第7話 無意識のヒロイズム

 なるほど、前坂くんの家は、一戸建てのようでした。話によると、両親が共働きで、家事はほとんど彼が行っているとか。


 ああ、なんて無欠なんてしょう。


「あちらの庭の手入れもあなたが?」


 一戸建てということもあって、部屋は広く、庭がありました。中にはバラやゼラニウム、ユリやチューリップが植えられて、華やかな花園が作り出されていました。


「いや、庭はほとんど母の趣味ですよ。母は忙しいので、水やりは俺がやってますが、それくらいです。」


 なるほど、心境を察して親孝行とは。その姿を想像して、私は感動しました。この花園も、彼の水やりのおかげで成り立っている。

 ああ、彼は一年生の時もそうだったんでしょうか。知りたい。気になってしまいます。


「俺の部屋はこっちです。」


 私は言われるがままに、二階への階段を登っていきます

 そのとき、上の階から。慌てた足音がした。

 私達はその子とばったり立ち会った。


「あ、お兄ちゃん。おかえり。で、そちらが例の——?」

「ただいま、茜。そういうわけだから、あんまり煩くしないでくれよ」

「りょーかい。じゃ、ごゆっくりー」


 そのまま彼女は階段を駆け降りて行った。

 

「妹さんですか?」

「そうですよ。明るくて良い子なんですよ。俺と兄妹とは思えなくらい外向的ですしね」


 彼は誇らしげに、かつ少し自虐的に言った。ああ、確かにここが彼の弱さと言えるかもしれないですね。謙虚さは美徳ですが、人には自分を肯定されて、満たされることも必要ですから。


「さあ、こちらへ」

「お邪魔しますね、っ」


 いざとなって私は少し止まってしまった。男性の部屋に入るのなどですから。


「どうしました?」

「いえ、なんでもありません。失礼します」


 私は覚悟を決めた。大丈夫、彼は、大丈夫のはずだから。


  ◯


「ふうん、綺麗な人ね」


 私はいちごミルクを飲みながら、さっき頭に刻んだあの顔を思い出した。


「彼氏はいない。いやアレはいたことないわね。となると噂は出まかせかな。」

「誰かに流された?いや、確率は低いけど、自分で流してる可能性もあるか」


 思っていることを口に出して、反芻していく。仕草、お兄ちゃんとの距離感、それくらいの簡単なことで、確定できる情報がある。あとは、勘かな。


「あとは憶測になっちゃうけど、あれは惚れてるね。いや、もうすぐ惚れるに近いかな」


 確かに彼女の視線は私に向いていた。ただ、私が過ぎ去ったあとすぐ視線はお兄ちゃんの方を向いたのだ。階段を下りる直前、振り返って確認したからわかる。


 あれは、確実に気がある。


「やっぱり、一人目にぴったりだ」


 ニヤけ顔が止まらない。いつかは始まるとは思っていたけど、なるほど二年の春か。


「ちょっと早かったかな。いや、お兄ちゃんのスペックを考えたら、めちゃくちゃ遅いんだけどね。」

「私が入るまで、あと一年でしょ?じゃ、あとだいたい三人くらいかなあ」


 独り言をつぶやく私は、まるで別人のように見えるのかな。お兄ちゃんには見られたくないな。でもお兄ちゃんなら受け入れて話を聞いてくれそうだな。


「ああ、あともうちょっとだけ待っててね。もう少しの辛抱だから」


 私は胸の高まりを抑えて、静かに自分の部屋へ戻っていった。


 ◯


 俺の部屋に入る前、確かに篠崎さんは恐れていた。

 何かを、怖がっていたんだ。

 

 俺の部屋に入ることが?まさか、噂が嘘だとしても、彼女が男慣れしていないなんて考えられない。だって距離感が近すぎる。いや、俺が女慣れしていないからか?コレが普通なのか?


「どうかしましたか?龍之介くん。早く座ってください。」


 ニコニコとした顔で俺を促す彼女には、もう先ほどの違和感は感じなかった。


「そうですね。すいません。あなたのことについて考えていました。」

「ほお、それを本人の目の前で告げるとは大胆な。で、その悩みとは?」


 多重人格、いや、そこまで大げさなことじゃないか。今の時代十人二十色とでも言うべき多様性の社会だ。人が意外な一面を持っていることにショックを受けていては、仕方がない。


「今日のことです。篠崎さんがどうして俺の家に来たかったのか。どうして俺と話したかったのか。たまに聞くあなたの噂は本当なのかとか。さっきは何をそんなに怖がっていたのかとか。」

「オーケーオーケー。今日話すべき話題は決まりましたね。ただ、答えられないこともありますし、そうですね。私からも一つだけ質問させていただきましょうか。本日はそういう質問回にしましょう。」


 彼女の顔が、始業式初日の出会ったときに、戻ったような気がした。いや、今の彼女が前と大げさに違ったわけじゃないが、例えるならに、また出会えたような気がしたのだ。



  〇


「――それじゃあ、まずは私がこの家に来たかった理由ですね。簡単なことですよ。一度他人の部屋に来てみたかったんです。今回の約束は建前というやつです」


 どこが嘘でいつから真実を話すのか。何気なくも、そんなことを考えながら聞いてしまう。この部屋には二人しかいないのに。つまらないことを気にしながら聞く苦しさも、実際そんなことを話させてしまう自分も嫌になる。


「篠崎さん。」

「はい?」


 篠崎さんはいまだ笑顔を崩さない。…ダメだ。俺には、彼女が何を考えているのかわからない。女子って、本当に感情の隠し方が上手いよな。


「辛く、ないんですか。」

「…どういう、ことでしょう」

「俺は辛いです。折角俺をくれたのに。何も言えない。何もしてあげられない今の状況が。どうにか察してあげたいのに。俺の頭が悪いせいですかね。」


 俺は彼女との距離を一歩詰めた。目と目を合わせて、嘘を言わせないためだ。そのとき、若干彼女は顔を赤く染め、目をそらした。初めて、彼女の心の扉をノックできた気がした。


「言わなきゃ、ダメですか。」

「はい。申し訳ないですが、言ってもらわないとわからないです。」


 俺は彼女の手を握った。心の距離とか、プライベートスペースだとか言うものを気にしている余裕がなかった。その時はただ、この空気を切り開きたかった。


「ああ、もう、わかりましたよ。龍之介さんもそういう顔、するんですね。」


 届いた?届いたのだろうか。思ったように行ったのだろうか。俺の考えたことは、ちゃんと彼女に伝わったのだろうか。


「伝わりましたよ。あなたの誠意。」


 ハッとした。彼女の内面を覗き込むことに集中して、目の前の彼女が、笑ってくれていることに気づくのが遅れた。


「よかった」


 今たぶん俺は笑っているだろう。家族以外には見せないつもりだったのだが、自然と口角が上がっているのを感じる。


「…私が臆病だったのです。龍之介さんは、あなたは優しい。それなのに私は、心のどこかで、誰かに話すことで自分が傷つくことを恐れて、不誠実になっていました」


 彼女の口から、本音の言葉が綴られていくのを、俺は静かに聞き届けた。


「思えばいつからか、私は間違っていました。自分の保身の仕方も、もう少し考えれば、もっと良い方法があったのかもしれません。でもあの時はただただ必死で――」


 言いながら、彼女は俺に身を寄せた。服越しから体温が伝わってきて、さらに手と手を絡ませてきたとき、俺は思わず赤面した。


「私のこと、助けてくれますか」


 頭がくらくらしてきた。目と目の、口と口の、肌と肌の、距離が近い。その甘美な声からは、俺の言ってほしい言葉が囁かれた。思考を止めたくなった。体の奥底にあった、これは『欲』というべきだろう。それが身体中を駆け巡り、俺は生唾を飲み込んだ。


「もちろんです。ただし、一つだけ条件があります」

「…なんでしょう」


 彼女の顔が少し曇る。ああ、ごめんなさい。一瞬でも不安にさせたことが心苦しかった。でも、大丈夫ですよ。あなたが思っているより、世の中には優しい人の方が多いことを、俺が証明して見せます。


「俺と付き合ってください」


 すると、彼女の目がアッと驚いて、パッと顔が明るくなった。そして俺がその笑顔に見入っていることに気づくと、慌てたように取り乱し、最終的に、照れくさそうにそっぽを向いた。


「なんだ、そんなこと」


 一拍置いて、彼女はこちらを向いた。次の言葉が発せられるまで、時は永遠のように感じた。

 そう、言葉が来ると思っていた俺は、彼女の顔がだんだん近づいていることに気づけなかった。

 

 息ができなくなった。唇が唇で塞がれた。数秒のあと、唇が離れるまで、そのことを理解できなかった。


「…これが、私の答えです」


 彼女が赤面して、こちらを見て初めて、俺はその返答を理解した。

 安堵の息がこぼれ出て、俺は彼女の顔に見とれて、しばらく惚けていた。


「なんでしょう。限りなく、幸せです」


 ああ、俺も。俺も同じだ。自分と同じ気持ちに彼女がなっていることが、とてつもなく嬉しかった。


「俺もです」


 俺たちは、おそらく二人とも同じ気持ちで、その後小一時間は、余韻に浸っていた。





 


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ラブコメマスター 柊 季楽 @Kirly

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