4-2

〈1〉→〈1〉


 夜の虫が鳴いていた。

 白く緑がかった街灯が公園内の道に沿って配置されていて、黒い海に丸い島々を形成している。光に羽虫が群がって飛んでいるのが、メガネ越しに確認できた。自分の座るブランコ周辺にそのような光源はなく、辺りは暗闇。足下も手元も満足に確認できないが、それが逆に落ち着きを与えてくれる。

 団地の間に設けられた、申し訳程度の遊具ゾーン。およそ公園とすら呼べない規模だが、ワタシにとっては、近所の数少ない密会場所だった。団地自体、済んでいる住人はほとんどいない。ひと目につく心配もほとんどない。夜闇に紛れてしまえば溶け込める。

 ワタシは考え事をしていた。キイ、キイと音を立てるブランコの、些細な軋みに若干の苛立ちを募らせながら。

 悩みのタネは、今朝の学校で起こった、ちょっとした珍事件だった。



◇◇◇



 ――『数字はいくつ? 今夜確かめましょう』。


 登校して最初に目に飛び込んできたのは、黒板に大きく添えられたチョークの一文だった。目にしたときは心臓を掴まれたみたいで、生きた心地がしなかった。

 しかし、被害に遭ったのはワタシのクラスだけではない。

 どの学年、どのクラスでも同じような落書きが残されていたようなのだ。その点でいえば、素性がバレてしまったわけではなさそうなので胸を撫で下ろした。

 一見、ただのイタズラ書きにみえる。事実、はやめに登校してきた生徒たちは口々に憶測を立てて、けれどまったく重要視していなかった。高校生ともなれば、日程にはかなりの確率で数学の授業が入り込む。単に数学といっても、一A、二Bなど複数科目存在するためだ。何も知らない生徒たちは、「友達が数学の答え合わせでもしてんのかな」「もうすぐ定期テストだもんね」なんて呑気なことを宣うばかり。

 だが、この文章は決してそんなどうでもいい内容ではない。

 紛れもなく、ソレは挑戦状だ。

 ずいぶん遠回しではあるが、それも仕方なかったのだろう。下手に直接的な書き方をすれば、余計な大人まで引っかけてしまう。場所を記していない理由も同様に違いない。

 であれば、共通するであろう場所などこの学校しかあり得ない。生意気な態度の女も、しつこく嗅ぎ回ってきた先生も見事に綺麗さっぱり消された。ということは、挑戦状を出したお相手もウチと同じ生徒ということになる。

 席へ着くワタシへ、さっそく余計な頼み事をしてくるクラスメイトがいた。


「委員長ぉ、あの落書き、消さなくていいんですか?」


 訊くくらいなら自分で消せばいいのに。そんな言葉を飲み込んで、ワタシはお利口なワタシとして快く引き受ける。教壇にあがって、黒板消しで一文を消している最中も、背後の教室では噂が平和混じりに飛び交っていた。


 時刻を示す『今夜』という文言は置いておいて、考えるべきは『数字』だった。席に戻ると、懐の宝石に触れて、今夜の動きについて作戦会議を始める。

 ――数字はいくつ? 今夜確かめましょう。

 目下、ワタシにとって警戒しなければならないのは、生み出した化け物を余さず刈り取っていく誰かさんだけだった。宝石を所有している人物がどれだけ周囲にいるのかは確かめようがない。ただひとつ確実なことは、ずっとワタシの邪魔をしている相手がいるということ。その誰かさんもおそらく宝石を所有している。でなければ、あの巨体を持つ化け物を綺麗さっぱり消すことなんて不可能だ。

 顔を知らない。

 名前も知らない。

 それでも、互いに互いを敵として認識している。面識がないからこそ、この挑戦状は件の相手からだと予想できた。仮にそうでなかったとすれば、そのときはそのときだ。対処を模索したところで仕方がなかった。

 もうひとつ考えるべきことは、『なぜこのタイミングだったのか』だ。

 自分の正体を突き止められないから痺れを切らした?

 使用回数が僅かだから焦って一騎打ちに持ち込んだ?

 可能性を挙げたらキリがない。今朝からずっと、ワタシは頭を悩ませていた。



◇◇◇



 時刻としては午後九時半を過ぎたところだ。学校へと赴くのであれば、そろそろ帰らなければ、家族にも怪しまれてしまう。さすがにここ数日みたいに「委員長のしごと」では騙しきれなくなってきている。

 優等生でお利口なワタシは、今後も必要なワタシの姿だ。


「……チッ」


 ぶつん、と遠くの外灯が消える。もともと怪しかった寿命が、ワタシの舌打ちに呼応するように切れた。

 それを合図に、自分のなかで方向性が定まる。

 ブランコから立ち上がり、ワタシは今しがた切れた明かりの方へと歩みを進めた。ゆっくり、ゆっくりと、踏みしめた雑草が折れ曲がる。

 罠かもしれない。そんなことは百も承知な挑戦状。

 だけど裏を返せば、煩わしい相手をひとり、手っ取り早く片付けられるかもしれないのだ。ここで排除できたならワタシには大きなアドバンテージが残るだろう。自由に邪魔されず、人を従えることができる。

 何にせよ。

 ここからは鬼が出るか蛇が出るか。強気にいくのであれば、用心するに越したことはないのだった。


「おい」


 公園の縁を囲うように盛り上がる茂みへ向かって、ワタシは呼んだ。

 おそるおそる、といった様子で出てきた二対の巨大な影に、殺虫スプレーを向ける。何本もの足で這うクモのイノウエくんと、角なしカブトムシのハルカちゃんである。


「今から学校行ってきて。残っている先生の人数と、生徒がいないか探しなさい。三○分後にいくから、プール側の裏口で教えて」


 クモとカブトムシが顔を見合わせる。トロい二人に苛立った。

 ちょっとだけズラしてスプレーを噴射してやれば、ふたりはビクリと身体を震わせる。


「さっきご褒美あげたよね?」


 颯爽と、ふたりは公園から抜けていった。

 ひとりはかさかさと這って、もうひとりは羽ばたいて飛んでいった。


「できるじゃん」


 ワタシは薄く笑って、掠れた月を見あげた。

 相変わらず天候は優れないけど、自分にとっては好都合。黒い身体のふたりを遠慮なく使うことができるのだから。

 雨雲の隙間から一瞬だけ覗いた月に、宝石を掲げてみる。

 透けて浮かぶ『1』の数字に目を細めて、ひとりごとがこぼれた。


「合計三回分。相手の子、ぜんぶ消せるのかなぁ」


 メガネを拭いながら、ワタシはゆっくり歩き出した。



◇◇◇


『1』→『1』


 夜の虫が鳴いていた。

 開け放たれた網戸の向こう、夏を先取りした音色が午後九時を奏でている。

 部屋の明かりは消し、代わりにスタンドライトの光だけを点けていた。そんな自室の中、勉強机に立てた鏡のまえで、鬱陶しい後ろ髪をまとめあげる。髪型がいつものごとく整うと、ヘアゴムから指を離して、傍らの宝石を手に取った。

 光に透かさずともわかる、刻まれた『1』。ここ最近の自分を奮い立たせ、正義の体現者に変えてくれた石の終わりが浮かび上がっていた。


 ――『数字はいくつ? 今夜確かめましょう』。


 この誘いは、渡りに船だった。

 残された宝石の使用回数は一回のみ。これ以上化け物を生み出されたら、対処できなくなってしまうところだった。

 使い道としての理想は、元を絶つこと――すなわち、人を化け物に変えるどこかの誰かを消すこと。そうすれば、例えあたしがうまくいかなくとも、警察とかそういった権力のある人が化け物を始末してくれるに違いない。もしかしたら、原因を潰せば元通りになる可能性だってあるのだ。

 ……正義のためとはいえ、生徒と先生を殺めたことには心を痛めた。望み通りの展開になってくれれば、自分も心が軽くなる。消した人たちの魂も報われるというもの。

 ともあれ。図らずも、勝てる可能性がもたらされたのは間違いなかった。

 正義たるもの、運を引き寄せる。父の仰っていたとおりだ。

 追い詰められようと、諦めてはならない。諦めなければ、きっと道が開かれる。悪には悪に相応しい最後を、正義には正義に相応しい救いを。世の中の摂理は、そういう風にできている。


 宝石をポケットにいれて、懐中電灯も持って。


「すぅ……はぁぁぁあああ……」


 最後に深く、深呼吸。スタンドライトを消して、目蓋を閉じる。闇にできるかぎり目を慣れさせた。

 あたしは正義を体現する。

 父の理想だけを受け継ぐのではなく、名塚かおり本人としての正義を示さなければ、本物の『正義の人』になどなれはしない。そのために、あたしはあたしの正義の志のもと、化け物を断罪する。平穏を乱す輩を殺してでも、乗り越える。そうでなければ、あたしの人生と努力がすべて価値のないものとなってしまう。


「よしっ」


 す、と視界を広げ、最後に宝石の存在だけを確認して。あたしは音を立てず、早くも寝静まった自宅をあとにした。



 月明かりは雲に遮られ、学校までの道は控えめに言っても明るくなかった。

 準備運動も兼ねて、いつもなら自転車で往く通学路を今日は足で駆ける。アスファルトは休日のジョギング時と同じ硬さなのに、心なしか柔らかく感じる。自分が緊張しているのだと自覚して、ペースの上がる鼓動を運動のせいにした。

 数分走って、数分歩いて。数分走って、また数分歩いて。日課と同様の配分で休憩を挟む。

 しかし、待ち受けているであろう相手のことも考慮して、学校にある程度近くなってきた時点で徒歩に切り替えた。

 駅まえを抜けて、学校まで一駅ぶんくらいの距離があった。時間も時間なゆえに人気の少ない道をいく。線路と平行して伸びる遊歩道を、ポケットの宝石を弄びながら歩いた。

 前方を見据えると、住宅街とは一風変わった、オレンジ色の外灯が並んでいる。

 自転車も夜の散歩を楽しむおじさんもいない。ぽっかりと空いた無人の時間を歩く人影は、どうやら自分だけのようだった。

 さらに歩調を緩める。

 こうして歩いていると、現在の自分を顧みてしまう。


 ――初恋は小学校のころだった。

 いつも一緒で、ちょっと弱気な幼馴染みの子。家が近いこともあって、学校でも、学校から帰るときでも、帰ったあとでも、基本的に遊んで過ごしているくらい仲が良かった。クラスの女子にからかわれることもあったが、まんざらでもない思いだった。

 恋心を抱くのは時間の問題だっただろう。誰からみても、どちらかが惹かれるのは予想できたに違いない。

 あたしの初告白は、思いつきみたいな流れだった。特にこれといったきっかけはなく。いつもみたくあの子の家で、飽きもせず同じゲームを繰り返していた拍子に、ぽそりと本心を告げたのだった。

 返事は「ごめん」だった。

 そういう風には見れないと、追い打ちもかけられた。初恋の仕打ちとしては、塞ぎ込むに十分な理由だ。それ以来、あたしと彼は疎遠になっていった。

 そんなとき。

 勉強にも遊びにも熱が入らず、半ば無気力になっていたあたしに向かって、父は言ったのだ。


「お前が情けないからだ」


 最初こそなにを言っているんだ、と思ったものの。その日を境に頻繁に理想を語って聞かせる父によって、あたしの価値観は歪んでいった。……否、矯正されていった、が正確な表現だろう。

 生活における作法とか習慣とかを指摘されたわけじゃない。物理的な厳しさは一切なかった。ただ、考え方の根っこの部分を「これは正しいからこう」「これは悪いからだめ」と教えられていく。食卓で点けられたテレビは耳に入らず、有り難い教育の時間となっていた。

 母は母で、父の指導に傾倒するばかり。正直いって芯がない。まだ小学生の自分に反抗する勇気もない。そんな家庭だからか、いつしか『正義』という聞こえの良い単語が、ウチの家訓みたくなってしまっていた。

 ……あたしは、これでも反抗心が強かったのだと思う。父を敵にまわすのが怖かっただけで。だから、押しつけられた『正義』という抽象的で堅苦しい教えにも、一から十まで賛同することはなかった。心の片隅で、染まるものかと抗うちっぽけな自分がいた。

 結果的に。

 あたしは中学三年のころから、自分だけの価値観を求めるようになる。

 どれだけ尊大に正義を語ろうとも、それは理想論だ。偉そうに言い聞かせていても、それらすべてが正しいわけじゃない。父も、母も。極論、彼らが口にするのはエゴでしかない。

 精神的に成長した自分の考えは、変化を遂げる。

 一色に染まるくらいなら。あたしはあたしらしい正義をみつけてみせる。両親の理想像なんて二の次、最終的に信じられるのは自身だけなのだと、ふとした瞬間に思い至ったのだった。


 ――今の自分は、『正義』だろうか?

 足を運びながらの自問自答。明確な答えなどないはずの問いかけを、緊張を紛らわすために投げかける。そして、あの日独り立ちしようと決意した自分は返答を返す。


「きっと、正義たり得る」


 宝石が、最後の輝きを待ち遠しいとばかりに震える。

 どく、どくと脈打つ緊張感に呼応して、名塚かおりとしての人生がひとつの転機を迎えようとしている。

 未だに晴れない不気味な空が、漠然とした予感を伝えていた。

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