第4章

第16話 噂の少年

 レイと出会って数日後。とある日の昼下がり。


 『人魚姫』を読むついでに、ティナにも聞かせてあげようと網野は考えた。椅子を水槽の近くまで持って行って、腰をかける。


 本を開き、読み聞かせを始めた。ティナはガラスに張り付いて、真剣に網野の声を聞いている様子だった。釣井も初めはコーヒーを飲みながら耳を傾けていたが、食後と童話の睡魔に負けたようで、読み終える頃には机に額を当てながら眠ってしまっていた。


 網野は本を閉じ、棚から毛布を取り出すと釣井の背中にかけた。気持ちよさそうに寝息を立てているのを見て、起こすのは忍びないと感じたのだ。


 本は机の上に置き、ティナの前に置いている椅子まで戻る。


 物語の余韻に浸りながら、深いため息をついた。


「ティナと同じ人魚の話だったけど、どうだった?」


 ガラスに手を当て、問いかける。


「てぃな、あみの、すき」


 彼女は真っ直ぐに網野の目を見つめがなら答えた。


 網野の名前を読んで以降、たった数日という速さでティナは多くの言葉を覚えていった。自分の名前は言えるようになったし、言葉の意味もわかってきているように網野は思っていた。言葉を覚えたての赤ん坊のように、しっかりとした文章は作れていないが、単語だけで伝わる文章はできている。凄まじい成長だ。


「僕もティナのことが好きだよ」


 と、返す。


 人魚姫に救われた王子様。


 王子様に恋に落ちた人魚姫。


 自分の声を捨ててまで人間になったが、実らなかった恋。


 そして、泡に。


 悲劇の物語だ。


 いや、網野にとって『人魚姫』はもはやただの悲しいファンタジーではない。人魚が発見されたこの世界において、人魚はもうファンタジーではないのだ。


 それに網野の脳の奥底にある不確かな記憶。


 少年時代の夏の日。海で溺れた日。あの時、人魚に助けられたような記憶。『人魚姫』の王子様と一緒だ。


 網野の耳の奥に海中の音が響く。太陽光を乱反射する水面。こちらへ手を伸ばす人影は逆光でよく見えない。しかし人間とは思えない速さで近づいてくる影。


 光を反射する金の髪。


 網野を救ったあの人魚の影は金色の髪を持っていた。


 ふと我に返った網野はティナの方を見る。


「ねえ、やっぱり僕とティナって前に会ったことある?」


 その問いかけに彼女はよくわからないと言いたげに首を傾げた。 


 やはり自分の思い違いだろうか、と網野が考えたとき、研究室の扉が開いた。


「網野さん、失礼します。大波田です」


 と、軽い会釈をしながら飼育員の大波田だった。車輪付き清掃用具入れを押しながら入ってくる。彼は眠っている釣井に気がつくと、静かに扉を閉めた。


「すみません、ノックし忘れました」

「いや、気にしなくていいですよ」


 網野は彼の謝罪を許す。そもそも釣井は些細なことじゃ起きないと網野は知っているし、研究の最中というわけでもないので何も問題はなかった。


「それじゃあ予定通りによろしくお願いします。釣井を起こさないようになんて本当に気にしなくて良いので」

「わかりました」


 午後は水槽の定期清掃が行われる日だった。運が悪いことに、夕方からは例の八尾比の講演会も控えている。清掃のついでに網野や釣井が研究室を空ける間、ティナを預けて世話をしてもらう予定なのだ。


 大波田は水槽に向かう途中で網野の机の上に置いてある本に気がついた。


「『人魚姫』ですか」

「ああ、そうです。最近、人から借りたものですけどね」

「懐かしい。俺も子供の頃よく読んでました」


 と、彼はその本を手に取りパラパラとページを捲る。


「一般的にハッピーエンドとは言われていないけれど、俺はそうじゃないと思うんです。結果としてに結ばれなかったとしても、人魚姫は王子様と一緒に彼と生活する世界で暮らすことができて、幸せだったんじゃないかなって」

「確かに、そういう考え方もできますね。結ばれることだけが幸せじゃない」

「でも、それを受け入れることができない人もたくさんいます。人間の難しいところです」

「もしかしたら、僕たちは自分たちのことを何も理解できていないのに、人魚のような他の生物のことを知ろうとしているのかもしれませんね」

「その通りですよ」


 二人は静かに笑い合う。同じ物語を読んでいても、それぞれ感じ方が違う。それを語り合うのは面白いな、と網野は感じた。

大波田は『人魚姫』の本を網野に返すと、掃除用具を取りながら疑問に思ったことを尋ねた。


「え、というか、どうして今更になって『人魚姫』なんてものを借りたんですか?」

「借りた、というか……。貸し付けられたとか、押し付けられたという表現が正しいと思います」

「押し付けられた?」

「ええ」


 網野はレイと出会った夜の一連の流れを大波田に説明した。どうやら大波田もレイのことは知っていたようだったが、名前は知らなかったという。


「飼育員の間でも一度話題に上がったんですよね。夜、退勤する時間に稀に海を眺めている人がいるって。お世辞にも綺麗と言えるような見た目じゃないし、微動だにせず海を見ているものだから、最初はみんな不気味がっていたんですよ。でも、本当に海を見ているだけだし、特に心配はいらないかもしれないって結論になって、見かけてもスルーするようになってたんです。網野さんは彼を見るのは初めてだったんですか?」

「はい、初めてでした。MMLに就職してから、一度もそういうことはなかったので驚きました」

「ああ、まあ俺たち飼育員の中で話題になったのも半年前くらいなので。特別昔からってわけじゃないと思うんですよ。毎日目撃情報を聞くわけじゃないし。とにかく、よくわからない人ですよ」


 よくわからない人という意見は網野も同じだった。会話のキャッチボールができていないような感覚や、まるで人間ではないものと話しているような感覚。まるで人魚を初めて発見したときのような。『未知』という言葉が似合う人だった。


「まさか、網野さんが彼に声をかけるだなんてね。びっくりですよ」

「万が一のことがありましたから」

「まあ、おかげで今度こそ完全に安心できるので。良かったと言えば良かったです。ありがとうございます。それじゃあ、掃除、始めますね」

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