第3話

二〇三八年四月十四日 水曜日

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 司時空庁長官室に飾られている木彫りの鶏は、まるで猛禽類の様な鋭い目つきで翼を広げていた。闘鶏を思わせるその攻撃的な鶏の木目を後ろの窓から射し込む朝日が明瞭にしている。その前を佐藤雪子の艶かしい臀部が覆う。彼女は彫刻が載せてある棚の向こうのブラインドを閉じた。ブラインドの羽の隙間から漏れ射した強い日光は革張りの椅子の大きな背もたれを背後から照らす。艶たつ背もたれに後頭部を当てたまま、津田幹雄は南側の窓の前に立つ中年の男の目をにらんでいた。

「それで。納品は間に合うんだな」

 有多町の官庁ビル群を映している大窓を背にして直立したまま、松田千春は頷いた。

「はい。何とか連休明けには納品できるということです」

「ドッグの方の確保は出来ているのか」

「はい。第三ドッグを空けました。そちらの方で加工は可能だと思います。工員はいかがいたしましょう。製造工場から数名を回しましょうか」

 津田幹雄は目の前の両袖の大きな机の上に視線を落として答えた。

「いや、彼女自身が加工すると言っているんだ。一人でやらせたらいい」

 松田千春は眉間に皺を寄せて津田に進言する。

「しかし、女性一人では……。運搬ロボと最低限のオペレーターだけでも置いておくべきではないでしょうか」

 津田幹雄は少し考えてから答えた。

「――分かった。そうしてやりなさい」

 松田千春は津田の表情を注意深く観察しながら、慎重に尋ねる。

「あの……、今月の発射は、やはり……」

 津田幹雄は松田に厳しい視線を向けた。

「実施だ。今になって中止する訳にはいかんだろう。それに、田爪夫人の説が正しいとは限らん。彼女が修正したタイムマシンが実際に彼女の言うとおりにタイムトラベルした時には、彼女の説が正しいということだ。われわれ司時空庁のタイムマシンに問題があるということなら、直ちに中止を検討しなければならん。だが、今の状況では無理だ」

 椅子を少し回した津田幹雄は、佐藤の方を向いた。

「ああ、佐藤君。彼女の説と言えば、田爪夫人はタイムマシンの出現ポイントを割り出せたのかね」

 佐藤雪子は胸の前に持ったタブレット型パソコンの表面に浮かんだ薄いホログラフィーに目を落としていたが、すぐにそれを消して、津田に答えた。

「いえ。まだ、ご連絡はいただいておりません」

 津田幹雄は割れた顎を上げて、鼻から息を吐いた。

「だろうね。割り出せるはずがない。そもそも彼女が間違えているんだ。管理局時代には、たかだか中級研究員だった女じゃないか。田爪と結婚して自分の姓が『田爪』に成ったからと言って、田爪健三にでも成ったつもりなのかね。まったく……」

 佐藤雪子は緩く巻いた髪を振って肩の後ろに回してから、津田に尋ねた。

「機体の詳細なデータを求めてきておりますが、いかが致しましょう」

 津田幹雄は眉間に縦皺を刻む。

「渡せるわけ無いだろう。タイムマシンに関するデータは、如何なるものも門外不出だ」

 松田千春が口を挿んだ。

「しかし、それでは出現ポイントの正確な割り出しができないはずですが」

 津田幹雄は目線だけを松田に向ける。

「田爪博士が残していたタイムマシンの設計図からは割り出せんのかね」

「実際の機体に用いられている機材の材質や機器の細かな配置までは分からないでしょうから、やはり、実機のデータが必要なのでは……」

 それは、技術者出身の叩き上げである松田らしい意見だった。津田幹雄は彼の意見を否定することなく受け入れ、腕組をして考える。横から秘書官の佐藤雪子が提案した。

「今月の発射が終わったら、発射場で彼女を生活させてはいかがでしょう。搭乗者用の待機施設なら、十分に生活設備は揃っていますし」

 津田幹雄はしかめた顔を佐藤に向ける。

「あれは搭乗予定の顧客が発射までの準備をするための宿泊施設じゃないか。高級ホテル並みの施設を無料で使わせるというのかね」

 佐藤雪子は口角を上げて言う。

「その中で機体のデータを渡して田爪夫人に計算していただいては。その代わり、彼女が保管しているタイムマシンの設計図のコピーはこちらに提出してもらうというはいかがでしょう」

「なるほど。――彼女は発射日を指定してきているんだったな。それはいつだね」

 そう津田に尋ねられた佐藤雪子は、タブレット型の立体パソコンを操作して再び表面に平面のホログラフィーを浮かせると、それを見ながら答えた。

「はい。――六月五日土曜日、八時四七分と指定していますわ」

 津田幹雄は怪訝な顔をする。

「随分と細かいな。理由は」

「さあ。ただ、この点は譲れないと仰っていますわ」

「――そうか。向こうがそう言うのなら、仕方あるまい。タイムマシンの今月の発射が終わるまでは機体データは渡せないと言いなさい。松田君、ゴールデンウィーク中は発射施設の職員も休みだな」

「はい。STS部隊の警備兵以外は全員が休みとなっています」

「よし。では、その期間に、夫人に待機施設に入ってもらおう。なるべくなら人目に付かない方がいいからな。彼女が待機施設に入った後で、実機のデータと彼女が持つ設計図のコピーを交換だ。そして、六月五日の発射まで施設からは一歩も外には出すな。佐藤君、いいな」

「分かりました」

 椅子を回して前を向いた津田幹雄は、背もたれから背中を離して言った。

「松田君。その後の手配は分かっているね」

「その後……搭乗手続のことでございますか」

 津田幹雄が机を叩く。

「馬鹿もん! そんなことをしたら、田爪瑠香が司時空庁のタイムマシンに乗ったことが記録に残ってしまうではないか。そうではない。彼女の研究施設のことだよ。場所は押さえてあるんだな」

 松田千春は慌てた様子で答えた。

「は、はい。監視局の方で、把握しております」

 津田幹雄は松田の目をにらみながら言った。

「設計図のコピー元を保管しているかもしれん。いや、必ずどこかに隠している。それを探して回収するんだ。もしもタイムマシンの設計図が外部に漏れたら国家的損失になる。それだけは絶対に避けなければならん。彼女の自宅内も隈なく探せ。いいな」

「かしこまりました」

「彼女が提出し続けている論文に掲載されていた家族機の設計図。あれは実機のものとは細部が随分と違う。ただの予測図だ。だが一方で、単身機の設計図は正確だ。ウチで使用しているものと細部まで全く同じだ。ということは、彼女は必ずどこかに田爪博士が残した単身機の設計図を隠し持っているはずだ。それを何としても回収しろ。手段は任せる」

「かしこまりました。しかるべく対処いたします」

 津田幹雄は背後の鶏の彫刻のような鋭い目を眼鏡の奥に光らせて言った。

「それから、例の物もだ。必ず見つけ出せ」

「はい」

 頭を下げた松田に、津田幹雄は更に尋ねた。

「そう言えば、あの女、NNC社から研究資金の助成を受けているのだったな」

 松田千春は表情を厳しくして首を縦に振った。

「はい。社長のニーナ・ラングトンとは随分と親しいようでございます」

 津田幹雄は椅子の背もたれに上身を投げた。割れた顎を上に向けて、彼は嘆く。

「やはりそうか。蓋を開けてみれば、そんなことだ。田爪夫人がNNJ社からの資金援助を断り続けているのは、世間から誤解を受けたくないと、夫の田爪博士に義理立てしているのだろうと思っていたが……」

 佐藤雪子が尋ねた。

「世間からの誤解とは、どういうことですの?」

 津田幹雄は背もたれに身を倒したまま、チラチラと佐藤を見ながら答えた。

「NNJ社の社長の西郷京斗さいごうけいとはプレイボーイで有名な男だ。田爪夫人の夫の田爪健三博士は十年前の第二実験で消息不明となっている。ま、別の時間軸上で生きているのかもしれんが、この世界では死んだも同然だ。田爪夫人は美人だし、年もまだ四十一と若い。西郷が狙うのも当然だ。それで西郷は田爪夫人に対して研究資金の援助を申し出た。だが、田爪夫人はそれをきっぱりと断ったと聞いている。喉から手が出るほどに欲しいはずの研究資金の援助の申し出をね。私はね、彼女は今時珍しい貞淑な女性だと買っていたんだ。しかし、どうやら少し買いかぶり過ぎていたようだ。彼女は陰で、その親会社のNNC社から資金援助を受けているんじゃないか。あのNNC社は背後の組織の隠れ蓑に過ぎん。連中が今狙っているのは、この日本のタイムマシン技術であるに違いない。つまり、彼女も連中の手先だという証拠だよ。国賊めが、恥を知れ」

 再び身を戻した津田幹雄は、指示を出した。

「とにかく、手配を急ぐんだ。それから松田君、田爪夫人に渡す機体の事前処理の件は、しっかり頼んだよ」

「――はい、分かりました」

 松田千春は少し間を空けて答えた後、視線を逸らした。それに気付いた津田幹雄は、松田に向けて何度も人差し指を振りながら言った。

「そろそろ、私が退官した後の次の長官人事も考えておかねばならん。君、ミスはするんじゃないよ。いいね」

 顔を上げた松田千春は上気して答えた。

「は、はい。では早速、取り掛かります」

 彼は肩を上げ、揚揚として出口へと歩いていく。

 片笑んだ顔で松田の背中を見送った津田幹雄は、彼が退室すると、すぐに横を向いた。

「佐藤君、奥野大臣に連絡してくれ。話がしたい」

「はい。只今」

 佐藤雪子は腰を艶かしく振りながら歩いていき、隣の秘書室へと移動した。

 暫らくすると、津田の机の上の電話機から背広姿の年配の男の姿が投影された。上半身だけを宙に浮かせているホログラフィーの奥野恵次郎おくのけいじろう国防大臣に津田幹雄は頭を下げる。

「朝早くから、どうもすみません」

『うむ。なんだ』

 電話機のスピーカーから聞こえてくる奥野の声は、いかにも国防軍を統括する男という風に低く、太く、威圧的である。頬を下げ眉間に皺を寄せた奥野の立体ホログラフィーは怒り肩で真っ直ぐに津田を睨んだ。

 津田幹雄はその顔を見据えて、淡々と話し始める。

「タイムマシンの発射実験の予定日が決まりました。六月五日土曜日八時四七分です」

『そうか』

 奥野大臣はへの字口でそう答えただけで、他に何の反応も示さなかった。

 少し間を空けて、津田幹雄が奥野に言う。

「周辺警備と那珂世なかよ湾の海上警備の方、よろしくお願い致します」

『分かった。手配しよう』

 深く頷いた奥野に津田幹雄は間髪を容れずに言った。

「通常よりも手厚く警備していただけますと、助かります。警察庁には発射の直前に連絡を入れるつもりですので」

『なるほどな。分かった。海軍から哨戒艇を二隻追加させよう。STSに投入する陸軍部隊も増員させる。警察と防災隊には緊急出動の軍事訓練だと伝えておこう。隣の総合空港の方も空軍に押さえさせる。無人機の緊急着陸訓練ということなら、問題あるまい』

「ありがとうございます」

『で。田爪瑠香はどうするんだ』

「とりあえず、搭乗者待機施設に閉じ込めます。こちらの新品の機体を提供して、彼女の気の済むままに整備させれば、文句も出ないでしょう。あとは契約どおり、彼女自身がマシンに乗って自説を証明するよう迫るつもりです」

 奥野恵次郎のホログラフィーが表情を緩めた。

『ふふっ。君も性根が悪い奴だな。ま、お互い様か』

 津田幹雄は表情を変えずに言う。

「発射直前に機体の設定を従来どおりに戻しておきます。それで、問題は無いかと」

『過去に送って、この世界から消すわけか。ま、殺人ではないわな。上手い方法だ』

「ですが、万が一の事態も考えられますので、軍に特別のご配慮を頂きたいのですが」

『だから、隣の総合空港で無人機の着陸訓練を行うと言ったではないか。田爪瑠香が予測している出現ポイントの方は事前に知らせておいてくれよ。弾薬を積んだ着陸機の目の前に突然現れたりしたら、衝突して大爆発だ。搭乗者はまず助からんからな。そんな事故が万が一にでも起こらんとも限らん。安全のために、知らせておいてくれ』

「分かりました。安全のために、お知らせしておきます」

 津田がそう応えると、ホログラフィーの奥野恵次郎はニヤリと笑った。

 津田幹雄はそれに応じることなく奥野に尋ねる。

「ところで、例の組織の方はいかがなりましたでしょうか。田爪瑠香の背後にはNNC社が居る模様です。おそらく連中が操っている会社でしょう。大元を排除せねば、また同じことが起きかねません」

 奥野恵次郎は厳しい顔に戻して答えた。

『そうだな。今、増田少将の情報局に奴らの本拠地を探らせている。もう少し待て』

 津田幹雄は眉を寄せた。

「NNC社とNNJ社の方も、この際に一掃していただけると、有り難いのですが」

『邪魔者を排除するのは当然だ。だが、大元を叩き潰しさえすれば、NNC社やNNJ社まで潰す必要はないだろう。あそこはただの民間企業だ。バックが居なくなれば、どうということはない。それは我々に任せろ。我々がAB〇一八を掌握するまで、暫らく待て』

「は。承知いたしました」

 ホログラフィーの奥野恵次郎は、目の前の津田を指差して言った。

『田爪瑠香の監視を怠るなよ。いいな』

「はい。お任せ下さい」

 奥野恵次郎は手を下ろすと、大きく嘆息してから首を傾げた。

『あの女も馬鹿だ。素直に実家の光絵家を頼ればよかったものを。養母の光絵由里子は、あのストンスロプ社の会長じゃないか。片意地を張って夫とNNC社の契約などに義理立てをしなくとも、ストンスロプ社の子会社のGIESCOで研究させてもらっていれば、今頃はもっと穏便に事が進んだんだ。軍とストンスロプ社は車の両輪のようなものじゃないか。話のしようもあったというのに、なぜこんな面倒なことをするのか、分からんよ、まったく……』

 津田幹雄は指先で眼鏡を少し上げ、言った。

「ま、他の研究機器にしても、タイムトラベルの可能性を実証した仮想空間実験に用いたバイオ・ドライブにしても、すべてNNC社が開発したものですからな。しかも、あのバイオ・ドライブはAB〇一八に接続できる唯一の記憶媒体ですし、AB〇一八の使用許可も取り付けなければならなかった田爪健三としては、NNC社には頭が上がらなかったのでしょう。不利な契約を強いられても仕方ありませんな」

『だからと言って、どうしてその契約を女房まで守らんといかんのだ。連帯債務者という訳でもないのに、どうして自分とは関係が無い契約を、しかも、死んだも同然の夫がした契約を守ろうとするかね。律儀を通り越しとるよ。理解できん』

「……」

 津田幹雄は憮然として腕組みをする奥野のホログラフィー画像に冷めた視線を向けた。

 腕を解いた奥野恵次郎は、津田を指差して言う。

『とにかく、話は分かった。ところで、四月と五月の発射は予定通りなんだな』

「はい。予定通り、午前七時に家族機を、午後四時に単身機を発射いたします」

『そうか。今月からは複数人が乗れる機体を飛ばすのだったな。――分かった。例の予算カットが通れば、警察も防災隊もタイムマシン発射の警備からは手を引くだろう。これでようやく、我々国防軍が他に気兼ねなく哨戒作戦を展開できるという訳だ。そうなれば、おまえらも今より自由にタイムマシンを飛ばせるようになるだろう。ま、とにかく、オペレーションも根本的に見直さなければならん。そうなると国防審議会にも報告する必要がある。おまえは国会の監視の方を怠るなよ。いいな』

「はい。承知しております。ですが、近頃の議員どもは、なかなかの警戒心を持っておりますので、軍の支援がありますと心強いのですが。特に情報局偵察隊の支援があれば」

『うむ。だが、情報局の偵察隊を使うまではないだろう。あれは国防軍のエリート兵士を集めた最強の実力部隊だ。調達局の津留つるにでも指示しておこう。彼の下の事前調査部も極秘任務を遂行する部隊だからな。隠密行動やターゲットの監視にも長けている』

「ありがとうございます。では、こちらも早速、当庁の監視局に連絡を入れておきます」

『うむ。辛島総理に良い報告が出来るよう、頑張ってくれ』

「はい。では、失礼します」

 津田幹雄は電話機に手を伸ばし、通話終了のボタンを押した。奥野のホログラフィーが停止して消える。

 佐藤雪子がトレイにコーヒーカップを乗せて運んできた。津田幹雄は机の上に置かれたコーヒーカップに手を伸ばしながら言った。

「田爪瑠香の狙いが分からんとは、奥野大臣もたいした男ではないな」

 コーヒーを一口啜った津田幹雄は、息を吐いてから言った。

「やはり、いつまでも乗っているべき船ではないようだな」

 津田の横に立ったまま、佐藤雪子が小声で言った。

「長官は、ご自身でもっと大きな船を操られるべきですわ」

 津田幹雄はコーヒーカップを持ったまま、佐藤に顔を向けた。

「まあ、次の政権でどの船を宛がわれるか、まだ分からんがね」

 佐藤雪子は驚いた顔をして見せて、言った。

「あら。私が思い描いていますのは、もっと大きな船でしてよ。四つの本土と多くの島からなる」

「ははは。佐藤君、大きく出たな。気が早すぎるよ。はははは」

 津田幹雄は両頬を上げてコーヒーを啜った。


                    2

 テレビニュースの天気予報に反し、空は曇っていた。その高台の住宅街からは、海岸まで広がっている地方の小都市が一望できる。遠くには、穏やかに波を送り届ける紺碧の海と灰色の空との境界線が真っ直ぐ横に伸びていた。その向こうから陸地へと駆けてくる風は強く、古く廃れた町に容赦なく吹きつける。町を拭き抜けた風は高台の崖の斜面を登ると、その上に並ぶ真新しい質素な家々の庭木を揺らした。

 ある家の庭の桜の木が細い小枝の先の膨らんだ蕾を幾つも上下に振っている。その下の低いブロック塀の横を春木陽香は歩いていた。強風に乱れる髪を手で押さえながら歩道の上を歩いていた彼女は、ズレ落ちそうになった鞄を肩に掛け直すと、立ち止まった。目を細めて崖下の町と遠くの海を見つめた彼女は、黒いリクルートスーツの襟を整える。憂えた顔で口を少し開き、大きく息を吸い込んだ。

「くしゅん」

 顔を上げて鼻水を吸った春木陽香は、少し背中を丸めると、左右の手で反対の二の腕をさすりながら独り言を発した。

「――うう、まだ寒いなあ。でも、コートを着る季節でもないし、春コート着て週刊誌の記者じゃ、いかにもって感じだもんね。うう、それにしても、この辺、風が冷たっ」

 彼女は短く身震いしてから、風の中を小走りで進んでいった。

 春木陽香は、ある男の住所地に向かっていた。

 ここは新首都近郊の小都市である。高橋諒一博士と田爪健三博士が勤務していた「実験管理局」と呼ばれた科学施設は、新首都圏南東部の海岸沿い在った。現在そこは、司時空庁のタイムマシン発射施設として使われている。この町は、そこから車で一時間ほど東に移動した所に位置していた。

 この海沿いの町一帯は、かつて漁業で栄えた地域だった。だが、近郊に新首都が建設されると、そこで働く人たちのベッドタウンと化し、今では、ほとんど使用されなくなった漁港や寂れた魚市場・商店街を海へ押し遣るようにして、個人住宅の屋根が並んでいる。

 右手に握っているウェアフォンの表面に浮かんだホログラフィーの二次元地図画像と周囲の景色を見比べながら意識的に速足で歩いていた春木陽香は、その足を止めると、息を吐いて言った。

「ふう。この辺りかあ。ええと、高橋、高橋……」

 彼女は道沿いに並んで建つ家の門の表札を一つずつ確認していった。

 そのブロックの端から端までの家の表札を確認し終えた彼女は、もう一度、右手の二次元地図を確認してみた。地図が示す彼女の現在地は目的の住所地であった。場所は間違えてはいない。春木陽香は地図画像を消してウェアフォンを上着のポケットに仕舞うと、元来た道を戻りながら、また一軒ずつ丁寧に表札を確認していった。

 最初の位置に戻った春木陽香は、首を傾げると、辺りを見回しながら言った。

「あれれ。無いなあ。昔の住所だと、ココなんだけどなあ」

 そこには、高橋諒一博士が住んでいた大きな一軒家が在るはずだった。高橋諒一は十一年前に実施された人類初の有人タイムトラベル実験、いわゆる「第一実験」でタイムマシンに乗り、「過去」へと飛んだ。その後は、残された彼の家族がその家に住んでいるはずだった。高橋諒一には妻と二人の子供がいた。高橋千保たかはしちほと長女の千景ちかげ、長男の諒太りょうたである。春木陽香は、この三人が「ドクターT」の論文の投書に何らかの関与をしていないか、三人に直接会って取材するためにやってきたのだ。ところが、取得した情報どおりの住所地に高橋の家は無い。春木陽香は過去に高橋諒一が自宅で取材に応じた際の資料も読んでいたが、それによれば、当時の高橋諒一の自宅は周囲の住宅の数倍の広さの敷地に建っているということであった。しかし、この周囲にはそのような広い敷地も豪邸も見当たらない。平均的な広さの小振りで真新しい家が建ち並んでいるだけである。

「おっかしいなあ……」

 もう一度首を傾げた春木陽香は、とりあえず、どこかの家で訊いて見ようと思った。

 春木陽香は左右の家を交互に見ながら少し歩くと、適当に選択した家の門扉の前でインターホンのボタンを探した。その家の庭先で植木鉢の枯れかけた花に水を遣っていた中年の女が、門扉の前でキョロキョロと周囲を見回している春木に気付き、警戒した表情で声を掛けてきた。

「何ですか」

 如雨露を持ったその女が門扉の方に近づいてきたので、春木陽香は肩に掛けた鞄の中を覗いて、名刺入れを探しながら言った。

「あ、すみません。私……」

 見つけた名刺入れの中から慌てて名刺を取り出すと、門扉の上からその女に差し出す。

「こういう者です」

 受け取った名刺を声に出して読みながら、女は言った。

「――週刊新日風潮社、記者、春木陽香。週刊誌の記者さんですか」

 女はいっそうに眉を寄せた。

 春木陽香は、閉じられたままの低い門扉越しに、女に言う。

「はい。あの、ちょっとお伺いしますが、この辺りで高橋さんというお宅をご存知ないでしょうか」

「高橋さん……さあ、知らないわねえ。この自治会に高橋さんって方、いらしたかしら」

「十年ほど前には、この辺に大きな家があったはずなのですが……」

「あら、そうですの。私、越してきて五年しか経ってませんから、それじゃ、ちょっと分からないわねえ」

「どなたか、古い住人の方はご存じないですか」

「そうねえ……あ、お向いさんに行かれたら。ずっと前から住んでいる地元の方だから、知ってるんじゃないかしら」

 春木陽香は振り向いた。向かいの家の北側に一段高い区画があり、そこに少し古い家が建ち並んでいる。

 春木陽香は女の方に顔を向け直して御辞儀をした。

「ありがとうございます。失礼します」

 春木陽香は道路を横断すると、T字路へと突き当たっている坂道を上っていった。

 坂の途中のコンクリート製の土留めの中ほどに、その茶色い家の敷地への入り口となる階段があった。春木陽香は階段を上がり、その家の西側にある玄関のドアチャイムを鳴らした。中からTシャツ姿の年配の男がドアを開けた。春木陽香は、ドアの隙間から顔を覗かせているその男に名刺を渡して自己紹介すると、さっきと同じように質問した。

 男は言った。

「高橋さん? ああ、もしかして、あの高橋先生のことかい。タイムマシンの」

「はい。高橋諒一博士です。ご婦人にお会いしたくて。前の住所では、その向かいの家の辺りのはずなのですが……」

 春木の話を聞いた男は、婦人用のサンダルを突っ掛けて玄関から出てきた。

「ああ、あの豪邸、取り壊されて、分筆っていうの、あれで土地を切り分けてね……」

 ドアの前から後ろにさがった春木の横で、男は一段下の南側の区画の方を順に指差しながら、春木に説明した。

「今その土地に建っているのが、あの家と、この家と、その家さ。あと、ほら、その隣のちょっと空いている土地、ビャクジツコウの木が一本だけ生えてるところ、あそこまでが高橋先生の家の敷地だった所だよ」

「ビャクジツコウ?」

 聞き慣れない言葉に思わず春木が聞き返すと、男はまた聞き慣れない言葉を口にした。

「ヒメシャラに似ている木さ。ほら、あの端の方に立ってる木、あれだよ」

「ふーん……」

 春木陽香は口を尖らせながら、通りの向こうの空き地に立つ木を見ていた。似ていると言われても、その「ヒメシャラ」自体を知らない。遠くに見えるその木は、どこかで見たことがある木なのだが、どうもその記憶が、男が口にした名称と結びつかない。

 首を傾げている春木を見て、男は呆れたような顔で言った。

百日紅さるすべりの木だよ。こう言えば分かるだろ」

 春木陽香は大きく頷いた。

「ああ、表面がツルツルしてるやつですね。コブがある。うちの実家の庭にも小さいのがあります」

「あの空き地、奥の家の人が道路に欲しがっているみたいだけど、あの木が根を張っていて、掘り返すのに大変なんだと。費用の負担で揉めているんだろうね。綺麗な花が咲くのに、もったいない」

「そうですねえ……」

 春木陽香は、そう答えた。彼女は実家の小さな裏庭に植えてある百日紅さるすべりの木を思い出していた。父が暇を見てよく枝落としをしている。枝を切ったところがコブ状に変形し、父曰く、それが風合いのある『味』を作るらしい。梅雨が明けた頃には、上に真っ直ぐに伸びた小枝に無数の赤い小さな花を咲かせ、美しかった。薄い緑色の小さな葉を散りばめた中に赤い小花が霧のように広がり、その下に中枝が適度な空間を空けていて、木の表面の光沢がいっそうに清涼感を誘う。彼女の実家のそれは背の高い木でもないので、家の中に居てもその紅色の群生が視界にしっかりと入り、印象深かった。今、視界の下の方で雑草に覆われた狭い空き地の奥に立っている百日紅は、背も高く幹も立派で、その太い幹の途中や、計算されて落とされたであろう短い横枝の先には、大きく逞しいコブが出来ていた。そこから細い小枝が天を目指すように伸びているのであるが、手入れがされていない小枝は、限界を確かめるように長く成長し、その先に付けた無数の若葉の重みで枝を下向きにしならせていた。全体的に、あまり美しくは見えない。

 少しもったいないと思いながら春木陽香がその木を眺めていると、男が下の区画を見ながら目を細めて言った。

「先生の家の庭は、あの木が何本もあってね。他にも、桜とか、椿つばきとか、山茶花さざんかとか、錦木にしきぎとか。金木犀きんもくせい紅葉もみじもあったな。庭がいつも色付いていたよ。綺麗だった」

「そうなんですか。じゃあ、相当に広かったんですね。取り壊されたのは、いつ頃なのですか」

 男は腕組みをしながら答えた。

「そうだねえ、十年位前かねえ、いや、九年前……いいや、八年前かな」

「ご家族の方が引っ越された先とか、ご存知ないですか」

 男は春木の顔を一度見ると、玄関の中に戻りながら言った。

「知らないねえ。挨拶も無く、越して行ったからねえ」

「挨拶も無く……それって……」

 振り向いた男は、手をパタパタと横に振りながら言った。

「いや、夜逃げとか、そういうのじゃないんだよ。ただ、高橋先生がタイムトラベルの実験に成功してすぐじゃなかったかな。大きなトラックが来て、あっという間に荷物を運び出していったよ。それから何日かして……」

 玄関の上がり框の上に左足を載せた男は、そのまま一瞬動きを止めた。下駄箱に手を掛けて右足も上げると、その下駄箱の上に置かれていた芳香剤の容器を手に取り、それをしきりに振って中の残量を確かめた。

 急に口を閉ざした男の態度を不審に思い、春木陽香は尋ねた。

「何かあったのですか」

 男は芳香剤の容器を下駄箱の上に戻して答える。

「あ、いや。何でもないよ」

「ええー。そう言われると、すっごい気になっちゃいます」

 春木陽香は、軽く握った両手を口元に当てて、そう言った。生まれて初めてやってみた仕草であったが、昨日、上司の山野に女性フェロモンを出して情報を得ろと言われたのを思い出し、とりあえず思いつく仕草をしてみたのだった。

「……」

 男は急に変貌した春木の顔を見たまま、黙っていた。春木陽香は、くしゃみを我慢して潤んだ瞳でパチパチと何度も瞬きしてみた。男の表情は変わらなかった。方向性の間違いに気付いていない春木陽香は、自分にはフェロモンが足りないのかと、少し項垂れた。すると、男が口を開いた。

「あんた、記者なんだろ。取材の秘密を守る義務があるんだよな」

 顔を上げた春木陽香は、笑顔で即答した。

「はい。そりゃあ、もう。『信用第一の新日風潮』ですから。お任せ下さい」

「そうかい。じゃあ、絶対に誰にも言うんじゃないよ」

「ええ。言いません」

 春木陽香は「書くんだけど」と思ったが、それは言わなかった。

 男は小声で話し始めた。

「引越し作業が済んで、三日ほど経った頃だったかな、スーツ姿の上品な人たちがやってきて、渡してくれたのさ」

「――何をです?」

 男は開いたままのドアの横で立っている春木に手招きをした。春木陽香は玄関の中に足を踏み入れた。男はドアを指差して閉めるように手で示す。春木陽香がドアを閉めると、男が小声で言った。

「お金だよ。現金で。お世話になったお礼だって」

「お金?」

 春木陽香は目を丸くした。男は口の前に人差し指を立てて「シー」と言うと、また小声で話し始めた。

「まあ、高橋先生とは喧嘩した訳でもないし、近所付き合いもあったから、貰ってもいいかなあって。何日かかけてこの近所を回っていたみたいだから、たぶん、みんな貰ってるんだよ。誰も口にしないけどね。ああ、もちろん、高そうなお菓子とか、果物とか、お酒とかもあったよ。まあ、それは、ちょっと高級な引越しの挨拶なんだろうから、気兼ねなく貰っておいたけど」

「はあ……」

 それらが引越しの挨拶の品には、どう考えても不相応であることは春木にも分かった。首を傾げながら今の話を電子メモ帳に記録した春木陽香は、男に何気なく尋ねた。

「それで、いくらだったんですか」

 男は、自宅の玄関内であるにも拘らず、周囲を見回してから、もっと前に来るよう春木に手招きした。春木が前に出ると、手を添えた口を彼女の耳に近づけて耳打ちした。その金額に驚いた春木陽香は、思わず声をあげた。

「ええ! そんなに」

「シー。声が大きいよ」

 春木陽香は、一瞬、どうして自分がその時この近所に住んでいなかったのかを悔やんだが、気を取り直して、その男の話を聞くことにした。

 男は普通の声で話を続けた。

「それで、この家のリフォームも出来たんだよ。それと、車もAI自動車に買い替えることが出来た。ホント、高橋先生には感謝だよ」

 AI自動車は運転専用に設計された簡易型の人工知能(AI)を搭載している電気モーター式の自動車である。新首都圏内を走っている自動車は乗用車も貨物トラックも、ほとんど全てがAI自動車である。外観は従来の自動車と変わらないが、AI自動車は自動走行誘導パネルが設置されている新首都の南北幹線道路と東西幹線道路、地下高速、全国の新高速道路では完全に手放しで走行することが出来るうえ、インターネット通信を使ったリアルタイムの保守管理や運転ミスの自動補正などの機能も充実しているので、人気が高い。二〇二〇年代から急速に普及し、二〇三〇年にはガソリンエンジン搭載車の普及率と逆転した。二〇三八年現在では、専用AI非搭載の旧式ガソリン車が走っているのを目にすることは滅多になく、稀にマニアが市街地を乗り回しているのを見かける程度である。価格も随分と下がり、今ではハルハルの給与でも十年ローンを組めば小型の新車が買えるくらいだが、普及途中であった二〇二〇年代は今の倍近くはしたはずだ。つまり、この男は相当に高額の金員を受け取ったということだ。引っ越して去っていく人間からの「挨拶の品」として。

「じゃあ、そのスーツ姿の人たちって……」

 男は春木の発言を封じるように、早口で口を挿んだ。

「高橋先生の代理人だって言ってたね。弁護士さんかな。名前は聞かなかったけど」

「――確認ですけど、一人じゃなかったんですよね」

「うん。何人かで見えたね。三人だったかな。男性二人と女性一人。他の家には、別の人たちが行っていたよ。しかし、さすが高橋先生、気前がいいねえ」

 春木陽香は、怪訝な顔をして言った。

「気前が良過ぎじゃないですか。四五しご軒回ったら、新築の家が一軒建っちゃう額になるじゃないですか」

「いや、それが男気って奴だよ。先生はタイムマシンで過去に行っちゃった訳だろ。しかも、人類で最初にタイムマシンでタイムトラベルした人間じゃないか。きっとほら、最初の人間は覚悟していたんだよ。だから、腹くくって、全財産を近所に配って周った。俺はそう捉えてるね。その証拠に、その数週間後には、あの豪邸は取り壊されていたからね。ああ、思い出した。そうだった、そうだった。数週間後だ。いや、潔いもんだよ。やっぱり、あの御人は男だったね。見直したよ」

 春木陽香は黙って電子メモ帳を鞄に仕舞うと、御辞儀をしてから言った。

「どうも。貴重なお話、ありがとうございました。あの、それから、もう一つ伺いたいのですが……」

「なんだい」

「ここから一番近い法務局って、どこですか」

「法務局? 登記所のことかい? ああ、下の町に下りて本通りに出て、真っ直ぐ行ったら、三つ目の信号を……」

 春木陽香は男にもう一度頭を下げると、ドアを開け、冷たい風が吹き荒ぶ玄関の外に駆け出していった。



                  3

 春木陽香は、ウェアフォンを耳の下の顎骨に当てながら、古びた低層のビルの玄関を背にして階段を下りていた。

 地方法務局の支局ビルで高橋の自宅だった土地と建物の不動産登記情報を閲覧した春木陽香は、登記係のフロアから出るとすぐに上司の山野に電話した。合皮の分厚い鞄を肩に掛けた彼女は法務局前の駐車場を速足で歩きながら、電話の向こうの山野に説明している。

「――はい。――ええ。それで、その建物の閉鎖登記情報の全部事項証明書を取得してみたんです。まず、建物の所有者名義は、以前は高橋諒一となっていました。それが、その後、諒一さんの妻、千保さんに贈与されています。登記原因日付、つまり実体上の贈与契約が成立した日付は、二〇二七年の九月十六日。高橋博士がタイムトラベルした第一実験実施日の前日となっています。登記申請の受付年月日は九月三十日。そして、同月二十七日の『取毀とりこわし』を登記原因として、同じく三十日付けで閉鎖の登記がされています。――ですね、おそらく、司法書士と土地家屋調査士の双方の資格取得者が連件で代理申請しているはずです。それで、土地の登記情報の全部事項証明書も取ってみました。そしたら、やはり建物と同じく、二〇二七年の九月十六日を登記原因日付として、高橋諒一から高橋千保に贈与されたことが登記されていました。ですが、驚いたのはその次です」

 春木陽香は立ち止まった。そして、少し興奮気味に報告を続けた。

「同月二十七日、実際に登記が実施されてから一週間後に千保さんから第三者に売却されているんです。売買契約の相手方、つまり買主は、なんと、ニューラル・ネットワーク・ジャパン株式会社。――そうです、NNJ社です」

 春木陽香はウェアフォンを持ち変えると、反対の顎骨に当てて、山野に言った。

「土地の贈与と売買の登記は、どちらの受付年月日も九月三十日。たぶん、同じ司法書士でしょう。つまり、すべての登記が九月三十日にいっぺんに連件で申請されています。それと、土地はその半年後に、NNJ社から地元の不動産業者に売却されています」

 春木陽香はコクコクと何度も頷いた後、再び歩き始めた。

「――ですね。おそらく、近隣住民に金品をばら撒いていたのはNNJ社の社員なのではないでしょうか。この不動産登記もNNJ社が手配した可能性が高いと思いませんか」

 法務局の敷地から道路に出て狭い車道の脇を歩いていた春木陽香は、再度肩に鞄を掛け直して報告を続けた。

「――要するに、高橋諒一博士が第一実験で過去に旅立った直後に、NNJ社が親族の引越しと不動産処分の手配をして、近所に口止め料とも取れるほどの高額な金員をばら撒いている。司時空庁の前長官時吉総一郎にハニートラップを仕掛けたのもNNJ社である可能性が高い。これって偶然でしょうか」

 角を曲がった春木陽香は少し広い道に出た。そこの歩道の上を歩きながら、彼女は通話を続けた。

「はい。私、これから地元の司法書士を当たってみようと思います。それと、土地を購入した不動産業者にも会いに行ってみます」

 少し歩いた後、歩道の上で春木陽香は立ち止まった。山野との通話を続けながら、彼女は再び首をコクコクと縦に振る。

「――はあ……なるほど。分かりました。やってみます。――はい。じゃあ、また後で電話します。失礼します」

 ウェアフォンを仕舞った春木陽香は、周囲の看板や標識を見回しながら先へと歩いていった。



                    4

 夕日が差し込むマンションの空き部屋に、皺が走ったワイシャツを着た老人が立っていた。隣の最新式のキッチンの中で周囲を見回していた春木陽香は、壁から離れて設置された調理台の上を撫でた。

「わあ、ステキ。流行のアイランド式キッチンかあ。いいなあ」

 老人は手に持った薄型端末を操作しながら、言った。

「でしょ。リフォームしたばかりだからね。リビングに内蔵してあるエアコンは、もちろん無音タイプのAIエアコン。湿度も気流も全自動調整の最新式だよ」

 リビングへと弾む足取りで移動した春木陽香は、窓ガラスを見ながら言った。

「へえー。窓ガラスは透過式スクリーン・ガラスなんだ」

「そうだよ。ほら、AI自動車に付いているのと同じさ。色の調節も透明から無段階調節できるし、外の明るさに応じて自動変化に設定することも可能。だから、カーテン要らずだよ。もちろん、こうすれば……」

 老人が壁の操作パネルに触れると、透明の窓ガラスが一瞬で都会の夜景の風景を映し出した。老人は笑顔で言った。

「好きな景色を表示させることもできる。画像は九個までダウンロードできるから、ネットの無料サイトから気に入った画像を落とせばいいよ。ここに海とか草原の景色を表示してごらんなさい。最高だよ」

 春木陽香は、少し遠慮気味にその不動産屋に尋ねた。

「あの……質量バリアとかは、付いてないですよね」

 老人は手を振りながら答える。

「ああ、『見えない網戸』かい。そんな高価なものまでは付けられないね。さすがに」

「ですよね。あ、こっちは和室ですか」

 フローリングのリビングの隣室は、六畳の和室だった。

 老人は言った。

「そう。畳を入れ替えたばかり。やっぱり、日本人は和室でしょ」

「ですよね。うわあ、なんか、落ち着くなあ」

 部屋の中を見回している春木に、老人が必死にアピールする。

「今では珍しい天然モノのイ草を使った畳だよ。田舎だから出来るサービスだね。ここで寝たら最高。その日の気分によって和室と洋室、好きな部屋で寝たらいいですよ」

「それもいいですね。こっちの部屋は……」

 和室の隣にも部屋があった。その部屋のドアを開けた春木陽香は絶句した。

「――えっと……」

 老人が後ろから言った。

「ああ、その部屋は『大自然の間』。天井の照明は紫外線ライトで、床は全て天然芝さ。柱だって天然木をそのまま加工せずに使ってあるんだよ。ま、これも、こんな地方の田舎町だから出来るだけどね。芝への水遣りが面倒かもしれないけど、慣れたら、どうってことないよ。排水溝もちゃんと付いているし。柱が自然のままだから、カブトムシも飼えるかもしれないよ」

「――はあ……」

 春木陽香はカブトムシに興味は無い。そもそも彼女は虫が嫌いである。興ざめだ。こんな部屋、借りる訳ない。そう春木陽香は思っていた。すると、老人が言った。

「あれ、あまり気に入らなかったかな。結構みんな、この部屋を見て、すぐに契約を結んでくれるんだけどね」

 春木陽香はパタパタと顔の前で手を振って答えた。

「あ、いえ、そんなこと無いです。素敵です。でも、お家賃は……」

 老人は手に持った薄型の端末を覗き込みながら言う。

「安くしとくよ。礼金もたったの一ヶ月分。転居シーズンが落ち着いて物件が無い時にたまたま残っていた物件だからね。お客さん、ラッキーだよ。こんな物件、他では無いよ」

 たしかに他では無いぞ。と、春木陽香は思った。しかし、彼女はそれを言わずに演技を続けた。

「でも、仕事がなあ……。いい仕事が見つかれば、安心して借りられるんですけど。――ああ、向こう一年分くらいの家賃分の蓄えは在るんです。退職金も出ましたし」

 端末をいじっていた手を止めて、老人が春木の顔を見た。

「あらら。仕事、辞めちゃったの」

「はい。恐い上司とか都会の生活にも疲れて、地方の町でのんびりしたいなあって思って。東西南北の順番でと思って、とりあえずこの町に来たんですけど、安定して働ける大きな会社ってなかなか無いですねえ」

「だろうねえ。小さな田舎町だからねえ。頑張れば新首都まで通えないこともないけど、まあ、ちょっとキツイかなあ。こっちで探すのがいいよ。どんな会社を探してるの」

「例えば、NNJ社みたいな、かっこいい会社とか。でも、地方にそんな会社って無いですねえ。やっぱり、新首都に戻ってNNJ社の求人にでも募集しよっかなあ」

 老人は手に持っていた薄型端末を団扇のように振りながら、春木に言った。

「やめときな、あんな会社。ろくな企業じゃないよ」

 春木陽香は、すぐに尋ねた。

「すごい。社長さん、NNJ社をご存知なんですか。どんな会社なんですか」

 老人は眉間に皺を寄せて、春木に答えた。

「だから、ろくな会社じゃないって言ってるだろ。新首都に本社を構えて、あのAB〇一八を管理している大きな会社だから、こっちも信用して取引したのに、えらい目に遭ったことがあるんだよ」

「どんな目に遭ったんですか」

 春木陽香はリズムよく尋ねる。老人は躊躇すること無く答えた。

「土地を買わされたんだよ。建物込みで。ほとんど叩き値みたいな額だったし、上の建物も立派だったからね、いい話だと思って飛びついたのさ。ところがあいつら、自分たちの名前を登記簿に出ないようにして、前の所有者から直接こっちに登記をしてくれって言い出しやがった。それって中間省略登記といって違法だから無理ですって、きっぱりと断ったのさ。ウチは真っ当な不動産業者だからね。なのにあいつら、それで押し通そうとしやがって、こっちが最後まで応じなかったら、今度は建物の売買契約を解除して、急に解体さ。その後で下の土地だけウチに押し付けて。で、結局、買わされたんだよ。高値で」

「ひどいですね。社長さんは法律を守っているだけなのに」

 春木陽香は本当にそう思った。

 老人は、同情した顔をしている春木を指差して言った。

「だろ。登記の時も揉めてね。司法書士さんが中間省略登記は出来ないって言い張って、半ば強引に進めたから、結局、土地については一旦NNJ社の名義に所有権移転登記してから、更にウチに所有権移転の登記となったけど、その後が大変さ」

「どうなったんですか」

「聴いてくれるかい。くく……あのね……」

 その老人は涙を拭うふりをしながら、話し始めた。



                   5

 新日風潮の編集室で、山野紀子は自分の机の前に立ち、ウェアフォンを頬骨に当てている。彼女は腕時計を何度も見ながら春木と通話していた。いつもの一時帰宅する時間は疾うに過ぎている。しかし、山野の口調は決して春木を急きたてるものではなかった。

 山野紀子は腕時計をした手で腰を軽く押さえながら春木に言った。

「ふーん。それで、その不動産屋さんも司法書士さんも干されちゃったんだ。まあ、不動産業界って地元の業者同士で手を組んでるし、不動産登記の仕事が来ないと、司法書士さんもやっていけないかもねえ」

 山野紀子は小さく溜息を漏らす。彼女の手に握られていたウェアフォンから発せられた音波が顎骨を伝って聴覚に春木陽香の声を届けた。

『でも、司法書士って、不動産の権利登記の代理だけが仕事じゃないですよね。商業登記とか、裁判書類の作成とか。簡易裁判所での訴訟代理とかもありますし』

「その他の業務分野も片っ端から邪魔されたんでしょ。そこは新首都との県境にある小さな町だから、ビジネスという面では隣の新首都圏内に依存してる。経済的にもね。こっちにある会社がそっちの地元企業に手を回すことなんて簡単よ。まして、NNJ社みたいな大きな会社なら尚更じゃない。その不動産屋さんにしても、司法書士さんにしても、あんな大企業にケンカ売ったんだから、そりゃあ仕返しも大きかったと思うわよ。その不動産屋さんも大変だったわね。この十年、随分と苦労した訳だ。ま、仕方ないけど――」

 山野紀子は春木の返事を待った。

 少し間を空けて、春木の返事が顎骨を伝って聞こえた。

「はあ……」

 はっきりとは伝わらない音だった。山野紀子は少しだけ片笑む。

 頬を下げたまま、山野紀子は口調だけを厳しくして春木に言った。

「でも、あんたに部屋を借りさせるための同情作戦かもしれないからね。その不動産屋さんの言ったことは、ちゃんと裏を取りなさいよ」

 今度ははっきりとした音が返ってきた。

『はい。私もそう思って、その司法書士の事務所を訪ねてみました。そしたら、事務所は空家になっていました。隣の司法書士事務所の補助者さんの話によると、その一件以来、地域の不動産業者や金融機関からの登記依頼は一件も来なくなったそうで、七、八年前に廃業したそうです。一般人からの仕事の依頼もほとんど無かったとか。その人も、あの不動産屋さんとその司法書士さんは完全に地元の業界から外されたって感じの言い振りでしたね。不動産屋さんが言っていた話は本当だと思います』

「はー。やっぱりそうなのね」

 山野紀子は呆れたように項垂れてから、春木に言った。

「士業の自由業制を廃止して、政府からは独立した各士業団体法人の職員として給料制にする法案が出されているのも、理解できるわね。そんなんじゃ、士業として正しい仕事が出来ないじゃないよ。まったく……」

『そうですよね。さっきの不動産屋さんも、その司法書士も、法律を守ろうとしただけですもんね。それが本来の仕事なのに、ちゃんと本分を全うできないって、なんかおかしいですよね』

 山野紀子は深く頷いてから、春木に言った。

「でもね、それが現実なのよ。腹立つわよね、ホントに……」

 春木陽香は山野の話を遮るように、話を続けた。

『あと、地元の小学校も訪ねてみました。第一実験の当時、高橋博士の長女の千景ちゃんが小三で、長男の諒太くんが小一ですから、転校手続をとっているはずなので』

「それは機転が利いたわね。それで、転校先は分かった?」

『いいえ。ただ、都内の学校に行くということになっていたそうです。ですが、その当時は、まだ転入する学校が決まっていない状況だったと……』

 山野紀子は自分の足下を指差しながら言った。

「都内って、ここ?」

『はい。新首都だそうです』

「引越し先の住所は?」

『それが、空欄なんです。連絡先も何もかも。たぶん、例の現金ばら撒き作戦で、その学校の事務職員や地元の教育委員会を買収したのかもしれません』

「NNJが? まあ、やりそうだわね。それに田舎の公務員なら受け取りそうだし」

 春木陽香は狭い国道沿いにある小さなバス停で通話していた。目の前の道路は新首都から帰宅する車や夕時の買い物を終えた車で渋滞している。その渋滞の列の後方を覗きながら話していた彼女は、山野の発言を聞いて驚き、反射的に言った。

「え? そうなんですか?」

 耳の骨から山野の声が響いてくる。

『まあ、私の経験からいって、そのくらいの規模の町の公務員は平気で貰うわね』

 春木陽香としては、今の山野の説明に納得はいかなかった。彼女はつい、さっきと同じような返事をしてしまう。

「はあ……」

 山野紀子はそれ以上に講釈は続けず、話を次に進めた。

『それで、ハルハルはどうするのよ。こっちに戻って、その転校先を探す?』

 春木陽香は少し背伸びをして車列の先を望みながら答えた。

「いいえ。念のため、民間実験時代に高橋博士が借りていたマンションに行ってみようと思います」

『民間実験時代に借りてたって、爆心地の近くの? 今から行くの?』

「はい。ここからなら二時間くらいなので、少し遅くはなりますけど……行きます。高速バスなら三十分くらいで行けるそうですが、生憎、この時間帯はすごい渋滞なので、ここから高速バス乗り場まで車で一時間半以上かかるみたいです。なので、ここから直接、路線バスで行こうと思います」

 編集室の山野紀子は、目を丸くしながら答えていた。

「ろ、路線バスって……新首都を経由して行くつもりなの? 今あんたが居る町とは反対方向じゃない。しかも結構、山の中よ。高橋博士が家族と住んでいた町は……」

 山野紀子は慌てて机を回り、腰を折って自分のパソコンを操作すると、地図ソフトを立ち上げた。すると、春木の能天気な声が聴覚に響いてきた。

『ええ。爆心地近くの小都市ですけど、鯉料理が美味しい所だそうなので、今日は現地に泊まって……あ、バスが来ました。じゃあ、私、行ってきます。そういう訳で明日はお昼までには出勤します。すみません、切りますね。お土産を買ってきますから。それじゃ』

「ちょっと、あんた、遠出できるだけのお金は持って……切れたか」

 山野紀子は下ろしたウェアフォンを暫く見つめた。

 ハイバックの椅子に荒っぽく腰を下ろした山野紀子は、髪の毛をくしゃくしゃに掻いて顔をしかめる。

「ああ、なんだか、嫌な予感がするわ……」

 夕方のビルの窓を、外から冷たい風が叩いていた。




二〇三八年四月十五日 木曜日


                  1

 ここは新首都の西部に位置する旧市街にある蕎麦屋「八重天やえてん」である。新首都は旧市街と新市街に分かれている。旧市街は、かつてこの地域の中心部であった都市で、新首都としての機能都市である新市街が建設される以前から存在している古い街である。遷都以前は政令指定都市の一であった旧市街は、それなりに栄えてはいたが、昭憲田しょうけんた池の周囲に新市街が建設されると、地元企業は次々に新市街へと移転していき、産業と労働人口の空洞化を招いた。旧市街に残ったのは街で生活する人々に直接必要な物を売る小売業、流通業、サービス業と、漁業を中心とする一次産業のみであったが、人々はその古い街で、隣の新しい町と往復しながら、従来どおりの「普通の生活」を送っていた。

 旧市街の漁港町である梨花りか区種田たねだ町には、美味い寿司屋や天ぷら店が多い。その中の、ここ「八重天」は、看板はとなっていたが、知る人ぞ知る「の名店」である。秘伝のタレが最高に美味しい天丼を目当てにわざわざ新市街から通う者も多い。新日の記者たちも車を乗り合わせてやってきた。打合せと称していたが、しっかりと昼食を兼ねていた。

 店の奥の六畳間で新日ネット新聞社の記者たちと新日風潮社の記者たちが机を囲んで座っていた。上座の小さな床を背にして上野秀則が座っている。その左の壁際には重成直人が座っていた。重成の向かいには神作真哉が座り、その隣に山野紀子、山野の向かいには永山哲也が座っていて、その隣に永峰千佳が座っている。春木陽香は、永峰の向かいの末席に座っていた。一人俯いていて元気がない。皆、「八重天」名物の天丼を頬張っていたが、山野紀子と春木陽香の前には掛け蕎麦しか置かれていなかった。黙々と食べる記者たちと違い、春木陽香の箸は進んでいない。

 天丼を平らげた上野秀則が、爪楊枝を咥えながら言った。

「いやあ、こうして大人数での昼飯も、たまにはいいもんだな」

 天丼をかき込みながら、神作真哉が上野に言う。

「だからって、なんでわざわざ旧市街なんだよ。こんな遠くまで」

 蕎麦を飲み込んだ山野紀子が、口元をハンカチで拭きながら言った。

「そう遠くもないじゃない。社員食堂は混んでるし、かと言って、うちのビルの近くの店だと、他社の同業者や関係当事者の昼食とバッティングすることがあり得るでしょ。その辺を考えたのよ。ね、うえにょデスク」

 上野秀則は爪楊枝を動かしながら答えた。

「そういうこと。でも、『上野』だ。それに、話が話だからな。政治部や科学部の奴らにも聞かれたくないし」

 下座から永峰千佳が言った。

「しかも、ここの天丼は美味しいですもんね。うえにょデスク、ご馳走様でーす」

「馬鹿、俺は奢らんぞ。自分で払え。ていうか、上野だ!」

「――ケチ」

 上野の返事に、永峰千佳は口を尖らせた。

 神作の向かいでお茶を飲んでいた重成直人が、山野と春木を見て尋ねた。

「紀子ちゃんとハルハルちゃんは蕎麦でいいのかい。ハルハルちゃん、若いのにそれじゃ足りんだろ」

「私も若いです」

 山野紀子が呟くと、隣から神作真哉が言った。

「四十六じゃねえか」

 春木陽香は青白い顔で答える。

「私はこれで大丈夫です。バス酔いしたばかりですから」

 隣の山野紀子が鼻を摘まみながら春木の方を見て、言った。

「それより、ハルハル、さっきから言おうと思ってたんだけど、あんた、何かちょっと生臭いわよ」

 春木陽香は慌てて自分のリクルートスーツに鼻を近づけた。

「ええ! そうですか。くんくん。――やっぱり、あの『お土産』のせいかな。どうしよう、これ、一張羅なのに」

 山野の向かいの席で天丼の器に蓋を乗せた永山哲也が、湯飲みに手を伸ばしながら春木に尋ねた。

「お土産? ハルハル、出張に行って、お土産まで買ってきたの」

 春木の向かいの席からも永峰千佳が呆れ顔で言う。

「まだ初任給も出ていないのに。相変わらず律儀ねえ」

 春木陽香とあまり面識が無かった上野秀則は、口の前で湯飲みを傾けながら、視線だけを春木に向けていた。

 山野紀子がニヤニヤしながら言った。

「そ。今頃、別府君がその『お土産』と格闘してるわよ」

「なに買ってきたんだ」

 お茶を飲みながら怪訝な顔で尋ねた神作の方を見て、春木陽香は即答した。

「生きた鯉です」

「ブッ」

 神作と永山と上野は、お茶を噴いた。

 永峰千佳が再度呆れた顔で春木に言った。

「あんたね、いくら鯉料理の美味しい町に行ったからって、職場のお土産に『生きた鯉』を買ってきてどうするのよ」

 春木陽香は、麺をすくいながら答えた。

「丸ごと一匹買った方が安かったので……生きたままの方が新鮮ですし……」

 テーブルの上をお絞りで拭きながら、永山哲也が言う。

「だからって……」

 山野紀子が春木を庇うように言った。

「ま、せっかくハルハルが大きなバケツに入れて運んでくれたんだから。今度、そこの那珂世なかよ港近くの寿司屋でさばいてもらって、皆で頂きましょうよ。鯉コクとかアライとかさ、美味しいじゃない。精が付くわよお、きっと」

 じっと春木の顔を見ていた神作真哉が、少し考えてから言った。

「じゃあ、それまでは一階ロビーの水槽で泳いでおいてもらうか。うえにょ、頼んだぞ」

「何で俺なんだよ。それに、上野だし」

 神作真哉は上野に後頭部を向けて、春木に尋ねた。

「それで、どうだったんだ。高橋諒一が民間実験時代に住んでいたマンションの方は」

 春木陽香は箸を止めて、横に置いていた鞄の中を覗きながら神作に答えた。

「はい。高橋諒一博士も、その家族も、昨日私が訪ねた一軒家に引っ越してからは、その町に来た形跡はありませんでした」

 神作真哉が更に尋ねる。

「マンションから引っ越したのは、いつだ」

 春木陽香は答えた。

「あの核テロ爆発の直後だそうです」

 神作真哉は眉間に縦皺を刻んだ。

 永山哲也が春木に言った。

「まあ、あの爆発の近くの町なら、引っ越すのは当然かあ。彼と田爪博士が取り組んでいたタイトラベルの基礎実験施設が核テロ攻撃の標的になった訳だしね。それに、そのテロ攻撃が南米ゲリラの仕業だと判明するまでは、二人の実験の失敗で大爆発が起きたと思われていたのも事実だ。世間からの風当たりも、いろいろと大変だったはずだよね。ご家族は奥さんの高橋千保さんと娘の千景ちゃん、息子の諒太くんの三人だったよね」

 春木陽香は頷いた。永山哲也は首を傾げながら続ける。

「でも、なんだか少し妙だね。せっかくそこから一軒家に引っ越したのに、高橋博士が第一実験で失踪した途端、残された家族はその一軒家を処分して、新首都内に転居したんだろ。まるで前もって準備していたように、手際よく身を隠したと」

 神作真哉が山野の後ろで春木から書類を受け取りながら、意見を述べた。

「といっても、その頃の高橋諒一の職場は、今の司時空庁のタイムマシン発射施設がある場所にあった実験管理局じゃないか。その家からだと、車で一時間ってところだろ。家族も新首都には頻繁に来ていただろうし、地理にも詳しいはずだ。第一実験の後、マスコミの取材から逃れるために都内に引っ越しても、別に不思議じゃないよな」

 上野秀則が腕組みをして言った。

「それに、高橋博士と田爪博士は、上級研究員として特別待遇の高給取りだったしな。もともと都内にも別の持ち家があった可能性もあるんじゃないか。そっちに身を移しただけかもしれんぞ」

 山野紀子も腕組みをして言った。

「だけど、NNJ社が絡んでいるってのは、妙じゃない。前にも話した、ウチで追っている時吉前長官のスキャンダル、あれにもNNJ社が絡んでいるかもしれないし。これ、おかしいと思わない?」

 上野秀則は眉間に皺を寄せる。

「二股不倫か。そもそも不倫自体が二股なのに、さらに不倫で二股すんなよ。あのスケベ爺、アホか」

 ハルハルが渡した登記記録の全部事項証明書に目を通しながら、神作真哉が言った。

「確かにな。NNJ社が自分たちの存在を公簿上に残さないようにしようとしたのは、妙だよな。奴らがパパ時吉のスキャンダルにも絡んでいたとなると、やはり何か臭うな」

 春木陽香は、自分の服の臭いを嗅いだ。

 永山哲也が向かいの山野に言った。

「ノンさんの方で、その高橋博士の二人の子供の転校先を探ったんですよね」

「うん。都内の小学校に片っ端から電話してみたけど、駄目だった。どこの学校にも、それらしき人物がその当時に転校してきた形跡は無いわ」

 神作真哉が隣から言った。

朝美あさみみたいに、旧姓に戻った母親と同じ姓になっているのかもしれんぞ。高橋博士は事実上失踪しているから、家裁で失踪宣告をとって離婚が成立した可能性があるだろ」

 山野紀子は姿勢を正して言う。

「それは、ちゃんと念頭に置いて調べました。お蔭様で良い経験をさせてもらいましたから。でも、ウチの朝美の時もそうだったけど、子供に関しては戸籍に記載された元の姓、つまり親の離婚前の姓も学校では把握しているのよ。前の親が子をさらって行くなんてことが起きないように」

「ゲッ。そうなのか」

 下唇を出した神作に山野紀子が言った。

「あんたのことは、担任のリカコ先生も、ちゃんと顔まで知っているわよ。朝美、今年もリカコ先生のクラスだからね。あんた、今年は家庭訪問の時くらい横に居なさいよ。あの子、今度は受験なんだから」

「そうだな……でも、俺、あの先生どうも苦手なんだよな」

 永山哲也が驚いた顔で山野に言った。

「リカコ先生って、『山東さんとうリカコ先生』ですか。あの、目のパチッとした、声の高い」

「――うん、そうね。哲ちゃん、知ってるの」

「僕、その先生に習ったんですよ。中三の時のクラスの副担でした」

 今度は山野紀子が驚いて言った。

「ええ! ホント。こりゃ、朝美に教えなきゃ」

「ゴホン」

 春木陽香は、大きく脱線した話題に終止符を打つべく咳払いをした。そして、一言だけ意見を述べる。

「引っ越したとは限らないですよね」

「ん? どういうことだ」

 神作の問いに春木陽香は答えた。

「NNJ社に誘拐されたとか」

「誘拐? 動機は」

 今度は上野が尋ねた。

 春木陽香は少し考えて、言った。

「――分かりません」

 春木陽香は口を尖らせて、首を竦める。神作も上野も小さく首を傾げてから、しかめた。

 山野紀子が腕組みをして、少し大げさに顔を曇らせた。

「でも、確かにその線も否定は出来ないわよね。あの家の近所では誰も、高橋博士の家族の本人たちが引越しの挨拶に来たところは無い訳でしょ」

「ええ」

 春木陽香が小声で答えると、山野紀子は大きな声で言った。

「じゃあ、ハルハルの言うとおり、大掛かりな誘拐って線は拭えないわよ」

 上野秀則がさらに深く首を傾げた。

「あのNNJ社がかあ? するかね。大企業だそ」

 重成直人がお絞りで老眼鏡を拭きながら言う。

「誘拐されたのなら、他の親族から失踪届けか何かが警察に出されているだろう」

 神作真哉が困った顔で呟いた。

「高橋諒一と高橋千保の他の親戚関係は分からんかな」

 山野紀子は涼しい顔で答える。

「こっちは警察じゃないからね、勝手に他人の戸籍関係までは調べられないわよね」

 神作真哉は両眉を寄せて腕組みをしながら下を向いた。

「うーん。そうなると……アレを使うしかないかあ……」

 永山哲が頷く。

「ですね」

 上野秀則が尋ねた。

「アレ? なんだよ、アレって」

 神作真哉がすぐに言った。

「いや、何でもない。それより、田爪健三の線はどうなったんだ」

 山野紀子が答えた。

「まだこれから。ただ、真ちゃんや哲ちゃんが言うとおり、田爪博士の唱えていたパラレル・ワールド否定説が正しいのだとしたら、彼が生きている可能性は低いわよね。彼が第二実験で行き先に設定した日時と場所は、第一実験の発射の日時と場所だったのよね」

 神作真哉は山野に問われたが、回答に窮して永山の顔を見た。

 永山哲也は掌を山野の方に見せて言った。

「ちょっと待って下さい」

 彼はその手をズボンのポケットに入れると、何やら親指ほどの大きさの物を取り出した。

「あれ、永山さん、何です、それ」

 隣から見ていた永峰千佳が永山に尋ねた。

 永山哲也は、その小さな機械を自慢気に操作しながら、答えた。

「イヴフォン(EV‐phone)。ケータイを買い換えたんだ。今月、ES社から発売されたばかりの新型機種さ」

 春木陽香は、斜め向いから興味深そうに視線を向けて言った。

「すごーい。最新式じゃないですか」

「うん。本来は音声登録して、声で使うやつらしいんだけど……まだ登録してないものだから、この小さなパネルとボタンで……」

 永山哲也はそう言いながらその小さな機械のボタンを押すと、それをワイシャツの胸ポケットに挿んだ。少し間を置いて、永山哲也は言った。

「よし。あ、見えた、見えた」

 永山哲也は顔の前で空中の物を払うように手を動かした。彼の左目は赤く光っている。

 向かいの席の山野紀子が思わず言った。

「うわ、何それ。気持ち悪い。左目が赤く光ってる」

 永山哲也は自分の左目を指差しながら言った。

「ええ。色は好みで変えられるんです。量子波動伝送だったかな、その技術を用いて、ここから直接、脳に対して脳波に似た信号を送るんですよ。去年、『ソウル9』っていう脳内干渉波が発見されたでしょ、あれをどうにかするみたいです。で、映像は、僕の記憶から探って明確に復元した通話相手のイメージを僕の視界に映し出すんです」

「じゃあ、話している『今の相手』の様子じゃない訳だ」

 山野紀子の理解は早かった。

 永山哲也は頷きながら言った。

「そうなります。でも、音声に合わせてスムーズにイメージが動きますし、その人の像以外は普通に目の前の視界が見えるんですよ。だから、目の前にいる感じです」

 春木陽香が永山に尋ねた。

「ウェアフォンの立体動画通信みたいな感じですか」

「そうだね。でも、ホログラフィーだと、周りの人からも見えちゃうだろ。それに、ハンズフリー通話だから、別売りのイヤホンマイクを接続しないと、会話も回りに聞こえちゃう。この前、資料室でのノンさんの指導みたいに。耳の下に当てて通話しながら、下からホログラフィーを前に映し出すタイプ、僕がこの前に使ってたのがそれだったんだけど、あれは角度を変えないようにウェアフォンを持っておかないといけないから、肩が凝るんだよね。まあ、大抵の人は手からの骨伝導で使っているんだろうけど、それだと、どうも聞き取り難いでしょ。その点、このイヴフォンは、こうやって胸のポケットとかに入れておくだけで、音声は聴覚野に直接届くから、すごくクリア。相手のイメージは僕にだけしか見えないし、音声も僕にしか聞こえない。音波じゃないから、絶対に他人には聞こえない訳さ。しかも、首を動かしても、一定の位置にイメージが見えている。だから、すごく楽だよ」

 春木陽香は更に尋ねた。

「じゃあ、誰と話しているか回りに知られることは無い状態で、立体動画通信みたいなことができるんですね」

「そ。まあ、僕の声はマイクで拾わないといけないから、こっちは声を出さないといけないけどね」

 また春木陽香が尋ねた。

「脳波とかで、声っていうか、考えている言葉を伝えて通信できないんですか」

「技術的には可能なのかもしれないけど、自分が考えていることが全部相手に伝わる通信機なら、ハルハルは買うか?」

 春木陽香はチラリと横の山野を見てから答えた。

「ぜったい買いません」

 プルプルと首を横に振っている春木を見ながら、神作真哉が言った。

「紀子と通話できないもんな」

 コクコクと首を縦に振っている春木を見ながら、山野紀子が低い声で言う。

「ん。どういうことよ」

 春木陽香は首を窄めて蕎麦を吸った。

 永山哲也は、その最新式の携帯電話機の説明を続けた。

「それに、ホログラフィー通話は電池を食うでしょ。これは僕の脳の中の記憶情報をいじるだけだから、ほとんど電力は使わない……らしいけどね」

 横から永峰千佳が永山の胸元を覗き込みながら尋ねた。

「それもO2オーツー電池内蔵タイプなんですか。取替えは?」

「メーカーに頼めば、一応は出来るみたいだよ。でも、O2電池だから、ほとんど電池切れになることは考えられないって、販売店のお姉ちゃんは言ってた。なんてったって、O2電池は百二十年持つそうだからね」

 すると横の重成直人がボソリと言った。

「どうかねえ、O2電池を使ったレーザーカメラとか、すぐに電池切れするって、前にライトちゃんが言ってたぞ」

 山野紀子が人差し指を振りながら重成に同調する。

「そうそう。結局、ちょっと長持ちする電池が発売になったら、すぐに、大量に電力を消費する商品が出てくるんですよね。自分でO2電池を交換できるタイプって、大抵はそうなのよ。O2電池って高いし、なんか騙されてる気がして、頭に来るわよねえ」

 永峰千佳は永山のワイシャツの胸ポケットを指しながら言った。

「でも、そのイヴフォンって、相手が3Dカメラの前に居なくても、立体通話通信みたいなことが出来るんですよね。それ、いいですね」

「だろ。なんか、立体動画通信に慣れちゃうと、音声通信だけじゃ会話しづらくないか? 実際に相手の像を見てないと、こう、言葉が出てこないって言うかさ。その点、このイヴフォンは立体動画通信みたいな感じで通話できるし、しかも、こうして両手が空くから、すごく便利なんだよ」

 永山哲也は両手を振って見せる。

 神作真哉と上野秀則は顔を見合わせて、首を傾げた。

 春木陽香がもう一度尋ねた。

「他の機能はどうなんですか。ネット通信とか」

「だいたい一緒だね。複雑なものじゃなければ、ネットの画像も脳内で見れるし、アプリのダウンロードもできる。外部端末との非接触式通信とか、キーロックとかの機能も付いているよ。十分だろ」

 神作真哉は心配そうな顔で永山に言った。

「でもよ、それ、脳に悪くねえか。大丈夫なのか」

「説明書に、使い過ぎに注意とか、通話しながら運転するなとか、歩行中に使用するなとか、色々書いてありますけど、脳に影響が出るとまでは書いてないです。まあ、気になるようなら、自分で設定すれば、使用時間を制限したりできるみたいですし、大丈夫じゃないですか」

 永山の説明を聞いた神作真哉は、腕組みしながら疲れたように言った。

「なんか、あれだな。永山たちより下の若い世代には受け入れられても、俺たちにはなんか……な」

 彼は同意を求めて隣の山野の顔を見た。山野紀子は手を上げて言う。

「はーい。私はいいと思いまーす。買い替えちゃうかも」

 ぶりっ子ポーズをとって、左右の神作と春木から冷ややかな視線を浴びている山野の前で、永山哲也は説明を続けた。

「その他にも、この本体に記憶させた文書画像とか、写真とか、電話帳なんかを頭の中に映し出すことが出来ます。今、僕の視界には、この天丼のどんぶりの前に資料室でトレースした資料文書が見えてるんですよ。あ、シゲさんも使ってみます?」

 重成直人は手を振った。

「いいよ。記憶を探られると、要らん物が色々見えちまうそうだから。千佳ちゃんに使わせてやりなよ」

 永山哲也は反対を向いて永峰にイヴフォンを差し出した。それを受取り、自分のTシャツの胸の位置に留めた永峰千佳は、宙を見ながら言った。

「わあ、見えた。――ふーん。やっぱ、周りが普通に見えているからかな、私が使ってるヘッド・マウント・ディスプレイとは全然違うなあ……。でも、なんだろ、この感じ。ホログラフィーとも、なんか、ちょっと違う。鮮明な映像ってわけでもないのに、なんだか、すごくリアルな気がするわね。不思議。――ほら、ハルハルも」

「あ、いいんですか」

 春木陽香は永山を見た。永山哲也は笑顔で頷いた。

「じゃ、ちょっとだけ……」

 永峰からイヴフォンを受け取ると、春木陽香もそれをスーツの襟に付けてみた。左目を赤く光らせながら、彼女は言った。

「あ、ほんとだ。見える見える。ホントだ、変な感じですね。ホログラフィーとは違って、遠近感がこう……わ!」

 両手を空中に伸ばした春木陽香は、机の上の蕎麦の器に肘をぶつけた。傾いた器から汁が少し溢れて春木のスカートの上に掛かる。

 山野紀子が慌ててハンカチで春木の膝の上を拭いた。

「ほら、何やってるのよ。一張羅なんでしょ」

 春木陽香は涙目になって、お絞りでスカートを拭いた。

「はあ、どうしよう。スーツ、これしか持ってないんです。――明日から普通の服でいいですか」

 山野紀子は呆れた顔で言った。

「いいわよ。ただし、ギャル風は駄目よ。露出系も禁止。ライトの餌食になるから」

「わかりました」

 上野秀則が鼻の穴を膨らませた。

「俺たちは歓迎だけどな、なあ、神作……イテッ」

 大きな打撃音がした。

 頭を押さえた上野に、神作真哉が右手を振りながら言った。

「おまえ、管理職失格だな」

 春木から返されたイヴフォンを胸ポケットに挿した永山哲也は、再び左目を赤く光らせたまま言った。

「それより、さっきの話ですが、確かに田爪博士が第二実験で飛び立った先は、第一実験の日の、その場所ですね。二〇二七年九月十七日。ただし、時間は第一実験で高橋博士が飛び立った十秒後です」

「衝突を避けた訳ね」

 山野の指摘に、神作真哉が疑問を投げた。

「衝突したらどうなるんだ。そこに何かが在る場所に、タイムマシンが出現したら」

 上野秀則が意見を述べた。

「さあな。たぶん、ぐちゃぐちゃじゃねえか。搭乗者の位置が椅子とかハンドルとかだったら、こう、内側から体がやられて、バシュッと……」

「うぷっ」

 まだ蕎麦を食べていた春木陽香は、頬を膨らませて口元を両手で塞いだ。

「うーえーにょー。食事中でしょ」

 山野紀子が軽蔑的な視線を上野に送る。

 重成直人が話を戻した。

「だが、実際にその場に現われなかったってことで、国は高橋説が正しいと決め込んだ訳だろ。もしそれが間違っていて、田爪説が正しいのだとすれば、やっぱり時間軸は一本だということだ。そうなると、田爪健三はどこに行ったんだ。実験に失敗して、消滅して死んだってことか……。第一実験の日に現れなかった訳だからな」

 永山哲也はイヴフォンを切ると、目頭を押さえながら言った。

「高橋説が正しいのなら、二人とも、この時間軸上には居ない訳ですから、彼らのどちらかが『ドクターT』である可能性は互いにゼロですもんね。まずは、我々としては、田爪説が正しいという前提で考えた方がいいかもしれませんね」

 神作真哉が頷いてから言った。

「だな。だとすると、田爪は死んでいる可能性が大。残るは高橋。それでも高橋を見つけられなかった場合は、国の言うとおり高橋説が正しい可能性が大きいから、改めて『ドクターT』の正体を一から洗い直す、それしかないな」

 誰も、例の論文に書かれていた短い一文について触れようとはしなかった。春木陽香はそれについての意見を述べようとしたが、横から山野紀子が深刻な顔で発言したので、発言を躊躇して口を閉じていた。一瞬だけ永山と目が合う。

 山野紀子は言った。

「そんなことより、今度の二十三日よ。欠陥があるかもしれないタイムマシンで人が送られるのよ。何とかしないと」

 神作真哉は深く頷いた。

「そうだな。とりあえず搭乗者数をもう一度調べてみたんだが、四月二十三日金曜日に搭乗するのは最大で合計五名だな。氏名や性別、年齢などは当然わからなかったが、まず朝の七時に初の家族機の発射が実施されるのは確かなようだ。それに定員いっぱいの四名が乗って旅立つと考えた方がいいだろう。その後、夕方の四時に従来どおり単身機で一名。そういう予定みたいだ」

 山野紀子は顔を横に傾けて、少し苛立ったような口調で言った。

「司時空庁はあの論文を受け取っているのよね。それなのに、どうして家族まで乗せて飛ばそうとするのよ。危険かもしれないのに。まさか、受け取っただけで読んでないんじゃないでしょうね」

 神作真哉は後ろの畳に両手をつくと、体を少し後ろに倒した姿勢で言った。

「たぶん『ドクターT』もそう考えて、論文を送り続けたのかもな。俺が得た情報では三十二回も送っている。シゲさんが掴んだネタのとおりだったよ」

「さん……三十二回? ってことは、ほぼ毎月送っていたのかよ」

 そう言った上野の方に目線だけを向けて、神作真哉は落ち着いた口調で説明した。

「ああ。『ドクターT』のあの論文は、二〇三五年の七月から今年の二月まで、毎月、タイムマシンの発射日である二十三日より前に、上申書の添付データという形で司時空庁に送られているんだ。上申の内容は、もちろん、タイムトラベル事業の即時中止の要求。こんなに長い間送られてきていて、しかも、正式な行政文書に残す形で届いていて、司時空庁の奴らが読んでいないなんてことは、まずあり得んな」

「そう考えてとは、どういうことです?」

 永山哲也からの質問に、神作真哉は一度だけ片眉を上げてから答えた。

「司時空庁が、田爪博士が設計した単身乗り用のタイムマシンをカスタマイズして複数搭乗機にするという構想を打ち立てたのが、丁度今から三年前だ。津田が二期目の長官に就任した頃だよ。『ドクターT』は、その頃から上申書と論文を送り始めている」

 上野秀則はもう一度神作に尋ねた。

「どうやって分かった」

 神作真哉は姿勢を変えずに答えた。

「文書公開請求さ。司時空庁の郵送申請に関する受付記録の一覧を、過去十年分、取得してみた。差出人欄が黒く塗りつぶされてもいない、名前も書いていない、提出者欄が完全に空欄の受付記録が三年前の七月から毎月、存在していたんだ。あいつらも、過去にウチの会社から別件の質問書を郵送で受け付けていた事実があったから、その記録との整合性を保つために、受付記録そのものを改ざんして真実を隠す訳にはいかなかったんだろう。で、その差出人不明の提出文書全ての閲覧を再請求してみた。そしたら……」

 隣でお茶を飲みながら、山野紀子が言った。

「そっちは真っ黒けだった、そういうことでしょ」

 神作真哉は黙って大きく頷いた。

 上野秀則が膝を叩いて言った。

「ったく、マスキングか。あいつら、いつも国民に情報を隠しやがる」

 重成直人が口を開いた。

「つまり、その提出文書が『ドクターT』から送りつけられた上申書で、外部に知られると不味い内容だから、公開文書は全文が黒く塗り潰されていた、ということだな」

 神作真哉は再び頷いた。

 重成直人が神作に指を振って言った。

「こっちも有るぞ。総理府の担当秘書官から聞いた話なんだが、先月と今月は、やはり官邸にも同じものが届いていたそうだ」

「さっすが、もと敏腕政治記者。顔が利くう」

 重成を指差した山野の隣で、神作がその指を掴んで下に降ろしながら、言った。

「そうすると、合計三十四回か……」

 蕎麦を食べ終えた春木陽香が、咀嚼しながら必死に発言した。

「三年弱の間、『ドクターT』さんは、政府に対してタイムトラベル事業の危険性を訴え続けたってことですよね。モグモグモグ……」

 山野紀子は深刻な顔で頷いて、言った。

「そうなるわね。『ドクターT』がどうして、あの論文と同じものを三十四回も送り続けたのかは分からないけど、ただ、あれだけの量の論文を書くには、相当に長い年月をかけて研究を続けたはずよね。すごい執念だわ」

 神作真哉も深刻な顔で言った。

「それだけ、あのタイムトラベル事業の安全性に強い疑念を持っているということなのかもしれん。――千佳ちゃん、南米の神様について学会のウェブサイトに書き込んだ人物は絞れそうか」

 永峰千佳が答えた。

「ええ。人物の特定は無理ですけど、衛星多次元ネットを経由していましたから、使用した人工衛星のナンバーは分かりました。書き込みがされた時刻にその衛星がカバーしていた地域は、南米大陸の北東部あたりです。なので、その辺りからの発信だと思います」

「そうか……」

 とだけ答えた神作真哉は、再び腕組みをした。

 永山哲也が呟いた。

「やっぱり、戦闘区域から少し離れた場所かあ」

 すると、神作から質問が飛んだ。

「永山、南米の謎の科学者について何か分かったか」

 永山哲也はズボンの後ろのポケットから手帳を取り出して、それを開きながら答えた。

「とりあえず、ここ十一年間で南米入りした科学者について調べてみました。しかし、どの科学者も、環境や動物の専門家ばかりですね。戦争被害の実態調査で南米に入っています。しかも、半数以上が死んでいます。流れ弾にあたったり、地雷にやられたり。消息不明の者や遺体が見つかっていない科学者は居ません。それから、世界中で行方不明になっている科学者も調べてみましたが、インターポールやFBIが公開している所在不明の科学者でタイムトラベルや量子力学の専門家は居ません。ほとんど、電気工学かロボット工学、あるいは兵器関係の専門化ばかりです。特に、核兵器」

 神作真哉が永山に言った。

「核兵器関係の専門家なら、量子力学にも精通しているだろ」

 隣の席で目をパチクリとさせて、山野紀子が言う。

「そうなの? なんで真ちゃんがそんなことを知ってるのよ」

「うるせえ。勉強したんだよ」

 重成直人が山野に言った。

「神作ちゃん、会社に泊まりこんで徹夜で本を読み漁っていたからな」

「そうなんだ……」

 自分を凝視する山野から顔を逸らすと、神作真哉は座り直しながら言った。

「シゲさん、余計なことは言わんでいいです。それより、真明教の資料は集まりましたか」

 重成直人は頷きながら、顔の前で手を振った。

「ああ。ありゃ、とんでもないバケモノ宗教団体だな。今でも世界中に急速なスピードで広がっているようだ。だが、どの国でも評判はよくないな」

「と言うと」

「金だよ。例の通り『お布施』って奴さ。かなり高額の寄付金を富裕層の入信者たちから強引に取り立てているらしい。ヨーロッパでの裁判の記事を探してみたら、まあ、出るわ出るわ」

 神作と重成の会話を聞いていた上野秀則が顎を触りながら言った。

「そんな宗教団体が、戦争真っ只中の南米で布教か。でも、富裕層はとっくの昔に国外に脱出していて、今は軍人と戦争難民くらいしか残っていないはずだよな。妙だな」

 重成直人が上野の方を向く。

「それがですな、金持ち連中から集めた金を、どうも本当に戦争難民の救済に当てているようなんですよ。南米の各所に避難所というか、難民の保護施設のようなものを作っている。保護施設といっても、小さな町みたいなものですからな。どの施設も数万人を保護しているって話です。そこに、食料や医薬品などの必要物資を送り込んでいるようなんですよ。そんな宗教団体が今回の件と関係があるとは、どうも思えんのですが……」

 そう言って胡麻塩頭を掻いている重成に神作真哉が言った。

「いや、その宗教団体の教義が問題なんです。もう少し資料を集めてもらえませんか」

「分かった」

 快く返事をしてくれた先輩記者に一礼した神作真哉は、今度は上野に尋ねた。

「うえにょ。時吉ジュニアからの返事は」

 上野秀則は眉間に皺を寄せて答えた。

「いや、思い当たる筋は無いそうだ。どうも彼は、あの論文を読んで、自分で何とか発射を止めようと考えていたみたいだな。司時空庁に対して、タイムトラベルの実施を禁止する仮処分を裁判所に発してもらおうと、本気で検討していたようだ」

 神作は首を振りながら上野に言った。

「それはやめるように伝えるんだ。そんなことをしたら、『ドクターT』は即座に消されてしまう」

「はあ? なんで」

 口を尖らせてそう尋ねた上野に、神作真哉は説明した。

「いいか、うえにょ。この『ドクターT』が三年近くもの間、抗議文に近い論文を司時空庁に送り続けることができたのは、司時空庁の方が手を出さなかったからだ。STSとかいう実力部隊まで持っているあの司時空庁が本気になれば、『ドクターT』も時吉ジュニアも、俺たちも、いつでも消せるはずだろ。その司時空庁が動かずにいるのは、きっと何か特別な理由があるからだ。それなのに、こんな時に裁判を提起したら、ケツを焚かれた司時空庁は動き出すぞ。必ず『ドクターT』を消しにかかる。それに、NNJ社の動きも気になるところだ。バックにはNNC社がいる。あの国の企業だ。何らかの権利を主張してこの件に正面から介入してくることは十分に考え得るだろ。今はこっちの準備が何もできていない状態だ。裁判に持ち込まれれば、訴訟法を盾にされて、こっちは全く取材ができなくなるかもしれん。そうなれば、お手上げだ。だから、とにかく今は待つように言うんだ」

「分かった、伝えとこう……って、だから、なんでおまえが俺に指示してるんだ」

 顔をしかめている上野に、山野紀子が口元に湯飲みを近づけたままボソリと言った。

「あ、『うえにょ』でいいんだ」

「いい訳ないだろ!」

 即答した上野を無視して、永山哲也が神作に尋ねた。

「キャップ、岩崎さんからの返事は、まだですか」

 神作真哉は首を横に振る。

「ああ、まだだ。だが、アイツにはしっかり読み込んでもらわんとな。俺たちみたいに、斜め読みってことでは困る。少し待とう。彼女が読み終えてから、いろいろ内容を教えてもらえばいい。永山、それ、おまえの担当な」

 永山哲也は自分の顔を指差して、目を丸くした。

「僕ですか? ――嫌ですよ、面識も無いですし。キャップか、うえにょデスクの方でお願いします」

 上野秀則がワイシャツの襟を整えながら言った。

「その岩崎とかいう技官さんは、相当な美人だと言っていたな。じゃあ、独身となった神作より既婚者の俺の方が安全……」

 また上野に後頭部を向けて、神作真哉は春木に言った。

「じゃあ、ハルハル、頼むな。おまえが行って、話を聞いてきてくれ。俺は同級生だからな。何か、あいつに教えてもらうと、何か、腹が立つんだよ。分かるだろ」

「はあ……」

 少し困惑気味に春木陽香は返事をした。

 神作真哉は立ち上がりながら言った。

「とにかく、何か決定的な証拠を見つけて、司時空庁か官邸に突きつけないと、揉み消されちまうぞ。紀子とハルハルは、まずは高橋諒一の家族の行方を追ってくれ。あとは、それぞれの担当を継続して遂行。以上、解散。上野デスク、ご馳走様でした」

「ご馳走様でしたあ。上野デスク」

 全員が合掌して上野に御辞儀した。

 上野秀則は顔の前で手を振って答えた。

「いやあ、気にするな……って、コラ! 奢らんぞ。なに立ち上がってんだ、おまえら。ちゃんと払って帰れよ。俺は奢らんからな。ていうか、こんな時だけ『上野』か。コラ、待て。上司を置いて帰るな!」

 記者たちは蕎麦屋の個室を後にした。




二〇三八年四月二十日 火曜日

                   1

 新日風潮の編集室で山野紀子が椅子の高い背もたれに身を倒して腕組みをしている。山野の机の前には神作真哉が立っていた。彼は傷だらけの古いウェアフォンを耳の下に当てて通話している。

「そうか。分かった。じゃあ、とにかく読み終わったら連絡をくれ。手間を掛けるが、よろしく頼む。そいじゃ」

 通話を終えた神作に山野紀子が険しい顔で尋ねた。

「どうだった?」

 神作真哉は首を横に振る。

「いや、やはり、内容の精査には時間が掛かるそうだ。あいつも科警研の職員だからな。今抱えている仕事を放り出して、あの論文ばかりを読んでいる訳にはいかんらしい」

「乗員の命が懸かっているのよ。警察庁の科警研の技官さんでしょ。ちゃんと取り組んでくれてもいいんじゃないの」

「ああ、俺もそう言ったじゃないか。だが、科警研は科学捜査手法の研究をする機関だ。捜査手法と関係も無い科学論文に時間を当てる訳にもいかんそうだ。それに、事件として立件されていないものを興味本位で調べる訳にもいかんらしい。まあ、あいつもなんとか上に掛け合ってみるとは言っていたが、警察庁長官も官僚だ。津田と官僚同士の繋がりがあるかもしれん。そうなると、具体的に話をする訳にはいかんから、あいつ自身も困っていたよ」

「どれくらいかかるって」

「二、三ヶ月は時間が欲しいと言っていた」

 山野紀子は目を丸くした。

「に、二、三ヶ月って、月に五人も送られるのよ。明々後日しあさっての発射で送られる人たちも入れたら、最大二十人じゃない。その人、何考えてるのよ」

 神作真哉はしかめた顔で頭を掻きながら言う。

「あいつも最大限の努力はすると言っていた。ただでさえ仕事に追われて、ほとんど家に帰っていないそうだ。そんな中でも、合間で読んでくれると言ってるんだ。こっちは待つしかないだろ」

「そんな……」

「とにかく、あいつが簡単に目を通した限りでは、やはり、専門の研究機関で作った論文では無いという印象だそうだ。通常なら大型の実験装置で行う素粒子実験などを省いて、現物の結果による実験のみを積み重ねているらしい。ただ、相当に長い年月をかけて研究しているという話だ。それから、かなり荒削りの部分もあるらしい。実験も無計画なものが見受けられると。科学者のあいつが言うんだから、間違いは無いはずだ」

「実験を進めながら、専門知識を学んでいったということ?」

 神作真哉は首を縦に振った。

「ああ。岩崎もそう言っていた。理論をタイムマシンの構造にフィードバックさせる段階で、かなり素人らしさが散見しているそうだ」

「そうすると、『ドクターT』は高橋博士や田爪博士ではないということかしら」

「いや、仮に高橋諒一が南米に潜伏しているとしても、あそこはジャングル内での大規模な戦争の最中だ。その戦闘は、もう十年も続いている。物資も無いだろうし、研究施設も無いはずだ。それに、ネット通信も遮断されていたりするだろうから、情報も入って来難いだろう。専門書も手に入らないかもしれん。そんな中で論文を書くとすれば、それが荒削りなものになることも十分に考えられる」

「……」

 黙って考えていた山野に神作真哉が尋ねた。

「高橋の家族の行方は」

 山野紀子は首を横に振った。

「ハルハルが、都内の児童施設や学習塾、不動産屋、生協、病院と、いろいろと回ってくれたわ。でも、どこにも手掛かりは無し。私の方も、テレビ局の同級生に当たったり、警察の知人に訊いてみたりしたけど、駄目ね。何の情報も出てこない」

 神作真哉は自分の頭を指差しながら訊いた。

「こっちは当たったのか」

 山野紀子は頷いた。

「ええ。ハルハルが新市街にある主な美容院と理髪店を回ってくれた。これから、旧市街の方も回るって。でも、あの子、少し休ませないと。土日も全部使って、夜中まで調べて回っているみたいだから……」

「そうか……」

 神作真哉は振り返り、春木の机に目を遣った。机の上は散らかっていて、端には食べかけの菓子パンが袋ごと置いてある。

 神作真哉は眉を寄せて山野に尋ねた。

「で、そのハルハルは、今どこに行ってるんだ。旧市街か」

 山野紀子は椅子から立ち上がりながら答えた。

「何か思いついたみたいで、さっき飛び出して行った。何処に行ったのやら……」

 丁度その時、春木の声が飛び込んできた。

「ただいま……只今、戻りましたあ。はあ、はあ、はあ……」

 水色のフレアスカートに白いワイシャツを着て、上から薄いベージュ色の丈の短いジャケットを着た春木陽香が、息を切らしてフラフラと編集室に入ってきた。顔が紅潮している。その異常に気付いて駆け寄った山野紀子は、その場に倒れ込みそうになった春木を受け止めた。

「大丈夫? どうしたのよ」

 山野に寄りかかった春木陽香は、襟元から湯気を立てながら息を切らしている。

 山野紀子は振り向くと、壁際の席で仕事をしている記者に言った。

「別府君、何か冷たい飲み物を買ってきてあげて」

 別府博はしかめた顔を向けた。

「はあ? なんで僕が……」

「はい、言われたら、行く!」

 山野の強い声に、別府博は反射的に立ち上がった。

 神作真哉がズボンのポケットから取り出したコインを親指で弾いて投げる。

 両手でコインをキャッチした別府博は、神作に軽く頭を下げると、渋々と廊下の方に向かった。

 春木陽香は朦朧とした様子で、山野に支えられて自分の席の椅子に座った。彼女は横に立っている神作に気付くと、力なく右手を上げて言う。

「ああ、神作キャップ……おはよう、ございます。はあ、はあ……」

 神作真哉が心配そうな顔で尋ねた。

「大丈夫か、おまえ。ちょっと、やつれたんじゃないか」

 春木陽香は必死に呼吸を整えようと頑張っていたが、上手くいかなかった。

「はあ、はあ……大丈夫……です」

 山野紀子も春木の横に立ったまま言った。

「体調管理や健康維持も仕事のうちよ。体に気をつけないと」

「ありがとう、ございます。――それより、編集長、大変な、ことが、分かりました。はあ、はあ、……」

「まあ、ちょっと待ちなさいよ。息を整えてからでいいから。深呼吸しなさい、深呼吸」

 神作真哉は机の上の菓子パンの袋を持ち上げて、春木に言った。

「こんなことをしてたら、倒れちまうぞ。ちゃんと食って、休めよ。過労で倒れても、簡単に労災申請してくれる程、気のいい会社じゃねえぞ、ここは」

「はい、よく分かっています……」

 春木陽香はハンカチで汗を拭きながら、はっきりと答えた。

 神作真哉は片方の眉を上げて山野を見た。山野紀子は口を引き垂れて一度だけ頷いた。

 別府博が外の廊下の自動販売機から缶ジュースを買ってきた。彼は素っ気なく春木にそれを渡した。その缶はよく冷えていた。

 春木陽香は別府に言った。

「ああ、先輩、すみません。ありがとうございます」

「神作さんの奢りだよ」

 別府博は機嫌悪そうに自分の席についた。

 春木陽香は神作に頭を下げる。

 春木がジュースの蓋を開けると、山野紀子が彼女に尋ねた。

「それで、何が分かったの?」

 春木陽香は山野の問いかけが聞こえないほど乾いていたらしく、缶ジュースをゴクゴクと飲み、そのまま一気に飲み干した。神作真哉と山野紀子は顔を見合わせている。

 机の上に空の缶を勢いよく置いた春木陽香は、溜め込んだ空気を一気に吐いた。

「ぷはー。生き返りました。死ぬかと思いました。階段で上がって来たので……」

 神作真哉は目を丸くした。

「こ、ここまでか。エレベーターを待てなかったのかよ」

 座っている春木を挟んで立っていた山野紀子と神作真哉は、再び顔を見合わせた。

 春木陽香はコクリと頷く。

「はい。緊急だったので。――あ、それより、編集長。大変なことが分かったんです」

「だから何よ」

 呆れ顔の山野に春木陽香は説明を始めた。

「私、思ったんですけど、高橋博士って、世界的にも有名な学者さんでしたから、海外で開かれた学会とかにも頻繁に行っていたはずですよね。で、その時はパーティーとかもあるから、夫人同伴で行く。そう思って、保険会社に問い合わせてみたんです」

「保険会社?」

 椅子に座ったままの春木陽香は、聞き返した神作の方を見上げて答えた。

「はい。海外旅行者向けのパッケージ商品になっている保険ってありますよね。あれ、パスポートと連動していて、引き落としはクレジットカードかマネーカード。つまり、偽名では加入できないし、日本国籍とも連動している。どの保険会社でも情報を共有していますし、現地への渡航暦に応じて段階的に保険料を安くする商品もありますから、高橋博士とその家族の海外渡航暦と現住所が分かるんじゃないかと」

「分かったの」

 春木陽香は山野の方を見上げて答えた。

「いいえ。高橋諒一さん、千保さん、千景さん、諒太さん、四人とも解約していました」

「駄目じゃん」

 眉間に皺を寄せてそう言った山野に、春木陽香は言った。

「でも、その解約したタイミングが。諒一さん以外の三名は、二〇二七年の九月にアメリカに渡っていて、その直後に向こうの支店で解約しているんです。もちろん、諒一さんの分も一緒に解約手続きをしています」

 山野紀子は両眉を上げて尋ねた。

「アメリカに? 九月ってことは、例の一軒家を引っ越してすぐ?」

「はい。しかも、その後にどの保険会社にも加入している形跡がないそうです。世界中の大抵の海外旅行保険は保険会社同士で連携していて、どこかに加入すれば、どの会社にも情報が上がってくるそうなので。それに、あの家族がマネーカードやクレジット会社と提携していない小さな保険会社に加入しているとは思えません。まして、モグリの保険会社や無保険で海外を移動しているとも考えられません。私の個人的な予想ですが……」

 神作真哉が顎に手を当てながら言った。

「いや、それは、そうだろうな。スーパー・ジャンボ・ジェット機で昔の半分の時間で倍以上の乗員を運べる時代だ。利用者も増えたし、便も増えた。その分、飛行機テロや事故も多い。つまり、航空会社にとってはリスクの高い時代だ。保険に加入してないと、まず飛行機には乗せてもらえないし、渡航先での宿泊も出来ないからな。船も同じだ。ということは、あの家族が海外を移動するとなれば、保険に入っていないと動けないはずだ」

「それで、アメリカに行ってからの三人の足取りは?」

 そう尋ねられて、春木陽香は再び山野の方を向いた。

「それが、記録が残ってないんです。どうも、パスポートが、向こうに行ってすぐに切り替えられている可能性があるそうなんです。例のアメリカの移民受け入れの緩和政策で、グリーン・カードの取得は簡単に出来るようになっていますから、向こうで新パスポートに作り直す人も多いと、保険会社の人は言っていました。ただ……」

 春木陽香は神作の方に顔を向け直した。

「保険会社の人が言うには、三人は新しく海外旅行保険には加入していない。つまり、新しいパスポートを全く使用していないか、あるいは、パスポートそのものを作っていない可能性があるそうです」

 神作真哉は怪訝な顔をした。

「日本に帰国した可能性は無いってことか」

 春木陽香は頷いてから言った。

「出入国管理局とかで千保さんと千景さん、諒太さんの出入国履歴を見ることが出来ればはっきりしますけど、無理ですよね。ただ、同じ時期に日本国内でのクレジットカードもマネーカードも全て解約されているみたいなんです。ロサンゼルス支店での保険契約の解約後、最後の保険料の引き落としが一回分、出来なかったそうなので」

 神作真哉は腕組みをして言った。

「その理由が、カードの解約か。ま、よくある話だな。その未払い分はどうなっているんだ。大抵は、後から現金で振り込むだろ」

「いえ、未収金として保険会社に残っていました。結構高額の旅行保険に入っていたみたいで、しかも三人分ですから、十年間分の遅延損害金もあわせるとそれなりの額になってしまっているそうです。三人の所在が分からないから、会社としては督促することもできないし、裁判も起こせない。それで、不良顧客といいますか、要はブラックリストみたいなものにリストアップされていて、データがすぐに出てきて……」

 微かにカスタネットの音が聞こえた気がした。春木陽香は廊下の方を覗く。

 自分の方に顔を向けている春木に山野紀子が言った。

「だから保険会社も教えてくれたのね。でも、そういうことなら、高橋博士の家族が日本に帰って来た可能性は低いわね。まだアメリカ国内に居るのかしら……って、うるさいわね」

 山野紀子は廊下の方に顔を向けた。春木陽香も廊下を覗く。

 カスタネットの音が段々と大きく激しくなってくる。それでも、神作真哉は冷静に話を続けた。

「どうかな。保険なしでも、自家用車ならパスポートだけでどこにでも行ける。新しいパスポートを使って陸路で南米大陸に移動し、高橋博士と合流したという線も考え得る。だが、あの戦闘区域を通過っするとなると、かなり難儀だ。まして、女性と子供二人だけでは危険が多すぎる。そうだかったとしたら、高橋博士かっ、何者かっが手助けしたかもしれん。戦争中の南米大陸に入って出国し難かったとしたら……がたかったとし……かたっかたと……」

 カスタネットの音がカタカタと響く。

「オッレーイ! 天才写真家、勇一松頼斗様のお出ましよん!」

 カスタネットを弾きながら現われたマタドール姿の勇一松に神作真哉が怒鳴りつけた。

「うるせえ! くそオカマ! ここはおまえのステージじゃねえんだ。普通に登場しろ、普通にい!」

 勇一松頼斗は体をくねらせながら神作に近づいていった。

「あら、真ちゃん、おはようちゃん。真ちゃんがこっちに来るなんて、珍しいじゃない。さては、編集長が恋しくなったのかしら。痛いっ」

 神作から太腿を蹴られた勇一松頼斗は、涙目で訴える。

「あんたね、パンチにしなさいよ、パンチに。蹴りは反則でしょ」

「うるせい。くそオカマに使う拳なんか持ってねえ」

「ひどい! 昔の真ちゃんは、もっと優しかったのに。今度、応援を頼まれても行ってあげないから」

 頭を掻きながら山野紀子が言った。

「ライトお、『焼き』は終わったの?」

「バッチ、グーよ。はい、見て。これが私のセンスよ、編集長さん」

 振り向いてそう答えた勇一松頼斗は、山野に大きな封筒を手渡した。山野紀子が封筒から中の物を出し、確認する。それは現像が終わった「堤シノブのヌード写真」だった。神作真哉も山野の肩の上から興味有り気の顔で覗き込んだ。立ち上がって一緒に見ようとした春木陽香に山野紀子は言った。

「ああ、ハルハルは見なくていい。修正前だから」

 春木陽香は頬を膨らませて椅子に座った。

「どう、私のセンス、完璧でしょ」

 勇一松の問い掛けに、神作真哉は首を傾げて答えた。

「ああ、もっと、こう、下の角度から写した方がよかったんじゃねえか。ん? これ、なんで工事用のヘルメットを被ってるんだよ」

「あえて、そういうミスマッチな画を狙ったのよ! 私のセンスよ、センス!」

 むきになって反論する勇一松に頷きながら、山野紀子は写真を封筒に仕舞う。彼女はそれを後ろの机の上に置いた。

「はい、別府君。モザイク処理お願いね。後は、いつもの手順どおり」

 勇一松頼斗は目を大きく見開いて山野に言った。

「あれ? 編集長、感想は無し?」

「ああ、よく撮れてる、撮れてる。問題なーし。はい、終わり」

「ちょっと、ひどいじゃない。巻頭カラーだっていうから、力を入れて……」

 勇一松頼斗は山野に食って掛かった。

 勇一松の熱いヌード写真論を聞かされている山野の横で、神作真哉が春木に言った。

「とにかく、高橋の家族が日本に居ないとなると、誰があの封筒を『ドクターT』名義で司時空庁に送り続けたのか、だな」

 勇一松の頭越しに山野紀子が口を挿んだ。

「高橋博士の親戚とか。あるいは、妻の千保の親族かもね」

 勇一松頼斗はプイと振り返ると、尻をプリプリと振りながら自分の席へ歩いていった。それを見ながら神作真哉が春木に言った。

「この際あまり限定しない方がいいかもな。全くの第三者が協力している可能性もある」

 春木陽香は椅子に座ったまま二人を交互に見上げて言った。

「田爪博士の線も追いましょうか」

 神作真哉は「ああ……」と言って山野に目を遣った。山野紀子は春木の後ろで首を横に振る。神作真哉は春木に答えた。

「まあ、それは来週からにしよう。俺と永山はこの件に専属だからいいが、おまえらは本来の雑誌の仕事もある。ライトも機嫌が悪そうだしな。まずはそれを終わらせて、今週末は少し休め。な、編集長さん」

 神作に応える形で山野紀子も言った。

「そうよ。体を壊して入院でもしたら、取材も出来ないわよ。大抵の新人が五月の連休でダウンするんだから。あんたも連休で少し休んで、体力を回復させてからにしなさい」

「でも、金曜日には最大五人の人間がタイムマシンに乗るんですよね。いいんですか」

 春木陽香は不安気な様子で眉間に皺を寄せた。それを見て、神作真哉が言った。

「とりあえず、俺と永山で司時空庁長官の津田に突撃取材でも掛けてみるよ。丁度、家族機の初回発射の前だからな。そのことでなんか名目を作ってインタビューして、揺さ振りを掛けてみる。今はそのくらいしか出来ないからな」

 山野紀子は春木の机の横に来ると、その上の資料を動かしながら言った。

「ほら、ハルハル、ちょっと机の上を片付けなさい。金曜日はウチの『週刊新日風潮』の発刊日でしょ。連休前の特別号だから、水、木と特集記事作りで忙しくなるわよ」

「はーい」

 春木陽香は机の上のゴミくずを集めてゴミ箱に入れ始めた。

 山野紀子が自分の席に戻ると、神作真哉が困惑顔を彼女に向けて、頭を掻きながら言った。

「しかし、参ったな。これじゃ、あいつ、また余計に『南米に行く』って言い出すぞ」

「哲ちゃん?」

「ああ。現地に飛ぶって言って、きかねえんだよ」

「現場主義者だからねえ。でも、それって戦闘区域での取材でしょ。危ないじゃない」

「だから止めてるんだけどな……」

 神作真哉は諦めたように溜め息を吐くと、話を続けた。

「ま、仕方ねえ。話は伝えとくわ。そんで、明日にでも二人で司時空庁に行ってみる」

「会ってくれるかしら、津田長官」

「駄目もとで飛び込んでみるさ。それより、朝美の家庭訪問、いつだっけ」

「二十三日、金曜日の三時半から」

「ったく、発射日じゃねえか。こりゃ、何としても止めないとな」

 神作真哉は背中を丸めて頭を掻きながら、廊下の方へと歩いていった。

 彼の背中を見ながら、春木陽香が呟く。

「永山先輩が南米に……」

 春木陽香の顔は愁容としていた。




二〇三八年四月二十五日 日曜日

                  1

 山野との打ち合わせの翌日、神作真哉と永山哲也は司時空庁長官の津田幹雄に単独インタビューを仕掛けた。しかし、事態の真相は浮き彫りとはならず、結局、四月二十三日金曜日にタイムマシンの発射は実施された。

 その日は週刊新日風潮特別号の発刊日でもあったため、春木陽香と山野紀子は仕事に追われた。午前中の予定時刻までに無事に特別号の発刊は了したものの、春木陽香は、入社して初の大仕事の完遂を素直に喜べなかった。タイムマシンの発射を止められなかったことを彼女は深く悔やんでいた。編集室長の山野紀子も同じで、その後も明るく仕事に取り組むことはできなかった。ただ、彼女の場合は、自分がタイムマシンの問題解明の仕事よりも、特別号の発刊の仕事よりも、娘の担任の家庭訪問を優先させたことをひどく反省していた。山野の娘は高校受験を控えている。親の仕事の都合で担任の教師に無理を言って日程を変えてもらう訳にはいかなかった。それで、激務の最中に時間休を取り、一時帰宅して担任教師と面談し、娘の進路についての話をした。実際のところは、半ば上の空で担任教師の説明を聞いていたのだが……。

 春木陽香と山野紀子は、次の日の土曜日も出勤した。本来は週休二日の職場であるが、雑誌社の現場職員が休みを取れることなど滅多にない。実際、山野紀子は毎週のように休日を潰していたし、春木陽香も入社以来、休日を返上し続けていた。そんな中、今回の土日は特別号発刊の直後ということもあり、ようやく休める予定であった。しかし、二人は出勤した。そうしていなければ落ち着かなかった。

 誰も居ない編集室内で会話を交わすことなく、二人は仕事に取り組んだ。休日を返上して出勤したところで何の贖罪にもならないことを二人は自覚していた。それでも黙って働いた。急な連絡が入ったのは、その日の夕方に二人が帰宅しようとしていた時だった。翌日の重要事を聞いた二人は、慌てて帰宅した。

 そして、今日の日曜日を迎えていた。

 ジーンズにジャケット姿の春木陽香がリボン付きの小箱を持ってエスカレーターを駆け上がっていく。

 上り終えた所でアナウンスが響いていた。

『足下にお気をつけ下さい。ここから、新首都総合空港内三階フロアです。足下にお気をつけ……』

 春木陽香は人の往来が激しい広いフロアの中で上を見回し、必死になって案内表示を探した。探していた案内の矢印を見つけた彼女は、その通りに人ごみを縫って走り出した。

 ここは、国内線と国際線の全航空路線の発着が集中する「新首都総合空港」である。世界一の広さを誇るこの巨大空港は、新首都南部の那珂世なかよ湾沿いに位置し、東西を大きな川の河口に挟まれている土地一帯を占めている。東のひる川の対岸には司時空庁のタイムマシン発射施設があり、西の縞紀和しまきかず川の向こうには新那珂世ニューなかよ港が広がっている。最新の管制システムを導入し、日本が世界に誇るコンピュータ制御システム「SAI五KTシステム」と統合しているこの新首都総合空港は、「世界一安全な空港」としても知られていた。それ故に利用者数も航空便の数も桁外れに多い。

 様々な人種の人で溢れた中央ホールに出た春木陽香は、その中心にあるエスカレーターを駆け上がった。上の階に出て、広い廊下を走り、角を曲がると、人にぶつかった。彼女は転ばなかったが、相手は転がって床に倒れていた。その小柄な人物は麻のフード付きのマントを身にまとい、手には緑色に光る棒を持っていた。その蛍光棒は「く」の字に折れている。春木の横には、全身黒ずくめの衣装に黒い仮面とヘルメットを被った、黒マントの小柄な人が立っていた。その人も赤い蛍光棒を持っている。

 春木陽香は倒れた麻のマント姿の人に駆け寄り、声をかけた。

「ごめんなさい。大丈夫ですか?」

 その人は体を起こすと、頭からフードを外した。そこには、左右にお下げ髪を垂らした幼い顔があった。子供だった。その子は春木の胸元に折れた蛍光棒を突きつけると、大声で怒鳴ってきた。

「コルァ、大人! ワレ、どこに目を付けとんじゃ!」

 春木陽香は、その女児が怪我をしていないことを確認すると、その子に言った。

「ああ、ごめんね。だけど、こんな所で遊んでちゃ駄目だよ。空港の人に怒られるよ」

 その小柄な子はムッとした顔で返した。

「小学生に言うみたいなことを言うな。こっちは中学生じゃ!」

 それにしては背が低かった。体も小柄で、細い。

 春木陽香は目をパチクリとさせて言った。

「え、中学……とにかく、ごめんね。お姉ちゃん、急いでるから」

 その場を立ち去ろうとした春木陽香の前を、緑に光る「く」の字の蛍光棒が遮った。その麻のマントの中学生は左右の三つ編みのお下げを振り回しながら言った。

「知るか! ライト・セイバーが曲がったやんけ。どないしてくれるんじゃ、おお!」

 すると、黒尽くめの子がやって来て、自分の赤い蛍光棒の先をお下げ髪の子の前に突き出すと、諭すように言った。

「シュコー。シュコー。落ち着くのじゃ、アサ・ワン。そのオバちゃんは悪くないぞよ。死角の歩行者に気付かなかった、そちの修行が足りんのじゃ。フォースじゃ。フォースの力が足りん。私のフォースを食らえ」

 その黒尽くめの子は、麻のマントの子に向かって突き出した蛍光棒を細かく振った。

 春木陽香には、それが何の儀式なのか分からなかった。キョトンとしていると、突然、麻のマントの女の子が苦しみ出した。

「うわああ……おのれ……ユーキ・ベイダーめ。こっちのフォースも、食らえー」

 お下げ髪の子は左右の手で握った麻のマントを大の字に広げて振り、何やら訳の分からぬ擬音を口から発していた。

 やはり春木陽香にはそれが何なのか理解できなかったが、背後では黒尽くめの子が「うをおお……」と声を出して苦しんでいた。

 春木陽香は、タイミングを見計らって二人に尋ねた。

「――あの……出国ロビーはどっちかな。知らない?」

「ん」

 二人は同時に同じ方向を指差す。

 春木陽香は二人に礼を言うと、その方角に走っていった。

 春木陽香が角を曲がると、そこには人々でごった返す出国ロビーが広がっていた。彼女は周囲をを見回しながら移動した。季節はずれのオレンジ色のダウンジャケットを着て、スキー板を担いだ老人。カートに沢山の荷物を乗せ、サーフィン・ボードを立てているアロハシャツ姿の長髪の男性。御めかしした団体客。売店で週刊新日風潮を立ち読みしているグレーのスーツの男。買って読んでよと思いつつ、その男の後ろを通り、春木陽香は待合椅子が並んでいる空間の後ろに立った。スーツ姿のビジネスマンたちや、軽装の若者、民族衣装をまとった外国人などが座っている。

 待合椅子の上の後姿を一人ずつ丁寧に確認していった春木陽香は、今度は、その向こうの窓際に立つ人々に目を向けていった。

 出国ゲートの少し横の窓際に背の高い男と体格のよいスポーツマン風の男が立っていた。神作真哉と永山哲也だった。その手前の椅子では、山野紀子が隣の席に座っている女性と親しげに話し込んでいる。その女は落ち着いた感じだったが、面識のないその女性から視線を窓際に戻した春木陽香は、そちらへと走っていった。

 出国ゲートの横の大きな窓ガラスを背にした神作真哉が、ジーンズにワイシャツ姿の永山哲也に言った。

「とにかく、司時空庁長官の津田幹雄が俺たちの取材に対して、あれだけ強く言い張ったんだ。奴の言うとおり金曜日に送られた五人は無事だと信じるしかないだろう」

 永山哲也は両肩を上げて言った。

「キャップらしくないですよ。あの五人の、いや、これまでタイムマシンに搭乗した百十六人の無事が確認できるまで、取材は続けるべきです。それに、あの論文が添付された上申書は絶対に津田長官も読んでいるはずです。読んでいるにもかかわらず、事業の安全性を確認するための検討作業すら行われていない。検証さえも。これはどうも、おかしいですよ」

 神作真哉は眉間に皺を寄せて言った。

「だが、だからって何もおまえが南米に飛ぶ必要はないだろう。わざわざ危険な戦闘区域にまで足を運ぶことは……」

 永山哲也は笑顔で応えた。

「いえ。これは記者としての責任です。最後まで真相を見際め、真実を国民に伝える。それが記者の仕事だって、キャップも言ってたじゃないですか」

「まあ、そうだが……」

 神作真哉は頭を掻いた。そして、溜め息を吐いてから、永山に言った。

「やっぱり、止めても無駄か。どうしても行くんだな」

 永山哲也は力強く一度頷いた。

「はい。会社の方には、キャップからよろしくお願いします」

「ああ、分かったよ。何とか正規の出張扱いに出来るように掛け合ってみる。とにかく、現地に着いたら報告しろよ。報告、連絡、相談だ。いいな」

「はい。それから……」

 永山哲也は待合椅子の方に顔を向けた。神作真哉が言った。

「分かってる。心配するな。それに、紀子もいるし、シゲさんや、うえにょもいる。みんな知ってる人間だから、大丈夫だ」

 永山哲也は神作に頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 神作真哉は話題を変える。

「それより、持参する機材は確認したのか」

「はい。ダイレクト通信機能付きのデジタル・ハンディーカムにレーザー・カメラ。予備のデジタル・ムービーとデジカメ、それにビュー・キャッチ。バッチリです。ああ、それから、これも」

 永山哲也は薄い板状の物を胸のポケットから取り出した。それは掌サイズの薄型録音機だった。

 神作真哉は片頬を右手の人差し指で掻きながら言った。

「いや、もう少し上等の物でも渡してやれればよかったんだが、高くてな。そんなモノしか買えなかった。すまん。正直、朝美の養育費の支払いで、キツくてな」

「いえ、これで十分です。O2電池内蔵のICレコーダーなら、持ちはいいですし、それにこれ、リアルタイム送信機能も付いていますから、いざという時にはイヴフォンと同期させて、ほとんど生放送に近い状態で、僕の最後のレポートをキャップのパソコンに遅れます」

「おいおい、縁起でもないことを言うな。向こうで、おまえが記事を書く時に便利だろうと思って買っただけだ。口頭でメモを取るのには、そっちの方が便利だろうからな」

「分かっています。ありがとうございます」

 永山哲也は笑いながら、それを胸のポケットに仕舞おうとした。すると、そのICレコーダーの背面に貼られた、奇妙なポーズをとっているジャージ姿の中年男の絵柄のシールを見つけて、神作真哉が言った。

「貼られたのか」

 手を止めた永山哲也は、神作が指差しているICレコーダーを再び出すと、そのシールのキャラクターを見て苦笑いしながら言った。

「ええ、やられました。学校で流行の『開運キャラクター』らしいですよ。中学生はみんな筆箱とかタブレット型立体パソコンとかに貼っているそうです。何て言ったかな」

「イノウエ君だろ」

 神作真哉は自分のウェアフォンをズボンのポケットから取り出すと、その裏に貼られた同じ絵柄のシールを永山に見せた。そして、ウェアフォンを裏返し、そのシールのキャラクターの顔をまじまじと観察しながら小声で言った。

「幸運を祈ってくれるのはいいが、誰なんだ、この『イノウエ君』って。上の歯茎が出てるじゃねえか。気色悪い」

 すると神作の背後から声がした。

「娘が貼ってくれた開運シールにケチ付けるもんじゃないわよ。ねえ、哲ちゃん」

 山野紀子だった。

 振り向いた神作真哉は、山野に言った。

「別にケチは付けてねえが、もっとさあ、Tシャツ着ているウサギとか、リボンを付けたネコとか、手袋した特大のネズミとか、飛び跳ねる梨とか、何かあるだろ。どうして赤いジャージを着たオッサンなんだよ。七三分けの。朝美の奴、大丈夫なのか。おまえみたいな母親を毎日見ているから……ムグッ」

 山野紀子は神作の顔を手で押し退けて、永山に言った。

「哲ちゃん。現地のゲリラ兵たちは、きっと殺気立っているからね。気をつけるのよ。彼らの敵である協働部隊に兵力を投入している国の人間だって知られたら、人質にされるか、殺されるかもしれないからね」

 永山哲也は笑顔で言った。

「大丈夫です。南米連邦政府や協働部隊の支配地域と、非戦闘区域に指定されている区域や周辺のスラムからは、なるべく出ないようにしますから」

 山野紀子の後ろから顔を出した春木陽香が永山に言った。

「あの……非戦闘区域やスラムにいる戦争難民たちの多くは、ゲリラ兵たちの家族だそうです。出来たら、そこには近寄らないで下さい」

 春木の登場に少し驚いた顔をした永山哲也は、そのまま説明を続けた。

「大丈夫だよ、ハルハル。南米連邦政府とゲリラ軍の間で両者の仲介役として非戦闘区域創設の協定をまとめたのは、日本の真明教団だ。スラム街でも、政府側兵士とゲリラ兵士の家族を分け隔てなく支援して保護しているらしい。だから現地での信頼も厚い。ゲリラ軍の連中も、その家族も、きっと日本人には危害を加えないよ」

「でも……」

 春木陽香は憂いに満ちた顔で永山を見つめた。

 山野紀子も心配そうな顔で永山に言う。

「現地の言葉の方は大丈夫なの」

 永山哲也は片笑みながら答えた。

「まあ、何とかなるでしょ」

 神作真哉が不安を隠しながら、無理に同じように片笑んで言う。

「サッカー好きが功を奏したな」

 永山哲也は両眉を上げて返事をした。

 山野紀子が、彼女の後ろでモジモジとしている春木を永山の前に押し出した。

「ほら、ハルハル。渡す物があるんでしょ」

 春木陽香は背中に隠して持っていた赤いリボン付きの箱を、腰を曲げて御辞儀しながら永山の前に差し出した。

「ああ……永山先輩、あの……これ……。よかったら、使って下さい」

 山野紀子が顔を前に出して言った。

「後輩女子が初給料で頑張って買ってくれたのよ。仕事服を買うの我慢して。感謝しなさいよ、この、色男」

 彼女は肘で永山の横腹を軽く突く。

 永山哲也は手を細かく振って春木に答えた。

「いや、そんな……初給料なら、君のご両親に何か買って差し上げなきゃ……」

 春木陽香はプレゼントを差し出したまま、下げた頭を横に振った。

「高校出て新聞社に勤めた時の最初の給料で父と母にはプレゼントを買いましたから、大丈夫です。気にしないで下さい。先輩には新聞社時代にいろいろとお世話になりましたから、その、せめてもの感謝の気持ちです」

 神作真哉が呆れ顔で永山に言った。

「危険地帯に取材に行く先輩のことが心配なんだと。貰ってやれよ」

 春木陽香は腰を折ったまま顔を赤くしていた。

 永山哲也は横に視線を何度か送り、困惑した顔を見せる。それを見て、神作真哉と山野紀子は顔を逸らして笑いを堪えていた。

 永山哲也が観念したように言った。

「いいの? じゃあ、ありが……」

「とう!」

 横から人影が飛び込んできて、春木の手から永山の手に移ろうとしていたプレゼントを奪った。麻のマントを羽ばたかせて着地した少女は、背中を見せたまま素早くリボンを外し、包み紙と箱を後ろに次々と放り投げると、春木から永山へのプレゼントの品を高々と持ち上げて言った。

「おお! 高そうな腕時計ではないか。我が国の国防軍兵士も使用している、いざと言う時も安心、スーパーGPS機能付の防水耐衝撃型の腕時計! こんな高価なモノを送るとは、あやしいぞ。これは、昼ドラの臭いがする……痛っ」

 山野から強烈な拳骨を食らった麻のマントの少女は、頭を抱えてうずくまった。

 山野紀子の怒声が飛ぶ。

「コルァ、朝美い! あんた、他人ひと様のプレゼントを、なに勝手に開けてるのよ!」

 山野紀子は娘の山野朝美の右の三つ編みを掴み上げた。

「イタタタ。ママ、ごめんなさい。でも、このオバちゃん、私の大事なライト・セーバーを『く』の字に……」

 山野紀子は朝美の三つ編みを引き上げながら言った。

「うるさい。お姉ちゃんでしょ。ハルハルがオバちゃんなら、私はどうなるのよ! お婆ちゃんか、コラッ!」

「痛い、痛い。髪を引っ張ら……はい、どうぞ」

 朝美から腕時計を手渡された永山哲也は、言った。

「ああ、どうも……いや、どうも、ありがとう、ハルハル」

 両手を差し出したまま、箱を渡した体勢で固まっていた春木陽香は、目に涙を溜めて何度も瞬きしていた。

 永山哲也は焦ったように早口で春木に言った。

「いや、あの、これ、使わせてもらうよ。大事にする。ホントに、ありがとう」

 その時、飛行機の出発準備のアナウンスが鳴った。永山が乗る予定の便だった。

 永山哲也は溜め息を吐くと、皆の方を向いて言った。

「じゃあ、そろそろ行きます。わざわざ見送りに来ていただいて、ありがとうございました。とにかく、向こうで動けるだけ動いてみます」

 永山哲也は皆に深々と一礼した。

 神作真哉が永山と握手しながら言った。

「おう。こっちも何か分かったら連絡する。とにかく、ヤバかったら、すぐに帰って来るんだぞ。いいな」

 神作に肩を叩かれた永山哲也は、はっきりとした声で言った。

「はい。では、皆さん、行ってきます」

 神作たちに再度一礼した永山哲也は、出国ゲートの危険物探知機の中を通り抜け、奥に歩いていった。

 春木陽香は彼の背中をじっと見つめ、記憶に焼き付けようとしていた。神作たちは永山の姿が見える位置に移動した。永山哲也は搭乗者たちの列の中から、こちらに向けて大きく手を振った。搭乗エリアを区切る強化アクリル製の透明な壁の前に移動して永山を見送っていた春木たちは、それぞれに大きく手を振って返した。永山哲也も途中で何度も振り返り、春木たちの方に手を振った。

 目に涙を浮かべながら手を振っていた春木陽香は精一杯の笑顔で永山を見送った。永山の姿が他の旅行客たちの奥に小さくなっていく。春木陽香は背伸びをして手を振りながら、透明の壁越しに永山に向かって声を発した。

「永山せんぱーい。くれぐれも気をつけてくださーい」

 透明の強化アクリルの隔壁の外の音は、集音マイクに拾われて、隔壁の向こう側に設置されたスピーカーから搭乗エリア内に向けて発せられる。

 向こうの方に歩いて行っていた永山哲也は、立ち止まって振り返り、春木の方に手を振った。春木陽香は隔壁の向うの人ごみの奥に小さく見えている永山に懸命に手を振って返した。

 彼女の横から山野紀子が叫んだ。

「ちゃんと電話しなさいよお。立体電話よお」

 春木陽香は溢れそうな涙を堪えて叫んだ。

「そうですよお。電話する時は、立体通話でかけて下さいよお」

 山野の隣で朝美と一緒に手を振っていた神作が両手を口の左右に添えて叫んだ。

「シュラスコを食い過ぎて太ったら、すぐバレるからなあ。気をつけろお」

 永山は苦笑いしながら手を振って答えていた。

 少し笑った春木陽香は、その弾みで目から零れ落ちた涙を慌てて拭うと、それを誤魔化すように必死に笑顔を作って見せた。そして、手を振りながら反対の手を口の横に添えてまた大声で叫んだ。

「そうですよお。太った先輩は見たくないですからねえ。筋トレは続けて下さいよお」

 永山哲也は、こちらに向けて親指を立てた拳を突き出すと、笑顔で再び手を振った。一同に向けて軽く頭を下げた彼は、背を向けて奥に歩いていった。

 春木陽香は彼の姿が見える限り手を振り続けた。すると、彼女の背後から声が飛んだ。

「蚊にも気をつけてよお、あなたあ。蚊よけ薬は忘れずに飲むのよお」

 春木陽香は次々に頬を伝う涙を指先で拭きながら、頑張って叫んだ。

「そうですよお。ちゃんと飲んで下さいよお。蚊よけ薬は……あなた?」

 一瞬だけ彼女の耳に入った単語に驚いた春木陽香が少しだけ振り向くと、彼女の斜め後ろで、さっき待合椅子で山野と話していた綺麗な女が透明のアクリル壁の向こう側に懸命に手を振っていた。春木陽香はすぐに隔壁の向うの永山の方を見た。立ち止まって再度振り返った彼は、こちらに向かって力強く手を振っている。すると、隔壁と春木の間にさっきの黒いマントの中学生が割って入り、手に持ったヘルメットと赤色の長い蛍光棒を左右に大きく振りながら、張りのある大きな声で叫んだ。

「気をつけてねえ。絶対にい、無事に帰ってきてねえ」

 咄嗟に、春木陽香も共に叫んだ。

「そうですよお。帰ってきて下さいよお」

「お守りシールも剥がしちゃ駄目だよお」

「そうですよお。よく分かりませんけど、お守りは大切ですからねえ。大事にして下さいよお」

「頑張ってねえ。お父さーん」

「そうですよお。頑張ってくださーい。お父さ……お父さん?」

 春木陽香は、その黒マントの中学生と背後の年上の女を交互に何度も見た。少し涙目になっているその女の肩に手を添えて、山野紀子が言っている。

「大丈夫よ、祥子さん。ご主人は無事に帰ってくるわよ」

 廊下の奥の人ごみの中に姿を消した永山を見届けた神作真哉も、永山祥子に言った。

「そう。永山は柔な男じゃない。どんなことが起きても、ご主人は絶対に生きて帰ってきますよ。そう信じてください。絶対に大丈夫です」

 春木陽香は永山祥子の左右に立つ山野と神作の方を交互に指差しながら、反対の手を口に当てて、何かを言おうとしていた。

「ご、ごしゅ、ごしゅ、ごしゅ……」

 山野紀子は、透明の隔壁の前で肩を落としている黒マント姿の少女に言った。

「さ、由紀ゆきちゃん。上の展望デッキに行きましょうか。みんなで、お父さんが乗っている飛行機を見送るわよ。ほら、元気出して。笑顔、笑顔。飛行機の中から由紀ちゃんが悲しんでいる顔を見たら、お父さんは心配して、飛行機から飛び降りて来ちゃうかもよ」

 振り向いた永山由紀は、少し鼻を啜ると、目から零れ落ちた大粒の涙を友人の朝美に隠すように、素早く黒いヘルメットを被った。そして、赤色の蛍光棒を勢いよく天に向けて突き立てると、屋上の展望デッキへと昇るエレベーターに向かって元気良く駆け出していった。彼女について行くように、ハンカチで目元を押さえている永山祥子も、その隣に寄り添っている山野紀子も、ポケットに両手を入れたまま何度も上を向いては鼻を啜っていた神作真哉も、エレベーターに向けて歩き出した。

 春木陽香は、一人固まったまま、その場に立ち尽くしていた。

「ご、ご主人って……永山先輩、結婚してたの? しかも、中学生の子供まで。し、知らなかった……」

 両膝を床に突いて崩れ落ちた春木陽香に、フードを被った山野朝美が近づいてきて、耳元で囁く。

「前に四年も一緒に働いていたのに、知らなかったの? くくく、うける。くくくく」

 山野朝美は腹を押さえて笑いながら、エレベーターの方へと歩いていった。

 春木陽香は床のカーペットを叩きながら叫んだ。

「馬鹿、馬鹿、ハルハルの馬鹿。憧れの先輩が結婚しているかってことくらい、どうして確認しなかったのよお。ていうか、なんで気付かなかったのよお。思いっきり既婚者じゃないのよ。腕時計まで贈って、何やってるのよお。――ああ、今月のお給料、半分以上も使っちゃった……。もう、私の馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿あ!」

 突如に襲ってきた失恋の事実と自らの愚行に、春木陽香は泣き崩れた。

 ゆっくりと閉まるエレベーターのドアの中では、涙を拭いている永山祥子の後ろで、山野紀子と神作真哉が春木の姿を見ながら必死に笑いを堪えていた。

 「週刊新日風潮」を立ち読みするふりをしながら、売店の隅で春木の姿を観察していたグレーの背広の男が、ギョロリトした大きな目で待合椅子の方に合図を送った。待合椅子に座っていたスーツ姿の男たちが一斉に立ち上がり、エレベーターの方へと歩いていく。

 その耳の大きなグレーのスーツの男は、手に持っていた週刊新日風潮を品台の上に放り投げると、床にうずくまって泣いている春木陽香の姿をそのままずっと見ていた。

 出国ロビーには永山が乗る飛行機の出発アナウンスが響いていた。


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