四章 約束は離さない。
4-1
空は未だに曇っていて、灰色に覆われていた。
「なあ、知ってるか。実はこの学校、日中に屋上へ出ても案外バレないんだよ」
扉から屋上へと踏み入った俺は、ついてくる情報屋にそう言った。
「知らねェな。普通は誰かしら気づきそうだが」
「晴れの日限定って条件だよ」
「今日はあいにくの天気だってのがわかんねえか?」
外側の柵に近づき、地上を睨む。午前授業となったため、生徒の群れが昇降口から街の方へと流れ出ていくのがみえた。
念のため柵から離れ、ちょうど目に付いた貯水タンクへ背を預ける。そして軽く屋上全体を見渡して、嘆息した。
中学のころと比較すると、この高校の屋上はそれなりに年数が経っていて、劣化が激しかった。深緑の足下がところどころ剥げていて、その上この天候ともなれば、大人の目を盗んで使う生徒もいない。俺も例に漏れず、ここへ立ち入ったのは初めてだったりする。
柄にもなく真剣な表情の情報屋に、本題を切り出した。
「本当に、いいのか?」
「いい」
主語を語らずとも、情報屋は頷いた。
その目に映るのは、いったい誰の面影だろうか。探るまでもなく、彼女に違いない。今の彼は、なにか一矢報いなければ気が済まないというような、沸々とした怒りに似た空気を醸し出していた。
返答は受け取った。しかしそれでも尚、俺は訊き返す。
「最初に言ってたじゃないか。『巻き込むな』って」
「事情が変わった。てめぇなら理解してくれると踏んでここまで付いてきたんだが?」
「まあ、そうなんだろうけどさ。……実はこっちも切羽詰まってて、手伝ってくれるっていうのならありがたいよ」
「そりゃあ目的の一致ってやつだなぁ! ならいいじゃねえか」
オレも混ぜろとばかりに言う彼へ、視線をむける。いつにも増して真剣に、声を低めて教える。
「最悪、死ぬかもしれないんだぞ」
その一言を突きつけると、一瞬だけ情報屋の顔が強張る。
きっと、脳裏にはみどり先生の死の瞬間がフラッシュバックしていることだろう。こっちも焼き付いて離れない光景なのだから当然だ。この件に関われば、あの先生の立場になってしまう可能性はゼロではない。魔法の介在する事象へ手を出すということは、すなわち『死』も他人事では済まなくなる、ということだ。
名塚かおりを巡って話していた俺たちとは、もう立場が違う。見えているものも直面しているモノも。軽い気持ちで向き合うのはよろしくない。
だが、情報屋を見くびっていたようだ。
「上等だ」
試すつもりで投げかけた確認を、不敵な笑みで返されてしまった。
きっと恐怖があった。躊躇もあった。だけどそれは関わらない理由にはならなかったらしい。自ら踏み込むことを決断したという意味では、俺と同じわけだ。普段は恋愛相談なんかを繰り広げて、人間関係を商人みたいに吟味して、飄々と生きているくせに、先生の死をここまで真剣に考えるのは意外だった。もしかしたら、自分の価値観に通ずるものがあるのかもしれない。
思わず、こちらも苦笑してしまう。
彼のわかりにくい覚悟をみて、妙な親近感を覚えてしまった。
そんな自身を振り払うつもりで、俺はおもむろにグラウンドの方角を指差した。
「あ? なんだよ」
「協力、してくれるんだろ。今日の夜にここで落ち合おう。保健室は開けておいてもらうから、そこから入れ」
「それが協力? 何をすればいいんだよ」
「さあ。夜景の撮影とかじゃない? 携帯さえあれば問題ない」
よほど胡散くさい言動だったのだろう。情報屋がケッ、とポケットへ手を突っ込んだ。意気揚々と復讐心に燃えていたけれど、なんてことない頼み事で拍子抜けしたかに見えた。
柵まで歩いて、下を一瞥する情報屋。振り返ると、肩をすくめてこぼす。
「それがオレの仕事ってこったろ。わかったわかった」
「ありがとう」
情報屋が腕時計に目を落とす。
「……今夜、なんだな」
俺は首肯して説明する。
「すでに、生徒が行方をくらましている現状に気づいた生徒は多いんだろう? 友人が一人二人と消えていれば、そりゃあ当然の帰結。潮時だよ。後に残す違和感を出来る限り拭うためにも、すぐ動いた方がいい。後になればなるほど、俺たちも動きにくくなるから」
「時すでに遅し、って可能性は?」
「大丈夫。幸い、学校のお偉いさんは大きな騒ぎにしたくないらしい。未だに生徒たちへ詳細を伝えるつもりは無さそうだ」
「半日授業になって、そのうち休校になって……それから事実が日の目を見る。そんなとこかねぇ」
そうだな、と答えながら、頭の中で計画をなぞった。
すでに準備はできている。情報屋にも保健室の先生にも、話は通してある。
あとは、宝石を持つ者が乗ってくるかどうかだ。
「じゃ、俺は一度帰るからな。詳細はスマホに送れよ。いちいち会うのも面倒だからな」
そう残し、情報屋は屋上から去っていった。白く重みを感じさせる扉が、閉まった拍子に音を立てる。
それを皮切りに、取り残された屋上に静けさが訪れた。ちょっとだけ中学の屋上に近づいた気がして、心が落ち着く。
空を仰ぐ。
変わらず白に黒を混ぜたグレーの色を。
二年前とは場所も時間も異なる。視界に写せるのは流れる雲の海だけで、そこには太陽も飛行機の足あとも、無数の星々だって当然ない。
この学校の屋上は荒れているから、望遠鏡を置くのだって一苦労しそうだ。魔法使いがいたら、「なによこれ」とイライラしそうなくらいには。
すでに死んでいる彼女の表情が思い起こされて、ひとりでに口元を綻ばせてしまう。
もうかれこれ二年間、こうやって過去に思いを馳せてきたことになる。お陰で、今でも魔法使いの顔と声を覚えている。そういう意味では、ずっとこの日のために備えてきたと言っても過言ではない。
我ながら、気持ちの悪いことだけど。毎朝早くに登校して、誰もいない教室で過ごす理由を妹に知られたら、本気で嫌われるかもしれない。
「はぁ……もうすぐ、終わるのか」
ぼそりと口にした言葉が、風にさらわれていく。
時を待って、動くのみ。それですべてが終わりを迎える。二年間の、すべてが。
俺は踏み出すことを選んだ。二年間縋ってきた瞬間を捨てることを選んだ。思い出に閉じこもっているだけでなく、真実として受け入れるために。
その選択は、前を向いて生きるための希望を自ら手放すことと同義だ。今まで辛うじて繋ぎ止めていた生きる理由を、失うことに他ならない。もしも彼女がここにいたら、何て言うだろう?
ドライな性格を繕って、あっさりとした受け答えで流す気がする。
複雑な表情で、いつもみたく「ごめんね」とこぼす気もする。
どちらにせよ、俺のなかの魔法使いはひどく不完全なことはわかる。どうしようもない欠落で、どこまでいっても想像の内。どんな受け答えも魔法使いらしさを持っているから、完璧な再現なんてタイムスリップして訊かないかぎりは不可能だ。
「まったくもって、シスターの言っていたことは正しい」
独り言。
屋上に相槌を打ってくれる相手はいない。
徐々に夏の気配を増してくる風を感じながら、俺は蒼矢サイダーを開封した。
カシュッと空気の抜けた音が爽快で、一口傾ければ、変わらぬ透明さがあの日を思い起こさせた。形容しがたい複雑な感情が、すこしだけ紛れる。
今は昼だけど。天体観測に連れ出されたあの夜も、こうして屋上で炭酸を味わったのを覚えている。まるで辿るように舌で刺激を味わってみれば、魔法使いとの思い出を補強してくれる。
正直、毎日のように飲むほど好きな味――というわけでもなかった。それでもこうして律儀に飲み続けるのは、掠れていく面影に色彩を付け足していくためだ。こうやってひとりきりで、思い出に浸りながら飲んでいる間は、鮮明に彼女との時間を想起できる。
死者の真似事なんて不謹慎だと、他人はいい顔をしないだろう。そんなことは火をみるより明らかだ。
だけど、シスターも木陰も、あれほど忘れてほしそうにしている妹でさえも、理解を示してくれている。とても優しい友人だ。誇らしい家族だ。幸福な環境だ。人付き合いが得意でない自分にとって、頼れる相手の有無は人生を大きく左右する。およそ孤独という一言で説明できてしまう人生において、今みたいにそれなりに充実した日々は文字通り恵まれている。
足りないのは、いつだって君だけだ。
俺の人生に色を塗り上げて、世間を見つめる角度を変えてくれた魔法使いだけが欠落している。不足しているんだ。
神さまってヤツがいるのなら、彼女の人生をやり直させろと要求したい。代わりに自分の人生が半分になってもいいから、と懇願したい。叶わない願いながらも、もし聞き届けられるならば、きっと自分はすべてを投げ出してでも犠牲者に立候補したと思う。
「っ、ぷはっ」
炭酸を流し込んだペットボトルから、口を離す。
今日はいつもより胸がざわざわする。誰もいないことをいいことに愚痴ばかりが浮かぶのも、その所為だろう。
もうすこし。
もうすこしで、俺は二年間の集大成に終止符を打つ。待ち望んだ瞬間を迎える。そして運命を相手取り、きっと希望を喪うのだ。
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