第15話

                  3

 司時空庁長官室の窓に雨粒が当たる。晴れた朝に突如降り始めた雨は、次第に激しくなり土砂降りになっていた。そんな暗く憂鬱な朝にも拘らず、津田幹雄の表情は明るい。

 佐藤雪子が執務机の上にコーヒーカップを置いた。

「おはようございます」

「うん。おはよう」

 津田幹雄は笑みを浮かべながらコーヒーカップに手を伸ばした。

 佐藤雪子は津田の顔を覗き込んで言った。

「随分とご機嫌がよろしいようでございますわね」

 コーヒーを一口啜って、津田幹雄は答えた。

「ああ。昨夜の奥野国防大臣との会談が、上手くいってね」

「それは、よろしゅうございましたわね。昨夜のご帰庁は遅くて?」

「こっちに着いたのは日付が変わってからだ」

「遠い所まで、ご苦労様でございました」

 佐藤雪子は頭を深く下げた。

 津田幹雄は満足気な顔で言う。

「まあ、足を運んだ甲斐はあったよ」

「大臣は何と?」

「明答は得られなかったが、あの調子では、こちらの要求どおり動くはずだ。あの男は、もう終わりだよ」

「大臣にお見せした資料の方はいかがいたします? すぐに新日に送りますか?」

「そうだな……週刊誌の発刊は毎週金曜日だったな」

「はい」

「うーん。その前に新聞の方に送っておいた方がいいか。佐藤君、今日中に大臣が動かないようなら、資料を新日ネット新聞の方に送ってくれ。もし、大臣がNNJ社に対し連絡をとり、国防軍をAB〇一八の施設に移動させるべく動いたら……」

「送付は暫く見送りですわね」

 津田幹雄はコーヒーカップを机の上に置いて言った。

「いや、その時は週刊誌の方に送ってくれたまえ。金曜に発刊なら、奥野大臣は土日で慌てて行動を起こすはずだ。結果が出た後、分析名目で、我々の方でバイオ・ドライブを再び預かれば、すべて元通り。その後、我々が放置すれば、月曜日には、奥野大臣は辛島総理によって罷免されるだろう。さよならさ」

 佐藤雪子は笑みを浮かべながら言う。

「まあ。悪い方ですわね」

 津田幹雄は椅子の背もたれに深く身を倒して言った。

「これが政治さ。このくらいのことは、目を瞑ってでも出来るようでなければな」

「頼もしい方ですこと。かしこまりました。準備をして、国防省に目を光らせておきますわ」

「そうしてくれたまえ」

 ドアがノックされた。津田が低く太い声で答える。

「ん。入れ」

「失礼します」

 松田千春が入ってきた。彼は眉間に皺を寄せ、いかにも問題を運んできたという顔をしている。

 津田幹雄は尋ねた。

「どうした」

 松田千春は津田の机の前に着く前に言った。

「官邸に動きがあるようです」

 椅子の背もたれから体を起こした津田幹雄が尋ねる。

「何かあったのか」

 松田千春は津田の机の前に立ち、報告した。

「今朝、総理が会談を予定していたサートゥンシット・クラマトゥン博士が、空港から市街地に向かう途中、地下高速内で事故を起こし、死亡したそうです」

 津田幹雄は目を丸くした。

「地下高速で事故? 定速自動車流制御システムで自動走行していたはずだろ」

「はい。博士は、その定速自動車流制御システムの構築メンバーの一人でした」

「システムの考案者か」

 松田千春は首を横に振った。

「いえ、制御プログラムの基礎となる基本数式を考案した人物です」

 佐藤雪子が口を挿んだ。

「ご自身が考案された数式を基礎としたプログラムで、事故に遭われた訳かしら」

 松田千春は津田の方を向いたまま、佐藤の投げ掛けた質問に答えた。

「システム自体と事故との因果関係は判明しておりません。現在、警察が検証中です。ですが、事故発生直後から、都の運輸局が事故現場を緊急封鎖。現場に急行した警察の部署は、警視庁公安部です。しかも、警察庁からの直接指揮で」

 津田幹雄は顔をしかめた。

「公安が? 事故事実を隠すつもりか」

 松田千春は津田の目を見たまま小さく頷いた。

「おそらく。これまでの交通事故死傷者数ゼロという神話が崩れるのを恐れているのかもしれません」

 津田幹雄は首を傾げた。

「いや、その程度のことではないな……」

 佐藤雪子が言う。

「隠すにしても、他の通行車両の目撃者が居ますでしょ」

 松田千春は佐藤の顔を見て言った。

「ほとんどの車は、地下高速を通行中は、すべての窓ガラスを変色させて外からも中からも見えないようにしている」

 そして、津田に視線を移して続けた。

「月曜の朝の通勤時間ですので、自動走行の車内で朝食を取っていた者も多かったはずです。それに事故当時、不思議と博士の車両の周囲には、ぶつかったトラック以外に他の車両は走行していなかったようなのです。博士の小型AI自動車が荷台の後ろに衝突したというトラックも四連式のトレーラーを引く大型牽引車。運転手も事故そのものには気づかなかったようです。博士の車両が大破した直後に地下高速内の監視センサーが作動。周囲の区画を自動封鎖していますので、おそらく、目撃者はゼロかと」

 津田幹雄が眉間に皺を刻んだ。

「出来すぎた話だな」

「まったくです。ご報告しておきながら、何ではありますが」

「総理は。予定では今日から一週間、ヨーロッパに外遊ではなかったのか」

「会談が中止となりましたので、予定を遅らせて、先程、北欧に向けて発たれました」

「ん? とは、どういうことだ。会談が中止になったのだろう」

「当初の予定に割り込んでクラマトゥン博士との会談が組まれたようです。つまり本来なら、この時間でしたら、とっくに総理は出発されていたはずなのです」

 津田幹雄は割れた顎を触りながら言った。

「辛島総理は、この時期のヨーロッパへの外遊予定を緊急に変更して、その学者と会おうとしていたということか。各国の首脳と南米戦争の終局時期を話し合うのが外遊の目的だろう。時期的にも微妙な時期じゃないか」

「はい。しかし、どうもそのようでございます。しかも、総理大臣執務室で内密に」

 松田の言葉に、津田幹雄は椅子から立ち上がった。彼は目を見開いて言う。

「な、なんだと。総理大臣執務室だって? あの部屋は、総理から特に信用された人間しか入れないはずじゃないか。私も今まで実際に足を踏み入れたことは無い。そこに、一介の学者が呼ばれたと言うのか」

 佐藤雪子が言った。

「でも、クラマトゥン博士は定速自動車流制御システムの基礎構築に深く関わった方なのでしょう?」

「その程度で……」

 首を横に振りながら呟いた津田幹雄は、顔を上げ、松田に人差し指を振って言った。

「とにかく、真相が知りたい。松田君、もう少し情報を集めてくれ」

「かしこまりました」

 そう返答した松田に津田幹雄が言い足す。

「それから、例のバイオ・ドライブの画像。新日の連中が所持しているという物もだ。あれについても回収の準備をしておいてくれ。奥野が動いたら、すぐに回収しよう。総理が外遊から戻る前の方がいい」

「はい。しかるべく手配いたします」

 津田幹雄は窓の外の官庁ビルを見渡しながら呟いた。

「辛島総理……いったい何を隠しているんだ……」

 大粒の雨に打たれる窓から望む官庁街は、歪み、滲んでいた。


 

                 4

 国防大臣室の窓の防弾ガラスに大粒の雨が強く打ち付けられている。奥野恵次郎は執務机の前で苦虫を噛み潰したような顔をして座っていた。

 ドアがノックされた。

 奥野恵次郎が荒っぽく答える。

「入れ」

「失礼します」

 一礼して、背広姿の増田基和が入ってきた。

「お呼びでしょうか。大臣」

 奥野恵次郎は増田に怒鳴った。

「遅い。緊急だと言ったろう。もう少し早く来れんのか」

「申し訳ありません」

 増田基和は軽く頭を下げた。彼が顔を上げると、奥野恵次郎は椅子の背もたれに深く倒れ、氷の入ったグラスを握っていた。

 増田基和は一度眉間に皺を寄せてから、尋ねた。

「それで、緊急の御用とは」

 奥野恵次郎はグラスを机の上に置くと、言った。

「連隊規模で、どこか緊急に動かせるところはないか」

「は?」

 思わず増田が聞き返すと、奥野恵次郎は増田を何度も指差しながら言った。

「君の方で動かせる連隊は無いのかと訊いているのだ」

 増田基和は怪訝な顔で答えた。

「私の方で動かせるのは、各師団配属の特務偵察部隊のみです。しかも、自由に動かせる訳では……」

「空いている連隊はないのか」

 奥野の問いに対し、増田基和が意見した。

「連隊規模では、地域防衛ワンブロックをカバーする実勢です。動かすのでしたら、作戦幕僚会議での作戦立案が必要かと」

 奥野恵次郎は更に声を荒げる。

「では、大隊でもいい。それなら、師団長指令で動かせるだろ」

「南米からの帰還部隊との合流が完了したばかりですので、これから、組み直された国内配備計画に基づいての部隊移動が始まるところです。ここで無計画に大隊を動かせば、配転作戦に混乱が生じかねません。したがって、今は不可能だと思量します」

「中隊ならどうだ。中隊規模なら、君の指令ですぐに動かせるんじゃないのか」

「総理と大臣の指令であれば、どのような規模の兵団でも、指揮命令系統に従って出動させることは可能です。ですが、出動には目的が必要となります」

 奥野恵次郎は机を叩いて言う。

「AB〇一八だ! あの施設を警備する必要がある!」

 増田基和は奥野を見据えて言った。

「お言葉ですが、あの施設は民間企業たるNNJ社が所有するものです。厳戒令発令時以外で国防軍が民間施設を警備するには、国会の国防委員会による許可が必要であるはずですが」

「NNJ社が国と警備委託契約を締結したいと言ってきているのだ。総理が契約交渉役を選任するらしい。それに先立って、試験的に警備計画を実行してみようと思う。緊急体制時のあの施設の警備計画があるだろう。それに基づいてデモンストレーションをするんだよ。それくらいなら、国防委員会の許可がなくとも、部隊を動かせるだろう。早急に配備計画を調整して、必要規模の部隊を編成してくれ」

 増田基和は奥野の顔を真っ直ぐに見て答える。

「私は情報局の人間です。部隊編成を指揮する権限は有りません」

 奥野恵次郎は増田を指差して言った。

「情報局長の君だから、頼んでいるのだよ。あの施設の内部構造については、情報収集が専門である君の局が一番詳しいはずだ。君の所にある情報を基に必要規模の人員と配置を検討しろ。必要な武器の補給については調達局の津留君に話しておく。せっかくNNJ社と政府が契約できる、またと無いチャンスなのだ。これを逃す訳にはいかん。まずは試験的警備でこちらの実力を示して、相手の信用を得る必要がある。施設の内部構造を熟知した君に是非とも指揮を執ってもらいたいのだよ」

「しかし、あの施設にはNNJ社の私設部隊が極秘に配置されているはずです。公安委員会の許可も警察への届出もなく。さらには、密輸した警備用ロボットを勝手に配置しているという情報も得ています。それらの撤収もないまま国防軍が乗り込めば、NNJ側と衝突しかねません。最悪、市街地での戦闘に発展する可能性も懸念されます」

 奥野恵次郎が強く机を叩いた。

「軍人が戦闘を恐れていてどうする。NNJ側には事前に連絡はしておくのだ。案ずるには及ばん」

 増田基和は毅然として答えた。

「無用な戦闘を回避するのも、軍人です」

 奥野恵次郎は再び増田を指差しながら言った。

「ならば、十七師団ならどうだ。あの部隊は最高司令官の直轄部隊、つまり内閣総理大臣の直接指揮下となっていたな。通常師団編成からも独立している。配転計画にも無い部隊だろう。演習ということで動かせんか」

「十七師団は極秘の兵団です。出せません」

 椅子の背もたれに身を投げた奥野恵次郎は、鼻を膨らませて言った。

「南米の戦地やアフリカ戦線であれだけの活躍をして、今やアジア最強の機械化歩兵部隊『深紅の旅団レッド・ブリッグ』として、その名を轟かしているのだ。今更、極秘も何も無かろう。あそこを実質的に仕切っているのは、阿部あべ亮吾りょうごとかいう大佐だったな。君とは同期入隊だと聞いているが」

「いえ、歳は同じですが、軍人としてのキャリアと実戦経験は阿部大佐の方が上であります」

「そんなことはどうでもいい。君の方が階級はずっと上じゃないか。あの男は生粋の軍人だそうだな。命令を出したとしても、戦闘任務以外では、やる気を出さんかもしれん。君から彼をその気にさせることはできんかね」

「仰るとおり、阿部大佐は生粋の軍人です。ですから、軍からの命令には、どんな命令にも従うでしょう。実際に、そうしてきた人物です。ただ、軍人にも名誉があります。その点は、ご配慮いただきたい」

 奥野恵次郎は眉間に皺を寄せた。

「どういう意味かね、それは」

 増田基和は奥野の目を見て言った。

「彼が率いる十七師団は、この十年、常に陰での危険任務を強いられてきました。国のために最前線に立ち、極秘任務に従事してきたのです。対馬の奪還作戦でも、本部が立案した無謀な作戦に従い、現地に急行しました。その後、短時間で国土を回復し島民を救助できたのは、最前線に投入された彼らが多くの仲間を失いながらも怯むこと無く前進したからです。にも関わらず、国民からの賞賛は一切有りませんでした。それについて、阿部大佐は一言も不平を述べていません。それは彼らが極秘部隊であることの意味と必要性を、大佐も彼の部下たちも十分に認識しているからだと考えます。その十七師団を、しかも南米の奥地の過酷な戦場から戻ってきたばかりの彼らを、今になって急に、市街地中心部に程近い場所で、外国籍企業が所有する施設に堂々と配置して晒し者にするなど、絶対にやるべきではありません。どうか、お考え直し下さい」

 増田をにらみ付けた奥野恵次郎は言った。

「おまえは、国防大臣である俺に指図するつもりか」

 鼻から強く息を吐いた奥野恵次郎は、不機嫌そうに言う。

「だいたい、何のために多額の国防費を捻出して、奴らの部隊に最新鋭の装備を投入してきたと思っているんだ。全て国のためだろうが。あの十七師団は、今ではアジア最強と諸外国から恐れられているんだぞ。その奴らを配置して防衛態勢を布いて見せれば、NNJ社はすぐに契約書にサインするだろう。こういう時のための最新鋭部隊ではないか」

 増田基和は厳しい視線を奥野に向けて言う。

「国防兵士は客寄せパンダではありません」

「そこまでは言っとらんよ」

 鼻で笑ってそう言った奥野に対し、増田基和は強い口調で進言した。

「十七師団は内閣総理大臣の直接指揮下にある兵団です。国防大臣が勝手に動かしたという先例を作れば、これまでの作戦の責任の所在が不明確になります。それに十七師団は、名目上は師団となっていますが、実際には最新鋭の戦闘装備を備えた混成旅団です。分散させれば、部隊としての戦闘能力が低下するでしょう。国防体制にも隙が生じます。かといって、十七師団丸ごとでは、あの規模の施設を警備する目的で動かすには、あまりに大き過ぎます。また、大規模部隊を市街地の一角に配置すれば、周辺諸国からあらぬ誤解を受けかねません。隣国との政治的な緊張状態が更に悪化します。十七師団は使えません」

 増田基和は頑として首を縦に振らない。

 奥野恵次郎は腕組みをして唸った。

「うーん。どうしたものか……」

 増田基和は国防大臣の補佐として、大臣の奥野に提案した。

「どうしても必要であれば、予科の訓練兵を使われては。実戦での哨戒態勢の模擬訓練ということであれば、中隊規模の人数を集めることは可能かと存じます。試験的配備が目的のデモンストレーションなら、それで十分なのでは。但し、実弾は支給できませんが」

 暫らく考えた奥野恵次郎は、肘掛を叩いて言った。

「よかろう。外観からは、訓練用のゴム弾も実践用の鉄甲弾も区別はつかん。その方向で指示を出そう。ただ、教官として実戦兵を同行させることは問題ないな」

「はい。教官としてなら」

「うむ、分かった。君の方は、持っている情報を基に、施設での兵士の配置を検討してみてくれ。見栄えが良いものを頼む」

 増田基和は少し間を空けてから答えた。

「――分かりました。ですが、NNJ側の武装解除は絶対条件です。その確認が取れるまでは、訓練兵といえども、動かせません」

 奥野恵次郎は面倒くさそうに頷いた。

「分かった、分かった。相手方にはよく伝えておく。心配するな。とにかく、今週中に配置できるように、配置図の作成に大至急取り掛かってくれ」

「は。では、早速」

 背筋を正してから一礼した増田は、振り返り出口へと向かった。

「ああ、待ちたまえ、増田少将」

 奥野恵次郎の呼びかけに立ち止まった増田基和は振り返った。

 奥野恵次郎は増田を指差しながら言った。

「君の方で抱えている偵察兵たちは、戦闘能力数値が上位の者を集めているのだったな」

「はい。有事の際は敵の支配区域に潜入し情報を収集、脱出して情報を持ち帰るのが我々の任務ですので、相応の人材は確保しております」

「うん。頼もしいな。近々、君の所の部隊の力を借りることになると思うが、前に指示したことの準備は出来ているのかね」

「はい。命令さえあれば、いつでも」

「そうか。では、その時は頼むよ」

「了解しました」

 増田基和は素早く一礼すると、ドアを開けて出ていった。

「失礼します」

 再び一礼してから国防大臣室のドアを閉めた増田基和は、廊下を速足で歩き始めた。背広のポケットからイヤホンマイクを取り出し、耳に装着する。スイッチを押した増田基和は歩きながら言った。

「私だ。この天気だが、中継できそうか」

 増田基和はエレベーターの前を通り過ぎ、廊下の突き当りの窓へと向かった。雨が打ちつける窓の前に立った彼は、下の東西幹線道路の向かいに建ち並ぶ巨大ビル郡の方を向きながら、言った。

「よし。レーザー通信に切り替えろ」

 その後少し間を空けてから、増田基和は話し始めた。

「増田です。十七師団の配備は諦めていただきました。訓練兵の配備で了承された模様です。今週中の配備を希望されていますが、いかが致しましょう」

 増田基和は耳元に手を添えたまま、相手の話を聞いている。彼は眉間に皺を寄せる。

「分かりました。そのように実施いたします。作戦は、ご命令どおりに遂行中です。ご心配なく。では、失礼します」

 増田基和は耳からイヤホンマイクを外し、背広のポケットに閉まった。彼は窓辺に立ったまま、険しい顔で雨の中の高層ビル街を見つめていた。



                  5

 新日風潮社の編集室の記者たちは、御盆休み明けの疲れを引きずって気だるそうに仕事に取り組んでいる。そんな記者たちを監視するかのように、編集室長の山野紀子は自分の机の前に立って記者たちをにらみ付けていた。彼女の左目が青色に光っている。記者たちを観察するふりをしながら、山野紀子はイヴフォンで通話していた。彼女は小声で話している。

「そうなのよ。だから、真ちゃんからも少し言ってやって。――うん。それは分かってるけど……。あ、帰ってきた。じゃ、切るね」

 春木陽香が肩を落として編集室に入ってくる。トボトボと歩いてきた彼女は、自分の席の前に来ると、力ない声で言った。

「ただいま戻りました……」

 彼女は項垂れたまま自分の椅子に座った。

 イヴフォンの通話を切った山野紀子が心配そうな顔で言う。

「どうしたのよ。下向いて」

 春木陽香は溜め息を吐いてから答えた。

「神作キャップに叱られました。そんなことはいいから、おまえは自分の仕事しろって」

 山野紀子は眉を寄せて言う。

「でしょ。本当は真ちゃんたちだって、司時空庁の一件を進めたいのよ。でも、向こうは日刊の時事新聞でしょ。事件や事故が起これば、それを記事にして一刻でも早く読者に知らせないといけないじゃない。いくら会社から事実上専任で取材する事を許可されても、追跡記事ばかりに取り組んでいる訳にはいかないのよ。でも、世の中には、時間をかけて取材して記事にする必要があるものもある。だから、週刊誌があるの」

 春木陽香は座ったまま御辞儀をするように机の上にパタリと上身を倒し、机上に額をついたまま言った。

「全く同じことを言われました。プラス、二〇二五年の大爆発を永山のせいにされてもいいのかあって。ああ、最悪だ。先輩に嫌われたかも……」

 山野紀子は呆れた顔で言う。

「あのね……視点は、そこ?」

 春木陽香は机に額を押し付けたまま言った。

「せっかく、また永山先輩と組んで仕事ができると思ったのに……がっかりです」

 別府博が椅子に座ったまま春木の横に滑ってきて言った。

「いい先輩は、ここにもいるだろ。共に事件の謎を追おうじゃないか」

 春木陽香は、そのままの姿勢で呟く。

「私は先輩が何を追っているのかが、謎です」

「そ、そう言われれば、確かに……そうだな。何の照合をしてるんだったっけ。目的は、ええと……」

 首を傾げながら椅子ごと自分の机に戻る別府を見て、山野紀子が言った。

「別府君は、ライトが送ってきてくれた風景写真の撮影場所を特定してるんでしょ」

 別府博は膝を叩いて言った。

「ああ、そうでした」

 山野紀子がガックリと肩を落として言う。

「もう、しっかりしてよ。ハルハル、あんたもシャキッとしなさい。そっちは田爪博士のデータ、私はバイオ・ドライブでしょ。それぞれの行方を突き止めなきゃ」

 春木陽香は机に頭を乗せたまま山野の方を向いて言った。

「見つかるんですか、ASKIT。その方たちが持ってるんですよね」

 山野紀子が春木を指差して言う。

「いいから、体を立てなさい。ぶっ飛ばすぞ」

 春木陽香は山野の方を向いたまま、上半身を起こした。

 山野紀子は机を回って自分の椅子に向かいながら言った。

「ASKITが何処にいるのかは分からないけど、バイオ・ドライブが在るとしたら、一番確率が高いのはAB〇一八の施設よね。あのドライブって、AB〇一八に接続しないと中の情報が読み取れないんじゃなかったっけ」

 春木陽香は、また上半身を倒して机に頭を乗せた。

「ですねえ。でも、施設に入れる訳じゃないし、問い合わせても答えてくれないでしょうし、私に透視能力は無いですし……。調べようがないですよね。はあ……」

 椅子を回して後ろを向いた別府博が言った。

「軍隊なら、透視機能付きの双眼鏡とか持っているはずですけどね。でも、AB〇一八の施設と言ったら、超重要施設ですもんね。透視対策くらい施されていますよね、当然に」

 椅子の背もたれに身を倒して別府を指差しながら、山野紀子が言う。

「そういう問題じゃない。あっちがIMUTAみたいに、所有者は国、管理者はGIESCOって分かれてれば、まだいいのよ。どちらかと話をすればいい訳だから。特に、国が相手なら国民として何か遣り用がある。でも、AB〇一八は、所有者はNNC社で管理者はNNJ社。この二社は実質的に一体だし、どちらも民間会社じゃない。私人同士じゃ、どうしようも無いのよねえ」

 春木陽香は机に頭を乗せたまま、再び山野の机の方に顔を向けて嘆いた。

「はあ。どうして二機ともGIESCOで管理してくれなかったんでしょうね。接続したんだがら、二機とも管理すればよかったのに。そしたら、光絵会長にお願いして、ストンスロプ社から探してもらうってこともできたのになあ。はあ……」

 山野紀子は「トゲトゲ湯飲み」を持ち上げながら言った。

「無茶苦茶言わないの。ストンスロプ社とNNC社は犬と猿なんだから、仲良く一括管理できないのは当然でしょ」

「ああ!」

 春木陽香は急に体を起こして叫んだ。そして、山野の方を見て目をパチクリとさせながら言った。

きじ

 そして彼女は机の上の立体パソコンを手前に引き、急いで何かを調べ始めた。

 怪訝な顔をして山野紀子が尋ねる。

「キジ? 鳥の雉のこと?」

 春木陽香は立体パソコン上に次々とフォルダーのホログラフィーを表示させながら言った。

「そうです。雉焼豆腐、雉飯、雉鍋の『雉』です。犬と猿で思い出しました」

 お茶を飲んだ山野紀子は、少し考えた。

「犬、猿、雉……ああ、桃太郎ね。なるほど……って、納得しないわよ。ちゃんと説明しなさいよ」

 春木陽香は一つのホルダーのホログラフィーを中央に移動させると、指先で摘まんで蓋を開け、中からファイルのタブを引き出して次々に送りながら言った。

「光絵会長の邸宅にお邪魔した時、その部屋に大きな雉の絵が飾ってあったんです。会長さんは、雉は国鳥だから飾っていると仰ってました」

 山野紀子はトゲトゲ湯飲みを口に近づけながら応えた。

「そんじゃ、そうなんでしょうよ」

 春木陽香は資料を探しながら言う。

「でも、会長さんは、こうも仰ってたんです。瑠香さんも『雉の頓使ひたづかい』と同じだったって。きっと、何か意味があるんだろうと思います」

 春木の後ろの席で彼女と背中合わせに座っている別府博が、こっそりと薄型のタブレット式端末を机の引き出しから取り出し、『雉の頓使』の意味を検索する。

 春木陽香は立体パソコンの上に投影させた幾つかの文書ホログラフィーに目を通しながら話を続けた。

「それって、もしかしたら、バイオ・ドライブやAB〇一八の事と何か関係があるんじゃないかと。田爪博士や高橋博士は、師事していた赤崎教授や殿所教授にNNC社が支給したバイオ・ドライブを使用して仮想空間実験を実施したんですよね。でも、その後はストンスロプ社やGIESCOの支援でタイムマシンの初期実験を実施している。二人のうちAB〇一八とIMUTAの接続に成功したのは、田爪博士ですよね」

 山野紀子はトゲトゲ湯飲みを机の隅に置いて、言った。

「そうね。構想自体は高橋博士の発案だったみたいだけど、結局、彼は実現できなかったのよね」

 ネット検索で『雉の頓使』の説明を見つけ出した別府博が、それを読んでしきりに頷いていた。山野紀子は春木の視線がこっちに向いていないことに注意しながら、机の下から手を振って、別府に端末を渡すよう促す。パソコンを操作している春木に気付かれないようにして、別府博がこっそりと山野に端末を渡した。山野紀子は机の下で隠しながら、さり気なく視線を下に落として、端末に表示された『雉の頓使』の意味を読む。

 春木陽香が椅子を回して山野の方を見た。山野紀子が慌てて顔をあげる。

 春木陽香は言った。

「以前、会長さんは、ストンスロプ社やGIESCOはNNC社が開発した最新技術を入手しようとしていたと仰ってました。ということは、NNC社が開発したAB〇一八のバイオ・コンピュータ技術も入手しようと真剣に考えていたのではないでしょうか。で、その本命はNNC社が有するバイオミメティクスの技術情報だった。だから、NNC社寄りだった赤崎教授や殿所教授の弟子である田爪博士や高橋博士の初期実験を支援した。彼らを引き抜くために」

 山野紀子が不自然に首を何度も縦に振った。

 怪訝な顔をした春木陽香は、山野に尋ねた。

「――あの、『雉の頓使』については、ご存知ですよね」

 山野紀子はタブレット端末を机の下に隠しながら、胸を張って言う。

「し、知ってるわよ、そのくらい。ねえ、別府君」

 別府博は自分の立体パソコンのホログラフィーに顔を近づけながら言った。

「常識、常識」

「ですよね」

 そう言った春木陽香は、再び自分の机の立体パソコンに向かうと、文書ホログラフィーを次々に表示させていった。

 山野紀子と別府博は同時に額の汗を拭う。

 春木陽香はホログラフィーの取材メモ文書を読みながら言った。

「私が取材に行った時、光絵会長さんは、瑠香さんが、その『雉の頓使』と同じだったと言っていました。これって、何か使命を帯びて行ったけど、結局、帰って来なかったってことではないでしょうか。つまり、瑠香さんは光絵家から、田爪健三をストンスロプ派に転向させるよう説得すべく密命を受けていたか、あるいは……」

「光絵会長が、自分の養女と田爪博士を結婚させることで、田爪健三がストンスロプ派に寝返ることを期待した」

 そう言った山野紀子の方に顔を向けて、春木陽香は頷いた。

「はい。もしくは、その両方。でも、田爪博士はそうせずに、瑠香さんも光絵家から離れていった。だから、ストンスロプ社側は、バイオ・コンピューターとは直接関係が無いタイムマシンの研究を支援して、田爪博士と高橋博士を改めて取り込もうとしたのではないでしょうか」

 別府博が頭の後ろで手を組んで椅子を回し、春木の方を向いた。

「なるほど。だから田爪瑠香は、第二実験で夫の田爪博士が失踪した後は、あんな小さな一室で、個人で研究していたのか。実家が経営するGIESCOの研究室は使わせてもらえなかったんだ」

 春木陽香は別府に視線を向けて言った。

「瑠香さん自身が遠慮したのかもしれません」

 山野紀子が言う。

「じゃあ田爪瑠香は、例の、NNC社が開発した機材についての守秘契約、それを守り通すっていう田爪健三の信念を引き継いだというだけではなくて、密使としての任務を捨てて裏切ってしまった実家のストンスロプ社に気兼ねしたということなのかしら」

「そうなのかもしれません。瑠香さんがストンスロプ社から田爪健三博士をストンスロプ派に転向させる密命を受けていたのだとしたら、それを実行しなかった彼女はストンスロプ社側からすれば全くの裏切り者です。いくら実家が経営する企業とはいえ、その状態で戻ってくれば、養母である光絵会長さんにも迷惑をかけてしまうかもしれない。だから、ストンスロプ社の研究機関であるGIESCOには頼れなかった。そういうこともあるのではないでしょうか。でも、そういったジレンマ的な状況に陥った瑠香さんを光絵会長さんが救おうとしたのなら……」

 そう言った春木に、山野紀子が険しい顔で尋ねた。

「救う? どういう事よ」

「バイオ・ドライブです。私たちを助けてくれた光絵会長さんが、道理の狭間で苦しんでいる瑠香さんを放置するはずはないと思うんです」

「う、うん。よく分かんないけど、それで、バイオ・ドライブとは、どう関係してくるのよ」

 春木陽香は、そう尋ねた山野の顔を見て言う。

「もし、南米にバイオ・ドライブを運んだのが瑠香さんだったのなら、彼女が飛び立った六月五日までは、バイオ・ドライブは瑠香さんの手許にあったということですよね。光絵会長さん、あるいは、ストンスロプ社としては、この十年間、瑠香さんの手許にあったバイオ・ドライブを手に入れようとはしなかったのでしょうか。司時空庁の仕業か、NNC社を動かしているというASKITの仕業かは分かりませんが、いずれかが、ああやって瑠香さんの自宅や研究室を家捜ししたりしているというのに、もっと前から事情を知っていたはずのストンスロプ社側が何もしていないというのは、何か変じゃないですかね」

「会長が止めていたのかもよ。自分の養女だからね」

 山野紀子がそう言うと、別府博が意見を挿んだ。

「いや、どうですかね。あの光絵会長ですよ。内閣総理大臣の辛島勇蔵もビビッている光絵由里子が、そんな甘いことをしますかね。いくら養女とはいっても、今のハルハルの推理が当たっているとしたら、たしかに会長にとって田爪瑠香は裏切り者ってことですもんね。血の繋がっていない養女に対してなら、結構厳しくいくんじゃないですか。例えば、田爪瑠香を拉致して制裁を加えるとか。それくらいの人だから、皆が恐れているんでしょ」

 山野紀子は別府に向けて手を一振りした。

「ギャングやマフィアじゃないんだから。一流企業の会長よ、そんな事をするかしら」

 春木陽香も意見を言った。

「瑠香さんに手は出さなかったとしても、バイオ・ドライブについては、何らかの手段を講じていたのかもしれません。例えば、一度入手して、また瑠香さんに返したとか」

 山野紀子が春木の顔を見ながら言った。

「なるほど……バイオ・ドライブを手元に置いてしまえば、目的は達成する。そしたら、田爪瑠香の裏切りは問題ではなくなるわね。実家にも戻りやすくなるし、GIESCOで研究をさせることも誰にも気兼ねする必要はない。たしかに田爪瑠香は救われるわね」

 春木陽香は頷く。

「はい。ですが、瑠香さんの矜持を傷つけないようにするためには、彼女に知られないようにする必要があります。だからきっと、こっそりと瑠香さんからバイオ・ドライブを盗んで、分析し、またこっそりと戻したのではないかと」

 山野紀子は目を丸くした。

「じゃあ、なに? ストンスロプ側は、既にバイオ・ドライブの構造解析もAB〇一八の分析も終えていたということなの? 田爪瑠香がタイムマシンで飛び立つ前に」

 春木陽香が再び深く頷いた。

「かもしれません。だから、事態を静観しているのかも。私たちを職場復帰させたのも、これまでの記事を私たちに書かせて、NNC社やNNJ社の国内からの排除を進め易くするためなのではないでしょうか」

 山野紀子は大袈裟に瞬きしながら春木を見て言った。

「あんた、急に記者っぽくなってきたわね。今日は何かと、頭が冴えてるじゃない」

 春木陽香はクルリと椅子を回してホログラフィーに顔を向けると、ボソリと言った。

「お盆休みで栄養をとりましたから。過剰に」

「ああ、それで……」

「別府。ストップ」

 何か言おうとした別府に山野紀子が掌を向けて発言を止めた。

 山野紀子はハイバックの椅子に深く座り直して、天井を見ながら頭を整理した。

「うーん……そうすると、ストンスロプ社としては、もうAB〇一八もバイオ・ドライブも必要ないということかしら」

 春木陽香が答えた。

「ええ。でも、田爪博士の研究データは欲しがるはずです。あれだけの内容ですから。そうであれば、入手するための方法を講じるのではないでしょうか」

「方法……って、もしかして、IMUTA?」

 椅子から身を乗り出した山野の方を再び向いて、春木陽香は頷いた。

「はい。もしGIESCOがAB〇一八の仕組みを解析し終えているのなら、神経ケーブルで接続されているIMUTAを使ってAB〇一八からデータを引き出すことは可能なのではないでしょうか。それに、もしバイオ・ドライブをASKIT側が所持しているならAB〇一八に接続してドライブの中のデータを引き出そうとしたはずです。そのデータは『絶対に忘れないコンピュータ』であるAB〇一八の中にも記憶として保存されている。それを、IMUTAを使ってストンスロプ社側が引き出している可能性は有るのではないでしょうか」

 山野紀子は腕組みをして、感心したような顔で春木を見ながら頷いた。

「なるほどねえ。有り得る話ねえ」

 春木陽香は話を続けた。

「それと、今、自分で説明していて、気付いたことが」

「なに?」

 山野紀子が期待を込めて尋ねると、春木陽香はそれに応えた。

「GIESCOが既にAB〇一八の構造を解析しているのだとしたら、ストンスロプ社側は、何故、今も政府に対してIMUTAをAB〇一八から離脱させることを求めているのでしょうか」

 山野紀子は腕組みしたまま天井を見上げて考えた。

「そうよね。国内からASKITの勢力を排除できたら、解析が済んだAB〇一八を自分たちで使えばいいはずだものねえ……」

 春木陽香は眉を寄せた顔を前に出して、山野に訴えるように言った。

「もしかしたら、あのAB〇一八には、何か大きな欠陥があるのかもしれないですよね。解析を終えたGIESCOや親会社のストンスロプ社は、その問題点を知っているから、AB〇一八からIMUTAを離脱させて、SAI五KTシステムを解消するよう訴えているのではないでしょうか」

 山野紀子は腕を解いて椅子の背もたれに倒れ込むと、短く溜め息を吐いてから言った。

「ASKITが出てきたかと思ったら、今度はストンスロプ社かあ。どんどん、話が大きくなってくるわね」

 急に春木陽香が椅子から立ち上がった。

「私、午後は、光絵会長さんに会いに行ってきます」

 別府博が自分の端末をいじりながら言った。

「いやあ、無理だろうねえ。僕らが田爪瑠香を救出しようとした時も、まったくこちらからの連絡には応じてくれなかったんだぜ。この前、ハルハルが光絵会長と話せたのは、いわゆるビギナーズ・ラックって言う奴で、そうそう毎回うまくいく訳じゃ……」

 山野紀子が別府に薄型端末を返しながら言った。

「もう、行ったわよ」

 別府博は振り返って、無人の春木の席を見ながら驚いた顔をした。

「ええ? はやっ。午後からじゃないの?」

 山野紀子が呆れた顔で、閉まった廊下の奥のドアを見つめながら言った。

「たぶん、午後に到着するようにでしょ。――山頂に」

 そして、壁の時計を一瞥すると、振り返って窓の外を眺め、顔を顰めた。

 窓の外では、勢いを弱めた雨が疎らに降っていた。


 

                 6

 新日ネット新聞ビルの近くのコンビニエンス・ストアから春木陽香が出てきた。手に大きなレジ袋を提げている。彼女は空を指差して言った。

「はい、雨振り終わりい。日も強くなしっと。ちょっと湿度が高めだけど、お肌には問題なーし」

 歩き始めた春木陽香は、レジ袋の中身を確認した。

「よし。ちゃんと水は買った。おにぎりも買った。チョコレートは溶けちゃうから、ピーナッツジャム。これで、いざ遭難しても大丈夫と。ああ、ライターもいるかな……」

 立ち止まって少し振り向いた春木陽香は、また前を見て言った。

「いや、やめとこう。火事になったらいけないもんね。しかも、あそこで火を出したら、山火事になっちゃうし」

 一人でコクコクト頷いた春木陽香は、再びレジ袋の中を覗いた。

「ええと、あとは、夏だから虫除けスプレーと、念のため日焼け止めと、汗拭き用のタオルと……」

 歩道の上で立ち止まったまま、ゴソゴソとレジ袋の中で手を動かして品物を確認していると、近くの路肩に一台のAIスポーツセダンが停まった。短くクラクションが鳴る。春木陽香は顔を上げた。

 その車の助手席の窓が下がり、運転席側から身を乗り出した女が叫んだ。

「ハルハル」

 春木がキョトンとした顔で声を裏返す。

「あれ? 編集長」

 春木陽香はトコトコと車に駆け寄った。

 運転席から助手席側に身を乗り出して、山野紀子が言った。

「あんた、光絵邸まで、また歩いてあの山を登るつもり?」

「はあ……。でも、今度は水も買いましたし、今日は日も照ってないですし、万一遭難しても、ピーナッツジャムで栄養補給すれば……」

 山野紀子は大きく溜め息を吐くと、呆れ顔で言った。

「あのね、世の中には『自動車』ってものがあるのよ。ほら、乗りなさい」

 山野紀子は手を伸ばして、助手席側のドアを開けた。


                  7

 ビルに囲まれた車道の上を、一台のAIスポーツセダンが雨水を飛ばして走っている。その車内では、山野紀子がハンドルを握り、助手席に春木陽香が座っていた。後部座席にはペットボトルの蓋を覗かせたレジ袋が置かれている。

 運転席の山野紀子が呆れ顔で言った。

「あんた、段々、ウチの娘に似てきたわね」

「はあ……」

 春木陽香は申し訳無さそうに返事をした。ウインカーが点滅し車が左折する。光絵邸が在る菊永町の方角とは違う。

 春木陽香は山野の顔を見た。

 山野紀子はハンドルを切りながら言った。

「さっき光絵会長の自宅に電話したら、今は本社だって。すぐそこのストンスロプビル」

「え? そ、そうなんですか」

 山野紀子は溜め息を吐いて言う。

「あのね、飛び込みで取材するつもりなら、相手の所在くらい確かめなさい。水の入ってないプールに飛び込んでどうするのよ」

「――すみません。つい、カロリー消費する方に頭が行ってしまっていて……」

「ピーナッツジャムでプラマイ・ゼロでしょ」

「ああ、そっかあ。しまった」

「まったく……」

 また溜め息を吐いた山野紀子は、運転しながら、眉間に皺を寄せた顔を一瞬だけ春木に向けると、言った。

「でも、会ってくれるかどうか、分かんないわよ。お忙しい方だから」

「ですよねえ。よく考えみたら」

 山野紀子は、また眉間に皺を寄せた顔で再び一瞬だけ横を見て言った。

「よく考えなくても、分かれっつうの」

 春木陽香は下を向いた。

 山野紀子は前を見ながら言う。

「ああ、それから。この際だから、はっきり言っとくけど、哲ちゃんのことは、きっぱり諦めなさいよ。他人様の旦那なんだからね」

「はい。ちゃんと分かってますし、諦めてます」

 山野紀子は、またチラリと横を向いてから言った。

「本当なの? 未練タラタラなんじゃないでしょうね」

「それは無いです。切り替えは早い方なので」

 春木陽香はポケットから取り出した「エケコ人形ストラップ」を見つめた。

 山野紀子が尋ねた。

「捨てるの? それ」

「まさか。祟りが恐いじゃないですか」

「祟りって……」

「この人形が効果があるのは確かだと思うんです。だとすると、捨てた時の反動も……」

 途中から山野紀子が話し出した。

「まあ、あんた若いんだから、いい人が見つかるわよ。早いとこ、他にいい男を見つけなさいな」

「そう、この人形にお願いしたいんですけど、それだけは、お願いできなくて」

「全然、切り替えてないじゃない」

「はあ……」

 山野紀子は前を向いたまま、片方の手で春木の手許を指差して言った。

「だから、そんな人形を持ち歩いているから、いけないんじゃないの」

 少し考えた春木陽香は、意を決した。

「ですね。よし」

 春木陽香は自分の両頬を両手で二度、強く叩いて言った。

「はい。切り替えました。この人形、ここに付けときますね」

 春木陽香は、バックミラーの後ろに「エケコ人形ストラップ」の頭の上の紐を掛けて、そこに人形を吊るした。

「ちょっと、他人の車に気色の悪いオッサンの人形を提げないでよ」

「交通安全のお守りです。効きますよ、絶対に」

「効くも何も、カタカタうるさいから気になって逆に……ん?」

 バックミラーに視線を向けた山野紀子は、そこに映る何かに気付いた。そんな山野の顔を見て、春木陽香は一度振り向いて車両の後方を覗いてから、山野に尋ねた。

「どうしました?」

 山野紀子は深刻な顔で前とバックミラーを交互に見ながら答えた。

「つけられてる。ずっと後ろの青いバイク。前に地下高速で私たちを襲った奴よ。もう、尾行は終わったと思ったのに……」

 春木陽香はもう一度振り向いて、シートの横から後方を望んだ。山野の車から三台後ろを走る軽トラックの横に、紺碧のライダースーツにラピスラズリ色のヘルメット姿のライダーを乗せた鮮やかな青のスポーツバイクが走っている。

 春木陽香は山野に言った。

「どうします?」

 山野紀子は鼻を膨らませながら言う。

「サイドミラーの修理代、請求しなきゃね。カメラ内蔵式で高かったのよ、これ」

「あの……編集長? 目つきが変わってますけど、大丈夫ですか。何か……うわっ」

 急ハンドルに体を倒された春木陽香は、シートベルトを掴みながら肩に力を入れる。周囲の景色が左に流れ、四方の車からクラクションと急ブレーキの音が鳴り響いた。

 山野紀子はハンドルを回しながら言った。

「南北幹線を突っ切って、高層ビル街を抜けるわよ」

「抜けるわよって、別に抜けなくてもいいんじゃ……いたっ」

 サイドガラスに頭をぶつけた春木陽香は、真顔でシートベルトを握り締めた。

 山野紀子はニヤリとした顔で前をにらみながら言う。

「しっかり掴まってなさい。自動走行じゃなければ、ガチの勝負よ。『走りのノンさん』に付いてこられるなら、やってみなさいっての」

「別に勝負しなくてもいいですよ。『走らないノンさん』の方が素敵だと思いますよ。編集長、編集長? スピードがどんどん上がってますけど」

 前方には車を左右に流している大通りが見えた。その上は南北幹線道路だ。体がシートに押し付けられる。後ろに流れる景色が一気に早回しになった。車輪が切り裂いた路面の雨水が左右に立っている。その間のボンネットの向こうに見える大通りが、ぐんぐんと近づいてきた。通常より明らかに速い。

 ハンドルを握ったまま両肩を張り、山野紀子は勇ましく言う。

「行くわよ」

「何処にですかあ! ちょっ、落ち着いてください、編集ちょお! ここはブレーキかける所ですよお! 信号機の無い交差点の前では一旦停止することになってるんですよ! 全国共通ですよ!」

 山野紀子はアクセルを踏む。右から左に流れている車の列が前から近づいてくる。

 春木陽香が叫ぶ。

「ストップ、ストップ、ストップ! わお!」

 矢のように直進した山野のAIスポーツセダンは、車の流れの一瞬の間隙を縫って大通りを横断した。そのまま、南北幹線道路の高架橋の下の横道に入っていく。後方でブレーキ音とクラクションが鳴り響いた。山野の車は勢いそのままに直進する。今度は、大通りの反対車線を左から右に流れる車の列が前から近づいてきた。

 春木陽香がシートベルトを掴みながら叫ぶ。

「ハヒッ。編集長、もう分かりました。永山先輩は諦めます。だから、ブレーキ、ブレーキ。いや、そっちはアクセルですう! 編集長!」

「私はっ、諦めない!」

「何のCMですかあ! ああ、車あ!」

 左から走ってきた大型トラックが急ブレーキをかけた。山野の車はその前すれすれを猛スピードで横切っていく。その隣の車線の車も、さらにその隣の車線の車も、自動ブレーキの作動によって次々に急停止した。その前を山野の車が走り抜けていく。

 大通りを突っ切った山野のAIスポーツセダンは、そのまま横道へ入ると、西へと直進した。

 山野紀子は素早くシフトレバーを動かしてギアチェンジし、少し速度を落とす。

 彼女は誇らしげに言った。

「どんなもんじゃい! くくくっ」

 顔中に汗を浮かべた春木陽香は、両肩を上げたまま、目を大きく開いて固まっている。

「編集……編集長……世の中には、交通ルールというものが……」

 バックミラーに視線を向けた山野紀子が舌打ちする。嫌な予感がした春木陽香は、すぐに振り向いた。さっきの青いスポーツバイクが、左右に流れる車の間を、右に左に車体を倒しながらすり抜け、見事に横断してくる。更に嫌な予感がした春木陽香は、そのまま運転席の山野に視線を移した。

 山野紀子は目を座らせて頬を震わせながら、挑戦的な笑みを浮かべている。

「なかなか、やるじゃない。じゃあ、こっちも久々に本気出しちゃうわよ」

 春木の嫌な予感は当たった。素早くシフトレバーを動かした山野紀子は、ハンドルを握り締め、アクセルを踏み込んだ。その向こうの景色がどんどん速く流れ出す。

 春木陽香は涙目で訴えた。

「出さなくていいです。全然、出さなくていいですよ。本気は違う場面で出した方が……あ、そうだ、後ろにおにぎりがありますから、それ食べて、少し落ち着きましょう。ね、編集長」

「いらん! 武士は食わねど高速走行よ!」

「意味が分かりません! まったく意味が分かりませーん!」

 春木陽香は必死に首を左右に振る。

 山野のAIスポーツセダンは風を切って加速した。路面に溜まった雨水が車の左右に高く広がる。その水飛沫を避けながら青いバイクが追ってきた。逃げる山野の車は、次々と他の車を追い抜いていく。青いバイクは軽やかに車体を倒して蛇行しながら車と車の間を縫うようにすり抜け、山野の車を追いかけた。

 山野紀子は前を向いて言う。

「ほら、ハルハル。もうすぐ旧新興住宅街よ。ああ、もう、ややこしい。とにかく、あんた、地元でしょ。ナビゲートして!」

「パリダカ・ラリーですか! それに、私の地元はもと区とか梨花りか区の方なんで、この辺は殆ど知りませんし! 道も複雑ですし! 未婚の若い女性を隣に乗せてますしい! だからスピードを落としましょう! ね、編集長!」

「それじゃ、面白くないでしょ」

「今も面白くないですう! なーんにも面白くないですう!」

「先の交差点で曲がるわよ」

「そんなら、一時停止しましょう。ね」

「一時停止? 『曲がる』は業界用語で『ドリフト』と言う!」

「言いませんよ! 何の業界ですかあ!」

「久々だから失敗したら御免。行くわよ!」

「行かなくていい……わあああ!」

 タイヤから白煙と水飛沫を立てて車体を傾けた山野のAIスポーツセダンが、横滑りしながら交差点を左折する。

 ハンドルを必死に右に切って車体の向きを戻そうとする山野紀子。バックミラーの後ろで「エケコ人形」が左右に揺れている。

 助手席でシートベルトにしがみ付いている春木陽香が叫んだ。

「け、煙が、タイヤから煙が出てますよ! モクモクですよ!」

「よし。上手くいった。やっぱ、現実とゲームは違うわね」

 春木陽香が山野の方を向いた。

「ゲーム?」

「そ。ハンドルネーム『走りのノンさん』。カーレースゲームだけに、ハンドルネーム。くくく」

「降ろして下さい! お願いだから、降ろして下さーい!」

 春木陽香が騒ぐ。山野紀子はバックミラーに目を遣った。路上に漂う白煙の中から、青いバイクが水飛沫を左右に立てて飛び出してくる。

「うわ、まだついてくるのね。しつこいわねえ」

「ウッ。何か気持ち悪くなってきました。酔いました。車酔いです。私、ここで吐いちゃうかも。だから、車を停めて下さい。ね、編集長」

「どっか、この近くに運動公園があったわよね。ああ、あれか」

「そうです。あれです、あれ。近いですから、そこで車を停めて、体調の優れない部下にしばしの休息を……って、違います。どうしてスピード上げてるんですかあ! そっちは『急速』の方ですう! 私が欲しいのは、休みの方の……」

「運動公園なら丁度いい! これはAI『スポーツ』セダンよ!」

「笑えません。全っ然、笑えません! もう、いいです。運動は十分にしましたから。腹筋と大腿筋がパンパンです。左腕も。だから、そろそろ……って、また、ドリフトですかあああ。ああ、目が回るうー!」

 春木陽香が左に吹き飛ぶ。

 水滴を飛ばし、煙を上げて横滑りしながら、山野のAIスポーツセダンが交差点を右折していった。

 窓にへばりついた春木陽香が涙を流して叫ぶ。

「ムギュギュ……誰かあ、誰かこの人を止めて下さいい」

 そのまま直進した山野の車は、運動公園に向かって猛スピードで走り去っていった。

 青いバイクのライダーは、車体から横に出した体を路面すれすれに近づけて交差点を綺麗に曲がり、再び体勢を整えてグリップを強く握ると、一気に加速して山野の車を追いかけていった。

 やがて、山野のAIスポーツセダンは、高いブレーキ音を鳴らしながら、水飛沫と煙を立てて停止した。

 シフトレバーを動かしながら、山野紀子が言う。

「ようし、運動公園に到着う。ここの駐車場は広いからね。しかも、ガラガラ」

「やっと、やっと止めてくれましたね。さあ、編集長、深呼吸して下さい。次はエンジンの電源を切りましょう。その横のボタンを、ピッと押すだけ。ピッと」

「まだよ。ほら、来た。ブルー・ライダーさん。いらっしゃい。さあ、こっちよ。ここ、ここ」

 山野紀子が車のヘッド・ライトを点滅させる。

 春木陽香は、前方の遠くで横を向いて停まった青いバイクと、ハンドルを握り締めながら不気味な笑みを浮かべている山野の横顔を交互に見ながら、言った。

「な、何やってるんですか、編集長。もしかして……」

「そ。チキンレース。一度、やってみたかったのよ。うりゃあ!」

 山野紀子は一気にアクセルを踏み込んで、再び車を走らせ始めた。

 青いバイクのライダーは、建物の壁の前で、こちら側に足を着いて横向きでバイクを止めたまま動かない。

 春木陽香が泣き叫ぶ。

「チキンスープか、チキンソテーにして下さい! ランチにチキンレースなんて、聞いたことないですよ! 編集長! 編集ちょおお!」

 青いバイクがどんどん近づいてくる。ライダーの足が地面から離れた。その青いバイクは前に進み、視界から横に消える。そのバイクを目で追いながら、山野紀子は言った。

「あれ? 何で避けるのよ」

「あたりまえです! ていうか前が壁だし! ブレーキ、ブレーキ!」

 山野紀子は慌てて力いっぱいブレーキを踏んだ。車が水飛沫と白煙を上げて前に滑っていく。

 春木陽香はダッシュボードに両腕を突っ張りながら叫んだ。

「ほらね、ほらね、車は急に止まれないんですよお! 壁が、壁が、壁が、壁があ!」

 高音と白煙と飛び散る水滴と共に、山野のAIスポーツセダンはコンクリート製の壁に向かって真っ直ぐに突進していった。



                  8

 春木陽香と山野紀子は、応接室のソファーに並んで座っていた。応接室と言っても、豪華な調度品が置かれている訳ではない。何も飾られていない白塗りの壁に囲まれたそう広くない部屋には、よく磨かれた黒い床の上に三人掛けの白いソファーが向かい合わせに置かれ、その間に小さなガラス製のテーブルが置かれているだけである。日本が世界に誇る大企業「ストンスロプ社」の本社ビルの中では、中以上のクラスには含まれない部屋であることは、二人にもすぐに分かった。それが、連絡無しで訪れた週刊誌記者に対する「ストンスロプ社」の態度だった。二人は冷遇を納得の上で、この部屋でストンスロプ社会長の光絵由里子みつえゆりこを待っていた。

 山野紀子はチラチラと春木の横顔を見た。春木陽香は頬を膨らませ、眉間に皺を寄せている。

 山野紀子は春木の顔の前で手を振って言った。

「そう、怒りなさんなって」

 春木陽香は前を向いたまま答える。

「怒ってません。あと十センチ奥で止まってたら、今頃、編集長と二人で天国の扉が開くのを、こうやって待つことになったのかなと考えていただけです」

「あの青バイクが悪いんじゃない。しつこく付けまわすから」

「別に追いかけっこする必要は無かったんじゃないでしょうか」

「好きなのよね、追いかけっこ。ははは」

「次はゲームの中だけにして下さい。もう、絶対に編集長が運転する車には乗りません。帰りは、バスか、歩いて帰ります」

「悪かったって。帰りは安全運転で帰るから」

「じゃあ、私に運転させてください。安全運転の見本をお見せします」

 二人が会話を重ねていると、ドアが開いた。春木陽香と山野紀子は緊張した面持ちで立ち上がり、服の襟や裾を整えた。すると、高級そうなスーツを着た中年男が一人だけ入ってきた。春木と山野が顔を見合わせる。その中年の男は明るい笑顔を作りながら言った。

「いやあ、お待たせしました」

 山野紀子は眉間に皺を寄せた。春木陽香はとりあえず軽く会釈する。男は金箔が貼られた名刺入れから名刺を取り出し、一枚ずつ二人の前に差し出した。春木と山野が名刺を受け取ると、男は一方的に自己紹介を始めた。

「ストンスロプ社顧問弁護士の美空野みそらのと申します」

 山野紀子と春木陽香は、それぞれ自分の名刺を差し出して挨拶した。

「週刊新日風潮社の山野です」

「春木です」

 男は二人から名刺を受け取ると、手を差し出して促しながら言った。

「さ、どうぞ。お掛けになって」

 二人と同時に向かいのソファーに腰を下ろしたその男は、穏やかな口調で言った。

「それで、どういった御用件でしょうか」

 山野紀子が口を開いた。

「あの、光絵会長は……」

 男は手を上げて山野の発言を制止すると、間髪を容れずに言った。

「会長は、今、手が空いていないということですので、私がお話しを伺うことにいたしました。何か不都合な点でも?」

 春木陽香はテーブルの上に置いた高級紙の名刺に視線を落とした。

 弁護士法人美空野法律事務所 代表弁護士 美空野朋広

 名刺には、そう記載されていた。その弁護士法人は、官公庁ビルが犇く有多町の一等地に自社ビルを持ち、法曹界と経済界に君臨する国内最大手の巨大弁護士法人である。しかし、目の前にいる男は、国内外の大企業、政治家、財界人の顧問を一手に引き受けていると噂される弁護士業界の大物とは思えない気さくさだった。

 少しだけ緊張の糸を緩めた春木陽香は、隣の山野に視線を向けた。山野の表情は厳しいままだった。

 山野紀子は低く冷静な声で言った。

「いえ、不都合という訳ではありませんが、ただ、会長のプライバシーに関わる話かもしれませんので」

 美空野朋広みそらのともひろは、しっかりと頷いて見せた。

「そうですか。しかし、私は弁護士ですので、どうか信用していただきたい。私が今、この場で回答できないご質問につきましては、後ほど文書で回答させていただきましょう。どういった内容のインタビューです?」

 山野紀子は黙っていた。上司が何かを警戒していると察した春木陽香は、すぐに横から口を開いた。

「それもですけど、先日のお礼も言いたくて。色々と助けていただきましたから」

 美空野朋広は口を開けて頷きながら言った。

「ああ。例の発射施設のこと」

「ご存知なのですか」

 山野紀子が怪訝な顔で確認すると、美空野朋広は首を横に振った。

「いや、詳しくは知りませんが、おたくの副社長の杉野さんから会長に連絡がありましてね。会長は返答を保留されたのですが、まあ、実弾訓練中の事故で軍が緊急展開している最中の施設に記者の方々が閉じ込められて出られない状態だと聞きましてね、こりゃいかんと思って、脱出にご協力差し上げるように私が進言したのですよ」

 山野紀子と春木陽香は再び顔を見合わせた。どうも聞いていた事情と違うようである。

 山野紀子は美空野の方に顔を向け直して言った。

「そうだったのですか。それはどうも、ありがとうございました」

 丁寧に頭を下げた山野に合わせて、春木陽香も頭を下げた。

 美空野朋広は二人の前に手を出して言った。

「いや、どうか頭をお上げください。私は顧問弁護士として当然の指示をしただけです。――なあに、緊急展開中でしたので、部外者が一時的に身柄を拘束されたのは理解できますがね。軍隊の人たちも仕事ですからな。ですが、身元が判明している人たちを、いつまでも拘束したまま外に出さないというのは、おかしい。しかも、訓練中の事故だというのに。おそらく、あなた方が記者だと知って外に出さなかったのでしょう。国家権力というものは自分たちのミスを隠したがるものですからな」

 春木陽香が尋ねた。

「では、先生が警察を呼んでくださったのですか?」

「いえ、それは会長です。私が警察に頼んでも、動いてはくれませんよ。日頃、彼らの間違いを指摘している人間ですからね。好かれてはいないでしょう」

「その点は私たちも同じです」

 そう言った山野の方に顔を向けて、美空野朋広は少し驚いたような表情を見せたが、やがて大きな声で笑い始めた。

「――なるほど、そうですか。お互い、難儀な商売ですな。正義を貫けば、煩い奴だと煙たがられてしまう。世の中、どうかしとりますよ」

「ホントですわね」

 山野紀子は冷静に同調してみせた。

 美空野朋広は座り直すと、少し前屈みになって両膝の上にそれぞれ肘を乗せ、鼻の前で指を組んで言った。

「で、インタビューの内容と言うのは?」

 山野紀子は少し戸惑いながら、慎重に言葉を発した。

「ええ。あの……SAI五KTシステムについてなのですが……」

 美空野朋広は姿勢を正すと、驚いたような表情を見せて言った。

「SAI五KTシステム。それが、何か」

 山野紀子は春木の顔を見た。彼女は、どこまで話すべきかを迷っているようだった。

 春木陽香は険しい顔をして、黙って頷いた。特に根拠がある訳ではなかったが……。

 前を向いた山野紀子は、再び慎重に話し始めた。

「実は、もしかしたら……」

 美空野の背広の中から呼び出し音が鳴った。ダブルの上着のボタンを外し、中に手を入れた美空野朋広は、金色のイヴフォンを取り出す。彼はそれをネクタイに挟むと、山野に軽く頭を下げて言った。

「失礼。申し訳ない」

 立ち上がった美空野朋広は、ソファーの後ろに回り、こちらに背を向けて電話に出た。

「美空野です。――はい。そうです」

 山野紀子と春木陽香は再び顔を見合わせた。山野紀子は口をへの字にして、両眉と両肩を同時に上げて見せた。春木陽香も下唇を出して答える。今度はたぶん、それでよかった。かわいい仕草ではないが……。

 二人は視線をイヴフォンで通話している美空野の背中に移した。

「は? はあ……はい、分かりました。すぐに」

 美空野朋広はイヴフォンを仕舞いながら振り向いて、二人に言った。

「会長がお会いになるそうです。上の会長室でお待ちとのことですので、ご案内します」

 美空野朋広は、また後ろを向いて、ドアの方に歩いていった。

 春木陽香と山野紀子は、もう一度、互いに顔を見合わせたが、今度は何もジェスチャーをしなかった。二人は同時にソファーから立ち上がると、それぞれの鞄を持って、美空野の後についていった。



                  9

 会長室はその巨大ビルの最上階にあった。幾つもドアを通って奥へと進む。防弾性のガラスの自動ドアを通ると、そこに重厚な一枚の扉があった。赤茶色の扉は一枚板で、表面に自然の木目が美しく流れている。

 美空野朋広はそのドアの前に立つと、ネクタイを整えてから、丁寧にノックした。

「どうぞ」

 中から返事がすると、美空野朋広は金色のドアノブに手を掛けて、ドアを開けた。そして、一歩だけ中に入り、言った。

「失礼します。美空野でございます。お二人をお連れしました」

 光絵会長の声がした。

「入ってもらいなさい」

 美空野朋広は部屋から出てくると、ドアの横で待っていた春木と山野を会長室へと通した。ドアの横に立つ美空野の前を通って春木陽香と山野紀子が中に入る。美空野朋広も中に入ると、ドアを静かに閉めた。

 部屋の中は広く、床には踵が埋まりそうなくらい立派な毛足の絨毯が敷いてある。壁には重厚な木製の本棚が並べられ、そのガラス戸の向こうには相変わらず、法律、経済、哲学、物理、化学、宗教など、様々な類の書籍が並んでいた。二人の目の前には、大理石製の豪華なテーブルを挟んで分厚い応接ソファーが並べられ、その向こうに両袖の大きな執務机が置かれている。机の後ろには大きな窓が広がり、水滴が付いたその大窓から眼下に周囲の超高層ビルの屋上を見下ろしていた。その先にGIESCOの敷地や、昭憲田池、都南田高原、総合空港、タイムマシン発射場が見えている。その大きな窓を背にして、執務机の向こうに置かれている黒い革張りのハイバックの椅子に、鋭い眼光を発し、独特の重圧感を漂わせている痩せた老女が座っていた。横には、皺の無いスーツを着た、白髪に白い口髭の老執事が立っている。ストンスロプ社グループの会長・光絵みつえ由里子ゆりこと、その執事の小杉こすぎ正宗まさむねである。

 光絵由里子は厳しい顔を山野と春木に向けたが、その後ろから歩いて前に回ってくる美空野の姿を捉えると、彼に言った。

「あなたは結構よ。ご苦労でした」

 立ち止まった美空野朋広が言う。

「しかし、会長。私が同席した方が……」

 光絵由里子は強い口調で言う。

「結構だと言っているの。聞こえませんでしたか」

 美空野朋広は眉間に皺を寄せると、心配そうな顔を小杉に向けた。小杉正宗は表情を変えずに立っている。美空野朋広は一度、山野と春木に視線を向けると、光絵会長に顔を向け直して言った。

「分かりました。では、私はこれで。失礼します」

 一礼した美空野朋広はドアの方に歩いていき、部屋から出ていった。

 山野紀子は名刺入れを取り出そうと、鞄の中に手を入れた。つられて春木陽香も鞄の中に手を入れて名刺入れを探す。

 二人の様子を見て、光絵由里子が言った。

「名刺はいいわ。あなた方のことは、よく知っていますから」

 山野紀子と春木陽香は、また顔を見合わせた。

 光絵由里子は春木を指差して言う。

「特に、そちらのお嬢さんはね。春木さんだったわね」

 春木陽香は鞄から手を出すと、慌てて姿勢を正して頭を下げた。

「あ、はい。先日は、いろいろとご迷惑をお掛けしました」

 光絵由里子は口角を上げて言った。

「どちらのことかしら。他人の家の庭先で倒れていたこと、それとも、別の場所のこと」

「どちらもです。本当に、ありがとうございました」

 春木陽香は再度、深々と頭を下げた。

 隣で山野紀子も頭を垂れて言う。

「弊社の記者が大変お世話になりました。また、私も含め、その後もご高配を賜り、感謝しております」

 光絵由里子は頭を上げた山野の顔を見据えて言った。

「感謝をしている割には、そぐわない態度ね。――小杉」

 白髪の老執事が前に歩み出た。

 彼は山野の前に来ると、彼女の鞄に手を掛けて言った。

「失礼。お荷物を拝見させていただきます」

 彼は、山野が提げていたバッグに手を入れると、白い手袋をした手を中で動かし、中からICレコーダーを取り出した。

 小杉正宗は言った。

「総理官邸にも設置されている微弱電流探知型の盗聴盗撮防止センサーは、我が社の研究開発部門であるGIESCOが開発した製品でしてな。当然、この部屋にも設置されております。悪しからず」

 山野紀子は鼻に皺を寄せた。

 光絵由里子は目を閉じて言う。

「小杉。そちらの方を下までお送りしなさい」

 小杉正宗は山野にバッグを返すと、ICレコーダーを持った手とは反対の手を上げて、白い手袋の揃えた指でドアの方を指し示した。彼はそのまま出口へと歩いていく。

 山野紀子は一度溜め息を吐くと、黙って彼に付いて行き、部屋から出ていった。

 部屋の中には春木陽香と光絵由里子が残った。

 光絵由里子は杖の銀細工の握り部分に手を掛けて体重を乗せると、椅子から立ち上がりながら言った。

「ま、歳を取るにつれて用心深くなることは、悪くないことです」

 杖を突きながら机を回ってくる。光絵由里子は続ける。

「でも、もっと歳を取ると、あなたのように用心深くない人間が好きになってくる。さ、お掛けなさい」

 彼女は目線で応接用のソファーを指した。

 春木陽香は一歩だけソファーに歩を進めたが、杖を突きながら歩く老婦人のことが気になり、暫くそこに立っていた。彼女は、光絵会長に手を差し伸べるべきか迷う。

 ソファーの横まで歩いてきた光絵由里子は、春木の様子を見て口角を上げると、そのままソファーの前に回った。そして、革張りの応接ソファーの木目の美しい肘掛に手をついて、ゆっくりと椅子に腰を降ろした。春木陽香は光絵会長に近づき、彼女の肩に手を添えて、座るのをそっと補助した。光絵会長が完全に椅子に座ったのを確認した春木陽香は、大理石製の応接テーブルを回って、光絵会長の向かいのソファーに浅く腰を降ろした。

 春木が腰を下ろすとすぐに、老女は呆れたような表情で言った。

「どうして、あんな無茶をしたの。危険な目に遭うと言ったでしょう」

 春木陽香は少し驚いたが、目を伏せて言った。

「瑠香さんを助けようと思って……」

 そして勇気を出して、正直に謝った。

「――あの、お嬢様を助けられなくて、本当に申し訳ありませんでした」

 頭を下げる春木の前で、光絵由里子は横を向いて言った。

「あなたが謝ることでは無いわ。そう伝えたはずよ。あれは、自分からタイムマシンに乗ろうとした瑠香が悪いの。もっと素直に、母親に助けを求めるべきだったのに」

 春木陽香は視線を下げたまま言った。

「私が、あと数分早く瑠香さんの所に辿り着いていれば……」

 前を向いた光絵由里子が言った。

「では、あなたは、瑠香が宿泊していた部屋の位置を最初から正確に知っていたの?」

「――いいえ……」

「ほら、そうでしょう。それなら、あなたが数分早く辿り着くなんてことは起こり得ないわね。あなたの到着があの時間になったのは、そうなるべくして、そうなったの。悔やんでも仕方がないわ。タラレバは今の流行ね。あのタイムマシンが出来てからは、人々が多く口にするようになりました。良くない風潮だわ」

 また横を向き、大窓の外を眺めた光絵由里子は、再び春木の方を向いて言った。

「あなたは、誰に頼まれた訳ではない。私にも、瑠香にも。それなのに、よくやってくれました。あの場で兵士たちに射殺されていたかもしれないのに。あなた方には本当に感謝しています。新日の会長に命じて、あなた方を元の職場へ復帰させるようにしたのも、私から皆さんへの感謝の気持ちです。別に他意が有るわけではないわ」

 春木陽香は顔を上げて言った。

「ですが、会長さんは、田爪博士のデータやバイオ・ドライブのことは、ご存知だったのではないですか」

 光絵由里子は真っ直ぐに春木の顔を見たまま言った。

「何のことかしら」

 春木陽香は真剣な顔で光絵会長に尋ねた。

「瑠香さんが所持されていたバイオ・ドライブを一度GIESCOで分析されて、既にAB〇一八についても解析が済んでいるのではないですか。だから、永山先輩……違った、永山記者が『過去』に送ったバイオ・ドライブを何者かがAB〇一八に繋いで、その中からAB〇一八の中に引き出されて記憶された田爪博士の研究データを、IMUTAを使ってAB〇一八から引き出そうとしておられるか、もしかしたら、既に引き出しておられるのではないですか」

 光絵由里子は春木の話を聞きながらソファーの背もたれに身を倒し、目を閉じて思索していた。

 春木陽香は話し終えると、光絵会長の顔を見たまま、その答えを待った。

 目を開けて視線を春木に向けた光絵由里子は、暫らくじっと春木の顔を見ていたが、やがて、おもむろに口を開いた。

「何か大きな勘違いをしているわね。まず、我々はASKITのような不埒な連中とは違うわ。他人の物を無断で持ち出すような事はしません。例えそれが私の娘の物であったとしても。――では、瑠香が任意でバイオ・ドライブを我々に渡したか。答えはノーです。前にも話しましたが、あの子が愛した田爪健三という男は、筋を通す人間でした。彼はNNC社が赤崎教授を信用して支給したバイオ・ドライブを我々には決して渡そうとはしなかった。それは、自分の師匠の信用と名誉を傷つけないためです。瑠香も、その意思を引き継いで、バイオ・ドライブを守り通しました。この十年、一度も私に連絡をしてきたことはないわ。ですから、我々がバイオ・ドライブやAB〇一八の分析を終えているということはないわね」

「でも……」

 春木陽香が言いかけると、光絵由里子はそれを遮るように話し始めた。

「ですが、我々独自の情報網と、IMUTAのデータからの逆算で、あのAB〇一八が危険なコンピュータであることは把握しています。あのコンピュータは一刻も早く停止させなければならないわ」

 少し間を空けて、春木陽香が尋ねた。

「どう危険なのですか」

 光絵由里子は即答する。

「分からないわ。だから、危険なのよ」

「クラマトゥン博士の死は、何か関係しているのでしょうか」

 光恵由里子は瞼を閉じて少し下を向いた。

「一人の人間の死について、他人が憶測でものを言うのは良くないわね。その質問については答えずにおきましょう」

「では、やはり、何か関係があるのですね」

 そう返した春木の顔を驚いたような顔で見つめた光絵由里子は、数回だけ瞬きをしてから言った。

「あら。少し見ない間に随分と記者らしくなったこと。――でも、少し残念ね。私は、あなたの記者らしくないところが好きだったのよ」

 春木陽香は背筋を正して、正直に思いを述べた。

「もし、会長さんの仰るとおり、本当にAB〇一八が危険なコンピュータなら、その事を人々に知らせるのが私たちの使命です。私は今、そう思っています」

 光絵由里子は満足気な顔で言った。

「自分の職業人としての責任をよく理解しているのね。すばらしいわ」

 そして、背もたれから身を起こして言った。

「でも、そうすることが良い結果となるかどうかは、また別問題ね」

「知らせるべきではない……ということでしょうか」

 春木がそう尋ねると、光絵由里子は彼女の目を見て言った。

「雉の頓使ひたづかいの話、覚えているかしら」

「はい」

 コクリと頷いた春木に応えるように光絵由里子は目を瞑って頷いた。そして言う。

「あの話には続きがあることを忘れてはいけないわ。いいわね」

「はあ……」

 春木陽香は怪訝な表情で首を傾げかけた。

 光絵由里子は笑みを浮かべて春木の顔を覗きこんだ。

「それから、防空頭巾では、弾丸は避けられませんよ。次はちゃんと防弾ヘルメットになさい。綿入り半纏や刺子のモンペも駄目ね。ちゃんとした防弾ベストじゃないと身は守れないわよ」

「はあ……防弾ヘルメットに防弾ベストですか……。でも、どこで買ったら……」

 それを聞いた光絵由里子は小さく吹き出した。

 春木陽香はキョトンとした顔を光絵会長に向けた後、恥ずかしそうに下を向く。

 姿勢を正した光絵由里子は、春木に言った。

「最も有効な防弾具は何か、知っていますか」

 春木陽香は少し考えてから答えた。

「特殊強化カーボンとかですか」

 光絵由里子は首を横に振る。そして、少し顔を前に出して、春木に教えた。

「笑顔よ。あなたの笑顔は素敵だわ。今度銃口を向けられたら、その笑顔を見せなさい。きっと、撃たれずに済むでしょう」

「はあ……」

 光絵由里子は小さく片笑んでから、杖をついて立ち上がろうとした。春木陽香は慌てて腰をあげ、光絵会長に近寄り、手を貸して介助する。

 春木の肩に手を掛けて立ち上がった光絵由里子は、その手で何度か春木の肩を揉んでから、言った。

「ほら、恐そうな上司が下で待っているわよ。早く行きなさい。新人記者さん」

 光絵由里子は優しい笑顔を春木に見せた。

 春木陽香は鞄を取って、改めて光絵会長に一礼すると、彼女に促されて部屋の出口へと向かった。出口の前でもう一度深々と頭を下げた春木陽香は、静かにドアを開けて外に出ると、音を立てないようにそっとドアを閉めた。

 光絵由里子は顔をほころばせながら春木陽香を見送った。春木が去ると、老女は大窓の外に視線を向ける。

 昭憲田池の向こうに小さな虹が浮かんでいた。



                  10

 新日ネット新聞社ビルの地下駐車場に山野の車が到着した。ゆっくりと通路に止まったそのAIスポーツセダンの運転席には、今度は春木陽香が座っている。

 彼女はハンドルを握ったまま、満足気な顔で言った。

「はい、着きました。これが安全運転ってやつです。お疲れ様でした」

 助手席の山野紀子は、シートベルトを握り締めたまま肩を上げ、真っ青な顔で固まっている。彼女は頬を引き攣らせながら、声を震わせた。

「あ、あんた、いったい、どこの教習所で運転を習ったのよ。本当に免許を持ってるの」

「持ってますよ、ちゃんと。無事故無違反のプラチナ免許です」

「無事故、無違反ね……今度、宝くじは、あんたに買ってもらうわ。ハルハルの場合、車を運転してるっていうより、運で転がしているみたいだから」

 山野紀子はそう言うと、急いで車から降り、駆け足で運転席側に回った。

 前を横切る山野を目で追いながら運転席の窓を下げた春木陽香は、そこから顔を覗かせて、回ってきた山野に言った。

「あ、指定されてる駐車スペースはどこですか。入れときます」

「いい! 自分でやる。私の車だから。周りも他人様の車だし。早く降りて!」

 山野の剣幕に驚いた春木陽香は、シートベルトを外し、とりあえず車から降りた。

「うーん……」

 春木陽香は大きく伸びをした。彼女の背後で山野の車がドアを開けたままゆっくりと前に動き出す。まだ乗っていない山野紀子が走ってそれを追いかけていった。

 伸びを終えた春木陽香が言う。

「ふう。会長さんに記者らしくなったって言われたということは、やっぱり、そうなのよね。成長してるのかあ、私い。よーし、頑張るぞお。この事件の記事で、長文記事を書いて、一発、ドカンと……」

 ドカン。向うで衝突音が鳴った。春木陽香は音がした方に顔を向ける。

「――ドカンって、あれ? 編集長? 大丈夫ですか。だから、私が入れるって……」

 春木陽香は音がした方に走っていった。

「コルァ、ハルハル!」

 地下の駐車場内に山野紀子の怒号が木霊した。



                  11

 ドアが激しく閉まる音がした。強いヒールの音の後、新日風潮の編集室に両肩を上げた山野紀子が入ってきた。その後ろから春木陽香が上目遣いで山野の背中を見ながらついて来る。

 山野紀子は怒鳴りながら自分の席に向かった。

「あんたね、車停める時は、ギアをパーキングにしなさいよ、パーキングに。このパーチクリン! 潰したのがゴミ箱だったから良かったけど、歩行者や他人の車だったら、どうするのよ。馬鹿じゃないの」

 春木陽香は項垂れたまま、小声で謝った。

「すみません。……」

 椅子を回した別府博が言った。

「ああ、お帰りなさい、編集長。道の方は大丈夫でした? お昼のニュースでやってましたけど、なんか、ものすごい渋滞らしいですね。運転が大変だったでしょう」

 鞄を棚の上に放り投げた山野紀子は、自分の椅子を動かしながら言った。

「大丈夫。その渋滞の先頭を走ってたから」

「――え。マジですか」

 別府博は春木を見た。

 春木陽香は椅子に座りながら小声で言った。

「安全運転のつもりだったんですけど……」

 山野紀子は椅子の背もたれに身を倒して、別府を指差しながら言った。

「それで、別府君の方は、ライトから送ってきた画像の場所の特定は済んだ?」

 別府博は椅子を回して自分の机の方を向くと、立体パソコンの上のホログラフィー画像を操作しながら答えた。

「はい。ええと、先週のが田爪健三と田爪瑠香の墓、その前のが爆心地、その前のが司時空庁ビル、で、その前のが、昭憲田池の対岸から写したGIESCOの研究棟」

「やっぱり、ライトもストンスロプ社が怪しいとは睨んでいたみたいね。でも、光絵会長の話が本当なら、関係ないと」

 山野紀子は春木に視線を向けた。春木陽香はコクリと頷いた。

 別府博は一枚の写真のホログラフィー画像を指差しながら言った。

「あと、これがよく分からないんですよね。どこかの工場ですかね。こっちの奴も」

 別府博は更にもう一枚を表示して指差しながら首を傾げた。

 別府の背後から画像を覗き込んでいた春木陽香が別府に言った。

「あ、今の最後の写真、ちょっと見せてもらっていいですか」

 別府博は椅子ごと横に滑って退いた。

 椅子から腰を上げた春木陽香は別府の席まで移動して、机の上に浮いているその画像に顔を近づけると、目を凝らしたり、後ろに引いて目を細めたりしていた。やがて、彼女は口を開けて大きく頷いた。

「ちょっと待ってて下さい」

 そう言って自分の机に戻った彼女は、椅子に座ってパソコンを操作し始めた。パソコンの上に数枚の写真を平面ホログラフィーで浮かべ、そう中の一枚を拡大させる。その工場の画像を指差しながら、春木陽香は言った。

「この建物と似てませんか。ほら、このパイプの所とか、ここの階段の位置とか」

 別府博は自分の机の上のホログラフィー画像と春木の机の上のそれを見比べて頷いた。

「ホントだなあ」

 山野紀子が尋ねる。

「ハルハルのパソコンの方の画像は、何の画像なのよ」

「政府が五年前に建設した量子エネルギー循環プラントの小型試験施設です。つまり、稼動実験用のミニチュア版テスト・プラントです。神作キャップから前に話を聞いて、調べてみたんです」

「政府も成功していたの?」

 春木陽香は首を横に振った。椅子から立ち上がって机を回る山野を視線で追いながら、春木陽香は説明した。

「結果は稼働率ゼロ。実験で起動させたのは七回で、全てが失敗。以来、廃墟同然の建物になっていて、建造と実験に巨額の資金を投じた政府としても、二度と手を出さない領域の『負の遺産』として残しているということです。実際には、撤去するのに費用がかかり過ぎて、解体もままならないのだと思いますけど」

 山野紀子は春木の説明を聞きながら、そのホログラフィー画像を覗き込んだ。続いて別府の机の上のホログラフィー画像にも顔を向ける。二枚のホログラフィー画像を交互に見ていた山野紀子は、急に手を上げた。

「あ、ちょっと待った。別府君、その最後から二番目の写真。端の方。男の人、違う、右のトラックの前の作業服の。そう、その人。その人が持ってる箱、拡大してみて」

 別府博はその通りに画像を操作する。山野紀子は別府の後ろで腕組みをして立ったまま彼の操作を待った。

 山野が指定した部分が拡大された。荷台部分に何も乗せていない、何かの運搬車のようなトラックの前で、作業着姿の男が立っている。山野の更なる指示で、その画像の男が胸の前で抱えている段ボール箱が拡大された。山野紀子は更に指示を出す。

「箱の中央にロゴがあるでしょ。もっと大きくできる?」

 別府博が更に画像を拡大させた。勇一松が超高感度の超高画素数カメラを使って撮影したそのデジタル画像は、どれだけ拡大してもぼやけない。別府博が指先で枠を描き、その部分をどんどん拡大表示させていくと、そこに道路標識ほどの大きさで丸いロゴマークが浮かべられた。さすがに輪郭が少しぼやけていたが、円の中に模られている「明告鳥あけつどり」がはっきりと分かった。それを見て、別府博が声を上げた。

「ああ、これ。ニワトリだ」

 山野の横から覗いていた春木陽香も言った。

「これって、司時空庁のロゴマークですよね」

「ということは、この段ボール箱の中身は司時空庁関係の物ね。たぶん、タイムマシンに関するもの。随分と重そうに抱えているわね。何かの機材かしら」

 山野紀子が画像に目を凝らしていると、春木陽香が横から画像を指差して言った。

「ああ! この奥のトラックの荷台、もしかしたら、タイムマシンを積み込むための、専用の荷台じゃないですか」

 別府博は椅子に座ったまま、腕組みをした上半身を後ろに引いて、目を細めて画像を眺め直した。

「うーん……確かに、それっぽいなあ」

 春木陽香は別府の肩をパタパタと叩いて言う。

「別府先輩、前に例の論文データの図面と照合した、タイムマシンの外観の立体画像がありましたよね。家族乗り用のマシンを司時空庁が公開したものとかいう。あれ、もう一度見せてもらえませんか」

「ああ。ええと……」

 別府博は腰を折って、浮かんでいるロゴマークのホログラフィーの中に上半身を入れると、机の上の立体パソコンを操作してファイルを探した。ファイルを見つけた彼は、その立体画像を一番手前に表示させた。

 春木陽香は、表示されたタイムマシンの立体図を色々な角度から眺めると、今度は工場の画像の隅に写っているトラックと何度も見比べた。そして、確信したように頷いた。

「やっぱり、そうです。ほら、この少し凹んでる部分。こっちの写真のここに、カチッてはめるんじゃないでしょうか。運搬の際にグラグラ動かないように」

 別府博がトラックの画像を覗き込む。春木が指摘したとおり、機体に数箇所ある何かをジョイントさせる部分の位置は、もう一つのホログラフィー画像に写っているトラックの荷台の突起の位置と一致していた。別府博は腕組みをして何度も頷く。

 山野紀子が怪訝な顔で言った。

「運搬車があるってことは、ここ、タイムマシンの製造工場ってこと?」

 春木陽香も真剣な顔で頷く。

「そうかもしれませんね。ライトさんは、その場所を突き止めたのかも」

「嘘でしょ。国の最高機密事項じゃない。そんな簡単に分かるものかしら」

 春木陽香は眉を寄せてロゴマークのホログラフィーを指差しながら言った。

「でも、ライトさんのあのカメラで撮影した画像なのに、拡大すると司時空庁のロゴがここまでぼやけるってことは、かなり遠方から撮影したってことですよね。つまり、被写体の近くまで行けなかった。――ということは、本当に突き止めたんじゃないでしょうか」

 山野紀子は別府の肩を叩いて言った。

「場所は分かる?」

「いやあ、照合アプリでは、ネット上のどの画像ともヒットしませんでしたね」

 別府の答えを聞いた山野紀子は、顎に手を添えながら言った。

「司時空庁が規制をかけているせいかも。だからライトは、撮影場所の住所や説明文章を添えて送ってこなかった。司時空庁の検索に引っ掛からないために、画像データだけを送信してきたのよ。こんな風に、カレンダーやポスターに使うような風景写真っぽく撮影して。――もしそうだとしたら、本当にタイムマシンの製造工場である可能性が高いわね。何とかヒントを見つけられないかしら。場所の特定、頑張ってみてよ、別府君」

「分かりました。やってみます」

 別府博は張り切った調子で返事をした。山野紀子は少し慌ててイヴフォンを操作する。

「もう、ライトの奴、どうして連絡とれないのよ。何処に居るのかしら」

 春木陽香が心配そうな顔で尋ねた。

「繋がらないんですか」

「電源を切ってるみたいなのよ」

「最後の写真は首都墓地でしたから、新首都内にいらっしゃるんじゃないでしょうか」

「自宅のマンションも引っ越したって言ってたからなあ。都内に居るとしても、こりゃ、つかまらないわね」

「ライトさんに撮影場所を教えてもらえれば、楽なんだけどなあ」

 頭の後ろで手を組んでそう言った別府に、山野紀子は真剣な顔で言う。

「それもだけど、まだ私たちを尾行している人間がいるのよ。ライトも危ないのかも」

「ライトさんも尾行されているんでしょうか」

 春木が尋ねると、山野紀子は深刻な表情で言った。

「それだけなら、まだいいけど、タイムマシンの製造場所まで調べ上げたのだとすると、ライトは何かに気付いたのかもしれない。そうでないとしても、少なくともタイムマシンの製造工場の場所は知っている。もしかしたら、ライトが一番危険な状態なのかも。だから転々と移動して、わざと連絡がつかないようにしてるんじゃないかしら」

 別府博が眉間に皺を寄せて言う。

「身を隠しているってことですか。ヤバイ情報を掴んじゃったから」

 山野紀子は頷いた。そして、自分の机の方に回りながら言った。

「私、ちょっとザンマルの所に行ってくる。そのまま一時帰宅して、また出てくるから」

 春木陽香がキョトンとした顔で尋ねた。

「ザンマルさんの所って、『ランコントル』ですか?」

 山野紀子は棚の上の鞄を取って言う。

「そ。類は友を呼ぶって言うでしょ。ザンマルなら、ライトの居場所を知ってるかも」

 春木陽香は心配そうな顔で山野に言った。

「編集長も気をつけてくださいね。あの青いバイクは司時空庁の人かもしれませんから」

「うん。分かった。あんたもよ。帰る時は人目の多い所を通って帰りなさいよ」

「はい。――ああ、私、クラマトゥン博士について、もう少し調べてみます」

「うん、お願い。それじゃ」

 そう背中で答えた山野紀子は、早足で狭い廊下の方へと向かった。

 春木陽香は視線を横に動かし、部屋の隅の勇一松頼斗の机を心配そうに見つめていた。




 二〇三八年八月十七日 火曜日


                  1

 朝日が差し込む司時空庁長官室で佐藤雪子が立っている。彼女は、胸の前に抱えたタブレット型のパソコンの上にネット新聞の平面ホログラフィーを縮小表示して幾つも並べていた。各紙面の見出しに目を通し終えると、横の椅子に座っている津田幹雄に言った。

「昨日のクラマトゥン博士の事故死を、どの新聞も一面で報じていますわ。中でも、サンライズ・ネット新聞はこんなに大きく。安全神話崩壊か、ですって」

 顔も向けずに割れた顎を触っている津田幹雄は、怪訝そうに言う。

「ここまでマスコミに漏れているということは、事故そのものを隠蔽するつもりではなかったということか。では何故、公安が動いた。どういうことだ」

「隠すつもりだったけど、隠せなかったのかもしれませんわね」

「ろくに目撃者もいない事故だ。その気になれば、隠せたはずだが……」

 津田の机の前に立っていた松田千春が口を開いた。

「長官、妙な噂を耳にしました」

 津田幹雄は険しい顔で尋ねる。

「なんだね」

 松田千春は深刻な顔で話し始めた。

「SAI五KTシステムについてです。実は……」

 鈍い低音と共に部屋の明かりが消え、エアコンも停止した。一瞬、三人とも沈黙する。暫らく間を空けて、津田幹雄が口を開いた。

「なんだ、停電か?」

 佐藤雪子がパソコンのホログラフィーを消して振り向き、東の窓から外を覗いた。下の方に目を遣りながら彼女は言う。

「珍しい。あら、お向いのビルもですわ。信号も消えてる。本当に停電ですのね。二十年ぶりかしら」

 津田幹雄が周囲を見回しながら言った。

「いや、十数年前に一度、大規模な停電があった。しかし、あれは高橋博士がAB〇一八とIMUTAを無理に接続しようとして失敗したことが原因で、人為的なものだったはずだ。その後は、完成したSAI五KTシステムが国内の電力供給を全て監視し、最適を維持しているはずだが……」

 松田千春は冷静だった。彼は落ち着いた口調で言った。

「ビル内の自立電力に切り替わるはずです。暫くお待ちを」

 彼の言うとおり、電気が回復した。室内の電灯が点き、エアコンも風を送り始める。

 津田幹雄は腕時計を見ながら言った。

「松田君、自立電力で庁内の電力供給は、どれくらいもつようになっているんだ」

「蓄電タンクの電気容量と窓ガラスの太陽光発電で、外部電力が断たれても、フル稼働して十日はもつように設計されているはずです。実際は、二週間以上は自立電力で通常業務を維持できると思われます」

「そうか。だが、一時的にダウンしたようだぞ。通常なら、外部からの電力供給が遮断されたら、それと同時に自立電力に切り替わるのではないかね。ダウンすることは無いと聞いていたが」

「そのはずです。毎月のタイムマシンの発射に際しても、そう機能しておりました。もしかしたらスイッチング・システムに異常が生じたのかもしれません。確認して参ります」

 そう言って出口に歩いていく松田に津田幹雄は言った。

「地下の保管庫にも異常が無いか、確認を急いでくれ」

「はい」

 立ち止まることもなく返事をして歩いていく松田に、津田幹雄は更に声を掛けた。

「ああ、さっき言いかけたのは何だ。SAI五KTシステムについて、何か見つかったのかね」

 今度は立ち止まって振り返った松田千春は、深刻な顔で答えた。

「まさに、このことです。とにかく今は急ぎますので、お話は後ほど」

 津田幹雄は一瞬言葉を失ったが、返事を待っている松田に気づき、彼に返答した。

「――分かった。行ってくれ」

 松田千春は速足で長官室から出ていった。

 津田幹雄は上着のポケットからイヴフォンを取り出す。

 佐藤雪子が言った。

「SAI五KTシステムが原因の停電なのかしら……」

 津田幹雄はイヴフォンを操作しながら答えた。

「今、古巣の知人に掛けてみる。経済産業省なら、何か知っているかもしれん」

 佐藤雪子は首を傾げながら言う。

「SAI五KTシステム自体は停電時でも作動を続けるよう設計されているのでしょう? どうして、システムはこちらの電力を復旧させようとしないのかしら」

「駄目だ。繋がらん」

 そう言った津田幹雄は、イヴフォンをポケットに戻しながら椅子から立ち上がった。そして、机を回り出口へと歩いて行く。

 佐藤雪子が秘書室の方に体の向きを変えながら言った。

「経産省も大忙しですわね」

 津田幹雄は速足で出口に向かいながら応えた。

「携帯電話自体が通話不能となっているんだ。通信システムがダウンしている」

 津田幹雄はドアの前で立ち止まると、振り向いて佐藤に言った。

「局長級以上の人間をエマージェンシー・ルームに集めてくれ。ビル全体の警戒体制もレベル・フォーに上げるんだ」

 佐藤雪子は慌てて津田を追いかけ、彼と共に廊下へと出た。そして、広い廊下を津田と並んで歩きながら、彼に尋ねた。

「長官はどちらに」

「ヘリの無線司令室だ。直接の電波通信なら他の省庁と連絡できる。そのために省庁ビルを有多町に集中させているのだからな」

「地下の緊急有線ラインは使用しませんの? 他の省庁ビルや官邸とも接続されておりますのに」

 津田幹雄は速足で歩きながら、眉間に皺を寄せて言った。

「SAI五KTシステムに異常があるのなら、使用できんかもしれん。通信システムがダウンしているということは、ネットワークそのものが使えんということだ。有線ラインの交換システムを管理しているのはSAI五KTシステムだ」

 津田幹雄はエレベーターの前で立ち止まると、ボタンを押した。懸命に津田の速足に合わせて小走りで横を進んでいた佐藤雪子も立ち止まった。津田幹雄が口を開く。

「地下連絡路のセキュリティーも停止しているかもしれん。大至急、確認させてくれ。防護ドアの電子ロックがダウンしている可能性がある。その場合は、STS部隊を増員配備しろ。くそ。エレベーターもか」

 津田幹雄は反応しないエレベーターのボタンを何度も押した。佐藤雪子が首を傾げる。

「おかしいですわね。自立電力に切り替わっていますのに」

 津田幹雄は周囲を見回して非常階段の位置を探しながら言った。

「ビル全体の制御システムがダウンしているんだよ。血が廻っていても、神経が切断されているようなものだ。階段はどこだ」

「こちらですわ」

 佐藤雪子が津田を階段の前まで案内した。鉄製のドアを開けると、何人もの背広姿の役人たちが駆け足で階段を上ったり下りたりしていて、混雑している。

 廊下と階段を交互に見ながら、津田幹雄は佐藤に言った。

「君は支持したことを実行してくれ。私は上の階に向かう」

 津田幹雄は階段を駆け上がっていった。彼は怒鳴りながら、行き交う職員たちを押し退けて階段を上っていく。

「退け! 長官の津田だ。通せ。退くんだ!」

 佐藤雪子は手に持っていたタブレット型の立体パソコンを覗いた。その平らな板状の機械の隅で、通信エラーを示すランプがいつまでも点滅し続けていた。


 

                 2

 新日ネット新聞社の社会部フロアは、天井の電灯が消えていて薄暗かった。窓から射し込む午前中の太陽光で視界には特に支障は無いし、業務に使用している各種のパソコンも酸素分解発電式のO2オーツー電池によって起動を続けていたので、記者たちは殊更に困惑した様子もなく仕事を続けている。だが、一方で大きな問題も生じていた。

 神作真哉は自分の席で椅子に座り、立体パソコンのホログラフィー・キーボードに右手を伸ばしたまま、天井を見上げて言った。

「くそ。どうなってんだ。停電か?」

 横のドアが開き、次長室から上野秀則が飛び出してきた。彼はフロアに向かって大きな声で叫んだ。

「社内サーバーがダウンしたそうだ。みんな、今日の夕刊の原稿で既に出来上がっているものはバックアップを確認しろ。作成中のデータは一旦保存するんだ。バックアップ用のコピーも忘れるな」

 神作真哉はパソコンの前に頭を突き出して嘆いた。

「畜生、なんだよ。こっちは右手だけでキータッチしてんだぞ。ようやくここまで打ったのに……」

 胡麻塩頭の重成直人が腕組みをしながら椅子の背もたれに身を倒し、昔を懐かしむように言った。

「停電なんて何年ぶりだ。前の停電は、もう、随分と前だろ」

 永山哲也が体を後ろに反らして、書類の山からその隣の席の重成を覗いて言った。

「最後の停電は、たしか二回目の東京オリンピックの直前でしたよね。二十年くらい前のことじゃなかったですかね」

 重成の向かいの席の永峰千佳が両頬を押さえながら言う。

「きゃあ、停電、初体験かも」

 神作真哉が机の上に浮いたホログラフィー文書越しに、奥の席の永峰に言う。

「嘘言え。しっかり覚えてる年だろうが」

 永峰千佳が眉間に皺を寄せて神作をにらんだ。永山哲也と重成直人は顔を見合わせる。

 腕時計に視線を落としながら神作の席に歩いてきた上野秀則が、頭を掻いて言う。

「おっかしいな。すぐに補助バッテリーからの電力供給に切り替わるはずなんだけどな」

 椅子を回して上野の方を向いた神作真哉は、上野を指差して言った。

「だろ。俺もそう思ってたんだよ。外部からの電力供給が途絶えても、同時に補助バッテリー電源からの電力供給に切り替わるはずだから、ビルの電気が落ちることなんて無いはずだろ」

 永峰千佳が下を指差した。

「地下のバッテリータンクが劣化してるんじゃないでしょうか」

 神作真哉は首を傾げた。

「専用のコンピュータがリアルタイムで劣化状況を測定してるんだろ。その計測値を基に新品と入れ替えてるんじゃないのかよ。保守管理システムはどうなってんだ」

 永山哲也がパソコンから手を離して言った。

「ここの保守管理システムはSAI五KTシステムに接続してるんですよね。それなら、万全のはずですけどね」

 神作真哉が顔をしかめる。

「ウチもSAI五KTシステムかよ。まったく……」

 上野秀則が窓の外に目を遣りながら言った。

「この辺りの大きなビルは大抵そうだろ。どのビルも、ネットワークを介しての無人管理になっているはずだ」

 重成直人がボソリと言った。

「昔は、どこのビルにも『管理人』ってのが居たものだがね」

 神作真哉は真剣な顔で上野に尋ねた。

「うえにょ。こんなに長い時間、無電力状態になっていて、うちのサーバーは大丈夫なのか。過去の記事なんかが、全部すっ飛んじまってるんじゃないだろうな」

「記事データをアップロードする際には、東京のバックアップ・センターにもデュアル送信されてるはずだから、いざとなれば何とかなるとは思うが……」

 上野秀則がいつもの「上野だ」という返しを忘れていたので、永山哲也と重成直人は再び顔を見合わせてから、上野に視線を移した。上野秀則は、いつになく真剣な顔だった。

 上を向いた永峰千佳が、天井の換気穴とエアコンの吹き出し口を交互に見ながら言う。

「空調システムも止まってますね。電気が無いってことは、警報システムも停止してるってことですかね。火事とかだったら、どうします?」

 それを聞いた神作真哉は、フロアの方に向かって叫んだ。

「おーい、誰か。向かいのビルの様子はどうだ。電気ついてるか?」

 記者の一人が窓に近寄って外を覗き、こちらに向かって手を横に振る。

 自分の席から窓の外の向かいのビルに目を凝らしていた永山哲也が、その記者の返事を見て言った。

「やっぱり、他のビルもウチと同じみたいですね」

 上野秀則がしかめた顔で頬を掻きながら言う。

「ということは、本当に停電か。こりゃ、社会部ネタだな」

 神作真哉が振り返り、上野に言った。

「待てよ。大規模停電なら、SAI五KTシステムも停止してるんじゃないか?」

 永山哲也が首を横に振る。

「いや、それは無いですね。少なくともAB〇一八は、内部に循環させている量子エネルギーで稼動してるみたいですから、周辺の補助機材はともかく、本体は停電と関係なく稼動しているはずです。IMUTAも量子コンピューターですから、補助の蓄電バッテリーからの少量の電力で百パーセントのパフォーマンスを維持できているはず。つまり、あのシステムは停電知らずってことですね」

 神作真哉が怪訝な顔をして言う。

「じゃあ、今も動いてるんだろ。どうして、早く電力供給を復旧させないんだよ。そのためのSAI五KTシステムなんだろ。接続してる企業は結構に高い金を払ってるよな」

 上野秀則が頷いた。

「だな。ウチの会社も、結構な額の月額接続料金を国に支払っているからな」

 神作真哉は右手とギプスの左手を頭の後ろで組んで、椅子の背もたれに身を倒した。

「こんな時に役に立たないんじゃ、意味ねえじゃねえか。さっさと契約を解除して、その分で俺たちのボーナスを上げろっつうの」

「物理的要因かもしれませんからね。電線がどこかで切断されたとか」

 そう言った永山に重成直人が言った。

「メインの送電ラインは一つじゃないだろ。それに、どの送電ラインにも必ずサブ・ラインが別に併設されているはずじゃないか」

 永峰千佳が言う。

「発電所が停止したのかも」

 上野秀則が首を横に振った。

「発電所も一つじゃねえよ。全国一斉に停止すれば別だがな」

 神作真哉は立ち上がり、窓の方に移動しながら言った。

「それなら、とっくに軍や防災隊の哨戒ヘリが飛びまわっているはずだ。――ほら、まだ飛んでこない」

 彼が窓から外を覗きながらそう言った時、天井のLED電灯が一斉に点き始めた。

 明るくなった室内を見回しながら自分の席に戻ってきた神作に、重成直人が言う。

「どうやら、会社はボーナスを上げたくはないらしいな」

 神作真哉は重成に向けてしかめて見せた。そして、椅子に腰掛けると、立体パソコンから社内サーバーに接続し、本日分の記事原稿の保存状況を確認した。表示された内容を見て、神作真哉は嘆いた。

「あーあ。サーバーに送ってた分がパーじゃねえか。最初からやり直しかよ。ったく」

 永峰千佳が上を見上げながら言った。

「変ねえ。空調システムが動いてないですよ。電灯は点いているのに」

 神作真哉は天井を見上げると、目を細めてLED電灯の光の中を覗いた。斜め前の席で同じようにして上を見上げている永山哲也に尋ねる。

「LEDライトは、どっちで動いてる。付属の小型バッテリーか。それとも、主電源か」

 永山哲也は上を見ながら、眩しそうに目を細めて答えた。

「主電源……ですね。外部電力供給で点灯してます」

 神作真哉は永峰の顔を見て言った。

「じゃあ、問題は、その外部電力供給が、ビルの外部からの電力供給からのものか、ビル内の補助バッテリーからの供給かの、どっちかってことだな……」

 上野秀則が神作の机の上に手を伸ばし、内線電話の子機を持ち上げた。

「総務課に電話してみよう。復旧したサーバーの持ち時間も考えんといかんからな」

 神作真哉が首を伸ばして頭を上げ、奥の席の永峰に言った。

「千佳ちゃん。悪いんだが、上の階か、下の階に行って、全部復旧しているか見てきてもらえないか。このフロアだけ故障している可能性もあるからな」

 永峰千佳は少し不機嫌そうに答えた。

「はーい。分かりました」

「悪いな」

 そう口添えた神作の隣で、上野秀則が耳から離した子機を見ながら首を傾げた。

「おかしいな、社内電話が通じないぞ。外線も駄目だ」

 神作真哉はギプスの左手を伸ばして、左前の席から電話の子機を持ち上げながら、その向かいの席の永山に言った。

「永山、イヴフォンは通じるか」

 永山哲也は両手を上げて言う。

「僕、まだ司時空庁から返してもらってないんですよ。返してもらった荷物の中には入ってなかったんですよね」

 子機を耳に当てながら、神作真哉が顔をしかめて口を開けた。

「あ? なんだそりゃ。――ん? 駄目だな。うんともすんとも言わん」

 子機のボタンを何度も押している神作の横で、立ったままの上野秀則が永山に言った。

「全部返せって言わんと駄目だろ」

 永山哲也は、自分の机の電話の子機を操作しながら答えた。

「ええ。今日帰ったら、もう一度荷物の中を探してみます。小さい物なので、どこかに紛れているかもしれませんし……ああ、こっちも駄目ですね。繋がりません」

 永山哲也は「エケコ人形貯金箱」の横に電話の子機を戻した。

 左前の席に子機を戻した神作真哉が永山に言った。

「なんだ、まだ荷解きしてないのか」

 永山哲也は眉を寄せて答えた。

「昨日帰ったら、ベッドの上にスーツケースが重ねて二個、ドンと置いてありました。祥子が空けた形跡は無し」

 重成直人が深刻そうな顔をして言った。

「あの温厚な祥子さんも、さすがにキレたか。そろそろ、永山ちゃんも俺たちの仲間入りだな」

 永山哲也は重成の方を見て言った。

「勘弁してくださいよ。記者に離婚は付き物だって言ってますけど。うえにょデスクは、まだもってるじゃないですか」

 肩越しに永山から指差された上野秀則が言う。

「まだってなんだ、まだって」

 神作真哉は背中を丸めて首を前に出し、立体パソコンのホログラフィー・キーボードを右手だけで操作し始めた。彼は投影されたキーボードに目を凝らして、打ちにくそうに指を動かしてながら言った。

「ま、千佳ちゃんが居ないから言うけど、女は煽てないと駄目だぞ。いつも洗濯ありがとう、迷惑かけるねってな。愛してるよーまで言えれば最高だが、俺には無理だね。虫酸が走る。千佳ちゃんにも、ごめんね、悪いね、って、おまえ、この俺がどんだけ気を使って煽てて……いる……か……」

 神作真哉が顔を上げると、永山哲也はティッシュペーパーで「エケコ人形貯金箱」を拭いていた。その奥の重成直人は老眼鏡をはめてパソコンのモニターに顔を近づけている。横を向くと、上野秀則は口笛を吹きながら去っていった。

 神作真哉は前に視線を戻し、永山に言った。

「何やってんだ、永山」

 重成直人が咳払いをする。永山が目で合図を送った。神作真哉が永山の合図のとおり、顔を左に動かすと、そこに永峰千佳が腰に手を当てて立っていた。

 神作真哉はギプスの左手を上げて言う。

「お……オイッスう」

 永峰千佳は目を吊り上げて言った。

「やっぱり、私は煽てられてキャップに動かされていたんですね。今回は、よーく分かりました。今後はそのつもりで、ご指示を伺うことにします」

 肩を上げて自分の席に戻っていく永峰千佳に、神作真哉が必死に弁明する。

「あ、まあ、例えばの話だよ。比喩だ、比喩。なあ、永山」

「僕を共犯にするんですか。勘弁してくださいよ」

 永山哲也は必死に手を振った。

 重成直人が向かいの席に着いた永峰に尋ねた。

「で、どうだったんだい、千佳ちゃん。他の階は」

 永峰千佳は顔の前で手を振った。

「あ、いや、行ってはいないんです。エレベーターが止まってて。上の政治部の人たちが階段で移動してたんで、訊いてみたんですけど、上の階も同じ状況みたいです。空調と通信が機能してないって」

 永山哲也は首を傾げた。

「変だなあ。外部からであれ、蓄電池からであれ、電力は復旧してるのに……」

 神作真哉が険しい表情で言った。

「システム構築に問題があるんじゃないか。永山、避難誘導システムを覗いてみろ。あれはビル全体を把握しているはずだろ」

「僕には、煽ての言葉は無いんですね」

 そう言ってからパソコンに向かった永山に、神作真哉は左腕を見せて言った。

「俺は左手がこれなの。蒸し返すなよ」

 永峰千佳が奥の席から声を飛ばす。

「忘れてませんけどね」

 永山哲也が椅子の背もたれに背中を付けて、言った。

「ああ、避難誘導システムは稼動しています。ちゃんと、各部屋に滞在している人間の数をリアルタイムで把握できているみたいです。――ってことは、各部屋の出入り口やフロア・ゲートの感知センサーは復帰しているということですね」

 このビルの全ての部屋の出入り口やフロアのゲートには、入退室した人数をカウントするセンサーが取り付けられていて、緊急災害時の避難誘導の際に救助漏れや避難漏れが生じないように、どの部屋に何人が現存するかをリアルタイムで把握できるようになっていた。もちろん、情報として表示されるのは人数だけである。

 神作真哉は永山に言った。

「数値は合ってるか」

 永山哲也は椅子から少し腰を浮かせて、フロアの中の人間を数え始めた。

「―― 二十四、二十五、二十六。に、上野デスクと谷里部長で二十八人。システム上でも、この部屋の滞在人数は二十八。合ってますね」

 神作真哉が永峰を指差して言った。

「千佳ちゃん、ちょっと……」

 永峰千佳が目を細めて、神作に冷ややかな視線を送る。

「いや、いいです。失礼しました」

 そう言って立ち上がった神作真哉は、永山に顔を向けた。

「俺が一度フロアから出てみるから、数字を見といてくれ」

 神作真哉は右手で頭を掻きながら出入り口のゲートの方へと歩いていった。

 笑いを堪えている永峰に、向かいの席から重成直人が小声で言った。

「あんまり虐めるな。キャップは体はデカイが、ハートはガラスの様に繊細だからな」

「はい。分かってます」

 永峰千佳はニヤニヤしながらヘッド・マウント・ディスプレイを顔に装着した。

 ゲートからエレベーターホールの前の廊下に出た神作真哉が、そこから永山に手を振りながら大きな声で叫んだ。

「どうだあ。一人減ったか」

 立ち上がった永山哲也は、立体パソコンのホログラフィー画像を見ながら、両手で大きな輪を作って、ゲートの方に答えた。

「ええ。ちゃんと一人減りました。感知システムは正常に機能してます」

 ゲートの前で神作真哉は首を傾げた。

「変だなあ。何で空調と通信だけ……」

 エレベーターホールに目を遣った。エレベーターの階数表示のデジタル数字が消えている。永峰の言うとおり、エレベーターも停止しているようだ。

「エレベーターもか……」

 その時、エレベーターのドアの向こうからゴンという鈍い音が響いた。

「ん?」

 もう一度首を傾げた神作真哉は、エレベーターホールの方に歩いていった。



                  3

 新日ネット新聞ビルのエレベーターの中には、山野紀子と春木陽香が乗っていた。二人だけで乗っていると、エレベーターの室内は少し広く感じられる。

 春木陽香は、茶色い紙で包装された薄い箱を胸の前で抱きしめるように持っていた。彼女は隣の山野紀子の顔を見上げて言った。

「ライトさん、本当にそんな所に居るんですか」

 山野紀子が頷く。

「うん。そうみたい。ザンマル情報は、結構、正確だからね。本当だと思う」

 春木陽香は口を尖らせて言う。

「まあ、ある意味、すごく安全ですよね。――あ、だから携帯が繋がらないんだ」

「多分ね。電源を切ってるでしょうから」

「でも、逆に連絡を取り辛くなりましたね。ライトさんと」

「ま、どうせ長く居るつもりは無いんでしょうから、そのうちに連絡はつくわよ。心配しなくていい分、こっちも気が楽じゃない」

「別の意味では心配ですけど……」

 春木陽香は床に視線を落として眉を寄せる。

 山野紀子は、そんな春木の胸元に抱えられている小包を指差しながら言った。

「それより、それよ。その荷物。差出人は『ドクターT』ですって? ふざけんじゃないわよ。田爪瑠香の筆跡とも全然違うじゃない。馬鹿にしてるわよねえ」

 山野紀子は不機嫌そうにしかめて、腕を組む。

 春木陽香は書類ケース程の厚さと大きさの小包を両手で持って、その表面に貼り付けられている伝票を改めて見てみた。山野の言うとおり、明らかに嘘っぽい筆跡だ。

 春木陽香は箱を振りながら言った。

「イタズラですかね。中は重くないですけど」

「絶対に悪戯よ。こういうのね、前にもあったの。開けたらね、中に女性用の下着が何枚も入ってて、その他にも……ああ、思い出しだだけで、鳥肌が立ってくる」

 山野紀子は肩を上げて、左右の二の腕を摩る。

 春木陽香が尋ねた。

「だから、開けないんですか」

「当然でしょ。開けてみて異臭がする物だったらどうするのよ。履き古したオジサンの靴下とか。編集室中に臭いがこもっちゃうじゃない。前の時も大変だったんだから。消臭スプレーを箱買いして撒き散らしても、一週間、鼻つまんで仕事だったのよ」

「それで、上ですか……」

「上にも同じ物が届いてるかもしれないでしょ。それに、あのフロアは男の城じゃない。男ってのは、嗅覚が鈍感だからね。あのフロアの男たちは多少の臭いでも、たぶん平気でしょ。千佳ちゃんや谷里部長たちには悪いけど」

 春木陽香は不安な顔をして言う。

「危ない物だったら、どうしますか。炭そ菌とか」

「あんた、手に持ってんのに怖いこと言うわね。でも大丈夫よ。そういうヤバイ物だったら、急いでうえにょの部屋に投げ込めばいいから」

「いや、それは……」

 エレベーターが不自然に止まった。室内の電気も消える。突如、暗闇が二人を包んだ。

 山野紀子の声がする。

「あれ、何? 故障?」

 非常灯が点き、薄っすらと室内を照らした。

 春木陽香が言った。

「――ですかね。止まっちゃったみたいですね」

「あっちゃー。ついてないなあ。非常ボタン、非常ボタン」

 山野紀子は、ドアの横に移動した。

 階数ボタン・パネルの前でこちらに背を向けている山野に、春木陽香は言った。

「このエレベーターって、補助バッテリーが積んであるんじゃなかったでしたっけ」

 山野紀子は非常呼び出しボタンを押しながら言った。

「うーん。そのはずだけど……あれ、おかしいわね。どうして出ないのよ。警備室」

「もう少し強く押さないと駄目なんじゃないですか」

「押してるんだけどなあ。おりゃ。――駄目だ。全然反応しない」

 振り向いた山野紀子は、シャツの胸元に挟んだイヴフォンを操作し始めた。

 春木陽香が天井を見上げて言う。

「補助バッテリーが積んであるのに停止したってことは、電気系統の異常じゃないですよね。非常灯も点いてますし」

 山野紀子が左目を青く光らせながら答えた。

「そうねえ。システム的なことかしら。それか、何かが引っ掛かっているとか」

 春木陽香は首を傾げながら言う。

「どっちにしても、非常呼び出しボタンは機能するはずじゃ……」

 山野紀子が首を傾げながら胸元のイヴフォンを操作して言った。

「おかしいわね。繋がらない。通話できない状態になっていますだって。ハルハルのイヴフォンは?」

「あ、じゃ、失礼して。――通話オン」

 春木陽香は小包を両手で持ったまま下を向き、ブラウスの胸元に挟んだイヴフォンに向かって、そう言った。彼女は音声での操作を続ける。

「電話帳。――仕事フォルダ。――下、下、ピック。発信」

 春木陽香は、視界に浮かぶ電話帳リストの中から新日ネット新聞ビルの代表番号を選択し、その番号に電話をかけた。左目をピンク色に光らせて宙を暫く見ていた彼女は、また下を向いて言った。

「通話オフ」

 顔を上げた春木陽香は言った。

「駄目ですね。通話不能です」

 山野紀子は春木の胸元のイヴフォンを指差しながら言った。

「音声操作にしたのね。恥ずかしくない? なんか、独り言を発しているみたいで」

「まあ、確かに独り言ですもんね。そう思えば、別に……」

 山野紀子は階数ボタンの方を見て言った。

「でも、弱ったわね。これじゃ、どうしようもないわよね」

「待つしかないですかね。暫く」

「そうねえ。――はあ、ついてないわ、ホントに」

 山野紀子は項垂れた。

 春木陽香が山野の顔を覗き込んで尋ねる。

「エケコ人形は車の中ですか」

「うん。ていうか、あんたがバックミラーに付けたんじゃない」

「持ち歩いていた方がいいですよ。だから、こうなったのかも」

「あの人形はご利益ありそうだけど、なんでもかんでも何かのせいにするのはねえ。なんとなく今の世間的な風潮でしょ、良くないわよね」

「昨日、光絵会長も同じことを仰ってました」

「そう……」

 返事をした山野紀子は、春木の顔をじっと見て、言った。

「信用できるのかしら。光絵会長って人」

 春木陽香は少し下を向いて答えた。

「悪い人じゃないような気はしますけど」

 山野紀子は春木を指差して言う。

「あんた、誰のことでも、そう言うわよね」

 春木陽香は上目だけ山野に向けて言った。

「はあ……。じゃあ、厳しくて、恐いですけど、どこか優しい人です。誰かに似てるような気がするんですけどねえ……、ウチのお祖母ちゃんかなあ……」

「海千山千の人だからね。騙されてんじゃないの」

 春木陽香は顔を上げて言った。

「あ、編集長かも。なんとなく」

 それを聞いた山野紀子は、目を見開いて言った。

「なによ、じゃあ、私はあんたのお祖母ちゃんと似てるって訳。あんたのお祖母ちゃん、幾つよ。百歳前でしょ。私は四十六歳なんですけど。倍にしても追いつかないじゃない」

「光絵会長とですよ」

「納得するか。光絵会長は七十六歳でしょうが。私よりも三十も上。こっちは四十六」

 山野紀子は必死に自分を指差して言った。

「分かりました、分かりました。すみませんでした」

 憤慨する山野紀子を春木陽香は呆れ顔で宥めた。

 山野紀子は片頬を膨らまして腕組みをすると、暫く口を閉じた。山野が気を悪くしたと思った春木陽香も黙っていた。暗いエレベーター内を沈黙が埋める。

 また暫くすると、山野紀子は腕組をしたまま、ハイヒールの先で細かく床を鳴らして、貧乏ゆすりを始めた。彼女は上を向いたり下を向いたりしながらブツブツと言い始める。

「ああ、でもなんか、落ち着かないわね。普段、何気なく乗ってるエレベーターだけど、この床の下に三百メートル以上の高さがあると思うと、どうも不安になるわよね」

 妙にそわそわし始めた山野を見て、春木陽香が心配そうな顔で尋ねた。

「あの、もしかして編集長、高所恐怖症とか、閉所恐怖症とかですか」

 山野紀子は少し声を荒げて即答した。

「違うわよ。――ただ、こんな高い所で閉じ込められていると思うと、なんとなく、急に催してきただけ」

「催して……ええ! トイレですか! だから、さっきから黙ってたんですか」

「大丈夫よ。我慢できるから。ちょっとくらいなら……。ていうか、我慢してるんだけど、さっきから」

「はあ……」

 春木陽香がいっそうに不安な顔で山野を見つめる。

 山野紀子は話題を変えようとして、無理に話しを始めた。

「それより、光絵会長の話が本当だとすれば、ストンスロプ社はこの件に深くは関与していない、少なくとも、バイオ・ドライブや中のデータは入手していないってことでしょ。それなら、バイオ・ドライブは、やっぱり、ASKITよね」

 春木陽香は頷いた。

「ですね。そうなると、編集長の言うとおり、AB〇一八の施設に保管されている可能性が高いかもしれませんね」

「ま、別の所に隠してあるってことも考えられるけどね。ああ、それより、そっちの方はどうなった?」

「データのコピーですか?」

「うん。それもだけど、クラマトゥン博士。何か、AB〇一八の処理速度を計測しようとしたこと以外に、接点は見つかった?」

「そっちはまだ調査中です。昨日、帰りに本屋さんに寄って、クラマトゥン博士が書いた教科書データを買ってきました」

「数学分野の教科書を? あんた、読めるの?」

「帰ってから読んでみたんですけど、数頁の所で寝てました。私には無理です」

「じゃ、なんで買ったのよ」

「昔みたいに紙の書籍なら考えましたけど、電子書籍ですからね。安いですし。それに、資料室のデータベースで本文内容とキーワードを照合できないかなと思って」

「哲ちゃんに教わった方法とかいう、あれ? 今の若い子たちは、中身を読まずに、そういうことをやるんだ。スーッ。ああ……まだかしら」

 山野紀子の貧乏ゆすりが少し激しくなった。彼女はしきりに階数ボタンに顔を向ける。

「編集長、大丈夫ですか」

 山野紀子は口を縛って頷いた。

「大丈夫。――それで、田爪健三の研究データのコピーの方は。――どんどん説明して。気が紛れるから」

「はあ……。ええと、永山先輩は他に何も貰ってないと言ってましたから、もし、どこかにコピーが存在するとしたら、南米ですよね。そうなると……あ、電気点きましたね」

 室内灯が通常のものに戻り、エレベーターの中が明るくなった。

 山野紀子は階数ボタンの所に猛ダッシュで駆け寄り、急いで非常ボタンを連打する。

 何も反応しない。

 山野紀子は階数ボタンのパネルを強く叩いた。

「もう、何やってるのよ。非常時に使うのが非常ボタンでしょうが。スーッ……」

 振り向いた山野紀子は額に汗を浮かべながら言った。

「ハルハル。話、続けて」

 春木陽香は話を続けた。

「――そうなると、向うで探すしか手が無いので、どうしようもないですよね。田爪博士が向うから日本に送っていれば、別ですけど……。ああっ!」

「なによ! ビックリさせないでよ。出ちゃうじゃない!」

「あの、高橋博士の従兄弟さんです。あの人にお金を送ったのが田爪健三博士だったとしたら、他にも何か送っているかも。もしくは、瑠香さんに」

 山野紀子は下を向き、春木に掌を向けながら言う。

「ちょっと……待ってよ。――ふう。スー……。田爪瑠香は、田爪健三博士が南米で生存していることは知らなかった訳よね。その可能性は信じていたとしても。じゃあ、南米からお金を受け取って、高橋博士の従兄弟に送ったのは、彼女じゃないってことじゃない。それに、研究データは田爪博士が哲ちゃんに会う直前までのデータなんじゃないの。十年間の研究成果だって、田爪博士は哲ちゃんに言ってたんでしょ。どこかに送っているとしたら、ついこの前の話のはずじゃない。それが、どこかに届いているなら、この頃届いているはずよ」

「そっかあ。そうですよね……」

 そう言った春木陽香は下を向いた。手許の小包に目が行く。顔を上げた春木陽香は、山野と顔を見合わせた。

 春木陽香は小包を少し持ち上げて言う。

「これ……でしょうか」

「まさか。都合よ過ぎでしょ」

「開けてみましょうか」

 山野紀子が広げた左右の掌を春木の前に突き出した。

「ちょっと待って。――よーく考えてみましょう。開けて臭い物だったら、この密室で大変なことになるわよね」

「臭い物なら、もう臭ってますよ。くんくん。何も臭いませんし」

「そう。――ああ、待って。爆発物かも」

「うーん……」

 春木陽香は少し考えた。そして、言った。

「その時は、その時で」

 山野紀子も納得顔で頷く。

「そ、そうね。社内のエレベーター内で失禁するより、爆死の方がいいわね。よし」

「じゃ、開けます」

「待って、待って」

「今度は何ですか。もう」

 山野紀子は生唾を飲み込んでから、言った。

「炭そ菌かも。括弧、その他、生物兵器を含む、括弧返し」

「そういうのって、瓶状の入れ物とかに入ってません? もしくは、袋とか。こんな薄い箱に直接入ってますかね」

「分かんないわよ。それに、炭そ菌なら、感染してもすぐに倒れるとか、死ぬって訳じゃないじゃない」

「まあ、そうでしょうけど、効果が後だと、何か?」

「分かんないの? このままここに放置されたら、確実に漏らしてしまうわ。私は最悪、普通にエレベーター内で失禁した女として防災隊の生物兵器対策部隊の人たちに保護されるのよ。その数日後に炭そ菌で死んだ記者として世界中に報じられるの。失禁と炭そ菌、二重の災難じゃない!」

 春木陽香は床にしゃがむと、小包を床に置いて包装紙に手を掛けた。

「開けます」

「ハルハル!」

「ビリッと」

 春木陽香は包装紙を勢いよく破る。

 山野紀子は壁にへばりつくように背を当てて身を引いた。

 春木陽香は躊躇なくどんどん包み紙を外していく。そして、中から姿を現した薄いダンボール箱を持ち上げると、底を見たり、周囲の縁を触ったりして確かめながら言った。

「大丈夫ですね。中身は普通の段ボール箱です」

 エレベーターの内壁に背中を押し付けていた山野紀子は、スカートの端を握り締め、足をクネクネとさせながら言った。

「その……スーッ……その中身が問題なのよ。ふー」

 春木陽香は真剣な顔で箱の開け口に手を掛ける。

「じゃ、開けてみます」

「落ち着くのよ。深呼吸すれば大丈夫。とにかく、落ち着くの」

「落ち着いてますって。開けますね」

「自分に言っているのよ。ふうー。別のこと考えろ、別のこと」

 春木陽香は箱の端を開けて、中から発泡スチロールの板を引き出した。

「ン? これは……」

 発泡スチロールの板の中央には、カードのような物がはめ込まれていた。

 春木の横で、山野紀子は腰をくねらせながら、独り言を発している。

「駄目だわ。どうしても、養老の滝や華厳の滝が浮かんでくるわ。ああ、普段は気にもしない水道の蛇口の映像が、どうしてこんなにくっきりと……。くうう……限界」

 山野紀子は強くドアを叩いた。ゴンという鈍い音が室内に響く。

 春木陽香は、発泡スチロールの中から取り外した名刺大のカードを山野に見せた。

「編集長。MBCでしたよ。炭そ菌じゃなかったです」

「そ……そう。ふー。よかったわね。スーッ……いや、良くないじゃない。MBCなら、ビンゴかもしれないでしょうが!」

 その時、ドアが外側から強く叩かれた。聞き慣れた男の声がする。

「おーい。誰か中に居るのか。閉じ込められてんのか」

 その声を聞いた山野紀子は、素早く振り返り、ドアに顔を近づけて叫んだ。

「真ちゃん! 私よ、紀子! 開けて、早く出して! いや、出ちゃうかも。出したいから、早く出して! 出そうなの!」

 神作真哉がドアの向こうから言う。

「あ? 紀子か。なに訳の分からんことを言ってるんだ。とにかく、総務に連絡して開けてもらうから、ちょっと待ってろ」

「ちょっと待てないの、急いで! 超緊急事態だから!」

「わ、わかった。何とかする。よく分からんが、頑張れよ」

「頑張ってるのよ……早く……」

 必死の形相の山野紀子は身を震わせながら、ドアにしがみ付くようにして凭れていた。


 暫くして、ドアが開けられた。工具を手にした永山哲也が中を覗き込む。春木と山野が閉じ込められていたエレベーターは、少しだけ定位置より下で止まっていた。

 永山と一緒にドアを開けた神作真哉は、右手を差し出して言った。

「大丈夫か、紀子。ほら、段差に気をつけ……うわっ」

 山野紀子は神作を押し飛ばして、段差を駆け上がった。他の見物人の記者たちを押し退けて駆けていく。

「退いて! 早く退いて!」

 そして、そのまま全速力でトイレへと走っていった。神作真哉は床に転がっている。その横で、永山哲也が春木の手を取って、小柄な彼女を引き上げた。

 春木陽香は、この際だからと少しだけ永山に密着してから外に出た。頬を赤らめた彼女は、恥ずかしそうに下を向きながら言った。

「あ、ありがとうございます」

 永山哲也がエレベーターの中を確認しながら言った。

「ホント、災難だってね。キャップが気付いたから、よかったけど」

 起き上がった神作真哉がズボンを叩きながら、廊下の先のトイレの方角に視線を向けて言った。

「まったくだ。運がよかったのか、悪かったのか」

 春木陽香は口角を上げて呟いた。

「よかったです。最高でした。ムフフ」

 春木陽香は、永山に握られた手を反対の手で包みながら、スキップして社会部フロアのゲートを通っていった。



                  4

 シャンデリアの光に照らされた明るい部屋の中で、ガウン姿のまま車椅子に座った老人が食事をとっていた。隣に座っているドレス姿の中年の女性が小さくカットされたフルーツを老人の口元に運ぶ。老人はそれを食べると、満足そうに微笑んだ。テーブルの上には豪勢な食事が並び、そのテーブルを老人とその家族が囲む。部屋の壁際には、メイドたちと執事たちが並んで立っている。

 テーブルの上で伊勢海老を二つに折りながら、薄緑のジャケットを着た若い男が口を開いた。

「パパ。今度、ヴェネツィアに行ってみようと思うんだけど、スペインから船で行きたいんだ。いいかな」

 老人は頷いた。

「ああ。この前買ったクルーザーがあるじゃろ。好きに使えばいい」

 若い男の向かいの席でブランド物のスーツを着た若い女が、パンの上にキャビアを乗せていた手を止めて言った。

「いいなあ。私もクルーザーが欲しい」

 老人はその若い女を指差して言った。

「おまえは、おっちょこちょいじゃからな。海は危ない。必要な時は客船の一隻や二隻、いつでも貸し切ってやるから、それで我慢しなさい。その代わり、この前も新型のAIスポーツ・カーを買ってやったじゃないか」

 若い女は不満そうに口を尖らせた。

「ええー。でも……」

 老人の隣の席の中年の女が言う。

「パパを困らせるんじゃないの。この前も、専用ジェット機を買い換えたばかりでしょ。それだって、あなたが内装にケチをつけたからじゃない。車だって、もう三台目なんだから、今度は傷をつけないように大事に乗りなさいよ」

 若い女はキャビアを乗せたパンを齧ると、咀嚼しながら答えた。

「はーい」

 執事が老人に近寄り、耳元で言う。

「閣下。ラングトン様がお見えになっています」

 老人は厳しい顔で答えた。

「ん。今行く」

 中年の女がナプキンで老人の口を拭く。

 老人は若い男女を見ながら言った。

「じゃあな。パパはお仕事だ。お前たちも遊んでばかりいては駄目だ。勉学にも励みなさい。ああ、そうだ。ママ、例のドレスは来週届くそうだ。もう少し待ちなさい。いいね」

 中年の女は微笑みながら言った。

「嬉しいわ。楽しみにしています」

 ドアがノックされた。執事がドアを開けると、詰襟のロングジャケットを着た背の高い東洋人女性が立っている。その女は老人に向かって頭を垂れて言った。

「失礼します。お迎えに上がりました」

 老人はその女に手招きしながら言った。

「おお、タハラか。悪いな。――じゃあ、みんな。ちょっと仕事をしてくる。しばし、お別れじゃ」

 中年の女は椅子から腰を上げ、車椅子の後ろに回った。老人を乗せた車椅子を静かにドアの前まで押していくと、廊下に立つナオミ・タハラに言った。

「お願いします」

 そして、老人の皺枯れた頬にキスをして言う。

「行ってらっしゃい」

 車椅子の後ろにナオミ・タハラが回り、少し背を曲げて握りを掴む。中年の女はその長身の女に、車椅子の後ろの小型ボンベから延びたチューブの先のマスクを見せて言った。

「主人はこの頃、呼吸が苦しい時があるようなので、本人が求めたら、この酸素マスクを装着してやってください。強い日差しも皮膚に良くないようですので、なるべく日陰に」

 ナオミ・タハラは無表情な顔で頷いて、言った。

「こちらの建物からは出ませんので、ご安心を」

 中年の女は胸のダイヤのネックレスに手を当てて息を吐き、タハラに頷いた。

 ナオミ・タハラは車椅子を押して、廊下へと出ていく。

 老人は豪華な絨毯が敷かれた長い廊下をタハラに押された車椅子で移動していった。

 老人は言った。

「それで、今日は何の用で来た」

 ナオミ・タハラが答える。

「社長が日本法人のことでご相談があると」

 老人は眉間に皺を寄せた。

「NNJ社か。何事だ」

 ナオミ・タハラは言った。

「それは直接、社長からお聞き下さい。私は通訳を兼ねた秘書ですので」

「そうか。そうじゃの」

 老人は口角を上げてそう言いながら頷くと、背後のタハラに尋ねた。

「のう、タハラ。ラングトンの秘書を辞めて、ワシの傍で働くという話は、考えてくれたかの」

 ナオミ・タハラは老人の車椅子をゆっくりと押しながら答えた。

「はい。有りがたいお話ですので、光栄なのですが、ラングトン社長を裏切る訳には参りません」

「そうか。しかし、NNC社は我がASKITの傘下の企業じゃ。別に裏切るという訳では無かろう。昇進すると考えればいい。駄目かの」

 ナオミ・タハラは静かに答えた。

「申し訳ございません」

 老人は大きく頷いて言った。

「分かった。忠臣は二君につかえずという訳じゃの。気に入ったぞ。それでこそ日本人の血を引く者じゃ。ラングトンは良い秘書を持ったのう。羨ましいわい」

「畏れ入ります」

 淡々と答えたナオミ・タハラは、老人を乗せた車椅子を廊下の奥へと押していった。

 ドアを開け、大広間の二階部分に出た。赤いカーテンの前を通り、西洋絵の壁画の前を通って玉座の近くまで車椅子を押していく。ナオミ・タハラは玉座の横に車椅子を留めると、階段の下の一階の大広間を見渡せるように車椅子の向きを変え、車輪にストッパーを掛けた。

 ナオミ・タハラは老人に尋ねる。

「玉座の方にお移りになられますか」

 老人は階段の下に目を遣りながら答えた。

「いや、このままでいい」

 階段の下の深紅の絨毯の上には、高級ブラインドのスーツに身を包んだ金髪の西洋人女性が立っていた。NNC社の社長・ニーナ・ラングトンである。上気ぎみに階段を駆け上がってきたラングトンは、老人の前にひざまずき、彼の手を取って皺だらけの甲にキスをした。

 老人が言う。

「よく来たなラングトン。して、何の用じゃ」

 ナオミ・タハラがフランス語に訳した。それを聞いたニーナ・ラングトンがフランス語で話す。ナオミ・タハラは抑揚を付けず、淡々とラングトンの発言を日本語に訳した。

「お会いできて光栄です。今日は閣下にお頼みしたいことがあって参りました。是非とも閣下のお力が必要です」

 老人はラングトンの目を見て言った。

「何が望みじゃ」

 ナオミ・タハラが再び通訳すると、ラングトンは頷き、フランス語で語り始めた。

 ナオミ・タハラが同時に邦訳していく。

「日本法人のNNJ社の社長が勝手な動きをしているようです。私の指示にも従わず、本社への報告もありません」

 老人は頷いた。

「西郷のことじゃな。知っておる。施設の警備を日本の軍隊に委託しようとしているようじゃな」

 話し続けるラングトンの横でナオミ・タハラが日本語にして老人に伝え続ける。

「やはり、ご存知でしたのですね。私もそのように考えていました。こちらから中止を求めても、従いません。閣下のお力で、西郷を解任する許可をいただきたい」

 老人は溜め息を吐いた。

「西郷め、あの馬鹿が……早まりおって」

 そして、暫く考えるとラングトンの目を見て言った。

「以前は忠実に働いたのじゃが……。何が奴の判断を変えたのかのう」

 ナオミ・タハラはフランス語に直さなかった。ニーナ・ラングトンがタハラに老人の発言を通訳するよう指示したが、タハラは聞き取れなかったと回答した。

 老人はタハラの顔を見て言った。

「西郷の解任は待て。時期を見てワシが処分すると伝えろ。安心しろとも伝えておけ」

 ナオミ・タハラは、そのまま正確にラングトンに仏訳する。

 大袈裟に頷いたニーナ・ラングトンは、満面の笑みで車椅子の老人を抱擁し、頬にキスをした。そして、自分の胸に手を当てて老人に感謝の言葉を述べた。

 ナオミ・タハラが淡々と通訳する。

「ご高配に感謝いたします。私も今日から幾分か心穏やかに過ごすことができます」

 老人は一瞬、ラングトンをにらみ付けると、静かに言った。

「そう過ごせる日が続くと良いがの」

 目線を逸らしたニーナ・ラングトンは、タハラの仏訳を待たずに話し始めた。タハラが日本語にして老人に伝える。

「では、所用がありますので、これで失礼します。どうぞ閣下もご健康にご留意下さい。どうか閣下に神の御加護がありますように」

 老人は顎を上げると、ラングトンの目を見て言った。

「ん。ご苦労じゃった」

 ニーナ・ラングトンは頭を垂れてから、後ろを向いた。深紅の絨毯を踏みしめながら階段を下りていく。

 一階まで下りたラングトンは立ち止まり、振り返って再び二階の方を見上げた。階段を下りているナオミ・タハラの後ろから、老人の冷たい眼がラングトンを捉えている。

 ニーナ・ラングトンは会釈をすると、すぐに背中を向け、木製の大きなドアの方へと歩き始めた。

「ニーナ・ラングトン!」

 老人の大声に、彼女は肩をあげ立ち止まった。恐る恐る振り向く。ナオミ・タハラも階段の途中で立ち止まり、後ろを向いていた。

 老人は日本語で何かを言った。一礼したナオミ・タハラが老人に背を向け、急いで階段を下りてくる。深刻な顔をした彼女はラングトンの前まで速足で歩いてくると、フランス語で言った。

「閣下からのご伝言です。『誰であれ、裏切り者は許さぬ。組織を裏切った者には、死の制裁を下す』と」

 ニーナ・ラングトンは一瞬、表情を凍りつかせたが、すぐに笑顔を作り、階段の上に向けて大きな声で答えた。

Ouiウィ, jeジェ connaisクネス(はい、心得ています)」

 そして、老人に背中を向けると、タハラと共に深紅の絨毯の上を歩いていった。

 木彫りの装飾が施された大きなドアが左右に開き、ニーナ・ラングトンとナオミ・タハラが出てきた。ドアがゆっくりと閉まる。

 ニーナ・ラングトンはスーツのジャケットのポケットからシルクのハンカチを取り出すと、それで口を執拗に拭いてから、フランス語で言った。

「くそジジイめ。汚らわしい」

 広いエントランスを抜けて、二人は玄関から外に出た。外は曇っている。目の前に停車している黒塗りのリムジンにナオミ・タハラが駆け寄り、ドアを開けた。ニーナ・ラングトンが乗り込み、続いてナオミ・タハラが乗り込むと、ドアが閉まり、車が走り出す。

 車内のゆったりとした座席に背を倒しながら、ニーナ・ラングトンはタハラに言った。

「バレているみたいね。あの老いぼれ、具合が悪くても頭脳は健在だわ」

「……」

 ナオミ・タハラは黙ってお絞りを差し出した。

 それを受け取ったニーナ・ラングトンは手を拭きながらタハラに言った。

「閣下には上手く近づけたの?」

 ナオミ・タハラはフランス語で答える。

「いえ。上手くいきませんでした」

「もう少し頑張りなさい。私はキスまでしたのよ。閣下の側近になって、彼が本当は何をしようとしているのかを探りなさい。西郷に金は送ったの?」

「はい。ご指定の額を、ご命令どおり」

「西郷は所詮ウチの日本法人の社長よ。替わりはいくらでもいる。でも、あの生体型コンピュータ『AB〇一八』に替わりは無い。あれだけは絶対に守らなければならないわ」

 ナオミ・タハラは怪訝な顔で尋ねた。

「施設を日本の軍隊に委ねてよろしいので」

「今、あのジジイに近づかれるよりはマシよ。契約が成立すれば、我々は近づけても、閣下は近づけなくなる。名実共にあのコンピューターは我々の物になるわ。あとは、国防軍と司時空庁さえ取り込めば、IMUTAだって手に入れたのも同然の状態になる。我がNNC社が世界の頂点に立つのよ。――ああ、日本政府との契約は、こちらから自由にいつでも解除できる内容で締結するよう西郷に伝えなさい」

「かしこまりました」

 その黒塗りのリムジンは水滴が混じる強い横風の中を飛行場に向かって走っていく。

 飛行場の奥に広がる海の上の空は、どす黒い雷雲で埋め尽くされていた。


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