1-2

 とりとめもない一日は今日も幕を開けた。

 決められた空間、決められた規則、決められた仲間。

 息苦しさに耐えながら詰まった空気を肺に送り込む。律儀に登校し、協力な睡眠導入剤を耳から流し込む生徒たち。黒板に現れては消える文字を一心不乱に書き留め、長すぎる時間の流れを待つ姿はモルモットのようにも思えてくる。

 そんな集団のなかに、俺は何食わぬ顔で混ざっていた。冷たい宝石を懐に忍ばせて。そのせいか、常日頃感じていた疎外感が今日は一層濃い気がする。

 倍率の偏ったレンズを通してみる俯瞰が、現実からはじき出されたかのような錯覚を生み出すことを、俺は知っていた。正確には思い知らされていたという方が正しいか。この空間どころか世界中のだれもが与り知らないところで、およそ普通とはかけ離れた概念がある。その事実を、経験を。だれにも告げられず孤独に抱えて生きるのはかなり苦しい。

 ペンをまわし、鋭利な先が綴った文字を指す。

 身の入らない授業の音声を聞き流しながら、俺は眠気を考え事で上書きした。できることを探し、みつからずを繰り返していた。のどかな午前は、俺の懸念を嘲笑うようにゆっくりと過ぎていく。

 ひらかれた教科書の『現』という一文字が目に留まり、また孤独感に苛まれる。

 手を伸ばせばモノに触れられる。声を発すれば皆が反応を返す。肌を撫でる空気も、睡魔を連れてくる気温も、何もかもが現実だ。俺は依然として日常の一員としてここに座っている。

 当たり前の時計、反して遠い環境音。空っぽで、得も言われぬ虚妄の気配。きっと幾つものニセモノが混ざっている。俺は未だに、窓ガラス越しの世界を見つめていた。

 一年かけてどうにかこうにか薄れてきたというのに、まさかまたこの感覚を思い出すことになるとは。これから明るみに出るであろう出来事を想像すると頭がいたい。

 教師が「小テスト」という単語を発したこともあり、今日何度目かのため息がついて出てしまった。

 それを見て、現代文の教師兼担任のみどり先生は眉を動かした。気づいてしまったこちらもこちらだけど。先生は数秒間の無言を差し向けてくる。

 無表情に「なにか不満でも?」と書かれていた。

 俺はまえの席から小テストを受け取り、「いいえ、なにも」とちいさく首を振った。

 先生はすぐに興味をなくした様子で、腕時計に視線を落としながら話す。


「じゃあ私の時計で……十分間! ハイ始めてください!」


 パン、と手を叩く音を合図に、生徒たちは配られた答案用紙を一斉に裏返した。

 俺だけが置いていかれたように、呆然としていた。




 結論を言うと。

 俺は小テストが原因で呼び出しを受けてしまったのだった。


 すでにクラスには知れ渡っているが、どいつもこいつも「あぁ、またお前ね」とでも言わんばかりに視線を寄越すだけで、大した興味は示さない。こうしてお昼どきに準備室に赴くのもこれまでに何度かあった。

 俺は足をとめて、『準備室』の文字を確認した。ノックと同時に名乗り、重みのある引き戸に手をかけた。

 風通しの良い廊下から入室すると、独特の空気が香った。

 社会科や英語とは異なる、国語準備室ならではの雰囲気が鼻をつく。年季の入った紙の匂い。古典のイメージが部屋の印象を補い、雑然とした光景も「これも趣というやつか」なんて思わせる。ちょっと手近な書類をどかせば百人一首とか習字道具とか出てくるかもしれない。

 積み上げられた辞書の向こうから、女物の腕時計を巻いた腕が手招きする。

 他の準備室よりも手狭に感じるのは、あちこちに積まれた書類や原稿用紙、教科書を始めとした本が原因だろう。

 ほかに誰もいない準備室で、身体を横にして奥へと進んだ。


「来ましたね~? 不真面目クン」

「どうも」


 イスを回してにやりと笑う先生に、頭を下げる。顔をあげると、和な準備室のイメージに似合わず先生は珈琲を飲んでいた。


「一応俺にも、三上春間という名前があるんですが」

「名前欄すら空白で出す生徒がなにを言っているんですか!」


 先生はぷんすこ憤慨する仕草で自身の膝を叩く。授業中は「デキル女」みたいな理想の教員タイプのくせに、フタを開けてみれば年相応。初めて知ったときには、十歳以上も歳が離れていることに驚いたものである。今では歳のちかい大学生のような感覚だ。学校でもこの事実を知る生徒は意外と少ないらしく、知れ渡ったらちょっと話題になりそうではあった。

 ……俺が煮え切らない反応をしていると、先生は呆れたように話した。


「どうして呼ばれたか、わかりますか?」

「雑用ですか?」

「な・ん・で! 私が生徒をこき使わなきゃいけないのですか! そういう些細な頼み事なんてするから、あとで保護者に文句を言われるんです!」

「俺は別にかまいませんよ。雑用くらいで『こき使われた』なんて考えません。というか、みどりセンセの人気ぶりなら誰もそんなこと考えませんって」

「言われますぅー! 妬みとかその他諸々で女生徒のご家庭からありがたいお言葉をもらえるんですぅー! 昨年の私みたいにね……」

「言われたんすね……」


 ただでさえ狭い準備室がしんみりしてしまう。教員もいろいろと板挟みで大変なんだな、と漠然とした同情を覚えてしまう。もしかして、準備室にほかの先生がいないのは、この人のいたたまれなさを気にして席を外しているからではなかろうか。そう考えると、中々に可哀想だ……。

 そんな俺の視線をコホン、と受け流し、先生は本題に入った。


「呼び出した理由はコレです。さっきの小テスト。いいかげんコレはやめてくださいって、まえに言いましたよね?」

「コレというのは、真っ白で提出することですか?」


 先生は冷ややかな目つきで言う。


「そうですよ。用事や質問があるなら素直にそう声をかけなさいってこと。名前欄まで空白にして超遠回しに申し出ないの! 一々『えっ、名前書いてないの誰だろ』って名簿チェックするこっちの身にもなりなさいっての」

「でも先生は気づいてくれましたよね? 尋ねたい質問があるときの合図」

「これだけ繰り返せばそうなります! そのうちモールス信号とか使ってこないでしょうね!?」


 ははは、あり得ませんよ、と笑ってみる。

 先生は苦い顔をしてため息をついた。小テストをひらりとデスクのうえに置き、腕組みをした。


「それで? なんです今度は」


 俺はくすりと笑った。

 なんだかんだ言ってちゃんと聞いてくれるあたり、このひとは本当に良い性格をしているようだ。生徒に人気なのも、妬まれるのも納得。ただ、こうして現実を目の当たりにするとそれも変に思えるから不思議でもある。

 ちらりと机上に目を移すと、食べクズのように丸められたコンビニ惣菜パンの袋が転がっていた。いつ伺ってもこの人の昼食はコレだ。カップラーメンの日は幾らかマシかな? という程、基本的にズボラな食生活をしている。先生に家庭的な彼氏でもできて、彩り豊かなお弁当になることを願う。


「お訊きしたいことは二つあります」

「はいはい、どうぞなんなりと」


 手のひらをヒラヒラさせて先生は促すので、俺は遠慮なく頭の片隅にしたためていた言葉を口にする。


「購買に置いて欲しい商品の要望を出すことは可能ですか」

「……購買に? まあ不可能ではないでしょうけど、ちなみに何を?」

「サイダーです」


 先生は怪訝な表情をした。頬杖をついて、教員としてどうかと思うほどの態度だったというのに、真正面から聞く体勢へ移り、俺の言葉に興味を示す。まるで、愛想のない子どもが垣間見せた子どもらしい一面を発見したかのように。

 

「どうしてサイダーなの? ウチの購買にはもう売ってるでしょう?」


 疑問はもっともだった。

 たしかにこの学校の小規模な購買といえど、飲み物は並んでいる。であれば、当然炭酸も二、三種類は置かれる。自分がお世話になったこともあるし、間違いはない。

 だけど、それではだめなのだ。


「蒼矢サイダーです。ペットボトルの」


 先生の眉間にシワが寄る。心なしか、「何言ってるのこの子」とでもこぼしそうな表情だった。


「何言ってるの、この子……」


 実際に言われた。

 俺は口元に笑みを浮かべて説明する。俺らしく遠回しに、ちょっと話題を変えて。


「先生は好きな飲み物はありますか? 食べ物でもいいです」

「ポテトとハンバーガー」


 ジャンクっ。

 それ絶対『好きな食べ物』って思考じゃない。『簡単に買ってこれてそれなりに美味い食べ物』って思考でのファストフードだ。学校の近所に某有名ファストフード店があったらいいな、みたいな感覚で答えてる。それを生徒の目前でしれっと答えるあたり、覗きこんではならない大人特有の闇も感じる。

 なので、詳細はあまり触れないでおこうと決めた。


「ま、まあいいです。先生もファストフードを注文するとき、ちょっとしたこだわりとかあるでしょう?」

「こだわり?」

「そうです。ハンバーガーならこの味がいい。あの店のポテトは太いからこっちの店の細いポテトにしたい。店内で食べるより、紙袋でテイクアウトしてわくわくを感じたい。とか」

「たしかになくはないですが。私も肉々しいヘビーな感じのバーガーが好きですしね」

「それと同じです。俺はペットボトルの蒼矢サイダーが好きなんです。炭酸としては定番な商品のはずなんですよ。どこのスーパー行っても必ず置いているくらいの。だっていうのに、ここの売店にはそれがない。昼に冷えた一本を手に入れるには、五分の距離を歩いてコンビニに行かなければならない。わかりますかこの苦痛が」


 先生は数秒の間考え込んで、頷いてくれた。理解は得られたようだ。

 しかし面倒な仕事は増やしたくはないのか、切り返して抵抗してくる。俺は前もって準備していた武器を構えた。


「だったら買いに行けばいいのでは? 徒歩五分なのでしょう?」

「面倒くさいじゃあないですか。先生もわかるはずです」


 そう言いつつ、俺は先生のデスクを指差す。

 先生が指先を目で追うと、丸められた惣菜パンの袋が転がっている。今朝方コンビニで買って置いたであろうソレの残骸は、俺たちが同類であるなによりの証拠だ。だから面倒くさがりなこの人なら理解を得られる。俺は目線で「仲間です、助けてください」と訴えた。


「……」

「……ね?」


 先生のこの世の終わりみたいな表情が、こちらとデスクの上を行ったり来たり。

 我慢できず、わずかに口の端がつり上がってしまった。

 決まりの悪い表情ののち、深く長いため息がひとつ。それから、凍てつく視線が俺を射抜いた。


「そも、あなたが回りくどい手法でアポを取らず、手っ取り早く事を済ませておけばいい話ではないですか。その方が時間が残ります。面倒なことになっているのはあなたの自業自得です。自分の足で買いに行きなさい」

「いや、でも――」

「元を正せば、あなたが小テストを白紙で出したりなんかせずに、教室で呼び止めておけばよかったのでは? 今ここへ赴いていること自体が面倒なことなのでは? そんな面倒なことをしているあなたなら蒼矢サイダーを買うために外出することくらい、何てことない苦労なのでは!? っていうかサイダーの話をしにきたんですか!?」


 まくし立てるような先生の反論が刺さり、思わず呻く。学校では時々みられる、叱責イベントのお手本がこの国語準備室にも訪れていた。

 内容はしょうもないけど。

 そんな光景を、ちょうど戻ってきた別の教員が見ていた。気配に振り向いた俺とみどり先生――蒼矢サイダーの話題で叱る教員と教え子の視線が、顔を覗かせた男性教員に注がれる。

 とんでもなく気まずい空気が流れた。シン、とした室内が痛かった。

 おそらく、準備室内に響くくらいには張り上げられていた声を耳にしたのだろう。男性教員は目を背け、そっと引き戸を閉め直す。タン、という音がして、足音が去る。

 振り向いていた俺と先生は再度向き直った。


「……ふ、ふたつめの質問は?」


 みどり先生はどこか泣きそうな顔で、続きを促した。

 蒼矢サイダーの件は却下になった。



◇◇◇



「今のところ、変な出来事はありませんね」


 それが先生の答えだった。

 「強いて言えば、最近小テストに白紙のものが混ざるんですよね」などと言い出したときには、苦虫を噛みつぶしたような顔をするしかなかった。実のところサイダーの件は二の次で、本命はふたつめの質問――周辺で変わったことはなかったか情報を集めること――だったのだが、ややこしい方法でアポを取ったことが裏目に出たらしい。結局からかうだけからかわれて、有益な成果は得られなかったワケだ。

 だけど、それも予想の範囲である。

 たったひとりに探りを入れたところで大した獲物は得られないことなどわきまえている。まして、あの宝石は今朝現れたばかり。そうそう事が起こるとも限らないのだ。だというのに、じっとしているのは何か違う気がする。宙ぶらりんな感覚。やるべきことを探してキッチンへやってきて、でもそのやらなければならないことが見つからなくて、右往左往している気分だ。

 ……気を張りすぎているのかもしれない。

 そう思わせるに足る、説得力のある声が響いた。


「アッハッハッハッハ! それはたしかに、君らしい!」


 大した成果も得られずみどり先生の根城を後にした俺は、この学校で唯一羽を伸ばせる場所にいた。

 一階の端っこにひっそりと待つ美術室。昼どきは特に人気が減り、物静かな十二時を過ごすことが可能だ。白く重い木製の扉を潜れば、絵の具の匂い。布のかかったキャンバスに、不規則な形状の模型。奥にはデッサン用の石膏像が並んでいる。国語準備室とはまた異なる味を醸し出す空間を抜け、現在は開け放たれたベランダに居た。


「そんなに面白いことか? 俺はただ……いきなり本題に入るのも失礼な気がして、ちょっと遠回りして尋ねただけだぞ。今回はそれが裏目に出たけど」

「はははっ、ふふっ、くふっ……ご、ごめんごめん、面白がっているわけじゃないんだ。ただ歪みない君にボクがツボってしまっただけでね」


 さして広くもない美術室のベランダには、サンダル専用の靴箱があって、雑巾を干す物干し竿があって、それ以外はなにもなかった。用務員が整えた生け垣との間には小さい畑が――なんてことも当然なく、本当に何もない。あるとすれば一本の細い樹木くらい。何もないからこそ、この少年はこの場所に陣取っている。

 低めの靴箱には、絵の具とバケツ、パレットが乗っていた。汲まれた水はすでに半分が濁っており、筆を動かす彼のスケッチブックは色彩豊かな絵が占めている。

 彼のことは『木陰』と呼んでいる。

 いつも丸イスの上にあぐらをかいて、ベランダの木陰で絵を描いているから『木陰』。基本的に運動着の半ズボンで、耳が隠れるくらいには髪も長く中性的な顔立ちをしているため、気ままに過ごす妖精だと言われても違和感はない。それくらい、俺とは異なる立ち位置で、自然と大衆の外側にいる。あとは……安直だが、「樹の根本でテントでも張って生活してそう」なんてイメージから、俺は『木陰』なんて呼び方を連想したのだった。

 そんな木陰とは一年時からの付き合いだ。

 居場所のない昼どきにはお邪魔させてもらうことが多い。天気の良い日にベランダへイスを引っ張り出す彼は、居場所――避難場所と言い替えてもいい――を提供し、代わりに俺は話し相手になる。それが互いの間で交わした契約だった。

 今日もみどり先生とのやり取りを話題に言葉を発し、木陰は穏やかに笑った。


「いやあ、フレグランスな先生も苦労をしていらっしゃる」

「フレグランス? みどり先生が?」

「そうさ」


 ハテナを浮かべる俺に、木陰が黄緑色を塗りながら微笑む。


「まあ、彼女のは目立たない香水だからね。準備室ではコーヒーかインスタント麺の匂いで上書きされているんだろうけど」


 言われて、納得する。香水を台無しにしているせいで、繊細な嗅覚をしている木陰でもなければ気づかないのかもしれない。あの先生の準備室を尋ねるときは大抵昼どきなので、今の今まで知らなかった。

 俺は購買の売れ残りパンをお茶で流し込んだ。


「察するに、君が蒼矢サイダーを飲んでいないのは先生との対話が原因だね?」

「ご明察。せっかく貴重な昼休みを消費したっていうのに、ツいてないだろ」

「ああ、両者痛み分けってカンジだね。まさしく君の遠回し戦法は爆弾さ。双方に得がないことなんてザラだろうね」


 木陰はスケッチブックに視線を落としたまま、緩く笑みを浮かべる。対する俺は春のそよ風をカンジながら、そんな彼の横顔をなんとなく眺めていた。

 ひとつの話題が途切れた合図を、どちらともなく受け入れた。

 美術室のベランダに影をつくる、一本の幹。もう少しすれば桜が咲くだろう枝には、つぼみが見てとれる。木の葉の影がさわさわと擦れて、喧噪から遠く離れたこの場所に癒やしを運んでくる。

 この校内で、ここ以上に落ち着く場所があるだろうか。できるなら、午後は寝転がって昼寝をしていたいほどの陽気だ。

 パサパサのパンを食べ終えて、お茶で喉を潤す。それから、残りの時間を堪能すべく仰向けになった。

 バケツで筆の色を落とす音。

 紙の上をなぞる気配。

 微風に香る春の匂い。

 ふいに、木陰が問う。


「ボクには訊かないのかい?」


 その声を耳にして、すこしだけ視線を向ける。

 空の青色と白色から移した視界には、不思議そうな表情をする彼がいる。


「てっきりボクにも訊きたがっているのかと思ってたけど」

「あるのか? 昨日までと違うこと」

「それなりにはね。ボクの大好きな友人が、炭酸を飲んでいなかったり」

「そういうモノじゃない」


 ふう、と首を振る。

 木陰は「冗談だよ」と微笑んだ。そして再び絵に向き直ると、聞き取れるか怪しい大きさで、ぽそりと口にする。


「君がいつもと違うのはホントだけどね」

「……」


 『いつもと違う』。それは原因のわかっている変化だ。それも当然、俺の探しているモノではない。けれど、木陰の聡いところはやはり侮れないようだ。

 内心で感嘆しながら、また空に顔を向けて目を閉じる。

 一瞬だけやってきたくすぐったいような、もどかしいような感覚が薄れ、また平和で有限な昼休みが戻ってくる。多くは語らない簡潔なやりとり。それはウソのように緩やかに、木の葉のさえずりへ紛れ、消えていった。



 ――そうしてしばらく。


 木陰の声で、俺は目蓋をあけた。


「もうすぐ午後の授業だよ。三上――もとい、不真面目クン」


 眠気でうつらうつらしていたところだというのに、やはりこの学校は気にくわない。永遠にこうしていたかった。

 だけど、木陰に起こされては動かないわけにはいかない。

 俺は重い上半身を起こして、欠伸をした。先生の真似をして『不真面目クン』と呼ぶ彼を責める気にもならず、俺は眠気を晴らすように伸びをする。そして立ち上がると、動こうとしない木陰の背中を見やった。

 木陰は依然として筆を動かし続けている。


「木陰は戻らないのか?」


 肩越しに、木陰はいつもの調子で答える。


「いずれ戻るよ」


 そう言う彼が美術室を出る姿を、俺は一度だってみたことがない。みどり先生の香水のことを知っているあたり、授業には出ているのだろうが。

 それでも。

 どうしてかコイツは、ずっとここに座っているような気がしてならない。

 数少ない友人の秘密を暴き立てるほど愚かではないし、追求はしないが。

 俺は静かに、踵を返した。


「君は」


 背を向けた俺に、木陰が語りかける。


「また戻ってくる気はないのかい?」


 いつもの流れが、木陰の小さい声で再生される。この場所でこの時間を共有する互いにとって、そのなんてことないやりとりは別れの挨拶代わりになっていた。

 『また、戻ってくる気はないのか』。

 一年次の頭のころに、一ヶ月だけ美術部に所属していたことがある。とくに才能もなく、これといって楽しさを見いだせるわけでもなく、結局ひっそりとフェードアウトしてできあがったのが現在の自分だ。

 木陰はとっくに退部した俺を未だに勧誘し続けている、唯一の美術部員だった。彼曰く、センスが好みらしい。俺にはよくわからない。

 頭をかいて、答える。


「何度も誘ってくれるのはありがたいけど、無理だよ。俺には」


 ぴた、と木陰の筆が止まり、また動き出す。感情の些細な乱れが見られるのもいつものことだった。

 昨日までは色々と理由をとって付けて考えていた。けれど今は、明確な理由ができつつある。その予感はきっと的外れなんかではなく、現実になる。避けては通れない波乱と奇跡が待ち受けている。懐に沈めた宝石は、こうしている今も脈打っている。

 ――君がいつもと違うのはホント。

 木陰が口にした、昨日からの変化。求めている情報ではないけれど、間違ってはいない。今日の自分には、応えられない明確な動機ができていた。きっと、木陰はその変化をも見抜いていたのだろう。

 わずかにこちらを振り向いて、木陰は笑う。そして、いつになくあっさりとした口調で話すのだ。


「気にしないで。できれば部活中も君と話したいだけなんだ。ボクが」

「……また勘違いを生みそうなことを。一部の美術部員が聞いたら、黄色い声をあげて興奮するぞ」

「あながち間違っちゃいないさ。ボクは君たちを愛しているからね」


 一瞬だけ、驚く。

 変化しているのは、少なくとも俺だけではなかった。

 いつもとすこしズレた問答。

 いつもとすこしズレた調子。

 いつもとすこしズレた温度。

 日常のなかに放り込まれた宝石は、見えないけど確実な変化をもたらしている。そこに確かな気配を感じ取って、探していた回答の納得を胸に抱く。


 五分まえのチャイムが鳴り響く。美術室のふたりは最後に交わした視線を、ゆっくり逸らす。


 俺は薄く笑って手を振った。またな、と。

 木陰は筆を持った手で振り返した。またね、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る