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〈7〉→〈6〉


 ――ワタシは悪魔を飼っている。

 その日は特に疲れていた。身勝手で成績も悪い、けれど規則の隙間を突く才能だけは有り余っているひとに邪魔をされ、先生から同じ失望の目を向けられた日だった。

 だから、こうして鬱憤が渦巻いてしまうのも仕方がない。

 でも全部ゆるそう。

 全部水に流してあげよう。なぜなら、ようやく神さまはワタシを憐れに思ってくれたのだから。


 薄暗い渡り廊下で、ワタシたちは事態をつかめていなかった。

 とっくに部活動組も下校し、じきに校門も施錠される時間帯。冬の名残、冷たい風の吹き抜けるその通りは、当然ヒトの気配がない。ワタシとあの子を除いては。

 尻餅をついていた。

 ちょっとした口げんかになって、突き飛ばされたのだった。全面的に向こうが悪いのに、真面目に生きてるワタシはいつも不憫な目に遭う。世に蔓延る汚い人間はとんでもなく不真面目で、言葉による対話ができない低脳である。ゆえに、こうやって容易く暴力を公使するのだ。

 最近のワタシは悪いことで連続の日々が続いていた。良いことといえば、誰かが綺麗な宝石のプレゼントを送ってくれたことくらい。だから、ちょっとくらいならやり返しても良いと思った。いつも行儀がよく、汚いヒトたちを纏め上げ、大人からも期待と信頼を寄せられているワタシなら、少しくらいの抵抗も正当防衛になる。やりすぎたって問題ない。第三者が見れば、あの子とワタシのどちらが正しいかなんて一目瞭然なのだから。

 ちょっと目でも殴ってみようか。そう決めて、うずうずとする数秒間。そしてワタシは声を作って、尻餅をついた姿勢から顔をあげたのだ。


 だけど。

 見あげたそこにいたのはあの子なんかではなくて、もっとおぞましい何かだった。


 暗くて、視界を細めなければシルエットでしかない。影が濃くなって、順応し捉えた像を認識し、自分の目を疑う。

 鋭い輪郭。

 伸びた線。

 人間にはない節々から、軋むような音。

 覆い被さるように立っているあの子は、


「ぁ、」


 刺々しい、異形の怪物になっていた。


 形状に既視感はあっても、大きさは桁違い。百六十センチの自分をゆうに越える頭身、化け物と呼ぶに相応しいソイツは、見下ろす視界の異変をすぐに察知したようだ。手のひらと足、丈に合わず破れる制服、そのまがまがしさに驚愕しているのが見て取れる。夢かと思うほど、非日常。笑ってしまうほど、醜い輪郭。

 カマキリになったあの子は依然として現実を受け入れられておらず、唖然としていた。


「――、」


 ワタシはよろりと立ち上がる。

 放られたカバンから、潔癖症ゆえに持ち歩いていた虫除けスプレーを手に取る。

 そしてもう一度化け物と対峙した。


 気づいた彼女はこちらを向く。

 それに優しく笑って返す。安心させるように。冷たい空気がさらに冷えて、過ぎ去った冬を思い出した。

 自然と腕が、持ち上がる。

 夕空に、悲鳴はあがらない。


 嗚呼――ワタシは悪魔を飼っている。




◇◇◇




 月明かりだけを頼りに、スニーカーを履く。揃えられたパンプスと脱ぎ散らされたシューズの傍らで、靴紐を結んだ。

 そうして立ち上がった俺の背中に、控えめな声をかけるヤツがいた。


「お兄ぃ、どこいくの?」


 玄関とびらにかけた手をそっと離し、半身で振り返る。

 ちょうど二階から降りてきたらしい、部屋着の妹が俺を見つめていた。

 無言の時間が流れた。

 互いが互いを探り合うそこは薄暗く、俺の足下は細長い窓から差し込む月光が照らしていた。妹の立つ階段下はというと、対照的に暖かみある生活光で照らされていた。玄関フロアと居間とを隔てる扉――その曇りガラスから、聞き慣れた日常が漏れ出ている。母親がバラエティ番組を見ながら夕食を準備している音が、くぐもって耳に届く。境界の向こう側とこちら側とでは、別世界がごとく異なる空気が流れていた。

 辛うじてみえる妹の顔は無表情にちかい。携帯を片手に、口元は引き結び、普段となんら変わらない雰囲気だ。

 しかし、血の繋がった家族でもある妹が何について憂慮しているか、嫌でも悟ってしまう。気怠げかつ真っ直ぐな視線には逃がさないという意思が籠り、先の抑揚のない一言もさることながら、咎めるような気配があった。

 俺はそれを真正面から受け止めて、黙り込んでいた。観察し、言い訳を探していた。些細な焦りにも似た感情が、懐で握りしめた手のひらに汗を生じさせた。


「もうすぐ夕飯だよ」


 今日の夕食がカツ丼であること。やがて招集がかかること。

 そんなことは互いに百も承知で、だからこそ、言い聞かせるように妹は言う。言葉にはしないが、雰囲気が「どこに行くつもりだ」と問い詰める。優しい強制力を公使する。

 俺は取っ手を離し、


「散歩いってくる」


 一言、そう告げた。

 反論すると思われたが、妹はしばし熟考すると、予想に反した返事をする。


「あたしもいく」

「だめだ」


 意図を探るよりもさきに、俺は断っていた。

 準備していたのか、口を突いて出た言葉がすかさず妹の同伴を拒否する。その反対は、的確に妹を不機嫌にさせる。その証拠に、さっきまで表面的に気怠げな態度を保っていたのが、今は眉根を寄せていた。この薄暗さでもわかるほどに。


「なんで?」


 声音にとげとげしさが混ざっていた。そうさせる自分が憎くもあったが、こちらにも譲れない事情がある。

 俺は一度目をそらして考える素振りをしたあと、視線を戻し、真っ直ぐ見据えて答えた。


「ふたりとも居なくなったら、母さんが悲しむだろ」

「……なにそれ」


 妹は短い声で責め立てる。

 僅かな光源の中、妹の影は正しさの塊で。対する俺は愚かさの塊だった。言いたいことは伝わってくる。これでも家族だから。「お兄ぃだけがいなくなっても悲しむじゃん」とか、「お父さんと同じ末路とか最低じゃん」とか、「居なくなるならひとりでもふたりでも一緒じゃん」とか、そういう非難の感触だ。

 妹の懸念は痛いほど理解できる。

 傍からみれば、俺はふらっと出かけてそのまま消えてしまいそうなくらいには、空っぽな存在なのだろう。他でもない自分自身に、それくらいあやふやで不安定な生き様であるという自覚がある。日々の過ごし方や考え方に芯がない。誰もが持っている、唯一無二の考え方がない。

 例えば、人々が共通して努力し求める結果を、尊ぶべき栄光を、俺は勝手に見下している。冷めた感情で見つめている。手に入れてしまえば、実際にはそんなものなのだ、と。テストの試験結果や青春における成果など、あらゆる達成なんかがそれにあたる。現につい先日まで、俺はプライドや理想といったモノを失いかけていた。

 そんな淡い兄を。妹は消させないように、つなぎ止めておきたいのだ。ふとした思いつきで命を絶ってしまわないように、見張っているのだ。

 ――あの日々が、終わりを告げたときから。

 だが、その心配に気を揉むことはない。


「大丈夫、もどってくる」


 俺は人生を投げ出すまえにやるべきことを、みつけてしまったから。

 それはとても煩わしくて、憂鬱だ。不穏でもある。

 けれど、知らないでは済まされない。何もできない無力でも、見届ける必要だけはあるから。


「大丈夫大丈夫って……そう言って、いつもお兄ぃは――!」

「夕飯」

「っ、な、なに」


 激昂しかけた妹の声にかぶせ、俺は頼み事をした。

 背中を向け、扉に手をかけながら。


「ラップしといて」


 虚を突かれたような表情を扉の奥に隠して、俺は夜に繰り出した。




 柄にもなく、暗い道を早歩きで進む。

 鐘之宮市の一画にある住宅街は静けさに包まれているけれど、無音ではない。家々から漏れる生活の気配には、食器を洗う音や子どもの声が含まれている。食事どきゆえに、空腹を誘う匂いもあちこちから漂ってきている。道端だって、真っ暗闇というわけではない。立ち並ぶ電柱の明かりはジー、と鳴っているし、脇の水路は相変わらず。自身の靴音は規則正しく進んでいた。

 静寂に支配された街。人々は屋根のしたへ潜り、暖かな憩いに浸っているのだろう。俺は夜道を進みながら光を過ぎていく。

 胸騒ぎに反し思考はクリアで、不思議な夜だった。自分でも驚くほどに。

 数分ほど歩くと、やがて公園がみえてくる。

 小さいころはよく通った場所だ。遊具なんて上り台とブランコしかないが、子どもの時分はどうしてか楽しめていたものだ。

 それも過去の栄光ではあるが。現在はボール遊びも花火も、何なら騒ぐのも禁止されていて、大人はもちろんのこと、子どもすら滅多に近寄らない。この時間帯ともなると、敷地内の街灯も消灯している。

 だが、好都合だ。

 照らす光は月明かりのみ、人は寄らず目立たない。

 短時間であれば、ここは絶好の場所だった。


 すっかり闇に順応しきった視界で、入り口のポールを抜けた。

 じゃり、と靴裏の感触が変化し、気持ち足音を消すように奥へと進む。すぅ、と空気が気道を通りやすくなった気がする。ここで感じられる特有の解放感は健在みたいだ。

 ポケットの中身は暴れ出しそうだった。冷たい爆竹を詰め込んでいるみたいで、痺れが腕から伝わり、血液に流れ込む。例えようのない不思議な意識が循環。「はやくしなさい」と言わんばかりに俺を急かしていた。

 上り台へ立つ。ドーム型の、内側に入り込める遊具だ。

 こうして数年ぶりに立つと、結構ひくい。目線の先は普段と大して変わらなかった。そんなどうでもいい感嘆を押しやり、ソレを出した。

 握った宝石が、空気に晒される。

 指の隙間から、淡く蒼い光が漏れ出ていた。眩しいほどではない、目に優しい光だった。


「――、」


 息を呑んで、俺は指をひらいた。

 瞬間、隠れていた宝石が姿をみせる。顔を照らし、夜闇に微かな花を咲かせたようだった。

 宝石は、バチバチと弾けていた。さながら熱した鉄板上の水のように手のひらの中心で色を放つ。不規則に線を変えて、影響されてか自分の心拍があがる。

 宝石の震えは、怯えからくるものだろうか。それとも単に、同じ空の下で産声を上げた仲間に対する、身震いだろうか。

 弾けそうで弾けない。割れそうで割れない。綺麗で強固な宝石は、どこまでも持ち主をそそのかす。はやく使えと囁いてくる。いつか失った色彩は純真に、一切の曇りなく心に訴えかけてきていた。

 と、そこで無意識にブレーキがかかり、俺は気を引き締めた。

 釘付けになりかけていた視線を閉じ、今にも飛び出していきそうな宝石を指で握り込む。一瞬だけ伝わる、熱さと冷たさの区別がつかない刺激に堪えた。

 静まる動悸、帰ってくる周囲の環境音。

 きっと俺は、宝石の引力に引っ張られそうな自分を鎮めるために、家を飛び出していた。


 薄く目蓋を持ち上げる。

 視界に淡い光はなかった。共鳴する宝石も、物言わぬ結晶に戻っていた。


「っ、はぁぁぁあ……」


 僅かなあいだ、止めていた呼吸を再開する。

 肺に夜の外気を取り込んで、空を仰ぐ。手足に血流が再び循環していく感覚が襲い、軽く目眩もした。

 ああ、懐かしい。この船酔いとも偏頭痛とも異なる気怠さは、俺にとって良くも悪くも大切で、甘く、そして苦い。きっと俺は初めてではないから、こうも影響が大きいのだろう。

 吐息に色はない。

 周囲は気配も音もない。

 風は頬を撫でるばかりで、鬱陶しさを運ばない。

 ただ、明るく照らす月明かりが顔を覗かせていて、そこにねずみ色の雲がさしかかろうとしているのだった。

 俺は佇んだまま、ぼんやりと過去に思いを馳せてしまう。あの日々の最中、記憶に焼き付けた空模様はどれをとっても特別で、できることなら写真に現像してフレームに閉じ込めたいとすら感じさせる感傷があった。今はもう、見る影もない。きっと俺にとっての空は、どこでとか、いつごろだとか、そういった理由で左右される綺麗さではなく、『誰とみるか』が全てだったのかもしれない。なんにせよ、もはや無慈悲な現実に奪われたあと。落ち着き払った呼吸を意識すると同時に、自嘲気味な笑いがこぼれた。


「俺は、魔法使いにはなれない」


 弱音は誰に向けるでもなく、ただ空気にさらわれていった。手のひらの水色だけが、黙って耳を傾けてくれた気がした。


 直感ともいうべき何かが、始まりを告げていた。

 だれもいない物静かな夜に包まれて、俺は懐に宝石を仕舞い込む。そして上り台から降りて帰路に着くと、明日からの気構えを新たにする。

 ひとつ、意外な発見があった。

 年月が経った今、これからはじまるであろう非日常に珍しさと興味を抱く反面、巻き込まれることに関しては気乗りしない部分もあったはずなのだが……驚いた。

 胸の奥に眠る、あの日のささやかな野心――それが、こんなにも強く燃えていたなんて。

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