3-6

 水曜日。

 夕方から雨が降り出した。


 蝶の姿へ変えられたみどり先生の死を目の当たりにしたのが一昨日。

 当然みどり先生はホームルームに現れず、代わりに保健室の先生が連絡事項の確認を行った。その際、今日を最後に授業は午前だけになるという旨が告げられ、生徒たちは不安と喜びの入り交じった反応をしていた。どいつもこいつも、何にも知らないまま平然と受け入れていた。

 対する俺はというと、喜ぶ気にもなれなかったし、不安に怯えることもできなかった。そんな暇はなかった。精神的にも、体力的にも。準備をすることがいくつかあって、考えることも尽きなかった。

 気温はそんなに高くない。寒い春の終わりを予感させ、暑すぎず、寒すぎずを保っている。すこしじめじめしていることに目を瞑れば、比較的過ごしやすい一日だったといえよう。

 俺が冷静に物事を考えられたのは、きっとこの曇天のおかげだ。


「行ってくる」

「……十一時までには戻ってきてよ、お兄ぃ」

「わかってるよ」


 午後十時過ぎ。

 相変わらず心配性な妹に微笑みかけて、傘を広げる。そして、水たまりを避けながら、通学する方角とは反対へと歩き出した。

 傘に雫が跳ね、絶え間なく音が降り注ぐ。道路の脇を流れる小川は、雨によってできたもの。それなりの降水量で、ニュースはあと数日続くと報じていた。傘の奏でる音色が、思考をクリアにしていく。冷静に、間接的に、頭を冷やしていく。

 ぽつん、ぽつんと並ぶ明かりの下、俺はいつぞやの公園すらも通り過ぎ、やがてなだらかな坂道にさしかかった。

 足下の黒を視線がすべる。

 傘で防げない靴とズボンの裾が濡れている。だけど、正直そんなことがどうでもいいくらいに俺は物思いに耽っていた。

 歩くことは気持ちを落ち着けるという意味では有効なのだと、どこかの本で読んだ気がする。あるいはSNSで流れてきた記事だっただろうか。なるほど確かに、歩く行為は冷静になるという意味では適切なアプローチかもしれない。自分の置かれた状況、使命、後悔――整理しなければならない事柄が自然と浮かんできて、それらに優先順位を付け始める。

 これは現実的な選択だ。

 これは現実的な選択じゃない。

 自問自答を繰り返し、身の振り方を決めなければ。そんなここ数日の焦りも一度遠ざけて、今はしっかり向き合うことができていた。

 顔をあげて、俺は目を細めた。

 なだらかな上り坂の先。すこしだけ上げた傘の縁、オレンジ色の明かりが灯される教会がみえた。それほど大きいというわけでもない。とりわけ目立っているということもない。住宅の密集したなかに溶け込んだ、こぢんまりとした教会だ。昼であれば人々は見向きもしないだろうし、夜だとしてもそこまで気にならない外観。しかし、道路に面した柵にかかるランタンが、今は特別な目印に思えてならない。

 あの頃から、この教会は変わっていない。夜に赴く教会はいつだって無機質な住宅街に浮かび上がるようで、視界に入った途端に視線を引きつける。こと用事があってやってきたとなれば、尚更手招きしているみたいに感じられる。

 このなだらかな坂の上に教会があるのは、訪ねる者の悩みを、この坂道を歩かせることで整理させようとしているんじゃないか? なんてことを、俺は約二年ぶりに考えた。

 教会の真正面までやってくると、ランタンの火を一瞥した。それから柵をキイ、と開けて身体を滑り込ませると、石畳みの小道を進み、背丈を越える高さの扉をノックする。

 ほどなくして、中から見知った顔が扉を開けてくれた。


「――入りなよ。雨、大変だったでしょ?」


 木陰は驚きもせず、むしろ待っていた風に微笑んだ。

 誘われるがまま、中へ入る。傘立てへ傘を放り込む。


「はい、タオル。そろそろ来るころだと思ってたよ」

「学校をサボっているヤツが言う言葉じゃないな、木陰」

「開口一番ツレないんだから、君は」


 タオルで軽く足首付近を拭く。

 小さいホールになっているそこは、教会にとっての玄関みたいなものだった。といっても、礼拝堂との間に壁や扉があるというわけでもないため、入ってしまえば真っ先に視界が広がる。礼拝堂の奥にあるよくわからない像も、その先に並んだ大きい三枚のステンドグラスも、一目で見渡せてしまう。

 夜を背景にしたステンドグラスは、とても静かだった。赤、青、黄、緑――様々な色合いで構成される、精巧なつくりの芸術。高い天井にも届くほどの規模で、細長い枠からそれぞれが異なる存在感を放っていた。右側の一枚は窓枠が真新しいが、理由をわざわざ追求する気にはならない。

 対して、礼拝堂の側面は白を基調とした清潔感のある内装だった。高い天井につり下がる照明はなく、代わりに壁に穴が設けられ、そこから暖かなキャンドルの光が建物内を照らしていた。音楽などといった余計なものはなく、屋根に叩きつける雨音が反響している。久方ぶりにくる教会はそれなりの雰囲気で、かつこの天気ともなれば多少は怖じ気づくというもの。しかし、傍らにいる友人のお陰か緊張はしていなかった。

 木陰は会話も少なめに済まして、ウインクした。そして何も訊かず、傍の長イスに腰掛けて本を開いた。風景画の画集のようだ。彼の過ごし方は、ここでも変わり映えしないらしい。俺はそのなんでもなさそうな横顔に安堵を覚えつつ、前を見据えた。

 二メートルほどの白い像。そしてその先で見下ろすステンドグラス。跪き、祈りを捧げている女性に近づき、俺は声をかけようとした。しかし、それよりも先に女性の方が空気を震わせる。


「眠れませんか」


 繊細。鈴の音のような声量なのに、不思議と耳に入ってくる高さだった。

 眠れない――言われてみればそうかもしれない。特に最近は考え事が多いから。いや、それは言い訳か。きっと俺は、単に眠りたくないのだと思う。胸の奥の色褪せない願いは、とんでもなく自分を焦らせる。一日が過ぎていくことは耐え難い。残り何日間残されているのかを考えて、不安に駆られてしまう。

 まぁ、たとえ彼女に見透かされていたとしても、強がってしまうのが自分の面倒なところではあるが。


「俺が寝床に入るのは、もう少し時間が経ってからだよ。シスター」

「ふふ、そうでしたね。懐かしい」


 強がりをくすりと笑って、修道服の女性は振り返った。整った顔立ちに色白の肌、外国人の血が混じった証であろう、流れるように金の混じりの髪が覗いていた。


「お久しぶりですね、三上春間さん。こんばんは」

「昔みたいに三上だけでいいよ。こんばんは」


 恭しく頭を下げるシスターに、こちらも頭を下げて挨拶する。

 どうぞ、と促され、二列の長イス――その先頭に座る。像から真っ直ぐに伸びる通路を挟む形で、俺とシスターは腰を落ち着けた。

 視線をあげれば、色鮮やかなステンドグラスが視界いっぱいに広がる。今は夜中で雨も降っているため、日中と比較し神々しさはない。だけど、これはこれで表現しにくい神秘性があった。

 シスターは穏やかな口調で問う。


「今日は、何をお聞きになりたいのですか?」


 俺はすこしだけ考えて、一拍挟んでから切り出した。


「シスターは『1』という数字について、何を思い浮かべる?」

「『1』ですか。そうですね……金メダル、残りひとつのキャンディー、子どもが迎える初めての誕生日。あるいはこうして夜半に訪ねてくる、物好きの人数でしょうか」


 しかしそこまで答えていながら、シスターは「ですが」と首を振った。


「あなたともあろう方が、他人の替わりにもならない答えを求めるのですか?」

「……」


 言い返さず、俺はじっとステンドグラスを見あげていた。

 視界の端で話す向こうも、こちらに視線を気にする気配はない。やはりこの人にはお見通しらしい。


「私にあの人の替わりは務まりませんよ。そこにいらっしゃる木陰さんだってそう」

「わかっているよ」

「ええ、わかっているでしょうね。十中八九。危惧する必要もなく。なので、これはあくまで、私たちだけの確認事項みたいなものです」


 俺は苦笑をこぼした。『替わりは務まらない』――まったくだ、と心の中で自嘲した。

 だが。

 それでも、俺はここへ来なければならなかった。

 覚悟などという聞こえの良いものではないが。これでも吹っ切れたつもりだ。何もかも全てをひとりでこなしてこそ意味がある――それこそが魔法使いと交わした約束の真髄だ。誓ったすべてだ。他人の入る余地なんてないくらい、俺の為すべきことは決まっている。

 だけど、そんなプライドなんかよりも、今は願望を優先したい。こと『魔法使い』に関わるとなると、俺はなりふり構っていられない。


「――、」


 膝の上で、ぎゅ、と手のひらを握る。焼き付いた光景をフラッシュバックするスイッチみたいだった。

 人を、見殺しにした。

 みどり先生と俺の間には、取り立てて語れるような素晴らしいエピソードなんてない。だがこれでも、大人として尊敬はしていた相手だ。

 そんな人を救える立場にいながら、俺は見殺しにしてまで、選びとったのだ。


 ――魔法使いを生き返らせる選択を。


 確率の低い賭け、人の命を見逃してまで求める価値があるのか? 情報屋にはそんな風に責められた気分だった。それでも、俺は諦めきれない。人生において、後にも先にもあの女の子を越えるモノは存在しない。

 埋めてくれたもの。

 取り去ってくれたもの。

 数えればキリがない数々の思い出が、いつだって付いて離れない。呪いにも祝福にも例えることができるだろうあの影は、折れそうな自分をいつだって奮い立たせてくれる。目蓋を閉じれば、あの日の情景が浮かぶくらいに。なればこそ、後戻りはせず、ただ前に進むしか残された道はない。

 俺はごそごそと、懐からあの宝石を取り出した。


「これ、わかるだろ」


 水を閉じ込めたような色彩に、炎の光が揺れて反射する。

 ソレを目にした途端、シスターは顔色を変えた。目を見開いて、すべてを察したと同時に、冷静に振る舞う。


「……なるほど。あなたは、やはり一途ですね。彼女が羨ましい」


 そして、ぽつりとそんな感想を口走った。

 俺は自分の感情を認めた。


「ああ。俺は求めるよ。誰でもない彼女自身を。これまでも、これからも」


 心の奥に、すとんと何かが落ち着く。もったいぶって使わなかったひとつのピースを、ようやく正しく嵌めることができたような感覚だ。

 俺はさながら懺悔でもするかのように、彼女に対する想いを吐露していた。

 今まで見守ってきたとでも言いたげな表情でシスターが微笑む。すこしだけ嬉しそうに。

 それを横目に、俺はここを訪ねた理由へと話を繋げた。


「だけど、俺は魔法使いにはなれない人間だ」

「ええ。でしょうね」

「ただの一般人である俺にとって、できることなんて限られているんだ。そも、魔法使いは世に一人しか存在できない。つまりそれ以外は全くと言っていいほど縁がない存在で、この宝石を持っていたとしても――いや、この宝石があるからこそ、無力だ」

「ふむ。して、その限られた『できること』とは?」


 意図せず、笑みがこぼれた。自嘲でも何でもなく、無知な彼女を下にみるでもなく。


「精々、本物と遜色ない、髪の毛一本をとっても同一で、完璧な彼女を夢想するくらい。それがチカラのない自分にできるすべてさ」


 シスターは黙って耳を傾けていた。

 横顔から感情は読み取れない。


「魔法使いを蘇らせるためならなんだってする。世話になった先生を見殺しにできる。他人の激情も涼しく流すことができる。こうして知り合いの記憶を頼りにだってする。家族の期待と安寧を裏切ることだっていとわない」


 それで彼女が戻ってくるのなら、俺は喜んで人生を捧げよう。

 存在が忘れ去られていたとしても些末な問題だ。後ろめたさも永遠ではない痛みだ。魔法使いがとなりに居てくれるなら、すべてを投げ出す価値がある。誰にも理解されない、独りよがりばかりで理解されないとしても、貫き通した先に彼女がいるなら価値がある。


「だから」


 だから、俺は欲しい。

 自分だけでは埋められないものを得るために、俺はここへ二年ぶりに足を運んでいた。ただでさえ低い賭けに、勝つために。

 俺は身をよじって、頭を下げた。

 ちいさく、「まぁ」と驚く声が頭上から降ってきた。


「君の知る魔法使いのことを、教えて欲しい」


 こんな風に頼み込むのは、みっともないと思う。個人的にはとんでもなく情けない自分だと思う。

 だけどそんな羞恥さえも、結果をあげるためなら受け入れよう。

 なじられたっていい。

 軽蔑されてもいい。

 彼女のまえで大仰に立てた誓いを、独りでは果たせない。そんな自分を笑ってくれて構わない。俺の知らない魔法使いを知りたい。俺の知っている魔法使いをより鮮明に思い出したい。

 でなければ、彼女は復活できないから。

 生き返ることができないから。

 もう、話すことも。

 触れることも。

 同じ夜空の星を眺めることも。


 綺麗な床を眺めながら、言葉を待った。

 返答がこない数分に、この教会は広すぎる。雨に包まれたことで、より音はくぐもっている。互いの沈黙は木陰の存在を忘れさせるくらいには静寂を生んだ。


「あなたは――」


 やがて、シスターの穏やかな――けれど感情の込められた声が降った。

 顔をあげると、シスターは物憂げな顔で、視線をさげていた。すこしさきの床へと注がれている。


「あなたは、貴方の中の魔女を完全にしたいのですね?」

「……そうだよ。かつての姿形と寸分違わず、彼女を創りたい」


 俺の知る魔法使い。

 記憶という宝箱に仕舞い込まれた、短く長い、三年間の女の子。

 想像の彼女を完全に、完璧に完成させなければ、生き返らせることなんて到底不可能――それが俺のまえに立ち塞がる壁だった。


「そのために、俺は君の記憶が――」

「無理ですよ」


 苦しげに、きっぱりとシスターが告げる。

 その様相に、俺は驚いて口をつぐんだ。

 無理難題を押しつけられて、突っぱねるみたいな態度だった。さっきまでの、聖職者としての振る舞いはナリを潜めている。二年前にも持ち合わせていた、現実を考慮した上での回答だ。

 思わず眉をひそめる俺に対して、シスターは続けた。


「あなたの言っていることは無茶苦茶です。それこそ星をつかもうとしているようなものです」

「……」

「想像の人物を、生前と同じ生き物としてイメージする……? できるわけがありません。どこまでいっても貴方の中の『魔女』は記憶であって、妄想でしかありません。それなのに、あなたの言う『完全な魔女』は、予想外の言動も思考も持ち合わせたひとりの人間ということなのでしょう? 狂っています。破綻しています。あなたも魔女も。モナリザの本当の姿を再現すると言っているようなものです。誰にも理解らない姿を知れたなら、それこそあなたは人智を越えた存在そのものです」


 かつてないほど、シスターはまくし立てた。冷静に、言い聞かせるように、つらつらと現実を述べた。およそ不可能な手段を求める俺を突き放した。

 そのどれもが、正しい言葉だった。

 耳に痛い話だ。

 こうなることは八割方予想どおりの展開で、だけど不思議とダメージは小さい。ショックを受けることはない。

 それはひとえに――、


「自分でも理解されているのですよね? 手段自体は成功しても、得られる結果は成功しない。絶対にしない。つまり――失敗することを」

「……ご明察」


 俺だって気が狂っているわけじゃない。

 不可能なことは誰よりも思い知っている。魔法を使ったことはないけれど、魔法をみたことなら誰よりも多いと自負している。それだけに、途方もない難易度だと肌でわかる。

 人を生き返らせること。

 世の中では、禁忌とされる行為だ。道徳的ではない、という理由で。なるほど確かに理に適っている。しかるべき死を経て喪った命を強引に引き戻すなんて、とても正気じゃいられない。蘇らせる側も、蘇る側も。人間として道を外れてしまう。

 だが、それはで死んだ場合の話――のはずだ。

 事故だとか病気だとか、納得できない死はたくさんあるだろう。でもそのどれもが人間らしい結末に収まっていて、縁者たちは「哀しいけれど仕方ない」と受け入れていく。そうして別れを強さに変えていく。前へ進んでいく。

 じゃあ、魔法使いはどうなんだ?

 魔女である彼女の死は、果たして『ちゃんとした理由』あっての死なのだろうか? どうあれ仕方ない、などと決めつけてしまっていいのか? 取り残された俺はどうすればいい? 別れに納得もできず、前向きになんてなれるのか?


 魔法を使うものは、高校進学を待たずして死ぬ運命にある。


 彼女が語った、いわゆる『魔女の寿命』は、呪いみたいなものだった。

 魔女として選ばれたもの全員に発現する。治らない癌と同義だ。それのどこが『ちゃんとした理由』だ。まったく人間らしくない結末だ。神の暇つぶしの犠牲になったようなものだ。物心ついたときから魔法というプレゼントを押しつけられて、代わりに寿命を数年に縮められるあいつの死を、俺は「仕方ない」で片付けられない。


「シスター、俺は、」


 決意は揺らぐことはない。この記憶と想いがあるかぎり。

 なぜかって、俺は魔法使いを喪ったときから、ずっとずっと、認められずにいたんだから。不可能だからなんて理由はもはや通用しない。

 しかし、シスターは遮る。


「私はッ!」


 感情的な迫力だった。

 聖職者らしからぬ語気で、彼女は彼女自身の言葉を連ねる。


「私は、私として――あなたの傷つくところをみたくないっ。またあの頃みたいに、彼女を喪った絶望で、生きたまま死んでいるような貴方を見るのは辛い。あなたの傷心は私の傷心なんですよ! 繰り返されようとしているそれを……それを見過ごせというのですか!」

「ああ」


 それらすべてを聞き届けて、俺は答えていく。


「行き着く先は絶望なのだとわかっているのに、やるつもりなのですかっ」

「ああ」

「結局手元に残るものなんて何もなく、ただ精神的に追い詰められるだけなのにやるのですかっ」

「ああ」

「どうしてもっ……どうしても、諦めてはくれないのですか」

「ああ」


 ずっと頭にあったことだ。何年もまえから進むべき方向が決まっていた岐路だ。ここに正解はなく、どちらも幾らかマシなだけの不正解でしかない。だけど、どちらもハズレならば俺は挑むことを選ぶだろう。

 例え、かつて魔法使いにとって友人だったシスターに否定されたとしても、やめるつもりはない。

 例え、今まで生きる希望だったモノを捨てることになったとしても、やめるつもりはない。


「止めても無駄なんだ。意思を曲げるつもりはない。非人道的だと罵るのも結構。なんと思われようと関係ない。彼女を生き返らせるために、俺は人生を消費すると決めているから。この宝石を手にとったそのときから、塞ぎ込むのはもうやめたんだ。それに――ダメだとわかっていても、誰だって手は伸ばしたいだろ。夜空の星にだって、届くかもしれないと夢を語るだろ。教会に身を置く君がそれを否定できるのか」

「――っ、ですが、」


 悔しげに、シスターが口ごもる。

 なにかを言おうとして、言葉が見つからないようだった。言いかけては声がしぼんでいき、「ですが、」という単語が掠れていった。ついには俯いて、肩から脱力してしまう。


「何度でも、同じ答えを告げるよ。俺のことを気遣っての説得だとしても」

「…………」


 約束したことなんだ。

 魔法使いと。

 俺以外は知らない、ふたりだけの約束だ。結末がどうであろうと、俺は必ず、魔法使いを迎えにいかなければならない立場なんだ。

 不可能。できるわけがない。シスターも俺も重々承知の上だ。無論、魔法使い自身であっても。

 それでも、と俺は奮い立つ。宝石が伝える、魔法使いの面影を信じている。

 シスターが協力できないというのなら、それこそ仕方のないことだ。俺は俺で、この道を突き進もう。自分の中で完結させよう。


「俺は、ひとりでも抗うよ」


 シスターは、消沈したように言葉を失っていた。どうあっても説得できない自分に、無力感を覚えている。自分もかつて同じ無力感に襲われた身だ、よくわかる。相手はもう生きていないけど。

 その様子になんだか申し訳なくなって、俺は腰をあげた。


「夜遅くにごめん。今度くるときは事前に伝えてくる。お邪魔しました」


 礼儀として、頭をさげておいた。それから踵を返し、出入り口へと引き返していく。自分のゆっくりな足音が、通路のカーペットに音を立てた。

 雨は相変わらず屋根を叩いていた。

 木陰はいつもみたく絵を描いていた。


「あのっ」

「ん」


 背中ごしに呼び止められ、振り返る。シスターがイスから立ち上がって、こちらを見ていた。

 逡巡しながらも、口をひらく。


「えっと、私の知ってる魔女――あの子の思い出。残念だけど、あなたの思い出に比べたらひどく曖昧で、教えてもチカラになれないと思う」

「そんなことは……」

「ううん、きっと、一番鮮明に彼女のことを覚えているのは、三上さん、あなたです。想っているのもね」


 ……そういうものなのか。

 実は知らないだけで、彼女のことをちゃんと知っている存在が俺以外にいるのだろう。そんな風に、漠然とした予想があったのだけど。どうやらハズレらしい。

 ちょっと嬉しい誤算だ。

 そんな俺に向けて、シスターは微笑んだ。さっきまでのショックを挽回したいのか、どこか取り繕った笑みに感じられたが、それを指摘するほど空気の読めない自分でもなかった。


「チカラにはなれません。ですが、代わりにあなたの勘違いを正してあげます」

「勘違い?」

「ええ、勘違い。いえ――見方を変えれば、これもまた想像の足しになるのかもしれませんが」


 首をかしげる。自分のどこに勘違いがあったのだろうか。脳内の会話記録を検索しても、思い当たる節はなかった。

 シスターは今度こそ、自然にクスリと笑う。


「ひとりじゃないですよ。不可能に挑む大馬鹿ものは。私の知るかぎりでは、少なくともあとふたり」

「どういうことだ?」

「あなたの知らない、とある友人の話ですよ。ものすごい脅しで口止めされてるので言えませんが」

「はは、なんだそれ。……いや、そうか」


 ふたり。そのうちひとりは言うまでもない。すぐさま頭に浮かび上がった。脅しをかけるところが妙に彼女らしい。きっと末恐ろしい言葉で釘を刺されているのだろう。二年前から。

 もうひとりは俺も知らない。

 しかし、そこは重要ではないのだと、シスターは続ける。


「ですから――全てが終わったあと、今一度この儀式が行われた意味を、振り返ってみてください」

「……ええと?」

「ふふ。いいえ。ヒトのソレに口出しするなんて、私もお人好しが過ぎましたかね」

「?」


 どこか、寂しそうな笑顔だった。自嘲的でもあった。おそらく俺が魔法使いに対して抱く感情のことを言っているのだろうが、言い回しに妙な違和感があって、眉をひそめる。違和感の正体が、霧に包まれる。

 しかしシスターは気にも留めず、朗らかに告げるのだった。


「ともかく。応援しています。がんばってくださいね」


 シスターは入り口を指差した。目を向けると、壁にかけられた時計がそれなりの時間を示している。そろそろお暇しなければ、妹に怒られる頃合いだ。


「ありがとう、シスター。心配してくれる気持ちだけは伝わったよ」

「――。いいえ、いいえ。お気になさらず。あなたはあなたの道を選べば、それで良いんです」


 微かに痛む良心を抑えつけて、俺は明るく振る舞った。

 柔らかな微笑みで、残るあどけなささえ覗かせて、シスターが見送る。

 お陰で空気が緩和する。

 その瞬間は、二年まえ――魔法使いを中心に回っていた、三人の時間を思い出させた。馳せた過去の情景を置き去りにして、俺は踵を返す。

 ゆっくりと、彼女の気配が遠ざかる。


 雨の音は絶え間なく。

 夜の教会はひっそりと。


 シスターと木陰、そして来訪客である俺の数十分は、時間に溶けていった。

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