第21話 出世の見込みのない女官から成り上がれますか?
歴史年間などの重要な書物は、四冊の同じ本を四つの文倉――秘書庫に納めて、万が一どこかの図書館が火災にあった場合でも、内容が失われないように配慮されている。一般に公開することが目的ではなく、国のために知識を蓄えるのが秘書省の役割だった。
そのくらい、書物というのは、黄金や珍らかな薬と同じく貴重品扱いをされている。
いまだに王権は神から託されたものであり、神事を国主が行う世界では、知識というのは神から託された神秘と同じだ。神秘をたくさん所持するからこそ、その王権は強いと見なされる。
秘書庫に納められるのはその名が示すとおり、秘書――秘された書物なのだ。
その貴重な四つの写本を作るために、王のお声かかりで秘書省付きの写本府という部署が作られた。
王直属の機関という、大変ありがたいお墨付きをいただく一方で、国家機密を取り扱う部署という秘匿性のため、外部の部署とのやりとりが制限され、人との関わりは少ない。つまり、要職に就くお偉い方々に顔を覚えてもらえる機会がない。
しかも、刑部のように犯罪人を取り締まって手柄をあげたり、兵部のように戦で手柄をあげるようなこともない。
それ故に、写本府は閑職と言われ、官吏からも女官からも嫌煙されているのだった。
その写本府の女官として、夏月は初出仕してきたところだった。
「ここが……写本府……?」
ようやく念願の、『秘書庫で本を読みたい放題』と言いたいところだが、事はそううまく運ばないようだ。
秘書省というところをどんなところだと思っていたのかと問われれば、わからない。
ただ漠然と、実家にある書物用の倉のようなものを想像していた。
天井近くまで作り付けられた棚にびっしりと書物が並んでいて、過去の琥珀国に起きた事象の一覧や薬草について、動物についての本などが、ずらりと並んでいるような場所を思い描いていたというのに、実際は全然違う。
一応、本はあるが、棚にわずかに並んでいるだけ。
夏月の蔵書に及ばないどころか、『灰塵庵』に見本で置いてある書物にさえ負けそうだ。
思っていたのと違う場所に連れてこられたという、夏月のとまどいを察知したのだろう。
「こちらは写本府の主な作業をする場所だ。通常、写本府と言えば、こちらへ案内される。秘書庫は内廷――後宮の奥にあるからね。一定以上、写本が進んだら、秘書庫に納めに行くのだよ。そのときに、男ばかりだと、いろいろと問題があって……文字の読み書きができる女官を探していたのだ。夏女官が引きうけてくれて本当によかった」
洪緑水は先日と同じことを言うが、どうにも胡散臭い。
――もしかして、体よく騙されたのでしょうか……。
そんな考えがちらりと頭をよぎる。
いくら閑職とはいえ、ひとつの部署の長官になるにしては、洪緑水は若い。正確に年齢を聞いたわけではないが、肌の艶や立ち居振る舞いからして、二十代の青年に見えた。
それでいて、妙に物腰が穏やかで、年寄りめいた気配がするときもある。ほんのわずかの間しか関わっていないが、ときおり言葉と態度と行動がちぐはぐな印象を受ける人物なのだった。
たまさか、字を書ける娘がいたから、自分の職場で働かないかと声をかけるのはいい。
そういう偶然の縁が就職に繋がるのはよくあることだし、人手不足の部署ならなおさら、都合のいい人物を見かけたら、声をかけずにいられなかったのだろう。しかし、それでもなお、なにか訝しみたくなる雰囲気を漂わせる人だった。
もっとも、顔立ちのよさだけは夏月も認めていたから、多少の胡散臭さは、その顔に騙されて相殺されてしまうのかもしれない。
「黒曜禁城に出入りする女官は採用試験があったと思いますが……こんなに簡単にわたしを雇っていいのですか?」
もし、夏月がなにか下心があって女官になろうとしていたら、どうするのだろうと、警戒心も露わに探りを入れる。上司となった青年を試す意味もあったが、実際、こんなに簡単に採用されているのだろうかと疑ってもいた。
「ははは……藍家のご息女なら問題ないだろう。それに、試験を通った女官だけでは足りないときのために、身元が確かな者を員外で雇うのは、どこの部署でも認められているのだよ」
なるほど、と今度は納得してしまった。
員外とは、臨時採用のことだ。
正式な試験は時期が決まっており、そのあとで辞めたり、亡くなったりとなんらかの事情で欠員が出てしまうと、部署としては不便だ。
だから、どこの部署でも部長の権限で、多少の人を雇うことができるということらしい。
確かに身元がはっきりとした親戚筋の人間なら、安全だろう。親兄弟の人となりを知っていて、家族もよく知っているから、盗みを働くような問題が起きにくい。問題を起こしたら一族郎等に累が及ぶことくらいはわきまえている者が来るだろうし、一時的な雇いならそれで十分だ。
誰かが出世すると、一族郎等が恩恵に与りにやってくると言われるが、一方で、縁故雇用の利点も忘れてはならない。繁忙期と閑散期がある以上、一時的な雇用というのは、どうしたって必要な存在だからだ。
夏月も、藍家の人間だと知られているのだから、家名に傷つくような行動は起こせないと思われているのだろう。家の名前というのは、それだけ有力な後ろ盾なのだ。
――それを見込んで雇われたということでしょうか。
おそらく、洪緑水という青年は、整った見た目からは想像できないしたたかさを持ちあわせているのだろう。二言、三言を交わしただけで、そこまで夏月の人となりを読み切ったのだとしたら、慧眼だ。頭の切れる人物と言える。
もっとも、夏月は女官として勤めるのにあたって、ひとつだけ条件を出した。それは、夏月が藍家の人間だと知られないようにしてほしいというものだった。
夏月の父親・藍思影が出世したのは、藍家が琥珀国では名門の一族だからだ。
手広く商売をしていて金もあり、娘は国王の寵妃でさえある。
藍夏月という名前を名乗っただけで、彼には、姉の紫賢妃との関係を見抜かれたのだ。
ほかの官吏だって同じだろう。夏月自身に、なんの力もなくても、藍一族のものだと知られるのは、面倒ごとを引きよせるかもしれない。
配慮してもらい、ここでは『藍夏月』ではなく、『
作業用の大きな文机に近づいたところで、洪長官がぱんぱん、と手を叩いて、注意を引いた。文机の前に座していた官吏がはっとしたように、一斉に顔を上げる。
――ひとり、ふたり、三人、四人、五人、六人……思っていたより多いな。
官吏はみな頭に黒い巾をつけて髪を結っているから、数が数えやすい。
見える範囲だけで、十人が数えられた。
疲れ切った、風采の上がらない顔からすると、確かに出世は見込めそうもないが、書いている文字は美しく読みやすい。
――科挙に受かったが、家柄が低く、伝も金もない官吏でしょうか。
夏月はそんな見立てをした。
科挙というのは試験による官吏の登用制度だが、同じ試験に受かるのなら、より血筋がいいものが重用される。あるいは賄賂で職を買うものもあり、地方からやってきた貧乏な青年などは出世の道が閉ざされていた。
科挙に主席で合格するほどの抜きんでた優秀さがあれば、また別かもしれないが、華やかな職がある一方で、国の運営には必要であっても日の当たらない職というのは、どうしても生じる。
「いまいる者だけでよいから、そのまま話を聞いてくれ。先日辞めた女官の代わりに員外の女官を雇うことにした。夏女官だ」
洪長官に紹介されたのにあわせて拱手すると、何人かからは軽く頭を下げられた。
普段、『藍夏月』として生きるうちは、けっしてこのような扱いは受けるまいと思うと、痛快でもあった。万が一でも、
しかし、ここに父親はいないし、夏月も礼儀など気にしなかった。ずらりと文机が並んだ部屋には、書いたものを干すための棚が背後にあり、覚え書き用なのだろう、大量の竹簡が積まれた棚もある。
大量の竹簡を見たとたん、思わず、冥府に積まれた竹簡を思いだしてしまった。
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