第22話 出世の見込みのない女官から成り上がれますか?②

 ――冥府の泰山府君たいざんふくんは……今日はお仕事をなさっているといいのですが……。

 生者の身で心配するべきことではないが、二度も代書をさせられたせいだろう。あの手の治りの遅さが気になっていた。夏月など蟻と同じだと面と向かって言われたのは、蟻に対しても夏月に対しても失礼だと思うが、矮小なる蟻の身からしても、

 ――神様なのに、なぜ手を痛めておられるのだろう。

 ――なぜ、あの手は神の力で治せないのだろう。

 ――いつになったら、あの手は治るのだろう。

 などと、素朴な疑問が尽きない。

 先日、冥府に落ちたとき、夏月はやはり一日近く仮死状態だったらしい。意識が戻ったときは、婚約破棄された会食の翌日になっていた。前回の黄泉がえりの件があるから、死に装束で廟堂に寝かされていなかったのはさいわいだったが、代わりに妙な誤解が広がっていた。

 曰く、

 ――『藍家の深窓の令嬢は、婚約破棄されたことを苦にして、自死なさろうとしたらしい。まだ若いというのに……』

 そんなかわいそうな娘だと思われたらしい。

 自死というのは、琥珀国では特に珍しくはない上、宗教上、強く忌避されているわけではなかった。ただ、そこに至る背景は、どんなに悲劇的であろうと面白おかしく他人の口の端にのぼる。

 人の気持ちを慮るというのは、噂話に興じるものたちとは無縁なのだ。あるいはただ『死』というものが恐ろしいがために、二度も死の淵に触れた娘をも恐怖の対象となっているのかもしれない。他人の死というのは体のいい庶民の娯楽でもあった。面白いのは、夏月のことをよく知っているはずの父親でさえ、その噂に影響されていたことだ。

「夏月……おまえがそこまで朱銅印しゅどういん殿と結婚したがっていたことはよくわかった。しかし、向こうから断られたからには、もう一度縁を結ぶのは難しかろう。しばらくは好きに暮らしていいから、自死などもう考えないように」

 などと、泣きながら訴えられてしまった。夏月としては、大変面食らう展開だったが、好きにしていいという言葉は渡りに船だ。

「では、お父様。わたし、しばらくは女官として黒曜禁城に勤めに上がりたいと思います」

 ――そう宣言して、いまに至っている。

 今日は晴れているからだろう。明かりとりのために天窓が開いており、春の眠たげな風がときおり吹きこんでくる。

 文鎮を置き換えるかたんかたんという硬質な音。紙がめくれるときの、ぱらりぱらりという独特の音がかすかに響くだけの空間は、外廷の官吏がいる官庁と言うより、職人たちの作業場を思わせた。

 城門からずいぶん歩いただけあって、写本府は奥まった場所にある。城壁に近い場所にある建物はひっそりとしており、ほかとの行き来はあまりなさそうだ。

 ――朱銅印様をたらしこんだあの女官は、よほど機会よく、ほかの部署の官吏を捕まえたようね。

 閑散とした空気を感じとると同時に、良良という女官のはしこそうな顔を思い浮かべた。

 夏月のように人慣れしていない身では、こんな人の行き来が途絶えた部署で結婚相手を捕まえるなどと言う離れ業は無理だろう。長らく、田舎暮らしをしていたわりに、お端下仕事にも慣れていない。空気が読めずに立ち尽くしていると、誰かに呼ばれて、洪緑水が退席してしまった。

 ますます所在なくなった夏月は、いったいなんの仕事をしたらいいのかと途方に暮れて、目立たないように片隅で小さくなるしかなかった。

 ふと、物陰から手招きされていることに気づいた。

「あなた、そんなところで立ち尽くしていてはだめよ。こちらに来なさい」

 ふっくらとした肉付きから女性の手だと思いながら、夏月は招かれるままに棚の陰に回りこむ。人手が足りないと言っていたが、どうやらもうひとり、女官がいたらしい。

 ほっと安堵した夏月は、先輩女官に指図されて、掃除をはじめることになった。

「ではまず掃き掃除からね。それと、この部署では、写本をする人たちの邪魔をしないことが大事なの。墨を摩る水がなくなっていたら継ぎ足し、終わった竹簡が積み重なっていたら、用済みの箱に入れていく。使い古した竹簡は、あとで削ってもう一度使われるわ。そして、写本が紙の終わりまで来たら、その紙を順番どおりに棚に並べていく――その合間に土間をきれいにします」

 きっぱりと言い切られて、夏月は思わず広い土間を見やってしまった。

 夏月は食べるのは好きだが、食事の煮炊きは苦手だ。洗濯もできない。師匠の下にいたときはまだ小さかったし、井戸に落ちそうになったことがあるせいか、兄弟子から洗濯を禁じられていた。

 唯一できるのが、掃除だ。

 師匠の庵の前を、兄弟子たちが勉強する四阿の周りを竹箒でよく掃いたものだった。

 だから、葉っぱを集めるような掃き掃除は得意なほうだが、それ以上に得意としていたのが、土間の掃除だった。

「ここの床は……三和土たたきですね」

 床に屈みこんで手で触り、ぺろりと舐める。

 灰混じりの味を舌が覚えていた。屈みこんだ姿勢で隅まで見わたせば、わずかに黒ずんだ箇所が見てとれる。

「三和土とは……よくわかりましたね」

 三種類の土を混ぜ、表面に漆喰処理を施した土間を三和土という。

 琥珀国は、基本的に床は土間だ。

 『灰塵庵』のように部屋の一部を板敷きにして、沓を脱いで上がる場所を作ることもあるが、外では基本的に、終日、沓を履いて暮らしている。

 建物の一階は基本的には踏み固められた土でできており、その上で暮らしているが、より手をかけた処理が三和土になる。

 いくつかの土を混ぜ合わせることで強度を増し、埃が立ちにくく、かつ防水防火に優れている。一種のコンクリートの先走りなのだった。

「それと、こちらに水を汲んであるの。これが一番、重要なことだから、場所をしっかりと覚えてね」

 そう言いながら、まずは建物の裏手に回り、壺が並んだ場所へ案内される。

「ここに壺が三つ並んでいるから、よく気をつけて間違いないように。一番右の壺が、墨を摩る用の水。こちらは人が飲んでも平気だけど、貴重な水だから、飲むと怒られます」

 夏月も覚えがあるから、これにはいちもにもなく強くうなずいた。

 深井戸から水を汲む作業で死にかけた由縁の水である。墨を摩るのに適した水は貴重だと師匠からも常々釘を刺されていたし、城市のなかなら、なおさらだろう。

 黒曜禁城は近くに川が流れ、城市のなかにいくつもの井戸を持つ、水に恵まれた街だが、それでも、貴族はまろやかな水を好み、水売りから水を買うのだ。

「そしてこれが飲み水用の水。飲み水だけは、城内の水売りが週に何度か継ぎ足してくれる決まりになっているけど、暑い時期はそれだけじゃ足りないの。あとで井戸の場所を教えるから減ってきたら足すのよ。もうひとつは掃除や雑用に使う水。この水は飲んではいけません」

「はい、わかりました」

 先輩に対して拱手してうなずいたものの、これは大変なことになったと思った。

 掃除に小間使い、水の管理と、言葉で言うのはやさしいが、黒曜禁城のなかは広く、通路が複雑だ。水を汲んで行って帰ってくるだけでかなりの時間がとられるのは、簡単に想像できた。

「今日のところは……まず、水を配ります。それから井戸の場所を覚えてもらいましょう。水がないと墨が摩れませんし、墨がなければ字が書けないのですもの」

「字が書けない写本府なんて、仕事になりませんね」

「そういうこと。お役人様のお仕事を滞らせないことが私たちの仕事なの」

「了解いたしました」

 言われるままに、まずは墨を摩る用の水を桶に移し、写本府のなかをぐるりと歩き回った。水が足りないと言われれば、柄杓で継ぎ足し、飲み水が欲しいと言われれば、あとで持ってきますと答える。

 普段歩き回ることがない夏月は、それだけで体が音を上げてしまった。

「あらあら……大変。まだ城内を歩かないといけないのに……」

 先輩女官のおっとりとした声を前に、足だの腕だのが痛みを訴えた夏月は、完全に動けなくなってしまったのだった。

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