第2章

第6話 人魚を愛す者

 釣井との約束の日曜日。


 網野は今日一日中ずっと彼女に付き合う予定だが、ティナに一度も会わないというは気が引けた。一日未満といえど長時間研究室を空けるわけだから、せめて顔だけは見せよう。そう決めた網野は朝食をコンビニで調達した後、朝八時に自分の研究室へ向かった。


 マイバッグを持ってくるのを忘れていたため、扉を開くとビニール袋が音を立てる。網野はこの音があまり好きではなかった。ほんのちょっとだけ嫌な気分になったが、水槽にいるティナの顔を見ると心の小雨はすぐに晴れ上がった。


「ティナ、おはよう」


 既に起きていたティナに網野が声をかけると、彼女は口から気泡を発しながら網野の前まで泳いでくる。


 ティナがこの研究室に来てから今日で三日目。昨日の時点で網野が名前を呼ぶと三回に二回は反応を示すほどになっていた。釣井が呼ぶと五回に二回と数は低くなるのだが、それでも他の例と比べると早いペースだった。大水槽で受けた印象とは違い、もしかしたら友好的なのかもしれない。


「ごめんね。今日は一日研究室を空けるんだ。釣井の買い物に付き合ってやらないといけなくてね。ほら、いつも一緒にいる金髪の子。だからせめて朝ごはんだけでも一緒に食べようと思って」


 網野は自分のデスクに着くと、ビニール袋からサンドウィッチとブラックのコーヒーを取り出す。彼は市販のコーヒーが大好きだ。自分やバリスタが良い豆を使ってドリップしたもの以外は美味しくないという考えを持つ人もいるが、安くて値段よりちょっと美味しいリーズナブルなところが網野は好きなのだ。


 コーヒーのことを考えていると、ケトルも買わなければならないことを思い出した。そこから船越のことを連想しそうになって、慌てて思い留まる。危うく最悪な朝になるところだった。


 コーヒーを一口だけ飲むと、網野は再び立ち上がる。


「ティナもお腹が空いただろ。朝ごはんをあげよう」


 資料を並べている戸棚の一番下の引き出しを開けると、MMLの飼育スタッフが開発した人魚用の餌である魚の干物が入っている。ここにあるのは一つ一つ丁寧にパック詰めされたアジの干物だ。その隣にある袋の中身は網野が以前買ってきた乾燥ワカメだ。


 地球で暮らす動物の多くは肉食動物か草食動物に分けられる。人間は草も肉も食べる雑食だが、人魚もそれに当たる。魚肉や甲殻類、海藻と多くの海洋生物が捕食対象だ。


 網野は干物を一パック開封し、ティナのいる水槽に落としてあげた。


 ティナは丁寧に両手でその干物を掴み、頭から食べ始めた。むしゃむしゃと食べるその様子は、あたかもツマミを貪るおじさんのように見えなくもなかった。おじさんと違い、元々の姿が美しいのが救いだ。


 美味しそうに食べる彼女を見ながら、網野もサンドウィッチの袋を開ける。ようやくの朝食だ。


 BGMでもかけようと、彼はスマホのラジオアプリを起動した。いつも聞くチャンネルに設定すると朝のニュース番組が放送されていた。


 朝からニュースを聞くと憂鬱な気分になるのだが、大人としてニュースは知っておくべきだと網野は自分に言い聞かせる。


『人魚発見からおよそ七年。幻獣が実在したことに驚きや歓喜の声が上がる一方、彼女らの存在に不満を持つ人も少なくありません。特に漁師たちは人魚による漁獲量減少という大きな被害を受けています。今日は人魚撲滅推進団体・海王会に所属する漁師、森嶋悠三さんにお話を伺いました』

『今までは人魚の被害なんてなかったのに。奴らが海上の方に上がってくるようになってから、本当に魚が取れなくなったんだ。こりゃあ乱獲と変わらねえ。俺らは商売にならねえし、今後の日本漁業のことを考えても今すぐ人魚を殺すべきだ。それなのにMMLとかいう組織なんてものができちまって、世間は人魚を保護する流れだ』


 網野はそこでアプリを落とす。続きを聞きたいとは思わなかったからだ。仕事柄、人魚の知識は一般人よりも多く持っている。そのため、日本漁業が大打撃を受けていることも知っているし、人魚撲滅推進団体なる組織ができていることも知ってはいる。


 もちろん彼らの言い分は理解出来る。自分たちの仕事が成り立たなくなるくらいの被害なのだ。怒るのは仕方がない。しかし殺すというのはどうなのだろう。ラジオで話していた森嶋という漁師は乱獲という表現をしたが、別に人間が介入しているわけではない。全て自然界で起きている現象だ。自然に任せるのが一番だと思う。確かに、魚の絶滅は防がなくてはならない。何かしらの保護は必要だが、人魚は絶対に殺す必要がないのだ。


 そもそも、どうして近年になって人魚がよく現れるようになったのかというのが人魚研究界でも大きな問題となっている。今までひっそりと姿を隠して暮らしていた彼女らが、どうしてこのタイミングで人間たちの前に姿を現したのか。


 『何か』があったに違いない。


 そう考えているのは網野だけはないはずだ。


「一体、ティナたちに何が起きたの?」


 網野はそうティナに問いかけてみる。 


 彼女はきょとんとした顔で、自分の名前に反応した。しかし言葉の意味は分かっていない。アジの干物を食べ終わったという意思表示か、空になった両手を網野の方に向けてきた。


「まあ、それを調べるのは僕たち研究者の仕事だよね」


 網野は乾燥ワカメを一袋開封して、水槽に入れる。その後はサンドウィッチを食べきって、研究室を後にした。

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