第9話 恐怖のちくりvs必殺!マオマオまふまふ(後編)
車が停まった。2人とも殆ど無言だ。俺も。
しかしそこで俺はあるにおいに気付いた。遥か昔の、しかし忘れもしないいやな思い出。
さまざまな動物、他の猫はもちろん、犬や鳥、名前も知らない生き物のにおい。それを覆い尽くすような、独特のにおい。ショウドクエキと言っていたか。
看板には笑う犬と猫の絵が書いてある。
佐々木動物病院。
……んなああああお!
俺は叫んだ。叫び、暴れる。
「マオ!」
雨音があわててカバンをしっかり抱く。
「さすがにバレちゃったね」
それを支えながら、蓮が苦笑した。
遠い記憶がよみがえる。
もっと小さな猫だった頃、俺はここに連れてこられ、ショウドクエキのにおいがぷんぷんする知らない人に体中なでまわされ、ちくりとする奴をされた。俺はいやでいやで、鳴いて鳴いて、ちょっとだけおもらしした。他にも、ケガをしたのに痛いところを触られたり、何か飲まされたり、ちくりとされたり、必ずいやな思いをする場所だ。
いやだ、いやだ、ここはいやだ!
「大丈夫、大丈夫だからね、すぐ済むから!」
「マオ、いい子だから!」
雨音、いやだ、逃げよう、帰ろう。
蓮、車に入れて、いやだよう。
うなーお、うなーお。
帰りたい、帰りたいよう。
バッグの中でいくらもがいても、足を踏ん張っても、俺は建物の中へ運ばれていく。
帰りたい、帰りたい、帰りたい!
なぁぁおーん!
叫ぶ俺の声は、魔王だった時に魔王城のテラスから全軍を動かした、かつての気迫とカリスマを取り戻したかのようだった。
静かだった待合室に不安と恐慌が広がっていく。最初に敏感でやかましい鳥どもが騒ぎ出し、小さな犬、同族の猫、果てには大型犬にまで、恐怖が待合室を包み込んでいく。
「すみません、予約していた渋澤です、お知らせのハガキをいただいて」
「渋澤マオくんですね、ちょっと興奮してるかしら、こちらへどうぞ」
看護師が手慣れた風に俺たちを別室に案内したが、多分手遅れだった。待合室は地獄と化すだろう。
他の生き物のにおいのしない部屋に通され、俺はバッグから出されて雨音に抱っこされたが、逃げ場のない恐怖に声も出なかった。
「かわいそうに、ずっと震えてるわ」
「大丈夫だよ、マオ、大丈夫」
バカ蓮、何が大丈夫なものか。そんなに大丈夫なら代われ。お前がちくりとされろ。
雨音、雨音、帰りたいよう。
扉が開いた。
「お待たせしました。マオくん、元気だったかな。ああ可愛いお手てだねえ。食べちゃいたいなあ」
白い服を着たメガネの男が、薄笑いを浮かべながら入ってくる。俺は震え上がった。
「だいぶ興奮していたと聞きましたが落ち着いたかな。待合室がねえ、あそこにいなくて良かったねえ。慣れている子まで大騒ぎで、いやあどうしたのかなあ。僕が動物の気持ちがわからないなんて。残念でなりません」
言いながら男は俺を雨音から受け取り、台の上に乗せて、あちこちなでまわす。
「いいですねえ、まるまるしていて、元気だねえ。でも怖がってるみたいだねえ。僕が怖いのかなあ、可愛いなあ、食べちゃいたいからかなあ」
「まあ佐々木先生、冗談がお好きでいらっしゃるのね」
雨音はころころ笑っている。蓮は雨音の鈍さにちょっと引いている。そうだよ蓮、この佐々木先生という奴は絶対俺を食う気だよ!
にゃおーん、と俺は雨音を見た。
助けて、助けて雨音、俺食べられちゃうよ。帰りたいよ、帰りたいよう。
「ではマオくんを押さえていてくださいねえ」
俺の口の中に何か突っ込んでいた佐々木先生は気が済んだのか、手を引っ込めた。終わりか、良かった、俺まだ生きてる。
帰ろう、と見上げると、蓮が俺を押さえつけてきた。
何だ、この下僕め!俺に触るな!離せ、離せ!
雨音、蓮に言って、離せって言って、助けて!
なぁーお、なああーお。
「あれ、また興奮してきたかなあ、僕も興奮しそうだなあ。もう少し落ち着いてからにしますか」
佐々木先生が薄笑いのまま尋ねる。俺は叫び続けた。
蓮がそうしてもらった方がいいかな、と雨音を振り返った時、遂に雨音が動いた。
雨音、雨音、助けて、帰ろう。
すがるように見つめる俺に、雨音はおでこをくっつけた。
「マオマオー……まふまふ!」
雨音はマオマオでくっつけたおでこをぐりぐりし、まふまふで俺の首回りをもしゃもしゃとなでた。
これは最近俺と雨音が大好きな遊びだ。
「マオマオーまふまふー、マオマオーまふまふー」
あはは、あはは、雨音、くすぐったい、楽しい。あはは、まふまふ気持ちいい、もっと、もっとして。
体を伸ばしてまふまふされながら、俺ははっとした。
ちくり、のちく、は感じなかったが、絶対ちく、があった。何故ならり、の余韻が後ろ足に残っている。
「はい済みましたよ、お疲れ様でした」
佐々木先生が薄笑いを浮かべて言った。雨音と蓮はほっとしたようにありがとうございましたと声を揃えた。
俺は信じられない思いで2人を、特に雨音を見た。そんな俺を雨音は素早くバッグに入れる。
ひどい。何てことだ。
蓮。何より、雨音。
騙した。
俺を、騙したな……!
ひどい、信じていたのに。こんな仕打ちをするなんて。
「マオ、予防接種は終わりだよ、もう大丈夫だよ」
バカ下僕、何が大丈夫だ!俺は、俺は裏切られたんだ!雨音に!
雨音は悪魔の手先になったんだ、俺を油断させて、2人の大切なマオマオまふまふまで使って、俺を裏切り、騙したんだぞ!
にゃあーお、うなあー!
俺は怒りの叫びをあげた。
「もう終わったのに、そんなに痛かったのかしら」
建物から出て、車に戻っても俺が叫び続けるので、雨音がバッグをのぞきこんできた。
雨音、君はそんな心配そうな目をして俺を裏切るんだな!恐ろしい女だよ!
「あの先生は上手だから大丈夫だよ。しっぽがぷくぷくだし、怒ってるんじゃないのかな」
うるさい、バカ下僕、役立たず!
車が動いても俺は叫び続け、疲れ果てて眠るまで、俺は荒れ続けた。
気がついたら雨音の膝の上で寝ていた。上を見ると俺を見つめる雨音の優しい顔。そのもっと上にたくさんの葉っぱ、そして空。ちらちらするのを木漏れ日と言うのだ。気持ちのいい風のたびに木漏れ日が動き、葉っぱがさわさわと音を立てる。
雨音が俺をなでた。俺は寝たふりをする。
もう少し、この気持ちいい時間にまどろんでいたい。
「起きた?」
「うん、でもまだ眠いみたい。あんなに騒いだから」
雨音が答えて笑う。ちっ、蓮もいるのか。そりゃいるか。
俺は仕方なく起き上がって伸びをした。大きなあくびが出た。
「怖いことさせてごめんね、でもこれで大丈夫だからね」
雨音が優しく俺を抱きしめた。まるで天使のようだよ。その顔で悪魔にもなるデンジャラスな女、しかしその方がもと魔王にはふさわしいか。
「ほらマオ、頑張ったごほうびだよ」
蓮がプラスチックの皿に乗せたプリンを差し出した。お前のことは許さないけど、わかっているじゃないか。
俺はプリンにかぶりついた。固めの、シンプルなもの。おいしい。このプリンに免じて、下僕のままにしておいてやろう。
「誕生日のお祝いはまた別にするからね」
下僕が俺をなでた。全く、今日がそれならとんだ誕生日のお祝いだよ。
俺はプリンを食べながら、しかし思った。
下僕よ、何故このデンジャラスレディも同じものを食べているのかね。ごほうびなら頑張った俺だけだろ。
「おいしいね、マオ」
不満だが、にっこり笑う雨音を見ると怒れなくなってしまう。
でも、ねえ、雨音。マオマオまふまふはもう、あんな風に使っちゃいやだからね。
にゃあん、と雨音に釘を刺すと、雨音はくりっと目をどこかに向けてから、うなずいた。
今回うまくいったから、次もやろうっと。
雨音、顔にそう書いてあるよ、そりゃもうしっかりと。
「マオ、いい子、マオマオーまふまふー」
ごまかした。雨音のきれいな笑顔が目の前にある。
仕方ない、俺の負けだよ。
「雨音さん、それ楽しそうだね、俺にも教えて」
蓮が身を乗り出す。
お前はダメ!
俺は手を伸ばしてきた蓮の手の甲を思い切り引っぱたいた。
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