第5話 入水

 網野がシャワー室から帰ってくると、水浸しだった床は綺麗に磨き上げられ、箱詰めしたままだった資料は綺麗に棚に並べられていた。


 おそらくそれをやってくれた人物であろう釣井は怒涛の午前中に疲れてしまったのか、自分のデスクで船を漕いでいた。網野はあえて起こさず、水槽に向かう。


 ティナも目を瞑ったまま眠っていた。止血剤が効いているようで、包帯は少しだけ血が滲みている程度だった。大事に至らなくて良かったと網野は安堵する。


 それにしても、これほどの傷を負わせるだなんて漁師はつくづく酷い人間だと思う。彼らにとって魚が取れないことが致命的だということは網野も理解している。しかし海の命を頂く人間が同じ海の命を雑に扱っていいのか網野は疑問だった。


「んあ」


 気の抜けたような声が聞こえ、網野は振り返る。


 どうやら釣井が目を覚ましたようで、大きく口を開いてあくびをしていた。あまりの大きさに吸い込まれそうになる。


「ちょっと、後輩女子が欠伸してるところ見ないでくださいよ」

「僕が見てるのに、堂々としてるのはそっちだらあ」


 言い返そうとしたら彼女の欠伸が移ってしまい、語尾がめちゃくちゃ訛っている人みたいになってしまった。釣井は自分のせいで先輩が恥ずかしがっているにも関わらず、欠伸同様大きな口を開けて笑う。


「全く、ちょっと寝たら元気になるんだから。子供かよ」

「な! 寝てないです! ちょっとうとうとしてただけです!」

「ほぼ同じだよ。ま、今日はもう帰っていいよ」

「え、酷いです。網野先輩がそんな簡単に後輩を切り捨てる人だとは」


 釣井は顔を赤くして椅子から立ち上がる。


 彼女はまるで冗談を真に受けてしまった人のような態度を取っているが、網野にとっては冗談などではなく本気だった。


「いや帰っていいって」

「帰りません!」

「部活じゃないんだから」

「そうです部活じゃないんですから、そんなこと言わないでください!」


 やけに必死になっている釣井が段々と面白く思えてきた。もう少しからかってやろうかと網野は意地悪なことを考えたが、あまりグダグダと悪ノリをするのも可哀想かと本当のことを告げる。


「今日はもともと研究室の資料整理と人魚選びの予定だけだったから。釣井は午後フリーだよ」

「え」


 と、釣井は文字通り目を丸くし静止する。


「釣井のこの後の仕事はなし。だから帰っていいよ」


 動かなくなった釣井に網野はもう一度説明し直すと、彼女は「何だあ」と力が抜けたように再び椅子に腰を下ろした。


「てっきり解雇宣言されたかと思いました」

「解雇なんてするわけないじゃん。そもそも解雇権限は僕にないし、僕が釣井を雇ってるわけでもない」

「それもそうですねー」


 僕は資料が並べられた棚から自分が個人で研究していた資料のファイルを取り出し、デスクにそれを置いた。


 なぜか釣井と目が合った。


「どうした?」

「網野先輩は午後オフじゃないんですか?」

「僕は少しだけ研究をして帰るよ。ティナとも仲良くなりたいし」


 と、ティナの方を一瞥すると彼女はまだぐっすりと眠っているようだった。


「そんなに働いてちゃ体壊しますよ」

「まあ、僕は研究が趣味みたいなところあるから」

「それは否めませんけど……あ、そうだ! 前一緒に買い物行ってくれるって約束してましたよね!」

「え、したっけ」


 網野は記憶の本棚を片っ端から調べてみるが、そんな本は見当たらない。全く記憶になかった。一体いつそんな約束をしたというのだろう。


「ほら、前に天海先輩と三人で飲んだ時です!」

「あー」


 そう口にしたものの、約束を思い出したわけではない。その代わりにあの日はやたらと天海先輩に飲まされ、釣井がタクシーで家まで送ってくれたことを思い出した。釣井のことだ。おそらく網野が泥酔しているのを良いことに、勝手に約束を作ったに違いない。だからと言って断ろうとは思わなかった。わざわざ家まで送ってもらい、迷惑をかけたのは事実。それに対しては何か返さなければと考えていたところなのだ。


「わかった。でも今日は無理だ。明後日の日曜日なら付き合えるよ」

「やった! 嬉しいです! 絶対すっぽかしちゃ駄目ですよ!」


 先程までのしょぼくれた様子とは打って変わり、水を得た魚のように顔を明るくする。飛び跳ねる姿もまさしく魚だった。


 そんな彼女はもう帰るのかと思いきや、閉じていたノートパソコンを起動させた。


「あれ、帰らないの?」

「今は機嫌が良いので、網野先輩の研究のお手伝いします。そもそも助手として網野研究室に配属されたんですから」


 配属されたのではなく、釣井が自ら立候補したと天海から聞いていたのだが言及はしなかった。網野にとっては配属だろうと立候補だろうとどうでも良いからだ。ただ、親しい仲である釣井が助手になってくれたおかげでコミュニケーションが取りやすいというがありがたかった。


 視界の端にあった水槽の影が動く。どうやらタイミング良く、ティナが眠りから目を覚ましたようだった。


 欠伸をしているのか、彼女が口を開くと空気の泡がプクプクと口から水面へ昇っていく。


 網野は水槽に近づいてティナに語りかける。


「おはようティナ。傷口はまだ痛む?」


 問いかけに反応はないが、網野が微笑むとまだ眠そうな顔をしている彼女も顔を綻ばせた。その様子から、きっともう大丈夫なのだろうと安心する。


「さっきは助けてくれてありがとうね。ティナがいなかったらどうなっていたことやら」

「確かに。ティナのおかげですね」


 釣井も網野の後ろに立ち、ティナに礼を述べる。彼女がいなければ船越を追い返せていなかったのだ。間違いなく今日のMVPはティナである。


 しかし、やはり彼女にこちらの言葉は通じない。ティナはまるでリハビリをするかのようにゆっくりと水槽内を泳ぎ始めた。 


 網野の研究分野は『人間と人魚の言語によるコミュニケーション』だ。


 先程、網野の笑みに対しティナが微笑み返したように人間と人魚間のある程度のコミュニケーションは可能とされている。元々、人魚は人間に匹敵するほどの高い知性を有しており、彼女らは独自の言語を持っている説もある。人魚の生活にはまだ謎が多くあるが、集団で複雑な狩りを行っている様子が何件も確認されているし、そのうち数件では言語のような音のやりとりも行っていた。それはイルカやコウモリが行っているエコロケーション、所謂反響定位ではなく、人間が行う音声言語に近い。その録音資料などもあるのだが、ヴォイニッチ手稿さながら解読はされておらず、高度な言語を扱っていると言われている。それもまた人魚が知性の高い生物とされる所以だ。


 網野はそれだけ知性のある人魚であるならば人間が用いる言語を習得させることもできるのではないかと考えている。人間のものと変わりない発声器官だって持っているのだ。理論上は可能なはずだ。


 天海研究室では『人魚間のコミュニケーション』という網野の研究にも通ずる研究が行われている。彼の元で助手を務めた経験を生かし、ついに自分自身の研究を本格的に始められることに網野は興奮を覚えた。


「ティナ、早速だけど君で研究を始めたい。よろしくね」


 ティナは水槽内を一周し、網野の前に戻って来る。まるで網野の言葉を理解しているような行動だが、思い込みだと網野は自分に言い聞かせた。


「どんな風に研究を進める予定なんですか?」


 釣井の問いに対し、


「そうだな。当面は僕たちがティナと名前を呼んで反応をしてもらうようになることだ。言葉を理解できずとも、音として認識することは可能だからな。それにまずは仲良くならなきゃ」


 網野がそう答えると、釣井は最後の言葉を拾う。


「全く、最後に網野先輩らしさが詰め込まれてますね」

「よく言われるけど、そうした方が絶対にいいと僕は思うんだよ。マウス実験じゃあるまいし、これから長い付き合いになるんだ。お互いに信頼関係はあった方が研究をしやすいだろ? ほら、警察犬と警察犬訓練士のような」

「網野先輩知ってます? 彼ら、初めは人間へ服従することを訓練させられるそうですよ」

「あ、じゃあちょっと違うか。僕らは対等がいいよね」


 網野が対等に拘る理由は人魚への弛まぬ愛はもちろんだが、それは人魚以外にも言えることだった。


 人間は人間以外の動物を下等生物と見なしがちだ。もちろん全人類がそうしているとは言わないが、網野にとっては多くの人間がそうであるように感じる。船越はその典型的人物であるし、網野が慕う天海でさえ人魚を研究対象と割り切って見ている。実際彼女らは人間に捕らえられ、抵抗もできず水槽にいるのだから下等生物として扱われてもおかしくない。その主張も間違っていないと網野は思っている。それでも網野は彼女らを下に見たくないのだ。


 彼女たちは人間にはないヒレを持って自由に海を泳いでいる。


 自分たちが持っていないものを彼女らは持っていると言うのになぜ下等なのだろう。


 翼を使って大空を自由に飛ぶ鳥の姿に憧れた人間だって少なくないはずだ。それなのになぜ下等と言うのだろう。


 彼女らを研究対象として支配した気になっている人間が網野は嫌いなのだ。


 本当ならばティナもこんな狭く不自由な水槽ではなく、海に返してあげたい。そして大海を泳ぐ本来の姿を見て研究したい。


 しかし網野だってもう大人。それが研究者として難しいことはよく理解している。


 だからせめて良好な関係を築き、ティナたち人魚がこのMMLの施設で気分良く生活できるようにしてあげたいのだ。


「ティナ」


 彼が彼女の名前を呼ぶと、ティナは視線を網野に向けた。


 それもきっとたまたまなのだろうと思いつつ、その後も網野は不定期に彼女の名前を呼んでは、どんな反応を示すかを記録していった。

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