兵たちは容赦なく馬蹄で蹴散らし、長槍で突き殺し、あるいは曲刀で斬り捨ててゆく。


「異教徒どもめ。ふざけた真似を!」


 アイン・ハレドの村人たちに代わって、今度はヴェルファリア軍の将兵らが一方的に殺戮される番であった。まさに一瞬で悪夢のような惨状と化した周囲を見渡して馬上で歯ぎしりしたゲルトは、敵の指揮官らしき一騎の騎兵が猛然とこちらに馬を駆けさせてくるのを目にして慄きながら身構える。


「抵抗もできない幼子をなぶり殺しにするのが神のご意思か。そんな下種げすの蛮行を天から眺めて悦に入っている辺り、お前たちが万能の主と崇めるロギエルとやらもどうやら大した奴ではないらしいな」


 土煙を巻き上げ、少女とゲルトとの間に割り込むようにして馬を急停止させたその若い戦士は、黒い鉄兜の下に巻いたターバンから覗く精悍な顔に不敵な微笑を浮かべ、紫色の澄んだ瞳に鋭い眼光を湛えつつそう言った。

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