保健室の幽霊

冬寂ましろ

*****


 その日の朝の教室は、この話題で持ちきりだった。


 「美月、出たんだって。保健室の幽霊」


 私は読みかけの本をそっと閉じた。


 「沙織、またその話? 私達もう中学生だよ」

 「ほんとに見たって昨日先輩が言ってたし。黒ずくめの幽霊」

 「見間違いじゃないの?」

 「それがさ。先輩を見て笑っていたんだって。黒い髪を振り乱して、こんなふうにニヤリって……」


 私は変な顔をしている沙織の頭にチョップをかます。


 「いったーい」

 「ずっとその話を聞かされる身にもなってよ」

 「そう? いまいちばんの話題だと思うけど。みんなも話してるし」

 「そうだけどさ……」


 あちこちはねたくせっ毛をいじりながら窓を見上げる。咲きだした紫陽花の花が喜びそうな雨空だった。




 昼間でも薄暗いその廊下に立つと寒気がした。

 なんでこんな目に。

 私は見ないようにして速足で通り過ぎる。保健室と書かれたその扉の前を。

 ほら、なんでもない。

 そもそも沙織はいじわるで……。


 扉が開く音がした。

 人の気配がする。


 なに?

 ゆっくりと後ろを振り返る。


 ひっ。


 私は後ろに倒れてしりもちをついた。


 黒ずくめの人がいた。黒いパーカーに黒いズボン。真っ白な生気のない顔が私を見つめていた。


 「ゆ、幽霊……」


 どうしよ。逃げなきゃ。

 幽霊には何が効くんだっけ? にんにく……は違う。お経? あと……。


 「大丈夫?」


 その幽霊は言葉を話した。かぶっていたフードをゆっくりと外していく。長い黒髪がはらりと垂れた。


 「え……。人間?」


 幽霊は少し笑った。




 にゃっはっはっはという名瀬先生の笑い声が保健室に響く。


 「笑いごとじゃないですよ、先生……」

 「美月、すごくない? 私さ、何年も養護教諭やってるけど初めてだよ、そんな噂話」

 「……ずっとクラスで話題になってますよ、これ」

 「だってさ、藤代」


 ベットに腰かけた幽霊がうつむく。


 「だってと言われても……」

 「だよね。人間だし。いやー笑った」


 私は丸椅子に座ったまま、足をぶらぶらとさせる。笑われてむくれているところに、名瀬先生は言う。


 「藤代はさ、事情があって、春から保健室登校してんだ」

 「どこか具合が悪いんですか?」

 「まあ、ちょっとな」


 私は椅子をくるりと回して藤代さんのほうに向く。

 長くて黒いきれいな髪。真っ白で透き通りそうな肌。細くて少し筋張った腕。

 健康とは真逆のように見えた。やっぱり幽霊とかそういう類なんじゃ……。


 「そうだ、美月。お前、藤代の友達になってやりなよ」

 「私がですが?」

 「なんだ、できないのか? 藤代が泣くぞ」


 藤代さんがそっと横を向く。

 うーん。

 なんだかかわいそうに思えてきた。


 「まあ、いいですけど……」


 沙織に「幽霊と友達になった」って言ったら、どんな顔をするんだろうな。




 藤代さんはだいたい昼前には学校にやってきた。私はお昼や放課後に保健室へ様子を見に行く、そんな日々を過ごしていた。

 あまりしゃべらない子に思えた。私もどう藤代さんに話したらいいのかわからない。ずっとそんな感じだった。


 ある日のお昼、いつものように保健室へ行く。扉を開けると、いつもいるはずの藤代さんがいない。まだ来てないのかな。灰色の丸椅子にすとんと腰を下ろす。

 消毒液の匂いがうっすらとしていた。


 ……思い出しちゃうな。白い廊下で本を読む自分。


 それを蹴るように椅子を回す。そうしたら景色も回りだした。

 雑然とした棚や机の上。よくわからない診察の機材。校庭がうっすら見える窓。カーテンが半分だけかかったベッド。

 あれ、本がある。

 ベッドの上に本が置かれていた。

 私は立ち上がると、それを手に取る。これ、私の好きな作家さんのだ。新刊出たのか……。


 「もう来てたの?」


 びっくりして振り向く。

 本を読むのに夢中で、藤代さんに気がつかなかった。


 「面白いよね。本の奪い合いで軍隊が戦っているなんて」


 あれ、藤代さんが楽しそうに喋ってる。それが消えないように私は会話を続けた。


 「うん、いいよね。本を守るのって。かっこいいし」

 「美月さんも読んだ?」

 「このシリーズはだいたい読んだかな。主人公たちが気になるから」

 「最初はあんなに嫌いあってたのにね」

 「その本は最新刊?」

 「そうなんだよ。昨日買ってきてさ。読んでる途中で寝落ちしちゃって、続き読みたくて学校に持ってきちゃった」

 「あはは。わかる」

 「美月さんもそうなんだ」

 「うん。私もよくやる」


 ふたりでちょっと笑う。

 なんだ話せるじゃん、この幽霊。




 藤代さんと本の話ばかりしていたら、いつのまにか「それが好きならこれ読むといいよ」と本を貸してくれるようになった。ちょっとうれしかった。どの本も私の好みに合ってたから。

 そんな借りた本の感想を話していたときだった。


 「なんかせつなくなる話だったよ」

 「ミネラルウォーター飲んでる子は、どうすれば助けられたのかなって考えちゃうよね」

 「うーん。私なら手を取り合って、あの大人たちから逃げ出すかもしれない」

 「あの子たちと同じ中学生なのに?」

 「それでもさ。そうしてあげたいかな……」

 「なんで?」

 「女の子同士の友情って、そういうもんだよ」


 ふと藤代さんが黙る。

 何かを考えているようにうつむいている。

 しばらくしてからぽつりと言いだした。


 「僕はどっちに見えるのかな」

 「え? 人間だと思う」

 「そっか……、そうだね」


 幽霊なわけがない。ほら、今だって人間ぽく笑っているんだから。




 うっとしい梅雨が終わり、本気出してきた太陽を教室の窓から私は見上げていた。

 お昼を告げる予鈴が鳴り終わると、沙織がいきなりだだをこねだした。


 「えー、またお昼は保健室なのー。最近ずっとそれじゃん。私とも付き合えよー」

 「先生に言われているからさ」

 「きっと美月は幽霊に憑りつかれたに違いない。最近の保健室の幽霊は、口が裂けて人の頭をかじるらしいよ」

 「はあ? そんなのいるわけないじゃん」

 「わかんないよ。先輩たち怖がっているし」


 そんなに言うのなら、私の自慢の幽霊に会わせてあげよう。


 「沙織。私、幽霊の正体、知ってるよ?」




 保健室の扉をガラガラと開けると、ベッドに腰かけた藤代さんが目に入った。私はそっと声をかける。


 「藤代さん、友達連れてきちゃったんだけどいい?」

 「え……」


 驚きと困ったが半々。そんな顔をされた。

 まだ早かったか、と思っていたら、沙織が強引に扉を開けて入ってきた。


 「これが幽霊?」

 「もう、沙織は……。藤代さんって言うんだ。しばらく保健室登校なんだって」

 「なるほど、確かに黒いな」


 藤代さんが目をそらす。


 「始めまして。美月の相方をしています沙織と言います」


 相方って。漫才じゃないのに。

 藤代さんは最初の頃のように黙ってうつむいてしまう。

 なんだ、このどんよりとした空気。


 「とりあえず、ご飯食べよ」


 私はそうふたりに言うのが精一杯だった。

 あまり会話らしい会話をせず、ベッドに腰かけて3人でお弁当を食べていた。


 どうしよ……。

 連れてきちゃったの私だけど……。


 お弁当を食べ終える頃、沙織が少しイライラしながら言った。


 「美月さ、うちら友達じゃん」

 「うん……」

 「美月の家がたいへんなとき、うちにしばらく泊らせたりさ。そんぐらい仲いいのに、なんでだよ」

 「え?」

 「私よりこいつを取るのかよ、って話だよ」

 「いや、だって……」


 沙織が何に怒っているのかわからない。迷っていたら沙織の怒りが藤代さんに向かった。


 「ねえ、なんで制服着てないの?」

 「それは……」

 「私だってさ、いやいや着てるのになんでこいつだけ……」


 私はあわてて口をはさんだ。


 「ほら病気で……」

 「病気ってなんだよ? 制服着られなくなる病気なんて聞いたことないよ」

 「そうだけどさ……」

 「腹立つわ。特別扱いされてると」

 「そんなんじゃないって」

 「なんだよ、それ。私、帰るわ」


 沙織が勢いをつけてベッドから立ち上がる。膝上に置いていたお弁当箱が乾いた音を立てて保健室の床を転がっていく。それを無視して沙織は出ていった。

 置いて行かれた私は、どうすることもできなかった。

 気が付いたように沙織のお弁当箱を拾い上げる。それから藤代さんに謝った。


 「ごめん。沙織はたまにああやって癇癪起こすんだ。気にしないでね」

 「いいよ、僕がきっとおかしいんだよ」


 うなだれる藤代さんが、何かをこらえるようにベットの端をつかむ。

 藤代さんのせいじゃない。沙織を連れてきた私が悪いのに。

 私は藤代さんの前に立つと、その心に届くように大きな声を出した。


 「おかしくない!」

 「え……」

 「藤代さんはおかしくない」

 「え、あ、はい……」

 「はい。言う!」

 「えと……。おかしく……ない……」

 「よし、もう一回」

 「おかしく……ない」

 「そうそれ。よくできました」

 「うん……。ありがとう……」


 笑えるようになった幽霊を見て、私はちょっと心が落ち着いた。




 私は本を読む。あのときもこうして気持ちをまぎらわしていた。病院の廊下でこうやって……。

 それぐらい悲しくなっていた。

 朝の教室。もう誰も私に声をかけてくれなくなった。


 うつむきながらガラガラと保健室の扉を開ける。

 藤代さんが顔をあげて嬉しそうに言う。


 「おかえり」


 私はそれを見て笑顔になる。


 「ただいま」


 そう返事すると、藤代さんの隣に座る。ベットが少しきしむ音がした。


 「美月さん、今日はどうだった?」

 「クラスの男子がさ、月曜日にある球技大会に向けて張り切っちゃってさ。女子達も頑張れとか言い出して」

 「たいへんだね」

 「そうなんだよ。運動の神様から見放された私には、いい迷惑だよ」

 「ぷふ。そっか」


 こうやって藤代さんは私の話しをずっとニコニコと聞いてくれていた。私も笑ってくれる藤代さんを見ると、ちょっとうれしかった。


 「友達は大丈夫?」


 それはふい打ちだった。

 ほら、我慢していた何かが切れちゃったじゃない。私の口からそれがあふれ出てしまう。


 「少し寂しいんだ」

 「うん」

 「私、沙織ばっかりでさ。お父さんが去年死んで、そのときだいぶ沙織の家には迷惑かけたんだ」

 「そうなんだ」

 「どうしたらいいんだろ、もう口聞いてくれなくなっちゃった。みんなも私には話してくれないし。どうしよ……」

 「……嫌だったら言って」


 藤代さんの白い筋張った手が私に伸びる。私の肩をやさしくつかむと、そのまま抱き寄せられた。


 「つらかったね」


 藤代さんの温かさを体で感じる。

 たぶん私は泣き出したのだろう。自分の手にぽたりぽたりと落ちている。

 みっともなかった。幽霊になぐさめられるなんて。

 でも、今はそれにすがりたかった。




 それは私のわがままだった。保健室のベッドに寝そべりながら、その端に腰かけて本を読んでる藤代さんに声をかけた。


 「ねえ、どっか行きたい。保健室飽きた」

 「ええ……」

 「夏の日差しで灰になったりしないよね」

 「それはないけど」

 「読んでるその本、いま映画になってるし。見に行こうよ」

 「そうだね……」


 藤代さんは困ったように笑ってた。私は考える。学校の中ならいいのかな。


 「じゃあさ、図書室行こうよ。変な本多いし」

 「うん……。人がいなければ……」

 「なら夜に行こう。それでいい?」


 藤代さんは本で自分の顔を隠しながら、うんとうなずいた。

 私は嬉しかった。藤代さんの腕を取って、ぶんぶんと踊りだしたくなる。そんな気持ちを心の中で抑えていた。抑えられるかな。どうだろ。




 夕暮れが過ぎた、誰もいない図書室をふたりで巡る。

 ふたりで目を引く本をつまんでは何か言いあう。

 この本面白い。主人公が奇抜すぎ。出てくるご飯おいしそう……。

 そんな何でもない会話が楽しかった。

 つい体が動いてしまった。踊るようにくるくるとまわりだす。


 「危ないよ」

 「だってさ、なんか楽しいんだよ」


 あ。

 体が本棚にぶつかる。その拍子で棚がゆらいだ。とたんに本が振ってきた。


 藤代さんがとっさに私の手をつかむ。

 反動で後ろの棚にそのままぶつかった。

 いった……くない。

 藤代さんが私をかばってくれたからだ。


 私を抱きしめる藤代さんの白い筋張った手に触れる。

 この手が私を守ってくれた。そう思ったら体がじゅわりとはじけそうに感じた。


 「怪我無い?」

 「うん、大丈夫」


 私たちは体をゆっくりと離す。

 でも……。

 離れたくない。まだ抱きしめていて欲しいという悲鳴が心の中で湧き上がる。


 「本を片そうか。バレたら怒られるし」

 「うん……」


 本を1冊ずつ拾いながら、この感情はなんだろうと不思議に思っていた。

 きっと幽霊に何かかじられたせいだな。






 もうすぐ夏休みという日。

 保健室の扉に手をかけると、中から楽しそうな声が聞こえてきた


 ――なかなか、似合うじゃないか。

 ――ありがとうございます、名瀬先生。


 扉をガラガラと開ける。


 その恰好……。


 「美月、見て」


 夏の日差しに照らされていた。

 まぶしくて、キラキラとしていた。

 女子の制服を着た藤代さんは、それに負けないぐらい嬉しそうだった。


 「僕決めたんだ。女の子になるよ」

 「え……」

 「美月のおかげだよ。美月みたいな女の子になりたいって思ったんだ」

 「なにそれ……」

 「美月?」


 なんで、私がっかりしているの?

 なんで、私落ち込むの?

 なんで、私……。


 「どうして泣いてるの?」


 あ……。

 私。

 恋してたんだ。


 「美月。泣いちゃだめだ」


 先生ずるいな。気づいていたなんて。


 「だめかも、先生。だって、私……」


 いま失恋したから。


 藤代さんが私の体を何も言わず抱きしめる。

 暖かくて、気持ちよくて、ほっとできて。

 つらくなる。


 藤代さんの幽霊なところにひかれていたことなんて。

 もうそんな藤代さんとは会えなくなるなんて。


 それを言ってしまえば藤代さんを困らせる。

 せっかく女の子になるって決めたのに。


 言葉の代わりに涙があふれてくる。

 止められなかった。

 そんな私を藤代さんはただ抱きしめてくれた。




 私は幽霊に恋をした。

 実体がない、この世に存在しない、私にしか見えなかったもの。

 いまそれは消えていった。

 私の心には消えない想いを残して。




 あれから私は名瀬先生にひとつだけわがままを言った。

 夏休みが終わったあとの最初の学校。みんなの声が響き合い、がやがやとしている朝の教室。


 窓際にある隣の席。

 長い黒髪が、開けていた窓の風ではらりと揺れる。透き通る肌にそれが絡んでいく。

 幽霊じゃなくなった藤代さんがそこにいる。


 「ありがとう美月」

 「ううん」


 私たちはみんなに見えないようにこっそり手をつなぐ。

 大丈夫、私達なら。ずっと手は握りあえるから。

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保健室の幽霊 冬寂ましろ @toujakumasiro

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