第28話 豆知識もたまには役に立つ

 浮遊していたみのりの髪は、完全に重力に逆らうことをやめていた。天を突くように伸びていた翼も、力を失ったようにゆるゆると折れていく。

「みのり……」

 もう、手を伸ばせばみのりに触れられる距離だ。

 だが、差し出したその手をどうすればいいのか分からない。

 右側にしか生えていないみのりの角が、頭の動きに合わせて少しだけ動いた。

 伏されていた顔から、黒紫色の瞳だけがこちらをのぞく。

 肌に紋様を描く白紫に、鋭い牙の生えた口。

 人間以外のモノになってしまったみのりの顔からは、もう表情が読み取れなかった。

 ただ、その両目からぼろぼろとこぼれては床を濡らす涙に、ひたすら胸を締めつけられる。

「……隣、座るな?」

 まだそこまでは許されていないような気がして、みのりに触れることはできなかった。

 鎖で床につながれているため、動けないみのりと視線を合わせるために、床に腰を下ろす。

 でも、ここからどうすればいいんだろう。

 確か兎呂は、鬼退治専用武器だけが妖力を削れる、って言ってたよな。

 豆を使えば、みのりの中の鬼化した部分……膨大な妖力の部分だけを削り取ることができるかもしれない。でも、それだってやっぱり、なんの裏付けもない希望的観測だ。

 そしてこの希望的観測は、失敗した時のリスクがみのりに直接、降りかかってしまう。

 ……あ、そうだ。

 全然うまい方法じゃないし、リスクだって一ミリも減らない、けれど。

 俺はふいに思いついて、カバンから升を取り出した。

「みのりはさ、節分って知ってるか?」

 返事が返ってこないことは分かっていながら、声をかける。

 かろうじてここまで持ち込んだ、三分の一の中身が入った升をかたわらの床に置く。

「鬼は外、福は内、って言いながら豆をまいて、悪い鬼を追い払うって行事があるんだけどさ。あ、知ってたらごめんな? 決して馬鹿にしてるとかじゃなくて、念のためな? その節分にちなんで、俺の武器、豆なんだけどさ。笑っちゃうだろ?」

 笑えないみのりの代わりに自分で苦笑しながら、俺は豆を一粒つまみ上げた。一つ、二つ、と頭の中で数をかぞえながら、豆を自分の手の中に移していく。

「んで、節分の時は豆をまくだけじゃなくってさ。健康で幸せに過ごせますように、って意味を込めて、自分の年の数だけ豆を食べるんだよ」

 初めての鬼退治の翌日に、部屋で兎呂と交わした会話を思い出す。

『充電した豆は非常時には食べることもできますからおやつ代わりにどうぞ。ただし体力は奪われます!』

「ごー、ろく……と。とりあえず六つくらいでいいか。あ、そういや俺、みのりの歳知らねぇや。……俺とあんま変わらないよな? 多分」

 みんなを鬼から守るために、狭い世界に閉じ込められて。お針子の手が足りなくなったからとまたリスクを負って。理屈を無理やり飲み込んで、みのりはずっと我慢してきた。

 ならばせめて今くらいは、自分も一緒にリスクを背負おうと思う。

 左の手のひらに乗せた豆を、一粒つまんで自分の口に運ぶ。

 ほんの少し、舌がしびれるような感じがした。

 味は、普通の節分豆だ。ゆっくりとかんで、おそるおそる飲み下す。

 ……こういうの、虚脱感、って言うんだろうか。

 たった一粒で全身から力が抜けていき、ずんと身体が重くなる。

「みのりも……ほら」

 同じ要領で、動けないみのりの口元にも一粒、豆を運ぶ。

 緩く開いたその口には、俺の指くらい簡単に食いちぎってしまいそうな牙が並んでいる。その隙間に指を差し込んで、舌の上に豆を転がす。

 正直、内心は不安で、息が詰まりそうだった。

 普通の人間の俺ですら一粒でこんなに効いているのに。

 みのりの喉が小さく動くさまを、高鳴る心臓の音を聞きながら見つめる。……どうやらかまずに飲み込んだらしい。

「あれ……なんとも、ないのか?」

 すぐに黒い煙を上げて苦しみだすかもしれない。

 そんな予想を立てていただけに、少し拍子抜けする。

 みのりは表情のない目で、じっとこちらを見つめていた。促されたような気がして、一粒、もう一粒と、お互いの口に豆を運び続ける。

 みのりの身体に変化が表れ始めたのは、五粒ほど食べた時だった。

 角や翼から、次いで白紫色の体毛や肌の紋様から、黒い煙がにじみ始める。

「ろく……なな……はち。と」

 みのりの変化には、あえて気付かないふりをした。

 これが正解なのか、俺にも分からない。みのり本人も、自分の身体が黒煙を噴き始めていることに気付かないわけがない。

 ただ、分からないを言葉にすることで、みのりに余計な不安を感じさせたくはなかった。口にした八つめの豆が、腕を鉛のように重くする。

「きゅう……じゅう……じゅう、いち」

 みのりの身体を取り巻く黒煙が、だんだんと濃さを増していく。

 コウモリのような翼には、ところどころに穴が開き始めていた。みのりの中の鬼の部分が、内側から侵食されていくように朽ちていく。

「じゅうに……じゅうさん……」

 十四、まで数えようとして、息が続かなくて止まる。

 ……だるいなぁ……

 どうしようもなく重いまぶたに逆らい、ため息に乗せて疲労を吐き出す。

「……じゅうし」

 今すぐ床に突っ伏して、眠ってしまいたかった。

 顔を上げるのもしんどくて、のぞき見るようにみのりの様子をうかがう。

「じゅうご……」

 俺がかろうじて差し出した十五粒目の豆も、みのりはおとなしく飲み込んだ。

 じりじりと黒煙を吐き出し続けている翼は、すでに骨格を残すだけになっていた。角はまだしぶとく原型をとどめていたが、体毛も紋様も、もうよく見ないと分からないくらいに薄れてきている。

「じゅう、ろく」

 カウントを絞り出し、豆を奥歯でかみ砕く。

 目を閉じたら、そのまま気を失ってしまいそうな気がした。

 もう惰性では動かすこともできない手に、気合を入れて升に伸ばす。

「……あ」

 ちょうどこれで終わり、か。

 ちょっとした奇跡に苦笑しながら、升の底に残った二粒の豆を手に取る。

「じゅうなな」

 一粒を自分の口へ。

 最後の一粒をみのりの口へ。

 ほんの一粒の豆をかみしめながら、みのりの変化を見届ける。

 みのりの身体を包んでいた黒い霧は、時間をかけて晴れていった。年の数だけ妖力を削られていったみのりの姿が、白日の下にさらされる。

 異形の翼は完全に消失していた。

 変質していた牙も、肌も、四肢も、人間のそれに戻っていた。ただ、右側だけに生えた角だけが名残のように残っている。

「なる、み……」

 一瞬、空耳かと思う。

 四つん這い状態のみのりが、こちらに顔を向けている。

 獣のような体毛に覆われていた時はあまり意識していなかったが、鬼人化した時点でみのりの服は破れていた。

 つまりはほぼ裸だ。

 上目遣いに連れられて、形のよい胸のアウトラインがこちらを向いている。

「みのり、意識が……戻ったのか……っ?」

 みのりを正面から受け止めようとする気持ちと、見てはいけないと思う気持ちがぶつかりあう。が、もう慌てふためくだけの体力もない。

 俺と目が合うとみのりの頬が少しだけ緩んだ。

 みのりの口がなにかをつぶやくが、声はかすれて聞こえない。

「ごめん……ちょっと聞こえなかっ――」

「ありがとう」

 黒紫色の目が、穏やかに笑う。

 次の瞬間、みのりの全身からふっと力が抜けた。慌てて抱きとめようとするが、もう身体がついてこない。みのりの白紫色の髪が尾を引いて、胸の下あたりになだれ込んでくる。

 押し倒されるような形で、俺はみのりと一緒に、床に倒れ込んだ。

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