一章 さよならは必要ない。

1-1

 再生されていた情景。記憶という引き出しの中、もっとも色濃く残っている瞬間が遠のいていく。

 目を覚ますという行為は、いつだって憂鬱だ。

 充実した生活を送る人々は「気持ちの良い朝だ」なんて表現をするけれど。実際、どんな覚醒だろうと夢の中にいる時間には勝てない気がする。夢見心地、という四字熟語があるくらいだ。厳しく無情な現実に比べれば、眠っている方が遙かに幸せだといえる。人間が一日の半分ちかくを睡眠にあてるのは、辛く苦しい現実を生き抜くために幸せな時間を欲しているからなのかもしれない。

 今まさに幸せな時間から引き戻された俺は、肌寒さで二の腕をさすった。

 固いイスの上で身じろぎをして、わずかに軋む音が響く。本来耳にしてもなにも感じない劣化の声は、教室の空気を揺らす最初の一音だった。

 凍えそうな手足が震えを再開して、吐く息も白く濁っている。無人のクラスを確認するまでもなく、俺はまだひとりであることを自覚する。


 どうやら眠ってしまっていたようだ。

 月で言えば春だから大丈夫だろう、と油断していた自分がバカみたいだ。携帯で気温を確認すると、早朝の鐘之宮かねのみや市は一桁を記録していた。まだまだ冬の気配が残る教室で、しかも暖房も付けずに眠るなど自殺行為にも等しい。大した目的もなくこんなことを繰り返している自分が、我ながらひどく惨めに思える。


 だけど、きっと明日も同じことをするのだろう。このどうしようもない三上春間おろかものは。

 いつまでも引きずっている隠者にはお似合いだ。


 耐えきれず、窓際のストーブをつけた。

 微かな稼働音を放つそいつの前で暖かい空気を待ちながら、俺は外を眺めた。

 春とはいえ、未だ桜は咲かず。それどころか、黒い幹は霧に覆われほとんど見えない。二階からでは距離が空くため、つぼみの有無も確かめられなかった。代わりに辛うじて見える生徒玄関はというと、当然誰の頭もみえない。一番はやく部活動が始まる生徒は昇降口を使わず部室棟へ直行だし、用事もなくやってきている生徒など居るはずもなかった。

 時刻は六時五分。

 運動部の生徒が動き出した頃合いだ。体育館は今ごろバレー部が準備をしているだろう。校舎を挟んで反対側の校庭では、陸上部がトラックを緩めに走っているに違いない。

 対して、教室はだれもいない。下級生上級生含め、自分のように教室で時間をつぶす高校生がいるかは怪しい。まるで自分ひとりだけのクラスではないかと錯覚するほど日中の騒々しさからかけ離れ、息を吸うたびに肺のなかを冷気が洗う。ようやく働き出したストーブも頼りなく、埃の舞いを地面に落とすようだった。

 だれもいない。

 だれも話さない。

 ただ記憶の声だけが語りかける時間。

 今日も長針が動くだけで、世界に大した変化はない。

 そのまま、そのまま。何度目かの分刻みを聴きながら、いつもどおり、変わり映えのない景色をぼんやりと眺めていたときだった。


 唐突に。冷たい静寂で満ちる教室が、音を拾った。

 かろん、――と。


 軽い音が背中ごしに響く。

 人の気配を察知するのは上手い方だと自負していたのだが。いつのまに早朝仲間が増えていたのだろうと落胆した。物思いにふける貴重な時間が奪われてしまうのは、なかなかに困る。だれにも邪魔されない、一々気遣われることもない環境は案外すくないのだと、今の自分は思い知っていた。

 ここはひとつ文句でも言ってやろうかなどと思案しながら、背後を振り向いた。


「……あれ」


 俺は辺りを見渡して、首のうしろをさすった。

 人影どころか、虫一匹すら見当たらない。

 引き戸の出入り口はどちらも開かれた気配がなく、埃も舞っていない。逐一把握しているわけではないけれど、机やイスの位置も変化はないように思える。目に映る月曜の教室は、依然として沈黙を保っていた。

 聴覚がおかしくなってしまったのだろうか。長いあいだ無音に身を置いていたせいで、あるはずのない幻聴が聴こえる体質になったとでもいうのか。さすがに寒いなか眠るのはまずかったかもしれない。明日からは場所を変えるか、時間を変えるなりしなければ。

 なんて密かに危機感を感じていたところで、俺はみつけた。


「氷――じゃあ、ないな」


 視界の端に転がるちいさな輝き。窓から二列分さきの自身の机に、身に覚えのない物体が置かれていた。

 ……ゆっくりと、ソレに近づく。

 一歩を踏み出すと、背後の窓から明るい光が差し込んだ。朝特有の陽が氷を溶かすように照らし出す。机とイスが影を濃くして、冷たさと僅かな暖かさの入り交じった空気が立ちこめる。

 物体は、日差しを散らしていた。

 手のひらに乗るほどの大きさしかない。それでも存在感だけは別格で、角張った輪郭が内部で光を乱反射させ、木目の天板に水色の色彩を描いている。


「宝石?」


 そっと、摘まむ。

 想像よりも重みを感じ、高価なモノなのではないかと危機感を覚える。手に収まった宝石は冷たくて、温めていた体温をいくらか奪っていく。

 周囲をもう一度確認するが、やはり異常はみられなかった。天井に穴があいていることもなく、この石は本当に突然現れたのだ。

 どこから降ってきたのか知らないが、何か得体の知れない怖さがある。巻き込まれれば危険だと、もうひとりの自分が危険信号を出している。

 だがそれ以上に、この高揚に似た感覚はなんなのだろう。胸が高鳴るほど美しくはなく、言葉を失うほど意外でもない、表現のしようがない非現実的な感覚。綺麗なだけの石ころのくせに、とんでもなく重い責務と未知が詰まっている。見た目からは想像もできない底なし沼の魅力をまとい、だれかが仕舞い込んだパンドラの箱を開けさせようとする。

 おかしいのは自分か、それともこの宝石か。

 ただ思い込みでそう感じているだけで、実際はなんの変哲もない宝石の可能性だってある。常人から見れば博物館に行けば拝めるくらいの物体かもしれない。

 いや、あるいは。

 あるいはこの宝石も自分も、どちらも「普通」から片足を踏み外していて。だからこそ、見えないなにかが共鳴を起こしているのかもしれない。


 ……一際おおきな音で、一分の針が刻まれる。


 捨ててしまうのは簡単だった。

 でも、きっとそうしないのは最初から決まっていて。この宝石を届けたどこかの誰かは、俺が捨てない選択をするという確信を持っているのだろう。理由のない根拠が偶然という可能性を度外視していた。

 そう。結局俺は非日常の気配を気にも留めず、運命に身を委ねるしかない。

 覚悟といえば聞こえはいいが。実のところ諦めに近い納得感が胸を満たしていた。短い息を呑めば、宝石の肌触りが馴染みはじめる。


 日差しに宝石を翳すと、色彩は一層ひろがった。

 淡く、鮮やかに。細めた視界で、不規則な図形を描く。


 その中心。

 『1』という数字が、水色の光に漂っていた。

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