エピローグ

 魔法使いとの再会が過ぎ去った、その翌朝。

 早朝の閑静な廊下を、俺は一人きりで歩いていた。生徒の足が途絶え、昨日までの埃が床に着いている。土曜日ともなれば静寂の深さもそれなり。生徒向けに昇降口は解放され、図書室なんかも開いているけれど、この時間帯に訪れる生徒はそれこそ俺くらいのものだろう。空気に波紋を生む風に教室を目指していたが、俺はふと歩みを止めた。

 数時間前に起きていた出来事がウソみたいに、目に映る世界は平然としている。どこをとっても違和感はない。日常のあるべき姿を保っている。立ち並ぶガラス窓が、一度は粉々に砕かれたなんて誰が想像するだろうか。

 山陰から顔を覗かせ、徐々に広がっていく光に目を細めた。差し込み、行く先の足元を陽気が照らす。

 つい先日までは冬の気配を残していたはずなのに、今は暖かな気候だ。夏がすぐそこまで迫っているのかもしれない。照らし出す日光の温度を感じて、俺はまた歩き出した。

 ポケットに突っ込んだ片手は空いている。あるべきはずのものがなく、物足りない。大きな失くしモノをした気分だ。きっと自分は、あの日と同じようにいくつもの何かを取りこぼした。

 生きるための燃料だったり、息も止めるような感情だったり、目先にあった目標だったり。表現はいくつもあるけれど、その全てがあの小さい宝石……否、ガラスの結晶に込められていたのだと思う。普通とはかけ離れたこの数日間は、魔女の遺産による恩恵だ。それも後の祭り、もはややり直しなどできはしない。

 跡形もなく粉々に砕けた今、自分を縛る魔法の気配はなかった。正真正銘、無力な一般人だ。だというのに、そう落ち込んでいない自分に少々驚いている。

 中身のない、けれどどこまでも繊細に刻みつける魔法使いの声。言葉を記憶し、胸を焦がす感情。残された些細な呪いだけが、新たに心を色付けている。グレーに淀むはずの視界を色彩で支えている。

 自然と笑みをこぼして、俺は教室にはいった。

 あの日、あの時間と同じように訪れようと、変化はない。机の並ぶクラスは、物言わぬ日常の一幕だった。起こした風が埃を巻き上げ、差し込む光に当てられる。俺はその隙間を縫って、窓辺に近寄った。

 この時間帯にのみ拝める、無人の敷地。特に昇降口の方は朝日を受けていて、平日の人が行き交う様を思い浮かべることができる。

 宝石が転がった机の表面を、指でなぞる。なんてことないささやかな凹凸があるのみで、特別目を引くところはない。だが思いを馳せるには十分だ。

教室を後にする。今度はポケットに手を突っ込むことなく、廊下を引き返していく。

 背中越しに、ニセモノの魔法使いに別れを告げる。全てを引き起こした過去の魔法使いに誓いを残す。

 きっと俺は、彼女を取り戻す。それが世界が定める絶対の死であったとしても、異を唱えよう。

 足取りは重いようで軽かった。途方もない道のり、先の見えない足下。踏み外す度に現実が牙を剥く。

 それでも、歩かなければ。

 そうやって人は前に、足を運ぶのだ。


 依然、生徒の気配がない昇降口を抜け、校門へ向かう。

 念のためグラウンド方面の東棟も見て回ったが、取り立てて対処すべき点は見られないことに安堵している。普段となんら変わらない風景が、ひっそりと、当たり前のように並んでいるだけだった。

 真とはほど遠くとも、魔女は魔女。ニセモノの魔法使いは、割れたガラスの全てを復元していったらしい。

 彼女らしい、と苦笑しながら顔を上げて、一点で留まる。


 左右へ寄せられた黒い柵、松の木がつくる影の下、門柱の傍らに人影があった。無言で前を通り過ぎると、彼女は狙い澄ましたようについてくる。

 アスファルトが、軽い靴音にカツカツとした音を混ぜ込む。パステルに近い空模様、浮かぶ白に淡い水色。朝の日差しが斜めに差し込む。視線を下ろせば、黒い特徴的な服が揺れていた。

 歩調をゆるめると、シスターはゆっくり切り出した。


「行方をくらましていた生徒たち、戻ってきたようですよ」

「そりゃあよかった。魔法使い様々だ」

「きっと、宝石……いえ、ガラス玉と呼んだ方が正しいでしょうか? 彼女は元から、そういうつもりで魔法を詰め込んだのでしょうね」


 俺はくすりと笑った。本当に、あの魔法使いは自由だ。死んでしまった後も、こうして残された者たちを悩ませる。振り回すだけ振り回して最後に綺麗な色をみせようとする。そのあたりは、共に過ごしたあの頃と変わらない。

 過ぎ去った瞬間。すべてがなかったことにすげ替えられている中、消えない胸の痛み。ソレは俺を鈍く追い立てて呪いのごとく苦しめる。だけど、持ち歩く宝石は十分なほど印象的な思い出だ。宝石を模したガラス片は、魔法を残酷なままでは終わらせず、綺麗なモノとして終わらせていった。

 ──喪失は、約束された再会だけだ。

 哀しい。でも哀しいだけじゃない。俺はまた、一から魔女の復活を目指せるだけの覚悟を持っていた。


「ところで、そのリュックは?」


 心機一転、歩きながら、俺は彼女に訊いた。

 シスターをいつもと異なる装いたらしめているのは、背中の大きいリュックだった。身の丈にあっていないサイズで、傍目にみても重そうである。

 シスターは待ってましたとばかりに話題を切り替え、少しだけ嬉しそうに語る。


「実はあなたにお願いがありまして」

「お願い?」

「私、普段は教会奥の小部屋で寝泊まりしていたのです」

「え? あ、ああ……そうなんだ」

「しかし、最近は何かと物騒でして。今は睡眠の妨げになるほど風通しが良くなっています」


 風通し。

 表現を反芻する俺を横目でみて、シスターは続ける。


「ステンドグラスのひとつが、割れてしまったのですよ。穴が開くとかそういうレベルではありません。もはや木っ端微塵です」


 唖然とするところに、「そこで、」と提案が重ねられた。


「しばらくあなたの家にお邪魔させていただけませんか。それと、この事件の解決をお願いします」

「待て待て、色々と飛躍してる。どうしてそこで俺の家にくる?」

「いいでしょう? 家事全般力になれますし、妹さんとは面識もあります。ウチのステンドグラスが修復されるまで、犯人が捕まるまで、少しくらい良いではありませんか」


 とても聖職者がこぼす言葉だとは思えなくて、俺は考え込んだ。ツッコミどころが多すぎる。頭上で訊きたい事柄がいくつも回っている。

 それをひとつひとつ手にとるように、俺は歩きながら問いかけた。


「泊めるのは百歩譲って良しとしよう。吹き抜けの出入り口が出来たようなものだし、教会に居られないのは理解できる」

「っ、じゃあ、」

「でも。どうして犯人探しまで俺がやらなきゃならないんだよ」

「どうして、って……ガラスといえば魔女。魔女といえばあなたでしょう?」


 暴論だった。魔法使いが魔法を使えるからといって、付き添いまでもが行使できるわけではない。

 彼女の中では適材適所なのかもしれないけれど、的外れな期待だった。それよりも、彼女は世間に警察という打ってつけの存在がいることを忘れているのだろうか。

 俺はため息をついて、次の質問を投げかける。


「そもそも、ステンドグラスを割った犯人なんているの? 単に強風で割れたとかじゃないのか?」

「さぁ。犯人がいるのか、それとも何かしらの現象が割ったのか。真実は神のみぞ知る、というところでしょうか。教会だけに」

「なら神さまに頼んで。パス」


 馬鹿馬鹿しくなった。曲がり角を曲がってすたすたと歩く背後を、しかしシスターはしつこく付け回した。


「今のは言葉の綾ですよー、待ってくださいってば」


 歩く。

 土曜日の時間を有意義なものにするため。妹が心配しているから。そんな中身のない理由がとってつけたように浮かび上がる。

 なにより、魔法使いの遺産が残した一連の事件のあとだ。気にならないということはないが、さすがに少し休みたい。

 しかし、そういうときに限って、現実は俺の首根っこを掴むのだ。


「あなただけなんですっ!」


 一際真剣な声が背中に届いて、ぴたりと足が止まった。


「警察もお手上げ、探偵が持ち出したのはよく分からないナントカ現象、そして私は頼れる大人がほとんどいません」


 ……なんだ。もう警察には駆け寄ったあとか。

 そう嘆息したあと、脳内に「じゃあなぜ」と興味を示す自分がいた。

 それを払うように首を振る。

 知ってか知らずか、シスターは諦めない。いつぞやの夜とはまた違った声で俺を引き止める。


「あなただけなんですよ……ガラス絡みの事件なんて……」


 振り返って、俯くシスターと向き合った。聴衆は道端に生える雑草くらい。田舎の、そう広くもない道路だ。通りかかる車もなく、朝の道路は閑散としていた。

 よく通る声で、俺は尋ねる。


「木陰は?」

「私の家系は、彼に助けを求めることができない。そういう関係なんです」

「どうしても?」

「どうしても」

「……なら、ステンドグラスが割れたのはいつ?」

「あなたが教会を訪れた次の日に、思い出したように一枚が割れました。」

「いつから割れ始めた?」

「初めは二年前の秋。その際割られた部分は修復したのですが、今になって、再び犯人が動き出したようです」

「……」


 考え込んでしまっていた。

 昨夜は眠りに入るのが遅かった。帰宅した時刻は深夜で、妹にこっぴどく叱られたからだ。まだ抜けきっていない疲れ――睡眠時間を削って学校に赴いたのだから、上手くまわるはずもない思考。それなのに、魔法使いの影がよぎるだけで可能性を無視できなくなる。

 我ながら単純な行動基準だ。恥ずかしくなるなるような動機だ。

 だが、「それでいい、それがいい」と、ニセモノの魔法使いは言ってくれた。本人の言葉ではないけれど。今はその一言が、俺を灰色に落ち込む現実から引っ張り出してくれる。

 すこしだけ笑ってしまう。そんな自分を呼吸とともに飲み込んだ。

 代わりに、地に足立つ俺自身に向けて、あるいは、ここにはいない彼女に向けて言葉をこぼす。


「俺は、魔法使いじゃない。魔法使いになることだってできないよ」


 顔をあげたシスターはきょとんとして、目を丸くした。それからぱちくりと瞬きをして、今度は何かを悟ったようで、安堵の笑みを浮かべる。


「ええ、そうですね。でも、魔女のご友人です」

「ただの友人Aに変な期待をされても、応えられない」

「百も承知です。それでも、」


 一度言葉を切って、顔をあげるシスター。

 そこにいるのは聖職者としての彼女ではない。ひとりの友愛を抱いた少女としての佇まいだ。折れず、真っ直ぐで、水面を思わせる相貌を向けている。


「それでも、あなたを頼りたい」


 瞳に宿した色合いには、確かな決意を滲ませていた。茶色い髪を風に揺らして、握り込んだ手のひらは何かに耐えて。それでも、と訴える。

 折れない彼女へ、内心でひそかに称賛を送った。

 対峙する彼女は、二日前の自分を写す鏡にも感じられる。

 であるならば、きっとこれも魔法使いの差し金なのだろう。そんな風に捉える自分が、ここにいた。


「はぁ……わかったよ。善処はする」


 ぱっと顔を輝かせて、シスターは頭を下げた。


「ありがとう、ございます……!」


 大っきなリュックが蓋を開けそうに揺らぐ。それを背負い直して、ふふ、とシスターは微笑む。


「さすが、魔法使いのご友人、ですね」


 からかうように口元へ指を立てて、シスターが先に歩き出す。

 方向は俺の自宅だ。

 ゆさゆさとリュックを傾けながら、家事は任せてくださいだとか、妹さんと会うのが楽しみだとか、波瀾を思わせる独り言を口にしている。


「ご友人、ね」


 俺は苦笑して呆れつつ、また歩み出した。

 懐の物足りなさが帰ってきて、再び過去へ思い馳せる。思い出を通して未来へ想像を膨らませる。生きる意味とも呼べる、たった一度の再会を失った後だというのに。今の自分は、不思議と心地の良い在り方だった。

 約束は願いへ。願いは野心へ。そして野心は、再び約束へと至った。

 夜を透かしたように透明で、綺麗な呪いだ。

 そう。

 魔法使いにかけられた魔法は、そんな呪いじみた──星々へ乞い願うような約束だった。


 新たな門出を祝福するみたいに、朝焼けの涼しさが背中を押した。

 電線の向こう、解かれた綿あめみたいな雲が、淡い青色の空を流れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ガラスの魔女は復活できない。 九日晴一 @Kokonoka_hrkz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画