4-3
学校の駐輪場には、二台の自転車が放置されていた。
敷地内に侵入するには、駐輪場よこの土手を上るのが手っ取り早く見つかりにくい。あたしはそっと周囲を見渡して、ゆっくりと這い上がった。
みたところ、校舎にも明かりは灯っていないようだった。残っているのも、恐らく事務室の警備員のみだろう。念のため、さっきまで点けていた懐中電灯は消しておく。そして、今朝黒板に描かれていた文言を思い出しつつ移動を開始した。
――『数字はいくつ? 今夜確かめましょう』。
場所と時間が指定されていないあたり、ひどく不親切な一文だった。
余計な人まで巻き込むから、という理解はできるが、こうしてやってくるとやはり不便である。
場所は……おそらく学校のどこか、という解釈で問題ないだろう。相手と共通して知っている場所といえばここ以外あり得ない。時間は『今夜』とだけ書かれていた。時刻でいうと午後八時から十二時、人によっては午前三時ごろの丑三つ時をイメージする場合もあるだろう。
でも、相手はおそらく学生である可能性が高い。生徒を狙う手口も、標的にする生徒の選び方も、大人の持つ用意周到さに欠けている気がした。
――勘ではあるが。
ともかく、同じ学生が相手ならば時間はかなり絞られる。
両親の目を盗み、教員の目を盗み、ひそかに決着をつけたいのだろう。人を化け物に変える誰かさんは。であれば、時刻は早すぎず遅すぎず。十時前後なら比較的邪魔される心配はなく、日付が変わるまえに帰宅することも現実的だ。
そう踏んで、あたしはこの時間に学校を訪れていた。
腕時計はちょっと早い午後九時五○分を示している。順応した視界に、薄ら針の蛍光色が浮かんでみえる。
先に怪しい人が来ていないか探すため、校舎の周囲を壁に沿って歩く。余計な邪魔となりそうな人物が残っていないかも確認するためにも、まずは状況の整理に乗り出した。あたしは必要以上に周囲に目配せをし、頻繁に背後を振り返りながら進む。窓を挟んで巡回とすれ違わないよう、足音を殺して。
犯人は現場にもどる、なんて有名なセリフがあるくらいだ。ふと、化け物が身を隠していた場所を巡ってみるのもひとつの手かもしれない。
そう思いついたあたしはしかし、すぐにその閃きを捨てた。
カマキリの化け物がいた体育倉庫は入れない。セミの化け物が潜んでいた用具庫は逆に危険だ。みどり先生がいた校舎の構造を利用した茂み……あそこは校舎の反対側で職員室の外を横切らなければたどり着けない。化け物を隠していた箇所は、相手が訪れた場所――なるほどたしかに、そこに行けばチョークの落書きを書いた主の顔を拝めるかもしれない。
だが、あまり気は進まない。例えば用具庫の周辺で待ち伏せするにしても、逆にみつかってしまう危険がつきまとう。
それの何がまずい?
言うまでもない。
自分の宝石はあと一回しか使えない。その限られた攻撃手段の有効な使い道といえば、不意打ちしか考えられない。ムダにしてはならない一手。違うことなく捉える必要性。さながら拳銃にこめられた一発の銃弾だ。
その上、相手が相手である。人を化け物にかえて支配する――もしも向こうの宝石の回数と自分の宝石の回数が同じでなかったとしたら? 相手の方が回数が多くて、消しきれてない何匹かを連れていたとしたら? 悪い想像は判断を慎重にさせる。あたしは過剰に臆病な決断をすることに決めた。
左手で、普段はさわりもしない校舎の壁をなぞる。歩きながら、注意を常に研ぎ澄ます。用具庫やみどり先生を消した物陰を避けて、脳内の地図を辿った。
校舎裏、非常階段。美術室まえのベランダ。生け垣に囲まれた駐車場。どこにも人の気配はない。校舎内にも外の敷地にも気になる箇所はなく、ときおり風に揺られた葉の摩擦音くらいのものだった。
冷え切った指先を握りしめ、改めて不気味さを感じ取る。
「……、」
化け物の排除に躍起になっていたときは、こんなに怯えることはなかった。深淵の深さから意図せず目をそらし、獲物ばかりを追いかけていたからだろう。
夜の学校は、まるで終末に残された廃校だ。
窓ガラスから中を覗きこめば、廊下は外と異なる闇に包まれている。息の詰まりそうな空気で満たされており、遠くに非常口特有の緑色の光だけが、頼りなく木目を照らしていた。
世の中の人類がいなくなったら、どんな大きい建物だろうと、これと同様の静けさに呑まれてしまうのだろう。そしてゆっくり、音をたてず、年月を経て劣化していくのだ。今の自分は、昼の光からも家庭の明かりからも、隔絶されている。数千年さきの校舎に放り込まれたかのような想像をしてしまい、身震いが襲う。
そんな恐怖を振り払い、あたしは宝石に意識をむけた。
チカラの象徴。正義の証。
あたしの世界に変革をもたらした、淡い色の一欠片。
触れている肌から伝わる、確かな灯火を感じて。自分という正義は、意思を強くしたのだった。
◇◇◇
しばらく歩いて、校舎には待ち人はいないだろう、という結論に至った。
時間にして十分ほど。
最後に訪れたのは、黒い海と見紛うばかりの広大なグラウンドだった。
「――、」
校舎裏の方からやってきたあたしは、そのあまりに昼間の姿からかけ離れた存在感に、息を呑んだ。グラウンドも、当然明かりがない。空の天然照明、月でさえも雲で覆われて頼りない。慣れた視界に映す真っ平らなその場所は、大口をあけて待ち受ける崖にも思えた。
無音。
ただ広いだけで、邪魔な木々は一本もないのだから当然ではある。今さっきまで歩いてきた敷地内には、どこかしらに木々や電線があって、夜風に呷られ不気味な声をあげていた。しかしここには、何もない。肌にあたる風も生ぬるく、さっきまでの落差が足をすくませる。
散々恐怖を煽っておいて、沈黙で誘うこの夜は、いよいよあたしを喰おうとしているのだ。そんなバカみたいな想像が胸中に渦巻いた。
そんなとき、不意に気づく。
暗い海――否、グラウンドの中心に、だれかがいた。
遠く、暗いためよくみえない。けれど、すぐにそいつが人間であることには気づいた。辛うじて掴める輪郭が、確かなヒトのカタチを描いていた。
ごくり、また喉が息を呑む。宝石をいつでも取り出せるよう握りしめ、あたしは近づいていった。
背後に残っていた木々の喧噪が、ぱたりと止む。離れていく。
グラウンドに踏み入ったあたしを、容赦なく静寂が襲う。靴が生み出す砂利の音を最大限押し殺して、背中を向けている影との距離を縮めていく。
比例して、どくん、どくんと逸る心臓。まだだ、と抑えつける冷静な殺意。決して相容れない仲のふたつが足並みを揃える。手汗を拭い、時間が急速に動き出すその瞬間を身構える。
「……?」
しかし、徐々にシルエットがみえてきたところで、あたしは眉をひそめた。
小柄な影は、どうやらイスに座っているようだ。こんなグラウンドのど真ん中で。とても普通と呼べる状況ではないが、ここまでくるとそれも些細で気にかけるほどのことではなかった。
問題は、周囲にイスがもうふたつ置かれていることだ。
向かい合う配置。その様はなにかの儀式を待つ異教徒を連想させた。
ますます疑問が思考を支配する。
あまりにも異様な光景に、冷や汗が浮かぶ。
歓迎するとでも言いたげな準備だ。こうして無防備に晒した背中を睨んでいると、「やれるものならやってみろ」と挑発されている気さえしてくる。
……事実、あたしは迷っていた。
ここまできて、待ち受けている人影があたしの標的か否かがわからなくなったのだ。
三つ。三つのイスが判断を鈍らせる。もしももうひとり宝石の持ち主がいるとしたら。ここにいる誰かは、あたしの『正義』の敵――人を化け物に変える狂人――だろうか? 考えてみれば、敵がひとりとは限らないじゃないか。
そんな風に迷っていると。
突然、人影がなんの前触れもなく振り向いた。
「っ!」
闇に慣れた目が捉える。
キツネのお面をした人物。予想外の顔で、ひゅ、と喉奥から悲鳴が漏れる。
後頭部にもうひとつの目でもついているのだろうか。警戒心を引き上げるあたしに向かって、彼はフランクな挨拶をした。
「や」
右手を掲げ、「よくきたね」みたいな調子で。
虚をつかれ、訳がわからなくなる。もとより現実なんてものは薄れて、奇跡にも悪夢にも似つかわしい非日常があたしを支配していた。
だが、今夜はことさらに。
――非現実的だった。
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