第18話

 まだ、夜十時を回った時間。

 窓の外は暗闇が広がり、静寂が音を飲み込んでいる。

 私は、津々木(つづき)さんに買って貰っていたスーツケースを押し入れから引っ張り出して、早くも準備を終えていた。

 母親が帰って来る前に家を出ておきたかった。でないと、このスーツケースを見られたら、何言われるか分からない。

 ふと、本棚に置いてある狸のキーホルダーが目に付いた。

 結局、大辻(おおつじ)君とは、あれ以来会っていない。私の気持ちも既に消えていた。恋心って、そんなものなんだな。

 重いスーツケースを抱えながらアパートの階段を下りる。

 階段下には、中高の六年間を共に過ごしたヨレヨレの自転車が闇に佇んでいた。

 私は、最後のお別れに自転車のサドルを何回かさすると、何の感情も湧かないボロアパートを後に軽やかに歩き出した。

 駅前の公園まで歩くとなかなか時間が掛かる。

 でも、この道を歩くのも最後だと思うと、長い距離も案外楽しめた。

 公園に着く頃には、まあまあ疲れていたけど、心は軽く弾んでいた。

 いつものベンチに座って、時が過ぎるのを待つ。

 最終電車が駅を出ると、プラットホームも夜に沈み、駅前ロータリーの街灯だけが周囲の光景を浮き立たせていた。

 公園にまばらに植えてある桜の木は、少し散り始めていた。花盛りの桜の木は気分を盛り上げてくれるけど、その反面、淡いピンク色の花びらが落ちる様(さま)は、儚くて寂しく感じる。

 いつか、この公園でひと晩を過ごした事が懐かしく思える。

 結局、あの日の事は、母親に詰問しても知らないの一点張りではぐらかされてしまった。おの男が勝手にした事だ。家の鍵も知らない間にあの男に取られてしまったのだ、と。

 予想した事とは言え、自分の身は自分で守りなさいよ、いつまでも親を頼るんじゃないわよ、と面と向かって言われると、怒りを通り越して、殺意さえ覚えてしまった。

 あの家にいたら、いつか自分の命をゴミ箱に捨ててしまう事になっていただろう。

 自分の命に執着は無いけど、あの女のせいで死にたくは無い。

 自分の力で生き抜いて、その結果人生詰んでしまうなら納得出来る。親ガチャに失敗したのは、運が無かったと諦めるしか無い。

 公園の側に車が停まった。

 数分後に現われたのは津々木(つづき)さんだった。

「あそこのファミレスに入っていれば良かったのに」

 駅前のファミレスはガラガラだった。

「ここにいた方が落ち着きます」

「そうかい」

 津々木(つづき)さんは、スーツの内ポケットから封筒を取り出した。

「取り敢えず、これ渡すね」

 ずっしりと重みのある感触。

「でも、本当にここは危ないから、あそこに入っていた方が良いよ」

「そうですね」

 私は、封筒を両手に持ったまま、津々木(つづき)さんに頭を下げた。

「ありがとうございました。津々木(つづき)さんには迷惑掛けて、ほんとにごめんなさい」

 津々木(つづき)さんは、腕組みすると「いや、そんなのいいよ」とはにかみながら言った。

「それよりも、初めて会った時と比べると、しっかりしたよね。あの時は、本当に危なっかしくて、どこに飛んで行くのか心配だったけど、今はしっかり地に足ついてるって感じだよ」

 そうなのかな。私自身は変わった気はしてないけど。

「明日の卒業式は出ないのかい?」

「はい。もう卒業の単位は取れているので。別に、別れを惜しむ同級生もいないですし……」

「……もし、辛くなったら、いつでも連絡していいよ。少しくらいは力になれると思うから」

「ありがとうございます。でも、出来るだけそんな事が無いようにします」

「うん。そうだね」

 私達は、一緒に公園を出た。

 津々木(つづき)さんは、車から手を振りながら走り去って行った。

 唯一、会えなくなるのが寂しい人は、津々木(つづき)さんだった。

 私は、津々木(つづき)さんの車が見えなくなると、ファミレスに向かった。


 早朝始発の快足電車。

 まだ、乗客の姿は少なく、私のスーツケースが誰かの邪魔になる事は無かった。

 とうとう、乗れたんだ。

 公園から見ていた電車に乗って、私もこの町から出る事が出来る。

 振り返ると、あのベンチが静かに佇んでいるのが見えた。

 いつも私を優しく迎えてくれた冷たいベンチ。

 夜遅くまで無言の私の側に寄り添ってくれていた。

 出発の音が鳴り、電車がぎこちなく走り出す。

 私は、ベンチから目が離せなくなっていた。

 視界はすぐに駅舎に隠れ、公園はあっという間に後ろに過ぎ去ってしまった。

 もう、私にあの場所は無いんだ。

 携帯が鳴った。母親からだった。

「あんた、いまどこにいるの? 今日卒業式でしょ?」

 出るなり荒い口調で怒鳴り立てて来る。やっぱり、この声には萎縮させられる。

「卒業式には、出ないわ」

「はあ? 別にそれでもいいけどね。明日から、あんたが働くお店は決めてるからね。後で挨拶に行くから、お昼には帰ってるんだよ」

「もう、家に戻らないわ」

「それ、どういう事よっ」

「私、ひとり暮らしするの。あなたに頼らずに生きて行くの」

「何言ってんの! あんたは私の子供なんだからね。子供は親を養う義務があるのよっ」

「そんなの知らないわよ。あなたは、全然親らしい事して来なかったじゃない。もう、あなたにお金を取られる人生は嫌よ」

「ちょっと、あんた今どこにいるのよ? そこから動いたら駄目よ」

「もう、無理よ」

「そんな勝手を言って良いと思ってるの? 警察に言って捜索させてやるから、待ってなさいっ」

「何を言っても無駄よ。もう、戻るつもりは無いし、二度とあなたに会うつもりも無いわ。連れ戻そうとしたら死んでやるから、好きにしなさい」

 その後、電話の向こうからは、延々罵詈雑言の言葉が吐き出されて来た。

 気分が落ち込む。あの声に恐れて、体が思うように動かない。

 でも、既に電車は快足を飛ばして、ぐんぐん進んでいた。

 私は、電話を切ると、母親の番号を着信拒否にした。

 もう、あの女に左右される人生は捨てた。

 これからは、例え歩みが遅くとも、自分の足で歩いて行くんだ。

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雫と雫の運命の物語 いちふじ @hakahaka

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