第14話 薄明

 網野はそれを聞いて、この人がいる時点で既に面倒だということを思い出した。釣井に至っては「だるい」の三文字が顔に浮き出ていた。もちろん、天海もそれは同じで上司相手でも軽くあしらうように話す。


「別に。ただの八尾比博士の講演会の招待状ですよ」

「八尾比からの招待状?」

「はい。MMLの所長ともあろうお方がわからないなんてご冗談を。船越所長ももらっているでしょう」


 船越はこのような人間だが、一応MML所長の肩書きを持つ男だ。人魚学会では上層に位置する権力者であることに間違いはない。当然、八尾比から招待状を受け取っているはずなのだが、彼はなぜか眉を潜めていた。


「いや、もらってないな」

「間違って捨てちゃったとか?」

「俺がそんなミスを犯すわけないだろう!」


 ヒステリーを起こしたのかと疑うほどの叫び声を上げ、机を強く叩きつけた。その音に驚いたティナが再び暴れ出す。


「ティナ! 大丈夫! 落ち着いて!」


 網野がすぐさま水槽に向かおうとするが、それさえも船越の気に触れた。


「網野うるさい! 黙れ!」

「所長こそ頭を冷やしてください。ミスくらい誰だってするでしょう」


 網野が近くに来たことでティナは静かになったが、船越は天海がどれだけ落ち着かせようとしても無駄だった。


 一体全体、どうしてこの男がMMLの所長に選ばれたのか。網野たちは甚だ疑問だった。


「俺はミスをしていない。あいつからの連絡を、あいつの情報を俺が漏らすはずがない」

「熱心なのはいいことです。ほら、一枚差し上げますから。一緒に行きましょうよ。ね、だから落ち着いて」


 天海の言葉選びが玩具を欲しがる子供にかけるそれと全く同じになっていた。それに対する船越の反応もまさしくその子供だった。


「それは本当か……?」

「ええ。どうせ一緒に行く人もいなかったので」

「そうか、それならもらってやろう。あいつに直接一言言ってやらんと気が済まない」


 天海からチケットを受け取り、ようやく落ち着く。手のかかる子供だ、と網野は心の中で毒づいた。


「何だか意外ですね。人魚なんて興味なさそうな、網野先輩の対局のような人なのに」


 と釣井がこっそりと耳打ちをしてくる。その意味がわからず網野は彼女に聞き返した。


「意外って?」

「いやほら、八尾比博士の情報は漏らすわけないみたいなこと言ってたじゃないですか。まるでアイドルの追っかけみたい」

「あー、まああれじゃない? MML所長っていう立場上、人魚学会の情報は常に最新のものを得たいんじゃないの? 船越所長はそういうプライド高そうだし」

「そんなもんですかね。追っかけ超えてガチ恋みたいな感じですけど」

「船越所長もいい歳だよ? そのガチ恋相手が古希が近いって……」

「確かにそれはちょっとキモいですね」

「僕はそこまで言ってないぞ」


 耳打ちから始まったが声が大きくなっていたようで、天海が咳払いで「聞こえてるぞ」と伝えてくる。また船越にヒステリーを起こされるのではないかと身構えたが、


「くだらん」


 の一言で終わった。感情の起伏がわかりにくい人だ。


「ところで、どうして船越所長は網野研究室へ? 何か用事でも?」


 船越が完全に落ち着き取り戻したことがわかると、天海は彼にここへ来た理由を尋ねる。


「最初にも言ったろう。異様に騒がしい声が聞こえてきたからだ。一体、何をはしゃいでいたのだ?」

「ああ、それなら網野から直接聞くといいですよ」


 と、天海は後輩へ振る。それに対し網野はどうしてこちらに振るんだ、と思った。しかし自分の研究成果の話だ。いくら船越に話すのが嫌であろうとMMLの研究員として働いている以上、自身の言葉で伝えるべきだろう。


「結論から言うと、ティナ、うちの子が人の言葉と思われる音を発しました」

「ほう」


 どこか疑っているような、まだ飲み込めていないような、そのような二文字を船越は漏らす。網野は続けて具体的な内容を話すと、一瞬驚いたような素振りを見せたが冷静さを取り繕っていた。


「お前の言っていることが本当なら、人魚界の歴史が動く。それほどのことであるが故に、必ず実証できるデータを準備しなければならない。学会発表はそのデータを一度、私に見せてからだ。このまま研究に励むんだな」


 船越らしからぬ口調で、激励とも思えるメッセージを残して彼は網野研究室をそそくさと出ていく。今までは網野のことを大した功績を残していない実力不足の若造だと見下していたのに、天海のマーマン発見に並ぶ研究成果を残すことによって、ついに網野の力を認めたのだろうか。いや、ただもう見下せなくなってしまう現実から目を背けたくなるだけかもしれない。その真偽は定かではないが、船越の様子が変であったことは間違いなかった。それは網野以外の二人も感じていた。


「一体、所長は何だったんだ?」

「さあ? なんだかよくわかりませんが、帰ってくれて何よりです」


 出て行った船越の後ろ姿を目で追う天海に対し、釣井がそう答える。


 トラブルメーカーがいなくなった途端、一気に研究室内が静かになっていた。


「あいの」


 ティナもその声から安心しているのがよくわかった。


「もう大丈夫だよ、ティナ」


 網野も水槽に近づき優しく声をかけてあげた。天海はその様子を見ながら、


「所長は実証できるデータと言っていたが、俺はそれに加えて他の大勢の前でも同じことを彼女にさせられる再現性の方が重要だと思うぞ。これからは新しい言葉を覚えさせるのと並行して、馴染みのない人の前で喋らせる訓練をしたらいい」


 と、アドバイスをした。


「もちろん、そのつもりです」

「お、わかってたか。さっすがは俺の後輩」

「釣井、これからも手伝いよろしくね」

「何改ってるんですか。もちろんですよ。私は網野先輩の助手なんですから!」


 いやだなあ、と釣井は勢いよく網野の肩を叩く。いつもの如く、華奢な見た目からは想像もつかないような威力の攻撃だ。 網野は患部を摩りながら感謝した。


「ありがとう」


 ティナもね、 と彼が付け加えると水槽の彼女は嬉しそうにまた網野の名前を呼んだ。

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