3-1
『3』→『2』
ぐしゃりという響きは、生たまごを割る音とも、ペットボトルを踏みつける音とも異なっていた。
数回まえの私であれば、気色の悪さに嘔吐していたところだ。肉を殴った感覚、焦げ付いた臭い、耳にこびりついた絶叫――そして、眼の光が失われ、塵と化すまでの流れ。どれをとっても、気持ちが悪い。とてもじゃないが、そう何度も経験したいものではなかった。
それでもあたしが宝石を使い続けられた理由は、ひとつしかない。
決して正当な殺戮が快感だったとか、鬱憤を晴らすという意味合いで最適だったからとか、そういう風な理由ではなく。ただただ、自分が「正義の行いに徹している」ことが誇らしかったからだ。
大人は正しくあれと簡単に言うけれど。多くは叱ることばかりしていて、褒めることはほとんどない。父親の言う『正義』がどういうものを指すのか、今でさえ曖昧だ。何が正義に相応しい振る舞いで、何が正義とかけ離れた振る舞いなのか、実際は理解できていない。
そこに舞い込んだ『化け物を退治する仕事』は、間違えようもなく正義の行いだった。人に危害を加えるまえに、危険分子を排除する。理解りやすくて手っ取り早い。気分を害することにのみ目をつぶれば、難しく考える必要もない。
「……あと、ふたりか」
ビニール袋に集めた塵を、校舎の陰にあるゴミ捨て場に放る。
宝石に刻まれた数字は、さきほど消しただれかをカウントして、ひとつ減っていた。おそらく、あとふたりにしかこのチカラは使えない。言い替えれば、あたしが正義の人であり続けられるのは、化け物を二人退治するまでということになる。
最初は気味が悪い現象だったはずなのに、どうしてか味気なくて、残念だった。それほど自分がこの生き方に固執しているのだと判らされて、思わずため息がこぼれてしまう。
丸めたビニール袋を、ちょうどそこにあった可燃ゴミの袋に突っ込む。それから、渡り廊下の方へ確認にもどるのも億劫だったため、そのまま生徒昇降口に向かう。
すでに日は落ちて、辺りは夜の時間帯へと突入していた。
部活に励んでいた生徒たちは友人と談笑しながらファミレスに入っていく。携帯を弄りながら歩く生徒は駅へと入っていく。本屋から漫画を買って出てくる生徒もいる。
対するあたしは、「あたしこそ潔白である」と主張する自分と、汚れ仕事に若干の嫌悪を抱く自分――相反するふたつの感覚に顔をしかめながら歩いていた。
彼らと私のみえている世界は、きっとちがう。
幼少期から『正義』を説かれて育った自分は、ずっと正しい人間になるために努力してきた。
勉強を頑張った。
すこしでも不真面目な友達とは縁を切った。
大人の手伝いをたくさんしてきた。
望まれる在り方を察して、必死に応えてきた。
真っ直ぐにみえて歪んでいる生き方を変えられない自分が、ひどく惨めな存在に思えてならない。親の仕込んだ価値観に背けない自分が嫌だ。この宝石が化け物と変なチカラをもたらしたのも、もしかしたらあたしの頭が狂ってしまったからかもしれない、なんて考え方もできてしまう。
それでもやめられないのだから、滑稽だ。
ほんとうに、残念でしょうがない。これまで消してきた人数に合わせて、近づく終焉。数字がゼロになったとき、あたしはもう化け物を退治できない。ただの無力な一般人に逆戻りだ。
だけどそんなのお構いなしに、どこかの誰かは化け物を生み出している。際限なく。躊躇なく。平和が脅かされてしまうという意味でも、正義の在り方を維持できなくなるという意味でも悔しい。悪そのものと形容しても差し支えない敵を野放しにするのは、正義の存在として不甲斐ないばかりだ。
あたしは宝石を使うのが怖くなると同時に、心の隅っこの方で、顔のみえない相手の数字を気にしていた。
「あと二回。ちゃんと見極めないと」
相変わらず綺麗な色を保ったままの宝石を仕舞い、前に向き直った。
徒歩通学のため、駅を通り過ぎるころにはすっかり夜の街並みへと変わっていた。空に残されていた夕暮れの色も埋め尽くされて、代わりに文明の明るさが地上を占めていた。
いつか。父の言っていた『正義』がどんな在り方を示していたのか、知ることができますように。
いつか。頑張って紡いでいるこの人生が『正義』そのものであると、理解してくれる人が現れますように。
淡い、希望の薄い望みを胸に秘めて、宝石の震えを感じていた。
◇◇◇
週をまたいだ木曜日。
見知らぬ生徒との邂逅を経て、個人的に情報を集めるべく行動していた俺だったが、依然として情報は得られていなかった。成果はほとんど皆無だ。
あれ以来、彼女が渡り廊下を通りがかることはない。名前はおろか、クラスすらも判明せず。今更ながら、俺は単独行動の不憫さに頭を悩ませていた。
さて、今日はどうしようかと思案する朝を、いつもの声が遮る。
「おはようございます」
ホームルームを始めるみどり先生の顔色は、どこか浮かなかった。
今日も今日とて容赦なく幕を上げる一日。次から次へと降りかかる業務、積み重なった面倒ごと――そういう、憂鬱に感じられて当然のありきたりなものではなく。もっと深いところで思い詰めているような、神妙な気配だった。
そして、その違和感の正体は、すぐに明かされる。
「耳にした生徒も何人かいると思いますが、今日から放課後の部活動は原則禁止となります」
教室内に動揺が走った。
週に数回程度の部活に所属している生徒だったり、帰宅部組だったりはさして驚いていないが、その分だけ運動部組の反応は芳しくない。真面目で青春に時間と汗を注いできた者ほど、告げられた言葉に不満感を抱いていたようだ。
俺が周囲から感じ取った「なぜ」という空気に対して、先生が宥めるみたいに答える。
「みんな納得いかないだろうけど、一応生徒の安全を第一に考えてのことでね?」
「それって、例のアレがあるからですか?」
あまり表立って騒いで欲しくはない、というのが、大人の考えなのだろう。生徒を保護する立場からして、不安を煽るような事態になってほしくはないし、かといって何も策を講じないという訳にもいかない。そういう風な、先生としての葛藤が見受けられる。
俺は興味なさそうに装いつつも、耳を傾けていた。
当たり障りのない弁達で応じる先生も、どこかで感じ取る生徒らの微細な不安も、残念だが受け入れるしかない現実も、俺には感じ取ることができた。
◇◇◇
家に帰らない生徒がいる。
その数が増えてきていることは、風の噂で聞いていた。こと同級生に関しては、生徒のアンテナは敏感だ。隠し通せるのも時間の問題だろう。
とりあえずの措置として帰宅時間を早めるのは、学校側の妥当な判断だ。
実際にどれほどの人数が行方を眩ませているのか、正確な数は把握していない。しかし、遅かれ早かれ、そのうち公に情報が出される。待たずとも居なくなった生徒は明らかになる。
きっと部活動禁止の後は授業時間の短縮に、行く行くは半日登校なんかになる可能性だってある。
このまま事態が改善されず悪化するのなら、当然の流れだ。
俺はいつもより重めな空気の教室内で、席を立った。昼休憩にはいつも別クラスへ赴く運動部が、今日は隅っこでひっそりと食べていた。浮ついた話が好きな集団の声はいつもより控えめだった。単純にはやく帰れることを喜ぶ生徒がいれば、例の噂について情報交換している様もちらほら。
そんなクラスメイトの間を縫って、俺はとあるふたりに近づいた。
「お」
「おまえも気になったクチか? あの話」
首を振りながら、黄助と加藤の近くの椅子を借りた。「今日は誰かと食べる気分なんだ」という空気を作って、コンビニの惣菜パンをあける。本当は弁当を持参している日なのだが、会話に入りやすくするために数百円の出費をしていた。ちなみに、弁当は放課後あたりにどこかで食べるつもりだ。
まぁ、そんなことよりも今は会話の方に集中しよう。この前のゲームセンターで勝手に帰った俺を、何とも思わず接してくれる――薄情な自分に対し寛容なふたりに頼るのだから、最低限の真剣さは必要だ。
「部活禁止の云々とは別件。折いってふたりに相談がある。特に加藤」
パンを一口咀嚼してから切り出す。すると、黄助と加藤は揃ってきょとんとする。
まれに接するときもこちらから話題を提供することはほとんどない。まして、相談などもってのほかである。それだけに、いまの俺は変に感じられるのだろう。
ふたりは顔を見合わせてから、なんだ? と言いたげな顔で向き直る。
……こういう改まった会話は苦手だ。
けれど、避けられないのならば骨を折ろう。例え損にしか繋がらなくとも、時に気苦労へ身を任せる必要性が出てくるに違いないのだから。
「まえに、好きな人がいないのか、という話になったの覚えてるか」
「おー、ゲーセン行ったときのだろ」
「覚えてるけど……それがどうしたんだい?」
拒否されるような気配はない。そのことに少しだけ安堵しつつも、俺は続けた。
「気になる相手ができた」
一瞬、時間が止まった。
黄助は紙パックジュースのストローをずこっと鳴らし、加藤は一拍おいてから「ほう」とニヤけ面になった。
ウソでもこういう話を誰かとするのは初めてだ。もちろんこれまでの人生は魔法使いのために使ってしまったのだから、仕方ないとも言えるが。なんだかこれまで後回しにしてきた交友関係の薄さという欠点を、突きつけられている気分だ。
「ついにきたね、三上くんにも春が……!」
「いや、ただ気になるってだけで――」
「だれにも言うなよ黄助」
「わかってるよ加藤。それでそれでっ? どの子が気になるの?」
気持ち声量を抑えながら、ふたりが前のめりになる。その食いつき様に驚く。
だが、こいつらにとっては恋バナなど日常茶飯事の話題らしく、舞い込んできた面白いネタを楽しむように尋ねてくる。
「ええと……わからない。一目惚れなんだ。名前はおろか、学年もクラスも、どういう性格をしてるのかも知らない相手だよ」
「ふむ。ってこたぁ、このクラスじゃあ、ねえな」
「誰だろうね加藤! どんな人? 身長体重髪の長さ、目つき輪郭スカートの丈! あ、胸の大きさでもいい!」
前々から思ってたけど、黄助に彼女がいない理由を改めて実感した気がする。横の女子グループから冷ややかな視線で睨まれていることに気づいているのだろうか、こいつは。
まさかそれに沿って答えられるわけでもなく、俺は口ごもった。
そも、黄助が言うような特徴など詳細に記憶していない。一度目にしただけで、大まかな雰囲気や印象だけを覚えている程度のものだった。
そんな様子をみて、モテる男、加藤が先輩風を吹かした。
「皆まで言うな。誰にも、もちろん相手にも知られず、情報がほしいってことなんだろ? わかる、わかるぜ」
うんうん、と頷く加藤。俺は適当に肯定しておいた。
すると、さらに顔を近づけ、ヒソヒソ声で情報を教えてくれる。
「(これは俺が――いや、男女分け隔て無く、多くの生徒がお世話になったヤツの話なんだが、)」
「(お世話になったヤツ?)」
「(ああ。人呼んで、恋愛情報屋ってところだ)」
「(なにそれ初耳だよ加藤! そんな人がいるの?)」
どうやら、この学校にも色々な集いがあるらしい。ほとんど他人と接してこなかった俺にとっては大きな発見だった。カースト基準の生徒社会においてはさながら秘密結社だ。
俺の知らない交流があるんだなと、素直に関心した。
「(いいか、放課後に軽音部の部室へいけ。そこにヤツがいる。ノックは三回、一回、三回。間違えるなよ)」
「(情報って、具体的になにを教えてくれるんだ)」
「(行けばわかる。まぁ、恋愛相談にのってくれる有識者とでも思えば問題ない。ヤツなら、部分的なヒントだけで相手の詳細を教えてくれるだろうよ。ついでにアドバイスもな)」
肩をぽんぽん叩いて、いろいろと教えてくれる。駄賃がわりの土産とか、赴く際のルールとか。真剣な恋愛を目的としていないようなヤツには他言無用なこととか。
聞けば聞くほど、漫画や映画に出てくる裏取引のキーパーソンみたいな印象を抱く。
この学校には、木陰といい恋愛情報屋といい、尖った生徒が多い。もしここに魔法使いが入学していたらそれこそひとつの物語ができそうである。
そんな叶わない想像を押しやって、俺は教わったことを記憶する。
あれこれと細かいところを教えてくれる加藤は、とんでもなく頼もしかった。
そうしてやってきた放課後。加藤に教えてもらったとおり、俺はコンビニで『飲むヨーグルト』を調達し、
校舎に隣接するように建つ部室棟には、いくつもの部活が名を連ねている。数年前に改装した本校舎と比べると、一階出入り口はちょっとしたテナントビルみたいな薄暗さだ。カーテンの引かれた事務受付に人の気配はなく、壁にかけられたホワイトボードを眺めると、掠れた文字で部室の一覧が書かれていた。足下に目をやれば、タイルの玄関には靴が何足か脱ぎ捨てられており、あまり掃除の手が加わっていないように思えた。
俺はかつて美術部に所属していた時期があったが、活動場所は本校舎の美術室だ。ここに部室は設けていなかった。つまり何が言いたいのかというと、入学したてのオリエンテーション時以来、初めての来訪だった。
「……」
勝手に入って良いものか、と視線を巡らせていると、ちょうど奥から運動着を抱えた女子がやってきて、外履きに履き替え出て行った。
その背中を眺めて、再度、薄暗い建物の先をみる。
「ああ……そっか。たしか、今日から部活は禁止だったな」
先生方の言伝とおり、部活棟がガランとしているわけだ。こんな日に、例の恋愛情報屋はいるのだろうか。まぁいなかったらいなかったで、日を改めるしかないけれど。そんな風に考えながら、俺はスリッパに履き替える。
館内地図を頼りに一階を進む。
廊下に段ボールやらバットやらバレーボールのネットやらが雑多に置かれているが、そこまで入り組んでいるわけでもなく、目的の場所へはすぐにたどり着いた。
東側の階段の下――とりわけ物陰に潜むように居を構える軽音部。
扉には『軽音部!』と堂々描かれている看板がかかっていて、例に漏れず、中から音は聞こえない。いうまでもなく、周囲の部室からも気配はなかった。部活が禁止になったのだ。すでにみな帰宅したということだろう。逆にいえば、こうしてひとり放課後に残る俺は、先生の禁止令を破る危険人物ということになる。こんなところをもしみどり先生に見つかりでもしたら、尚更疑いの目をかけられるだろうな。
とりあえず、軽音部の扉をノックしてみる。
加藤に言われたとおり、三回、一回、もういちど三回。恋愛絡みの用事で訪れたことを示す合い言葉みたいなものだ。
「――どうぞ」
奥から、くぐもった声で返事がかえってきた。
返事はなし、ドアノブも回らず、といった結末を予想していたのだが、情報屋としての自覚は持ち合わせているようだ。褒められたものではないけれど……しっかり、先生の部活禁止令を破っている。
室内は、地下室の楽屋みたくなっていた。
ところ狭しと置かれたギターのケースとキーボード。ドラムもあれば、譜面台とマイクスタンドも隅っこに寄せられている。何よりスペースを取っているのはアンプで、黒いボックス型の機械に白い文字でメーカーが記されている。
階段下に位置するせいか、小窓くらいしか設けられていない。天井も高くない。だけど、ちゃんと防音にはなっているようで、四方を囲む壁が閉鎖的な空気をつくっている。
そんな、決して広いとはいえない部室の奥から。
「やぁ! 君だね悩めるボーイってのは! カトーから聞いてるよ」
陽気な声で顔を覗かせたのは、二足歩行のキツネ面だった。首が捻られたように曲がっていて、モンスターと遭遇してしまったかの如く恐怖を覚える。俺がぎょっとして驚いていると、そいつは頭をかいて、くぐもった声を吐いた。
「んお……? ああわるいわるい。昼寝のときはいつもこれなんだ」
よいせ、なんて声とともに、キツネは素顔をさらした。さっぱりとした男子生徒だった。跳ねた髪は昼寝に耽っていたのか、それともお面をかぶっていたからなのか、どちらなのだろう。
「君が、情報屋?」
「ああ。いかにも! オレが情報屋で間違いないぜ」
言うがはやいか、情報屋は「ちょっと待ってナ」と、ガタガタ細長い机を引っ張り出す。傍らに寄せ集めてあった譜面台やマイクスタンドを邪魔そうに移動すると、机を俺のまえに設置。また奥の方へ引き返したかと思うと、今度は折りたたみイスと牛乳、紙コップを持ってきた。
「これ、使ってくれ」
「お、おお……ご丁寧にどうも」
話がはやい。だが変な男だ。俺は第一印象を飲み込んで、思考を切り替えた。
情報屋はさっそく対面に腰を落ち着けると、こっちにも座るよう促した。しかも、目ざとく手に提げたビニール袋に反応もみせる。
「お、さっすが、飲むヨーグルトとはわかってるゥ! 珍しいお客人だ、今日はミルクも奢ってやるぜ! さ、ちょっと飲んでけよハルマ・ミカミ!」
「……名前、知ってるんだな」
関心しながらもパイプイスに座る。リノリウムの床と擦れて、イスがぎぃ、と特有の音をあげる。
情報屋は声をあげて笑った。
「はっはははー! こんな恋愛相談のまねごとなんてしてりゃあ、それなりに知見も広くなるさ! ええーと? ミカミ、ミカミ……」
さっそく飲むヨーグルトにクチをつけた情報屋。口まわりに白いひげをつけた状態で、手帳をめくり始めた。
興味深そうに眺めつつ、俺も牛乳をいただく。軽音部で飲むミルクは案外キンキンに冷えていて美味しかった。これはこれで乙なものだ。茶碗で飲むジュースに似ている。もしくは、バーで飲むお酒はどんなものでも美味しく感じることと動揺、この牛乳にも補正がかかっているのかもしれない。まぁ、大人の気持ちはまだわからないが。
「あったあった。三上春間。これまでアンタの情報を欲しがった女子は……いち、にぃ……三人いるな!」
「は」
とつぜんの情報に呆けてしまった。
俺の情報を欲しがる生徒がいる、というのはあまりにも予想外で、目を丸くする。そんな様子を見て、情報屋は楽しそうに、にんまりと口の端をつり上げた。反応を面白がる顔に「気になるかい?」と書いてあった。
「ちょ、ちょっと待て。それ、いつの話だ」
「意外と最近のことだぜ。ひとりは去年の半ばあたり。そっちにアプローチが来てないんなら、諦めたか熱が冷めたか……他二人はすくなくとも今年に入ってからだ。三年生と他校の年上。後者の所属は知らん。ただ、どっちも興味深そうにアンタの情報を聞いてたなぁ」
「にわかには信じがたいが、あるのかそんなこと……」
情報屋は肩をすくめた。その反応を見るかぎり、言っていることは本当のようだ。だとしたら、俺には考えなければならないことがある。
多くの生徒であれば、こんな話を聞かされれば色々と嬉しいかもしれない。出会いがないやつほど、誰かに興味を持ってもらえるのは男冥利に尽きる。逆もまたしかり。中にはストーカーじみて気持ちワルいと思う生徒もいるかもしれないけれど、省みれば自身も同じことをしているのだから、責めることはできない。
しかしそれは一般的な基準の話であって、こと自分にとっては、別の理由で喜べなかった。
例えばこの学校の生徒。訪れたふたりのうちの片方が、宝石を持っていたとしたらどうだ。恋慕ゆえに情報がほしい――そんな風に取り繕って俺の状況や弱点なんかを探っていたらどうだろう。想像しただけで背筋が凍る。不意打ちでなにかをされてしまうのではないかと、常に気を張らなければならなくなる。
「まあなんだ。案ずるなヨ。アンタからすれば、他人から興味を寄せられる状況は好かんだろうけど。これでも見る目だけは自身がある。オレに言わせてもらえば、彼女らに後ろめたい事情はなかったと断言できる」
……俺の憂慮が、顔に出ていたのかもしれない。
ひとまず気遣ってくれた情報屋の言葉を信じて、俺は感謝を述べた。お礼に、こちらの好物の情報でも差し上げよう。
「ところで、ここには炭酸とかないのか? 蒼矢サイダーとかあったら最高」
「蒼矢サイダーだぁ? オマエあんなのが好きなのか! はぁあああいけ好かねえ! 残念だが置いてねぇよ。苦手なんだ、喉にキてごくごく飲めねえだろう」
意見の相違というやつだった。
バーの店員風に誘ったくせに舌はお子様なんだな、などというからかいも浮かんだが、普通に美味しかったので言葉を飲み込む。
俺は残りの牛乳で喉を潤すと、さっそく本題に入った。
「君は恋愛に関する情報に詳しいと聞いた。たまに相談を受けていることも」
「ああ、間違いない」
すかさず紙コップに追加の牛乳を注ぎながら、男は笑った。
「それで? アンタにも意中の相手ができたんだろ? だからこうしてここを訪ねた」
「そうだよ」
「律儀なこった。今日から部活動禁止らしいのに、言いつけを破る度胸だけはあるんだな。周りをみろ、だれひとりとして部活棟には残ってなかっただろう? 汗水垂らして青春謳歌しておきながら、やつら、手の平返しはあっさりだ。カナシイね」
またカクテルを口に含むようにして、情報屋は言った。どこか愚痴をこぼすようでもあった。
こうして話していると、物置みたいな場所でもバーカウンターで一杯やっている気分になるから不思議だ。無論、バーに入った経験はないけど。
俺は「でも、」と切り返す。
「言いつけを破る度胸があるのは、お互い様だろ」
ふ、と不敵な声が漏れる。
情報屋はまたどうしてか、嬉しそうに笑みを深めた。そして潔く、「そうだな」と認めた。
……話を戻そう。
「実は、相手のことを知ったのはつい昨日のことなんだよ。だから名前も、性格も、学年すらも知らない」
「ほほう」
「そういう経緯もあって、加藤に『君が適任だから』と紹介してもらった。正直、寝耳に水でもあったよ。こういう話はあまり知られたくないから」
温度差で溜まる水滴をティッシュで拭い、情報屋が答える。
「だが、オレを頼ればオレからアンタの情報が漏れるぞ。それはいいのか」
すこし考えて、口をひらいた。
「構わない。基本的に君を頼るのは、恋愛をしている生徒……なんだろ? だったら仕方ないさ。君の扱いは諸刃の剣ということで妥協する。まあ、満足いく成果が得られれば、が前提ではあるんだけど」
「うははははは! 問題ないね。売れないミュージシャンのオレにとっちゃあ、こいつは数少ない稼ぎ口なんだ、精一杯尽くさせてもらうからな! ヨーグルトは大好物だ!」
売れないミュージシャンって……まだ学生だろ、あんた。
浮かんだ突っ込みをこほん、と咳払いで忘れる。対する情報屋はというと、美味そうに一杯を飲み干して、仕事人の顔になった。
「じゃあ聞かせな、そいつの特徴。聞けば大抵の生徒は名前がわかる。名前がわかれば学年がわかる。学年がわかれば交友関係が、交友関係がわかれば性格が、性格がわかれば周囲からの評価が、評価がわかれば彼氏の有無がわかるって寸法だ」
見たまま、感じたままの印象を伝える。
感じた悪寒は宝石から伝わるものでもあるため省略。代わりに、ポニーテールだったことやキツめの表情だったことなど、記憶に残っているすべてを話した。
「
情報屋の口から該当する名前が出てくるのに、そう時間はかからなかった。部分的、しかも多くの生徒に当てはまりそうな特徴を連ねただけなのに、驚くほどあっさりと答えを導き出す。
俺は首を傾げた。
「強気で堅苦しくてポニーテール。放課後にひとりで歩いていたとなれば、まぁ名塚だろう。彼女はそれくらい、この学校で存在感のあるやつなんだよ」
情報屋はそう言った。
「存在感がある、っていうのは? 何か理由があるの?」
「あるさ。特に問題児というわけでもないし、そこそこモテるし、玉砕する輩がたまにいるし、人付き合いも消極的なだけで尖っているわけでもない、一見して普通の生徒だ。ただな、」
情報屋が言葉を整理する。顎に指をあてて、どう伝えたものかと考え込む。その数秒間を経て、ようやく彼は答えた。
「率直にいって、あいつは堅物すぎるんだよ」
堅物すぎる。そんな評価を聞いて、俺は真面目で冗談が通じないとか、友人に気を許さないとか、常に敬語だとか、そういう風なイメージを抱いた。しかし、そう簡単な話でもないらしい。次に飛び出してきた言葉に、俺はすこしだけ驚く。
「名塚かおりのモットーは『正義』だ」
「正義?」
「そ。いつだって正しく。どんなときも間違えず。誰に対しても平等に。彼女にとって正義ってのは生き方そのものだ。同級生にとっては宗教的な価値観に傾倒するイタイ人。つっても大人から見ればお利口さんそのものだからまだマシ。噂では家庭の厳しいしつけの影響って話だが」
名塚かおり。
内心で復唱しながら、名前と容姿が結びついていく。あの凛とした歩き方、まっすぐすぎて逆に恐ろしさまで纏った佇まいは、なるほど確かに堅苦しい。
さて、ここからどうアプローチすればいいだろうか?例えウソだとしても、俺には彼女に近づく大義名分が必要だ。ただ、相手に存在を悟られるのだけは避けなければならない。適度な距離感。だけど情報屋なしでも情報を収集できるくらいには一歩を踏み出さなければならなかった。毎週同じ曜日の同じ時間帯に、たまたま図書館に居合わせる――それくらいが好ましい。
俺にとっては探るべき対象、相手にとってはときたま見かけるだけの赤の他人。彼女の行動基準に合わせ遠目に観察するくらいには接近したい。
問題は、それをこの情報屋にどう説明し、どうアドバイスをもらえばいいのかということだ。いかんせん、俺にはその辺りの知識が乏しい。近づきすぎてストーカー呼ばわりされることは目に見えていた。
などと難しい顔で考えていたところ、ふと視線を感じて顔をあげる。
見透かしたような視線で俺を眺める情報屋がいた。
「おまえ――別に名塚のこと興味ないだろ」
言いつけられ、ぎくりとする。だがそれをおくびにも出さず、自然な振る舞いをする自分に驚く。
「わかるかい?」
「まるわかりだ。恋愛相談も受け持っていれば、自ずと相手の求める回答も掴めるようになってくる。例えば名塚かおりは、その真っ直ぐさ、歪みなさに惚れる男があとを立たない。容姿は完璧だからな。その点でいえば、アンタは透明すぎるんだよ。熱意もマジさもなく、ただ筋道を考えることにしか興味がなさそうだ。薄っぺらい」
透明。透明にすぎる、と言ったのかこいつは。
ああ、
「光栄だね。透明。お察しのとおり、俺は名塚っていう女子のことなんてどうでもいいよ。いや……どうでもいいは相応しくない表現か。興味はあっても恋心なんてとってつけた理由だ。ほんとは関わるのだってごめん被りたい」
だが情報は命だ。情報なくして彼女を出し抜くことはできない。宝石のもたらす奇跡も、数字の正確な意味も、彼女が俺と同じ立場なのかも怪しいのだ。知ることから始めなければ、同じ目線の高さに昇ることさえ難しい。
俺は切り返すように言う。
「だけどさ、情報屋。君が請け負ってきたこれまでの悩める少年少女たちは、皆が皆純粋だったのかな」
「……何が言いたい?」
これまで飄々とした態度を貫いていた情報屋が、眉根を寄せる。
「特定の個人が好きだから、情報がほしい。アドバイスもほしい。なるほど理想的な客だよ。だけど、結果が必ずしも望むモノかは断定できない。加藤が良い例だな。悪意がないのは良いことだが、やつは女を引っかけすぎる」
情報屋に会う条件には、誠意のないやつには存在を伝えてはならないという制約があるのだという。つまり、情報屋はやましい理由で情報を求める客を嫌っている。
断言しよう。こいつは『一途な人間』の味方なのだ。だからこうして、恋心がないことを明かした俺に対しても不信感をのぞかせる。
情報屋は難しい顔のまま話を聞いていた。否定も肯定もしなかった。ただ堪えるように、俺を睨んでいた。
「ただまぁ……俺が彼女のことを知りたい理由は、別に引っ掛けたいとか貶めたいとか、そういう理由じゃないんだよ。そこは信じて欲しい」
本心だった。
「ほんとうにか? 何か事件でも起こすつもりじゃねぇだろうな。オレは責任とりたくねぇぞ」
「わかってるよ。俺が知りたいのは自分を守るためだ。そっちも、危険を感じたら全部俺に投げつけて逃げて構わない」
「……」
情報屋は俺を疑っていた。見極めようと、鋭い視線を送っていた。それを真正面から受け止める。
嘘は言っていない。紛れもなく正真正銘の、本心からの言葉を選んだつもりだ。
……少々遠回しではあったが。
「わかった」
やがて、情報屋は糸が切れたように脱力した。観念したように手をひらひらさせる。
「だが条件がある。信じる代わりに、なにか情報を寄越せ」
「成立。とっておきのがある」
俺は席を立ち、情報屋もそれに倣う。どこへ行くんだという面持ちも、まぁなるようになれだ、とすぐに消え失せた。
先んじて扉を開ける。
さきほどと同じ、閑静で風の通りが良い廊下が出迎えた。すこしばかりの会話、時間もそれほど経っていない。なら、今日のうちに見せることができるだろう。
「なぁ」
ふいに。首根っこを摘むような声で、情報屋が引き止める。
まだ何か? と言葉にはせず、首を傾げながら振り向いた。
「結局、アンタは誰のためにここへ来たんだ?」
「……」
思わず、無言になる。半歩廊下に出た俺からみて、軽音部の室内は明るすぎる。一日の疲労を実感する肩に、さっき潤したはずなのに欲する水分。放課後特有の感覚に抗いながら、外面を保つ。疲れなど微塵も感じないとばかりに、互いに相手の出方をうかがう。
こちら側とあちら側、日向と日陰の対比のように視線が交錯していた。
唯一空気を震わせていたふたりが黙り込んだことで、さらなる静寂があたりに立ち込めた。
そんな耳が痛くなる数秒を経て、俺は薄く笑って流す。
「それを知ったとしても。彼女は君の営みの、一銭にだってなってくれやしないよ」
情報屋は、その一言に満足したようだった。
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