第14話

 続5

 エケコ人形とは、南米の高原地帯・アルティプラノ地方に古くから「幸福を呼ぶ人形」として伝わるものである。毛糸の帽子の下にひょうきんな笑顔を据え、両手を大きく左右に広げているその人形は、本来販売される年初の「アラシタ祭」以外でも、郷土のお土産品として人気があったが、南米が戦禍に見舞われると、その終息を願う人々の希望の象徴や、現地で取材する記者たちのお守りとして買い求められることが多くなった。当然、永山が利用した空港や滞在したホテルの売店でもキーホルダーやストラップなどに加工した「エケコ人形アイテム」がお土産品として多数売られており、当然、永山もそれを購入していた。日本へのとして。


 佐藤雪子が言った。

「こちらが、現地のプレスセンターで購入した同型の『エケコ人形ストラップ』ですわ。スペクトル解析で成分分析しましたら、その溶けたプラスチックの塊の中の成分比率と、こちらの人形の構成成分の比率が、ほぼ一致しましたの。どうやら、この二つは同じ種類の物のようですわね」

 津田幹雄が永山の前の塊を見ながら言った。

「おやおや、ということは、この溶けている方は、永山さん、タイムマシンに乗せたという『エケコ人形ストラップ』なのですかな。だとすると、あのタイムマシンは爆発現場にあったという蓋然性が随分と高まりましたなあ」

 時吉浩一が反論する。

「それだけでは、まだ証明されたとは言えない」

 津田幹雄は時吉の方を向いて、笑顔で頷いた。

「ですな。――ですが、これを世間の無知蒙昧な市民が見れば、どう思いますかな。時吉先生のように、誰もが優秀な訳ではない。多くの人間は、これだけで、永山さんが送ったマシンが二〇二五年の爆発現場に到達したと決め付けるでしょうな。証明されたと思い込んで。そして……」

 津田幹雄は永山を指差して言った。

「きっと世間はあなたを非難する。あなたは記者だから、世間からの非難に晒される覚悟はお有りかもしれないが、あの優しそうな奥さんや、可愛らしい娘さんは、どうでしょうね。娘さん、来年は高校進学らしいじゃないですか。これから入試も大変だ」

 神作真哉が横から永山に言った。

「気にするな。どうせ、ただの脅しだ」

 津田幹雄は再び時吉に顔を向けて言った。

「時吉先生、私はは、すべてお見せしましたよ。爆発現場から発見した物をね。ですから、少しはこちらの仕事にも協力してくれてもいいのではないですかね」

 時吉浩一は津田の目を見て言った。

「何を」

 津田幹雄は笑顔で答えた。

「永山さんの尋問ですよ。あなたも弁護士なら、自分の依頼人に、もう少し行政の調査に対して協力するよう説得して下さい」

 時吉浩一は警戒して、津田に尋ねた。

「何を訊きたいのです。何か質問事項があるのなら、今、この場でお願いしたい」

 津田幹雄は前を向き、永山の顔を見て穏やかに言った。

「いいでしょう。では、お尋ねします。永山さん……」

 津田幹雄の顔から笑みが消えた。彼は威圧的な目つきで永山をにらみながら、低く太い声で静かに言った。

「田爪健三から貰ったデータは何処だ」

 神作真哉が津田に言う。

「それは、あのバイオ・ドライブの中だろ。それをASKITの『刀傷の男』に盗まれたんだろうが、あんたらが」

 神作真哉は津田に激しく指先を向けた。

 津田幹雄は永山の顔から視線を外さない。彼は永山に更に質問した。

「永山さん、あんた、田爪博士の指示どおりにマシンを操作して飛ばしたんだな」

 永山哲也は津田の目を見て正直に答えた。

「機械操作は、そうです。しかし、僕は乗りませんでした。だから代わりに、自分の体重に見合う金属板を乗せたんです」

 津田幹雄は強くテーブルを叩いて声を荒げた。

「そんなことはどうでもいい。タイムマシンは、到着年月日と位置座標を指定して、コードの中に混ぜて打ち込むんだよ。だが、あんたの追加レポートの部分を聞く限り、その形跡が無い。つまり、到着日時と場所は事前に入力してあったんだ。だとすると、田爪健三は初めから二〇二五年の爆発の日に、あの時間に、あの場所に到着するように日時と座標をタイムマシンに入力していたと考えられる。それなのに、大事なデータが入ったバイオ・ドライブを、そのタイムマシンに乗せて送るように指示したというのか。爆発で消失すると知っていて。不自然だろう」

 神作真哉が永山を見た。永山哲也は黙っている。

 津田幹雄は更に永山を問い詰めた。

「君は、田爪博士から別の形でデータを受け取っているのではないかね。マシンに乗せて二〇二五年に送ったことにすれば、我々の追及からも逃れられる。君は別の形でデータを国内に持ち帰り、今もどこかに隠しているのではないかね」

 永山哲也は困惑した顔で言った。

「いや、そんなことは……」

 津田幹雄は永山の発言を遮って、彼を指差しながら言った。

「では何故、田爪博士がオフレコで話したデータの中身を、追加レポートという形でわざわざ記録に残したのかね。我々を欺くためじゃないのか」

 永山哲也は必死に反論した。

「違いますよ。僕は記者ですよ。事実を人々に知らせる責任がある。記録に残して本社に送信するのは、当然でしょう」

 津田幹雄は割れた顎を持ち上げて、胸を張った。

「では、私も言わせてもらおう。私は官吏だ。この国の未来を救う責任がある。国の未来を左右する科学データを、徹底的に手を尽くして回収しようとするのは、当然だろう!」

 津田幹雄は再度強く机を叩いた。

 神作真哉が口を挿んだ。

「テメエ、これまで自分がバイオ・ドライブ隠してきたことや、それが盗まれたという失態が明らかになりそうなんで、永山に擦り付けようとしているだけだろうが! みえみえなんだよ!」

 津田幹雄は神作を無視して永山をにらんだまま、執拗に尋ねた。

「データは何処だ。何処に隠している」

 永山哲也は声を大きくして答えた。

「どこにも隠していません。田爪博士は、あのドライブにデータを書き込んだと言っていました。それ以外には、何も受け取っていない」

 松田千春が津田の隣から永山を指差して言った。

「では、どうやって博士はデータを書き込んだというのかね。バイオ・ドライブはAB〇一八とだけしか接続できないのだぞ。生体コンピュータは、生体コンピュータとしか接続できんのだよ。しかも、DNAが適合する相手としか」

 時吉浩一が松田に尋ねた。

「DNA? どういうことです」

 佐藤雪子が答えた。

「あのバイオ・ドライブの人工神経細胞は、AB〇一八から採取した人工神経細胞を培養して、できているようですの。ですから、AB〇一八とは適合しますけど、他のバイオ・コンピュータでは拒絶反応が出て、接続できないはずですのよ。もちろん、仮に他のバイオ・コンピュータが存在すればの話ですけど」

 神作真哉が佐藤に言う。

「だけど、AB〇一八は、金属で出来たIMUTAと神経ケーブルで繋がっているじゃねえか」

 松田千春が神作に向けて人差し指を振りながら言った。

「それが、天才田爪健三の神業なんだよ。我々にも、その接続原理が分からんのだ」

 津田幹雄は、ずっと永山に視線を据えたままだった。

 彼は言った。

「その天才が、自分の研究データを爆心地に放り込むようなことをするはずがない。貴様に渡したバイオ・ドライブとは別に、データを格納した何かを渡しているはずだ。それを出すんだ。今すぐに」

 時吉浩一が津田をにらみながら言った。

「話をスラスラとして聞かせたのは、そういうことですか。私たちを帰すつもりは無いのですね」

 津田幹雄は、ようやく永山から視線を外した。彼は時吉の方に顔を向ける。

「まさか。先生のことだ、どうせ、手を打たれているのでしょう。ビルの外にも、神作さんのご夫人、いや、元ご夫人と、あのお嬢さんが待っているようですしな。ちゃんと外から情報が届いています。それに、こちらとしても、これ以上、事を大きくするつもりは無い。ただ、一つだけは、忘れないでもらいたい」

 津田幹雄は、時吉の顔を一段と強くにらみ付けて言った。

「私も、この件には本気でね。それだけは、よーくご理解いただきたい」

 時吉浩一は津田の目を見たまま椅子から立ち上がると、永山と神作に言った。

「帰りましょう」

 永山哲也と神作真哉も立ち上がった。三人は出口の方へと向かう。

 津田幹雄は、テーブルの上に残された焼け焦げたプラスチックの塊を見つめながら、大きな声で言った。

「盆明けまで待ちましょう。月曜日には回答を聞かせていただきたい。データは何処にあるのか。もし、ご回答いただけないようなら、この人形の件を世間に公表しましょう。あとは世論が判断してくれる」

 立ち止まって振り返った永山哲也は言った。

「お好きにどうぞ。その世論を信じて、僕らは仕事をしているんです」

 津田幹雄はテーブルの上に視線を向けたまま、笑みを浮かべて言う。

「さて、そこまで当てになりますかな」

 永山哲也は津田の横顔を見据えて、落ち着いた口調で言った。

「無い物は無いので、どうしようもありません」

 神作真哉が出口ドアの前で言った。

「もう行くぞ。永山」

 時吉浩一は両開きのドアの片方を開けて、神作と永山を先に外に出すと、ドアを閉める前に言った。

「彼の所有物は、今日中に僕の事務所に送り届けて下さい。もし、今日中に返却されない場合は、こちらも手続を執りますので。――では、失礼」

 時吉浩一は出て行った。

 ドアが閉まる。

 佐藤雪子が津田の方を向いて言った。

「立派でしたわ、長官。うまく行きましたわね」

 松田千春も津田の方を向いて言った。

「やはり、長官の読みどおりでしたな。現地に調査員を飛ばして、永山が購入したという土産品の情報を調べさせるとは、流石は長官。目の付け所が違う」

 佐藤雪子がテーブルの上に手を伸ばし、真新しい「エケコ人形ストラップ」の頭の上の紐を摘まんで持ち上げた。彼女は、指の下でクルクルと回っているエケコ人形を眺めながら言った。

「大量生産の人形ストラップですものね。同じ物なんて、いくらでもありますわ。彼が購入した物と同じ物を二体買って、一つを電子レンジでチンしただけなのに、この熔けた塊を見た時の、あの顔。ちょっと気の毒になってくるくらいでしたわね」

 津田幹雄は眼鏡を指先で持ち上げて、言った。

「いや、余計な情などを掛けている場合ではない。ここは正念場だ。何としても、永山に被ってもらわねば困る。ここで失敗すれば、一生宮仕えで終わりだ。いや、宮仕えすら終わる。このチャンスを逃すわけにはいかん」

 そして、松田の方を向いて言った。

「今の会話は、録画と録音が出来ているんだな」

 松田千春は頷いた。

「ええ。しっかりと」

 津田幹雄は満足そうな笑みを浮かべたが、すぐに眉間に皺を寄せ何かを考え始めた。

 松田千春と佐藤雪子は怪訝そうな顔で津田を見ている。

 津田幹雄は佐藤の方を向いた。

「その動画と音声は月曜日に、テレビ局に回せ。全国放送で流させるんだ。世論を信じているだの、戦争の被害者がどうだのと、正義漢ぶった部分はいらん。この人形を確認したくだりだけを流させろ。奴に世間からの非難の目を集中させるんだ」

 佐藤雪子は冷酷な笑みを浮かべながら頷いた。

「分かりましたわ。お任せ下さい」

 松田千春が言った。

「しかし、長官。もしかしたら、本当に別の形でデータを所持しているのかもしれませんよ。オリジナルのデータそのものか、あるいは、それをコピーしたデータを」

 津田幹雄は松田の方を向いて頷いた。

「うん。有りうる話だ。だからテレビ放送は月曜まで待てと言っているんだ。それに、私も奴らに話していて、これは有り得るなと思えてきたよ。まあ、バイオ・ドライブそのものが見つからんと私には意味がない訳だが、中身のデータのコピーがあるのなら、それも回収する必要がある。松田君、彼の荷物を返す前に、もう一度、中身を調べてみてくれないか。それらしい物が紛れ込んでいないか」

「分かりました。確認が終わりましたら、時吉弁護士の事務所に送ればよろしいので?」

「そうしてくれ。今、警察に入られては厄介だ。それに、何も見つからない場合は、それでいい。永山が自己の利益の為に、国益に資する重要情報を隠し持っていると世間に流布すれば、その逆をいく私に追い風が吹くというものだ。むしろ、その方がかえって都合がいいかもしれん」

「承知しました」

 松田千春は立ち上がって出口へと向かった。

 津田幹雄は椅子の背もたれに身を倒すと、宙を向いて笑みを浮かべた。

「よーし、いい流れだ。乗り切れるぞ。乗り切ってみせる。はははは」

 広い会議室に津田の笑い声が響き渡った。


 

                 6

 永山と神作が司時空庁ビルの前の階段を下りて来た。後ろから時吉も下りて来る。歩道の植え込みの横のベンチに腰を下ろしていた春木陽香と山野紀子は、立ち上がって階段の前まで移動し、二人を出迎えた。

 階段を下り終えた永山と神作に、春木陽香が声をかけた。

「あ、永山先輩、神作キャップ、お疲れ様でした」

 二人が春木に手を上げる。

 山野紀子が神作に言った。

「お疲れ様。どうだった」

 神作真哉が満足そうに笑みを浮かべながら答えた。

「ああ。話は聞けたよ。時吉先生の作戦勝ち。しかし、まあ、とにかく、色々と驚きだ」

 続いて時吉浩一が歩道の上に辿り着いた。

 春木陽香が声をかける。

「時吉先生、お疲れ様でした」

 時吉浩一は正直に答えた。

「うん。疲れました」

 山野紀子が尋ねる。

「先生、どうでした」

「こちらの予想した通りでした。やっぱり、出してきましたよ、エケコ人形ストラップ」

 時吉の答えを聞いた山野紀子は、階段の上を見上げながら言った。

「あちゃー。馬鹿な連中ねえ。司時空庁の職員が南米のプレスセンターで、哲ちゃんが購入したお土産品について訊きまわった挙句に、『エケコ人形』のストラップを二個買って帰ったって情報くらい、こっちには入っているのにねえ。記者仲間の情報網をナメてるのかしら」

 山野紀子は階段の上に向かって中指を立てた。

 その指を神作真哉が右手で掴んで下ろし、歩き出しながら言う。

「行くぞ。上からも監視されてるみたいだからな」

 山野紀子は下唇を突き出して神作の後を追った。永山と春木も歩き出す。

 永山の横を歩いている時吉浩一が、永山の顔を見て確認した。

「実際には、違うんですよね」

 永山哲也は眉を寄せて答えた。

「当たり前じゃないですか。タイムマシンに乗せる物は、事前に厳密な質量計算をして、その数値を機体に入力しないといけないんですよ。ストラップ一つで変わる可能性だってありますからね。何でもかんでも、ホイホイ乗せたりしないですよ」

 心配性の永山らしい答えに、時吉の横を歩いていた神作がニヤリと笑った。

 時吉浩一は、もう一度尋ねる。

「でも、自分が乗らない分の重量の補充を、よく正確にできましたね」

 永山哲也は頷いてから説明した。

「あの金属板、建屋の隅に積んである所に『26lb』って書かれた紙が挿んであったんですよ。つまり二十六ポンド。常用ポンドだとすると、一ポンドは四五三.六グラムだから、二十六ポンドということは、一枚あたり約十二キロで切り揃えてあったんです。前日の夜に量った僕の体重が七十一キログラムジャストで、念のため、出かける前に量った体重が、〇.三キロの減。つまり、金属板を六枚乗せて、だいたいピッタリな訳です。実際には、誤差二百五十グラム以内にしろって田爪博士に言われていたので、あの狭い機体の中で計算するのが大変だったんですから。妙に細かい加算値も指示されていましたし。あの場で必死に電卓で計算して……」

 山野紀子が神作の前に顔を出して永山を見ながら尋ねた。

「電卓を持って行ってたの」

 永山哲也は時吉の前に顔を出して、山野を見ながら答えた。

「前日に博士から貰ったメモには、コンマ五桁までの数字が並んでたんですよ。それを足したり、引いたり。電卓を持参しない訳がないでしょ」

 隣で春木陽香が首を傾げながら呟く。

「そんな細かい数字、田爪博士はどうして分かったんだろ。司時空庁のタイムマシンに乗る人は、待機施設に何日も宿泊して、いろんな測定をするのに……」

 神作真哉が時吉の横から顔を覗かせて、永山に尋ねた。

「じゃあ、あのレポートの最後のほうの『記念に』って、なんだったんだよ」

 永山哲也は時吉の顔の前に手を上げた。

「これですよ」

 人差し指を立てて、手首から先をグリグリと回してみせる。

 永山の隣から春木陽香が尋ねた。

「何ですか、それ」

 永山哲也は春木の方に顔を向けて答えた。

「あのタイムマシンの中にあったドライバー。僕がエネルギー・パックの接続とかする時に使ったやつ。きっと、田爪博士が中に置き忘れたものだ。これを、中から外に出したんだよ。いろんな意味で、『記念』の品だろ」

 神作真哉が言った。

「なんだ。おまえ、何かを乗せたんじゃなくて、降ろしたのか」

 永山哲也は春木と反対側に顔を向けて、時吉の向こうの神作に答えた。

「はい。ICレコーダーの重さと、田爪博士に言われた想定誤差を考えると、金属性のドライバー一本分の重量は大きいですからね。外に出しました」

 時吉浩一が隣の永山に言った。

「そのドライバーは、荷物の中に紛れているんですね」

 永山哲也は頷いた。

「ええ。スーツケースの中に突っ込んだままです」

 神作真哉はポケットに入れた右手を強く握りながら、言った。

「津田の野郎、くだらない小細工をしやがって。何が『エケコ人形』だ」

 その隣から山野紀子が言う。

「でも、哲ちゃん、あの『エケコ人形』のストラップは、実際にプレスセンターの土産物店で買ったんでしょ」

 永山哲也が答える。

「はい。でも、皆さんの分のお土産とまとめて、先に空輸で送ってもらったんです。お菓子とか、ワインとか。――届きましたよね」

 山野紀子は首を縦に振って答えた。

「うん、哲ちゃんが空港で拘束された次の日には届いたけど、入ってなかったわよ。『エケコ人形』ストラップ」

 春木陽香がポケットから取り出した小さな人形を皆に見せて言った。

「あ、ちゃんと貰いました。これです」

 永山哲也が春木の指の先でぶら下がっている「エケコ人形ストラップ」を指差しながら言った。

「これは、ハルハルにだけ特別にね。幸せを呼ぶ『お守り』の人形らしいから。こんな立派な物を貰っちゃったのに、そんな安物で申し訳ないけど」

 永山哲也は左腕にはめた腕時計を春木に見せた。

 春木陽香は少し頬を赤くして、下を向いて答える。

「いえ、あの、嬉しいです。大事にします」

 時吉浩一は永山越しに春木を不思議そうな目で見て、首を傾げた。

 山野紀子が呆れたように言った。

「なーんだ、ハルハルにだけだったの。そういうことね」

 永山哲也が前に頭を出して横を向き、山野に言った。

「ノンさんにはチリワインを送ったじゃないですか」

 時吉浩一が話題を変えた。

「しかし、津田長官は何がなんでも、爆発の原因を永山さんに押し付ける気ですね」

 神作真哉も険しい顔をして言う。

「こんな小細工をしてくるとはなあ。どうする、永山」

 永山哲也は、ほくそ笑みながら答えた。

「とりあえず、反撃はします。『エケコ人形』ストラップの支払いには、マネーカードを使用しましたから、取引履歴が決済会社に残っているはずです。つまり、僕がそれを買ったという事実と日時は、証明できます。あとは、空輸業者と税関の方で確認が取れれば、その『エケコ人形ストラップ』が別の空輸で日本に運ばれて、今はハルハルの手許にあるということは証明できる。つまり、津田長官の捏造行為を証明できる。と思いますが、どうでしょう、先生」

 永山哲也は横の時吉の顔を伺う。

 時吉浩一は頷いた。

「ええ。あとは、プレスセンターから情報をくれた記者仲間の方の証言が揃えば、完璧だと思います。ただ、あなたが送ったタイムマシンが原因で二〇二五年の大爆発が起こったという疑惑の払拭にはならない」

 永山哲也は真顔に戻して言った。

「分かっています。でも、おそらく、その点は事実だろうと思います。相応の責任は取る覚悟でいます」

 神作真哉が時吉越しに永山に言った。

「永山、おまえ、馬鹿なことを考えてるんじゃないだろうな」

 山野紀子が神作の前に頭を出して言う。

「そうよ。ちゃんと闘って、自分に責任は無いということを証明しなきゃ。私たちも手伝うから」

 永山哲也は軽く頭を下げた。

「ありがとうございます。ですが、それとこれは別です。あのタイムマシンを過去に送ったのは、確かに僕です。さっきの津田長官の話を聞くまでは、正直、半信半疑でしたが、あの話が事実なら、僕が送ったマシンが原因で爆発が起きたと言わざるを得ない。マシンに金属板を乗せたのも、僕です。あの文面が刻まれた金属板ではなく、他の金属板を乗せていれば、戦争は起こらなかったかもしれません。爆発の事実も、発見された金属板に刻まれていた文言も、知っていたはずなのに。行動が浅はかでした。記者失格です」

「永山先輩……」

 春木陽香は隣から永山の顔を見上げた。永山の表情は深く沈んだものだった。彼は記者を辞める覚悟でいる。春木陽香は、そう思った。

 神作真哉が言う。

「十年も前の報道じゃねえか。文言を正確に覚えていなくて当然だし、だいたい、あの当時に報道された文言は日本語に訳されたものだっただろ。違訳されたものも多かった。金属板に刻まれたポルトガル語の文面を見て、十年前の事件と結びつかなかったとしても、あの状況では仕方ねえよ」

 時吉浩一が熱心に説得する。

「問題は、証拠です。二〇二五年に到達したのが、あなたが送ったタイムマシンだったという証拠は、何一つ無いんですよ。金属板なんてものは、いくらでも準備できますし、加工もできます。対核熱反応金属自体、今では珍しい物ではない。つまり、証拠としての信憑性が無いんです。タイムマシンの残骸も、津田長官の話では、ほとんど原型を復元できる程度の物ではないらしい。とするならば、残りはバイオ・ドライブです。奪われたバイオ・ドライブを見つけ出し、それに、あなたが追加レポートで述べていた内容のデータが入っていれば、あれはあなたが送ったマシンだと一応の証明にはなると思いますが、彼らの手許にはそのバイオ・ドライブが無く、それを奪取したASKITの所在も掴めない以上、その証明はできない。だから、あのように証拠の捏造をする必要があったのですよ。だいたい考えてみて下さい。十年間も司時空庁は毎月タイムマシンを送り続けてきたのですよ。そのうち一台が二〇二五年に飛んでいたとしても、確率論的には不思議ではないでしょう。私は、闘う方法はいくらでも有ると思いますよ。諦めるのは、まだ早い」

 春木陽香が永山に尋ねた。

「ということは、やっぱり、あれ、バイオ・ドライブだったんですか」

 神作真哉が永山の後ろから答えた。

「ああ、そうみたいだ。時吉先生のトラップに、津田はまんまと引っ掛かったよ。あっさり説明してくれた。だがな、そのバイオ・ドライブはASKITに奪われたらしい。例のほら、お前を襲った『刀傷の男』に」

 山野紀子が神作の横から大きな声を出した。

「ええ! あの男、ASKITだったの?」

 神作真哉は右手の小指を耳に入れて、顔をしかめながら言った。

「声がでけえよ。――ああ。かなり凄腕の仕事屋みたいだ。ハルハルが助かったのは、ホントに運がよかったよ」

 春木陽香は言った。

「はあ……」

 時吉浩一は春木を不思議そうに一瞥すると、神作の方に顔を向けて言った。

「ですが、津田長官の指摘は、もっともなんですよ。どうして田爪健三はバイオ・ドライブをタイムマシンに乗せさせたのでしょう。何らかの原因であの場所であの日時に爆発が起きて、結果として、そのドライブは消失すると分かっていながら。しかも例の研究データを書き込んだ方法も不明」

 神作真哉は右手で顎を掻きながら言った。

「もしかしたら、本当に、どこか別の場所にデータが存在するのかもしれんなあ。永山に渡したバイオ・ドライブは、本当は空っぽで、データ自体は別の場所に保存されているとか」

 永山哲也がボソリと言う。

「僕は本当に持ってませんよ」

 神作真哉が笑いながら答える。

「分かってるよ」

 時吉浩一は更なる疑問を投じた。

「それに、そもそも田爪健三はどうやってバイオ・ドライブを南米に持ち込んだのか」

 永山哲也が神作の顔を見ながら言った。

「第二実験で飛び立つ時に、機内に持ち込んでいたのでしょうか」

 時吉浩一が首を傾げながら言う。

「だとしたら、何故そんなことを。計画では、一年前に飛ぶだけだった訳ですよね。護身のために量子銃を持ち込んだという話は理解できるとしても、空のバイオ・ドライブを過去に運ぼうとして、しかも、たった一年前に運ぼうとして、何の意味があったのか。実に疑問が残る点ですね」

「空じゃないですよね……」

 春木陽香がそう言って、反対側の山野を覗いた。

 山野紀子は頷くと、隣の神作に顔を向ける。

「私たち、二〇二一年の仮想空間での転送実験についても、いろいろ調べてみたのよ。あの時はまだIMUTAは外部とは接続されていなかったし、AB〇一八はそもそもIMUTAとしか接続されていない。つまりSAI五KTシステム全体も外界からはスタンドアロンの状態だったわけ。で、その中に仮想空間を構築したわけだけど、どうもタイムトラベルに必要な情報は、書き加えたんじゃないかと思うのよ」

 手を一振りしてそう言った山野に怪訝そうな顔を向けて、神作真哉が聞き返した。

「あとから書き加えた?」

 山野紀子は続けた。

「うん、だってね、コンピュータの中に現実世界と寸分違わぬ仮想空間を正確に構築するとしたら、その作業に、相当に時間がかかったはずよ。どう考えても、入力するデータ量は半端ないじゃない。そこに、難解で複雑な論理のタイムトラベルを仮想化したデータを混ぜてたら、仕事が終わんないでしょ。だから、実験の正確性を高めるという意味でも、仮想空間が完成するまでの間は、余計な情報、つまり、タイムトラベルのための情報はそこから切り離して、別の場所に一時保管されていたのではないかしら。田爪博士が哲ちゃんのインタビューで話していた、実験の際にドライブからインポートした帆船模型のデータって、きっとそれのことでしょ」

 神作真哉がギプスをした左手で顎を掻きながら言う。

「なるほど。あれは比喩か。そうだとすると、タイムトラベルの神髄となる情報が入力されたまま、残っていた可能性もあるわけだな」

 険しい顔で歩いていた永山哲也が、急に首を横に振った。

「いいや、きっと残っていたんですよ。津田長官が言っていたとおり、バイオ・ドライブがAB〇一八と同じ原理で作られたミニチュア版の簡易型AB〇一八だとすると、きっとそれは、『記憶されたことを絶対に忘れないドライブ』なのでしょうからね。一度書き込まれた情報は必ず残っていたはずです」

「でも、それって仮想空間実験用のデータですよね。しかも、田爪博士が飛んだ『第二実験』当時は、既に古いデータとなっている。そんなものを『第一実験』が実施された一年前に持ち込んで、意味がありますかね。第一実験の当時にも既に存在する情報なのに」

 時吉浩一は納得いかない様子だった。

 トコトコと永山の隣を歩きながら会話を聞いていた春木陽香は、少し考えた。そして、端から遠慮気味に意見を述べた。

「瑠香さん……やっぱり、田爪瑠香さんじゃないでしょうか」

 神作真哉が前に頭を出して、春木の方を見た。

「田爪瑠香?」

 春木陽香が頷く。

「はい。私が、あの豪華な待機施設で瑠香さんに会った時、瑠香さんは、花束の他に、アタッシュケースのような物も持っていました。もしかしたら、あの中にバイオ・ドライブが入っていたのかもしれません」

 永山哲也は額を指先で掻きながら言った。

「なるほど。有り得ますね。だけど、そうだとしても、田爪博士はAB〇一八が無い南米の地下で、どうやってバイオ・ドライブにデータを書き込んだのか……」

 山野紀子が尋ねた。

「じゃあ、やっぱり、ドライブに追加情報は入っていなかったということ?」

 神作真哉が隣の山野の顔を見て言った。

「なんか、その可能性が高いように思えてきたな」

 永山哲也は首を傾げる。春木陽香も同じ向きに首を傾げた。

 時吉浩一が言う。

「ですが、その追加データが何処にあるにせよ、それによって永山さんへの責任転嫁が止むわけではない。『エケコ人形』の件は論破できるとして、問題のバイオ・ドライブも彼らの手中には無いのだとしたら、二〇二五年の爆発現場に現われたタイムマシンが、永山さんが送ったマシンであるということを連中は証明できないわけです。だから、恐い」

 山野紀子が怪訝な顔で時吉に尋ねる。

「証明できないのに、どうして恐いんです?」

 神作真哉が答えた。

「また、この『エケコ人形』みたいな捏造行為をやりかねないってことさ。津田も言っていたが、世論と言うのは、結構、騙されるからな」

 時吉浩一が真剣な顔で言った。

「できるなら、これから先、いらぬ不実を流布されるような事態は避けたいですよね」

 山野紀子が、また尋ねた。

「彼らの口を封じるということ?」

 時吉浩一が答える。

「そうです。それには、世界中が狙っている田爪博士の研究データをこちらが先に入手して、全てを明らかにする。これしかないでしょう。我々が例の研究データを先に入手してしまえば、津田長官は戦う理由を失う。つまり、永山さんや、あなた方を陥れるようなことはしなくなります。ま、できなくなるでしょうが」

 時吉浩一は空を見上げて片笑んだ。

 神作真哉が頷きながら言った。

「なるほど。敵の戦意と戦力を消失させるってわけかあ」

 時吉浩一も頷いて言った。

「平たく言えば、そういうことです」

 山野紀子も同調して言う。

「そうよね。記者としても、あの最先端の研究データの所在を追う事が先決よね。ねえ、ハルハル」

 三人の男たちを挟んで、端から春木陽香が反対側の山野に返事と質問をした。

「ええ。でも、どうやって探すんですか。バイオ・ドライブはASKITって人たちに奪われたのですよね」

 時吉浩一は春木を見て言った。

「ですから、データがそのバイオ・ドライブに入っていたとは限らないわけですよ」

 神作真哉は立ち止まった。他の四人も立ち止まる。神作真哉は言った。

「よし。じゃあ、こうしよう。永山とハルハルは、データが別の形で保管されたと仮定して、そのデータの行方を追ってくれ。俺と紀子は、ASKITを追う」

「はい!」

 春木陽香は、嬉しそうに張りのある返事をした。

 山野紀子が両肘を抱えて不安な顔を見せる。

「見つかるかしら。ASKITは世界中の政府機関が探しているのよ。その正体も掴めていないのに」

 神作真哉が山野の顔を見て言う。

「いや。もし、データが本当に別の場所に保管されているのだとしたら、ASKITもそれを探しているはずだ。津田は、永山が隠しているんじゃないかという点については、半信半疑という感じだった。つまり、こっちの手許にデータがある可能性も考慮しているかもしれん。それはきっとASKITも同じだろう。もしかしたら、『鴨が葱背負って』どころか、謎の国際秘密結社がからのバイオ・ドライブを背負って訪ねてくるかもしれんぞ」

 「そんなバカな」

 山野紀子は顔の前で手を振った。

 神作真哉は永山の方に顔を向けて言った。

「ああ、そうだ。永山、おまえ、家の修理は終わったのか。玄関ドアやら窓ガラスやら、門柱なんかを派手にやられたんだろ」

 永山哲也は頷いて答えた。

「ええ。今頃、業者が来て工事してくれているはずです。はあ、いったい幾ら掛かることやら……」

 項垂れた永山に、山野紀子が言う。

「そんなものは国に弁償してもらえばいいじゃない。壊して突入してきたのは司時空庁のSTS隊員なんでしょ」

 永山哲也は顔を上げて言った。

「いや、防具の色が青でしたから、あれがSTSの連中なのかは不明なんですが、仮にSTSだとしても、あの武装していた連中は軍からの派遣人員じゃないですか。でも、その国防軍は知らんふりなんですよ。そうなんですよね」

 永山哲也は時吉の方を向いた。

「ええ。こちらからの問い合わせにも、司時空庁はそう答えていますね。さっき津田長官も、STS部隊は軍から出向した兵士で賄っていると言っていました。ですが、昨夜の事件については、軍は関与を否定しています。単純に例のとおり、お役所間の責任の押し付け合いというヤツなら、話は分かるんですが、どうも……」

 少し怪訝な顔をして目を伏せた時吉は、そのまま首を傾げた。そしてすぐに顔を上げて永山に言った。

「ま、とにかく、国家公務員が職務遂行中に破壊した点は争わないようですから、損失の補償はされるはずです。ですから、工事費等については心配されなくても大丈夫ですよ」

 神作真哉は聞き漏らさなかった。彼は時吉に尋ねた。

「争わないとは?」

「今朝、総理府の方から私の事務所に連絡がありました。請求書を送ってくれと」

 永山哲也が聞き返す。

「総理府?」

「ええ。国としても、訴訟や刑事事件にされることを避けたいようですね。軍も司時空庁も、自分たちが『真夏のメヌエット』のワンシーンを事件と勘違いするミスを犯したと、他の機関に知られたくないのでしょう。役所同士の面子もあるでしょうが、しかし……」

 時吉浩一は再び口を濁した。

 山野紀子が尋ねる。

「何か、気になることでも?」

「私の個人的な感想ですが、どうも、司時空庁と軍の連絡が上手くいっていないように思えるのですよ。それで、間を取り持つために総理府が出てきた。私には、どうもそう感じられて」

 山野紀子は、怪訝な顔をしている永山に手を振って言った。

「どこであれ、弁償はしてくれるってことでしょ。良かったじゃない、哲ちゃん」

 時吉浩一も永山の顔を見て、一応、言った。

「結論としては、そうですね。補修費は国として全額無条件で支払うということです」

 神作真哉がニヤリとして言う。

「飛び切り上等の玄関ドアと交換してもらえ」

「ウチには似合いませんよ」

 永山哲也は口を尖らせた。神作真哉は笑った。

 山野紀子が言う。

「でも、それなら哲ちゃん、早く帰らなきゃ。祥子さんだけで、玄関や二階の工事をしている業者さんたちに対応するのは大変でしょう」

「まあ、そうでしょうけど……」

 永山哲也は、自分の件で奔走してくれた同僚や弁護士に申し訳無さそうに逡巡した。

 神作真哉が真顔で言う。

「とにかく、今日からは盆休みだ。永山、おまえは少し休め」

 永山哲也は先輩の神作に言った。

「もう十分に休みましたよ。体が鈍っているくらいです。ようやく働けるって言うのに、休んでなんかいられませんよ」

 神作真哉は首を横に振った。

「いや、せっかくこうして司時空庁に釘を刺すことが出来たんだ。これでもう、おまえが再度拘束されることは無い。帰ってやらないと、祥子さんも大変じゃないか。それに、これだけ大きく報道されたんだ。みんな心配しているだろう。盆休みくらい帰省して、実家の御母さんを安心させてやれ。それも責任って奴だろ」

 そして山野の顔を見て言った。

「紀子、おまえもそうしろ。実家の御義父さん御義母さんに、たまには朝美の顔を見せてやらないと」

 山野紀子が驚いた顔で答えた。

「え、私も? 真ちゃんはどうするのよ」

 神作真哉は軽く時吉の方に頭を傾けて言った。

「俺は先生と、『エケコ人形』について先手を打つ。ね、先生」

 時吉浩一は頷いた。

「そうですね。早いほうがいい」

 永山哲也が言う。

「じゃあ、僕も手伝います。ていうか、僕のことですし」

 神作真哉は顔をしかめて言った。

「いいから、おまえは帰省しろ。自宅周辺から司時空庁職員が居なくなったことを俺たちの同業者に気付かれたら、今度は連中の取材攻撃で外に出られなくなるぞ。それに、夏休みなのに由紀ちゃんもずっと家の中だったんだ。かわいそうだろ。気分転換させてやれ」

 時吉浩一は永山に笑顔を見せて言った。

「後は私の方で全てやっておきますから。それに証明資料も、どうせ盆休み明けじゃないと請求できないでしょうし」

 神作真哉が首を縦に振って言った。

「そういうことだ」

 山野紀子は神作の顔をじっと見ていたが、頭を前に出して反対側の春木に言った。

「ハルハルも帰省しなさい。あんたも少し休まないと、また倒れるわよ」

「はあ……でも……」

 春木陽香は下を向いて考えた。そして、顔を上げると言った。

「私、実家は、今借りている部屋とはすぐ近くなんです。同じもと区内ですから、普段からしょっちゅう帰ってますし、別に今帰らなくても……」

 山野紀子が顎に人差し指を当てて言った。

「旧市街の? そうだったっけ。素区の何処なの?」

「中堂園町です。母方の実家がクリーニング店をしていて、今は両親ともそこに」

 永山哲也が春木の顔を見て言った。

「ああ、前に千佳ちゃんが取材した」

 春木陽香は首を縦に何度も振って答えた。

「はい、そうです。祖母は喜んでいました」

 神作真哉が真剣な顔で春木に言った。

「まあ、いくら目と鼻の先でも、実家は実家だ。盆なんだから、ちゃんと顔を出せ」

 その口調に押されて、春木陽香は返事をした。

「はあ……。じゃあ、そうします」

 少し寂し気な顔をした春木陽香は、下を向いて小声で呟いた。

「でも、なんか皆さん、帰省する田舎があるって、いいですね。……はあ」

 肩を落としてトボトボと先に歩いてく春木の小さな背中を、先輩たちは不思議そうな顔で眺めていた。



                  7

 夕方の旧市街。その中のもと区の中心商業区域・中堂園なかどうぞの町の外れに、老舗の小さなクリーニング店「九畳くじょうクリーニング」がある。名前の通り九畳ほどの広さの店内は、引き戸式のガラス戸のすぐ前に小さなカウンターがあるだけの質素な作りだ。木製の古いカウンターの向こうには、ビニールに包まれた衣類が綺麗に並べて吊るされていて、その前にピンク色の半袖Tシャツを着た小さな老女が腰を曲げてチョコンと座っている。カウンターの前の客用の椅子には、季節外れのトレンチコートを着て、頭に古めかしいハットを被った大柄な男が座っていた。彼は背中を丸めてカウンターの上に身を乗り出し、その上に広げた背広の端を持って、身振り手振りを交えて老女に話しかけていた。

 男の背後のガラス戸が横に開いた。春木陽香が顔を覗かせる。

「ただいまあ……って、お客さんか」

 トレンチコートの男は陽香に顔を向けることも無く、目の前の老女に必死に話しかけている。

「だからな、ミチル婆さん。この上着の、ここの釦が取れちゃったんだよ。これを、ここに付けて欲しいわけ」

 男は手に持った釦をジャケットの上に置いて、縫い付けるべき位置を示した。

 カウンターの向こうのミチル婆さんは、小さな体から高い大きな声を出して答える。

「あいよ。分かったよ。この釦を付けとけばいいんだね。お安い御用だよ」

「頼むぜ。この前みたいに、気を利かせて金ピカの釦にしなくてもいいからな。気持ちは有り難いけど、あれは礼服だから、あれじゃ他人様の葬儀とかに出られないだろ」

 ミチル婆さんは、それまで細く伸びていた目を大きく丸く見開いて言う。

「あたしゃ、まだ死んじゃいないよ。失礼な子だね!」

 トレンチコートの男が宥めるように言った。

「いや、婆さんには長生きして欲しいと思ってるよ。他人の葬式の話をしてるんだ。ああ、婆さんも他人か……。まあ、とにかく、釦の方を頼むよ」

 ミチル婆さんはカウンターの下を覗きながら言う。

「ん? どのボタンを押せばいいんだい。近頃の機械は、分からないからねえ」

 男は慌てた。

「いや、違う。釦だ、釦。この上着の釦だよ」

「ほえー。近頃の機械は、こんなにピロピロかい。何でも薄型が流行るねえ。どのボタンを押すんだい」

「だからな、これは衣類だよ。ボタンは付いてない。とれた釦を付けて欲しいの」

「そうさねえ。やっぱり、お盆には牡丹餅だねえ」

 トレンチコートの男は急旋回した会話に焦り、慌てて軌道修正する。

「違う、違う。ぼ、た、ん。それにお盆は御萩じゃなかったっけ。ん? どっちだったかな……」

「あたしゃ、まだ禿げちゃいないよ。髪はツヤツヤさ。肌もプルプルだよ」

 話がアクロバット飛行を始めた。どうやら軌道修正には失敗したようだ。トレンチコートの男は冷静に操縦桿を立て直そうとした。

「そうだな。ミチル婆さんは、いつ見ても元気そうだ。よかった、よかった」

「あいよ。あたしゃ、元気だよ。それで、今日は何の用だい?」

 トレンチコートの男はハットを押さえて下を向き、呟いた。

「リトライか。――よし」

 男は顔を上げて話し始めた。

「あのな、ミチル婆さん。ここの釦が取れて……」

 陽香が口を挿んだ。

「あの……釦を付けておけばいいんですよね」

 トレンチコートの男は陽香には顔を向けずに言った。

「今、取り込み中だ。事件の依頼の話は後にしてくれ。――それでな、この釦を、ここにだな……」

「私、この家の者なんですけど、よかったら私から伝えてきましょうか。お婆ちゃん、耳が遠いので」

「あら、ハルちゃん。どこから湧いて出たんだろうね、この子は」

「そこの入り口からだ。それでな……」

「お婆ちゃん、このお客さん、スーツの上着から取れた釦を付けて欲しいみたい」

「なんだい、そうなのかい。とれた釦を付けるだけかい。早く言いなよ。回りくどい男だねえ。どれ、貸してみな」

 ミチル婆さんが上着を取り上げる。

 トレンチコートの男はカウンターから体を離して言った。

「さっきから、そう言っていると思うが……いや、俺の勘違いかもな。じゃあ、来週でも取りに……」

「終わったよ。ほらよ」

 ミチル婆さんは男が持ち込んだ背広をカウンターの上に放り投げた。

 トレンチコートの男が背広に飛びつくように、カウンターの上に身を屈める。

「おお! もう終わったのか。手品師か、婆さん」

「あいよ。あたしゃ元気だよ」

 陽香は自慢して言った。

「ウチのお婆ちゃん、腕は確かなので」

 背広の上着を持ったまま立ち上がったトレンチコートの男は、しっかりと付いている釦を顔に近づけたり、軽く引っ張ったりしながら、ハットを乗せた頭をひょいと下げてガラス戸の鴨居をくぐり、帰っていった。

「あれ? 今の人、お金は?」

「いつものことだよ。貧乏探偵だからねえ。釦は『からかい賃』だよっと」

 ミチル婆さんは、ピョンと椅子から飛び降りた。直角に曲がった腰の前に上身を突き出して、両手を後ろに立ててバランスを取りながら、店の奥へと歩いて行く。上がり口への扉を開けると、中に向かって高い声で叫んだ。

あかねやあ。クラークさん。ハルちゃんだよ。帰ってきたよ」

 陽香はそこから家の中に上がりながら言った。

「大袈裟だなあ。先週も帰ってきたじゃん」

 ミチル婆さんも家の中に上がり、再び大きな声を出す。

「クラークさん、居ないのかい?」

 ドタドタとした足音と共に、陽香の父・春木はるき健人けんとが二階から急いで下りて来た。

「はーい、居ます、居ます。俺は健人けんとなんですけどね。娘の旦那の名前くらい、覚えて下さいよ。――おお、陽香。どうした」

「どうしたって、お盆じゃない。実家に帰ったっていいでしょ」

 健人はキョトンとした顔をしていたが、すぐに嬉しそうに言った。

「そうか、そうか。――あ、スイカがあるんだ。食うか。天然物だぞ」

「ホント? 食べる、食べる」

 ミチル婆さんが陽香を叱る。

「こりゃ。盆に帰ってきて、仏壇に線香も無しか。それにの、女は実家に帰ったら、まずは挨拶じゃ。そんな決まりの悪いことじゃ、駄目ぞなもし」

 暖簾を左右に開けて、陽香の母・春木はるきあかねが台所から顔を覗かせた。

「あら、陽香。帰ってたの。お婆ちゃんに挨拶した?」

 陽香は頬を膨らませて言う。

「しました」

 奥の部屋に歩いて行くミチル婆さんが、両手を後ろに立てたまま振り向いて言う。

「上座あで、待っとるけえのお。はよう、せえよ」

 茜が陽香のお尻を叩いて言った。

「なに、ボーっと立ってるのよ。ほら、仏壇に手を合わせて、早く行きなさい。お婆ちゃんも忙しいんだから。――あなたあ、迎え火の支度は出来たの?」

 仏間へと移動した陽香は、口を尖らせて仏壇の前に座ると、蝋燭に火を点した。静かに立った炎の上に線香の先を近づける。炎を分け取った線香を蝋燭から離すと、反対の手で扇いで、踊る火を鎮めた。先端を朱色に輝かせ白煙を細く伸ばす線香を器の中の灰に挿した陽香は、りんを小さく鳴らすと、仏前に手を合わせた。りんの響音が線香の香りと共に室内に広がる。

 手で扇いで蝋燭の炎を消した陽香は、立ち上がり、隣の和室へと移動した。八畳の和室には何も置かれていない。書院造の床を背にして、上座に置かれた分厚い座布団の上にミチル婆さんが正座している。

 陽香はミチル婆さんの前に正座すると、畳の上に三つ指をついて、頭を下げながら言った。

「おばあちゃん、ただいま戻りました」

「やり直し」

 ミチル婆さんが厳しい顔で言う。

 陽香は少し口を尖らせて、改めて挨拶し直した。

「ご無沙汰しておりました。お婆様に於かれましては、お元気そうで、何よりでございます」

 ミチル婆さんは目を瞑ったまま首を横に振った。

「うんにゃ、駄目じゃ。もう一度」

 陽香は一度咳払いしてから、挨拶しなおした。

「お久しゅうございます。暑さ厳しい折がら、御祖母君に於かれましては、お変わりなくお過ごしのことと存じ、安心いたしました。今後とも、ますますのご健康とご長寿をお祈り申し上げております」

 ミチル婆さんは目を瞑ったまま、動かずに言う。

「もう一声」

「本日はお日柄もよく、祖母様に於かれしては、健やかにお過ごしのことと存じ、まことに嬉しく……」

 ミチル婆さんは目を瞑ったままである。

「ズズズ……」

 ミチル婆さんに言わせれば、いびきは返事の一つだ。陽香は文句を言わない。その代わり、いつものように、ミチル婆さんに大声で聞かせた。

「ええ、寿限無、寿限無、五劫のすり切れ、海砂利水魚の水行末、雲行末、風来末、食う寝る所に住む所、やぶら小路ぶら小路、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピー……」

 パッと目を開けるミチル婆さん。厳しい目で陽香をにらみ付ける。生唾を飲む陽香。

 ミチル婆さんは言った。

「よし。そんなものじゃろう。いいぞよ」

 座布団からひょいとジャンプして立ち上がったミチル婆さんは、皺だらけの笑顔で陽香に言った。

「スイカ食べるかい」

 陽香は笑顔で頷いた。

「うん」

「『はい』じゃ、バカタレ」

 陽香は首を竦めて言い直した。

「はい」

 居間から茜の声がした。

「ほら、お母さん、陽香、スイカを切ったわよ。その前に迎え火を焚くから、早く」

「はーい」

 返事をした陽香は、玄関へと向かった。横をミチル婆さんがヨタヨタと歩く。

「年寄りを急がせるじゃねえだよ。まったく……」

「ゆっくりでいいよ、お婆ちゃん。転んで怪我したら大変だから」

「そうだね。盆に怪我したら、なかなか治らんて言うからね」

「そうなんだ」

「あイタっ」

 ミチル婆さんは四角い柱に正面からぶつかった。鈍い音がした。 

「お婆ちゃん、大丈夫」

 額を柱につけたままのミチル婆さんは、腰を直角に曲げて『直立』したまま動かない。

「お婆……ちゃん?」

 陽香がそう呼びかけたと同時に、ミチル婆さんは柱に額を押し付けて倚り懸ったまま、後ろに翼のように立てていた両手をダラリと下に垂らした。

 ミチル婆さんは、そのままピクリとも動かない。

 和室から線香の匂いが漂ってくる。

 焦った陽香が叫んだ。

「お婆ちゃん! 父さん、お婆ちゃんが! 母さん!」

 健人が駆けて来た。ミチル婆さんに駆け寄り、叫ぶ。

「お義母さん! おい茜、お義母さんが、ウプッ……」

 健人は鳩尾を押さえて、その場にうずくまった。

 顔を上げたミチル婆さんは、健人に打ち込んだ拳を振りながら言った。

「他人の大事な娘を呼び捨てにしおって。今度やったら、聞かせんど。クラーク!」

 そして、ミチル婆さんは腰を曲げたまま、ブツブツ言いながら玄関に歩いていった。

「スイカ、スイカと……ん、ああ、『迎え火』じゃったの。ええと、火焚き、火焚き、火焚きと。火焚き、火焚き……」

 腹を押さえながら苦悶の表情を浮かべて立ち上がった健人は、柱に手をついて呟いた。

「俺は……『健人けんと』なんだが……」

 陽香が心配そうな顔で言った。

「父さんも大変だね」

「まあ、こんなもんだろ。おまえも、俺みたいな心の広い男を見つけろよ」

「額は広くなったよね」

「そうかあ。そうかな……」

 健人は自分の頭を撫でた。確かに薄くなっている。陽香がくすっと笑った。

 玄関から戻って来たミチル婆さんが、またブツブツ言いながら陽香たちの前を通り過ぎていった。なぜか後ろ向きに歩いている。

「焚き火、焚き火、焚き火……」

 顔を見合わせる陽香と健人。

 健人が玄関の方を指差して言った。

「陽香、早く見て来い!」

 陽香は玄関に走っていった。

 健人は慌ててミチル婆さんを追いかける。

 お玉を握ったエプロン姿の茜がやって来た。

「もう、何やってるの、みんな。迎え火は焚き終わったの? お煮しめが出来たから、先に夕飯に……」

 線香の煙がやけに濃い。白煙が廊下から漂ってくる。その先の玄関から陽香の声が響いた。

「母さん! 消火器! 消火器い!」

 茜はお玉を放り投げて、消火器を取りに走っていった。



                 8

「プッ」

 縁側に腰を降ろしていた甚平姿の春木健人は、月明かりに照らされている狭い庭にスイカの種を吹いて飛ばした。

 ミチル婆さんの声が響く。

「こら、クラーク! 娘の前で行儀の悪い。ちゃんとしんさい、ちゃんと」

 健人が振り向いた。ミチル婆さんは、縁側に敷かれた座布団の上で正座して、小さな三角形のスイカを両手で持って先を齧っている。

 春木健人は、そっと掌の上にスイカの種を吐き出すと、パラパラと横の皿の上に落とした。

 隣で縁側に腰掛けてスイカを齧っていた陽香は、横に腰掛けてスイカを食べている母と顔を見合わせた。二人は肩を震わせながら笑いを堪えていた。

 陽香の実家には、裏手に小さな庭がある。普通乗用車一台がやっと停められるほどの広さの、形ばかりの狭い庭であったが、ツツジやアジサイが植えられ、よく手入れされていた。奥の方には、低い百日紅さるすべりの木がある。健人が小枝を切り過ぎたせいで、小さなコブだらけのチンチクリンの木になっていたが、残った小枝に緑の丸い葉が涼しげに揺れていて、先に紅色の小花が咲いていた。

 陽香は、見慣れたその小さな百日紅の木を眺めながら、思わず呟いた。

「はあ、猿も木から落ちるかあ……。全然、登れないなあ……」

 茜が心配そうな顔で尋ねた。

「どうしたのよ」

「あ、ううん。何でもない」

 茜はスイカの皮を皿に戻すと、膝の上のタオルで手を拭きながら、また娘に尋ねた。

「それで、仕事の方はどうなの。ちゃんと出来てるの」

 陽香はスイカを持ったまま答える。

「うん。まあ、何とかね。今、ちょっと大変な仕事だけど、まあ、何とか一休止って段階かな」

 茜は心配を顔中に浮かべて言った。

「一時はどうなるかと思ったわよ。タイムマシンの発射場で間違って拘束された記者たちがいて、それがやっと解放されたって、テレビのニュースで見た時は、母さんも父さんもどれだけ驚いたか」

「その話はこの前も聞いたよ。でも、あのニュース、名前は出てなかったんでしょ。顔もあまり映ってなかったって……」

 健人が横から口を挿んだ。

「こっちはな、記者って聞いただけで、陽香のことじゃないかって思うんだよ。実際、後で、そうだったって聞いて、また冷や汗だ。あまり親に心配掛けるなよ」

「仕事だし」

 陽香は頬を膨らませた。

 茜が眉間を寄せて言う。

「雑誌の記者って、あんな危険な現場にも取材に行かないといけないの? なにも、軍用機が何機も墜落している現場にまで近寄ることないじゃない。テレビで見てたけど、すごい炎だったわよね」

 陽香はスイカを齧りながら言った。

「うーん。その時はジャガイモの皮を剥いてたから、分かんなかったけど……」

「ジャガイモ? 何よ、それ」

「ああ、何でもない。忘れて。こっちのこと」

 茜は陽香の顔を見つめると、憂い顔で言った。

「この前も話したけど、入社して早々に暴漢に襲われるわ、兵隊さんがたくさんいる事故現場には行かされるわ、危ない目に遭わされてばかりじゃないの。前の上司の方も襲われて怪我したんでしょ。大手かもしれないけど、あの会社に再就職したのは失敗だったかしらねえ」

 陽香はスイカを頬張りながら言った。

「んー。でも、みんな、いい人よ」

「そお。この前の司時空庁の記者会見もテレビで見ていたけど、なんだか、記者って、柄の悪そうな人たちが多かったじゃない。陽香の隣に座ってた人とか、特に」

「見てたんだ、あれ。――まあ、アレは特別だから。普段は、あんな感じじゃないし」

 そう見栄を張った陽香は、スイカを多めに齧った。

「それでね、父さんと母さん、ちょっと話し合ったのよ」

 陽香はスイカで頬を膨らませながら言った。

「何を?」

 茜は陽香越しに健人に言う。

「ほら、あなた」

「プッ。ああ」

 スイカの種を一粒だけ庭に飛ばした健人は、食べかけのスイカを皿に戻し、タオルで口を拭いた。そして、甚平の下穿きから出た両膝を縁側の桟の上で揃えると、その上に両手をついて、肩を少し上げながら話し出そうとした。

 父の改まった姿を見て、陽香も手に持っていたスイカを後ろの大皿に戻した。

 健人は咳払いをすると、陽香の顔を見ることなく、少し緊張した様子で話し始めた。

「ああ、その、あれだな。おまえも、もう二十七だし、ここら辺で、その、そろそろ、あれだ、な、茜」

「プッ」

「いてっ」

 ミチル婆さんが飛ばしたスイカの種が健人の後頭部に当たった。

「他人の娘を呼び捨てすな! クラーク」

「分かりました。分かりましたよ。……健人なんだけどな」

 陽香が怪訝な顔で父親に言う。

「全然、分かんない。何が言いたいの、父さん」

 業を煮やした茜が隣から口を挿んだ。

「良いお見合いの話があるのよ。どう? 一度くらい、会ってみたら」

 母の方に顔を向けた陽香は、驚いた顔で言った。 

「お、お見合い? 冗談でしょ」

「真面目な話よ。あんたもいい年だし、それに、あんな危険なことをさせる会社に、いつまでも大事な娘を置いとけないでしょ」

「それで、お見合い?」

 陽香は目をパチクリとさせて母を見た。

 父親が陽香に尋ねる。

「なんだ、嫌なのか」

 健人の方を向いた陽香は、少し下を向いた。

「うん……まあ、正直、嫌だ。気持ちは有り難いけど……」

「誰か、いい人でもいるの?」

「――ああ……ええと……いません。残念ながら……」

「じゃあ、いいじゃない。お見合いすれば」

「はあ……」

 陽香は適当に返事をする。

 茜は嬉しそうな顔で言った。

「立体画像付きの写真もあるのよ。あなた、持ってきて」

「あ、ああ」

 健人は立ち上がり、縁側に上がって、その見合い写真を取りに行った。

 茜が顔をほころばせながら話し始めた。

「歳は今年で二十九歳ですって。陽香の二つ上、ちょうどいいでしょ。まじめそうで、いい方みたいよ。第一就職では、大手の製薬会社に勤務したんですって。大学は、そこそこの大学。第二就職で警察に入って、今は警視庁で刑事さんをされていて、何か特別なセクションにいるんですってよ。将来出世することは間違いない……」

 顔を上げた陽香は言った。

「ごめんなさい、母さん。やっぱり、今は無理。大事な仕事を抱えてるから」

 茜が少し強い口調で娘に諭した。

「そんなことを言ってたら、いつまでも結婚できないわよ。女には、子どもを産む年齢もあるんだから。いつでもいいって訳にはいかないの。分かってるの」

 写真を持ってきた健人が陽香の横に、今度は胡座をかいて座りながら言った。

「そうだぞ。出会いは何処に転がっているか分からないからな。俺と茜だって……」

「プッぐっ! ――く……くひゅ……」

 変な声がした。親子三人は揃って振り向いた。座っているはずのミチル婆さんが、仰向けに倒れている。

 健人がミチル婆さんの方を覗き見た。

「お義母さん? ――おいおい、スイカの種を喉に詰まらせたんじゃないか」

 健人は手に持っていた見合い写真を放り投げ、慌ててミチル婆さんに駆け寄った。茜も慌てて駆け寄る。ミチル婆さんは天に向かって片方の手を伸ばし、反対の手で喉を押さえて、口から泡を噴き始めた。瞳孔が開き、顔がどんどん土色になっていく。そんなミチル婆さんを見て、健人が叫んだ。

「おい、陽香、水だ、水を汲んで来い!」

 陽香は台所に駆けた。

 健人に抱きかかえられているミチル婆さんの横で、茜が必死に呼びかける。

「お母さん! しっかり、お母さん! 陽香、水はまだ。早く!」

 血相を変えた陽香が、コップに注いだ水を持ってきた。

 健人が大声で言う。 

「お義母さん、息を吸っちゃ駄目だ。吐いて!」

 陽香が咄嗟に言った。

「父さん、肺の所を強く押さえて!」

 健人がミチル婆さんの胸を上から圧迫する。

「プッ」

「あいたっ!」

 ミチル婆さんの口から発射されたスイカの種が健人の瞼を直撃した。

「いってー。目に……」

 左目を押さえている健人の横で、ミチル婆さんはムクリと起き上がった。

 茜は腰を抜かしたようにその場に座り込み、陽香は大きく息を吐いて胸を撫で下ろした。

 鼻から息を吸い込んだミチル婆さんは、息を静かに吐いた。

「ふひゅー。――ああ、すっきりしたのう。死ぬかと思うたわい」

 健人は左目を押さえながら言った。

「お義母さん、驚かさないで下さいよ。こっちが肝を冷や……」

「あたっ!」

「うぐっ」

 ミチル婆さんの右フックを顎に食らった健人は、縁側に倒れた。

 ミチル婆さんは言う。

「嫁の母親の乳に触るとは、どげなこつか。このバカタレが。癖が悪かね。性根を入れ替えんしゃい、クラーク!」

 健人は縁側に寝転んだまま、言った。

「健人ですってば。健人……」

 陽香がミチル婆さんに水を飲ませた。

 庭に落ちて土に汚れた見合い写真を月明かりが照らしている。そこには、警察の礼装制服を着た七三分け頭の生真面目そうな青年が、斜に構えて写っていた。

 その上を、夜風で散った百日紅の赤い花びらが通り過ぎて行った。




 二〇三八年八月十五日 日曜日


                 1

 春木家の食卓では、テーブルの中央に大きなガラス製の器が置かれていた。椅子に座って、健人と茜が昼食の素麺そうめんを啜っている。健人の向かいの席には、麺汁が入ったガラスの器が置かれ、その上に箸が横に揃えて載せてあった。玄関の戸が閉まる音がして、少ししてから、春木陽香が戻ってきた。彼女は自分の席につき、再び箸を手に取って、真ん中の大きな器にそれを運んだ。素麺をすくい、反対の手に持ったガラス製の器に入れる。

 茜が陽香に尋ねた。

「お巡りさん、何の用事だったの?」

 陽香は麺汁から素麺を持ち上げながら言った。

「ん、何でもない。もう済んだ」

 健人も心配そうな顔で言う。

「何の用事だったんだよ。気になるじゃないか」

 陽香は答えた。

「泥棒の捜査だって。職場の先輩が泥棒の被害にあったみたいなの。でも、勘違いだったみたいだから、心配ないって。だから大丈夫」

 茜は溜め息をつくと言った。

「こういうお盆とか、お正月とかを狙う輩がいるのよ。陽香も家の戸締りとか、気をつけなさいよ」

 陽香は素麺を咥えながら頷いた。

「うん。……ちゅるる」

 そして、咀嚼しながら言う。

「ねえ。お婆ちゃんは、食べないの?」

 茜が素麺を飲み込んで答える。

「後で、例の方式で食べるんですって」

 陽香は再び真ん中の大皿に箸を運びながら言う。

「ああ、またアレかあ」

 茜がニヤニヤしながら言った。

「父さんと母さんが二人揃っている時じゃないと、出来ないからね。あんたも、やる?」

 陽香は少し少なめに麺をすくって言った。

「やめとく。太りそう」

 健人が尋ねた。

「陽香は、月曜から出社か」

 陽香は麺を口に挟んだまま頷いた。

「うん。――ちゅるる。――父さんは?」

 健人は素麺を麺汁に浸しながら答えた。

「ああ……まあ、月曜からだな」

「ふーん……」

 陽香は、じっと健人の顔を見ながら素麺を飲んだ。その陽香の顔を見ながら、茜が言う。

「なんか、随分と疑り深い目になっちゃったわねえ」

 陽香は不満そうに首を傾げて言った。

「そうかなあ」

 茜が言ってみた。

「お見合い、駄目なの?」

 器と箸を持った手を下に降ろした陽香は、真剣な顔で答えた。

「うん。ごめん。ホントに無理。今は、それどころじゃないの」

 そしてまた、中央の大きな器に箸を握った手を伸ばす。

 健人が言う。

「ま、結婚は焦ってするものじゃない。いい人が現われるまで、じっくり待つのも手だ」

 父の話を聞きながら最後の一筋をすくった陽香は、それを麺汁に少しつけて口に運んだ。麺汁の残りも飲み干した陽香は、器をテーブルの上に置いて言った。

「別に焦ってないけど……。ごちそうさま」

 茜が大皿を持ち上げながら言う。

「少しは焦って欲しいわよ。親としては」

 氷の欠片が浮いている大皿の水の中に家族の食器を重ねて入れた茜は、それを持って席を立ち、台所へと向かった。

 健人が麦茶を自分のコップに注ぎながら言った。

「焦って結婚するなと言っているだけで、のんびりしていて良いとは言ってないからな。焦って結婚することがないように、今から計画立てて生活せんといかん。まずは、いい人を見つけてだな……」

 陽香は台拭きでテーブルの上を拭きながら、不機嫌そうに言った。

「もう、分かったって。この三日間、そればっかり」

 健人は気まずい顔で麦茶を飲んだ。

 陽香は台所に目をやって母が食器を洗っているのを確認してから、健人に言った。

「ねえ、父さん。ちょっと、訊いていい」

「なんだ、どうした」

 陽香は声を潜めて健人に尋ねた。

「父さん、この家を出て行こうって思ったこと、ある?」

 健人は怪訝な顔をして言った。

「なんだ、急に」

 陽香は、再び小声で訊く。

「どお。一度くらい、出て行こうと思ったこと、あるの?」

「うーん……」

 暫らく考えた健人は、きっぱりと答えた。

「無い。無いなあ」

 陽香は不思議そうな顔をして尋ねる。

「どうして?」

「どうしてって、そりゃあ、この家が好きだし、母さんのことも陽香のことも、ミチルお祖母ちゃんのことも、大切に思ってるからね」

「いつ頃だったかなあ。父さんが、東京に転勤すれば昇進するかもって時があったじゃない。あの時、どうして転勤を断ったの。単身赴任も出来たのに」

「ああ……そうだったかなあ……」

 天井を見上げて少し考えた健人は、陽香に視線を戻して言った。

「そりゃあ、あの頃は、おまえは、まだ中学生だったし、お婆ちゃんも八十を超えていたただろ。ここを女所帯にして、一人だけ東京に行く訳にはいかないじゃないか。ここはよく台風も上陸するし、春と秋には町内会の運動会もある。ああ、夏は、ほら、向うの排水路の清掃作業とかもあるだろ。それに、店のことも心配だったしね」

「ふーん……」

 自分のコップに麦茶を注いでいる陽香を見ながら、今度は健人が陽香に尋ねた。

「どうした。何か、そのての記事でも書いているのか」

「ううん。別に、そうじゃないけど……」

 陽香は麦茶を飲んだ。コップをテーブルの上に戻すと、再び小声で父親に尋ねた。

「男の責任ってやつ?」

 健人は頷きながら答えた。

「そうだなあ、きっとそれが、父さんの責任ってやつだよ。みんなを守ることがな」

「そっかあ……」

 陽香は再び麦茶を口にした。

 健人が語る。

「まあ、世の中には、そんなことは御構い無しか、気には掛けているけど、出世を優先させる人間もいる。でも、大抵の人間は自分の責任を優先させて、夢やチャンスを少しずつ削っているんだ。皆、家族のために働いている訳だからな。学生の時のように、何も無しの一列並びで用意ドンって訳じゃない。それが大人ってやつさ。だが、一方で、家族のことを気にかけていても、自分ではどうすることも出来ずに、どうしても転勤しないといけなかったり、何か家族に迷惑をかけるような状況になったりする人がいることも事実だ。一くくりに、これはこうだとは言い切れんさ」

「それは、分かってるけど……」

 陽香の記事作成の助けになればと思い、長めに語った健人であったが、陽香は不満足そうだった。彼女の知りたいことは違った。それは、今抱えている一連の事件について、この数日で沸き起こった疑問だ。陽香は、それを確かめたかった。

 陽香は、もう一度父に尋ねた。

「でも、仕事上の責任ってのも、大事でしょ」

 健人は少し考えてから答えた。

「うん、それは、確かにそうだな。でも、その二つを天秤に掛けたら、父さんは、家庭を取るな。昔、家族組織は国家の基本単位だって言い切った政治家がいたけど、あながち間違ってはいなかったじゃないか。その証拠に、大学が社会人入学制になって、地方の過疎化がピタリと止まったしな」

「社会人入学制と、今の話と、どう関係があるの?」

 陽香は父の意外な切り口に、キョトンとした顔をしていた。

 健人はゆっくりと語り始めた。

「父さんたちが学生の頃には、高卒で大学に進学したんだよ」

「うん。知ってる」

「みんな、自分の学力の限界に挑戦して、地元を離れて少しでも上の偏差値の大学に行こうとしたんだ。父さんもそうだった。田舎から都会の大学を目指した。でも、家族のことは何も優先させなかった。気にはなっていたけどね。本当は、近場の大学にでも通いながら、爺ちゃん婆ちゃんの介護をしていた父さんの母さんと父さん、つまり陽香の御婆ちゃんと御爺ちゃんの手伝いをするべきだったと思う。大学なんて、何処の大学に行っても、高校以上の勉強をするという点では、一からのスタートさ。学士レベルの基本的知識を身につけた後で、さて研究レベルの学問となれば、各大学の研究設備や師事する教授の研究レベルなんかによって色々と違いが出るかもしれないが、学士レベルでは、どこの大学に行こうが、たいして違いは無い。どこに行っても、ゼロからのスタートだからね。環境がどうとか、周囲の学友のレベルがどうだとかいう話は、本人の自覚の問題で、どうにでもなるものだ。だけど、当時は、学力で縦一列に並べて、上から順に都会へ都会へと若者を異動させて、優秀な若者を中央に集中させていった。社会も大学のブランドで若者の実力にレッテルを貼ったから、若者もそうせざるを得なかった。で、みんな地元を離れて都会で学生生活。その結果、若いうちに、人生の基本を学ばないといけない大切な時期に、数年間も過ごすことになって、結果、いい加減な大人が増えた。父さんみたいな」

 陽香は首を横に振った。

「そんなことは無いと思うよ。父さん、立派だと思う。いろいろ大変だと思うけど、この家を守ってくれているし」

 健人は手に握ったコップの麦茶を見つめながら答えた。

「うん。でも、実家の御爺ちゃんと御婆ちゃんの事は、啓人けいと兄さんに任せて、お構い無しだ。立派とは言えないよ」

 父は少し悲しそうな顔をしていた。陽香は麦茶を飲むふりをして、台所に目をやった。母は荒い物を続けている。

 健人は話を続けた。

「ま、父さんの若い頃の話だが、結局それで、地方から優秀な若者が都会に出たきり、戻らなくなって、仮に戻っても、自分の能力に合う働き口が無いってことで、また出て行ったりして、地方の過疎化がどんどん進んだ。でも、大学を社会人入学制にしたら、それがピタリと止んだ。高校を卒業すると、みんな近場の地元の企業に就職して、生まれ育った街で冷静に人生や世の中を見つめることが出来るようになった。陽香だって、そうだっただろ」

「うん……まあ、そうかなあ。第一就職で新聞社のアシスタントをしてた頃は、とにかく忙しかったことしか覚えてないけど」

「それでいいんだよ。一番頑張らないといけない年齢じゃないか。父さんは、その年齢の時期を、大学での部活だのサークル活動だの、社会に出て何の役にもたたない、社会に対しても何の貢献にもならないことに使ってしまった。正直、後悔してるよ」

 陽香は父の顔をじっと見つめた。始めて見る父の顔だった。後悔が顔に滲み出ている。

 健人は麦茶を飲み干すと、コップを置いて、また語り続けた。

「ま、世の中には、そんな後悔なんてしたこともないって奴が多いんだろうが、とにかく、この社会人入学制が始まってから、若者が地元で社会人教育を受けるようになった。で、就職先の企業から奨学金を借りて、大学に行く。当然、大学で何をどの程度、どのように学べばいいか、目的を明確にして進学する。企業も、学生にそれを要求して、大学でスキルアップさせてから第二就職で職場復帰させれば、企業全体の力が短期間で底上げされる。地方の企業に力がついて、その力で財力をあげる。で、また、雇用が生まれる。大学進学は本当に必要な学習をするために選択をすることになったから、優秀な学生が都会に集中することが無くなった。この点は反対の意見もすごく多かったみたいだけど、実施してみたら、優秀な学生が全国に散らばって、他の学生もその影響を受けるものだから、大学全体のレベルもグッと上がった。今、世界中の大学で、日本の大学生の平均学力がダントツ一位だろ。遊んでいる学生なんて極少数だもんな。大学生は皆、図書館に篭りっきりだ。企業から、こういうことを身に付けてこいって言われて送られている訳だから、まあ、当然だよな。半分、仕事みたいなものだし。第二就職で、陽香のように第一就職とは違う会社に勤める人も多くなったから、職業スキルの分野交換も進んだ。結果として、日本の産業力も、経済力も、大幅に伸びた。ああ、そうだ、老老介護ってものも、随分と減ったな。高卒の第一就職中の若者が、それを吸収してくれているからね。各家庭で。つまり、出発点は家族だったのさ。日本が長年悩んできた社会問題を、少しでも解決する鍵は。と、父さんは思う。だから、家族は大事。そういうこと」

 陽香は自分の経験と重ねて、意見を述べた。

「制度的には、いろいろと問題も出てきてるみたいだけどなあ」

 そこへ茜がやってきて、切った梨を乗せた皿を陽香と健人の間に置いた。

「先日、お義兄さんから送ってくださった梨よ。こっちからも何か送っとかなきゃね。そうだ、あなた、今年のお正月は向うに帰りましょうか」

「ウチには、ミチルお祖母ちゃんがいるじゃないか。一人にはしておけないよ」

 陽香が気を利かせた。

「ああ、私が帰ってくるから大丈夫。二人で行ってくればいいじゃない」

 健人は手に取った梨を齧りながら言った。

「何かあったら、陽香だけじゃどうにもならんだろう。一昨日みたいな事があったらどうするんだ。それに帰っても、只のお客さんだ。啓人兄さん夫婦に迷惑を掛けるだけだよ」

「なに言ってるの。お義父様もお義母様も寂しがっているわよ。たまには顔をお見せしないと。まだずっと、ウチのお母さんよりもお若いんだから。陽香が少し長くウチに居てくれれば、後は私が先に戻って何とかするから。あなたは長めに帰省されたらいいわ」

「私も、もう中学生じゃないし、お正月休みいっぱいは、ここに居るから。母さんと私が居れば、父さんも少しは安心でしょ。ゆっくりしてきたらいいよ。ね、親孝行お父さん」

 陽香と茜は少し大袈裟に拍手して、健人の背中を押した。

「あいよ。あたしゃ、元気だよ」

 その拍手に呼ばれたかのように、ミチル婆さんが姿を現した。頭に日の丸の鉢巻を巻いている。ミチル婆さんは上座の自分の椅子に重ねたクッションの上に、いつもの様にチョンと座り、深く息を吐いた。

「ふう。――ったく。正月だけじゃなく、ちゃんと休みの時は田舎に帰りんしゃい。そういう歳じゃろうが、クラーク」

「いや、ですが、お義母さんも……」

 健人が言いかけると、ミチル婆さんは空手の構えを取って言った。

「クラークの話は長くていかんね。待ちくたびれたよ。じゃ、始めようかね。ふおおお」

 ミチル婆さんは息を深く吐き始めた。

「はいはい」

 呆れ顔で茜が台所に向かう。

 陽香がミチル婆さんに言った。

「お婆ちゃん、父さんはクラークじゃなくて、健……」

「いいんだよ。クラークで。改名するから」

 健人はそう言った。陽香は父の顔をじっと見ていた。

 茜が御椀を並べて載せた大きなお盆を運んできた。全ての御椀には素麺が少しずつ入っている。

 立ち上がった健人が言う。

「じゃあ、俺が、食べ終わった御椀を積んでいく係な」

 陽香も立ち上がって言った。

「じゃあ、私がリズムをとる係ね。お婆ちゃん、ゆっくりでいいからね」

 ミチル婆さんは空の御椀と箸を持ち、緊張気味に息を吐いて言った。

「ふうー。ようし、今日は十七杯じゃ。記録更新するぞい。さあ、来い!」

 茜が大きな声で言った。

「じゃあ、行くわよ、お母さん。時間は無制限だからね。――始め!」

 ミチル婆さんの皺枯れた手に持たれたお椀の中に、茜がお盆の上から取った御椀の中の素麺を移す。空いた御椀を茜から健人が受け取り、ミチル婆さんの前から少し離れた所に置いた。茜は別の御椀を取って準備し、ミチル婆さんが手に持った御椀の中の素麺を啜ると、それを噛んで飲み込み終えるのを待ってから、空になった御椀に素麺を移す。健人もミチル婆さんの咀嚼を観察しながら、喉に詰まらせないよう注意している。そして、茜から空いた御椀を受け取り、さっきの御椀の上に重ねていく。ミチル婆さんの隣では、陽香がゆっくりとしたリズムで手を叩いている。

 健人がミチル婆さんの噛み具合を見ながら言う。

「お義母さん、ゆっくりでいいですからね。しっかり噛んで下さいよ」

「何を言うか。食は戦いじゃ。ちゅるる」

「お婆ちゃん、ゆっくりね、ゆっくり。はい、はい、はい、もうちょっと噛んで、はい、ゴクン」

「子ども扱いすな。何年生きとると思うちょるか。もうすぐ百年ぞ! あたしゃ、いつでも真剣勝負なんじゃ。茜、ペースが遅いぞい。カモーン! ちゅるる」

「はいはい」

 茜は呆れ顔で少量ずつの素麺を御椀に移していく。

 春木家の玄関の門柱の下には、送り火のために、小さな角材が綺麗に組んで置かれていた。その奥の小さな玄関ドアの横にある、網戸にしたサッシから、陽香が叩くスローテンポの拍手と、茜と健人の歓声が、通りに面した小さな庭に漏れ響いてくる。それに合わせて踊るように、庭の百日紅の丸い葉が穏やかに風に揺れていた。



                  2

 司時空庁長官室の窓からは、夕日に照らされる官庁街のビル群が見えている。

 津田幹雄は立体パソコンの上に並べて投影されたホログラフィー文書に、眼鏡を上げた顔を近づけていた。一通りを読み終わり、眼鏡を下ろした彼は、椅子の背もたれに身を投げて言った。

「くそ。時吉の奴め」

 机の前に立つ松田千春が言った。

「例の『エケコ人形』について、盗難届を出したようですな。警察を利用するとは……」

 津田の横でタブレット型のパソコンを持って立っている佐藤雪子が言う。

「届け出て、警察の捜査で盗品の所在が判明した途端に取り下げ。準備がいいですわね」

 津田幹雄は厳しい顔で言った。

「警察の盗犯係に『エケコ人形』ストラップの購入履歴と発送記録を取得させて、一方であの春木とかいう小娘から、現物を所持していることを聞き取らせている。調書として記録させるためだ。小賢しい」

 松田千春が首を傾げた。

「ですが、購入した人形と同一の物という証明にはなりませんな」

 津田幹雄は首を横に振った。

「いや。購入記録では、人形は一体しか買っていない。税関の記録では、それを帰国直前に他の土産物と一緒に送っている。それに、こちらの動きを知られているんだ。他にも同一物であるという証拠を揃えているに違いない。――永山の奴、あの人形をタイムマシンに乗せてはいなかったんだよ。くそっ。これで、あの人形のトリックは使えん。一杯食わされた。こちらから情報を引き出すための芝居だったんだよ、あれは!」

 津田幹雄は足下のゴミ箱を蹴り飛ばした。

 佐藤雪子が一番端のホログラフィー文書を指差しながら言った。

「金属板の公開を司時空庁に対して請求してきていますわね。どうしますの?」

 松田千春が意見を述べた。

「永山に突きつけて、奴が乗せた耐核熱金属板であることを認めさせては。そうすれば、奴が送ったマシンであることが……」

 津田幹雄は肘掛に両手を乗せたまま言った。

「否定されれば、それで終わりだ。それが狙いで、公開を求めてきているんだよ。分からんのか」

 佐藤雪子も松田に言った。

「それに、せっかく皆が忘れかけていましたのに、この田爪事件以来、あの金属板に対するマスコミの注目が集まっていますのよ。今、公の場に晒せば、痛手を被るのはこちらですわ」

「そういうことだ」

 津田幹雄が荒っぽく言い捨てた。

 松田千春は津田に尋ねる。

「では、どうしましょう」

 津田幹雄は暫らく考えた後、松田に言った。

「永山の荷物は返還したのか」

「はい。一昨日、時吉弁護士の事務所に送りました。ああ、息子さんの方の時吉に」

「くそう。何か仕込んでおくべきだったな」

「官邸からも、今月中に正式回答を資料と共に提出するよう求められていますわ。このままでは、長官がバイオ・ドライブを不正に保管していたことも、それがASKITに奪取されたことも、すべて知られてしまいますわよ」

「分かっている。問題は私が総理に報告しなかったことだ。辛島総理がキレているのは、その点だろう。このままでは不味い」

「手土産が必要ですな」

「ああ。あのバイオ・ドライブに書き込まれていたという研究データさえ手に入れば、それを官邸に提出できる。国内産業を一気に世界の頂点に立たせることができる貴重な研究成果だ。それを引き換えにすれば、辛島総理といえども私には手を出せまい」

「見つけなければなりませんわね」

「ASKITに奪われたドライブと、永山が保管しているかもしれない他の記録媒体、双方の捜索が必要ですな」

「永山の荷物からは、本当に何も出てこなかったのだな」

「はい。いかがしましょう。奴が私利私欲のために何か情報を隠し持っていると報道させますか」

「いや。それは、まだ待て。報道の反動で私の人気が上がったとしても、こちらの手許にデータが無い以上、辛島総理は平気で私を切るだろう。そういう御人だ。こちらが、永山が送ったタイムマシンの同一性を立証することが厳しいという状況だ。こうなった以上、総理との交渉条件にできる田爪博士の研究データを入手してから、その報道を流さなければ、全く意味が無い」

「でも、本当に永山さんは、田爪博士からデータのコピーを受け取っているかもしれませんわよ」

 津田幹雄が佐藤に顔を向けた。

「この三日で、奴らの新聞と週刊誌に何か載ったか」

「いいえ。いつもの通り、ネット新聞は連載の記者雑感、週刊誌は時吉前長官のNNJ社からの不正資金受領疑惑の記事だけですわ。でも、今朝のネット新聞の記事にこんな一文が」

 佐藤雪子は小脇に抱えていたタブレット型パソコンを胸の前に傾け、新日ネット新聞を立体表示させた。彼女は神作真哉の雑感記事を読み上げる。

「永山哲也記者が私のパソコンに送信してきた当該データ・ドライブを撮影した画像を基に、接続できるインターフェースを懸命に探したが、該当する物を見つけ出すことはできなかった……と」

 佐藤雪子はネット新聞を平面ホログラフィーで立体表示させたまま、パソコンを津田に渡した。

 津田幹雄は左手でパソコンを受け取り、右手で眼鏡を額の上に持ち上げると、その記事のホログラフィー文書に顔を近づけた。記事を読んで、彼は言った。

「奴らの手許に、バイオ・ドライブの画像が残っているということか」

「どうやら、そのようですわね」

 津田幹雄はパソコンを佐藤に返しながら言った。

「画像を掲載しないのは、私たちに対する脅しだな。いつでも公開できるぞということかもしれん」

 松田千春が尋ねる。

「押収しますか」

「いいや。それをすれば、われわれがバイオ・ドライブの存在を知っていたことを認めることになりかねん。奴らも、その画像が本当に田爪から永山に渡ったドライブを撮影した画像であるということが証明できんから、掲載を控えて、記者雑感の文面でのみ表現しているのだろう。全ての経緯を話して聞かせた以上、現状では、奴らも我々と同じ舟に乗ったのも同然だ。世間に公表したくても、これが限界なのだよ」

 佐藤雪子が言った。

「彼らは、タイムマシンの同一性を否定する方向で報道内容を固めてきますわね」

「おそらくな。世論がタイムマシンの同一性に疑念を抱くよう、記事を書いてくるに違いない。そうなれば、我々は全ての資料を明らかにして、あの残骸は永山が送ったタイムマシンの物であるということを証明せねばならなくなる。だが、科学的データによれば、それは否定されている」

 松田千春が怪訝な表情で言った。

「やはり、永山の供述に嘘があるのでは。あの残骸からコンピュータが算出した機体の大きさと、永山の証言する機体の大きさには、随分と違いがあり過ぎます」

 津田幹雄は椅子から立ち上がって、南の窓の方に歩きながら言った。

「だが、こちらが尋問する前に記録された追加レポートの内容と、帰国後に我々の尋問に答えた永山の供述内容は一致している。このままでは、こちらの失態を世間に晒すだけで何の利も得られない結果に終わってしまうぞ。この件の資料公表は何としても避けなければならん」

 佐藤雪子は歩いて行く津田を目で追いながら言った。

「しかし、いつまでも隠しておけまして? 官邸が世間への資料公表を求めてくるかもしれませんわよ。世論に押されて」

 津田幹雄は窓の前で立ち止まり、佐藤を見て言った。

「だから、その前に手を打たねばならんのだ。データのコピーの所在を力ずくで吐かせたいところだが、先日の神作の襲撃事件もある。今、奴らに手を出す訳にはいかん。――ああ、そう言えば、あの犯人は分かったのかね。警察から何か情報は」

 佐藤雪子は深刻な顔をして答えた。

「いえ。まだ、何も……」

「そうか……。ただの暴走した一般人なら都合がいいが、まさか、奥野大臣が手を回したのではないだろうな」

 松田千春が首を横に振る。

「ならば、確実に仕留めるはずです。もっと上手い方法もいくらでもあるでしょうし」

 津田幹雄は佐藤に顔を向けて言った。

「佐藤君、NNJ社がAB〇一八の防衛を国防軍に外部委託する予定だという情報は、確かなのだな」

「ええ。国防省調達局の津留局長が、その件で官邸から連絡を受けたそうですわ」

 津田幹雄は腕を解き、窓から外の暮れなずむ景色を眺めながら言った。

「そうか。奥野大臣ではなく、防衛装備品を準備する部署の局長に……」

 松田千春が付け加えた。

「ここ一ヶ月、奥野国防大臣が官邸から遠ざけられているとの情報も耳にしましたが」

「うむ。どうやら、私の予想した通りになったようだな。それにしても、国防軍がNNJ社のAB〇一八の警備を担うというのは、こちらにとって実に都合がいい。バイオ・ドライブの中に情報を書き込んだり、中の情報の読み取ったりをするためには、AB〇一八に接続するしか方法が無いはずだ。もしASKITがバイオ・ドライブを所持しているのなら、必ず、それはAB〇一八の施設内にある。だとすると、警備にかこつけて、国防兵に施設内を探索させればいい訳だ」

「問題は、奥野大臣の協力ですな」

 松田千春がそう言うと、津田幹雄は窓に顔を向けたまま呟いた。

「協力させるさ。今の彼には、それしか選択肢が無いはずだ」

 そして振り返って言った。

「佐藤君。奥野大臣の盆休みは、今日までだったな」

「ええ。ご予定では、地元の温泉地で休養中のはずですわ。明日の朝には、こちらに戻られることになっておりますわよ」

「盆休みを使って、次の選挙のための種蒔きか。佐藤君、ヘリの用意をしてくれ。こちらから現地に向かう。彼と直接、話をする必要があるようだ。場所のセッティングも頼む」

「かしこまりました」

 津田幹雄は出口に向かって歩きながら言った。

「松田君、例の資料を揃えてくれ」

「はい、直ちに」

 津田幹雄は速足で出口まで向かうと、ドアの前で振り返り、二人に言った。

「勝つのは私だ。国を守る信念を持った男が最後には勝つのだ。記者連中にも、ASKITにも、官邸にも、絶対に邪魔はさせん」

 津田幹雄はドアを大きく開けると、威勢よく廊下へと出ていった。



                  3

 春木家の門の前で、燃え残った送り火が白く細い煙を上げている。門扉の前には健人と茜とミチル婆さんが立っていた。向かいには陽香が立っている。

 陽香は言った。

「じゃあ、いろいろ、ごちそうさまでした」

 茜が呆れ顔で言う。

「ホント、食べてばかりだったわね」

「母さんの料理は美味しいからね」

「あら、社会人に復帰したら、他人を煽てるのが上手くなったわねえ。野菜料理ばっかりだったのに」

「お盆だからね、当然でしょ。でも、正直言って、体重計に乗るのがちょっと恐い」

「そんなこと気にしてちゃ……。普段からちゃんと食べてるの」

「大丈夫。社員食堂もあるし、家の近くにもコンビニがあるから」

「はあ、仕方ない子ねえ……。自炊もしないと駄目でしょ。こっちにも、ちょこちょこと顔を出しなさいよ。すぐそこなんだから」

「私だって、いろいろ忙しいのよ。なんと言っても、期待の新人ですからね」

 健人が母娘の会話に割り込んだ。

「じゃあ、たまには立体電話くらいしろよ。みんな寂しがるから」

 陽香は呆れ顔で言う。

「大袈裟だなあ。同じ区内じゃない。今の仕事が片付いたら、またしょっちゅう顔を出すから」

「仕事ってものが、そう簡単に片付く訳ないだろ。ま、来たい時に来たらいいさ」

 ミチル婆さんが高い声を挿んだ。

「汚れたモンがある時は、持って来るんじゃぞ。ピカピカにしちゃるけんのお」

 陽香が頷く

「うん、分かった。――あ、はい。分かりました。その時はお願いします。とにかく、お婆ちゃんも元気でね。あまり働き過ぎちゃ駄目よ。少し体を休めないと」

 お姉さんぶった陽香にミチル婆さんが厳しい顔で言う。

「なんば言うちょるか。休んどったら、歳をとってしまうじゃろうが」

 陽香への助言でもあったが、陽香はそのまま受け取った。

「でも歳なんだから、気をつけないと。もう少しで百歳じゃない」

 ミチル婆さんは両手を精一杯高く上げて見せて言う。

「なーに。この通り、ピンピンじゃ」

 健人が心配そうな顔をして娘に言った。

「この前みたいに具合を悪くした時は、ちゃんと電話するんだぞ。俺か茜が走って……ウッ」

 ミチル婆さんの鉄拳が炸裂した。苦悶の表情を浮かべて体を横に曲げる健人。その隣でミチル婆さんが言った。

「他人の娘を呼び捨てすなと言う取るじゃろうが、クラーク!」

 健人は息を詰まらせながら言った。

「け、健人です……わ、脇腹ですか……」

 茜が真顔で娘に言う。

「お見合いのこと、気が変わったら電話するのよ」

 陽香も真顔で答えた。

「断っといてくれていいよ。今はホントに無理なの」

 体を立て直した健人が言った。

「でも、真剣に考えろよ。幸せは自分で探さないと」

「うん、分かってる。でも、これがあるから大丈夫」

 陽香がポケットから小さな人形を取り出した。ポンチョ姿に毛糸の帽子を被ったその人形は、陽香の思いを受け止めるように、左右に大きく手を広げて笑っている。

 陽香はその人形を握り締めると、額の前に上げて祈りを込めた。そして満足そうな顔で頷くと、それを母に見せた。

 茜は陽香の手の下に紐でぶら下がっているその小さな人形を覗き込んで、言った。

「なによ、それ。気持ち悪い顔ね」

 陽香は誇らしげに顔を上げて言った。

「幸せを呼ぶ『エケコ人形』です」

 ミチル婆さんが聞き返す。

猿公エテコウかい?」

 陽香が大きな声で言う。

「えーけーこ。南米のお土産。先輩の記者から貰ったの。ここに煙草とかを咥えさせとくと、幸福が集まるんですって」

 陽香は、そのストラップ人形の大きく横に開いた口元を指差した。

 健人が眉間に皺を寄せて言う。

「不健康な奴だな。おまえ、煙草なんか吸うなよ」

「うん。分かってる。でも、これ、向こうではお守りみたいな物らしいの」

 茜が目を細めて言った。

「本当? 効くのかしら」

 陽香は自信を持ってはっきりと頷いて見せた。

「効く。絶対に。うん」

 茜と健人は顔を見合わせる。

 ミチル婆さんは皺だらけの顔を微笑ませて言った。

「なるほどな。『信じる物は救われる』じゃの。そういう物は大事にしんさい」

「うん……あ、はい」

 陽香は人形を大事そうにポケットに仕舞うと、もう一度挨拶した。

「じゃあ、帰るね。ホント、お世話になりました」

 丁寧に頭を下げた我が子に、両親が言った。

「水臭いわね。改まっちゃって」

「帰り道、気をつけろよ。盆休みで飲んでる奴も多いから」

 陽香は笑顔で答えた。

「うん、ありがと。気をつける」

 そして、ミチル婆さんの方を向き直すと、丁寧に御辞儀して言った。

「御祖母様、大変お世話になりました。どうぞこれからも、お体を大切に、健やかにお過ごし下さい」

 ミチル婆さんは威厳のある皺顔で言う。

「うん。そちも達者でな」

「それじゃあ」

 皆に手を振ると背を向けて歩いていく。健人と茜とミチル婆さんが見送った。陽香は少し進んで振り返り、もう一度だけ手を振ってから、また前を向いて歩いていった。

 小さくなる陽香の後姿を追うように、送り火の煙が風に漂っていた。



                  4

 山間の温泉街。暗闇の中に源泉からの白い煙が幾つも噴き立っている。一番眺望の良い土地に鉄筋コンクリート建ての大きな温泉旅館があった。その旅館の広い玄関ロビーの前では、酒に酔った大人たちが送迎バスに乗り、整列した従業員たちに見送られている。

 その旅館の中の大宴会場では、畳の上に転がった酒瓶や徳利を従業員たちが拾い、奥まで並べられた食膳を一つずつ重ねていた。突き当たりの舞台の上では、背広姿の男たちが現職国会議員の名前が書かれた横断幕を外している。その名前の男は別の部屋に移動していた。彼は大宴会場の近くの豪勢な和室で床を背にして座ったまま、酒で赤らんだ顔に皺を寄せている。テーブルの上に置かれたパソコンの上に浮かんでいるホログラフィー文書をにらんでいた彼は、宙に浮いているその文書から目を離し、パソコンを操作してそれを消した。そのまま、奥野恵次郎は正面に厳しい顔を向けた。テーブルを挟んだ正面には、座布団の上で正座をしている津田幹雄の姿があった。今回はホログラフィー映像ではなく本物の津田幹雄である。その個室の中に居るのは、この二人だけだった。

 奥野恵次郎は津田の顔を強くにらみ付けて言った。

「こんなモノをどこで手に入れたんだ。他人の口座の取引履歴だぞ」

 津田幹雄は軽く頭を下げながら言った。

「司時空庁がそれだけの力を持つ事ができましたのは、ひとえに大臣のご尽力の賜物と存じております」

「その俺に牙を剥くつもりか」

「とんでもない。日頃の恩恵に報いようと思いましてね」

 テーブルの上に手を伸ばした津田幹雄は、置かれていた薄型の立体パソコンを自分の方に向けると、それを操作しながら言った。

「その他にも、我々の方で、このような物も入手しました」

 津田幹雄はパソコンの上に平面ホログラフィーで一枚の写真画像を浮かせ、奥野の方に向けた。その写真には、料亭に入る奥野と、料亭の前で車を降りる燻し銀のスーツ姿の男が捉えられていた。

 津田幹雄は横に置いた鞄からタブレット型のパソコンを取り出しながら言った。

「最新の顔認識ソフトで、この画像の男がNNJ社の代表取締役・西郷京斗さいごうけいとだということは確かめられています」

 そして、膝の上に置いたタブレット型のパソコンを覗き込みながら続けた。

「それと、西郷の個人口座から多額の引き出しが散見されますな。大臣がご使用の数種類のマネーカード、その引き落とし口座の開設日および入金額と一致する形で」

「貴様……」

「ご心配なく。資料は外部には漏れていません。すべて、司時空庁が回収しております」

「俺を監視していたのか」

「まさか。これは新日の例の記者共が所持していた物ですよ。先日、逃げた永山を連れて時吉弁護士と神作が乗り込んで来ましてね。収賄だの何だのと騒ぎ立てました。こちらに脅しを掛けるつもりでしょう」

 奥野恵次郎は横を向いて呟く。

「あいつら……」

 津田幹雄は指先で眼鏡を上げながら言った。

「まあ、どの取材資料の入手も違法な方法によるものでしょうから、こちらも刑事告発で対応しようと思ったのですがねえ……」

 奥野恵次郎は、すぐに津田の方を向いて言った。

「それは駄目だ。絶対に駄目だ」

「ですよね。それでは逆に、警察に事実が明らかとなってしまう。ですから、我々が押収したのです。全ての資料をね」

 奥野恵次郎はテーブルの上に両手をつき、前のめりで顔を突き出して尋ねた。

「本当に、全て押収したのか」

「ええ。そのつもりです。とにかく、大臣にとっては実に都合の悪い情報ですからね。もちろん辛島政権にとっても。しかし、あれですな。あの清廉潔白な辛島総理がお知りになったら、きっと激怒されるでしょうなあ」

 奥野恵次郎の顔から赤みが消えた。彼は狼狽しながら言う。

「当たり前だ。辛島は汚職を何より嫌う。こんなモノが手に渡ったら、俺は国務大臣を罷免されるどころか、政界も追われ、豚箱に放り込まれるだろう。辛島勇蔵は、そういう男だぞ。徹底的にやる」

「あのストンスロプ社の光絵会長と馬が合うくらいですからね。想像はつきます。ですから、我々も資料回収は徹底的に実施したつもりです。――が、もしかしたら……」

 津田幹雄は大袈裟に首を横に振ってみせる。

 奥野恵次郎は目を見開いて尋ねた。

「ま、まだ何か、奴らが隠し持っていると言うのか」

「その可能性は大いに有りますな。なんせ、連中は『記者』ですから」

 舌打ちをした奥野恵次郎は、険しい顔を横に向けた。

 津田幹雄は奥野の横顔を見据えて言う。

「そろそろ、潮時かもしれませんな」

「ああ。準備は出来ている。いつでも実行可能だ。だが、まずは、その資料を回収することの方が先だ」

「ついでと言ってはなんですが、共に回収して欲しいものがあるのですが」

「なんだ」

「田爪健三の研究データですよ。彼が南米で記録し、永山に渡した」

「バイオ・ドライブに入っているんだろう」

「それもですが、どうも永山は、そのコピーを所持している疑いが濃厚でしてね」

 奥野恵次郎は座椅子の背もたれに身を倒して、威勢よく豪語した。

「分かった。自白剤でも打てば、一発だ。現場の人間に実施させよう」

 津田幹雄は膝の上のタブレット型パソコンを持ち上げながら言った。

「タイミングをご考慮くださいよ。今、辛島総理は非常にピリピリとされておられますからね」

「分かっている。拙速に動くようなことはせん」

「そうですか」

 津田幹雄はタブレット型のパソコンを鞄に仕舞いながら続けた。

「ところで、国防軍の方でAB〇一八の警備をお引き受けになるご予定だとか」

「ああ。前にも話しただろう。それがどうした」

 津田幹雄は、今度はテーブルの上の立体パソコンをスリープ状態にすると、それも鞄に仕舞いながら、穏やかに答えた。

「いえ、国防軍がAB〇一八の施設に入れるようになるというのなら、実に好都合だと思いましてね。ついでに、バイオ・ドライブも探していただきたい」

「今は、その必要は無い」

 鞄のチャックを閉めた津田幹雄は、顔を奥野に向ける。

「これは異な。先日、我々にバイオ・ドライブを探し出せと指示されたのは、大臣では? あの施設内にある可能性は大きいのですよ。これまではASKITの傘下にある民間企業の施設であるために、無理な捜索はできませんでしたが、施設内を国防軍が警備するとなれば、話は別です。施設内部で自由に探索ができるじゃないですか」

「無理だ。警備と探索は違う。それでは契約違反だ。探索はできん」 

「ほう、随分とASKITに肩入れしたご発言のように聞こえますなあ。国防大臣奥野恵次郎も、やはり金には敵いませんでしたか。もしくは、金さえ手に入れば、国を裏切っても票は入るとお考えですかな」

「何を馬鹿な……」

 その奥野の発言を遮り、津田幹雄は淡々とした口調で言った。

「もし、総理があなたの口座の取引履歴を知悉した場合には、いったい、どうご説明されるおつもりで。今のうちに、ご自分の進退に見合う価値のある物を手に入れておかれた方がよろしいのでは」

「無茶を言うな。総理はNNJ社との契約を自分が任命した特命担当官に任せると言っている。その担当官がNNJ社と交渉を終え、国が契約を締結するまで、軍は動かせん。俺にはどうすることもできんよ」

「ご自身の首が懸かっているのですよ。もう少しお知恵を回されてはいかがですか。契約前の試験運用という形にすればいいでしょう。NNJ社も闇雲に契約はしないでしょうから。試乗しないで車を買う人間がいないのと同じですよ。お試しで警備態勢を布いてあげればいい。試験的警備という名目なら、国防委員会さえ説得できれば、総理の決裁無しでも実行可能だ」

「しかし……」

 奥野恵次郎は顔を曇らせる。

 津田幹雄はテーブルの上を強く叩くと、奥野を指差して声を荒げた。

「しかしも、へったくれも、ありますかね。総理が特命担当を置くと明言されているのなら、もうあなたは官邸からの信用を失っているということなのですよ。もしかしたら、既に収賄の情報を握られているのかもしれない。まずは、それに対抗する価値のある情報を一刻も早く手中に収めることです。それには、バイオ・ドライブが最適だ。今、このタイミングでASKITの配下からバイオ・ドライブが見つかれば、司時空庁も、あなたも救われる。もちろん、国も。中にデータが残っていようが、いなかろうが関係ない。あれ自体がAB〇一八の構造を解析する糸口になるものです。それだけで、今のあなたよりも価値がある。それに加えて、田爪の研究データが手に入れば、辛島総理と交渉できる。彼はこちらが提示する条件を呑まざるを得ないでしょう。ですから、まずはバイオ・ドライブが先です。その後、辛島総理にイニシアチブを奪い返されないように、これ以上の情報がないか、記者連中から聞き出せばいい。あなた方の方法で」

 奥野恵次郎は困惑した顔で言った。

「仮に、試験的にAB〇一八の警備を実施したとしても、そこで余計な探索などすれば、その後の契約は流れてしまうだろう。NNJ社やフランスのNNC社が黙っているはずがない。そうなれば、辛島総理から何と言われるか……」

「構うものですか。バイオ・ドライブを見つければいいのです。その後は、あなたが実権を握ることになる。総理の椅子に座ってしまえば、すべて解決でしょう。後は穏便にNNJ社と和解すればいい。一国の総理となったあなたとなら、相手の方から擦り寄ってくるかもしれませんよ」

「だが、NNJ社やNNC社のバックにはASKITがいるのだぞ。そう簡単に……」

 津田幹雄は、奥野の青ざめた顔に何度も人差し指を突き向けて強く言った。

「何を恐れているのです。先進諸国の中で第二位の新鋭装備を備える国防軍を、あなたは指揮しておられるのですよ。相手はたかが特許マフィアではないですか。いざとなれば、武力を行使すればいい。そうでしょ」

 奥野恵次郎は蒼白の顔を傾けたまま、返事に窮していた。

 津田幹雄は、はっきりとした口調で奥野に言った。

「逡巡していては好機を逃しますよ。具眼の士たる大臣らしくも無い。既に決断すべき時は来ています」

 津田幹雄は立ち上がった。それを見た奥野恵次郎は、彼に縋るように懇願する。

「待ってくれ、津田君。もう少し検討をさせてくれ」

 津田幹雄は奥野大臣を見下ろして答えた。

「返事は待ちません。結果を期待しています。是非とも、良い結果をお知らせ下さい」

 津田幹雄は振り向くと、襖を開けて部屋から出て行った。

「津田君……」

 呼び止める奥野を無視して、津田幹雄は背中を向けたまま言った。

「失礼します」

 後ろ手で襖を閉めた津田幹雄は、静かにほくそ笑んでいた。



 

二〇三八年八月十六日 月曜日(一)


                  1

 お盆が明けた新日ネット新聞社会部の編集フロアでは、通常どおりに出社した記者たちが、朝の仕事に取り掛かっていた。皆、忙しなく動いている。一番奥の机の「島」のところに長身の男がやってきた。出社してきた神作真哉である。彼は右手を上げた。

「おっはよっさん」

 先に出社していた永峰千佳が振り向いて挨拶する。

「おはようございます。あれ? キャップは今日から休みじゃなかったんですか」

「ああ。そのつもりだったが、自主的に休日返上だ。娘の『反省授業』の費用を稼がないといけないからな。父親も楽じゃない」

 神作の冗談を永峰千佳はクスリと笑った。

 向かいの机から重成直人が首を伸ばして顔を見せる。

「おはようさん。なんか、悪かったな。大変な時に休んじまって」

 神作真哉は自分の席に座りながら首を横に振った。

「いやいや。シゲさんは長年頑張ってこられたんですから、盆休みくらいは取ってもらわないと。それに、千佳ちゃんは、この前の敢闘賞ですよ。ハルハルの身代わりを引き受けてくれたわけですからね」

 重成直人は眉を寄せて言った。

「デスクも出勤してたんだろ。二人とも休み無しで大丈夫かい。疲れも溜まるだろうし、特に神作ちゃんは怪我しているんだから、休んだ方がよかったんじゃないか」

「まあ、俺と上野は、この前の自宅謹慎で先に休みを取ったようなものですし、俺は入院で更にしっかり休んじゃいましたから、逆に今更、盆休みを取るわけにはいきませんよ」

 神作真哉はギプスを巻いた左腕を少し持ち上げて、そう言った。

 そこへ、聞き慣れた声が飛んできた。

「おはようございます」

 振り返った永峰千佳が、その声の主に言った。

「ああ、永山さん。出てこられるようになったんですか」

 永山哲也は答えた。

「ああ、まあね。久しぶり……といっても、ホログラフィーでは頻繁に見てたか、僕の顔は。ああ、千佳ちゃん、そう言えば、いろいろありがとね。千佳ちゃんがネット通信の手配をしてくれたお蔭で、随分と助かったよ」

「いいえ。お安い御用です。あれくらいなら」

 永峰千佳は照れくさそうに手を振ってから、ヘッド・マウント・ディスプレイを顔に装着した。彼女は少しだけ鼻を啜った。

 永山哲也は重成にも挨拶しながら自分の席に座ると、机の上に手を置いて言った。

「いやあ、やっぱり、ここが一番落ち着きますね。なんか、ようやく安心しました」

 重成直人が言った。

「それはこっちも同じさ。やっと生の永山ちゃんに会えたんだからな」

 永山哲也は背筋を正すと、改めて重成に頭を下げた。

「本当に、いろいろ、ご心配とご迷惑をお掛けしました。すみませんでした」

 重成直人が笑顔を見せながら手を大きく振る。

 神作真哉が永山に尋ねた。

「社長と副社長の所には、挨拶に行ったのか」

 永山哲也は首を横に振った。

「いや、まだ出社されていないようなので、後ほど。谷里部長も……もう少ししてからの出社ですよね。ああ、甲斐局長には、さっき挨拶を済ませたところです。甲斐局長って、優しい方ですね。随分と丁寧に労いの言葉をいただいて」

 神作真哉はニヤニヤしながら言った。

「ああ、あの人は、これから先もずっと『優しい人』だ」

 永山哲也は天井を指差して言った。

「それより、なんか、上の人たちが、すごい慌てて出て行きましたけど、何かあったんですか」

 神作真哉は眉間に皺を寄せた。

「政治部の奴らか。いや、知らんな」

 永峰千佳がヘッド・マウント・ディスプレイを装着したまま、手を上げた。

「キャップ。交通事故が一件入ってきてます。ええっと、死者一名……ン? 発生場所、地下高速道路?」

 神作真哉は自分のパソコンを起動させながら、面倒くさそうに永峰に言った。

「ああ、向うの交通事故係りに回せ。こっちは司時空庁で忙しい」

 永山哲也が永峰に尋ねた。

「どこのインターの傍?」

 永峰千佳は空中で手を動かしながら答えた。

「いえ、中みたいです。中央環状線の第三ブロック内、だそうです」

 神作真哉が顔を上げた。

「なんだって? 定速自動車流制御システム上で死亡事故が起きたのか。嘘だろ」

 永峰千佳はヘッド・マウント・ディスプレイをしたまま、自分の視界に浮かぶ資料データを読んで答えた。

「本当です。被害者は外国人みたいですね。氏名、サートゥンシット・クラマトゥン、五十九歳」

 重成直人が眉間に皺を寄せて言った。

「聞いたことあるな、その名前」

 永山哲也がすぐに反応する。

「調べてみます。千佳ちゃん、データをこっちに回してくれないか」

 永峰千佳は空中で手を動かしながら答えた。

「了解です」

 そこへ、騒々しい足音と呼び声が聞こえてきた。

「おい、神作、神作、大変だ」

 神作真哉もギプスの左腕を上げて応える。

「おお、うえにょ。丁度いいところに来た。今、地下高速で初の死亡事故が……」

 上野秀則は慌てた様子で神作の机の所まで駆け込んできた。彼は片方の手に鞄を提げたまま、もう片方の手を神作の机について凭れ、息を切らしている。唾を一飲みして呼吸を無理に整え終えた上野秀則は、真剣な顔を神作に向けて言った。

「それどころじゃない。それと、上野だがな。――政治部の連中から聞いた。辛島総理がヨーロッパ外遊の予定を変更して、数学者と会うことになっていたらしい。ところが、また、その予定が変更。急遽、ヨーロッパに向かうことになったそうだ」

 神作真哉は顔をしかめた。

「なんだそりゃ。気変わりし易い総理大臣だなあ。――で、それがどうしたんだよ」

 上野秀則は一度唾を飲み込んでから言った。

「聞いて驚くなよ。その数学者は、サートゥンシット・クラマトゥン博士なんだ」

 神作と重成が顔を見合わせた。永山にデータを転送した永峰千佳がヘッド・マウント・ディスプレイを外し、上野の方を見る。

 唾を大きく飲み込んだ上野秀則は、少し興奮気味に話した。

「知ってのとおり、次のノーベル賞候補に名前が挙がっている人物だ。その博士が、日本の総理との面談をドタキャン。何の知らせも無かったそうだ。辛島総理の面目は丸潰れって訳だよ。ヨーロッパ各国の首脳との会談の直前で、しかも南米戦争終息間際の、こんな時期だろ。外務省はフル稼働。内閣官房は各報道機関に対して情報調整しようと大慌てらしいんだ」

 永峰千佳がプリントアウトしたクラマトゥン博士の顔写真を神作の机の上に置いた。端整な顔立ちの老紳士である。

 上野秀則は神作の机の上の写真を指差しながら言った。

「しかし、この博士も馬鹿だね。こんなドタキャン騒ぎを起こしたら、次のノーベル賞は逃したも同然じゃないか。こりゃあ、受賞は暫らく後になるな」

 神作真哉は写真に目を遣りながら呟いた。

「いや、もう貰えんさ」

 上野秀則が首を傾げる。

「はあ? なんで。情報処理分野の権威だぞ。素数の解明も、この人が達成すると言われている学者だ。後回しにされても、いずれ受賞はするだろう」

 神作真哉が上野に知らせた。

「死んだそうだ。今朝、この日本で」

 上野秀則は目を丸くして聞き返した。

「はあ? し、死んだ?」

「ああ。地下高速の中でな。定速自動車流制御システム上での第一号死亡事故だと」

「な、なんだって? あの中の自動運転で死亡事故? そんな馬鹿な」

 上野秀則はまだ信じられないような顔をしていた。

 立体パソコンの画面を覗きながら、永山哲也が口を挿んだ。

「驚くのはそれだけじゃないですよ。この博士、日本の定速自動車流制御システムの構築に深く関わっています。ていうか、中心メンバーですね。当時の政府から依頼されて、統制型自動運転走行プロジェクトの学識者チームリーダーを務めています」

 それを聞いた神作真哉が、すぐに上野の方に顔を向けた。

「うえにょ、総理との面談理由を知りたい。上で訊けないか」

「あ、ああ、訊いてみるよ。政治部の連中なら何か裏情報を持っているかもしれん。――ああ、これ、頼む」

 上野秀則は自分の鞄を神作に渡した。神作真哉がギプスをした左手で受け取り、すぐに床に置く。上野秀則は名前の訂正を忘れたまま、ゲートの方へと駆け出していった。

 神作真哉は指示を出した。

「永山、その博士のプロジェクトでの仕事内容を、もう少し詳しく調べてくれ。シゲさん、辛島総理の本来の予定と、今後の新しい予定を調べてもらえますか。千佳ちゃんは、事故の詳細について頼む」

 全員が一斉に動き出す。

 神作真哉は机の上の写真を見つめながら、険しい顔で呟いた。

「まったく。こんな時に、とんでもない事件が飛び込んできたな……」

 窓の外から射し込む光が少し暗くなった。太陽の前を薄い雨雲が過ぎる。

 記者たちは真剣な顔で情報の収集に取り掛かった。



                  2

 出勤ラッシュの雑踏の中を春木陽香が歩いている。彼女は新日ネット新聞社ビルの前で立ち止まり、高くそびえるそのビルを正面から見上げた。拳を胸の前で握って言う。

「よし。お盆休みでリフレッシュ出来たし、永山先輩は、たぶん出勤しているし、事件の解決もたぶん、あと少しだし、――よおし、今日から頑張るぞお」

 高々と拳を突き立てた春木陽香は、ビルの玄関に向かって意気揚々と歩いていった。

 路肩に青いバイクが止まった。紺碧のライダーは、ラピスラズリ色のヘルメットの黒いバイザーを持ち上げて、遠くから春木の後ろ姿を確認する。バイザーを降ろすと、その青いバイクは通勤ラッシュの車で混雑する大通りへと走っていった。車列の中に青い影が消える。その上にある高架式の南北幹線道路では、自動運転で走るAI自動車が一定の速度で等間隔を保ちながら綺麗に流れている。幹線道路の左右を挟む超高層ビルの窓を夏の朝日が照らしていた。すると、海から流れてきた分厚く黒い雲が太陽を隠した。薄い大きな影が新首都を覆う。

 こうして、また、新たな一日が始まった。





 第五部


 二〇三八年八月十六日 月曜日(二)


                  1

 窓の外は雨で暗い。新日ネット新聞社の社会部編集フロアでは、朝にもかかわらず、まるで夕刊の記事原稿データを提出する間際の時間であるかのように、記者たちが慌しく動いていた。

 春木陽香が、紙袋を提げた山野紀子に続いてゲートを通りフロアに入ってきた。二人は騒々しいフロア内に少し驚いて立ち止まると、顔を見合わせる。怱々とする記者たちを見回しながら壁際のスチール棚に沿って歩き、フロアの一番奥にある神作たちの席の「島」へと向かった。神作チームの「島」も多端な様子であった。重成直人は熱心に電話中で、出社したばかりの永山哲也はパソコンのホログラフィー文書に目を凝らしていた。永峰千佳もヘッド・マウント・ディスプレイを装着して、机上で手を動かしている。神作真哉は重ねられた書類を捲りながら、右手だけで立体パソコンのホログラフィーキーボードを使いにくそうに操作していた。

 春木陽香が遠慮気味に声をかけた。

「失礼しまーす」

 四人とも仕事に集中していて、春木の小さな声に気付かなかった。春木陽香は少しだけ声を大きくして、言ってみた。

「おはようございますう。なんか、忙しそうですね」

 神作真哉が顔を上げる。

「おお、ハルハル。――忙しそうじゃなくて、忙しいんだよ。忘れたか、新聞に盆休みの休刊は無いんだ」

 永山哲也が立体画面を見ながら言う。

「すいませんでした。休み取っちゃって」

「おまえに言ってるんじゃねえよ」

 笑って答えた神作に山野紀子が尋ねた。

「でも、えらく騒がしいわね。何かあったの?」

 電話を切った重成直人が言った。

「学者さんが交通事故で死んだんだ」

 山野紀子が怪訝そうな顔で言う。

「交通事故……死? そんなに有名な学者さんなの?」

 神作真哉が答えようとした。

「死んだのは、サートゥン……何だっけ、千佳ちゃん」

 永峰千佳がヘッド・マウント・ディスプレイを持ち上げて答える。

「サートゥンシット・クラマトゥン博士です」

「クラマトゥン博士……?」

 春木陽香が聞き覚えのある名前に首を傾げた。

 神作真哉が言う。

「インドの数学者だ。定速自動車流制御システムの基本数式を考案した博士だよ」

 山野紀子が頷きながら言った。

「ああ、地下高速とか、幹線道路に取り付けてある、あれね。自動運転システム」

 神作真哉も頷いた。

「そうだ。知ってのとおり、全国の新高速道路にも全通設置されている。今朝、到着した総合空港から地下高速を通って高層ビル街のマンションに向かう途中、第二環状線と中央環状線の合流点を過ぎた辺りで、前のトラックと衝突して大破したそうだ」

 山野紀子が聞き返す。

「え? 合流点って、地下高速の中で事故ったってこと? ウソでしょ」

 神作真哉は真顔で答えた。

「本当だ。気圧〇一ポイント。ほぼ真空状態の車外に放り出された博士が、どういう状態になったかは、想像に任せる」

 春木陽香は上を向いて想像してみた。

「ウプッ……」

 彼女は口を手で覆って身を屈める。永峰千佳がヘッド・マウント・ディスプレイをしたまま、ゴミ箱を差し出した。春木陽香は急いでそれを受け取った。

 山野紀子は、ゴミ箱に顔を埋めている春木の背中を呆れ顔で一瞥すると、神作に顔を向け直して言った。

「今までオープンカーで地下高速に侵入した馬鹿の自責事故以外では、交通事故による死傷者数はゼロなんでしょ。その第一号が、システムの基本を設計した博士だって言うの。だから、大騒ぎ?」

 神作真哉は椅子を少し回して斜めすると、山野の方に体を向けて、机に肘を乗せた。

「それもある。だが、問題は、博士の来日の目的だ」

「高層ビル街のマンションに向かう途中だったって言ったわよね。オンナでもいたの?」

 週刊誌の編集長らしい山野の推理だった。神作真哉はニヤリとして首を横に振る。

「いや。それは博士が来日した際に宿泊するためのセカンドハウスさ。数学者だからな。何処に居ても落ち着いて計算や研究が出来る場所が必要だったんだろう。今、裏をとっているところだが、今回も旅行の荷物を置くために寄るつもりだったんだろうな」

 回復した春木陽香が、ゴミ箱から顔を上げて尋ねた。

「じゃあ、そこから、どこかに向かう予定だったんですか」

 記者らしい春木の質問に、神作真哉は頷いてから答えた。

「官邸だ。夏季休暇から戻った総理と会う予定だったそうだ。だが、この面談が、どうも妙なんだ」

「妙?」

 山野紀子が顔をしかめる。

 神作真哉は頷いた。

「ああ。総理は、予定では今日の朝早くに、政府専用機で北欧に向かうはずだったんだ。それを急遽キャンセルして日程を組み直している。このクラマトゥン博士と会うために。一国の首相が、いくら国内のインフラ整備に貢献した人物とはいえ、外交日程をキャンセルしてまで数学者に会おうとするか。妙だろ」

 背もたれに身を倒した永山哲也が、腕組みしながら山野を見て言った。

「何ヶ月も前から決まっていた予定をキャンセルしたってことは、クラマトゥン博士が直前に総理への面会を申し込んだってことですからね。それを優先させるということは、よほど緊急で重要な内容ですよ」

 山野紀子は神作の机の上に置かれていたクラマトゥン博士の顔写真に目を落としながら呟いた。

「その博士が交通事故死……」

「しかも、この十数年間で一件も起きていない、地下高速での交通事故でな」

 念を押すように言った神作真哉の顔を見て、山野紀子は言った。

「私たちが地下高速内で襲われた時も、一人の怪我人も出なかったのに……」

 神作真哉は眉間に皺を寄せる。

「どうも、きな臭い。通常の交通事故事件としてウチに一報が入ったんだが、それと同時に上の政治部も大慌てさ。何やら、官邸もいろいろと動いているらしい。だから、こっちも博士が何の目的で来日したのか、方々に当たっている」

 神作真哉は目線で永山や永峰の机の方を指した。山野が目を遣ると、永峰の机の横で、春木が永峰から借りたヘッド・マウント・ディスプレイを顔にはめて、頭をキョロキョロと動かしていた。

 山野紀子は神作に視線を戻すと、彼をジロジロと見ながら言った。

「ふーん。なんだかんだ言って、ちゃんと記者やってるのね、真ちゃん」

 神作真哉は肘をついた右手で山野を指差して言った。

「当たり前だ。――で、何しに来たんだ」

 山野紀子は手に提げていた紙袋を神作に差し出しながら言った。

「ああ、これを持ってきたの。田舎のお義母さんから真ちゃんにって。それと、私と朝美からのお土産も」

 神作真哉は顔をしかめて口を開けた。

「あ? 俺の方の実家に行ったのか」

「うん。十四日まで一泊させてもらった。朝美の顔も見せないとね。お義父さんも、お義母さんも、朝美の背が伸びてないことに、逆に驚かれていたけど」

「なんで。自分の実家に帰ったんじゃなかったのか」

「そっちも行った。昨日まで一泊して。でも、先に真ちゃんの方の実家にと思って。ちゃんと真ちゃんの代わりに、私と朝美でお墓参りもしてきたから。お義父さんとお義母さんと一緒に」

 向うの机から重成直人がこちらを見て、笑みを浮かべている。

 神作真哉は椅子を回して部下たちに背中を向けると、小声で山野に言った。

「ウチの実家には行かなくてもいいだろ。離婚してるんだから、俺たち」

「どうしてよ。朝美には、お祖父ちゃんと、お祖母ちゃんじゃない。それに、お互い顔を忘れちゃうといけないし。お義父さんも、お義母さんも、すごく喜んでいたわよ」

「いや、そうだろうけど……」

 山野紀子は神作の左腕を指差して言った。

「真ちゃんの怪我のこと、すごく心配されていたわよ。一応、私からは、軽傷だから心配ないとは、お伝えしておいたけど。腕のこと、話してなかったの?」

「ああ。言える訳ないだろ。こんな状況なんだから。頭の包帯も取れたし、今更、報告しなくてもいいだろ」

「駄目よ。ものっすごく心配されていたわよ」

 神作真哉は顔を曇らせた。彼は一度大きく項垂れると、そのまま、山野から受け取った紙袋の中を覗いた。好物の鮎の甘露煮の箱詰めが目に入った。他にも地元の特産品の土産物が入っている。神作真哉は口角を上げた。紙袋を横に置きながら、彼は山野に言った。

「それより、おまえも朝美も大変だったな。疲れたろ」

 山野紀子は首を横に振る。

「ううん。朝美は、あっちのお祖父ちゃんお祖母ちゃんと、こっちのお祖父ちゃんお祖母ちゃんに会えて、ご機嫌だった。私も久々に父と母の顔を見ることが出来て、安心できたし」

「そっちのお義父さんお義母さんは元気にされてるのか。お義父さんの体の調子は」

「うん。随分と元気そうだった。調子もいいみたい。でも、お互い親が歳だからね。もう少し頻繁に顔を出さないと駄目ね」

「ああ……」

 神作真哉は右手で頭を掻いた。山野の言うことはその通りであり、神作自身もそうしたいのだが、それができない世の中になっていた。ヘルパーの数や福祉事業所は増えても、当事者である家族の休日や時間休暇の量が増えない。誰もが苛立ちを覚えていた。

 山野紀子が話を本題に戻す。

「で、司時空庁の方は、どうなったの?」

 神作真哉は椅子を回して机の方を向き、背もたれに身を倒して言った。

「時吉先生が、例の『エケコ人形』ストラップについて、盗難の被害届と、被疑者不肖で窃盗の刑事告発をしたんだ。その後、警察が盗品の追跡調査を捜査の一環としてするように、先生が押してくれた。それで、この盆休みのうちに、警察が正式に永山のマネーカードの提携銀行から人形の購入記録と支払記録を、運送業者と税関からは空輸の記録とハルハルへの引き渡しの際の伝票を揃えてくれた。さすがは日本の警察。やれば出来る。――ハルハル、警察が確認に来ただろ?」

 永峰のヘッド・マウント・ディスプレイで視界に広がるクラマトゥン博士の資料文書を読んでいた春木陽香は、慌てて顔からディスプレイを外して、神作の方を向いた。

「あ、はい。来ました。それで、実際にこの『エケコ人形』ストラップを見せて、確認してもらいました。お電話いただいたとおり、ちゃんと写真も撮影してもらいましたよ」

 春木陽香はポケットから取り出した「エケコ人形ストラップ」を山野と神作に見せた。少し自慢しているようでもある。

 神作真哉は頷いて言った。

「そうか。それでいい。これで、連中が捏造した『エケコ人形』の証拠は使えなくなった訳だ。それと、時吉先生から司時空庁に、例の金属板の公開請求もしてもらったよ。たぶん、連中はこれで動きがとれなくなったはずだ」

 神作真哉は山野の顔を見て片笑んだ。

 永山哲也が目を開いて、春木が持っている小さな人形を指差しながら言った。

「ていうか、いつも持ち歩いてくれてるの、それ」

 春木陽香は大きく首を縦に振る。

「はい。だって、幸せを呼ぶ人形ですから」

 永峰千佳が後ろから春木の手の人形を覗いて言った。

「幸せを呼ぶ顔には見えないけどねえ」

 春木春は振り向いて言う。

「呼ぶんです! この前だって、この人形にお願いしたら、永山先輩たちは無事に司時空庁ビルから出てくることができましたし、秋永社長への取材でも重要情報を聞き出せたんですから」

 春木陽香は頬を膨らませた。

 山野紀子は神作に深刻な顔を向けて言った。

「でも、連中が、このまま大人しくしている訳はないわよね」

 神作真哉も真顔で頷く。

「たぶんな。きっと何か次の手を打ってくるはずだ。こっちも警戒を……」

 そこへ上野秀則が駆けてきた。

「分かったぞ。クラマトゥンの……おお、山野、ハルハル。三日ぶりだな。いや、四日ぶりか。なんか、久々って感じがするな。お、ハルハル。少し太ったか? さては盆休みに食い過ぎ……いたっ」

 上野秀則は頭を押さえた。

 上野を叩いた山野紀子が言う。

「うえにょ。デリカシーって言葉を覚えなさいよ」

 上野秀則は山野に指を向けて怒鳴った。

「上野だ。しかもデスク。アンド先輩だ! どうして俺には上から目線なんだ、おまえ」

 自分の胴回りを見回して気にしている春木に、重成直人が笑いながら言った。

「女の子はな、ふっくらして健康的な方が、男性にはモテるんだぞ」

 春木陽香は、しょんぼりと肩を落として項垂れた。

 山野紀子が重成を指差して言う。

「シゲさん、追い討ちはいかんです」

 重成直人は首を竦めて書類の向うに顔を隠した。

 神作真哉が上野に尋ねた。

「で、何が分かったんだよ、うえにょデスク」

「上野……まあ、いいか。あのな、今、政治部の奴から教えてもらった情報だ。あの数学者、官邸の総理大臣執務室で直接、辛島総理と会うことになっていたらしい」

 神作真哉が怪訝な顔で聞き返した。

「総理大臣執務室? 来賓用の応接室じゃなくてか」

 春木陽香が山野に尋ねる。

「総理大臣執務室に呼ばれると、何か特別なんですか」

 元政治記者の山野紀子は、政治内情に疎い春木に説明した。

「総理大臣執務室は、日本の国務を統括する内閣総理大臣が事務をする部屋よ。言わば、政府の指令室。官邸の中心に位置していて、閣僚でも簡単には入れてもらえない。日本の国政を左右する重要な最終決断がなされる場所だからね。各大臣が集う閣議でさえ、別室の閣議室で行われるわ。どんな賓客でも、通常はそれ用の応接室に通されるはずなの。テレビとかでよく見るでしょ。あの部屋。外国籍の人間なら、なお更、あの部屋で面会するはずなのよ。いろいろとセキュリティー上の関係でね。それを、総理の執務室に直接招き入れるってことは、よほど緊急で、しかも、外には知られたくない最高レベルの機密に関する話だということ。そりゃ、上の政治部が慌てるはずだわ」

 山野紀子は両肩を上げた。

 神作真哉が永山たちに指示を出す。

「とにかく、こっちは事故内容とクラマトゥンの研究実績について徹底的に調べるんだ。官邸訪問の目的に繋がる情報が何か出てくるかもしれん」

 山野紀子はフロアの状況を見回して言った。

「こりゃ、忙しくなるわね。――また出直してくるわ。葱背負った鴨が飛んでるのを見かけたら、すぐに連絡する」

 神作真哉は机の上のパソコンに視線を向けたまま答えた。

「ああ、そうしてくれ。すまんな」

 山野紀子はゲートの方に歩いていった。

 神作の後ろを通って自分の部屋に移動しようしていた上野秀則が足を止めた。

「葱背負った鴨?」

 彼は怪訝な顔をして山野の背中を見ると、神作の机の横に置かれていた自分の鞄を持ち上げた。

 向こうから机越しに春木陽香が小声で言う。

「永山先輩、ご実家の方、どうでした?」

 永山哲也は顔を上げて、春木に答えた。

「田舎に帰ったのはいいけど、お袋に随分と叱られたよ。心配掛けるなって。参ったよ、本当に」

 春木陽香は更に尋ねる。

「荷物は届いたんですか」

 永山哲也は椅子の背もたれに身を倒した。

「荷物? ああ、南米から持って帰った分ね。時吉先生から今日、自宅に届くことになってる。先生曰く、随分と臭いって。洗ってない衣類も詰め込んだままだったからなあ。今頃、祥子はお盆で帰省した際に持っていった家族の衣類を洗濯機フル稼働で洗っていると思うんだ。そこに、僕の南米での荷物が届くんだよ。ドサッと。機嫌悪いよなあ。帰宅するのが恐いよ」

 春木陽香は手に持った人形を見せて言う。

「貸しましょうか、この『エケコ人形』。効きますよ」

 永山哲也は隣の机の書類を少し動かして、自分の机の端に置かれていた大きめのエケコ人形を持ち上げて見せた。

「先に自宅に送っといた大きいのがある。ハルハルのとお揃い。僕のは貯金箱だけどね」

 春木陽香は目を大きくして言った。

「本当ですか。あ、帽子もおんなじだ」

 永峰千佳が顔をしかめて手を振った。

「あの、そっち向けてもらえませんか。その人形、笑顔が気持ち悪くて」

「ああ、ごめん、ごめん」

 永山哲也は机の上に大きなエケコ人形を戻した。

 ゲートの方から山野紀子が春木を呼んだ。

「ほら、ハルハル、行くわよ。こっちも仕事があるんだから」

「はーい。今行きまーす」

 返事をした春木陽香は、スキップしながらゲートの方へと向かう。

 鞄を右手に提げたまま神作の横に立って春木の様子を見ていた上野秀則は、呟いた。

「今度は永山か……」

 上野を一瞥して項垂れた永山哲也は、再び机のパソコンに向かった。

 神作真哉は右手だけでホログラフィーキーボードを打ちながら、横の上野に言う。

「あの子は前から永山なの」

 上野秀則は唖然とした顔で遠くの春木に目を向けたまま言った。

「そ、そうなのか。あの話、マジだったのか……」

 神作真哉が言った。

「今頃驚くおまえに、こっちが驚くよ。ほら、左手を貸してくれ。右手だけじゃ、上手くキーボードが打てない」

 上野秀則は右手に鞄を提げたまま神作の椅子の左側に屈むと、左手を前に出し、神作のホログラフィーキーボードに翳して言った。

「ああ、そうだな。じゃあ、こうやって俺がおまえの左手部分を……って、打てるか!」

「馬鹿、こういうのはな、相手の気持ちを読んでだな……」

 神作と上野を見ていた永峰千佳がヘッド・マウント・ディスプレイを頭に被りながら、溜め息を吐いた。

「忙しいのに、なに遊んでんだか……」

 神作と上野は顔を見合わせる。

 上野秀則は咳払いをしてから自分の部屋に向かった。神作真哉も真顔でゆっくりとキーを打っていく。

 記者たちは皆、真剣な顔で仕事に取り掛かった。


 

                2

 エレベーターの中で、春木陽香は鼻歌を歌いながらニコニコしていた。踵を上げたり下げたりして、機嫌よくリズムをとっている。そんな彼女に、隣に立つ山野紀子は白けた視線を送っていた。

 二人きりのエレベーター内で、山野紀子が春木に声をかける。

「ハルハル」

「はい?」

「哲ちゃんと、お揃いだから?」

 山野紀子は春木が握っていた「エケコ人形」を指差した。山野の指先から自分の手の中の「エケコ人形」に視線を移した春木陽香は、ニコリと笑って答えた。

「あ、はい。ヒヒヒ」

「ヒヒヒじゃないわよ。――あのね、哲ちゃんには、祥子さんがいるの。由紀ちゃんも。密婦は駄目よ。密婦は」

「みっぷって何ですか」

「秘密の密に、新郎新婦の婦。他人の亭主に手を出す女よ。間女のこと」

「ひっどーい。別に、そんなんじゃないですよ」

 春木陽香は、また頬を膨らませる。

 山野紀子は言った。

「分かってるわよ。でも、哲ちゃんも男だからね。あんまりいい顔していると、本気にするわよ」

「それは、それで……」

「それが駄目だって言ってるの」

 エレベーターが開いた。山野紀子が春木を指差しながら出て行く。

「節度と常識ってものを考えなさいよ。あんたも社会人なんだから」

「はーい……」

 春木陽香は頬を膨らまして人形をポケットに仕舞いながら、エレベーターから廊下に出た。そして急に立ち止まる。顔を上げた彼女は「ああ!」と声を発した。先に進んでいた山野紀子が驚いて振り向くと、春木が走ってきて、そのまま追い越していった。

「ちょっと、どうしたのよ」

 春木陽香は山野の問いかけに答えることなく走っていく。編集室のドアの前で急停止した彼女は慌てて社員証を入室ロックに翳すと、ドアを開け、編集室に続く細い廊下に急いで入っていった。立ち止まったままその様子を見ていた山野紀子は眉を寄せて呟いた。

「働き過ぎで、少し情緒不安定なのかしらね。心配だわ……」

 山野紀子は頭を掻きながら広い廊下を歩いていった。


 山野紀子が編集室に入ると、春木は自分の席で椅子にも座らず、腰を折って机の上の立体パソコンを操作していた。その立体パソコンから投影された接触式の平面画像ホログラフィー文書に手を伸ばし、ホログラフィー・ページを次々と捲っていく。

 山野紀子は春木が突き出したお尻の後ろを通りながら、すまし顔で彼女に尋ねた。

「何か気になる物でも見つけましたか」

 ホログラフィー文書の英文字を指先で辿りながら、春木陽香は答えた。

「はい。『密婦』で思い出しました。『みっぷす』です。ミップス」

 山野紀子は立ち止まり、春木の机の方に戻ってきた。春木の後ろからホログラフィー文書を覗き込み、再び尋ねる。

「密婦がどうかしたの?」

 春木陽香は目の前で空中に浮いている立体映像の紙面を捲りながら早口で答えた。

「いいえ違います。『ミップス』です。ミリオン・インストラクションス・パー・セカンド(million instructions per second)。略してMIPSミップス。コンピューターが一秒間に処理できる命令数を百万単位で表した、コンピューターの処理速度単位のことです」

「それが、どうかしたの?」

 春木陽香は頁を捲る手を止めると、その頁に書かれた細かな文字を読み始めた。

「どっかで見た覚えがあるなと思ったんです。さっきの名前。そしたら、MIPSで思い出して……あ、あった」

 机の上のホログラフィー文書から顔を離した春木陽香は、姿勢を戻すと、山野の方を向いて言った。

「サートゥンシット・クラマトゥン博士。SAI五KTシステムの実行処理速度を計測した人物です。AB〇一八とIMUTAから計測された基本処理速度を基に等比較級的な速度上昇率を予想してシステムの処理速度を算出しようとしたのが、この博士なんです」

 山野紀子は、そのホログラフィー文書を覗き込んで読みながら言った。

「ふーん。じゃあ、その時に使った単位が、MIPSって訳ね」

「いいえ。実際には、その一千倍のBIPSビップスという単位を使って計測していて、それでも足りなかったみたいです」

「ビリオン・インストラクションス・パー・セカンドかあ。それを使っても、結局、計測できなかったわけね。その後、TIPSティップスQIPSキップスと単位を上げていって、ええと……最後はセンティリオン・IPSイプスまで使っても駄目で……はあ? 結局、不可思議領域への侵入を確認したって書いてあるわよ。本当かしら」

「よく解かりませんけど、たぶん、そうなんだろうと思います。でも、その後も計算を続けるって。ああ、ここです」

 春木陽香は文書の下の一文を指差した。山野紀子がそれを邦訳しながら音読する。

「私は今後も計算を続ける。これは私の一生の仕事になるだろう。しかし、数学者は諦めてはいけない。計測値の基準となるポイントを見つけ出さなければ、このコンピュータ・システムの危険性が具現化し、発現した時、人類には対処する方法が……危険性?」

 春木の後ろの席で、別府博が椅子を回して二人の方を向いた。

「ああ、その教授、知ってますよ。随分と前からSAI五KTシステムの危険性について訴えていた教授ですよね。自分が考案した定速自動車流制御システムの基本数式と、結果が一致しないって。交通事故ゼロは有り得ないって言っていた人ですよ」

 春木の机に手をついて腰を曲げたまま、山野紀子は別府の方に顔を向けて尋ねた。

「それで、SAI五KTシステムの方を疑ったということなの?」

 別府博は両手を上げて答えた。

「さあ。――とにかく、SAI五KTシステムについて、いろいろと独自に計算値を算出して、なんか、日本政府にイチャモンをつけてきたみたいですね。システムを停止しろとか、AB〇一八とIMUTAを切り離せとか」

 立っている春木陽香が補足した。

「ですが、実際に定速自動車流制御システム上での交通事故死傷者数はゼロですし、SAI五KTシステムも問題なく稼動しています。政府も初めのうちは、クラマトゥン博士の言う事に耳を傾けていましたが、時が経ってシステムの安全性が確信され始めると、徐々に耳を貸さなくなった。たぶん、そういうことだろうと思います」

 机から手を放し、体を起こした山野紀子は、春木に言った。

「まあ、自国のインフラの基本数式を考えてくれた人だからね。進言を無下にする訳にもいかなったんでしょうけど、現実に問題が起きていないなら、その博士が間違えていたんでしょうね」

 春木陽香は自分の机の上のホログラフィー文書を見つめながら言った。

「私もそう思って、気には留めていませんでした。でも、その博士が定速自動車流制御システム上で第一号の被害者になったというのは、何か気になりませんか」

 山野紀子は腕組をすると、下を向いて考えながら呟くように答えた。

「そうねえ……」

「私、ちょっと上のみなさんに知らせてきます」

 春木陽香は駆け出していった。顔を上げた山野紀子が呼び止めようとする。

「あ、ちょっと、ハルハル、例の田爪健三の研究データ……もう」

 春木の姿は既に山野の視界から消えていた。呆れ顔の山野に別府博が言った。

「あいつ、上の新聞社の方に行く時は、もの凄く足が速くなりますよね。僕が下の階への用事を頼んでも、あのスピードでは出て行かないですもんね」

 山野紀子は腕組みをして、春木が出て行った細い廊下の先のドアを見ながら言った。

「いかんなあ、こりゃ……」

 編集室の窓には大粒の雨が打ち付けていた。


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