2-3

「彼ならさっき戻っていったところだよ」


 昼に訪ねたときと同じ口調、同じ抑揚で、保険の先生は応じた。

 ため息と一緒に疲れを吐き出すかのような物言いだった。

 先生はデスクに掛け、白衣の袖から銀の腕時計を覗かせている。手元には文庫本が添えられており、まつげが長く、細められた視線は文字を追っていた。数時間まえと全く変わっていない。彼女の姿勢も、並んだ清潔なベッドも、傍らのマグカップも。変化していることと言えば、文庫本のページが進んでいることくらいだろうか。

 さきほどまで清掃をしていたとは思えないほど埃は舞っておらず、保健室は慣習から隔絶された空間に感じられる。アルコールと消毒液と、形容しがたいケミカルな匂いが鼻をかすめていく。その中で悠然と居座るひとりの先生は、それこそ聖域の主のようだ。あるいは、都合の良い理由をでっちあげて独占する、悪賢い職務怠慢のどっちかに違いない。

 俺は嘆息して、サボっているようにしかみえない彼女に問う。


「昼にも同じように追い返しましたね」

「そうだったかな」

「そうでしたよ」


 文庫本から目を離さず、白衣はページをまた捲る。

 会話がなりたっているあたり、耳は傾けてくれているようだった。俺は室内を見渡し、ひとつだけカーテンで仕切られたベッドを一瞥する。


「本当は、木陰がいるんじゃないですか?」

「……はて、木陰とは誰だい? ずいぶんと寝心地の良さそうな名前だね」

「ええ、彼が貸し出してくれる場所は格別です。授業をサボって良いのなら、きっと入り浸るでしょうね」


 まあ、訊いたところではぐらかされるのは目に見えていた。

 そも、俺は木陰の本名を知らない。「木陰」という名はそれなりに浸透していて、美術部にいたときから木陰は木陰だった。画工としての名なのか、展覧会でも木陰という名の作品を出しているくらいに。俺はそんな彼を好ましく思う。陽気で誰彼かまわず友情の輪を広げることもなく、ゆえにだれにも彼の存在を定義づけられることはなく。穏やかな昼の妖精のように、自身の在り方を創っている。さすがは美術部というべきか、彼は自分という生き物さえもキャンバスにして、木陰の存在を描いている気がする。

 俺に言わせれば。美術部内であそこまで「創作する存在」を体現する人物はいない。それは単純に作品を創り出す技術が秀でているということではなく。日常のあらゆる場面、時間において、木陰の価値観には創作家的視点が混ぜ込まれている、ということだ。

 だからこそ。木陰が姿を消したことは珍しいことで、俺は気にかかる。無論、彼らしいくらまし方だとは思うけど。それでも、木陰にしては大胆で唐突な変化に感じられてならない。美術室の鍵を開けておいてくれるあたり、無事ではあるようだが。


「……どなたが?」


 俺が視線で仕切られたベッドを示すと、先生は首をよこに振って言う。


「残念だけど。そこにいるのは、個性的で芸術的で、橋下で釣りでもしていそうな男の子なんかではないよ。広いもののりんごを口にした白雪姫だからね」

「ずいぶんとロマンス溢れる例えですね」

「白雪姫がかい?」

「ちがいます。釣りでもしていそうな男の方です。知ってるんじゃないですか、木陰のこと」


 ふふ、と笑って、先生は文庫本を閉じる。押し花の栞を挟み込んで。

 それからイスをくるりと回し、俺に向き直った。


「あいにく、私は木陰という呼び名を知らなくてね。でも、今度からは木陰くんと呼ぶことにしよう。で、その木陰くんについてだが」


 俺はただ先生の方をみつめていた。

 カーテンで仕切られた向こうが赤の他人だというのなら、もちろんそうなのだろう。ならばもう意識する必要はなかった。先生はそんなこちらの心境を面白がるような双眸で話す。組んだ足をそのままに、まるで暇つぶしに答えてやろうとでも言わんばかりの態度で答えた。


「しばらく学校を休むそうだ」




 放課後の廊下を歩く。

 保健室をあとにした俺は、木陰の思惑を創造しながら、宛もなく足を運んでいた。速度はゆったり、視線は窓越しの景色。すでに日は傾いて、夕暮れに紫紺の色が混ざり始めている。まじめに走る運動部の生徒も、たまたま近くをすれ違う誰かの気配も意識には入り込まなかった。

 気分を変えようかと、自然と自動販売機の方へ向かう。今日の自分はなにかと水分を欲しがる。宝石の出現によって徐々に乱されていく現実。それに順応するため、喉は齟齬を洗い流そうとしているのかもしれない。

 ……これも予兆のひとつ、ということだろうか。

 木陰が学校を休む意図は定かではないけれど。今までなんとなくで過ごしてきた日常に、やはり変化は入り込んでくるものだ。きっと俺自身も木陰が評したとおり変わっている。妹に心配されるくらいには不規則な動向、かつてはどうでもいいことで埋まっていた思考を上書きする憂慮、周囲に対する危機感は高まりをみせ、平常心を保ちつつも、些細なことに過敏な想像を働かせてしまう。

 まったく、どうしてこう気苦労を背負わなければならないのだろう。数年ぶりの自転車に跨がって、「これで乗り方あってるんだっけ」と首を捻る気分だ。

 なんにせよ。今後は木陰の助言を得られないと考えた方がよさそうだ。直接的な助言がほしかった――ということでもなく、ただ木陰からみた「今の現実」についての所感をヒントにしたかったのだけど。こうなってしまっては仕方がない。

 人間関係の幅が狭い自分だ。選択肢がすくない身ではあるが、出来うる行動で備えるしかないだろう。


 ポケットに突っ込んだ右手で宝石をきゅ、と握りしめ、俺は渡り廊下に出た。

 校舎から伸びる吹き抜けのそこは、放課後特有ののどかな空気が漂っている。幸い横風による心配もなく、人通りも少ない。運動部は絶賛汗をかきながら青春を謳歌していることだろうし、渡り廊下の先にある体育館を拠点にしているバレー部やバスケ部も熱中しているに違いない。

 代わりに、渡り廊下の途中には、譜面台をまえに金管楽器を抱える女子ふたりが見受けられた。仲良さげに並んで楽譜をみて、一節の流れを合わせたりしている。学校という空間においてより青春の色味を付加する音が、微風に流されることなく耳に届く。俺は吹奏楽部と反対側に寄り、トランペットの指が規則的に曲がる様を目にしながら歩いたが、すぐに視線をそらした。

 渡り廊下からよこに逸れる通路の先にはプールが、体育館の方に進めば自動販売機がある。練習風景をまじまじ見つめるのも悪いので、俺は何の気なしにそちらへと注意を背けたのだった。


 ――と、そのときだ。

 ぞくりと、背筋に悪寒が走ったのは。


 吹奏楽部のふたりを通り過ぎて、数歩。渡り廊下の中腹、なにもない場所で立ち止まりかける。懐に眠らせた宝石が、正体不明の緊張に呼応し震える。

 視界の端に入り込む人影。ポニーテールを揺らし、キツめの表情で足早にすれ違う女子。彼女から得も言われぬ怖さを感じ取り、ワイシャツの下の鳥肌を意識した。

 周囲の音が遠くなる。拍子に吹く微風も。体育館から漏れるかけ声も。音外れのトランペットも。

 自分の足音と彼女の足音だけがゆったりと過ぎ、安易に視線を向けぬよう、動悸の高まりを悟られぬよう、前を向いて速度を固定する。暴れ出しそうな宝石を押さえ込みながら。上履きのゴムと廊下のコンクリートが摩擦を生んで、靴裏の衝撃ひとつひとつが、こちらの警戒心を伝えてしまうのではないかと危惧してしまう。

 それくらい邂逅は唐突で、いや、邂逅ですらない偶然のすれ違いで、身構えずにはいられない。これでも精一杯の平常心、俺が幼少期から培ってきた息を殺す術を総動員し、数分にも感じられる数秒を耐えた。

 一歩、一歩、また一歩。気配で感じる距離は伸びていき、遠くなる吹奏楽部の外れた一音。それを合図に、俺はくぐもった空気が晴れるように呼吸を再開した。


「――っ、はっ、はぁっ、」


 息を整えつつ、背後を確認する。吹奏楽部のふたり組が練習に励んでいるだけで、すでに彼女の姿はない。俺はひざに手をついて安堵した。

 冷静に考えて、すれ違うだけでなぜこうも緊張するのだろうと思うかもしれない。何も知らない一般人は。だけど、俺とあの女子には特別な事情がある。顔も名前も知らないけれど、確かに共通点を持っている。

 俺は懐から出して、そっと宝石に視線を落とす。

 さきほどの震えがウソのように、静かに色合いを保っていた。

 すぐさま戻し、顔をあげる。それから、女子生徒がやってきた方角に目を向けた。渡り廊下から脇道に逸れた、プールの方向。用事がなければ踏み入れもしない、そもそもこの先に用事を生み出すような何かも存在しない……学校の敷地内でもっとも閑静な無音が、向こう側に満ちていた。


「……」


 しばらく、呆然と先を眺める。

 何の変哲もない校舎と校舎のあいだ道。このまま待っていれば、野良猫の一匹でも横切るんじゃないかというほど、青春の喧噪からはかけ離れていた。

 まるで現実世界とぴったり隣り合う裏世界。路地裏に通じていそうな雰囲気に、二年間感じてこなかった不気味さを覚えてしまう。ある種、それは直感のようなものでもあるのかもしれないが。

 どちらにせよ。これは後まわしにしても仕方が無いことだ。目にしてしまった以上、いつかは訪れることになるだろう。だったら、今行くのが最善なのではなかろうか。


「はは、」


 ふと、咎めるような表情で怒るみどり先生が思い浮かんだ。その容易に想像できるシチュエーションに、乾いた笑いが漏れる。

 見つかったら、いよいよ誤魔化しようがないかもな。そんなことを内心でつぶやいて、息を整える。

 そして。

 もう一度周囲を確認してから、俺は足先をかえた。


 進んだ先には、背丈を越える柵で締め切られた、プールの入り口が待ち構えている。苔と雑草が浸食するコンクリートの通り道に変わり、常日頃掃き掃除の手を加えられている渡り廊下とは一線を画す様相だ。

 入り口の柵には錠がかけられ、誰かが通った気配はない。季節は未だ出番を与えず。静寂に支配された向こう側は、この柵によって封じられているようにも感じられて、妙な不気味さがあった。そこから視線を外し、俺は辺りを見回す。

 夏にも入っていない現在、生徒が訪れそうな場所とはいえない。めぼしい何かがあるわけでもない、告白の場所にしては薄暗くてじめじめし過ぎている。体育館の影になって、この辺は薄暗い時間帯がほとんどなのだろう。

 唯一興味を引いたのは、数メートル先に建つ用具庫だけだった。黄ばんだ壁で囲まれ、覆う屋根は年数を積み重ね歪み、錆びの赤色が混ざっている。夜中には隙間風が吹き込むであろうその倉庫は、もう何年も立ち入られておらず、忘れ去られた存在のようだ。周辺の雑草が伸びきって、壁にはツタが這っていて……用務員の手入れ自体、ここら辺には加えられていない。

 俺は短く息を吐くと、上履きで向かうことに抵抗感を覚えながら、けれど迷いなく砂利に踏み出した。

 数メートルはすぐに縮む。

 重そうな扉は、プールの入り口とはまた異なる錠――向こうはダイアル式――がかけられている。簡素な仕組みだが、鍵がなければ開けることは不可能らしい。けれど、誰がやったか、それとも以前からこうなのか、すでに錠は錠の役割を成していない。古い仕組みのせいだろう、扉をつなぎ止める突起がねじ曲がり、今は虚しくぶら下がるストラップと化している。

 何とも言えない有り様を数秒観察してから、改めて、俺は周囲に視線を巡らせた。未だ夕陽の気配は薄く、どちらかというと昼の明るさだ。太陽も山陰にさしかかってはいない。仄かな緊張感とは裏腹、遠くでは運動部の喧噪が聞こえる。耳に残るトランペットの音程が、思い出したように風に運ばれてくる。

 日常の外側。すれ違うだけで危機感を抱かせた彼女の行動を辿れば、そこは保護の目も届かない沼の上。知って、見て、感じて。そうやって沼の深さを味わえば、俺は引き返すこともできないだろう。これまで抱いていた、現実という箱の外側にいる感覚――ソレとはまた異なる違和感を背負って、俺は自分を取り繕う必要がでてくる。一寸先を闇で染め上げた階段を、一段、一段と下っている気分だ。

 関わってはならない瞬間。関わってはならない人。関わってはならない場所。とりとめのない日々に紛れ込み、無視するなと訴えるソレらは、どれも宝石による産物。こうやって深淵を覗きこむごとに、俺は巻き戻せない時計の針を進めているのだろう。

 もう一度、閉ざされた、けれど引けば開く扉に向き直る。

 あの女生徒が訪れたとすれば、もうここしか考えられない。どくん、どくんと脈打つ得体の知れない緊張に、俺は息を呑んだ。踏み入れたら後戻りはできないよ、と慎重な自分が最終確認をした。そんな臆病は置いてきた、とそいつに強がって、重々しい取っ手に触れる。

 吸った息を止めて。甲高い摩擦音に顔をしかめながら。俺は真っ暗な用具庫に、細い光をつくり出した。


「……っ、」


 思わず、口元を手で覆った。

 何がある、というわけでもない。生ゴミが放置されているとか、腐った動物の死骸があるとか、そういう類いでもない。ただ、もう何年も昔に取り込まれた煙がそのまま時間をかけ発酵されたような、嗅いだことのない異臭が鼻を突く。

 入り口から入ることは避け、視線だけで中を探る。

 用具庫として偽りなく、中は雑多としていた。竹ぼうき、ブルーシート、ホースの巻き取り機、タイヤ、破れたマット……年月に忘れ去られた道具の数々が、積み重ねられるように、奥の方から詰め込まれている。

 入り口付近はいくらかスペースがあるためまだまだ入る余地はありそうだが、おそらく用務員すら利用していなさそうだ。使われることもないだろう。

 代わりに。床に、黒い炭のようなものが散乱していた。

 臭いの元はこれらしい。炭ではない。もっと別の、真っ黒い砂のような何かだ。ざらざらしていて、砂よりも重そうで、炭よりも濃い色合い。とてもではないが触る気にはならず、俺はゆっくりと距離を取った。

 長時間ここにいる気にはなれなかった。異臭だけが理由ではなく、つい最近までここに誰かが住んでいたかのような、言葉にできない違和感があったからだ。今にも住み込んでいた不審者が現れそうで、すぐにでも立ち去りたい。だけど少しでも情報を得ておきたいという思いも先行して、自分のなかに葛藤が生まれる。

 結果、俺は後ろ向きに、観察を続けながら後退することを選んだ。そして、用具庫から踵が出た、次の瞬間。


『~~~♪』


 あたり一帯に大音量の音楽が流れ出し、びくりと肝を冷やした。

 下校の校内放送だ。部活動に励む生徒だろうと、居残りで何かに熱中している生徒だろうと否応なしに耳にする。ここはスピーカーが近いようで、突然鳴りだすと心臓に悪い。俺は跳ね上がった動悸を鎮めながら、音源をさがして見回した。

 下校時間に流れる音楽は、週ごとに変更される。

 主に放送委員によって選出される仕組みだが、その選出基準はまちまちだ。音楽教師の趣味によるものだったり、あるいはアンケートだったり。たまにホームルーム時に配られる紙きれは、こういうところに反映されているらしい。昼時ならともかく、放課後のこういった試みは、周辺の学校では見られないかもしれないが。

 それはそれとして。


「はは、よりによってこの曲か……」


 チム・チム・チェリー。

 一九六四年にアメリカで公開されたミュージカル映画――『メリー・ポピンズ』の劇中歌。乳母を募集していたバンクス家に降り立った魔法使いのメリーが、歌と魔法を通して幸福をもたらす物語だ。

 有名な作品のため、大人にとって一度は耳にしたことがあるくらいの曲である。一日の最後を飾るにはいささか明るすぎる気もするが、こうしてチャイムで聴くと不思議な感覚に襲われる。放送委員の帰宅を促す声も相まって、自然な体裁を保てている。本来のメロディよりも長調、流れるように紡がれる一音一音が、独特の雰囲気に包む。聴く側にとっては、まるで迷路に迷い込んでしまった、みたいな印象を抱くに違いない。

 でも、俺にとってはすこし異なる。

 チム・チム・チェリーは思い出深い曲だ。世代的に知る人の方が少なくなりつつあるこの曲だけど、訳あって俺の記憶に刻み込まれている。それをこんなタイミングで耳にすると、「戻ってこい」と襟首を掴まれた気分になる。

 重々しい扉を閉めて、長く息を吐いた。

 現実に引き戻されたお陰か、俺はすぐに踵を返す。先ほどすれ違ったあの女生徒について、はっきりとした情報は得られていない。けれど今は冷静に、調査すべき対象を見つけられたことだけで十分だろう。


 注意深く周辺を確認し、部活動帰りの集団に混ざって、俺は帰路についた。

 自宅に着くまでも、自宅に着いてからも、しばらくの間、今後の動きと僅かな物思いに思考は費やされた。

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