第2話 聖地エスティム(2)
「――っ」
砂漠から吹いてきた荒っぽい風が、乾いた暑熱を丘陵の頂まで運んでいる。砂塵を乗せた不快な熱風に頬を叩かれて、メリッサ・ディ・リーヴィオ伯爵は馬上で我に返った。
「夢、か……」
左の首筋に今も小さく残っている火傷の痕が、熱い砂風を浴びて疼くような心地がする。そんなはずはないのに、と苦笑したメリッサは、跨っていた白い愛馬の
「レオ様……か……」
夢に出てきたあの日から、既に十年。成長して爵位を授かり、病で急逝した父の跡を継いでディ・リーヴィオ伯爵家の当主となった十八歳の今でも、子供の頃の情景が時折こうして幻のように現れる。それは懐かしく、嬉しく、そして恐ろしいまでに陰鬱な過去の記憶。今思えば、あれがその後に相次いだ凄惨な悲劇の始まりでもあった。
「いずれにせよ、昔の思い出なんかに浸っている時じゃないわ」
自らを奮い立たせるように、メリッサはそう言って気を引き締めると馬上で背筋をぴんと伸ばした。彼女の碧い瞳が熱い闘志を帯びて輝き、赤いリボンで結ばれた栗色の長髪が吹き荒ぶ烈風になびく。
「戦は
ここは母国リオルディアから遠く離れた、海の向こうの戦場。彼女が馬上から見下ろしている丘の麓の平原では、高い石の城壁に囲まれた巨大な都市に配下のリオルディア兵たちが攻め寄せ、防戦するアラジニア王国の軍勢と熾烈な戦いを繰り広げている。前線に立ち込めている胸焼けのするような血臭が、風に乗ってメリッサの鼻孔まで届いてくるかのようであった。
「メリッサ様」
青い鎖帷子の鎧を着込んだ配下の女騎士が、主君の名を呼びながら馬を寄せてくる。メリッサより一歳年上の副官で、親友でもあるアマーリア・インモービレ子爵である。
「大丈夫ですか? また悪夢にうなされているように見えましたが」
「もう慣れたものよ。昔はひどかったけど、この大事な戦の最中に重症になるほど過去をしつこく引きずってはいないわ」
「はっ……左様ですか」
やや無理をしている様子ながらもメリッサが笑顔を作って気丈に答えたので、ひとまず安堵したアマーリアは主君である彼女に戦況を報告する。
「遺憾ながら、攻撃はまたしても難航しております。城門から打って出てきた敵兵は何とか都市の中まで押し戻しましたが、固い防備が施されたあの城壁を突破するのはやはり容易ではなく……」
「攻城塔がやられたわね」
不意に、丘の下へ視線を逸らしてメリッサが言ったのでアマーリアは振り向いた。油をかけられ、松明でも投げ込まれたのだろう。城壁に取りつけていた攻城塔が、登っていた兵士たちもろとも真っ赤な炎に包まれている。歴史上、幾度となく激しい争奪戦の舞台となってきただけに、聖地と呼ばれる宗教都市エスティムの防備は呆れるほどに堅固で、メリッサたちの大軍が繰り出す連日の猛攻にも関わらず陥落の兆しは一向に見えなかった。
「これまでだわ。これ以上、無理押しを続けても損害が増えるだけね」
かつてない規模の兵力を投入しての大攻勢だったが、やはりなかなか思惑通りには事が運んでくれない。作戦失敗を悟ったメリッサは、素早く思考を切り替えて撤退の決断を下した。
「攻撃を中止しましょう。南の城門を攻めている全部隊を直ちにこの丘まで引き上げさせて。我が軍の援護についているジョレンティアやフィリーゼの友軍にも急ぎ連絡を。それから、総大将のマティアス皇子にも、一旦全ての部隊を退却させて仕切り直しをするよう具申する使者を送りましょう。ゴルディアヌス枢機卿はまた口うるさく言ってくるでしょうけど、貴重な兵の命には代えられないわ」
戦というものを熟知していて分別もある各国の諸将はともかく、事あるごとに教皇の権威を振りかざしてくる高圧的な従軍司祭のゴルディアヌス・ネルウァ枢機卿に敗北を認めて撤退するよう進言するとなると頭が痛い。アマーリアが厳しい表情を浮かべてメリッサの指示に聞き入っていたところに、味方の本陣の方から伝令の兵が駆け込んできて二人の前に跪いた。
「ゴルディアヌス枢機卿より全軍への通達です。旗色が悪いゆえ、攻撃を中止して全ての兵を城壁の周囲から退却させるべし、と」
教皇の
「今、それを意見しようと思っていたところだわ。我らリオルディア軍としても異存無し、直ちに兵を引くと伝えて」
「はっ、それから……」
我が意を得たりとばかりに明るい声で答えるメリッサに、その兵士はやや言いにくそうな様子で表情を曇らせつつ報告を続けた。
「同じくゴルディアヌス枢機卿より、新たな作戦の指令です。エスティムに立て籠もっている敵軍を野戦に誘き出すため、挑発を兼ねて付近の村へ攻め込み異教徒狩りを行なうべし、とのこと。ヴェルファリア軍はまず手始めにアイン・ハレドの農村を焼き払うゆえ、リオルディア軍もどこか手近な村を選び、邪教を信ずる悪しき住民どもに剣による誅罰を下されたし、との仰せにございます」
「異教徒狩り、か……」
メリッサの顔から急に喜色が消え、彼女は憂鬱そうによく晴れた異国の空を見上げた。果敢に手向かってくる敵兵はともかく、無抵抗の民衆にまで刃を向けるというのはどうにも気の進まないことである。
「神様、これがあなたのご意思なのですか……?」
いかに聖戦の勝利のためとはいえ、こんな残忍な作戦が本当に神の
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