第10話 彼が動く時、空の底が抜ける

 長く雨が続いていたが、今日は朝からぱっと晴れた。


 俺はれんをたたき起こした。蓮は最近はやっと黙って起きるようになった。躾が行き届いたようだ。

「ああ、やっと晴れたなあ」

 蓮は皿にエサを盛り、俺がカリカリ軽やかな音を立てるのを見もせずに、窓の外を見上げた。


 おい、俺が食べるのを見ていろ。

 俺はにゃっと鳴いて蓮を叱った。蓮はごめんごめんと戻ってきて、今度は背中をなで始めた。今は食べてるから、なでられるのいやだってば。ままならない男だ。


 俺は食べ終わるとおもちゃで少し遊び、気が済んだので蓮に抱っこさせて寝室に移動した。

 横を向いて寝ている雨音あまねのおなかの辺りの布団の上が俺の席だ。位置を確認して、丸くなる。

 この時間でもかなり明るくなってきたんだなあ。ずっと雨でわからなかった。

 片目を開けて雨音の顔を見て、思う。今日は何だか真面目な顔をして寝ている気がする。雨音はどんな夢を見るのだろう。

 考えているうちに、俺は眠ってしまった。


 寝ているのに布団を片付けられた。

 何だよ、気持ちよかったのに!

「マオ、いつまでも寝てると捕まるぞー。ほら!」

 俺は布団のカバーに丸め込まれ、うぷうぷとなった。あわてて手足をバタつかせ、隙間を見付けてにゅるんとすべり降りる。

 蓮、何を朝からはしゃいでるんだ!お前はおとなだろうが!

 俺は毛を逆立て、しかしいつもと違う蓮を警戒しながら威嚇した。蓮は布団をどんどん分解している。

「今日はお休みだから、シーツもカバーもタオルケットも、全部洗うんですって。こんなに晴れたの久しぶりだから、張り切っているみたい」

 眠そうなパジャマ姿の雨音が俺を抱き、説明してくれた。蓮はカーテンも外し始めた。

「蓮、そんなに洗うの?乾く?」

「今の日差しなら大丈夫だよ」

 部屋が眩しい。俺と雨音は仕方なく、朝日を遮ることのできる台所へ移動した。


 洗濯機を動かして、蓮が上機嫌で味噌汁を作っている。着替えてきた雨音はまだ少しぼーっとしている。雨音は朝があまり得意ではない。

「また今日はずいぶん食べるのね……」

 雨音は蓮の朝食を見て呆れたように言った。雨音は朝はいつもお茶とクラッカーだけだ。蓮も普段はご飯と味噌汁、昨日の残り物くらいで済ませるのだが。


 ごはんも山盛り、味噌汁も具沢山。作り置きしているおかずも全部食べてしまうつもりなのか、テーブルがいっぱいだ。

「今日はね、晴れたからやりたいこといっぱいあるんだ!」

 さすがに雨音もその勢いに付き合いきれず、そう、と相槌だけ打って早々に話を切り上げた。蓮はもりもりごはんを平らげている。晴れたら嬉しくなるって、子供か。


 雨音がもそもそクラッカーをかじる間に蓮はあれだけあったごはんを全ておなかに片付け、洗い物まで済ませた。そこに洗濯機が作業終了を知らせる。蓮は洗濯機に返事しながら台所を出て行った。

「何だか今日は、疲れちゃいそう……」

 にゃあ、と俺も同意した。


 当然いつもの場所だけでは干し切れなくて、蓮は色々なところにロープを張って即席の物干しを作った。

 大きな洗濯物が風を受けて膨らみ、はためく。


 うわあ、うわあ、何だかすごいなあ。

 俺は何となく見に来て、目を奪われた。見慣れた景色が一変している。あっちも、こっちも、布だらけ。風に吹かれた布の音はぱたぱた、ぼうん、しゅわっ。通り過ぎる風の音まで変化させて、耳がお祭りみたいだ。

 風が洗剤のにおいで花畑を通ってきたように香る。目の前がみんなひらひらして目がまわる。洗濯物は久しぶりの太陽を喜んでいるみたいに、少しもじっとしていないで、眩しくひらめく。


「マオも気持ちいいかい?これだけ洗濯すると、やったなあって感じがするよ!」

 洗濯物の合間に見え隠れする蓮が、にこにこして洗濯物を広げている。まだあるのか。たくさん洗ったんだなあ。

 洗濯物が揺れる。思い思いのようで、しかし決まった規律に合わせて、まるでダンスのようだ。


 昔、魔王城で開いたダンスパーティーも、こんなに華やかだっただろうか。ここには豪華な家具も、楽団も、ごちそうもないけれど。


 心が晴れやかになる。今日の空のせいだろうか。空が青い。抜けるように。気持ちが弾む。俺の足取りがその証拠だ。これほどの広間は、どんなに序列が上位の魔王でも持っていない。

 俺のしっぽが青空をさしてぴんと立ち、洗濯物の下を探検していると時々シーツやカバーがするりとなでた。


 魔王様、よろしければ私を次のダンスに。

 闇に蝋燭を山と灯した広間で、魔王だった俺はよく女性たちに群がられた。たっぷりと化粧と色気をのせ、際どい手付きで俺をするりとなで、あわよくば俺の寵愛と地位と財産を、と目をギラギラさせるずうずうしい女性たち。そんな女性たちにいやな顔をせず、笑みを絶やさぬように気を遣って踊るダンスの何と疲れることか。


 マオ、風だよ、空だよ、洗濯物だよ。

 洗濯物たちは手を差し伸べるけれど、ひらりと逃げてしまう。逃げると、追いかけたくなる。


 わあい!

 にゃーん。


 俺はついに誘惑に負け、力一杯飛び上がって風に揺れるタオルにむしゃぶりついた。

「わあ、マオ!」

 蓮が悲鳴をあげてこちらに向かってくる。俺が飛びかかったタオルはそのまま俺をぶら下げた。

 絡まった爪が外れなくなった。暴れる俺は知らず、そのままタオルを、隣のシーツを、向かいの布団カバーをどんどん巻き込みぐるぐるになって、洗濯物を干したロープを巻き取り、ロープのテンションがきりきりと上がって、

「蓮……ちょっと、薬草の鍋、運ぶの、手伝ってくれない、重くて、倒れそうなの……きゃあ!」

 何故今、鍋を持ってきたのだろう。

 とんでもない時にあってはならない状態で現れた雨音が、とどめをさした。


 雨音がふらつきながら持ってきたこの家で一番の大鍋は、ついに外れたロープの端に襲い掛かられ、驚いた雨音は見事に鍋をひっくり返し、もちろん最悪の方向、洗濯物が最も混み合っている方へぶちまけた。


 俺はおそらくその直後、地面についた洗濯物からようやく抜け出した。何となく音で察してはいたが、世界がこうも二転三転するとは。

 ロープは各所できちんと結んであり、外れたのは一箇所だけだったので、これでも被害は最小限だろう。しかしはためいていた洗濯物のこちら側がだいぶ地に落ち、落ちたものにも、まだはためいている洗濯物の手前側も、薬草汁の少しだけ緑の残った茶色がたっぷりと染み込んでいた。


 あまりに肩を落とした蓮は、少し小さくなったようにすら見えた。

「……雨音さん……手伝いがいるなら、まず呼びにきてほしかったよ……」

「ごめんなさい……」

 俺もさすがににゃ……と小さく謝った。

 蓮はしばらくうつむいたきり動かなかった。雨音もうつむいている。俺も付き合ってうつむいた。


 薬草汁は洗濯物と地面に染み込み、草のいい香りと少し甘いにおいを振り撒いていた。

 蓮がふう、と息を吐いた。ひきつった顔をあげ、笑ってみせる。

「……大丈夫、まだまだ!また洗えばいいよ、今日はこの日差しだもの、どれだけだってすぐ乾くか、ら……」

 必死に気を取り直した蓮の頭上で、あれだけ青かった空が、今にも黒い雲に覆い尽くされようとしていた。

「何で?天気予報も、今日は降水確率0%だったのに……!」

 蓮は絶句した。俺はヒゲが少し重くなってきていたのでもう少し前から気付いていた。


「……あなたが張り切ると雨を呼ぶのよ。いつものことなのに、本当にいつもすっかり忘れちゃうのね」

 雨音は鍋の中身を隅の方に捨て、薬草汁まみれの布を鍋に入れ始めた。もう色々諦めたらしい。

「蓮、あなたも片付けて。じきに降るわ。マオもおうちに入りなさい、濡れちゃうわよ」

 蓮はしばらく立ち尽くしたまま、動けずにいた。

 その時間が致命傷となり、取り込み切れなかった洗濯物は空の底が抜けたような土砂降りに洗われ、取り込む蓮と雨音も絞れそうなぐらい濡れた。


 洗濯機は休む間もなく洗濯を続けている。だが多分これで最後、今入っている濡れた2人の服とタオルが済めば洗濯機も休めるだろう。

 蓮は寝室にこれでもかとロープを張り、除湿機を2台も入れて洗濯物を干していた。

 今の空は、さっきまでの雨が嘘のようにからりと晴れている。蓮は未練そうに空を見上げながら軒下の物干し竿に洗濯物を干していた。時折雨音を見つめるが、雨音は黙って首を横に振った。蓮は大人しく軒下にだけ洗濯物を干した。きっと晴天は続くだろう。


 蓮はその後、落ち込んで和室に引っ込んだきり出てこなくなった。俺と雨音は何度かのぞきに行ったが、背中を向けて畳に転がって、こちらを向かなかった。

「重症ね」

 雨音が肩をすくめる。こんなに空が青いのに。公園に行きたいなあ。


 雨音は珍しく台所に立ってお茶を入れ始めた。不思議なにおいが漂う。

「蓮、お茶にしましょう」

「いらない」

「そう言わないで。魔女の特製のハーブティーよ」

 蓮はようやく体を起こした。元気のない顔をしている。雨音は微笑み、そっと蓮の頬にキスしてお茶を渡した。

「駅前の魔女カフェに卸しているものよりずっと効くわ。あなたの専属の魔女が、あなたのために調合したんだもの」

 蓮の細い目がぱちくりする。

「飲んで、元気が出るわ。ね」


 蓮はお茶を飲んだ。そして、ほっと息をついた。

「ありがとう、雨音さん」

 蓮がやっと笑顔になり、雨音は嬉しそうに微笑んだ。

「いつも頑張ってくれてありがとう。今日は残念だったね」

「うん」

 蓮が雨音に甘えるように頭を付けた。俺は見ないふりをしてやった。

「部屋干しでも一晩置けば乾くわ。今日はあの部屋は洗濯物に貸してあげましょう。今日はベッドで寝ましょ。明日はうんと気持ちのいいお布団で寝られるわよ」


 蓮の目が輝いたのを俺は見逃さなかった。ベッドは雨音がこの家に来たばかりの時に用意したものだそうだ。今は蓮がいなくて布団を敷いてもらえない時くらいしか使っていない。

 蓮にとっては家の中のちょっと秘密の場所で、しかも雨音のプライベートなところ。わくわくしたんだろう。


「ねえ、元気が出たら公園でお散歩でもしない?」

 雨音が言うと、蓮は急にあっ、と叫んだ。

「俺、公園でやってみたいことがあったんだ!」

 雨音の微笑みがすっと消えた。

「マオとね、キャッチボールしたいと思って!ほらマオって結構賢いし、ボールも好きだろ。だからきっとできると思うんだよ」

 蓮はお茶をひと息で飲み干した。

「さすが雨音さんのお茶だね、すごい効果だ!ボール持ってくるから、出かける支度してて!」


 蓮はさっきまでが嘘みたいに、勢いよく和室を飛び出して行った。

 しょんぼりしていると慰めてもやりたくなるが、蓮の元気が出てくるともう少し落ち込んどけと思ってしまうのは何故だろう。

「……私のお茶のせいではないと思うし、あなたがひとりでボールを投げて追いかけて走り回る様子しか想像できないわ」

 雨音はひとりごとのように呟き、ため息混じりに立ち上がった。俺もにゃあと同意した。

 雨音、俺も同じ未来しか見えないよ。


「……そうだよね、マオも一緒だよね、そりゃそうだよな……」

 公園で年甲斐もなく散々走り回った蓮は、雨音のベッドのあちら側で、雨音が眠ってしまってからもぶつぶつと同じことを呟いていた。

 うるさい奴だ。疲れただろうから早く寝ろ。明日も起こすぞ。

 俺は2人の真ん中で大きく伸びをし、改めて丸くなった。

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