第15話 海と陸

 MMLは極めて海に近い場所に建設されており、必然的に職員たちは退勤時に海を見ることになる。海が大好きな網野にとっては立地の観点から見てもMML研究員というものは天職なのだ。


 エントランスを抜けて右を見ると夏には水着を着た人で溢れる砂浜と海が広がっている。今夜は明るい月によってそれらが淡く照らし出されており、とても美しい光景だった。


 薄い水色の砂浜に一つだけ動く影があった。


 大学生が花火でもしに来ているのかもしれない、と網野は考えたがすぐにあり得ないと思い直した。一人で都会の海に花火をしに来るような心の強い人間はそうそういないはずだ。それによく見ると幼なそうにも見える。上下とも白い服で歩くその姿はどことなく不気味ではあるが、小さな子を一人で夜の海に放っておくわけにはいかない。


「釣井、ちょっとこれ持って待ってて」

「え、いいですけど、どうしました?」


 網野は自分のリュックサックを押し付け、砂浜へ続くスロープに向かって駆ける。


「ちょっと! 網野先輩!」


 後ろから自分の名を呼ぶ釣井の声が聞こえるが、網野は気にせずに走り続けた。


 荷物も持たず、ひたすら海を眺めている。考えたくないが自殺の可能性だってあるのだ。


 砂浜に着き、一度息を整えると、もう一度白い服の人物を見る。その服はまるで部屋着のようで、袖や裾は糸がほつれていた。それに子供だと思っていた背中は大きく、それは網野の予想が間違っていたことを意味する。しかし、大人だと確証できないような華奢な後ろ姿。男か女かもわからなかった。髪の毛も首が隠れるほどの長さで、青白く月の光を反射している。とにかくこの世の者とは思えない異様なオーラを放っていた。


 空気の違いに網野は一瞬怯んだが、ここまで来て引き返すわけにはいかなかった。


「ねえ、君」


 そう呼びかけると、白い服の人は上半身だけを動かして網野に顔を見せた。血の気のない、青白い顔。長く伸びた前髪が風に揺れると、ようやく光のない目が見える。


 網野がその姿に呆気に取られて固まっていると、


「どうしたんだい」


 と、彼は続きを促すように口を開いた。


 中性的で高い声ではあったが、男性であることに間違いはないだろう。


「ど、どうして夜の海に一人でいるの? 危ないよ」


 ここに来た目的を思い出し、網野は優しく注意をする。しかし、彼はキョトンとした顔で答えた。


「危なくないよ。僕はよくここに来ているし」

「どうして、よくここに来るの?」

「ただ海が見たいだけ」

「海を」

「そう」


 彼は再び、海の方へ向き直る。


 網野は彼と会話できているのかわからなかった。目の前にあるはずなのに掴めない感覚。彼は自分にしか見えていない幻覚ではないのか、と思うほど彼の存在感は空気そのものだった。 


 あまり関わらない方が良いかもしれない。直感的にそう思った。


「とにかく、長居はやめなよ。海だけじゃなく、変な奴も来るかもしれないから」


 二度目の注意をして網野は立ち去ろうと背を向けた時だった。


「君、海は好きかい」


 彼が網野の問いに答えるのではなく自ら話を投げかけた。


 立ち止まらなくても良かったはずなのに、網野は止まってしまった。


 この砂浜には網野と彼しかいないので、『君』が網野を指すのは明白だ。しかし、立ち止まらなければ網野以外の可能性も残っていた。


 もう遅かった。第六感が危険だと判断しているにも関わらず、網野は彼の問いに答えた。


「大好きだよ」


 網野の答えに対する彼の表情は笑っているように見えた。まるで、友達を見つけた子供のように。


「僕も海が大好きなんだ。海は自由だから」


 どこか恍惚とした表情に、網野は釘付けになる。釣井の元に戻ろうにも足が動かなかった。


 彼は海の方を見たまま話し続ける。


「海は地球表面の七割を占めてる。陸の倍以上だよ。僕たちが立っているこの地よりも、うんと広いんだ。だから僕は海に憧れてる。この監獄みたいな大地を抜け出して、自由な海に飛び出したい」


 海は自由だ。そのようなことを網野は考えたことがなかった。しかし、その考えが妙に腑に落ちたのだ。海が好きで、海に理由のわからない憧れを抱いていたのは網野も同じだった。もしかしたら、その理由は彼と同様かもしれないと思った。


 本能による警戒心も今はもう解けている。自分でも驚きだった。彼が持つ不思議な力によるものだということだけわかっていた。


「君は一体、何者なの」


 疑問が思わず口に出る。


 彼は真顔に戻り、しばし考える素振りを見せた。


「みんなは僕のことをレイって呼んでる。奇跡の子・レイって」


 少し気になる言い草だったが、今はレイについて知りたいという気持ちでいっぱいだった。それが研究者・網野としての探究心なのか、子供時代から続く素の網野の好奇心なのかは網野本人もわからなかった。ただ、自分の人生においてレイが重要な人物になるような気がしてならなかった。


「だから君もレイって呼びなよ。君は……」

「網野光来」

「光来か。よろしくね。君とは、きっとこれからも会うことになりそうだ。僕と同じ匂いを感じるからね」

「同じ匂い?」


 この問いには答えてくれず、レイは網野に質問を投げかけた。


「光来、君はあの丘の上の人魚研究所の人だよね?」

「そうだよ。MMLの研究員だ」

「ということは、人魚は好き?」

「もちろん。海と同じくらい」

「良かった。やっぱり僕たちは親友になれるよ」


 海について話していた時とはまた違う笑顔を浮かべたレイは網野に手を差し出してくる。網野は無言でその手を握る。


「じゃあ僕はそろそろ帰るよ。あ、そうだ。これ、友情の印だ」


 レイはポケットから一冊の文庫本を取り出した。タイトルには『人魚姫』とある。作者もアンデルセンとあることから、作品集だとわかる。


「貸す。『人魚姫』だけでいいから、次会う時までに読んでいてよ。光来とこの作品について語ってみたいんだ」


 人魚愛好家、人魚研究者でありながらも網野はこの作品をしっかりと読んだことがなかった。いい機会だと思い、文庫本を受け取る。


「わかった。ありがとう」

「うん、それじゃあね」


 と、レイは網野の後ろの方へ歩いていく。つまり、網野が降りてきた階段とは反対の方向だ。


 網野は少しの間だけレイを見送ると、釣井を待たせていることを思い出し、すぐに戻ろうと階段の方を向いた。


 不思議な気配がして、一度、レイが帰って行った方を振り返った。


 もうそこに彼の姿はなかった。すると、また不気味な感覚が体に蘇ってくる。


 網野は身震いをして階段を駆け上がる。網野の姿を見つけた釣井がいつものように頬を膨らませた。


「もー! 先輩、遅いです!」

「ごめんごめん! 万が一のことがあったから」

「万が一って?」

「入水自殺をしそうな子がいたから」

「え、大丈夫だったんですか」


 網野は預けていた荷物を釣井から受け取りながら答える。


「ああ。大丈夫だったよ。不思議な子だったけど」


 手に持っている例の文庫本を見る。表紙は破れかけており、水に濡れたのか紙がヨレている。ポケットに入れていれば当たり前かと思った。それと同時に読み込んでいるからだろうか、という考えも頭を過った。


 レイはこの作品について語りたいと言っていた。


 彼にとってこのアンデルセンの『人魚姫』が何かしら意味を持つことは間違いないのだろう。

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