森林の日


 ~ 五月二十日(金) 森林の日 ~

 ※春和景明しゅんわけいめい

  穏やかで、日の光の明るい春の日。




 深い緑色を抜ける、境界線のおぼろげな木漏れ日から。

 ふわり零れ落ちる砂糖水の香り。


 光に色があるとしたら。

 春は、まるでシャボン玉。


 淡い虹色が。

 ゆっくりと肌を滑り落ちていく。


 今日は、自習となった四時間目をサボって。

 近所の丘まで、借りた自転車でピクニック。


 大き目のシートに、ごろり横になりながら。

 ここ最近の疲れをいやす時間にすると決めた。



 立ち向かう問題の難易度はともかく。

 制限時間と配点が大きなことがプレッシャー。


 思ったより疲れがたまっていたのか。

 横になった瞬間、勝手にまぶたが落ちる。


 でも、そこに広がるのは暗い世界ではなく。

 一面を満たす、春の虹色。


 眩し過ぎて顔をしかめたその時に、ふわりと目にかけられたタオルから。


 気の安らぐ。

 いつもの香りが漂って来た。


「……ありがと」

「いえいえ」


 せっかくかけてくれたのに。

 起き上がるのも忍びない。


 でも笑顔でお礼を言いたいから。

 妥協案としてタオルを外す。


 すると、揺れる真っ白なステンドグラス越しに微笑む。


 舞浜まいはま秋乃あきの


 その美貌が俺を覗き込んでいた。


「えっと……。今日ももって来た……」

「まじか。じゃあ、ちょっと目を通そうかな」


 秋乃が鞄を開けると。

 いつものように。


 様々な職業の募集要項。

 様々な大学からの就職先一覧。


 そんなものが顔を出したんだが。


 最後に一つだけ。

 心にゆとりをくれる、遊び心が飛び出して来た。


「夏日になるからね」


 彼女だ取り出したのは。

 竹の骨も涼しげな一枚のうちわ。


 シャクヤクの絵柄が秋乃に似あうなと思いながら。

 俺はいつものように、秋乃の心づくしに目を通す。


 気持ちは嬉しいが。

 やっぱりこういうのは、生の声を聞かないとピンとこない。


 でもしっかり役に立てないと。

 そう思いながら、疲れた頭に情報を叩き込んでいると。


 頬を優しく。

 涼しい夏の風が撫で始める。


 ゆっくりと、心地の良いリズムで揺れる前髪。

 南生まれの香料をまとった貴婦人を乗せた高級な列車は。

 おすまし顔で山肌に立つスミレを驚かせないように静かに走り抜ける。


 そして空へ達すると。

 シャボン玉色の光の中に溶けて消えていった。



 今日は、夏日になるから。

 彼女はそう言った。


 俺のためにという言葉を巧みに隠して。

 不意を打って、俺の胸に花を一輪挿して行った。


 ……朝から気づいていた。

 秋乃の横顔に落ちる疲れの色。


 それも。


 『今日は、夏日になるから』


 同じ意味を持っているんだろう。


 俺のことを一番に案じてくれる。

 夏の涼しい汽車を牽くモンシロチョウ。


 俺は、心から浮かんだ笑顔のまま。

 牡丹の手からシャクヤクを取り上げると。


「まあまあ。ゴロンと横になってみ?」

「せ、制服、皺寄っちゃう……」

「いいからいいから。そんで目をつむって」

「うん。…………おお。涼しい」


 秋乃よりも、ちょっとゆっくり目。

 ありがとうの気持ちを全部込めて。


 やさしく。

 やさしく。


 そよ風を送り続けてあげた。



 木漏れ日の中。

 笑顔を浮かべて眠り続ける白雪姫。


 でも、まだお芝居には慣れていなくて。

 どうしても恥ずかしくなって。

 むにゅむにゅと口をゆがめると。


「も、もういいや。……おはよう」

「もう昼だけどな」


 そして、照れくささを誤魔化すように慌てて起き上がると。

 大きく伸びをする。


「さ、五月晴れって感じ……、ね? 爽やかで、風が気持ちいい」

「そうだね」


 ……かつての俺なら。


 五月晴れって言うのは、本来梅雨の合間の晴れた日を差す言葉なんだと。

 そんな話をして、秋乃を苦笑いさせていたことだろう。


 雑学は人生を豊かにするが。

 発信する際には、否定の意味で用いられることが多い。


 秋乃が、気持ちいいと表現した言葉に。

 ケチをつけるなんて真似はしない。


 そう考えることができる程度には。


 大人になったのであろうか。

 秋乃のことを愛しているのだろうか。


「……うん。何となくだけど」

「何となく?」

「立哉君に合う仕事、思い付いた気がする」

「……春。とか?」

「そんなんじゃないよ?」

「じゃあ、林業」

「違うよ」


 秋乃は、柔らかい笑顔と共に。

 俺から団扇を取り上げて。


「まあまあ。ゴロンと横になって」

「もういいって」

「いいからいいから。そんで目をつむって」

「うん。…………で? 似合う仕事って?」


 そよそよと。

 心地のいい夏の風が。


 いつもの、大好きな香りを乗せて俺の頬を渡っていく。


 こんな幸せな時間から。

 連想された仕事。


 ずっと平和な。

 笑顔を運ぶ仕事とはなんだろう。


 俺はゆっくりと目を開いて。

 大好きな女性に微笑みかけると。


 そんな俺より、もっと幸せそうに微笑んだ秋乃が。

 答えを教えてくれた。


「扇風機」

「うはははははははははははは!!!」


 俺は、天邪鬼から団扇を取り上げて。

 その顔をひっぱたいたのだった。


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