オモイデ

 瞳に映してこその星空だというのに、魔法使いは目を閉じていた。涼しいそよ風を、その身で受けるように。心地よさそうに夜を堪能していて、視界から外しても、端正な顔立ちが頭を離れなかった。

 改めて星々を見上げる。散りばめられた輝き、人類が定義づけた知識を、俺たちは知らなかった。詳しくなかった。宝石みたいな一粒一粒が、実際はどれくらいの大きさ、規模なのだろう。どの星と星をつないで星座とするのだろう。そこに法則性はあるのだろうか。星座にどんな逸話や伝承があるのだろうか。

 こうして漫然と眺めていると、そんな考えたこともない思考に染められる。

 そんな俺へ向けて、ふと。となりから、綻んだ口元が囁く。


「未来を、見たわ」


 突拍子もないことを言われたんだと、遅れて気づいた。魔法使いを相手にしているからこそ生じるタイムラグだった。だけど、その気づきさえも夜空の下ではちっぽけに思えて。魔法使いなら未来を知ることも朝飯前なんだろうな、なんて漠然と受け入れられた。


「どんな未来だった?」


 寝転がったまま、俺は話題に乗る。


「あなたの普通の日常」


 魔法使いはふふ、と笑って、胸を上下させた。「とても愉快で、愛おしかった」なんてつぶやいて。


「けど、そこに君はいないんだろうね」

「わかってるじゃない」


 わかりきっていることなのに、「もしかしたら否定されるんじゃないか」と僅かな希望を持ってしまう。それを知ってか知らずか……いや、間違いなく知った上で、魔法使いは朗らかに肯定するのだ。

 私は居なくなるよ、と。そう言い聞かせるように。

 深呼吸をひとつ挟み込んで、俺は悟られぬよう哀しみを和らげた。満天の星空が協力してくれて、どうにか平静を保つ。

 床は冷たかった。誰もいない屋上は微風を遮るものもなく、ふたりだけの息づかいと言葉が響く。

 どうしようもなく宙ぶらりんな感情を手繰り寄せて、どうにかしたかった。いずれ失われると解っている輝きを、澄んだ彼女を捕まえておきたかった。

 どうすればいいんだと、居もしない神に問いかける。

 そんなとき。

 左手の小指に、ちょこんと何かが当たった。星を数えながら少しだけ考えて、魔法使いの指だとわかった。

 この静かで落ち着かない感情をどうにかする方法を思いつく。

 ――手を、繋いでみたかった。

 自分の欲求、衝動と言い換えてもいい。感情を言葉に表す勇気を、俺は持ち合わせていない。だから少しでもこの瞬間を記憶として刻みつけるために、自らに消えない呪いをかけるために、奥手な自分に抗いたかった。

 少しだけ腕を動かした俺は、しかし。


「でもね」


 手を掴むことはなかった。

 魔法使いの言葉に阻まれて、伸ばしかけた左腕を引っ込める。

 俺は耳を澄ました。


、会えるよ」


 どう返したらいいのか、わからなかった。

 『もう一度』の意味を、このときの俺は理解できなかった。彼女が短すぎる寿命を迎えてからは、嫌というほど悩まされるのに。


「なら、君は死を克服できるのか?」

「……どうでしょうね。そこまでは判らない」


 少しの間があって、魔法使いを一瞥する。

 しかし楽しげな微笑みを浮かべているだけで、真意は読み取れない。


「とはいえ、再会できることに間違いはない。あなたと私は必ずもう一度会う。別離を経た先の、いつか、どこかで」

「……そうか」


 そんなことしか言えない。

 気の利いた気遣いもできない。それくらい、苦すぎる痛みと気休めの甘みが支配していた。


「……俺は、別れるだけでも辛い」


 ぽつりと、本心がこぼれた。

 この時ばかりは、自分でも弱気な口ぶりになっていたと思う。

 驚いたように息をつめる魔法使いの気配も、今となっては納得の反応だ。普段はあまり言わない感情の吐露なのだから、当然といえば当然なのだが。

 ゆえに、魔法使いはこう切り出したのだろう。


「なら……約束」

「約束?」


 胸の奥で反芻。

 綺麗で澄んだ呪いの響きを反芻する。

 魔法使いは、俺が自らに呪いをかける手伝いをしてくれた。『忘れられない思い出にする』という、残酷で深く、濃い呪いが、約束という免罪符を得る。

 魔法使いはちょっとだけ悪戯げに笑って、告げた。


「いつか、私とあなたの間にあるガラスを割って」


 その約束は、呪いそのものになった。

 澄み渡った空とも違う。ガラスみたいなクリアとも異なる。苦味と甘味の混じった、例えようのない願いだ。

 魔法使いと接してきて、ここまで切なる言葉をぶつけられたことはない。それくらい、魔法使いの声音には本気の色が見てとれた。

 首を横に向ければ、夜に負けず劣らずの澄んだ瞳が、自分を捉えて離さない。俺自身、吸い込まれるように釘付けになって、目を背けようともしなかった。どこか儚さすら滲ませる存在そのものが、力強く俺にしがみついている。迷いを知らない相貌にさらりと流れた前髪、固く引き結ばれた口元、不安そうに濡らすまつ毛。

 いつもなら少し強引なくらいに連れ回し、問答無用で遊びに付き合わされていたというのに。今の魔法使いは真逆、心の奥底から祈りをこぼす。真っ直ぐな感情を差し向けてくる。

 いつかの時間。

 いつかの会話。

 俺がなんとか「君の寿命を回避する方法はないか」と足掻く度に、魔法使いは「ごめんね」と謝っていた。困り顔は諦めている風にも感じられた。

 だが、魔法使いだって本心では生きたいのだと、この時になって確信を得た。人生を棒に振ってでも君のために生きていいのだと、許可をもらった瞬間だった。

 だからあの日。

 名ばかりの天体観測に繰り出したあの日。

 俺は少しだけ見開いた目を細め、魔法使いの想いを受け取ったのだ。


「ああ、いつか」


 約束は願い。願いは野心となった。


 俺は迎えるよ。決められた結末を辿るよ。

 たとえ――残りの再会が、別れの必然性を秘めていたとしても。




◇◇◇




「本当に、はた迷惑な魔法使いだ」


 つまり。結末は最初から決まっていて。

 つまり。救いがないことは初めからわかっていて。


 ゆえに──ガラスの魔女は、復活できない。


 込み上げる感情を抑えて、目蓋を持ち上げた。

 ガラスが割れる。

 ありとあらゆる、硝子が悲鳴をあげる。

 後背に聳える校舎の壁。ひび割れは瞬く間にバキン、バキンと弾け、規則的に嵌められた数々の窓からけたたましい破裂音。響いて砕いて空気を裂く。ヒトに捉えられる世界のすべて。かけられたヴェールを打ち破り、透き通った色調を引き起こす。

繊細な物質を破片に変える魔法は、手元の宝石にも及んだ。

 ぴしりと微かな衝撃が左手に伝わり、手を見やる。ひらいた指の隙間から、サラサラと砂が流れていた。いや、砂のような感触のガラス片だった。握る力が抜けて、足下にカタチを失った宝石が流れ落ちる。

 振り返る弧寄も、唖然とする名塚も、胸を打たれる俺をも包み、世界が煌びやかで幻想的な空間へと移り変わる。


「なにが、おきて──」


 呆然とする弧寄がいた。逆に、名塚はこちらの変化に気づき、目を見開く。

 果てのない喪失感。反して迫り上がり、胸打つ感傷。

 俺はそっと、右の手に意識を移した。

 苦く、責め立てるような感情の殴打。再会と別離。結末は押し寄せては引く波打際のように表裏一体で、現実を容赦なく照らし出す。どれだけ望んでも手に入らないという、理不尽さそのものを詰め込んだ余韻に、息を呑む。

 恐怖などという単調なものではない。あらゆる複雑さが混在して、自分というひとりの生き方に終止符を打つ。

 苦しさ、底はなく。

 嬉しさ、留まることを知らず。

 自分はいま、些細な幸福で彩られている。瞬きのたびに消えてしまいそうなほど儚い、淡い再会に浸っている。



「まったく、救いようのないお人好しなんだから」



 魔法使いの声が聞こえた。

 魔法使いの熱が伝わった。

 魔法使いの匂いが香った。

 魔法使いの色が付け足された。


「でも、それでいい。それが――いい」


 彼女は傍らに立ち、俺の右手を固く握っていた。

 黒い魔女帽子の下で微笑みを携えている彼女は、紛れもなく俺の描いていた魔法使いだ。

 痛いほどに濃い存在感。華奢だけど、込められた憂いの深さは計り知れない。だというのに、彼女は瞬きの瞬間には消えてしまいそうな佇まいだった。


 細い指先が、空にキャンバスを設置するように、滑らかになぞった。動きに合わせ、更なる破裂音が鳴り響く。残された窓ガラスも、消灯していた外周の外灯も、すべてが破片に姿を変える。


 砕けた破片は重力に引き寄せられ、地面に衝突した。魔法使いが指をくるりと上に向ければ、今度は不思議な反射光を散らして舞い上がった。

 歪で不確かな残光が蜃気楼の如く描かれる。足下を見遣れば、宝石の残骸もが淡い光を放っている。宝石と同じように微細な輝きを放つ。優しい色合いを混ぜて重ねて、視界を包み込み、俺たちは現実から隔絶され、無力なヒトへと戻っていく。

 右手の感触に懐かしい感慨深さを覚えつつ、俺は目の前の光景に圧倒されていた。

 花火を遠くで眺めるみたいな、シアターで映写された明かりを前にしているような世界の中心で、俺はとなりに目を奪われる。

 相変わらず大きいツバの下で、彼女と視線がぶつかった。


 理解していた。『もう一度』の意味を。

 宝石の数字を知ってから、こうなる予感がずっとあった。


「ごめんね」


 透けた魔法使いはいつかのように言う。

 一声に含まれる意味合いは、きっと様々だ。濃く、それでいてどこまでも透明だ。

 物悲しささえ抱えた表情が訴えてくる。苦しみと断じるには複雑な感情が、俺に非現実的な現実を突きつける。


「こうするしか、方法がなかったんだろ」


 俺は震える声でそう返して、赦した。せめてもの抵抗のつもりだった。

 だけど胸の奥には消えない傷が今なお刻まれ続けて、泣き叫びたかった。

 握った手は、体温も感触も急激に失われていく。それでも微笑むために最大限の努力をした。彼女を前にして、目を逸らしてでも去勢を張った。

 強がりだ。

 情けないことに、ウソでも平気を装わないと負けそうになる。

 不完全で不十分で何もかも足りない、作り込まれたニセモノで妥協しそうになる。「いいじゃないかそれでも」と宣うもう一人の自分に消されてしまう。

 そんな中身のない結末は、俺も魔法使いも求めてはいないのに。


「……ねぇ。あなたからみて、私はホンモノ?」


 魔法使いは躊躇う仕草をしたあと、ぽつりと問う。

 割れたガラスたちの輝きに翻弄され、圧倒されているふたりの生徒を眺めながら。空いた片手で繋がりながら。懐かしい声が投げかけられる。

 俺は唇を噛んで、答えた。


「ニセモノだよ。俺は君を、忠実に再現できなかった」

「……そう」


 どこか納得したように、魔法使いはくすりと笑いをこぼした。

 それから、空を仰ぐ。あの日の屋上で見せたように、目を閉じて微風を感じていた。あるいは、この分かりきった結末を受け入れていた。


「手厳しい。でもそうでなくちゃ困るわね」


 満足げな声で、彼女はこぼす。それから目をあけると、おもむろに片腕を挙げて、す、とスライドさせた。月と星を覆い隠す天へ向けて何かをして、何事もなかったかのようにこちらへ身体を向けた。

 手は繋いだまま。

 魔法使いの、夜より夜の色を宿した瞳が、まっすぐ俺を見つめる。どんなに取り繕っても見透かされてしまう気がするのは、昔と全く変わらない。いつだって、俺はそんな感情を抱いて魔法使いに付き合っていた。


「ニセモノの言葉なんて銅貨ほどの価値もないけど。それでも私、感謝しているわ」


 かけるべき言葉を探す。こんなときに限って、最適解がみつからない。


「……ありがと。こんな私を求めてくれて」

「『こんな』とか、そんなのは……主観だから言えるんだ」

「あは、そうね。この数年で、自己評価が地に落ちたのかもね」


 冗談を混ぜて、魔法使いは過去に思いを馳せているようだった。

 何を考えているのだろう。どう話すのが良いのだろう。

 ニセモノで、でも二年ぶりの再会で、逃れ得ない別れが待っていて。どんな言葉なら気休めにできる?

 俺にはわからない。


 そんなとき。魔法使いが空を仰ぎながら、そっと吐露した。


「私、あなたのこと、好きよ」

「──、」


 どうせニセモノなんだから、秘密を明かすくらいの許しはあったっていい。

 そんな面持ちを携え、微笑みながら彼女が告げる。

 魔法使いのシルエットが、歪んで見えた。それは薄れていく輪郭とかそういう類ではなく、俺自身の目眩だった。

 気づいてしまった。

 悟ってしまった。


「……」


 俺は顔を俯かせて、気づかれないように打ちひしがれた。ひどく滑稽な結末だ。


 目の前の彼女は、宝石が俺の理想から汲み出した幻想だ。元より本人と寸分違わない魔法使いを再現しようとしていたけれど、秘めた感情まではコントロールできない。

 どこまで鮮明に忠実に魔法使いをイメージしたって、そこには願望が入り込む。

 ――言ってしまえば。

 今なお魔法使いに抱く『恋慕』こそが、失敗の原因なのだった。


 魔法使いは、恋愛感情を持ち合わせていない。


 たしかに彼女は俺の理想だ。素晴らしい。良い完成度だ。

 でも決定的にズレている。話し方も雰囲気も一致していようが、彼女は彼女じゃない。それだけは紛れもない事実で、曲解の余地もない。

 全身から、力が抜けた。立っているのも難しかった。

 ニセモノでも強い存在感を放つ魔法使いに繋ぎ止めてもらわなければ、足から崩れ落ちていたかもしれない。

 そのとき。


「ハルマ」


 魔法使いが名前を呼んだ。

 その声が、記憶の彼女と結びついて仕方がない。あまりにも近い声音に、弾かれたように顔をあげてしまう。

 バカみたいにでかい帽子の下で、ニセモノは痛切な笑みを浮かべていた。自分の苦しみを共有するみたいな顔で、ぐしゃぐしゃな感情が見え隠れしていて……なおさら胸が痛む。そのうえ彼女の向こうの景色が透けてみえてしまえば、やはりショックは隠せない。

 一瞬だけ愛おしそうに、けれど苦々しい気配を覗かせて、魔法使いは隠すように顔を背けた。

 帽子のツバで目もとが隠れ、苦痛に堪えるような声を発する。


「本当に、心苦しい。けど、やっぱりあなただけなの。ホンモノの私を生き返らせることができるのは」

「そん、なの……わからないだろ」

「わかるわよ。私だから。世界で唯一の魔法使いだもの」

「その唯一の魔法使いが言ってたことなんだ。会えるのは『もう一度だけ』だって。それに君はニセモノだ。俺の願望にすぎない。失敗作だ。駄作だ。目も当てられない」

「相変わらず生意気ね。そのあなたが言うのだから、私には反論する余地もない。なんだか嬉しいけど、それ以上にもどかしいわ」


 眉根を寄せたところで。唐突に繋いでいた手が引っ張られた。

 つんのめった俺の腕に自身の腕を絡めて、魔法使いが囁く。


「だから、不完全な『私』なりに証明してあげる」


 頭にあたる大きい魔女帽子。その遥か彼方。

 灰色で包まれていた夜の天井が──霧散した。


「……!」


 散らされ、露わになった星々。

 俺は言葉を失い、目を見開いた。

 その光景は、時間も場所も違えど、記憶に刻まれた一枚だ。

 星の名前。星座の法則性。込められた逸話や伝承。どれをとっても詳しくない。いつかの夜は、望遠鏡まで用意したくせにロクに楽しめなくて、結局寝転がって話をするだけだった。

 名塚や弧寄さえも呆気に取られていたが、気にしている余裕なんてないくらいに、俺は目を奪われた。

 満天が、瞬き輝き地を見下ろす。

 浮かび上がっては消えていくガラスの残光、夜色に散りばめられたコントラストは、どうしようもなく彼女らしい魔法だ。

 地面に転がる破片の山も、時間が巻き戻るように窓枠へ帰っていく。もはやどんな仕組みなのかもわからないが、ただただ目を奪われる光景だ。露わになった月明かりに照らされて、優しい月光がキラキラと反射する。

 俺は吐息をこぼして見あげていた。


 ――かつての彼女は、魔法を『綺麗で残酷』と評した。


 たしかにそうなのだろう。事実、宝石に込められた奇跡は人の命を軽くした。無関係な人々の命を奪った。だが、今なら理解できる。

 綺麗なのは魔法であって魔法ではない。表出されるすべては使用者に左右される。

なら、やはり尊敬すべきは尖り帽子の彼女だ。残酷な本質を悟らせることなく、綺麗なモノとして映し出す。人生というキャンバスに筆を走らせる画家と相違ない。

 俺にとって彼女は、色彩そのものだ。


「よくきいて」


 魔法使いが紡ぐ。

 俺は目を離せないまま、声を聞く。


「私は魔女。ガラスの魔女」


 その言葉は、とても澄み渡っていた。


「あなたに賭ける。あなたを頼る。あなたのすべてを捉えてる」


 呪文ほど陰鬱さはない。かといって、おまじないほど優しくもない。


「遠慮なく告げて。躊躇なく否定して。際限なく私を求めて」


 表現のしようがない響き、胸を打ち、染みこんでいく。


「互いの距離に、一片の曇りも許さない」


 ガラスの魔女――魔法使い。俺は応えるよ。君が望むならいくらでも。


「大丈夫。他でもない私が保証する。必ずあなたは、ガラスの魔女を復活させる」


 目を閉じて、余韻に浸る。再度ひらいて、となりを見やった。

 星の輝きと一緒に、姿が薄れた。

 唱えられたソレは、与えられた時間を削って吐きだしたものだった。

 色を失い。

 濃さを失い。

 ついには声までもが掠れていく。

 泣きたくて、空を見あげた。

 透明さを増し輪郭の光だけになっても、魔法使いは俺に語りかけた。手の中の感覚がなくなっても、ずっと繋いでいた。そこにいなくなっても、傍らに寄り添い立っていた。

 君はニセモノだ。不完全だ。一見完璧にみえるが、からっぽで不確かな自分の願望でしかない。

 でも、俺にとっては君も魔法使い。悲しさはあるし虚しさがほとんどだけど、思い出させてくれたこの感動だけは、紛れもなくホンモノだ。


 夜の闇に溶けていく。

 最後に『なにか言わなければ』と口を開きかけるが、上手く言葉にできなかった。それなのに、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせる。

 ……月明かりの影法師が、独りに戻る。一時の幻はあるべき幻想へ還る。魔法使いを構成していた光の粒は、そよ風にさらわれ飛んでいった。


「は、ぁ――」


 抑えつけていた感情を、吐息と一緒に吐き出す。

 切望していた瞬間が過ぎ去っていく。余韻に飲み込まれていく。それが悔しくて哀しくて、胸を締め付ける。奥歯を噛みしめて耐えないと、魔法使いが死んだあの頃みたいに、自分が抜け殻になってしまいそうだった。

 それでも魔女は、呪いに俺を縫い付ける。逃がしはしないと背中を押す。ニセモノの流した雫の涙は、楔を打ち込んでいったようだ。

 ああ、懐かしいな、この感覚は。

 そうやって別れ際はいつも、高鳴りにも似た使命感を刻んでいくんだ。


 脳裏で――透明なペットボトルのサイダーを片手に、魔法使いが悪戯げに笑みを浮かべていた。


 痛々しくも大切な記憶が、立ち尽くす自分を突き動かした。縋る気持ちで屈んで、俺は欠片を摘む。

 手のひらの上で、宝石の破片を転がしてみた。不規則に割れているため、握り込めば血が滲むだろう。使用前に維持していた曲線美は、見る影もない。

 だが、水を思わせる美しさ自体は、未だ衰えるところを知らない。それどころか、僅かな明かりだけを頼りに不思議な魅力を放つ形になった。照りつける弱い光にも反応する。

 重さは軽く、宝石としての高級感はないけれど。どこか馴染み深さを覚えて、手放したくなくなる破片だ。


「……、」


 俺は単純だ。自分でも呆れてしまう。

 大きなものを失った。日々を生きる糧である彼女が遠のいてしまった。なのに、俺という人間は意地汚く、諦めという選択肢を捨てようとしている。

 これも、魔法使いの為せる技、なのかもしれない。

 ニセモノだろうと関係ない。彼女は尚も、俺の傍にいる。


 透き通るような魔法と呪い。

 魔法使いは夜空を背にして、ずっと記憶の肩を持っていた。

 背後霊。あるいは守護霊だろうか。

 彼女はきっと、俺を離してくれやしない。


「いつかまた。ガラスの魔女」


 届かない呟きだった。

 声は夜空に吸い込まれていって、すぐさま溶けた。

 宝石を模したガラスたちは砕け、魔法使いの遺産は終わりを迎えた。過去を思い出すだけの日々へと戻っていく。

 得られたものなんて些細だが、この一歩は新たな地面を踏み締めている。


 魔法使いに、サヨナラは必要ない。


 ひびの入る破片を通し、夜空を見上げる。

 漆黒を背負い、浮かぶ星の明かりを水色のヴェールが飾る。色相を紫紺へと近づける。


 長い時間を使って、俺は魔法使いと見つめあっていた。

 今夜は、月も星も綺麗だった。

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