第16話

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 ようやく完全に電気が復旧した新日ネット新聞社の社会部フロアは、通常通りに稼動していた。空調設備も通常通りに動いている。忙しそうに電話をしている記者もいた。

 上野の部屋には、神作真哉と上野秀則、永山哲也、山野紀子、春木陽香が居た。彼らは小さなテーブルの上に置かれた立体パソコンの上に浮かぶ数枚の平面ホログラフィーを囲んで立ち、深刻な顔でそれを見つめている。その立体パソコンには、新日風潮社の編集室に送りつけられてきたMBCが挿入されていた。宙に浮かんだ文書ホログラフィーには銀行口座の入出金の流れが記載されていて、その前に小さく縮小されて浮かんだ写真のホログラフィー画像には、国防大臣の奥野恵次郎が光沢のある燻し銀のスーツを着た男と会食している様子が写っている。

 それぞれ顔に深刻な表情を浮かべた彼らは、神作、山野、上野、永山、春木の順に発言していった。

「これ、本当かよ。上の政治部が大喜びするネタじゃねえか。奥野に酒を注いでいるのは、NNJ社の社長の西郷だよな」

「ええ。間違いない。NNJ社社長の西郷京斗さいごうけいと。こっちの口座も西郷のもの。その口座から、奥野大臣の夫人が取締役になっている会社の口座に金が動いてる。ま、実質的に奥野恵次郎の懐に入ったのは明らかね。ってことは、どストライクで収賄だわね。しかも、受託収賄でしょ、どうせ」

「ウチがこれを載せたら、奥野大臣は終わりだな。西郷も贈賄罪容疑で即逮捕。NNJ社の代取は解任かあ」

「いや、それは一次的な動きで、最終的には辛島政権の退陣に繋がりかねないですね」

「ここの料亭って、美味しいんですかね」

 最後に山野紀子が文書ホログラフィーに視線を落としながら言った。

「ハルハル。それは、どうでもいい」

 神作真哉が上野の顔を見て言う。

「とにかく、一面掲載には少し検討が必要だな。政治部に渡すのも、よく考えないと」

「そうだな。今のあいつらは、政治家たちの機嫌を取ろうと必死だ。身内だが、正直、どう出るか分からんぞ」

 上野秀則がそう言った後で、永山哲也が言う。

「送り主も分かりませんしね。他紙へも同じリークがされているかどうか、探りを入れてから動いた方がいいんじゃないですかね。下の風潮社にだけ送られてきたのだとしたら、何か狙いがあるのかもしれない」

 春木陽香がコクコクと頷く。

 その隣で山野紀子が言った。

「確かに。単に奥野を蹴落とすことが狙いなら、新聞各社に送るはずよね。このタイミングでNNJ社と軍の汚職ネタが送られて来るなんて、怪し過ぎるもんね」

 神作真哉は腰を折って身を屈めると、右手でホログラフィー文書を次々と切り替えながら言った。

「奥野夫婦と西郷の銀行取引明細に、マネーカード口座の取引履歴、NNJ社の法人口座の履歴と西郷個人の外貨預金口座の履歴、そして、二人が密会している画像。どうも綺麗に証拠が揃い過ぎているな」

 上野秀則が腕組みをして言う。

「送ってきたのは法律に詳しい奴だな。よくポイントを知っているもんな」

 永山哲也が首を傾げた。

「しかし、個人口座の取引履歴なんて、どうやって手に入れたんでしょう。しかもこれ、銀行の職員が個人で引き出せる情報じゃないですよね。金融機関が組織として提示した情報ですよ。こんな情報、捜査機関が令状を提示しないと提供しないでしょう、普通」

 春木陽香が眉間に皺を寄せて言う。

「外貨預金口座ですもんねえ……」

 山野紀子が言った。

「何の口座でも同じよ。――でも、奥野の周辺に捜査の手が伸びているという情報が無いところをみると、これ、令状無しで提示されたってことよね。令状無しでも金融機関に顔が利くところって言ったら……」

 上野秀則が山野を見て言った。

「まあ、これらの大手都市銀行に上から命令できるとすれば、ストンスロプ社みたいな大企業か、財務省とか金融庁とかだろうな」

 春木陽香は首を傾げる。

「光絵会長が、こんなことするかな……」

 春木を見て神作真哉が言った。

「確かにな。あの光絵会長なら、やるとしたら、こんな回りくどいことはしないはずだ。直接奥野を呼び出して、これを突きつけて、強引に辞任に追い込むだろうな」

「そうすると、財務省か金融庁のルートか、あるいは、他の大物か」

 永山の発言に山野紀子が付け足した。

「あと一つ。財務省や金融庁を動かせる省庁」

 神作真哉が言う。

「司時空庁か」

 山野紀子は頷いて見せた。

「そ。たぶん、その線が一番濃いんじゃないかな」

「だとすると、狙いは何なんだ?」

 上野秀則の問いに山野紀子が答える。

「単純に考えれば、奥野のパージ。でも、もっと何か、別の狙いがあると思う」

 神作真哉が山野の顔を見て言った。

「裏で糸を引いているのが津田だとして、奴が国防大臣の奥野を排除して何の得があるんだ?」

 山野紀子も神作の顔を見て答える。

「排除のが目的ではなくて、排除状況に追い込むのが目的なのかも。ね、うえにょ」

「上野だがな」

 そう答えた上野秀則は、真顔に戻って言った。

「ああ。スキャンダルネタを政治記者に掴ませて、辞任や罷免ギリギリまで追い込んでおいて、救済と引き換えに要求を突きつける。政治家が自分の政敵をねじ伏せるために用いる常套手段だ。マスコミを利用するんだよ。結局、政治記者ってのは生き残る方に付くからな」

 永山哲也が怪訝な顔を上野に向けて尋ねた。

「じゃあ、津田長官は奥野大臣を自分の傀儡かいらいにするのが目的だと」

 神作真哉が首を横に振った。

「いや、国防軍だな。奴は国防軍を手中に収めようとしているんじゃないか」

「クーデターでも起こそうってつもりかしら」

 山野紀子がそう言うと、春木陽香が目を丸くして声を上げた。

「く、クーデター!」

 パーテーションの壁の上の隙間を指差しながら、神作真哉が顔をしかめて春木に言う。

「声がでけえよ。上、開いてるんだから」

「すみません……」

 春木陽香は首をすくめた。

 上野秀則が言う。

「でも、津田にそこまでの度胸は無いだろ。それに、津田がそんなことを指示したとしても、国防軍の兵士が従うと思うか?」

 山野紀子が答える。

「まあ、そこまでの人望も統制力も、あの男には無いわね」

 永山哲也が言った。

「でも、津田長官が国防軍を使って何かをしようとしていると考えた方がいいですよね」

「津田がやろうとしていることか……」

 神作真哉はギプスの左腕を右腕の上に軽く乗せて、緩く腕組みをした。

 春木陽香が隣を見上げて山野の顔を見た。

 春木の視線に気付いた山野紀子が春木に言う。

「何よ」

 腕を解いた神作真哉が言った。

「やっぱ、バイオ・ドライブだよな。ASKITに奪われたバイオ・ドライブを取り返そうとしてるんじゃないか」

 永山哲也が尋ねる。

「軍を使って奪い返すつもりですかね」

 春木陽香が自分の顔を指差してから山野の顔を指差し、ハンドルを握る仕草をする。

 山野紀子が言う。

「だから、何なのよ」

 上野秀則が言った。

「だが、軍を使うって言っても、何処に出動させるんだよ。ASKITについては、何処に拠点があるのかも分かってないんだろ」

 神作真哉が頷いた。

「各国の情報機関が探しても、見つかってないらしいからな。相手の所在が分からないんじゃ、国防軍もバイオ・ドライブ奪還のための攻撃を仕掛けようがないか……」

 永山哲也が言った。

「もしかしたら、津田長官はASKITの居場所を掴んだんじゃないですか」

 神作真哉が永山の顔を見て言う。

「そんなら、辛島総理にすぐに報告するだろ。バイオ・ドライブどころの話じゃねえからな。外国に拠点があるんだとして、その国の軍隊に依頼せんといかん訳だ。そりゃ、もう外交の話だよ。司時空庁長官の津田が手に負える話じゃない。それに拠点が国内にあるのなら、とっくに公安や軍の情報局が見つけているはずだ」

 春木陽香が山野に耳打ちする。

「バイクですよ。バイク。青いバイク」

 春木から頭を離した山野紀子は、春木に言った。

「それが何よ。今、津田長官の話をしてるの」

 そして、神作の方を向いて言う。

「あ、そうだ。AB〇一八を襲うつもりなんじゃないの。あそこにバイオ・ドライブがある可能性は高いと思うんだけど」

 上野秀則が首を傾げて言った。

「それこそ、軍にやらせるかね。AB〇一八は実質的にNNC社のものだろう。NNC社はフランス政府を動かしているかもしれん。そのAB〇一八を日本の軍隊が襲撃したとなれば、日仏関係が外交レベルで破綻しちまうんじゃないか」

 春木陽香が深刻な顔で呟く。

「美味しいワインが飲めなくなりますね……」

 永山哲也が上野を見て言った。

「特殊部隊を使うんじゃないですか。例えば、偵察隊とか。潜入作戦は得意でしょうし」

 神作真哉がギプスをした左手で顎を触りながら言った。

「まあ、あり得るな。こっそり潜入させて、こっそり拝借させるって訳かあ」

 上野秀則も眉間に皺を寄せて言った。

「あそこには私設軍隊が駐留しているんだろ。だとすると、潜入するのは精鋭部隊だな」

「でも、要は、軍を使って泥棒させようってことよね、それ」

 山野の指摘に全員が沈黙した。

 戸惑いながら、上野秀則が言う。

「どろ……うん、まあなあ。確かにそうだよなあ。その程度のことで奥野を追い込む必要までは無いか」

 永山哲也が言った。

「でも、専門の兵士を潜入させるのだとしたら、それなりの装備や準備も必要ですよね。偵察衛星での支援も必要になってくる。やっぱり、国防大臣からの指令が必要になってくるんじゃないですかね」

 上野秀則が頷きながら言った。

「それも、そうだなあ。そうなると、奥野を追い込む必要が出てくる訳かあ……」

 神作真哉が呆れ顔で上野に言う。

「どっちなんだよ、おまえ」

 春木陽香が遠慮気味に小さく手を上げて発言した。

「あの……」

 全員の視線が春木に注がれた。

 春木陽香は言う。

「――狙いは、私たちなんじゃないでしょうか」

「俺たち?」

 問い返した神作の方を見て、春木陽香は頷いた。

「私たち、まだ尾行されているみたいなんです。昨日、編集長の車でストンスロプ社に行く途中、青いバイクと追いかけっこしました」

 永山哲也が怪訝な顔で言う。

「追いかけっこ?」

 山野紀子が手を振りながら言った。

「ああ、ちょっと振り切ろうかと頑張ってみただけ。あはははは」

 神作真哉が真剣な顔で尋ねた。

「まだ尾行されてるのか」

 山野紀子は頷く。

「うん。前に地下高速で襲われた時のバイクと同じバイクだった。昨日は、ただ付いてきただけだったけど」

 上野秀則が目を丸くして山野と春木を指差しながら言った。

「ていうか、おまえら、ストンスロプ社に行ったのかよ。何しに」

 春木陽香が答えた。

「光絵会長さんに会いに行きました。で、少しだけ会ってもらえたんです」

 山野紀子も言う。

「私は追い出されちゃったけど、ハルハルが光絵会長と話したの」

 春木陽香が報告した。

「会長さんは、事件には関与してないと言っていました。たぶん、本当だと思います」

 神作真哉と上野秀則は顔を見合わせた。

 永山哲也が春木に尋ねた。

「で、どうして僕らが狙われるんだよ」

 春木陽香は口を尖らせて言った。

「なんて言うか、いわゆる、口封じじゃないですかね」

 神作真哉と上野秀則が順に言う。

「おっかねえことをサラッと言うなあ。軍が俺たちを消そうとしてるってのか」

「民間人を襲うかね。国防軍だぞ」

 神作真哉が左腕のギプスを上げて上野に見せた。

「いや、こういう事実もあるには、あるがな」

 山野紀子が言う。

「でも、あれは軍人じゃないでしょ。どう見ても恰好がチンピラ風だったし、ザンマルが相手だとは言え、やられっぷりも素人だったものね」

 永山哲也も首を傾げる。

「キャップは金属バットや木刀で襲われたんですよね。軍人の襲い方ですかね、それ」

 上野秀則も言った。

「軍人がやるなら、もっと組織的に、徹底してやるんじゃないかね。狙撃するとか」

 山野紀子も頷きながら言う。

「そうよね。やり方が中途半端よね」

 神作真哉は皆の顔を見回しながら困惑した様子で言った。

「おいおい、その、もっとやられれば良かった的な言い方は何だよ。一応、救急車で運ばれたんだぞ、俺」

 永山哲也は話を続けた。

「でも、津田長官が、いまさら僕らを襲って何か得がありますかね。逆に自分の首を絞める結果になることくらい、彼が一番分かっているはずだけどなあ」

 神作真哉は春木を見て尋ねた。

「だが、尾行されていたのは事実なんだな。どうして軍人だと思うんだ」

 山野紀子が掌を立てて動かしながら言った。

「普通の運転じゃなかったのよ。戦術運転って言うの? こう、車の間とかを、ヒュッ、ヒュッっと……」

 隣で春木陽香が呟く。

「編集長の運転も普通じゃなかったですけど」

 山野紀子が驚いた顔で春木を見て言う。

「あんたに言われたくないわよ」

 神作真哉が二人の方に右手を突き出して言った。

「まあ、まあ。その点は大体の察しがつく。俺はどっちが運転する車に乗るのも御免だ」

 上野秀則が深刻な顔をして机上のホログラフィー画像を指差しながら言った。

「この情報リークと関係しているのかもな。俺たちを尾行して、動向を探っている」

 永山哲也が頭を掻きながら言う。

「さて、どうしますかね」

 春木陽香も頬を膨らませて大きく頷いた。

 上野秀則が咄嗟に声を上げる。

「ドウスル五!」

 神作真哉が言った。

「ああ。それ、やめたんだ。子供みたいで恥ずかしいだろ」

「なんだよ!」

 上野秀則は地団駄を踏んだ。

 山野紀子が真剣な顔で神作に言った。

「辛島総理は外遊中なのよね。戻って来る予定は知ってる?」

「ああ……いつだっけ、うえにょ」

「だから『の』だ。『うえの』。水飴でも舐めてるのか、おまえ」

 神作真哉は面倒くさそうに言った。

「わかったから。で、いつだよ。辛島総理が帰国する予定は」

 上野秀則は渋々と答えた。

「金曜の午後だな。発表されている予定では」

 山野紀子が言う。

「じゃあ、早ければ金曜日中に辛島総理が奥野を更迭するということもあり得るわけね」

 神作真哉が山野の顔に厳しい視線を向けて言った。

「載せる気か」

 山野紀子は頷いた。

「奥野が更迭されて国防大臣で無くなれば、津田は国防軍を動かすことは出来なくなるわよね」

 上野秀則も心配そうな顔で言った。

「奴らの誘いに乗ってみるって訳か」

 山野紀子はニヤリとして答えた。

「野良犬に咬みつかれたら、手を引かずに押せって言うでしょ。そしたら、野良犬はたまらず口を開けるって。まずはウチの週刊誌に載せる。それで警察か官邸が動き出したら、新聞の方にも載せる。そういうことでどうかしら」

 神作真哉と上野秀則は再び顔を見合わせた。

 不敵な笑みを見せている山野紀子の横顔を、春木陽香は不安そうな顔で見つめていた。



                  6

 新日ネット新聞社ビルの資料室で、春木陽香は検索用のパソコンの前に座っていた。隅の席に置かれているそのパソコンは、二〇一〇年代タイプのかなり古いパソコンである。キーボードもボタン式の旧式のものだ。机上投影型のホログラフィー・キーボードに慣れた春木たちの世代には少し使いづらい。その前で、彼女は頬を膨らませて、独り言を呟いていた。

「編集長はああ言ってるけど、本当に大丈夫なのかな。掲載に向けて事実の裏取りもしないといけないのに。それに、辛島総理が奥野大臣を更迭しなかったり、更迭の決断をなかなか下さなかったりしたら、どうするんだろ。いいのかな、本当に」

 春木陽香は暫らく首を傾げていたが、姿勢を直し、気を取り直して言った。

「ま、とりあえず、こっちはクラマトゥン博士の教科書からキーワードを検索する作業を終わらせますか。ええと、まずは、『タイム・マシン』と。検索」

 旧式の押しボタン式キーボードを使いにくそうに打ちながら、検索ワードを入力して、実行ボタンを押す。すぐにパソコンが検索結果を表示した。それを見た春木陽香は、また首を傾げた。

「んー。『見つかりません』かあ……。よし、じゃあ部分一致で、検索っと」

 期待を込めてキーを叩いた春木陽香は、表示された結果を見て眉間に皺を寄せる。

「やっぱり『見つかりません』。そしたら、『タイムトラベル』なら……」

 再び検索すると、すぐに答えが返ってきた。春木陽香は、またまた首を傾げた。

「これも無し。部分一致も、っと。――はやっ。やっぱり無しかあ。うーん……あ、そっかあ。英語表記かもね。英語で入力して……検索っと」

 検索結果を見た春木陽香は、椅子の背もたれに身を投げた。

「無いなあ。『タイムトラベル』は……無しですかあ」

 暫く考えていた春木陽香は、再び体を起こすと、キーボードを叩きながら言う。

「タイムトラベル関係の研究はしていないみたいね。じゃあ、『コンピュータ』で検索。――お、七個見つかりましたか。ええと、どうするかな。とりあえず、検索結果を保存っと。それから、英語でコンピュータ、コン……ええと、『m』だったよね。ピュテエっと入力して、検索、えい!」

 春木陽香は目を丸くした。

「ゲッ、一〇八個見つかりました。マジで。――まあ、これもとりあえず、保存っと。それから……あ、『computation』も調べとこ。コンピュ、タシオンと。ええとシー、オー……コンピュテイション。よし、間違えてないな。検索。ポチッとなっと」

 パソコンの画面が結果を返した。春木陽香は顔をしかめる。

「うわ、五七個。こりゃ、後で一つずつ確認するのが大変だ。おっと、保存、保存っと。そんで、次はあ……『バイオ・ドライブ』。『バイオ』で探してみるか。『バイオ・コンピュータ』も出てくるもんね。ん、待てよ。さっきの『コンピュータ』で抽出した中に含まれてるかあ。『量子コンピュータ』も入ってるよね。じゃあ、やっぱり『バイオ』で。ちょんっと」

 春木陽香は細めた目を画面に近づけた。

「おや? 『見つかりません』? ふーん。じゃあ、英語で。――えっと、『v』じゃなくて、『b』よね。いつも間違えるんだよな。ビー、アイ、オーで、バイオっと。検索」

 春木陽香は腕組みをしてブツブツと呟いた。

「あのパソコンのせいだよねえ。いっつも間違えて入力しちゃう……」

 そして、何度も頭を振って言った。

「ああ、いけない、いけない。他人のせいにしちゃいけないね。それにアレ、使い易い、かっこいいパソコンだし。あ、出た」

 画面に結果が表示された。春木陽香が覗き込む。

「三個……。保存っと」

 春木陽香は人差し指で眉間をマッサージしながら言った。

「じゃあ次は……、『量子』ね。うーん。英語表記だけでいいかあ。ええと、量子、量子――ああ、クァンタムか。くあんた……『a』だっけ、『u』だっけ。ええと……『u』だったかな。よし、quantum。検索しますっと。ピコり」

 暫らく待って、春木陽香は画面に顔を寄せた。

「お、一五個か。そんじゃあ、『IMUTA』は……、どうでしょうかっと」

 また暫らく待った春木陽香は、今度は腕組みをした。

「一一個。なるほどねえ。それなら次は『AB〇一八』。ええと、エー、ビー、ゼロ、イチ、ハチっと。はい、検索」

 検索結果を見た春木陽香は、姿勢を正し、上げた右手の掌を上に向け、下げた左の掌を下に向けてポーズを取った。

「はい、然り。百二〇個。ビンゴ。そんじゃ最後に『SAI五KTシステム』。ええと、エス、エー……、これは前後の部分一致も合わせて検索っと。ラスト! どうじゃ!」

 勢いよくキーを叩いた春木陽香は、画面に表示された検索結果を見て声を上げた。

「おお! 百八個! やっぱりね」

 春木陽香は大きく息を吐いた。

「ふう。――それじゃ、確認していきますかね。まずは、『bio』からですね。ええと最初のやつはっと……あっりゃあー。数式と英語ばっかり。これ、翻訳版じゃなかったっけ。出しているのは……ええ! ストンスロプ出版?」

 春木陽香は検索用パソコンの前で、腕組みをして呟いた。

「クラマトゥン博士の最後の著作だったよね、これ。ストンスロプ系の出版社が出してるの? ええと、これ、何てタイトルの本だったっけ。長い題名だったよね。ええと、なになに、『論理予測演算速度の理論的推測。超並列演算処理における危険特異アルゴリズムとニューロン方式演算速度の関係』かあ。うーん、さっぱり解からんですなあ」

 長々と独り言を発しながら、何度も首を傾げている春木陽香を、資料室の他の利用者たちが怪訝な顔をして見つめていた。




 二〇三八年八月十八日 水曜日


                  1

 新首都の中心に広がっている昭憲田しょうけんた池の北岸には、スポーツ競技場や遊園地、公園、コンサートドームなどのレジャー施設の他、美術館、博物館などが並んでいる。この区画には一流ホテルの高層ビルも多い。その中の一つのホテルの最上階にある展望レストランは国内屈指の名店である。

 一流フレンチ・レストランとして名高いこの展望レストランの奥の個室には、昭憲田池とその西岸の超高層ビル群を望める最高の眺めが演出された窓があった。その窓は、正午過ぎにもかかわらずカーテンが閉じられていて、室内は人工の灯のみで照らされていた。

 天井に設けられた高級シャンデリアの真下には、純白のクロスが掛けられたテーブルが置かれていたが、その上には皿もグラスも置かれていない。国防大臣の奥野恵次郎が一人で椅子に座り、その向かいの席に立体パソコンが置かれているだけである。その立体パソコンからは細い二本のケーブルが延びていて、それは絨毯の上に置かれた機械を中継して窓のカーテンの下へと続いていた。そのカーテンがはぐられる。

 カーテンの中から、耳のイヤホンマイクを指で押さえながら、増田基和が出てきた。彼はカーテンをしっかりと閉じると、奥野の方を向いて言った。

「大臣。準備が整いました」

「うむ」

 奥野が頷くと、向かいの席の立体パソコンから光が照射され、椅子の上に半透明の男の上半身が現われた。徐々に濃度が高くなり、やがて、彼の派手なスーツの色をくっきりと映し出す。

 国防大臣・奥野恵次郎は威厳のある声で、NNJ社の代表取締役である西郷京斗の等身大のホログラフィー画像に語りかけた。

「ああ、悪いな、昼食時に」

 奥野恵次郎は窓辺に立つ増田を一瞥すると、手を振って退室を指示する。

 増田基和は奥野に一礼して、部屋から出ていった。

 一人部屋に残った奥野恵次郎は、黙って西郷のホログラフィーをにらんでいた。視線を動かし、増田がドアを閉めたのを確認すると、急に前屈みになってホログラフィーの西郷に一礼し、話し始めた。

「いやあ、本当に申し訳ない。いろいろと、うるさ型が多ございましてな」

 パソコンから投影された西郷京斗は、スーツの襟についた埃を指先で取り除きながら答えた。

『そうでしょうな。先生も、周囲へのお気遣いが大変でしょう』

 奥野恵次郎は精一杯に愛想笑いを浮かべて言う。

「そうなんですよ。まあ、私の読みでは、次の選挙も近い。与野党を問わず、いろいろと画策が始まっていましてな。今朝も我が党の政策懇談会が開かれて……」

 西郷京斗は奥野を見据えて言った。

『それで、御用は何です?』

「いや、実はな。――実はですな、例のAB〇一八の警備について、一つご提案がありましてな」

『何でしょう』

「辛島総理は、御社と政府との契約については、別途に交渉役を選任して、当該担当官に契約交渉をさせようと考えているみたいなのですよ」

 ホログラフィーの西郷京斗は鼻で笑った。

『存じ上げています』

 一瞬間を開けた奥野恵次郎は、自分の後頭部をポンポンと叩きながら言った。

「いやあ、そうですか。さすがに、お耳が早い」

 西郷京斗は冷めた視線を奥野に向けた。

『こちらも驚きましたよ。国防大臣と直接、忌憚の無い話し合いができるものと期待しておりましたのでね。せっかく先生とお友達になれたのに、残念だ』

 奥野恵次郎は白いテーブルクロスの上に両手を置くと、その間に額を落とした。

「いや、本当に申し訳ない。この通りだ」

 顔を上げた奥野恵次郎は続けた。

「そこでなのだが、交渉役に誰が選ばれたとしても、交渉が形式的に終わるように、既成事実を作ってしまうというのはどうだろう。辛島総理も、国民の税金を使っている国防軍を民間会社である御社の施設に配置する以上、こういった形をとって契約締結に運ばなければ、後で野党から何と言われるか分からんと考えているのかもしれん。だとすれば、事前に国防軍が警備実績を残して、そのデータを基に問題点を修正する、そういう運びで事を進めるというのも有りではないかと思うんだ。それならば、御社のニーズにも沿った形で契約できると思うのだが、どうだろうか」

 ホログラフィーの西郷京斗は首を傾げた。

『よく分かりませんが、その警備実績とやらは、民間施設の私共に対して、どういった理由付けをもって残すというのです? 契約するのに問題があるのなら、警備実績を残すのも問題でしょう』

 奥野恵次郎は間髪を容れずに返した。

「そ、それは心配ない。我々の、有事における重要施設警備の模擬訓練ということで、事を進めようと思っている。御社のAB〇一八は我が国にとって重要施設であることに疑いは無いからな。どうだね、名案だろう」

 西郷京斗のホログラフィー映像は片笑んだ。

『なるほど。模擬訓練名目で国防軍の兵士を配置していただけると』

「そういうことだ。だが、一つ問題が有るのですよ」

 人差し指を立てた奥野恵次郎を見て、ホログラフィーの西郷京斗は顔をしかめた。

『はあ……まだ何か有りますか』

 奥野恵次郎は顔の前でパタパタと手を振って言う。

「いや、大したことではない。模擬訓練である以上、厳戒令下体制の緊急出動を前提とした動きになる。つまり、緊急展開でAB〇一八の施設に兵を送り込むということだ。もちろん、日程等については事前に連絡するが、その、なんだな、御社の警備担当者が驚くといかんと思いましてな。私としては、現場レベルで下手に衝突しては、その後の契約締結に支障が出るかもしれんと危惧しとるんですよ」

 西郷京斗は頷いて言う。

『私の方から、よく伝えておきますよ。ご心配なく』

 奥野恵次郎は再び手をパタパタと振ってから言った。

「いや、そちらの警備兵……いや、警備員たちは、行儀がいいかもしれませんがな、こちらは戦争帰りの軍人たちだ。立ち腹も多くおりますのでな。万一の事態が起きて、施設やバイオ・コンピュータそのものに傷を付ける様なことがあってはいかんでしょう」

 西郷京斗のホログラフィー映像は眉間に皺を寄せて言った。

『それは困りますなあ。よく躾けておいてもらわねば』

 奥野恵次郎は西郷に対して大袈裟に頷いて見せる。

「それは分かっているのだが、万が一ということもある。それでなのだが……」

 西郷京斗は、短く溜め息を吐いた。

『我々にどうしろと仰るので?』

 奥野恵次郎は精一杯に笑顔を作って答えた。

「いや、どうしろこうしろという訳ではないのですがね、一つ協力ということで、御社の警備員や警備ロボット、もちろん、有ればの話だが、それらを事前に退去させておいてくれると安心なのだが。もちろん、兵の配置とそちらの武装解除に時間差が生じないようにする。我々も、御社の警備態勢に穴が生じないように、全力を尽くそう。それで、どうだろうか」

『要するに、AB〇一八の施設から警備要員を前もって立ち退かせて、明け渡せと』

 奥野恵次郎は口角を無理に上げた顔を左右に振った。

という訳ではないが、非武装施設の警備が国防軍の派兵の条件となっていましてな。その点だけは、どうしても変えられんのですよ。ですから、一瞬だけでいい、我々と交代するその時には警備要員等が居ないという状況にしておいてもらいたい。その代わり、警備を引き継いだ場合は、我々が責任を持って施設を重点警備する。そこは信用して欲しい」

 西郷京斗のホログラフィーは厳しい顔を見せた。

「国防軍の実力は信用していますし、だからこそ、契約をお願いしようと思っているのですがね」

 奥野恵次郎は再びテーブルの上に額を擦り付けた。

「頼む、この通りだ。この奥野恵次郎の一生の頼みだと思って聞いて欲しい。市街地の一角で、互いの誤解から小競り合いの戦闘にでもなれば、周辺の民間人を危険に晒すことになる。そんな事は国防大臣として絶対に避けなければならん。そのためなら何度でも、この老将の頭を下げよう。この通りだ。検討してもらえないか」

 何度も深く頭を垂れる奥野恵次郎の姿を見て、西郷京斗は溜め息を吐いた。

『分かりました。いいでしょう。本社に報告して、指示を待ちましょう。どうか頭をお上げください』

「そうか、分かってくれるか」

 奥野恵次郎は安堵した顔を西郷のホログラフィーに向けた。

 西郷京斗は言う。

『ここまでの流れには、本社のラングトン社長も満足しておられます。ただ、彼女は外国人だ。日本の国内事情には詳しくない。ですから、すぐに納得するかどうかは分かりません。ま、私から何とか説得してみましょう』

「そうですか。本当にかたじけない。何卒、西郷社長のご人徳で、お話を通していただきたい」

 西郷京斗のホログラフィーは笑みを溢しながら言う。

『人徳など、とんでもない。男としての礼儀ですよ。それより、その訓練はいつ実施なさるおつもりで?』

 奥野恵次郎はテーブルの上に両手をついたまま、肩を上げて身を乗り出した。

「今週中に実施したい。出来れば、金曜までには」

 西郷京斗のホログラフィーは、また眉間に皺を寄せる。

『金曜までですか。また随分と急な話ですな……』

 奥野恵次郎は再び額をテーブルに落とした。

「重ね重ね申し訳ない。だが、金曜の午後には辛島総理が外遊先のヨーロッパから帰国する。それまでに形だけでも兵員の配置が済んでしまえば、いくら辛島総理でも、早期の撤収を命じるのは腰砕けになるはずだ。兵士の指揮に影響するからな。後は、御社の好きなように契約を締結されたらいい。そこさえクリアしてしまえば、我が軍がその後もそのまま警備活動を続けるだけですからな」

 平身低頭する国防大臣を前に、西郷京斗は呆れ顔で言った。

『分かりました。何とかしましょう。木曜日中にはご返答致します。そちらも、緊急出動の準備を整えておいて下さい。ウチの警備員の撤収と、そちらの兵の配置のタイムラグは十五分。いや、十分としましょう。いいですな』

「分かった。計画時間ジャストで兵を送り届けて見せましょう」

 西郷京斗はニヤリと片笑んだ。

『頼もしいですな。さすがは二十秒以上、列車の到着が遅れない国の軍隊だ。分かりました。早速、ラングトン社長と話をしてみます。返事をお待ち下さい。では、失礼します』

 奥野恵次郎は再び額をテーブルに擦り付けながら言った。

「何卒、宜しく……」

 そして、すぐに頭を上げて言った。

「ああ、西郷社長」

『何でしょう』

 奥野恵次郎は怪訝な顔で尋ねた。

「本当に方針を変更してよろしいので。当初はIMUTAから我が軍の警備兵を撤収させるよう我々に要求しておられましたのに、その逆の形で、このまま我が軍にAB〇一八の警備を任せていただく契約を進めても大丈夫なのですか。将来的にはIMUTAの方の保守管理もお引き受けいただくという話ですが、やはりGIESCOの管理では問題があるのですかな。先日、地下高速内で死者が出たようですが」

 西郷京斗のホログラフィーは微笑みながら言った。

『あれは単なるプログラムミスですよ。ご心配なく。IMUTAの管理を我々に任せていただければ、早期に修正いたします。それに、我々も方針変更は適宜いたしますよ。現状では、当初のそちらのご要望に沿った形となっておりますが、何かご不満でも?』

 奥野大臣はまた、顔の前で手を振った。

「いや、とんでもない。SAI五KTシステムを存続維持できるのであれば、それ以上の事はありませんよ。ま、今後とも末永く宜しく」

 西郷京斗のホログラフィーは大きく首を縦に振った。

『分かりました。日本の未来はあなたの双肩に担われています。我々も、今後も出来る限りの支援をするつもりですので、大船に乗った気でいて下さい。では、今日のところはこれで』

「は。どうも、お時間をいただき、ありがとうございました」

 奥野恵次郎は最後まで机の上に額を押し当て、西郷に低頭していた。

 西郷京斗のホログラフィー映像は、頭を下げている奥野を見下ろして笑みを浮かべたまま停止し、消えた。

 ゆっくりと顔を上げた奥野恵次郎は、舌打ちをしてから言う。

「やれやれ、若造が。こちらが下手に出ていれば、調子に乗りよって」

 そして、ドアの方に向かって大きな声を発した。

「おーい、増田君。機材を片付けてくれ。それから、食事を運ばせてくれ。食って帰る」

 大きく息を吐いた奥野恵次郎は、天井のシャンデリアの間から照射されたメニュー表の平面ホログラフィーに顔を向けると、その頁を捲りながら、コースの前菜とワインの銘柄に目を通し始めた。


 

                 2

 サングラスを掛けている春木陽香。大きめのサングラスが顔にマッチしていない。彼女はストローでアイス・キャラメル・マキアートを吸いながら、横を向いて、カフェのガラス越しに通りの向かいのビルの入り口を見つめていた。サングラスに隠れた顔は真剣なのであろうが、ぶかぶかのサングラスにイートンカラーの薄黄色のブラウスシャツを着て、大きなグラスから飛び出したストローを咥えている彼女の姿は、どう見ても幼児の仮装にしか見えなかった。

 向かいに座って春木の風貌を眺めていた山野紀子が、吹き出した。

「プッ。それにしても、あんた、サングラスが似合わないわね」

 山野の方に顔を向けた春木陽香は、サングラスの上に眉を上げて言った。

「ええー。だって編集長が、このサングラス掛けろって言ったんじゃないですか」

 ストローでアイスコーヒーを一口だけ吸った山野紀子は、もう一度春木の顔を見て、笑った。

「――くくく。まさか、ここまで似合わないとは思わなかったからね」

 春木陽香は口を尖らせながらサングラスを外すと、言った。

「ひどいなあ」

 山野紀子は春木からサングラスを受け取る。

「ごめん、ごめん。でも、どう? 見えた?」

 春木陽香は再び横を向いて上の方を指差しながら言った。

「はい。最上階から赤い線が、あのビルの間を通って、向こうの方にピーって」

 サングラスを掛けた山野紀子は、指先で角度を調えながら、澄ました顔で言う。

「どうよ、様になってるでしょ」

「うわあ、女優さんみたいですね」

 気取ってポーズをとった山野紀子は、満足気に片笑むと、横の窓から上方を覗いた。

「でしょ。どれどれ。んー、なるほどね。思った通りだったわね」

 春木陽香は小声で呟く。

「仁侠映画の女優さんですけど。こわっ。ズズズ」

 アイス・キャラメル・マキアートを吸った。

 窓越しに向かいのビルの最上階付近を見つめていた山野紀子が低い声を出す。

「ナメたらあかんぜよ」

 春木陽香はアイス・キャラメル・マキアートを喉に詰めて、咳込んだ。

 視線を戻した山野紀子は、サングラスを外して言った。

「この特殊偏光レンズで見えるってことは、軍仕様の不可視レーザーを使ってるってことね。あの車を尾行して正解だった。間違いない。あのホテルの最上階にある展望レストランに居るのは、奥野よ」

 春木陽香は紙ナプキンでテーブルの上を拭きながら言った。

「どうして、奥野国防大臣……」

 周囲を気にして、小声で言い直す。

「奥野さんは、わざわざ昭憲田池の辺のホテルまで来て、展望レストランから不可視レーザー通信なんてしているんですか」

 山野紀子は胸元のイヴフォンを操作しながら答えた。

「不可視レーザー通信には、拡散レーザー型と直光線レーザー型、つまり、全方位型と直線型の二種類があるの。あれは、直線型。全方位型に比べて、かなり遠距離での直接光通信が出来るけど、間に遮蔽物があると、基本的には通信できない。だから、ああやってビルの隙間を通して、相手の所まで不可視レーザー光線を送る必要があるってわけ。たぶん国防省ビルからだと角度的に、お話ししたい相手まで直線が引けなかったんだと思う。もしくは、クリアな通信ができる距離的な限界か」

「ふーん。じゃあ、相手はやっぱり……」

 山野紀子は左目を青く光らせたまま頷いた。山野がイヴフォンでの通話を始めたので、春木陽香は話すのを止めた。

 少し視線を落とした山野紀子が言う。

「どう? 別府君。そっちも見える?」

 山野の脳内で再生された別府博のイメージ動画が口を動かした。

『見えます、見えます。バッチリ見えてます。この特殊偏光メガネ、すごいですね。軍が使っているレーザー周波数にバッチリ適合してますよ。どうしたんですか、これ』

「真ちゃんの知り合いの探偵さんがね、貸してくれたの。業界雑誌の通販で買ったんだって。それより、通信用レーザーの到達先は、予想した相手?」

『はい。ビルの隙間を抜けて、今僕が立っている目の前のビルの、NNJ社が入っている階の東側の窓に当たってます。綺麗に。さっすが国防軍って感じです』

「分かった。長居すると危ないかもしれないから、別府君はもう帰っていいから。帰りも気をつけるのよ」

『了解です。昼飯を食って帰ります。オーバー』

 山野紀子はイヴフォンの通信を切り、顔をあげた。

 山野が手でイヴフォンを操作する様子を見ていた春木陽香は、山野に尋ねた。

「音声認識操作の設定にしないんですか」

 山野紀子は胸元のイヴフォンを指差して言った。

「ああ、これ? しないわよ。四十過ぎたオバさんが独り言を発してたら、恐いでしょ」

 春木陽香はアイス・キャラメル・マキアートのストローを回しながら言った。

「せっかく付いてる機能なのに。みんな使わないですよね」

「秋にはイヴフォンの新機種が出るらしいわよ。音声認識が付いてない代わりに、パネルが少し大きくなって、カード型なんだって。カメラ機能に似たものが付いてるのは、お盆前に発売になったんでしょ」

「え、本当ですか。マイクロ・マルチ・レンズが付いてるんですか」

「――ううん。持ち主が目で見て、脳の視覚野に再現された映像を読み取って、忠実に画像データにするんですって。それをパソコンとか、通信相手に送ることができるって。もちろんメール添付とかもできるらしいわよ。私も買い換えようかなあ」

 春木陽香は両手で頭を抱えて言った。

「ああー、失敗したあ。夏まで買うの我慢すればよかったなあ……」

 山野紀子が横目で春木を見ながら言う。

「哲ちゃんが持ってたから、つい、買うのを焦っちゃったのよねえ」

「いや、違いますよ。本当に便利だなと思って……」

『――オマタセ、シマシタ』

 店員ロボットがトレイに乗ったレタス・バーガーとシーフード・バーガーを運んできた。

 春木陽香は、その小柄な宇宙飛行士のようなロボットからトレイを受け取った。

『――ゴユックリ』

 ロボットは必要以上に足踏みして方向転換すると、膝を曲げて歩いていく。

 山野紀子は大きな充電パックを背負ったロボットの背中を見ながら言った。

「レトロ感満載のロボットね。リサイクル品の中古ロボで接客経費の削減かしら」

 春木陽香はトレイをテーブルの中央に置き、レタス・バーガーを手に取りながら言う。

「どこも大変なんですよ。人間の労働人口が減ってきている中で、新品の接客ロボットはまだまだ高いですし、その割りにいかにもロボットで、使用できるTPOが限られてきますもんね。人件費の削減にはなりますけど、税金とか保険とかも高いですし。だから、課税対象になっていない中古品の人気が再燃しているみたいですよ。一時流行ったヒューマノイド型の接客ロボットとか、リサイクルしたものを旧市街ではよく見かけます。家の近くのラーメン屋さんとかで」

 山野紀子はシーフード・バーガーの包み紙を外しながら言った。

「ああ、あのマネキンぽいやつね。無表情で気持ち悪い。そう言えば、知ってる? 辛島総理、性懲りも無く、またヒューマノイドロボット事業を始めるつもりらしいわよ」

 レタス・バーガーの包み紙を開けた春木陽香は、噛み付こうとした口を広げたまま声をあげた。

「ええ? あれって、二回目の東京オリンピックの時に当時の政府が大量購入して、大バッシングを浴びたんですよね。気持ち悪いとか、無駄なことに税金を使うなとか」

「ねえ。政治家って、過去から学ばない人たちなのかしらね。しかも今度は、国家事業として官営工場を設立して、そこで一括製造したものを海外にも売り飛ばすんですって。タイムトラベルの次はロボット。まあ、辛島勇蔵って男も、商売が好きな総理大臣よね」

 レタス・バーガーを齧った春木陽香はモグモグと咀嚼しながら言った。

「売れるんですかね」

「さあね。新聞の経済部の友達から仕入れた話だと、どうも人工細胞とかを使った新型なんだって。試作機も完成しているって噂らしいし、ま、純国産なら、少しは売れるんじゃないかな。また日本製品ブームだし」

「政治家さんたちも、膨らみ過ぎた財政赤字を何とかしようと、必死なんですね」

 山野紀子は窓から向かいのビルの上を指差して言った。

「自分の身を守ろうと必死の政治家もいるけどね」

 山野の指先に目を遣った春木陽香は、前を向いて小声で山野に尋ねた。

「レーザー通信の相手は、やっぱり、NNJ社ですか」

 山野紀子はシーフード・バーガーを頬張りながら答えた。

「そ。――さっき、向うで張ってた別府君に確認した。あの展望レストランから延びている不可視レーザー光線は、真っ直ぐにNNJ社が入っているビルまで届いているそうよ。たぶん、お互いの窓の傍にレーザー通信用の送受信器を設置して通信してるんでしょ」

「どうしてわざわざ、こんな面倒くさいことをするんでしょうね」

「電波や有線回線での通信だと、国税当局や検察当局に盗聴される可能性があるでしょ。公安の特調とかにも。それを恐れてるのよ、あの大臣さんは」

「そっかあ。国防軍仕様ってことは、超高周波の不可視レーザーでの通信ですもんね。直線型なら第三者に傍受されることも無いし、安全かあ」

「そ。しかも、暗号強度レベル五の量子暗号通信だからね。万一、誰かに傍受されても、絶対に解読されることはない。IMUTAでも使用しないかぎりね」

 アイス・キャラメル・マキアートを一口吸って、春木陽香が言った。

「手が込んでますなあ」

「あちらも必死なのよ。だから、こっちも気をつけないと。追い詰められた小物は何をするか分からないから。――あ、そうだ。IMUTAで思い出した。AB〇一八の話、本当なの。クラマトゥン博士が著書でもAB〇一八の危険性を示唆していたって」

「はい。本の内容が難し過ぎて、よくは分からなかったんですけど、演算速度の予測をしている計算の中で、博士が何かに気付かれたのは確かです。で、最後はこう記していました。今後、AB〇一八を含むSAI五KTシステムの演算速度に人類が追いつかなくなる時期が来るって」

 眉間に皺を寄せた山野紀子は、シーフード・バーガーを咀嚼しながら言った。

「いつよ」

 春木陽香はレタス・バーガーを握ったまま、真剣な顔で答えた。

「博士の計算では、二〇三八年の八月だそうです。はっきり言って、今月です」

「はっきり言わなくても、今月よ。――そのクラマトゥン博士が、一昨日、交通事故で急死。そのコンピュータが管理する地下高速道路の中で。うう……寒っ。淳二おじちゃんの怪談みたい」

「淳二おじちゃん? 誰ですか、それ」

 キョトンとした顔でそう尋ねた春木に、山野紀子は残念そうな顔をして答えた。

「ハルハルはまだ小さかったかあ。――いや、いいの。気にしないで」

 首を傾げてレタス・バーガーを齧った春木陽香は、頬を膨らませて言った。

「でも、何か怪しいですよね。絶対、クラマトゥン博士の死とSAI五KTシステムは関係してますよね」

「新聞のみんなには伝えたの?」

「はい。今朝。神作キャップも驚いてました」

 山野紀子が神作の真似をして言った。

「『あ? マジか』、でしょ」

 春木陽香がコクコクと頷きながら言う。

「ああ、そうそう。そんな感じです。さすがっ」

 アイスコーヒーを吸った山野紀子は言った。

「――まあ、そっちは新聞に任せて、こっちは奥野に集中しましょ。あの収賄ネタの裏取りが出来たら、金曜までには記事にして、何としても今週号に掲載しないとね」

「ですね」

 春木陽香は深く頷いた。

 山野紀子は窓越しに向かいのホテルの最上階を指差しながら言った。

「ホテルの最上階のフランス料理店で、そう何回もランチできると思うなよ」

 春木陽香も振り向き、口に手を添えて叫ぶような仕草で言った。

「そうだあ、こっちはレタス・バーガーだぞ。覚えてろお」

 春木陽香と山野紀子は、テーブルの上でハイタッチをした。


 

                 3

 司時空庁長官室のドアを松田千春が開けた。その前を、左目を白く光らせた津田幹雄が通り過ぎ、入室する。松田千春は津田に続いて部屋に入り、ドアを閉めた。佐藤雪子の姿は無い。津田幹雄は自分の椅子に向かいながらイヴフォンの通話の相手に言った。

「そうか。よく知らせてくれた。ご苦労だった」

 ネクタイに留めたイヴフォンを操作して通信を切った津田幹雄は、革張りの大きな執務椅子に勢いよく座った。

 机の前に立った松田千春が言う。

「奥野大臣が動きましたか」

 津田幹雄は、ほくそ笑んで答えた。

「ああ。さっそく西郷と連絡を取っていたそうだ。まったく、分かりやすい奴だよ」

 松田千春は真顔で言った。

「軍の方には、動きがあれば随時、こちらに連絡が入るよう手配してあります」

「うん、そうか。後は新日の記者連中だな。奥野大臣の方でうまくケリをつけてくれれば言うこと無しだ。それには、奴らが奥野のスキャンダルを記事にしてくれんことには始まらん」

「資料は送ってあります。今日、早速、奥野大臣の尾行を始めたようですので、おそらく連中は今週号の雑誌の方で記事にするつもりなのでしょう」

 津田幹雄は片笑みながら言った。

「裏取り調査か。外部からのタレコミ情報だけでは載せないという訳だな。ま、下請けの週刊誌出版社と言えども、新日は新日だな。腐っても鯛という気概かね」

 松田千春は頷くことはせず、逆に、眉を曇らせた顔を津田に向けた。

「奥野大臣の金品授受は事実に相違はありませんから、どれだけ裏取り調査をされても構いませんが、必要以上に国防軍の動きを察知されるのは不都合なのでは」

 津田幹雄は椅子の背もたれに身を倒して言った。

「うーん……それもそうだな。尾行には、奥野大臣は気付いているのか」

「さあ。増田少将が同行しているようですので、おそらく了知しているものと思われますが……」

 津田幹雄は松田に指を振りながら言った。

「念のため知らせとけ。気付かずにここにでも来られたら、話がパーになる」

「かしこまりました」

 津田幹雄は両手を肘掛の上に置いて言った。

「とにかく、バイオ・ドライブとデータを手に入れるまでは、徹底して事を慎重に進めるんだ。その後は辛島総理との交渉だ。じっくりとやればいい。昨日の停電騒ぎでも、外遊中の総理は蚊帳の外。何の対応も講じられなかった。これでまた、総理に突きつけるネタが増えたというものだ」

「勝機は長官にあるということですな」

「そうだ。とにかく、今は我慢の時だ。奥野大臣の動きを静観すればいい」

「ですな……」

 津田幹雄は背もたれから身を起こして言った。

「そうだ。この前の記者会見で、上手くリードしてくれた記者。彼は何と言ったかな」

「サンライズ・ネット新聞の今村とかいう記者ではなかったでしょうか」

「ああ、そうだ。今村君だ。彼、政界入りを目指しているんだったな。彼に停電対応をしなかった総理と内閣の批判記事を書いてもらおう。総理が帰国する前に世論を焚きつけてもらうんだ。そうすれば、官邸はその対応に追われて、我々からも目が離れるはずだ」

 松田千春は大袈裟に頷いて見せながら言った。

「さすがは長官。役者が一枚上でございますな」

 津田幹雄は自分の側頭部を指差しながら言う。

「ここからは頭脳戦だからな。君も気を抜くなよ」

 そのまま津田に指差された松田千春は、苦笑いしながら頷いた。

「はい。肝に銘じておきます。――それより、昨日の停電の件ですが、ご報告しましたとおり、SAI五KTシステムが原因であることは間違いないようでございます」

「そうか。で、どっちが原因なんだ。IMUTAか、AB〇一八か」

「ダウンしたのは、IMUTAの方でございます。報告によれば、予告アラームも無く、プログラム・シーケンスとは異なる手順で突如シャットダウンしたとか。その後、約二十秒後に再起動を開始。十七分四十二秒で通常状態に復帰したそうです」

 津田幹雄は鼻息を強く吐くと、暫らく考えた。やがて口角を上げた津田幹雄は、松田を見て言った。

「そうか。IMUTAはGIESCOが開発し管理しているのだな。所有権は国にある」

「はい。ストンスロプ社から国が正式に購入しております」

 津田幹雄は松田に人差し指を振りながら言った。

「ということはだよ、政府は、突然停止する不良品を買わされた訳だ。多額の税金を投じて。その不良品を売りつけたストンスロプ社は誰を支援しているのだったかな」

 松田千春は笑みを含んだ顔で答えた。

「辛島総理です」

 津田幹雄は上を向き、割れた顎を突き出して言った。

「こいつは、また一つ、総理に突きつけるネタが増えたようだな。どうやら、天は私に味方してくれているようだ。松田君、その事実についての客観的な資料を集めてくれ」

 松田千春は片笑みながら頷いた。

「かしこまりました」

 津田幹雄は南の窓から官庁ビル群を見つめながら、少しずつ笑い始めた。

「フフフ。ムフフフ。なかなかいい展開になってきたじゃないか。面白くなってきたぞ。フフフフ」

 松田千春は出口へと歩いていった。津田に背を向けた彼の口元は微かに緩んでいた。



                  4

 高層ビル街の車道を黒塗りの高級AI自動車が走る。その後ろをシルバーのAIハードトップが走っていた。

 AIハードトップの運転席では、上野秀則が機嫌悪そうにハンドルを握っていた。彼は後部座席に座っている山野と春木に怒鳴っている。

「どうして俺がおまえらの運転手なんだ! しかも、路上停車させた車の中で昼休み中ずっと待機って、俺は下っ端かよ。デスクだぞ、デスク」

「奥野がいつ車を出すが分からなかったんだから、仕方ないじゃない」

 運転席の後ろの座席からそう言った山野の隣で、春木陽香が申し訳ない様子で言った。

「すみません。うえにょデスクのこと、つい忘れてて」

「上野だ! 忘れるな!」

 山野紀子も笑いながら言う。

「ごめん、ごめん。悪かったって」

「そう思ってるなら、なんで笑ってるんだ! おまえらがハンバーガーを食ってる時に、俺は車内でずっと空腹に耐えていたんだぞ。分かるか、空腹感と屈辱感の入り混じった、この感じ。泣きそうになったぞ、マジで」

 山野紀子はハンバーガー店のロゴが描かれた紙袋を見せて言った。

「うえにょの分のハンバーガーも買ってきたから、これで勘弁してよ」

 上野秀則はぶっきら棒に尋ねる。

「ステーキバーガーか」

 春木陽香が答えた。

「はい。そうです」

「肉は、ダブル乗せか」

 春木陽香がまた答えた。

「はい。チーズもダブルです」

 山野紀子が付け足す。

「バンズもダブルよ」

「当たり前だ! 一枚じゃ、ただの具乗せパンじゃないか!」

 山野紀子が前を指差した。

「ほら、奥野大臣を乗せた車が南北幹線道路に乗るわよ。同じレーンに入らないと」

 上野秀則は不機嫌を顔一杯に表して答えた。

「分かってるよ。何年運転してると思ってるんだ。だいたい二人とも免許を持ってるんだろ。どうして俺に運転させるんだよ。職級的には俺の方が上だろうが。おかしいだろ」

「女には色々あるのよ。ねえ、ハルハル」

「はあ……」

 実際には、何度も青いバイクに尾行された山野のAIスポーツセダンでは、奥野の車を尾行するには適当ではないと思い、二人は上野に車を借りたのだった。運転手付きで。

 事情を察していない上野秀則は、春木に怒鳴る。

「はあ、じゃないだろ。ちゃんと説明しろ。俺の空腹を静められるように。女と運転と、何の関係があるんだ。さっぱり分からんぞ」

 山野紀子が上野の肩を叩いて言った。

「ほら、奥野の車が幹線道路に乗ったわよ。定速自動車流制御システムで自動走行になれば、運転手もハンバーガーが食べられるから。頑張ってください、デスク」

 上野秀則は頬を引き攣らせながらハンドルを切った。

「騙されんぞ。急にデスクとか言っても、俺は騙されんぞ」

 春木陽香が窓から横の車線を見ながら言った。

「合流点は危ないですから、運転に集中しましょう、うえに……のデスク」

 気まずい顔をして前を向いた春木を、上野秀則がバックミラー越しに睨んだ。

「今、『にょ』って言おうとしたろ。『うえにょ』って。聞こえたぞ、確かに聞こえた」

 山野紀子が促す。

「ほらほら、右のレーン、右のレーン」

「分かってるっつうの。相変わらず、うるさい女だなあ」

 ダッシュボードのスピーカーから、運転用人工知能の合成音声が聞こえてきた。

『定速自動車流制御システムニ、リンクシマシタ。コレヨリ自動運転ニ切リ替ワリマス』

 上野秀則は肩の力を抜いて、ハンドルから手を放した。ハンドルは勝手に動いている。

「ふう。これでようやく飯が食える」

 運転席のシートに身を投げた上野に、春木陽香が薄い湿った紙を渡した。

「はい、どうぞ。お絞りです」

 受け取ったお絞りで手を拭いている上野に、山野紀子が両手で紙コップを渡す。

「はい、デスク様、ウルトラ・プラズマ・コーヒーでございます」

「だから、騙されんぞ。『様』をつけても、ウルトラでも、ハイパーでも……そもそもプラズマの意味が分からんじゃないか、プラズマの!」

 山野紀子は自動で動くハンドルの向こうに見える黒塗りの高級AI自動車を覗きながら言った。

「それにしても、奥野大臣、どこに行くつもりなのかしらね。これ、直進レーンでしょ。このまま大交差点を直進したら、有多町は通り過ぎちゃうじゃない」

 上野秀則は前を見てウルトラ・プラズマ・コーヒーに口を付けながら言った。

「そうだな。右折レーンは三つ隣のアヒ……熱っ、熱い! あ、熱いぞ! 何度なんだ、これ。殺す気か!」

 眉間に皺を寄せた山野紀子が、口を尖らせて言った。

「ええー。せっかくう、うえにょデスクのためにい、『ウルトラ』にしたのにい。『スーパー』の方がよかったですかあ?」

「可愛くないぞ。おまえ何歳だ。四十後半だろうが。ていうか温度で区別されてるのか。普通のやつは無かったのかよ。煮えたぎってるじゃねえか、これ。中でボコボコ言ってるぞ。それからな、俺は、上野だ!」

 春木陽香が横の景色を見ながら言った。

「あ、AB〇一八の施設が見えてきましたよ」

「聞いてないのか。――ったく。ハンバーガーをくれ。腹が減ってたまらん」

 春木陽香がコーヒーを受け取り、山野紀子が紙袋から取り出したハンバーガーの包みを渡す。受け取った上野秀則は、その包み紙を丁寧に開きながら言った。

「そう言えば、どうだったんだ。やっぱり奥野はNNJ社の西郷と連絡を取ってたのか」

 山野紀子が答えた。

「うん。奥野が入ったホテルの最上階から、NNJ社の入ってるビルに不可視レーザーが発射されてた。たぶん、西郷と連絡を取っていたはず」

 上野秀則は執拗に包んである紙を必死に開きながら言った。

「レーザー通信かあ。国防技術を私的に使いやがって……くそ、これ何枚で包んであるんだよ。中身が出てこねえぞ」

 春木陽香が前の黒塗りのAI自動車を指差して言った。

「あー、やっぱり、大交差点を直進しますね。国会議事堂か官邸に向かうんですかね」

 上野秀則はダッシュボードのカーナビゲーションパネルに目を遣る。

「いや、このレーンだと、さらに直進だろ。このまま北に向かえば、善谷よしや市に出るか、新高速道路に乗るか、だよな」

 山野紀子が前を見たまま頷いた。

「そうね。左のレーンなら、西の下寿達山かずたちやま方向の線のインターチェンジに自動で乗るはずだけど、このまま真っ直ぐ進んで新高速に乗るとしたら、インターチェンジから東方面に進むってことね」

 上野秀則は、ようやく顔を出したダブル・チーズ・ステーキ・バーガーに一礼してから言った。

「東かあ。千穂倉山ちほくらやまか、多久実たくみ市方面だな。ってことは、第一基地か、第二基地かあ」

 上野秀則は大きく開いた口をダブル・チーズ・ステーキ・バーガーに近づけた。

 山野紀子が彼に尋ねる。

「第二基地って、例の深紅の旅団レッド・ブリッグが駐屯している基地よね」

 上野秀則は噛み付くのを止めて、山野に答えた。

「ああ。海外で随分とご活躍の赤鬼さんたちが使っていると噂の基地だ」

「赤鬼さん?」

 聞き返した春木に山野が説明した。

「前に哲ちゃんとホログラフィー通信した時に話したでしょ。真っ赤な鋼鉄の鎧で全身を覆ってるって。そうでしょ、うえにょ」

「上野だ。不意打ちでも聞き逃さんぞ。――そうだ。奴らは最新鋭の武器で重武装していて、海兵隊まがいの勢いで敵をやっつけていくらしい。だから、外国からは『赤蟻軍団』とか、『赤鬼』って呼ばれているそうなんだ」

 春木陽香は首を傾げた。

「海兵隊? それって憲法違反じゃないですか。国が持てる軍備としては、国土防衛と国民保護のための最小限度の武装しか、新憲法は認めていないですよね」

 上野秀則はダブル・チーズ・ステーキ・バーガーを握ったまま、言った。

「一時的に占領された国土を奪還して邦人を救助するために、国防軍に秘密裏に配備された連中らしい。対馬の奪還作戦、あれも、そいつらの活躍だったって噂だが、国からの正式な発表は何もなかった。国会でも野党が度々その存在を追及しているが、政府与党は全く認めていないのが現状だ。ていうか、食っていいか。食うぞ」

 上野秀則が再びダブル・チーズ・ステーキ・バーガーに口を近づけると、再び春木陽香が尋ねた。

「この前も、それ聞きましたけど……国防委員会にも公開されていないんですか」

 上野秀則はダブル・チーズ・ステーキ・バーガーを持った手を下ろして、春木の質問に答えた。

「ああ。何でも、正規の配備リストに記載されていない極秘の師団なんだと。だから、書類上は何処にも出てこない。俺が政治部に居た頃も、多くの記者が、野党連中の思い込みか、でっち上げだと考えていたくらいだ。だが、永山が現地から報告したとおり、南米戦争ではジャングルの奥地で相当に暴れ回ったらしく、目撃談が相次いだ。それで、この頃になってようやく、その存在が知れた。噂では、アフリカ戦線でフランスの部隊を救出したのも、彼ららしいぞ。――ま、とにかく、そういうことだから、俺は食うぞ。食うからな。いただき……」

「でも、赤って、戦場では目立ちませんか」

 そう尋ねた春木陽香は山野に顔を向けていた。上野がホッとした顔でダブル・チーズ・ステーキ・バーガーを持ち上げると、山野紀子が春木に答えた。

「そうね。でも、それが自信の表れなのかも。あるいは、強さを誇示したいだけか……。どうなの、うえにょ」

「知らん。いいから食わせてくれ」

 上野秀則は大きく開けた口をダブル・チーズ・ステーキ・バーガーに近づけたが、ピタリと止めた。そして山野の方をゆっくりと振り向く。

「上野だ。何度でも言うからな。俺は上野だ。おまえ、わざと……」

「そんなに目立つ色の兵隊さんたちなのに、普段どこに居るんですか。移動してるところとか、見たことないですよね。その人たち、まだ南米に居るんですか」

 春木が再度尋ねたので、上野秀則は溜息を吐いてダブル・チーズ・ステーキ・バーガーを下ろすと、春木の方に顔を向けた。

「そいつらが急に南米から帰還したって、あの時、永山がホログラフィー通信で言っていただろ。まあ、周囲でも噂といえば噂にはなってはいたんだ。で、その深紅の旅団レッド・ブリッグの連中がねぐらにしていると噂されているのが『多久実たくみ第二基地』だ。普段、連中はそこで待機しているはずだ。秘密部隊だから、移動も人目に付かないようにしているんだろう。でも、ここまでバレちまったら、秘密もへったくれもないよな。現に多久美第二基地には俺らの同業者が何社も取材に行っているようだが、まあ、今は報道規制が掛けられていて近づけないらしい。ていうか、俺も何か規制されているのか。何で食わせてもらえない」

 山野紀子と春木陽香は同時に手で「どうぞ、どうぞ」と上野に促す。上野秀則が二人に訝しげな視線を送りながら、慎重にダブル・チーズ・ステーキ・バーガーに噛み付こうとすると、春木陽香はまた尋ねた。

「多久実第二基地って、新首都に近い方の基地ですよね。多久実市の南部の」

「おまえ、わざとやってるだろ! いい加減、食わせろ。腹減ってんだよ!」

 春木陽香は舌を出して首をすくめた。山野紀子も舌を出して首をすくめる。上野秀則は山野を強く指差した。

「やめろ。魔法のポーズじゃないんだ。年齢的に無理がある」

 彼はようやくダブル・チーズ・ステーキ・バーガーに噛み付いた。

 山野紀子が上野に歯を剥いてから、さっきの春木の質問に答えた。

「そうね。蔵園くらぞの町のすぐ北。昭憲田池からだと、ちょうど北東の方角かな。とにかくこの先から新高速で東に行けば、多久実インターで下りてすぐ目の前よ。第一基地の方に行くとしても、多久実インターの手前で千穂倉山ちほくらやま線に入れば、そこから四十分程度。ちなみに総理が外遊中で不在ってことは、その間は毎日、閣僚たちは外遊先の総理に夕刻の定例報告をするはずだから、それまでには国防省ビルに戻らないといけないはず。だとすると、奥野大臣は遠くには行かないはずよ。どっちかの基地に行く可能性が大きいわね」

「第一基地の方は、どんな部隊がいるんですか」

 春木陽香の更なる質問に、上野秀則は咀嚼しながら答えた。

「たしか、第十二師団だ。第一師団も居るんじゃなかったかな。あと、空軍も。あそこはデカイ基地だからな、よく分からん」

 山野紀子は前方の景色を覗いて言う。

「ああ、やっぱり。最高裁前も通過。こりゃ、間違いなく新高速に乗るわね。東線ね」

 上野秀則はダブル・チーズ・ステーキ・バーガーを持った左手の指でメインパネルに触れながら言った。

「とりあえず、こっちも東線に乗って多久実インターで下りるように登録しとくか」

 そして、音声認識機能で南北幹線道路の降り口を登録しようとした。

「登録変更、多久実インター」

 AI自動車の人工知能が返事をする。

『音声ヲ認識デキマセン』

「ああ? 俺の車だろうが。――ゴホン。――登録変更、多久実インター」

『音声ヲ認識デキマセン』

「なんだよ。ハルハル、ちょっと、コーヒーを取ってくれ」

 上野秀則は春木から受け取ったウルトラ・プラズマ・コーヒーを一口啜った。

「熱っ……あっちい! まだ冷めないのか、これ」

 春木陽香が別の紙コップを差し出した。

「アイス・カフェオレもありますよ。どうぞ」

「最初から出せ、最初から。夏だろうが! なんで最初に熱湯コーヒーを出すんだ」

 アイス・カフェオレで喉を湿らせた上野秀則は、咳払いをしてから声の調子を整える。

「ゴホン。んー、んー。あー。ああー」

「何やってるのよ、このままじゃ新高速も通り過ぎて、北の一般道に出ちゃうじゃない。見失っちゃうわよ」

「ゴホン。あー、あー。――登録変更、多久実インター」

『音声ヲ認識デキマセン』

「なんで。そんじゃ、メインパネルで直接……」

 上野秀則がダブル・チーズ・ステーキ・バーガーを握った左手をもう一度メインパネルに近づけると、ハンドルが突然左に回り、AI自動車の人工知能が声を発した。

『車線変更シマス。車線変更シマス』

「おいおい、なんだよ。どうしてだよ」

「なにやってるのよ、うえにょ! それじゃ、新高速の東線に乗れないでしょ!」

「俺は何もしてねえよ。まだメインパネルには触ってないだろ」

「ああ! 奥野大臣のAI自動車が新高速の東線インターに入っちゃいましたよ」

 すると、AI自動車の人工知能が予期せぬアナウンスを始めた。

『幹線道路ヲ降リマス。手動運転ニ切リ替ワリマス。ハンドルヲ握ッテクダサイ。幹線道路ヲ降リマス。手動運転ニ……』

 上野秀則は慌ててダブル・チーズ・ステーキ・バーガーを包み直しながら言った。

「ちょっと待て待て。まだ一口しか食ってねえぞ。ったく、どうなってんだ」

 そして、半開きのダブル・チーズ・ステーキ・バーガーとアイス・カフェオレのカップを後ろの春木に渡すと、急いでシートベルトを締め直した。

 春木陽香はそれらを両手に持ったまま、山野に言った。

「編集長、もしかして、これ、SAI五KTシステムの仕業じゃ」

 ハンドルを握り直した上野秀則が言った。

「なんだよ、システムが勝手に動かしてるってのか」

 サイドガラスに顔を近づけて空を見上げながら、山野紀子が叫んだ。

「違う! 上よ。オムナクト。やられた!」

 上野秀則がハンドルを叩く。

「くそ。赤上が資料を官邸に運んだ時と同じか。強制的にこっちの車のAIにリンクして勝手に操作しているんだ。畜生!」

 春木陽香は振り向いて、リアガラス越しに空を覗いた。

 青い夏の大空に、一機のオムナクト・ヘリの機影が小さく浮かんで見えていた。上野のAI自動車を上空から追尾している。

 上野の車とは違う車線に入った黒塗りの高級AI自動車の後部座席では、奥野恵次郎がイヴフォンで通話していた。彼はシートに深く腰掛けながら言った。

「どうだ、増田君。うまくリンクできたか」

『は。問題なく。目標車両を幹線道路から降ろしました。もう追跡はできません』

「そのまま交通事故ということでもいいんだぞ」

『しかし、この交通量では他の車を巻き込みますので』

「だな。ま、よかろう。それにしても、こっちの車を尾行してくるとは、何か勘付かれたようだな。あの記者どもには手を打たんといかんな」

『絶えず捕捉は継続しております。ご心配なく』

「ん。NNJ社の件が片付いたら、早急に対処しよう。このまま放置はできん。とりあえず今日のところは、君はここまででいい。ご苦労だった」

『は。では、我々は撤収いたします』

「そうしてくれ」

 上空を飛行していたオムナクト・ヘリが急旋回して離れていった。

 春木たちを乗せた上野のAIハードトップは、幹線道路を降りて一般道を走っている。車はそのまま幅の狭い道路を西に進むしかなかった。

 一方、幹線道路から新高速道路へと入った黒塗りの高級AI自動車は、奥野大臣を乗せて東へと進んでいった。


 

                 5

 美術品を幾つも並べた部屋の中央に車椅子が置かれていた。その車椅子には酸素マスクを口に当てた老人が座っている。暫らく深い呼吸を繰り返した後、老人はマスクを外して言った。

「ふう。もう大丈夫じゃ……」

 傍に立つ刀傷の男がマスクを受け取り、車椅子の背もたれの後ろに格納する。

 老人は厳しい顔つきで言った。

「それで。辛島総理からの返事は」

 刀傷の男は首を横に振った。

「まだ何も」

「辛島め、いったい何を躊躇っているのじゃ。時間が無いというのに」

 刀傷の男はニヤニヤとしながら言う。

「総理が帰国されましたら、もう一度お会いして、御意向を伺って参りましょうか」

「そんな悠長なことはしておれん。こうなればマスコミじゃな。記者連中を動かすしか、手はあるまい。世間に公表するのじゃ。その後で、無理矢理にでも辛島に決断させるしかあるまい」

 刀傷の男は首を傾げた。

「世論が動きますかね。自分たちが困ることになるのに」

「だから、マスコミに世論を動かす記事を書かせるのじゃ」

「なるほど。ですが、そうなると、新日しかないでしょうな。他社はこの件を報道することに完全に及び腰になっている。永山や神作の件を見ていますからなあ」

「津田の奴め。毎回、毎回、余計なことをしよって」

 薄い眉を寄せて嘆息する老人に刀傷の男は言った。

「邪魔な連中は消せばいい。何なら、お手伝いしますよ」

 老人は声を荒げた。

「駒が無ければ、チェスはできん。駒を片付けるのは、ゲームが終わってからじゃ。馬鹿者が。――それより、西郷の方はどうなっている」

 刀傷の男は、また薄笑いを浮かべて言った。

「先ほど、国防軍の奥野が西郷に接触しました。何か動き出すようですな。いや、もう動いているかもしれません」

 老人は歯軋りをする。

「ラングトンめ、ワシを欺けると思っているのか。あの女が西郷を動かしているのは知れている」

「どうします? 駒を入れ替えますか」

「もちろんじゃ。じゃが、駒を入れ替えても、奴にまた元通りにされてしまう可能性もある。チェス板の外から手を出してくるからの。まずは奴の排除が最優先じゃ」

 刀傷の男は両手を肩の高さに上げて、首を傾げた。

「私には、よく分かりませんがね」

 老人は刀傷の男を指差して言った。

「おまえは命令どおりに動けばいい。辛島総理が帰国後にNNJ社との契約に臨もうとしているのは確かなのじゃな」

「はい。調達局の津留と情報局の増田に交渉役を打診したようです。しかし増田は固辞。おそらく、交渉の椅子に座るのは津留でしょう」

「何としても契約の成立を阻止するのじゃ。ラングトンの解任も、西郷の始末も、その後でよい」

 刀傷の男は一度床に目を落とすと、そのまま呟くように言った。

「ですが、国防大臣の奥野が司時空庁長官の津田に動かされているようなら、いろいろと難しくなりますな」

「なんじゃと。どういうことだ」

 刀傷の男はニヤけた口の横を指先で掻きながら言った。

「どうやら、奥野は弱みを握られたようです。津田はそれを新日に送っている。そうなんでしょ、司時空庁業務部長の松田さん」

 シャンデリアの真下にホログラフィーで投影された松田千春の像が立っている。少しザラついている彼のホログラフィー映像は、しっかりと頷いて言った。

『はい。昨日、奥野大臣が西郷社長から金を受け取っているところの画像と、各口座の入出金記録を、新日風潮社に提供しました。津田長官の指示で』

「ぬう……」

 老人は鼻に皺を寄せた。そして、刀傷の男を指差して言う。

「おまえ、その資料を回収できるか」

「出来ますがね、私が行かなくても、おたくらの技術なら、新日のネットワークに侵入してデータを消去するくらい簡単でしょう」

 老人は声を荒げた。

「確実に消せと言っているんじゃ。物理的に完全にこの世から消すんじゃ!」

 そして、今度は冷静な声に戻し、刀傷の男に指を振りながら言った。

「但し、この前のように火を点けたりはするな。奴らがデータを消されたことに直前まで気付かないようにせんといかん。それから、バイオ・ドライブについてのデータも全て消してこい。まだ何か隠し持っているかもしれん」

 刀傷の男はニヤリとして頷く。

「分かりました。では、早速」

 ホログラフィーの松田千春が口を挿んだ。

『閣下。どうか私のこともお忘れなく。現状で津田長官が退官後に私を司時空庁長官にされても、泥舟の船長にさせられるようなものですから。何卒、宜しくお引き立てを』

 老人は憮然として答えた。

「分かっておる。いずれNNJ社の社長が姿を消す。その椅子なら不満は無かろう」

 松田千春は少し間を空けてから、作り笑みを浮かべて頭を垂れた。

『はい。ありがたき幸せでございます』

 老人は強く言う。

「とにかく、契約じゃ。あの施設を国防軍に警備されては、こちらが自由に出入り出来なくなる。ラングトンや西郷の思う通りにはさせん。あの会社を守るためにASKITが存在する訳では無いからの。おまえも我々の一員となりたければ、よく肝に銘じておけ」

 松田千春は腰を折ったまま答えた。

『――はい。承知いたしました』

 そして顔を上げる。その顔は険しかった。彼は再度、一礼して言った。

『それでは、また後日。次はこちらからご連絡いたします』

 老人が頷くと、松田のホログラフィーはすぐに消えた。老人が咳き込みながら室内を見回す。刀傷の男も既に姿を消していた。老人は車椅子の背もたれの後ろに手を伸ばし、何とか酸素マスクを掴んだ。それを口に当て、酸素を吸って呼吸を整える。

「――時間が……無い。――時間が……無いのじゃ……」

 老人は壁の時計をにらみながら、酸素マスクの中でいつまでも呟いていた。


 

                 6

 新日ネット新聞社会部の次長室に記者たちが集っていた。

 神作真哉は呆れ顔で言った。

「はあ? そんで、おまえら、そのまま帰ってきたのかよ」

 上野秀則は自分の椅子に座り、冷めたダブル・チーズ・ステーキ・バーガーを食べている。机の上には飲みかけのアイス・カフェオレのカップと、湯気を立てているウルトラ・プラズマ・コーヒーのカップが置いてあった。

 上野秀則は咀嚼しながら、机の前に立っている神作に言った。

「仕方ないだろ。緊急リンクで自動車AIの操作を奪われちまったんだから。どうしようもねえよ」

 神作の横に立っていた山野紀子が言った。

「でも、奥野が多久実第一基地か、第二基地に向かおうとしていたのは確かだと思うの。しかも、何か重要な目的があって。だから、私たちの尾行を強硬手段で妨害したんじゃないかしら」

 神作真哉は、上野の部屋の隅に置いてある座りにくい流線形のデザインのソファーに腰掛けて言った。

「奥野と西郷がつるんでいるのはいいが、いったい何が狙いなんだ? 奥野は津田に動かされている可能性がある訳だろ。ということは、あの保守強硬派の津田がNNJ社と手を組んでまでして何かしようとしているってことだよな」

 山野の横に立っていた春木陽香が遠慮気味に言った。

「あの……奥野大臣が西郷社長からお金を貰っているのだとしたら、奥野大臣は西郷社長に頭が上がらないんじゃないですかね。その奥野大臣を津田長官が操っているって構図、なんとなく変じゃないですか」

 山野紀子が上を向いて言う。

「ああ。そう言われれば、そうねえ」

 上野秀則が冷めたダブル・チーズ・ステーキ・バーガーを食べながら言った。

「津田が奥野を取り込んで、奥野に西郷を裏切らせようとしている。そういうことだろ」

 神作真哉が頷く。

「そうだな。そうすると、国防軍にAB〇一八の警備を委託する話も流れるな。津田の狙いがバイオ・ドライブなら、奴は本当に軍を使って奇襲を掛けさせる気なのかもしれん」

 山野紀子が言った。

「で、裏で私たちに情報をリークしといて、用が済んだら奥野大臣を切り捨てるってことかもね。こりゃ、早く記事を書いて、金曜日の『風潮』には何としても載せないといけないわね。奥野が先に罷免されれば、津田は軍を動かせなくなる」

 春木陽香が首を傾げながら呟いた。

「何か変じゃないかなあ……」

「どこが?」

 そう言った山野の顔を見て春木陽香は言った。

「だってですよ、ウチに資料が届いたのは昨日ですよ。ということは、あれを送った人間は、今週の金曜日にウチが記事にして公表することを前提としているんじゃないでしょうか。それでもし、奥野大臣が即日更迭になっちゃったら、津田長官は奥野大臣を使って軍を動かせなくなるかもしれないですよね。金曜日以降は」

 神作真哉が言った。

「ってことは、今日か明日、津田が奥野を通じて軍を動かす可能性があるってことか」

 春木陽香は神作に顔を向けて言う。

「いや、そうではなくて、奥野大臣が軍を動かさないから、私たちに記事を出させようとしているんじゃないでしょうか。西郷社長からお金を貰っている奥野大臣は簡単には津田長官の言うことをきかない。だから、その奥野大臣にプレッシャーをかけるために、私たちマスコミを利用しようとしている。だとすると、この記事を載せたら、津田長官の思う壺になっちゃいますよね」

 山野紀子が眉間に皺を寄せて言う。

「でも、記事を載せれば、奥野は更迭されて、津田は軍を動かせなくなる訳でしょ」

 春木陽香は再び山野の顔を見て言った。

「だから、私たちに記事掲載に向けての動きだけをさせて、実際には発行を妨害してくるんじゃないでしょうか。この前、裁判所を使って『何とか処分』をしてきたみたいに」

 神作真哉が言った。

「『証拠保全処分』な。そうだな、それか、『出版禁止の仮処分』をかけてくることは考え得るな」

 上野秀則が咀嚼しながら言う。

「すると、津田はまだ奥野を懐柔し切れていないということかあ。だから、俺たちに後押しをさせようとしていると」

 山野紀子が腕組みをして言った。

「まあ、あり得ない話じゃないわねえ。奥野が賄賂漬けにされているとしたら、そう簡単にはNNJ社を裏切れないでしょうしね」

 神作真哉が山野の顔を見上げて言う。

「だが、確信は持てんな。今日明日で津田と奥野が軍を使って何かしてくる可能性は捨てきれん。津田にしてみりゃ、ここで一刻も早く奪われたバイオ・ドライブを取り戻して、ASKITに盗まれた事実は無かったことにしとかないと、首が繋がらんだろうからな」

 アイス・カフェオレを吸った上野秀則が言った。

「――やるとしたら、辛島総理が外遊している今かあ……」

 山野紀子が眉間に皺を寄せて言った。

「でも、総理が官邸を空けている時に国防大臣が勝手に軍を動かせば、下手すりゃ反逆罪の疑いを掛けられるわよね。ウチが記事を出す前に即罷免されて、逮捕までされてしまうかもしれない。津田や奥野としては、リスクが高過ぎるんじゃないかしら」

 神作真哉が上野の顔を見て言った。

「なら、帰国した総理の官邸入りと同時に決行か。それなら、辛島総理に連帯責任が発生する可能性がある。辛島総理としては、自分の政治責任を認めることになる奥野の罷免や津田の処分を、すぐには実行できなくなるな」

 上野秀則は食べ終わったダブル・チーズ・ステーキ・バーガーの包み紙を丸めながら、言った。

「だとすると、やっぱり明後日、金曜日か。『風潮』の発売日だな。そこに奥野の記事が載っていれば、ハルハルの言うとおり、奥野には相当なプレッシャーになる。奥野は西郷と手を切って津田の方につき、何が何でも動こうとするだろうな。よっ」

 上野秀則は丸めた包み紙をゴミ箱に放り投げた。ゴミ箱の中に包み紙がストンと入り、上野秀則がガッツポーズをする。

「金曜かあ……」

 そう呟きながら、壁のカレンダーを見た神作に、春木陽香が尋ねた。

「あれ、永山先輩は?」

 振り向いた神作真哉は、右手で下を指差して言った。

「ああ、資料室だ。ハルハルが教えてくれたクラマトゥン博士とAB〇一八の接点、あれを掘り下げてる」

 山野紀子が深刻な顔をして言う。

「こっちも何か手を打たないと、バイオ・ドライブが津田の手に渡ったら、津田は本格的に、爆発の原因を哲ちゃんに押し付けてくるわよ」

 神作真哉も眉を寄せて頷いた。

「ああ、分かってる。仮に津田がそうしないとしても、南米連邦政府や、その他の国の政府から、そういうことにされちまうかもしれん。二〇二五年の爆発がゲリラ共の核テロ攻撃ではなかったということになれば、あの南米戦争は勘違いで起こされた戦争だということになる。そうなれば、日本はもちろん、同盟諸国に対する非難や賠償金の請求がし易くなるからな」

 上野秀則がアイス・カフェオレのカップを握った手で神作を指差しながら言った。

「あいつ、呑気にクラマトゥン博士なんかを調べている場合じゃないだろう。大変な状況じゃねえかよ」

 神作真哉は首を横に振った。

「本人も分かってるのさ。普段は、土産で自宅に送った『エケコ人形貯金箱』なんかをわざわざ職場に持ってきて机の隅に飾るような奴じゃないだろ。一番不安なのは、あいつなんだよ。他の案件でもやらせといてやらないと、気が紛れんじゃないか」

「永山先輩……」

 春木陽香は永山の心中を察すると同時に、お揃いの人形に浮かれ、それに気づかなかった自分を恥ずかしいと思った。

 パーテーションの壁の外から、その永山の声がした。

「キャップ、神作キャップ!」

 神作真哉が大きな声で答えた。

「ああ、こっちだ。うえにょの部屋だ」

 永山哲也がドアを開けて飛び込んで来た。

「失礼します。おお、ハルハル、ノンさんも。丁度良かった」

 神作真哉が少し驚いた顔で言う。

「どうした、慌てて」

「大変なことが分かって。あのですね……」

 神作に近寄ってきた永山哲也は、上野の机の上に目を向けるなり、急いでその前へと移動した。そして、机の上の上野の立体パソコンを指差して言った。

「うえにょデスク、そのパソコン、電源を落とせます?」

 上野秀則はアイス・カフェオレのカップからウルトラ・プラズマ・コーヒーのカップへと氷を移していた手を止めて、少し唖然とした顔で言った。

「あ? なに言ってんだ。O2電池内蔵だから、更新のための一時シャットダウン以外には、電源が落ちることはねえよ」

 永山哲也は上野の立体パソコンを持ち上げると、それを抱え、更に机の上を見回した。

 上野秀則が左右の手にカップを握ったまま言う。

「おいおい、何やってんだ、永山。他人のパソコンを……」

「ちょっと、お借りします」

 永山哲也は内線電話機も持ち上げると、子機も一緒に抱えて部屋の出口へと向かった。そして、足でドアを開けると、そのまま外に出て行った。上野と神作は顔を見合わせる。

 すぐに戻ってきた永山哲也は、ドアを閉め、立ったまま上野の部屋の中を隅々まで見回し始めた。そして、納得したように頷いてから、こちらに歩いてくる。

 上野秀則が言った。

「おいおい、どこに持って行ったんだ。他人のパソコンだぞ。電話も」

 永山哲也は上野に言った。

「デスク、この部屋、パーテーションで区切ってあるだけですから、人体感知センサーとか付いてないですよね」

 上野秀則は頷くと、両手のカップを机の上に戻した。彼は少し苛立った顔つきで永山に言った。

「何なんだよ、だから」

「すみません。でも、こうするしかないんです。勘弁してください」

 永山哲也は上野に頭を下げた。

 上野秀則と神作真哉は顔を見合わせる。

 頭を上げた永山哲也は、神作真哉の顔を見て言う。

「SAI五KTシステムには、重大な問題があるかもしれません」

 春木陽香は永山が入室してきた時から、ずっと彼の顔を見ていた。永山哲也は、いつもと違う深刻で厳しい眼差しをしていた。



                  7

 高級ホテルの豪華なスイートルームの中の一室で、辛島勇蔵は書斎机の椅子に座っていた。彼の後ろの窓の外ではサグラダファミリアが月明かりに照らされている。辛島勇蔵は長い時間を費やして完成したその美しい建築物に背を向けたまま、椅子の背もたれに身を倒し、左目をオレンジ色に光らせていた。

「そうかね。分かった。彼らがそのつもりなら、仕方あるまい」

 大きく溜め息を吐いた辛島勇蔵は、厳しい顔で言った。

「動き出したら、君の方で適宜に対処してくれたまえ。遠慮はいらん」

 ドアがノックされた。辛島が返事をする。

「入れ」

 長身の若い秘書官が入ってきた。辛島勇蔵はイヴフォンでの通話を続ける。

「とにかく、目は離すな。私の不在中を狙う可能性もある。しっかりと監視を続けろ」

 秘書官は辛島に皮製のファイルを渡した。辛島勇蔵はそれを開きながら通話を続ける。

「その場合は已むを得んな。警察庁の子越君には話してある。帰国したら、検事総長の意見も聞くつもりだ。ま、問題は無いだろう」

 辛島がファイルに顔を向け、中を読み難そうに眉を寄せていると、秘書官が彼の耳に直接、耳打ちした。秘書官に頷いて返した辛島勇蔵は、通話の相手に言った。

「どうやら、先方は急いでいるようだ。こちらも応じる必要があるな」

 辛島勇蔵はそのファイルを閉じて、机の上に放り投げた。

「うむ。そういうことだ。しかるべく行動しろ。――うむ」

 ワイシャツの胸ポケットに挿したイヴフォンのボタンを押して通話を終了した辛島勇蔵は、机の上のファイルをにらみながら秘書官に言った。

「誰が届けてきた。この前の男か」

「不明です。晩餐会場の総理の席の上に置いてありました。現在、警備態勢の再チェックと強化を行っております」

「まったく、人騒がせな奴らだ」

 辛島勇蔵は一度顔をしかめると溜め息を吐き、呟くように言う。

「なるべくなら避けたかったが、今が好機なら、やるしかあるまいな……」

 秘書官が尋ねた。

「害虫の駆除はいかがいたしましょう」

 辛島勇蔵は椅子を回して窓の方を向く。

「今、業者に依頼したところだ。数日中には決着が付くだろう」

「では、連絡体制レベルを引き上げる準備にかかります」

 椅子から立ち上がった辛島勇蔵は、窓から外の景色を眺めたまま答えた。

「そうしてくれ。素人相手だ。短時間で終わるはずだからな。情報は逃したくない」

「では、しかるべく」

 そう返事をした秘書官は、一礼してから、ドアの方へと歩いていく。

「ああ、君」

 呼び止めた辛島勇蔵は机の上からさっきの皮製のファイルを取り、差し出した。

「必要ない物は捨てておいてくれ」

 秘書官はファイルを受取り、部屋から出て行った。

 辛島勇蔵は再び窓から外を眺めながら呟いた。

「場合によっては、『打ち歩詰め』も已む無しか……」

 月明かりに照らされる内閣総理大臣・辛島勇蔵の顔は、いつまでも険しいままだった。


 

                 8

 上野の部屋にいる記者たちは深刻な顔をしていた。

 眉間に深い縦皺を刻んだまま、神作真哉が言った。

「じゃあ、いずれ制御が出来なくなるっていう話は本当なのか」

 永山哲也は大きく頷いて見せた。

「はい。ハルハルが調べたとおり、クラマトゥン博士の計算では、近いうちに人類の処理能力が追いつかなくなると。『特異点』と言うそうです。別の科学者も算出していて、その博士の計算でも、やはり今月中にはその接近領域に入るようです」

 上野秀則がペン立てに手を伸ばして永山に尋ねた。

「誰だ。その別の科学者って。すぐにアポを取ってインタビューの段取りを……」

「無駄です。もう死んでますから」

 永山の答えを聞いて、神作真哉と上野秀則は再び顔を見合わせた。

 山野紀子が永山に手を振りながら尋ねる。

「ね、哲ちゃん。確認だけど、全部の情報がSAI五KTシステムに盗まれちゃってるってわけ?」

「ええ。全種類のネット上の情報も、僕らの通信内容も、個人情報も、このビルの管理システム情報も、全てSAI五KTシステムが吸収しています」

「もともと大概のものはあのシステムを経由しているだろ」

 永山哲也は、そう言った上野に顔を向ける。

「それ以外もです。AB〇一八の自己増殖ネットワークは全インターネットにどんどん広がっています。契約してシステムに接続している外部システムやネットワーク以外にも接続を進めているみたいなんです。AB〇一八が勝手に。その加速を手伝っているのがIMUTA。クラマトゥン博士の予想では、現時点では、この地球上の殆どの情報があのシステムに集められ、IMUTAで整理されてAB〇一八に記憶されているみたいです。もちろん、衛星の情報も」

 神作真哉は驚きを隠せない様子だった。彼は少し狼狽した顔で言った。

「地球上のって、おまえ、物凄い量の情報じゃねえか。普通は処理容量の限界に達してフリーズするだろ」

「IMUTAに限界は無いんです。どれだけ大量の情報が送られてきても、機体の物理的限界を迎えることもなく淡々と処理できる。それがIMUTAです。そして、AB〇一八は、その情報を無限に記憶し、その情報を基にして更に賢くなっていく。つまり、この二機で構成されているSAI五KTシステムは際限なく情報を処理することができる。理論的にはそういう結論になるみたいです。この前、津田長官が話していた通りですよ」

 永山の説明を聞いた春木陽香は、キョトンとした顔で皆に尋ねた。

「でも、それがどうして問題なんですか。自分で賢くなる、すごいコンピュータなのに」

 永山哲也は春木の顔を見て言った。

「いろいろな意味で不都合が生じるのさ。一つは政治的問題。日本政府が設定もしてないのに、システムは勝手に諸外国の情報を収集している。軍事情報や金融情報まで。これが知られたら大問題となる。次に、国内的なこと。つまり、世論。僕らが普段使っているイヴフォンやウェアフォンも全てSAI五KTシステムに乗っ取られているかもしれない。少なくとも、通信した内容が全て記録されていたりしたら、国内世論だけでなく、世界中から猛抗議になる。でも、一番恐ろしいのは……」

 神作真哉が沈んだ声を挿んだ。

バグだな」

 永山哲也は深刻な顔で神作の方を向き、しっかりと頷いた。

「ええ。どんなに性能がいいコンピューターでも所詮は機械です。何らかの原因で、球体フォトニックフラクタルに損傷が生じたり、ニューラルネットワークに齟齬が生じたりする可能性がある。そうなると、情報が間違って整理されたり、そこから間違ったプログラムが自己形成され、システムを介して他のシステムに悪影響を与えるかもしれない。その結果は深刻です。様々な実害が発生するはずです。例えば医療。日本中の医療機関が既にSAI五KTシステムに接続しているんです。カルテのデータだけではなく、医療機器の保守管理システムや手術室の機械調整、患者への投薬管理まで、あのシステムの能力に依存している。ですが、ある日突然、入院中の患者の体に繋がれた自動送薬チューブに全く別の薬や、とんでもない量の薬が送り出されるかもしれない。SAI五KTシステムのバグが原因で。この前の二十年ぶりの停電もそういったことが原因なのかもしれません」

 上野秀則が言った。

「だけど、バグなら、修正プログラムを上書きするとか、マイクロ・レーザー・メスか何かでハードディスクの該当箇所を直接補修するとか、いろいろ方法があるだろ」

 神作真哉が深刻な顔をして永山をにらみながら言った。

「相手の容量が大き過ぎて、どこにバグが潜んでいるのか調べ尽くすことが出来ない。地球上の全てのコンピューターを使ってもSAI五KTシステムの方が必ず上をいっちまうから。おまえが言った人類の処理能力が追いつかなくなるってのは、そういうことだろ」

「そうです。それで人類は永遠にその隠れたバグに怯えて生活しなければならなくなる」

 山野紀子は目を丸くして言った。

「嘘でしょ……コンピューターに支配されちゃうってこと?」

 永山哲也は山野に顔を向けた。

「支配されるというか、止められなくなるってことでしょうね。ストッパーが無くなる」

 上野秀則が言った。

「それなら、壊しちゃえばいいだろ。極端な話、ミサイルとかで」

 永山哲也は厳しい視線を上野に向けて言った。

「それによって、システムに接続されている世界中の病院の入院患者が死亡するかもしれないんですよ。金融取引に支えられている現在の世界経済も確実に崩壊する。生活インフラも停止しますし、衛星が落下してくるかもしれない。軍用ロボットや無人機は暴走するでしょうし、交通システムも一瞬で無茶苦茶になるでしょうね。死傷者が大勢出ることは確かです。きっと、戦争も勃発する。しかも、二十世紀初頭に起きたような醜い戦争が。うえにょデスクなら、ミサイルの発射スイッチを押せますか」

 上野秀則は何度も首を横に振って答えた。

「無理、無理。絶対に無理」

 神作真哉が険しい表情で呟いた。

「破壊できるのに、破壊できない状況になるってことか……」

 山野紀子が深刻な顔で言う。

「いや……もう、なってるのよ。そうでしょ、哲ちゃん」

「ええ。クラマトゥン博士の計算が間違えていなければ、既に状況を止めることは不可能な領域に達しているはずです。この前の停電がその証拠かもしれません。僕が調べたところ、どうもあの停電は、IMUTAが停止したことが主な原因だったみたいです。停止していた時間は僅か数十秒。再起動中の時間を全て入れても二十分以内の停止だったようです。それで、あの大停電ですよ。あの二十分間に国内で起きた交通事故数は、この五年間の交通事故件数の合計を超えています。医療機関で死亡した人が全国で十三名。国防軍も警察も防災隊もほとんど機能停止。スクランブル出動も緊急出動も出来ませんでした。無人探索機もパトカーも救助ヘリも動かせず、通信司令室から指揮情報を発することもできなかったからです。たった二十分です。しかも、ただの停電だけで」

 春木陽香が尋ねた。

「クラマトゥン博士は、このことを辛島総理に訴えるために来日したんですか」

 永山哲也は再び首を縦に振ってから答えた。

「たぶんね。しかも、きっとそれは初めてじゃない。日本にマンションまで所有していたということは、かなり頻繁に日本に足を運んでいたのだと思う。おそらく博士は、何度も執拗に、政府に進言していたのかもしれない。田爪瑠香さんのように」

 春木陽香の表情が曇った。その隣から山野紀子が顔をしかめて尋ねた。

「あの博士、本当に事故死だったの?」

 永山哲也は視線だけを山野に向けて答えた。

「怪しいですね。目撃者が一人も出てきません。しかも交通事故なのに、事故現場に急行したのは、あの公安の『特調』です。その後、国交省の命令で都が地下高速を一時封鎖。何もかもが、不自然です」

 神作真哉が床に目を落としたまま言った。

「なあ、一つ訊いていいか、永山」

「はい」

「なんで、この部屋から、うえにょのパソコンと電話機を外に出したんだ」

 永山哲也はズボンの後ろのポケットから折り畳まれた紙を取り出し、それを広げて神作に手渡した。神作真哉はその折り目が付いたA4サイズの紙に目を落とした。そこには手書きの文字で人名と国籍、年齢、職業、そして日付がリストアップされていた。一見しただけで人種や性別、国籍、年齢に規則性が無いことは明らかだった。目を通し終えた神作真哉は鋭い視線を永山に向けたまま、その紙を山野に回した。

 永山哲也が説明する。

「そこに挙げてあるのは、この一年で死亡した学者やジャーナリストたちです」

 椅子から腰を上げて机を回ってきた上野秀則が、顔を寄せて紙を見ている山野と春木の横から覗き込んだ。神作真哉が永山に尋ねる。

「共通項は」

「SAI五KTシステムの研究あるいは取材です。全員が、その危険性と問題点を訴えています。クラマトゥン博士は、その最後の一人でした」

 山野が指で辿ると、一番下にサートゥンシット・クラマトゥンの名前があった。

 神作真哉は山野が手に持っているリストを指差しながら再度永山に尋ねた。

「それ、おまえの字だな。どうして手書きでメモしたんだ」

「もし、あらゆるシステムが乗っ取られているとしたら、僕のパソコンに入力した情報も勝手に収集されるかもしれないと思ったので」

 顔を上げた山野紀子は、左手を胸元のイヴフォンに運んで言った。

「ええ! じゃあ、携帯も? 電源を切っといた方がいいかしら」

 神作真哉は首を横に振った。

「イヴフォンはO2電池内蔵だからな。電池切れになることは、まず無いし、システムを乗っ取られているとしたら、外から勝手に電源を入れられることもあるだろ。無駄だよ。捨てるか、解約するかしないと」

 永山哲也が言った。

「ここに居る人は全員『イヴフォン』を使っていますよね。イヴフォンは脳内に直接信号を送って通話するツールですから、もし勝手に起動したとしても分かるはずです。そんなに心配は要らないでしょうね。通話している時以外は」

 山野と上野は顔を見合わせた。神作真哉は溜め息を吐いて、大きく項垂れる。

 山野の手に握られたリストを覗いていた春木陽香が、顔を永山に向けて尋ねた。

「じゃあ、この人たちはSAI五KTシステムに……」

 永山哲也は、今度は首を横に振った。

「いや、違うと思う。アレはただの機械だ。僕はアレに集められ、記憶された情報を利用している奴らの仕業じゃないかと思う」

 春木と山野が怪訝そうな顔を見合わせる。その後二人とも床に視線を落として永山の発言の意味を考えた。神作真哉と上野秀則も同じだった。

 神作真哉が顔を上げて言った。

ASKITアスキットか!」

 永山哲也は頷いて見せた。

「ええ。情報を記憶しているのは、AB〇一八の方ですから。それを製造して管理しているのはNNC社とその子会社のNNJ社。そのバックにいるのがASKITなのだとしたら、その組織は自由にAB〇一八を使えるはずです。その中の情報を」

 全員が沈黙した。誰もが険しい顔をしていた。事件は、記者たちの予想を超えた危険な事情を孕んでいる。皆、頭の中を整理していた。

「ああ!」

 春木陽香が大きな声を上げた。山野紀子が両肩を上げる。動悸を抑えながら、彼女は春木をにらんで言った。

「何よ。驚かさないでよ! ――ああ、びっくりした」

 春木陽香は神作真哉の顔を見て言った。

「津田長官や奥野大臣は、そのAB〇一八の施設を襲撃するかもしれないんですよね。国防軍を使って。あそこには私設軍隊がいるんですよ。戦闘になったら、AB〇一八が壊れちゃうかもしれないですよね」

 永山哲也も深刻な顔で神作に言う。

「彼らは知らないのでしょうね。そんなことになってシステムが停止したら、日本国内だけではなく、地球規模で膨大な数の被害者が出ることを」

 山野紀子が肩を上げて言った。

「たぶん、影響は国内だけだと思ってるのかもね。システムの勝手なネットワーク構築が地球上に広がっているなんて知らないでしょ。知ってたら、国防軍は全システムをネットワークから離脱させるでしょうし、司時空庁だって何か手を打つはずよ。その他にも防災省とか、外務省とか。みんな従来どおりSAI五KTシステムに頼っているってことは、誰も知らないんじゃないの。だから、システムを破壊しても、大打撃を受けるのはAB〇一八を失うASKITやIMUTAを失うストンスロブ社だけで、その他の影響は国内で一時的なものに留まると考えてるんじゃないかしら。津田や奥野たちは」

 永山哲也が頷いた。

「でしょうね。彼らは自分たちの情報がすべてSAI五KTシステムに収集されてしまっていることを知らない。だから、秘密裏に事を進めようとしている。特に津田長官は自分のミスを隠ぺいするために、軍隊を使って何としてもバイオ・ドライブを回収しようと必死なのだとしたら、そもそも、どんな影響が出るかなど考えていないのかもしれません」

 上野秀則が眉を寄せて言った。

「ていうか、国防軍が急襲や潜入活動をするなら、軍のサーバーを使って作戦立案するだろ。それもSAI五KTシステムに接続してるから、結局はASKITに知られるんじゃないか?」

 山野紀子が険しい顔で言った。

「そして、ASKITはそれを阻止しようと手を打ってくる。もし国防軍とASKITが衝突したら、国内で大規模な戦闘になりかねないわね……」

 上野秀則が小さな目を丸くした。

「そ、そんなことになったら、ASKITに動かされている先進諸国が日本に軍隊を送り込んでくるんじゃないか。ASKITを排除しようとしている国々も日本に援軍を派遣してくるかもしれないし」

 永山哲也が深刻な顔で言う。

「日本全土が戦場になりますね。南米戦争よりも酷い状況になるかもしれない」

 山野紀子が言った。

「いいえ。ASKITは世界中に傘下の企業を置いているのよ。戦争が始まれば、あっという間に戦火は地球上に広がるはず」

 春木陽香が呟く。

「世界大戦……」

 神作真哉が立ち上がった。

「不味いな。止めないと」

「そうだな。でも、どうする。こうなったら、政府にチクるのが一番じゃないか?」

 そう言った上野に神作真哉が厳しい視線を送った。

「政府のどこに。津田は俺たちの言うことに耳を貸さないだろう。他の大臣たちも津田の言いなりだ。官邸も例の調子で門が閉ざされている。チクりようがないじゃねえか」

 山野紀子が険しい顔で言った。

「しかも、公安の『特調』が絡んでるのよ。チクったら、こっちが殺されちゃうかもしれないじゃない」

 神作真哉が頷いた。

「紀子の言うとおりだ。クラマトゥン博士の死はASKITの仕業かもしれんが、政府による口封じってことも十分に考えられる。今は、直訴するのは止めておこう」

 春木陽香が言う。

「そうなると、記事ですね」

 神作真哉はもう一度、今度は大きく頷いた。

「そうだ。――永山、今の話、記事にまとめられるか。紀子とハルハルは、とりあえず奥野の件を……」

 すると、永山哲也が口を挿んだ。

「ちょっと待ってください。その前に、安心して仕事に取り組める環境にする方が先ですよ。これじゃ、記事を書こうにも書けません。危険過ぎて」

 山野紀子が同調する。

「そうよね。やること為すことが筒抜けじゃ、危な過ぎて動けないわ。パソコンで記事も作れないし」

 上野秀則が困惑した顔をして言う。

「どうするんだよ。全部のパソコンを回収して、オフラインにでもするのか」

「いえ、ビルごとオフラインにするんです」

 永山の提案に、上野秀則は声を裏返した。

「ビ、ビルごとオフラインだと? できるか、そんなこと。ウチはネット新聞社だぞ」

 永山哲也は落ち着いて、上野に訴えた。

「やってもらわないと。それに、通信ユニットを外すだけで、外部ネットワークについては直接有線にして、限定した端末だけに接続すればいいんじゃないでしょうか。メインフレームはサーバーだけにして、記者の端末からは無線LANユニットを全て外すか、アプリケーションを削除して、MBCで直接データを遣り取りする。手渡しで。それなら不可能じゃないはずですし、ネットへの新聞の掲載に支障はありません。うえにょデスク、なんとか上層部を説得してもらえませんか」

「お、え? 俺か。俺が説明すんのかよ」

 上野秀則は自分の顔を指差しながら、うろたえている。

 永山哲也は毅然とした態度で言った。

「とにかく、それが実現しないと、この件についての記事は書けません。僕にも家族がいますので」

「先輩……」

 春木陽香は永山の顔をじっと見ていた。上野秀則は返事を渋る。

「しかし、そういう工事や措置を講じるとなると、会社としては予定してない時期の出費だろ。役員連中が納得するかね。他の社員からも不満が出るだろうし……」

 神作真哉が上野に言った。

「ここのフロアだけでもいいじゃないか。下の新日風潮が追っているのは、今は奥野の汚職事件だ。直接SAI五KTシステムとは関係ない。でも、こっちが書くとしたらコアな記事になる。ここだけは安全を確保しないとな。おまえもASKITの連中に消されたくはないだろ」

「私からもお願いします。上野デスク」

 春木陽香が上野に向かって深々と頭を下げた。上野秀則は頭を掻く。

「仕方ねえなあ。じゃあ、頑張ってみるか。ハルハルから『上野デスク』って言われたら、断れないからなあ。要するに、外部から物理的に覗けない環境にすればいいわけだな」

「はい。お願いします」

 永山哲也も頭を下げた。続いて山野紀子が高い声で言う。

「頑張っちゃって下さい。うえのデスク」

 上野秀則は天井を見て言う。

「なんか雑音が聞こえたな」

 上野にガンを飛ばしている山野に、神作真哉が再び指示を出した。

「とにかく、そっちは奥野の記事を急いでくれ。俺たちも、準備ができたら合流する」

 山野紀子が胸を叩いて答えた。

「まっかせーなさーい。紙媒体の威力を見せてやるわよ。ね、ハルハル」

「はあ……。なんか、前もこんな感じだったような……」

 春木陽香の顔は不安で溢れていた。




 二〇三八年八月十九日 木曜日


                  1

 春木陽香は、風潮社編集室の自分の席で仕事に取り組んでいる。ホログラフィー・キーボードの上で指を動かして記事を書いていた彼女は、最後に強く指先で机を叩くと、両手を上げて言った。

「よーし。出来たあっと。これを保存……」

「ちょっと待って!」

 山野紀子が自分の席から叫んだ。春木陽香は驚いて手を止め、山野の方に顔を向ける。山野紀子は春木の机の上を指差した。

「それ、ネット上に保存されるのよね」

「はい。クラウドですけど……」

「ってことは、SAI五KTシステムも取得して、記憶しちゃうのよね」

「大丈夫ですよ。システムのことは何も書いてませんし」

「パソコンのマイクは切った? カメラも」

「ええ、まあ……」

「どうも心配ね。外部媒体に保存できない?」

「はあ……。じゃあ、MBCに保存しときます」

 春木陽香は机の引き出しから二枚の新しいMBCを取り出し、交互に指差しながらリズムを付けて呟く。

「どーちらーに、しよおかな……」

 山野紀子は眉間に皺を寄せて言う。

「うん。そうして。なんか気になるのよね」

「意外と心配性ですね」

 そう言いながら、春木陽香は選んだ方のMBCを自分のパソコンに挿入しようとした。

 山野紀子が、また叫ぶ。

「待って。ストップ」

「――だから、大丈夫ですって」

「原稿チェック。保存は、それから」

「あ、そうでした。すみません。じゃあ、直接そちらに送ります」

「ちょい待ち」

 また山野の声が飛んだ。

「送らなくていい。そっちに行くから」

 山野紀子は立ち上がり、机を回ってくる。春木の背後に来ると、立ったまま春木の机の上の文書ホログラフィーに目を通した。

 読み終えた山野紀子は言う。

「お、よく出来てるわね。じゃあ、別府君。午前中のうちに、誤字チェックをお願いね」

 別府博は自分の立体パソコンに顔を向けたまま返事をした。

「了解でーす」

 春木陽香は自分の立体パソコンにMBCを挿し込み、その中に原稿データを保存した。椅子を回して後ろを向くと、そのMBCを別府に渡す。春木から受け取ったMBCをジロジロと見ながら、別府博は言った。

「本当に、SAI五KTシステムに情報を盗まれてるんですかね」

 山野紀子は二人の間に立って腕組みをしたまま答えた。

「分かんない。分かんないから、注意してるのよ。『念には念を』よ」

 春木陽香が椅子を回して自分の机の方を向きながら言う。

「ですか……。ですよね、やっぱり」

 彼女は自分の机の上の筆立てに手を伸ばし、そこからサインペンを取り出した。

 山野紀子は深刻な顔をして、言った。

「SAI五KTシステムよりも、その背後にいる奴らの方が恐いわ。国やASKITに全ての情報が盗まれていることの方が、もっと恐ろしいことよ。その情報を使うのは、結局は人間だから。人間が一番恐ろしいでしょ」

 春木陽香が机の上で熱心に何かを書きながら呟いた。

「中でも編集長は特に……いたっ」

 久々に山野の拳骨が頭上に落ちた。

 山野紀子は自分の机に移動しながら言う。

「いいから、ハルハルは時間が空いてるんなら、田爪健三の研究データの行方を探る。核テロ爆発が哲ちゃんのせいにされてもいいの?」

 春木陽香は両手で頭の上を押さえながら、涙目で答えた。

「いや、駄目です。絶対に。――よし、調査、調査」

「何を」

 椅子に座りながらそう尋ねた山野に、春木陽香は答えようとした。

「あ……ええと……」

 答えが出てこなかった。

 山野紀子は呆れ顔で言った。

「まったく。とりあえず、防災隊の出動履歴とか、哲ちゃんがタイムマシンを飛ばした日時の世界中の防災隊の動きとかから探ってみたら。もしかしたら、どこかで、あのタイムマシンが見つかっているかもよ」

「ですね。――よし、やってみます」

 春木陽香はサインペンを筆立てに戻し、立体パソコンのホログラフィー・キーボードの上で指を動かし始めた。

「はあ……。頼みますよ、期待の新人さん」

 山野紀子は湯気を立てる「トゲトゲ湯飲み」を持ったまま、不安そうな顔で春木を見つめていた。



                  2

 新首都の隣県、多久実たくみ市の多久実第一基地の飛行場には、数機のオスプレイが駐機していた。朝陽に照らされた機体の後部ハッチから、防具を着けた戦闘服姿の兵士たちが、大きな背嚢を重そうに背負ったまま自動小銃を抱えて駆け降りてくる。少し離れた所に立っている強面の教官が兵士たちに怒鳴り散らした。

「コルァ、新米共お! ダラダラすんじゃねえ! ほら、さっとと移動しろ。予科はサークル活動じゃねえぞ。貴様ら訓練兵に余計な給料を支払ってる余裕はねえんだ。移動くらい短時間で済ませろ!」

 フル装備の訓練兵たちは、ヘルメットと防弾マスクの隙間から汗を落としながら教官の前まで走ると、訓練どおりに整列する。教官は訓練兵たちを見回して大声で怒鳴った。

「銃口は、しっかり上に向けとけよお。訓練用のゴム弾とはいえ、音速超えで発射されるんだ。当たったら青アザじゃ済まねえぞ。安全装置も確認しろ」

 隊列が整ったのを確認すると、教官は顎を上げて言った。

「よーし。今、貴様らが装備しているのが、実戦で必要となる完全装備だ。たかがオスプレイからここまで走ったくらいで、へばってんじゃねえぞ。軍が、どれだけ金をかけて、貴様らクズ共のために装備の軽量化を実現したと思ってるんだ。昔は、そんなものじゃなかったんだぞ。実戦となれば、それで何十キロも行軍することもあるんだからな。動けませんと泣き付かれても……ん?」

 教官の視界に、オスプレイの下でヨタヨタと歩いている一人の訓練兵の姿が入った。

 教官は声を荒げる。

「貴様あ! 何やっとるかあ! さっさと走れ!」

 その訓練兵は、フラフラしながら隊列の最後尾まで走ってきた。

 教官は呆れ顔で言った。

「本当にヘバってんのか、おまえ。しっかりしろ、国防兵だぞ」

 その訓練兵は隊列の最後尾で前屈みになり、片方の手を膝について、反対の手で教官に敬礼した。

 教官は短く溜め息を吐くと、再び前を向き、大きな声で言った。

「いいか、貴様ら。明日は実戦での警備を想定した模擬訓練だ。有事の際には、我々国防軍が国の主要施設と民間の重要施設を警備することになる。最短時間で目的地に移動し、現地に到着したら、迅速に指定位置に付かないといかんのだぞ。こんなノロノロと動いていてどうする。敵に狙い撃ちして下さいと言っているようなもんじゃねえか」

 そして、最後尾でふらついている、さっきの訓練兵を指差して怒鳴った。

「そこの鈍間あ! 明日の訓練でそんな調子なら、俺が実弾を撃ち込むぞ。いいな!」

 その訓練兵は背筋を正して敬礼した。

 教官はそれを視界に留めず、訓練兵たちを見回して言った。

「よく聞け。警備施設及び配置指令図は、移動中の車両の中又は機内で命令と共に配布される。すぐに頭に叩き込んで、哨戒訓練どおりに行動するんだ。実戦では、こんな丁寧な事前連絡はねえからな。感謝しろよ」

 訓練兵たちは声を揃えて返事をした。

 教官は更に怒鳴る。

「よおし、ヒヨッコども。全速で兵舎まで移動だ。装備品の再点検を済ませたら、第五運動場に集合。これから五分きっかりで済ませろ。一秒でも遅れた奴は、腕立て五百回だ。よーし、行け!」

 訓練兵たちは再び全速力で走っていった。

「行け、行け、行け、オラオラ、走れ、走れ、走れ! ――貴様、もっと気合を入れて走らんか!」

 教官に尻を蹴り上げられた最後尾の訓練兵は、そのままヨタヨタと走っていった。

 増田基和が建物の窓から眼下の訓練兵たちの移動を見つめていた。彼の背後には、空中にホログラフィーで投影された奥野恵次郎の上半身が浮かんでいる。

 ホログラフィーの奥野恵次郎は言った。

『いやあ、増田君。頑張ってくれたな』

 増田基和は振り向いて言う。

「いえ。昨日、大臣が視察にご来訪いただきましたお蔭で、色々とスムーズに事が運びました」

『そうだろう、そうだろう。だが、君も随分と骨折ってくれたようじゃないか。なんとか必要な数の訓練兵を集めてくれたようだな。助かったよ』

「訓練兵の訓練としてでなければ、後々、問題になるでしょうから。遠方からにはなりましたが、中隊一個分の人数を異動させました。訓練活動の支援要員として、偵察隊からも一個小隊を加えます」

『そうか。ん。ご苦労だった。半分は、再雇用の兵士たちなのだな』

「はい。大臣がご命令のとおり、除隊した軍隊経験者を再雇用したと、人事局から報告を受けています。今回の訓練兵員の半数は、それらの中途採用者で構成しました」

『うむ。素人ばかりでは、NNJ社に対しても恰好がつかんからな』

「除隊原因に問題がある者も多く含まれているようですが」

『兵士としての実力に注目しとるんだ。人格で採用しても仕方あるまい。それに、再雇用した人間のほとんどは元軍曹や伍長レベルの奴らだ。即戦力になる。明日の模擬訓練で戦闘能力評価を済ませたら、さっさと元の階級に戻してやればいい。いいな』

「は。承知しました」

 直立する増田の背後の窓の向こうには、広い滑走路が広がり、そこに次々とオスプレイが到着していた。その内の一機のオスプレイから駆け降りて来たフル装備の訓練兵たちに、さっきの教官が怒鳴っている。

「コルァ、新米共お! ダラダラすんじゃねえ! ほら、さっとと移動しろ。予科はサークル活動じゃねえぞ」

 朝陽に照らされた滑走路で、駐機しているオスプレイの機体が日光を照り返していた。


                  3

 新日ネット新聞社の社会部フロアでは、早速、配線等の入替え工事が始まっていた。各チームの机の「島」の間には脚立が立ち、作業着姿の内装工夫や技術者たちが天井裏や床下に体を入れて作業を進めている。電気ドリルの音や、ハンマーで打ち鳴らされる金属音がそこら中に響いていた。だから、ほとんどの記者たちは、その騒音から逃げるようにフロアから外に出ている。

 空席となっている神作のチームの席の周りでも、作業員たちが床を剥いで、その下の配線を入れ替えていたり、天井の中に上身を入れて、中で機器を取り外したりしていた。

 慌しく進むフロアの工事を見守りながら、上野の部屋のドアの前で永山哲也と春木陽香が並んで立ち、会話をしている。

「なんか、すごいことになってますね」

「通信ユニットを全て外してもらって、サーバーへは、それ専用のパソコンから有線接続にしてもらっているからね。イントラネットの再構築も必要だし、配線も、仕事の邪魔にならないように引いてもらわないといけない。手間が掛かるのは仕方ないかもね」

「プリンターも有線接続にするんですか」

「そ。一応、念のためにね。大昔のやり方に逆戻りだ。しかも、全部紙印刷で保存」

「データ化して保存すると、ASKITに盗まれる可能性があるからですか」

「ああ。連中は、とにかく危険な集団だからね。こっちも最新の注意を払わないと」

「でも、先輩たちが記事を載せたら、やっぱり命を狙われるんじゃ……」

 不安そうな顔をして永山を見上げた春木に、永山哲也は言った。

「記事を発表すれば、警察も世論も動く。その後では、ASKITは、こっちには手を出せないよ。むしろ政府関係者や財界に対して動き始めるはずだ。ASKITが懼れているのは、マスコミによる世間への事実公表なのさ。僕がリストアップした記者や学者たちも記事や論文を発表する前に不審な死をとげている。あのクラマトゥン博士も、来月、学会でSAI五KTシステムについて、その危険性を発表する予定だった。だから、こっちも記事を出すが危ない」

「でも、どうしてASKITは、そこまでして事実公表を阻止しようとするんですか」

「ASKITの収入源は、自分たちが掌握している特許技術の利用料だ。奴らが握っている特許権は、軍事技術や企業の生産技術に直接利用されている技術に関するものも多いけど、一番多いのは、僕ら消費者が使用している日用品に使われている技術さ。イヴフォンとか、AI自動車とかに使われている細かな技術。ASKITのやっていることを知った消費者が、それらの商品について不買運動でも起こせば、生産している企業側は生産を中止する。そうなると、特許技術の使用料は入ってこない。結局、ASKITが一番気にかけているのは、消費者の動向なのさ。つまり、世論。今回の件でも、世界中の世論がSAI五KTシステムの利用中止に向けて傾いたら、各国が協力してシステムを停止させようとするかもしれない。本気で時間と資金をかけて十分な準備をすれば、SAI五KTシステムをネットワークから孤立させて、実質的にスタンド・アロンにすることは不可能じゃないはずだからね。そうなれば、AB〇一八を停止させても、破壊しても構わないということになる。莫大な資金を投じて建造したAB〇一八を破壊されたら、ASKITは倒産しちまうかもしれないだろ。だから、世論の動向に気を配っているのさ。きっと」

「ふーん……」

 春木陽香は口を尖らせて頷いた。

 そこへ、ヘルメットを被り、顔にゴーグルとマスクを着けた作業員が近づいてきた。

「すみません。バックアップ・データはどちらですか。このレーザーメスでメモリー・ボールに記録されている通信プロトコルの書き込み部分だけ、削り取っておきますので。焼き切っておいた方がいいでしょ。勝手に外部通信を始めるといけませんから」

 永山哲也が答えた。

「ああ……ええと、そうですね。じゃあ、お願いします。僕のチームの分は、その棚の上のドライブ・ボックスです。他のチームの分は、それぞれに訊いて下さい」

 その作業員は言った。

「ついでに、皆さんのパソコンの中のメモリーボールからも、外部通信に関するプログラム部分を削っておきましょうか。どれも位置が同じでしょうから、すぐに済みますけど。どうします?」

 永山哲也は尋ねる。

「後から、再インストールは出来るんですよね」

「はい。別の位置に刻まれるだけですから、問題はないですよ」

「じゃあ、お願いします。――ああ、これ、邪魔ですね」

 永山哲也は、足下に気をつけながら自分の机の前に移動すると、机の上の「エケコ人形貯金箱」を持ち上げた。それを抱えて戻ってきた永山を見て、春木陽香が言った。 

「あ、そうだった」

 春木陽香はスカートのギャザーの間に手を入れると、ポケットから名刺大のカードのような物を取り出した。表面にお札の絵柄が手書きで書き込んである。

 春木陽香はそれを永山に差し出した。

「先輩、これ」

 永山哲也はエケコ人形貯金箱を手に持ったまま、それを受け取ると、まじまじと眺めて言った。

「なに、これ」

「おさつです」

「お札?」

「エケコ人形って、口の所にお札とか煙草とかを咥えさせとくと、ご利益があるらしいんです。先輩は煙草を吸わないですし、今時、現金のお札も持ち歩かないでしょうから、これ、作ってきました。小さなお札……の真似ですけど」

 春木の手作り紙幣を見つめながら、永山哲也は言った。

「お、ということは、春木はるきさつだな。レートは?」

「そりゃあ、円の百万倍です」

「大きく出たなあ。これを口の所に差し込んどけばいいのかい?」

 春木陽香はコクコクと頷いた。永山哲也は言われたとおり、「春木札」をエケコ人形貯金箱のコインの投入口も兼ねている、横に開いた大きな口に差し込んでみた。口は大きく横に開いているので、「春木札」が小さく見える。手作りのお札を口に挟んで笑っている毛糸の帽子のちょび髭おじさんは、滑稽だった。永山哲也と春木陽香は、顔を見合わせてクスリと笑った。

「なんだ、楽しそうだな」

「わ、びっくりした。ああ!」

 背後から突如聞こえた低い声に驚いた永山哲也は「春木札」をエケコ人形貯金箱に飲み込ませてしまった。ちょび髭おじさんの腹部でカランと音がする。

 永山哲也は後ろの長身の男に言った。

「キャップ、驚かさないで下さいよ」

 背後から声を掛けたのは、上野の部屋から出てきた神作真哉だった。彼は言った。

「人形なんかで遊んでる場合かよ。夕刊までに工事は終わるのか。それまでに今日の記事は仕上げとかないといかんのだぞ。発刊に穴を空けないっていうのが上からの条件なんだからな。おまえも下の談話フロアにでもパソコンを持って行って、記事を作ってこいよ」

 永山哲也はエケコ人形貯金箱を両手で高々と持ち上げて下から覗きながら答える。

「今、各パソコンのメモリー・ボールから、レーザーメスで物理的に通信用プログラムを削除してもらっているところです。終わったら、持って行って、仕事しますよ。あらら、完全に中に入っちゃったなあ」

 永山哲也はエケコ人形貯金箱を細かく揺すってみた。飛び出した太鼓腹の中でカラカラと音がする。永山哲也は春木に申し訳無さそうな顔を向けた。

 神作真哉が背後の上野の部屋の中を指差しながら言った。

「おまえ、うえにょにも礼を言っておけよ。あいつ、昨日の夜中まで杉野副社長を説得してたみたいだからな。その後も今朝方まで、企画書やら計算書を作ってたみたいだぞ。見てみろ、ソファーの上で爆睡してるじゃねえか」

 永山哲也が部屋の中をそっと覗く。座りにくそうな形の応接ソファーが一列にならべてあった。その上でテッシュペーパーの箱を枕にして上野秀則が寝ている。壁と天井の隙間から電気ドリルの音が響いているにもかかわらず、彼は熟睡していた。

「そうだったんですか。知りませんでした。後でお礼を言っておきます」

 永山哲也は静かにドアを閉めた。

 神作真哉が春木の顔を見て言った。

「ハルハル、下の方はどうだ。明日の発刊に記事は間に合いそうか」

「はい。何とか、一応。今、それを……」

 春木の発言を甲高いベルの音が遮った。非常ベルの音である。作業員たちが手を止めて一斉に体を起こした。

 神作真哉はフロアの入り口に顔を向ける。

「なんだ……?」

 永山哲也もゲートの方を望みながら言った。

「火事ですかね」

 ドアが開き、ティッシュペーパーの箱を抱えた上野秀則が、目を擦りながら出てきた。

「ったく、うるせえなあ。誰だよ、こんな大音量で目覚まし時計をかけたの……あれ、なんだ、非常ベルか」

 上野秀則は部屋の中に戻り、ドアを閉めた。

 またドアが開いた。ティッシュペーパーの箱を手に持った上野秀則が飛び出してくる。

「た、大変じゃないか。火事か?」

 慌てる上野を見て、神作真哉と永山哲也は溜め息を吐いた。するとそこへ永峰千佳が血相を変えて駆けて来た。神作真哉が尋ねる。

「千佳ちゃん、何階だ」

 永峰千佳はゲートの方を指差して答えた。

「下の週刊誌の階です! 火災のランプが点灯してますよ」

 春木陽香が飛び上がった。

「ええー! 大変!」

 彼女はゲートの方へ駆けていった。

「千佳ちゃん! 避難訓練通り貴重品をもって上に移動だ。あと、シゲさんの居場所も確認してくれ。それと、防火扉に気をつけろよ。自動で閉まるからな。俺は下を見てくる」

 慌てた様子でそう言いながら、神作真哉も駆けていった。

「か、火事か。非常口はどっちだ」

 ティッシュペーパーの箱を持ったままオロオロとしている上野に永山哲也がエケコ人形貯金箱を渡した。

「これ、持っていて下さい。火事は下の階ですから、作業している業者さんたちにも慌てないように言って下さい」

 駆け出していった永山哲也は、途中で振り返った。

「ああ、上野デスク、いろいろと有難うございました。お礼は後ほど改めて」

 永山哲也は軽く頭を下げると、神作と春木を追って走っていった。

 永峰千佳はヘッド・マウント・ディスプレイを自分のバッグに入れている。

 上野秀則はテッシュペーパーの箱とエケコ人形貯金箱を抱えたまま言った。

「なんだ、下の階か。なら安心だな……いや、安心じゃないだろう!」

 そして、神作の机の上にティシュペーパーの箱とエケコ人形貯金箱を置くと、手を上げて叫んだ。

「ちょっとお、皆さん。避難しますよお。避難。こっちです、慌てずに移動して下さい。落ち着いて、落ち着いて」

 上野の指示に従い、記者と作業員たちは社会部のフロアからゾロゾロと移動し始めた。

 神作の机の上で、両手を左右に広げたちょび髭おじさんの人形が笑っていた。



                  4

 有多町の官庁街に建つ高い省庁ビルに囲まれたその公園は、中央に緑の柴で覆われた広場を置き、その周囲にアスファルトが敷かれた遊歩道を廻らせている。遊歩道沿いには、深緑の葉を茂らせた木々が並べて植えられていた。中央の広場では、シートの上で弁当を食べている子供連れの夫婦や、日光浴をしながら寝転んで読書をしている若者、ペットの犬と戯れている中年、孫と遊ぶ老人など、人々が様々に時を過ごしている。その地下は数階の駐車場になっていて、有多町に車でやって来る多くの人がそこを利用する。その地下駐車場出入口のドアが開き、司時空庁の業務管理部長・松田千春が歩いて出てきた。彼はそのまま、公園の隅に停めてあるキャンピングカーへと向かう。

 キャンピングカーは縞柄のサンルーフを張り出し、その下に、車体の側面の窓に沿って幅の狭いカウンターを設置していた。松田千春はそのカウンターの前に立った。窓から車内を覗くと、車内の厨房の隅の方に置かれた椅子に、葉巻を咥えた髭面の大男が腰掛けていた。その大男は筋肉でパンパンに張ったTシャツから出た太い腕にクロスワードパズルの本を持ち、熱心にパズルを解いている。

 松田千春は窓を開け、その髭面の男に言った。

「あの、コーヒーを貰えるかね」

 髭面の大男は葉巻を咥えたまま無愛想に答えた。

「ウチは、コーヒーはやってない」

 松田千春は車内を見回してメニューを探した。

「ああ、そうか……。じゃあ、レモンティーか、烏龍茶でもいいんだが」

 髭面の大男は咥えていた葉巻を片方の手に取ると、それで松田の後ろを指した。

「向うの自販機で買え。ウチはハンバーガー屋だ」

 大男は鋭い眼を向ける。若干臆した松田千春は、踵を返し、柴の広場の向こうにある自動販売機へと向かった。革靴で芝生の上を歩き、公園の南側を通る遊歩道を越えると、植木の向こうの狭い車道を渡って自動販売機の前まで移動する。そこで彼は周囲を注意深く見回した。その後、自動販売機の前で財布を広げ、中からマネーカードを取り出して自動販売機に翳す。すると、後方から男が声を掛けてきた。

「司時空庁業務管理部長の松田千春さんですね」

 松田が振り返ると、スーツ姿の初老の男が立っていた。中背の男は、姿勢がよく、太ってもいない。その男は、太い眉の下の鋭い眼で松田を見ながら、さらに言った。

「特調の赤上です。お電話いただき有難うございます」

 赤上あかがみあきらは名刺を差し出した。松田千春が受け取った名刺に目を通していると、赤上の背後に黒塗りのAI自動車が停車した。彼はその車の後部ドアを開け、松田に言った。

「どうぞ、お乗り下さい。立ち話も何でしょうから」

 松田千春は促されるがまま、その車の後部座席に乗り込んだ。運転席と助手席には背広姿の男たちが座っている。赤上明が素早く松田の後から乗り込んできて、彼の隣に座り、ドアを閉めた。そして、運転席の男に向かって低い声で言う。

「出せ」

 黒塗りのAI自動車はゆっくりと走り始めた。公園の端を貫けている細い車道を少し速めの速度で進んでいく。そのまま広い車道に出ると、ウインカーを点滅させて左折し、官庁街とは反対の方向に走っていった。

 車内の松田千春は、受け取った名刺を読み返していた。そこには、「警視庁公安部特別調査課」という表記の下に「課長 赤上明」と記されている。

 隣に座っている赤上明が口を開いた。

「早速ですが、あなたは、ASKITの犯罪謀議を察知されたとか」

 松田千春は赤上の名刺を仕舞いながら、少し緊張した面持ちで尋ねた。

「国際犯罪組織の摘発は、そちらで良かったのですかな」

 赤上明は口角を上げて答える。

「国の治安を乱す犯罪の謀議であれば、全て我々の調査対象です」

 松田千春は赤上の目を見ながら慎重に尋ねた。

「国の省庁でも、ですかな」

 赤上明は真剣な顔を作って頷いて見せた。

「もちろんです。おたくが勤務している『司時空庁』も、例外ではありません」

「情報提供者の身の安全は」

「お約束しましょう。最も安全な場所で、法律に従った方法であなたを隔離します。我々は警察の一機関ですので、ルール違反はしませんよ。ご心配なく」

「そうですか……」

 そう答えた松田千春は、頬を膨らまして息を吐くと、少し肩の力を抜いて赤上に顔を向けた。

「いやあ、『何でも有りの公安特調』と聞いていたが、噂とは違いますな」

「噂は噂、ルールはルールです」

 赤上明は片笑んで見せる。松田千春も硬直させていた頬を緩めた。

「そうですか。安心しました」

 赤上明は、そんな松田の表情を見て、彼に尋ねた。

「それで、あなたが得た情報では、ASKITは何を企んでいるのです?」

 松田千春は語り始めた。

「NNJ社の西郷社長の殺害です。それと、国とNNJ社の間で予定されている契約締結の妨害」

「なるほど、殺人と業務妨害ですか。それで、その狙いは」

「おそらく、IMUTAを事実上掌握して、最終的にはSAI五KTシステムの全てを手中に収めようとしているのだと思います」

「客観的な証拠は」

「――それは……」

 松田が口籠ると、赤上明は反対側の窓に顔を向けて、短く溜め息を吐いた。それを見た松田千春は、慌てて口を開いた。

「ですが、もう一方の証拠ならあります」

 太い眉を中央に寄せた顔を松田の方に向けた赤上明は、彼に聞き返した。

「もう一方の証拠?」

 松田千春は背広の内ポケットから一枚の記憶媒体を取り出し、それを赤上に見せた。

「これです。このMBCの中に、津田長官が奥野国防大臣を利用して国防軍を掌握し、国と警備委託契約を締結したNNJ社を最終的には排除して、AB〇一八を手中に収めようとしている事実を証明する内部資料データが入っています」

 赤上明は不可解と言わんばかりの表情でMBCを受け取りながら言った。

「国防軍を掌握ですと? ――そうすると、つまり、こういう事ですな。津田長官は軍を利用してAB〇一八の支配権を手に入れた後、今度は、軍が警備しているIMUTAも手中に収め、最終的にはSAI五KTシステム全体を手に入れようとしていると」

 松田千春は大きく頷いた。

「そうです。ASKITの連中と『同じ穴の貉』ですよ。いや、それだけではない。長官は最後に、この国を乗っ取るつもりです。あの人は日本の総理になるつもりだ。力技で」

 赤上明はMBCを背広の内ポケットに仕舞いながら、呟くように言った。

「それは、クーデーターまがいですな」

 松田千春は赤上の顔を指差しながら言った。

「そうなんです。それで、これはいかんと思って、そちらにご連絡しました」

 赤上明はしかめた顔を傾けて言う。

「うーん……。どうも分かりませんな。どうして、あなたはそのことを我々に。津田長官の側近として任務を全うすれば、あなたにも良いポストが約束されていたでしょうに」

 松田千春は首を大きく横に振った。

「とんでもない。長官が私に約束したのは、司時空庁の次期長官の椅子ですよ。例のタイムマシン事件で、これから司時空庁は大変だというのに、こんな時期に長官に就任しても国民に謝罪するために長官職を務めるようなものです。割に合わない」

 赤上明は前を向いたまま言った。

「組織の長とは、そういうものでしょう。それが仕事だと思いますがね」

「あ、いや……そうかもしれませんが、まあ、なんというか、それではモチベーションがね。これまで頑張ってきた甲斐もありませんし。私は国民のために力を尽くそうと……」

「まあ、いいでしょう。それで、では何故、ASKIT側に付かないのです?」

「ASKIT? なぜ私がASKIT側に」

「連絡を取っていらっしゃるのでしょう? さっき言われた、ASKITの連中が殺人と業務妨害を企んでいるとかいう話、あれは、どこから、どのようにして得られた情報なのです」

 松田千春は目を泳がせながら答える。

「ああ……、ええと……、津田長官からですよ。彼が言っていました」

「津田長官が? ですが、その発言を裏付ける確たる証拠はないのですよね。長官が言っていた、たったそれだけの事実で、我々に連絡を。しかも、現役の司時空庁長官を国家転覆の罪で告発ですか。部下のあなたが。冗談でしょう」

 そう言って松田を指差した後、赤上明は再び窓の方に顔を向けた。

 松田千春は額に汗を浮かせる。助手席の男が少し振り向いて松田をにらんだ。

 外の景色を眺めながら赤上明は言う。

「正直に話してくれなければ、我々も力にはなれませんがね。このままじゃ、あなたはいずれ、連中に消されますよ」

 松田千春は下を向いて黙っていた。

 赤上明は振り返り、松田に顔を向けた。

「私があなたの立場なら、まずはASKITに接触しますな。そして、西郷社長の身の危険を確かめる。そのうえで、警察に情報を持ち込みますがね。そうでないと、割に合う報酬が期待できないですからな、我々から。――松田さん、本当のことを話してくれませんか。会っているのでしょう、ASKITの連中と」

 松田千春はハンカチで額を拭うと、少し声を震わせながら話し始めた。

「た、確かに、ASKITの連中と話したことはあります。ですが、向うから接触してきたのですよ。私に、司時空庁内部でASKIT側のスパイにならないかと。それで、一応連絡はしました。情報を得るためにね。その時に事情を知ったのです」

「どんな」

 赤上明は松田の目を見て短くそう尋ねた。松田千春は説明する。

「連中は評判どおり信用ならない。私を利用するつもりなんです。奴らの統領ボスは私に、NNJ社の社長の椅子を明け渡すと言ってきました。ですが、そのNNJ社自体を切り捨てる計画のようです。つまり、私は使い捨てだ。ま、分かってはいましたがね」

「で、我々に連絡したと」

「そういうことです。有働前総理とも信頼関係が深いあなた方なら、お力になってもらえると思いましてね」

 赤上明は松田から前方へと視線を移し、空返事をした。

「そうですなあ。状況が随分と複雑になっていますからなあ……。ああ、次の交差点を曲がってくれ。後はいつものルートで頼む」

 運転手に指示を出した赤上明は、再び松田に顔を向けた。

「まあ、あなたがASKITの連中にくみさなかったというのは、理解できます。あなたのように見識のある方なら、あんな連中とは関わりたくないと思われるでしょうからな。ところが、忠誠を誓ってきた津田長官にも裏切られた。そうなると、嫌でもこのような方法を選択せざるを得なかった訳ですな。お気の毒に。同情しますよ、本当に」

「いやいや、これが我々の世界ですからね。我慢するしかないですよ」

「大変なんですなあ、国家公務員というのは。我々も危険な仕事だが、あなた方は身内の中で危険に晒されている。それでは気が休まる暇も無いでしょう、方々に神経を使って」

「ええ。ですが、長官も言っていたとおり、これからは頭脳戦ですからね。気を休めてなどはいられません。どれだけ先を読めるか、それにかかっていますから」

「なるほど。だから先手を打って、身を守ろうと。相当、先を読まれた訳ですな」

「まあ、それもありますが、他にも、いろいろと思うところがありましてね」

「といいますと」

「……」

「どうしました。何かあったのですか?」

「……」

 黙り込んだ松田に、赤上明は親しげな口調で語りかけた。

「話してくださいよ、松田さん。我々は、同じ公務員同士ではないですか。私でよければ力になりますよ。話してみて下さい。さあ」

 深く溜息を吐いた松田千春は、赤上を一瞥してから再び語り始めた。

「実は、こんな混沌とした状況にもかかわらず、津田長官は自分の政界進出のことしか考えていないのです。その後ろ盾の奥野大臣も次の選挙のことや保身で頭がいっぱい。皆、自分の都合のよいことばかり考えて我々に指示を出す。こっちは安月給で一生懸命に働いているというのに。挙句に、今の司時空庁長官の職を押し付けられては、やってられませんよ。それで正直なところ、この仕事に嫌気がさしました。あなたも宮仕えなら、分かるでしょう」

 赤上明は深く頷いて見せた。

「ええ。よーく分かります。私も毎日のように嫌気がさしていますから」

「そうですか。やはり、あなたも」

 赤上明は松田の目を見て言った。

「私も来年で定年退職ですが、ご覧のとおり課長止まりだ。同期の仲間ともよく話しをしますがね、危険に身を晒してこれでは、納得致しかねますな。何か得る物がなければ」

「心中、お察しします。私もね、長官やASKITの統領がもう少し良い条件を提示してくれれば、考えたかもしれません。私だって人間ですからね。ですが、こんな褒賞では働き甲斐も無い。ならば、さっさと辞めてしまえばよいのですが、私も家族がいますので、そうもいかない。さて、どうするか。私が上に立てばよいのです。特調の皆さんの力を借りてね。だから、こうしてお話ししているのですよ」

「そうでしたか。まさに発想の転換というやつですな。さすがは司時空庁の懐刀と言われた方だ。立派です。普通なら心が折れているところでしょうに」

「まあ、それほどでも。役人生活で随分と鍛えられましたからね。こういうのには慣れているの……」

「ところで、そのASKITの統領とは、どのような人物でした」

「アス……ああ、直接は会っていないので、分かりません。ホログラフィー通話の通信でも、相手のホログラフィー画像には加工がされていて、こちらには姿が分かりませんでしたから」

「でも?」

「――ああ、テレビ電話が掛かってきたことがあるんですよ」

「テレビ電話。2D通信ですか。今時、珍しいですな」

 松田千春は照れ笑いをしながら答えた。

「それが、その珍しい電話機を、私は今でも自宅で使っているのですよ。自分の書斎で、こっそりとね」

「ほう。書斎で。何であれ、自分だけの固定電話が持てるとは、贅沢ですなあ。羨ましい限りです。私なんか、ほら、これだけですよ」

 赤上明はポケットからイヤホンマイクを出して見せた。

 松田千春は笑いながら言った。

「いやいや。そちらのは、お仕事用でしょう。私は趣味で古い電話機を使っているだけですよ。ああ、私、こう見えても元エンジニアでしてね。機械いじりが好きなんです。実家で使わなくなった古いテレビ電話機を捨てるって言うんでね、貰って、今のネット通信に対応できるように改造して、使っているんです。要は節約と、ただの自己満足ですよ。いやあ、お恥ずかしい」

 饒舌に語った松田千春は、言葉とは裏腹の自慢気な顔を隠しながら頭を掻いた。

 赤上明は横目で隣の松田の表情を観察しながら、淡々とした口調で言う。

「背景は見えていましたか」

「え?」

「背景ですよ。掛かってきたんでしょう? ASKITから。その時に、その手製のテレビ電話でも、背景画像までちゃんと受信できたのですか?」

「もちろんですよ。ああ、その統領の顔は分かりませんでしたよ。完全にモザイク処理された画像でしたから。ですが、後ろの景色は未処理のままでしたから、こちらの画面には映っていましたよ。ちゃんと」

「へえ。さすがは元エンジニアだ。今の大容量送信の多重通信方式に、旧式のテレビ電話機を適合させるとは、大したものですなあ。しかも、ご自身でカスタマイズして。よほど腕がいいんですな。いやいや、尊敬します」

「そんな。これくらいは、そんなに難しいことではありませんよ」

「で、どのような場所でした?」

「はい?」

「その見えていた背景の景色ですよ。いや、昔は、背景の景色が込み入っていたり、高速道路の前みたいに、頻繁に動く物の前とかだと、画像が飛んでカクカクって映ったりしたじゃないですか。で、結局、何が何やら分からない。あまり詳しくは知りませんが、あれでしょ、処理能力……ええと、ラム、ロム……すみません、機械には疎くて」

「ああ、RAMですな。大丈夫。そこが一番の腕の見せ所ですからね。ちゃんと新型と旧型の両方の通信方式に適合する特殊なRAMを組み込んで対応しました」

「ほう、そんな物を。それって、手に入れるのが大変だったでしょう」

「いやいや、それはどうという事はなかったですよ。私が勤めているのは司時空庁ですからね。ラボに行けば、いくらでも余りの部品があります。ですが、チップセットには本当に苦労しました。必要な型番のものがラボには無くて、ガラクタ部品を売っている店に何度も足を運んで、ようやく見つけたんですよ。そしたら、今度はCPUも替えないといけなくて、結局は丸ごと一から付け替えることになってしまって、まあ、大変でした。いろいろと金も掛かりましたが、途中からは技術屋として意地になってしまいましてね。何としても通信できるようにしてやるって、その一念で頑張ったんです。で、ようやく現代のホログラフィー電話機とも通信ができるようになりました。こっちには平面画像しか見えない訳ですが、それでも感動しましたよ。やったぞってね」

 松田千春は強く拳を握りしめ、その時の達成感と誇りを思い出すように胸を張った。そのまま得意顔で続ける。

「あんなガラクタでも、技術さえあれば、今のハイテク通信に対応させることはできるのです。それなりにね。ですから、背景の景色は、ちゃんと見えていましたよ」

「本当に。いやいや、信じられませんなあ。旧式のテレビ電話機で今の多重ネット通信の信号を受け止めることが本当にできたのですか。きっと、まともな画像は映ってなかったでしょう」

「いやいや、ちゃんと映っていましたよ。洋室でしたね。大きな洋館の一室という感じでした」

「窓は」

「窓? ――ああ……有りましたな」

 キョトンとした顔でそう答えた松田に、赤上明は続けて尋ねた。

「最後に通信した時は、どんな天気でした」

「最後……ええと、雨が降っていましたな。結構激しく。その状況でも画像は乱れませんでしたよ。ああ、奥に海が見えたような……」

「日中ですか」

「え……ええ、そうです」

 そこまでの会話を終えると、赤上明は笑みを浮かべて松田に言った。

「そうですか。貴重な情報を有難うございました。今後とも、よろしく頼みます」

「いやいや、これくらいのことなど。これからも、特調さんとは長いお付き合いになりそうですからな。こちらこそ、宜しく御協力をお願いしたい」

 松田千春は赤上に向けて深くお辞儀する。

 頬を下げた赤上明は、助手席の背広姿の男に言った。

「今の話を先日の通話日時と照合しろ。同時刻に日中である範囲の中から、該当する天気だった箇所をピックアップするんだ。その中から、海が視界に入る洋館造りの建物を割り出せ。海沿い、離島、高台、可能性のある物は全て抽出しろ」

 松田千春は、定年退職前の赤上がテキパキと指示する様子を見ながら、感心したように頷いて言った。

「さすがは公安の方ですな。判断が早い。日頃の訓練の賜物ですかな。いやいや、驚きました。ああ、ASKITの拠点を割り出すおつもりですな。ですが、私の通話日時は、どのようにして、お調べになられたのです?」

 赤上明は松田に、ニヤリと片笑んだ顔を向けた。

「調べるもなにも、すべて聞いていましたから。最初から、最後まで。――しかし、あなたの『お手製テレビ電話』には随分と梃摺てこずりましたよ。こっちの傍受設備やハッキング機材が全く使えないのですからね。参りました。ですが、まあ、あそこまでマニアックに通信ユニットをカスタマイズしたテレビ電話機なら、相手方の最新式のマスキング処理信号も完全には適合しないはずだ。統領の姿は無理だとしても、背景の一部くらいは筒抜けになっていてもおかしくない。そう睨んだのです。だから、あなたに的を絞った訳ですが、ま、正解でした」

「的を……絞った……ああ、では、そちらも当初から私に協力をするつもりで……」

「ところで、あの古いテレビ電話機、元々のメモリーコントローラーは何を使用していたのですか。たぶん、あれ、『ASIC』でしょ。しかもプロトコル方式での読み出しって旧式すぎますよ。ああ、それから、おたくが旧市街のジャンクショップで購入したチップセットも『i845シリーズ』ですよね。あんな古いもの、いくら警察でも簡単には扱いきれません。おかげで、こっちは音声しか拾えなくてね。まったく映像を見ることが出来なかったものですから、困っていたんです。いやあ、あなたのお話が伺えてよかった」

 赤上明は嬉しそうに松田の肩を叩く。

 混乱気味の松田千春は、笑顔のまま言った。

「――ああ、というと、つまり……」

 赤上明は松田の顔に指先を向けて言った。

「あなたをマークしていました。ずっと以前から」

「私を? ま、マークしていた?」

 前を向いた赤上明は、厳しい顔に戻り、声を低めた。

「ところで、公務員の守秘義務違反は重罰に処せられることはご承知ですな。それと、あなたの通話内容ですと、外患誘致の罪に問われる可能性が十分にあるのですが、その点もよくお考え下さい。公文書データ隠匿または不正複製の罪については、犯罪摘発に協力するためでしょうから、こちらも目を瞑りましょう。ですが、我々として、あなたにしてあげられるのは、これが限度ですな」

 松田千春は困惑した顔で言った。

「な、なんだって? それは、どういうことだ。私をハメたのか」

「あなた、言ったでしょ、頭脳戦だって。いやあ、危険に身を晒した甲斐がありました。得る物がありましたよ。これで少しは納得できます」

 赤上明は、そう言いながら、背広の内ポケットからさっきのMBCを取り出して松田に見せた。

「か、返せ。話が違うぞ」

 赤上が握っているMBCに松田が手を伸ばすと、赤上明はそれを内ポケットに素早く戻し、松田の顔を睨んで言った。

「何が。拘置所や刑務所なら、間違いなく安全ですし、法律にも従っているでしょう。私は、嘘は言っていない。これでも警察官なのでね」

「そんな……」

「司時空庁も例外ではないと言ったはずだ。――ま、あんたの言ったとおり、長い付き合いになりそうだし、じっくり行こうじゃないか、な」

 赤上明は強く松田の肩を叩いた。松田千春はドアに手を掛け、大声で喚く。

「降ろしてくれ! こんな逮捕は違法じゃないか! 私は帰るぞ! 降ろせ!」

 助手席の男が少し振り向いて言った。

「無駄ですよ。そっちのドアは、内側からは開きません。これ、警察車両だから」

 その男は下を指差しながら、松田をにらみ付けた。

 運転席の男がボソリと言った。

「やっぱり、『背景』は見えていなかったな」

 松田千春は肩を落として項垂れた。その肩に腕を回した赤上明が顔を近づけて言う。

「そう気にするな。我々は『何でも有りの公安特調』なんでね。簡単にはいかんさ」

 その黒塗りのAI自動車は、警視庁ビルの暗い地下駐車場へと続くスロープをゆっくりと下りていった。


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