第4話

第二部


二〇三八年五月六日 木曜日 

       1

 司時空庁長官室に津田幹雄の怒号が響いた。

「だいたいな、おまえら内部監査部が庁内の綱紀粛正を徹底せんから、こういう事になったんだぞ。連休明けには情報漏えい者が判明するかと思いきや、まだ調査中だと? ふざけるのもいい加減にしろ!」

 津田幹雄は手に持っていた雑誌を机の上に浮かんでいる背広姿の男のホログラフィーに投げつけた。雑誌は男の体を通過して机の向こうの床に落ちた。床の上で広がっている雑誌の表紙には「週刊新日風潮」という大きな文字の下に若い女性の半身写真と「堤シノブ衝撃ヌード」という活字が並べられている。

 秘書官の佐藤雪子が雑誌を拾い上げた。

 背広姿の若い男のホログラフィーは、下を向いたまま言った。

『申し訳ありません。ゴールデン・ウィークを挟んだものですから、ウチの部の職員も休暇に入っておりまして、人手が……』

 津田幹雄は更に苛立ちを募らせる。

「休暇? きさまらは公務員だろ。官吏になると決めた時点で、そんな権利は捨てたも同然のはずだ。どういう覚悟で給料を貰っているんだ!」

『……』

「いいか、徹底的に調べて、誰が新日に情報を流したのか、そいつの指名と、そいつの家族、親しい人物、全ての情報を今週中に持って来い。分かったな!」

『かしこまりました』

 津田幹雄は電話機のボタンを荒っぽく押して、頭を下げている男のホログラフィーを消した。津田の怒りは収まらない。

「この馬鹿が。マスコミにタレこんだ人間一人も見つけられんのか。今まで何をしていたんだ」

 艶かしく腰を振って歩きながら机を回り、津田の横に来た佐藤雪子が言った。

「そういう局長も、南の島でゴールデン・ウィークを満喫されていたのでは?」

 津田幹雄は下げていた頬をゆっくりと上げると、佐藤を指差しながら言った。

「それは君も同じじゃはないか。一緒に楽しんだんだ、お互いに言いっこ無しだよ」

「でも、『新日ネット新聞』にも、紙新聞の『新日新聞』にも、まだ何の記事も載っていませんわよ。それに、この連休前の『週刊新日風潮特別号』にも」

 佐藤雪子は津田の机の上に週刊新日風潮を置いた。

 津田幹雄は背もたれに身を倒して言う。

「ああ、分かっている。隅々まで読んで確認した」

「あら、隅々までですか。この堤シノブの袋とじの部分は? 開けましょうか」

「必要ない」

「表紙の彼女、結構綺麗な体の線をしていますわよ。長官のお好みでは?」

 椅子から身を起こした津田幹雄は、真剣な顔で佐藤に言った。

「君、からかうのもいい加減にしなさい。今は女優のヌードどころではないんだよ。新聞社の記者二人が取材に来たんだぞ。初の家族搭乗機の発射について司時空庁長官の意見を聞きたいと言うから応じたのに、インタビューではタイムマシンの安全性の話に終始していた。外部から危険性や理論の矛盾の指摘は無かったのか、とかな。奴らは田爪夫人が送り続けていた論文についてきっと何かを掴んでいるはずだ。まずは情報の出所を探るんだ。どうして新聞社の奴らが我々の最重要機密の一部を知ることが出来たのか。何者かが内部情報を漏らしているに違いない。そいつには、しっかりと責任をとらせねばならん」

 佐藤雪子は口角を上げた。

「裏切り者は徹底的に叩くおつもりですね」

「そういうことだ」

 そう答えた津田幹雄は、佐藤の顔を見て尋ねた。

「そういえば、松田君は大丈夫かね。信用できると思うかね」

 佐藤雪子は頷いた。

「おそらく。彼は、この連休中も出勤して仕事に取り組んでいたそうですから。長官への忠誠心は確かだと思いますわよ」

「そうか……」

 津田幹雄は割れた顎を触りながら考えていたが、その手を下ろして言った。

「じゃあ、呼んでくれ。進捗を聞きたい」

「かしこまりました」

 佐藤由紀子は腰を振りながら歩いて行き、隣の秘書室へと入っていった。ドアが閉まると、津田幹雄は週刊新日風潮を手に取り、袋とじの部分を破いて中の写真を広げた。頁を捲りながら彼は呟く。

「ふん。たいしたことはない……」

 彼は熱心に頁を捲っていった。

 暫らくするとドアがノックされた。津田幹雄は袋とじ部分が破られた週刊新日風潮を急いで机の引き出しに仕舞うと、返事をした。ドアが開き、業務部長の松田千春が入ってくる。彼は津田の机の前に立つと一礼して言った。

「おはようございます、長官。お呼びでしょうか」

 津田幹雄はしかめた顔をして言う。

「うん。例の件はどうなっている。首尾よく運んでいるかね」

 松田千春は頷いた。

「はい。機体の搬入は、今日中に終了する予定です」

「田爪夫人は」

「夫人には、連休中に宿泊施設に入っていただきました」

「どの部屋を使わせた」

「四十五階のスイート・ルームを……」

 津田幹雄は眉間に皺を寄せた。

「ロイヤル・スイートか。あそこは、国賓クラスの搭乗予定者に待機してもらうための部屋だろう」

 松田千春は眉を寄せて答える。

「はい。しかし、スタンダード・スイートの他の部屋は、家族用に内装工事中ですので、仕方なく。何分、急のことでありますし……」

 彼は津田の表情を伺った。

 津田幹雄は険しい顔で考えている。彼は椅子の背もたれに身を倒して言った。

「五月以降の搭乗者の宿泊所は確保しておかんといかんしな。ま、仕方あるまい。田爪夫人もストンスロプ社の会長のご令嬢だ。あのくらいの部屋でなければ、納得しないか」

「いえ、夫人は特に何も……」

「まあ、いい。それで、彼女の研究施設の方は」

「はい。捜索は終了しました。彼女の立体パソコンの残存データから回収したモノが、こちらです」

 松田千春は一枚の名刺大の記録媒体を差し出した。MBCと呼ばれるそのカード型の記録媒体を受け取った津田幹雄は、松田の目を見て尋ねた。

「タイムマシンの設計図か」

「はい」

 頷いた松田に津田幹雄は更に言った。

「バックアップは。他に隠しているかもしれん」

「はい。研究施設ラボ内の電算機の類は、すべて押収しました。彼女の自宅からも、全てのパソコン関係を押収しております」

「ネット上は?」

 隣の秘書室から長官室に戻ってきた佐藤雪子が口を挿んだ。

 松田千春は佐藤を一瞥すると、津田の顔を見て答える。

「それは、これから。ラボの方で押収したパソコンのログを解析して、見つけ出します。見つけ次第、ネット上からも削除いたします」

 津田幹雄は低い声で言った。

「外部サーバーも押さえておけ。実力を行使しても構わん。ま、海外のサーバーに入れようとしていたなら、技術検疫に引っかかっているはずだからな。データを保存しているとすれば、国内のどこかのサーバーだ。何としても見つけ出して、始末しろ。うちのSTS部隊の連中を使えば、簡単に破壊できるだろう」

「そのように手配いたします」

 津田幹雄は松田に人差し指を振りながら言った。

捜しをしたことは、夫人には知られてはいないのだな」

「はい。外部との接触は出来ないようになっていますし、情報も遮断しておりますので、夫人が知ることは無いと思われます」

「だが、念には念を入れるんだ。新日ネット新聞の一件もある。田爪夫人は完全に幽閉するように。彼女がタイムマシンに搭乗するまで、外部との接触は一切禁止だ。いいな」

 松田千春は頭を下げて言った。

「はい。契約書にも、そのように謳ってありますので、問題はありません」

「うん、そうか。こちらの機体データは、夫人に渡してあるんだな」

「はい」

「ならば、後は夫人が設計上の計算を確認して、納入されたタイムマシンを自分の手でカスタマイズするのを待つだけだな。発射予定日は六月五日だったね。一ヶ月で間に合いそうかね」

 松田千春は首を横に振った。

「まだ、夫人は何とも……」

「そうか。自分が指定した発射日時だ。間に合わないようなら、こちらの指定した日に跳んでもらおう。契約書にも、そう明記してあるんだな」

「もちろん。その点は夫人も納得済みです。ですが……」

「なんだね」

 津田幹雄は厳しい視線を松田に向けた。

 松田千春は慎重に報告する。

「田爪夫人は宿泊施設に入る直前に、また総理官邸に例の上申書を送付したようで、それが本日あたり官邸に届くものと思われます」

 津田幹雄は短く息を吐いてから言った。

「またか。――まったく、あの女め。最後の悪あがきという訳か」

 そして横を向いて言う。

「佐藤君。総理府の方には手を回してあるのだね」

「はい。こちらに回ってくる手筈になっています。今日中には長官のお手許に届くかと」

「そうか。総理に知られたら厄介だからな。ま、あとは奥野大臣の右腕に任せよう」

 松田千春が聞き返した。

増田ますだ情報局長ですか。国防軍の」

 津田幹雄は少し大げさに頷いて見せた。

「ああ、そうだ。増田だ。あの男、国防体制の連絡武官として総理官邸に頻繁に出入りしているらしい。そうやって有益な官邸情報を奥野大臣に知らせているのさ。そうすれば奥野大臣からの評価も高まり、出世も早くなる。抜け目の無い男だよ、まったく。しかし、あれだけ大臣に忠義を尽くしていれば、次の国防武官トップになることは間違いないだろうな」

 津田幹雄は一度だけ松田に視線を送ってから言った。

「まあ、いい。松田君、田爪夫人がタイムマシンのどこをどう変更したのかは、逐次報告させて、全て正確に把握しておくんだ。あとは、分かっているね」

「はい。すでに技術部に準備をさせております」

「よかろう。――ああ、そうだ、松田君。君は連休中も出勤して、随分と骨を折ってくれたそうだね。佐藤君の仕事の分まで。ご苦労だった」

 松田千春は再度、頭を下げて言った。

「いえ。仕事ですので」

「うむ。よい心構えだ。どうやら、次期長官の人事は決まったようだな。頑張ってくれたまえよ、松田君」

「は、はい。ありがとうございます」

 松田千春は上気した様子で一礼した。それを見た津田幹雄は、わざとらしく何かを思い出したふりをして、本題を尋ねた。

「ああ、それから、例の新日の記者たち。彼らの監視体制サーベイランスは、どうなっている」

「はい。とりあえず、国防軍からの応援要員の方にやらせております」

「ウチの監視局との連携は取れているのだな」

 松田千春は胸を張って深く頷いた。

「もちろんです。今のところ、何の問題はありません。いつでも引き継ぎは可能です」

「うん、そうか。国防軍に急に手を引かれても困るからな。――それで、彼らについて何か報告が来ているかね」

「はい。飛行機で海外に向かった者が一人いると」

 津田幹雄は眉間に皺を寄せた。

「海外に? 誰だ。何処に行った」

「永山哲也という中堅記者です。行き先は南米連邦のニューサンティアゴ」

「ニューサンティアゴ? チリのか。戦地じゃないか。そんな所に民間の航空機が飛んで行けるのかね」

「はい。あそこは協働部隊の作戦本部が設置されている街で、大陸北部の戦闘区域とは離れております。街もほぼ通常通りの状態で、世界中からマスコミの人間が集まってプレスセンターを作っているそうです。ですから、民間航空機も何便も往来しています」

「そうか。そいつは私のところに取材に来た記者の一人だな。若い方か」

「はい。おそらく、戦地の取材ではないでしょうか。転勤になったのかもしれません」

 津田幹雄は南の窓から見える景色を眺めながら呟いた。

「事実上の左遷か……よし、いいぞ。いい」

 顔を佐藤の方に向けた津田幹雄は、怪訝な表情で言った。

「しかし、いったい誰の釘が利いたんだ。警察庁の子越こごし君か」

 佐藤雪子は顎に指先を添えて首を傾げた。

「さあ。存じませんわ。皆さん、長官からの要請なら競って新日に手を回してくれたはずですものね。ですが、警察庁長官の子越さんなら効き目は絶大だと思いますわよ。今のマスコミは警察記者クラブから排除されたら仕事が出来ませんから」

 津田幹雄は納得したように頷いた。

「そうだな。まあ、とにかく、一安心だ。だが、記者連中にも意地があるだろうからな。引き続きの監視は必要だろうな」

 そして素早く松田に顔を向ける。

「松田君、いつまでも軍の応援に頼っている訳にはいかんぞ。ウチの方でメンバーを組み直して、直接、記者どもを監視するようにするんだ」

「分かりました。監視局の方で人員を調整させます」

「佐藤君、誰か、彼らの傍で行動を把握できる人間を見つけてくれ。新日社の内部で」

「かしこまりました。すぐに当たってみますわ」

 津田幹雄は佐藤に指を振りながら付け加える。

「それから、過去の上申書と論文は全て破棄だ。マスターデータが入ったMBCだけ、私のデスクに持ってきてくれ」

「はい。すぐに」

 佐藤雪子がそう返事をすると、松田千春が心配そうな顔で津田に尋ねた。

「ですが、長官。それは公用文書毀棄罪になるのでは」

 津田幹雄は堂々と答えた。

「存在しない文書やデータを破棄しても、問題は無い。だいたい、どの機関がウチに捜査の手を突っ込んでくるというのだね。ここは司時空庁だぞ。この国の収入を支えている庁だ。心配はいらん。どの機関も手は出せんさ。官邸さえもな」

 椅子を回した津田幹雄は、南の窓の外に並ぶ有多町の官庁ビル群を見つめた。どのビルも、こちらに向かって頭を垂れているように見えた。

 津田幹雄の口元には抑えきれない笑みが漏れ浮かんでいた。



                  2

 連休が明けた新日風潮社の編集室では、パナマ帽を頭に乗せて半袖のアロハシャツを着た男が、壁際の一番前の机に腰を降ろして周囲の記者たちに話していた。別府博べっぷひろしだった。彼はサングラスの跡を残して真っ黒に日焼けした顔に誇らし気な笑みを浮かべながら、大袈裟な身振り手振りで語っている。

「いや、とにかくさ、もう、風が気持ちいい訳よ。トロピカル・ジュースは美味しいし、砂浜は綺麗だし。もう、最高だったよ。嫁も子供たちも、大はしゃぎでさあ……」

 周囲の席の記者たちは面倒臭そうに彼の自慢話に付き合っていたが、別府博は御構い無しに話を続けた。そこへ、春木陽香が出社してきた。

「おはようございます」

「よお、おっはようさん、ハルハル」

 高々と手を上げて挨拶を返した別府を見て、春木陽香が言った。

「うわ、すごい日焼け。どうしたんですか、別府先輩。それに、その格好……」

 春木陽香は別府の服装を下から上に観察した。

 別府博は胸の前で交差させた両手を素早く左右に広げて、言った。

「ノープロブレム。ミクロネシアの島々を家族で周遊してきちゃったのね。ま、会社が旅費を持ってくれたからなんだけど、さ。とにかく、楽しかったぜ」

「会社が……ですか……?」

 春木陽香には、なぜ別府が会社の費用で海外旅行に行ったのか見当がつかなかった。

 瞬きをしている春木に、別府博は当然と言わんばかりの顔で言った。

「そ。編集長が経理と話してくれてね。ようやくこの会社も、俺の実力を認めてくれたって訳よ。という訳で、はい、これ、お土産」

「はあ……どうも」

 怪訝そうな顔で別府から渡された物を両手で受け取った春木陽香は、それを片方の手で摘まんで持ち上げると、LEDの蛍光灯にかざして観察した。金属製の小さなリングから短いチェーンがぶら下がっていて、その先にオウム貝の形をした金属製の物が付いている。

 春木陽香が首を傾げながら椅子に座ろうとすると、別府博が彼女の肩を叩いた。

「ま、ハルハルも、もう少しの辛抱だ。頑張るんだぞ。俺が編集長になったら、こう、全体をもっと風通し良くしてだな、もっとフレッシュな雑誌に……」

 別府からの「お土産」の正体を理解した春木陽香が言った。

「これ、キーホルダーですか……」

 春木の手からそのキーホルダーを取った別府が、それをいじりながら言った。

「ただのキーホルダーじゃないぞ。驚くなよ。ここをひっくり返すと……、ほら、なんと爪切りに早変わり。こうして元に戻すと……、一見すると貝殻のアクセサリーっぽくて、お洒落だろう」

 爪切りにトランス・フォームする変形キーホルダーを再び両手で受け取った春木陽香は、一応、言ってみた。

「鍵なんて持ってないですけど……ていうか、今時、誰も鍵なんて持ってないと……」

 彼女が住むマンションも、他の家も、車も、大抵は指先の皮膚からDNAの情報を即時に読み取る「接触式簡易DNA識別キー」を採用している。だから、特に「鍵」を持ち歩く必要は無い。春木陽香は口を尖らせて、また首を傾げた。

 別府博は春木を指差しながら言った。

「ヘイ、ヘイ、ユー。先輩からのお土産にケチ付けるのかい」

「いえ、別に……ありがとうございます」

 春木陽香は先輩の厚意に対して頭を下げた。そのまま、ついまた首を傾げてしまう。

 別府博はそれに応じることなく、誰も座ってない山野の机の前に行くと、春木の方を振り向いて、ラッピングされた箱を見せながら言った。

「これは、編集長に。ココナッツ・クッキーとパイナップル・ワッフルのセット。高かったぜえ」

「はあ……。きっと、喜ばれると……思います……」

 春木陽香は精一杯にそう言った。

 別府博は腕時計を覗きながら眉を寄せた。

「でも、編集長、遅いなあ。新聞の方と打ち合わせがあるって……」

 ハッとした春木陽香は、壁の掛け時計を見ると、慌てて席を立った。

「あの、私も上に行ってきます。少し長くなります」

「じゃあ、編集長に会ったら、俺からお土産があるって……おおーい……」

 春木陽香は返事もせずに駆け出していった。



                  3

 新日ネット新聞社会部の編集フロアでは、通常通りの朝の繁劇が続いていた。ワイシャツ姿の男たちや髪を後ろに束ねた女たちが、受話器を肩と顎で挟んでパソコンのキーを叩いたり、熱心に資料文書のホログラフィー画像を読んでいたりと、それぞれが取材に出るための準備に追われている。しかし、記者たちの緊張は夕刊記事の締め切り時刻の直前ほどではない。騒々しくも、朝は幾分か平和だと感じつつ、春木陽香は他人にぶつからないように注意しながら、慌しい室内を奥へと歩いていった。フロアの一番奥の「島」には、二人の記者がいた。

 春木陽香はそれぞれに挨拶した。

「あ、シゲさん、永峰先輩、おはようございます。あの……」

 重成直人が空いている真後ろのドアを気にしながら、春木に声を殺して言った。

「デスクの部屋だ。早く、行った、行った」

 社会部長の谷里に見つからないように気を使ってくれた重成に頭を下げて、春木陽香は隣の次長室に入っていった。

「失礼します。春木です」

 神作真哉が答えた。

「入れ」

「だから。なんで、おまえが答えるんだよ。ここは俺の部屋だろうが!」

 上野秀則が床を指差しながらそう言った。

 春木陽香はドアを閉めると、丸いテーブルを囲んで鼎座している先輩記者たちに挨拶をした。

「失礼します。おはようございます」

「ハルハル、遅いわよ。ほら、早く」

 既にそこに座っていた山野紀子はそう言うと、春木に自分の隣に座るよう指示した。

 春木陽香は山野の左前隣のソファーに座った。窓を背にして置かれた一人掛けのオレンジのソファーに座っていた山野紀子は腕時計を見ながら後ろの窓に手を伸ばし、ブラインドを閉じた。山野の右前隣のソファーに座っていた神作真哉が天井の照明を指差した。神作の右前隣に座っていた上野秀則が不満そうに口を尖らせながら立ち上がり、後ろの壁の方に移動する。彼が壁のスイッチを操作すると、天井の照明が少し照度を落とした。上野秀則はブツブツと不平を言いながら、春木の左隣のソファーに戻った。春木陽香は右前隣の山野と視線を合わせて、クスリと笑った。

 四人の中央にある小さい丸テーブルの上には一台の立体パソコンが置かれていた。暫らくすると、その薄い板状の立体パソコンから真上に光が発せられ、そこに永山哲也の上半身がホログラフィー画像で投影された。南米のニューサンティアゴにいる永山哲也からの立体通信だった。

「お、来た来た。久々の永山だな。元気にしてたかな」

 上野秀則が両手をすり合わせて意気込んだ。神作真哉が座り直す。山野紀子も少し姿勢を正して構えた。春木陽香は慌てて髪を整えている。

 山野の方を向いて再生されたホログラフィーの永山哲也は、左右を見回して言った。

『あの、ノンさん。デュアル通信かサイマルタイニーズ通信でって言いましたよね。基本的に立体通話は一対一ですから、別々にホログラフィーにするには、専用カメラじゃないと駄目なんですよ。こっちでは、ノンさんに左右の他の人が半分ずつ合体したものが映っていて、すごいホログラフィーになってますけど』

「……」

 先輩記者たちは固まったまま沈黙していた。

 春木陽香は先輩たちの顔を見た。三人の先輩たちは咳払いをしたり、肩を叩いたりして誤魔化している。春木陽香は、そのような乱れた形で再生された立体画像でどうして山野だと分かったのか永山に尋ねたかったが、要らぬ論争が起こりそうだったので、やめた。

 春木陽香は立ち上がると、黙ってドアの方に向かった。ドアを少し開いて、顔を少し出し、向こうに座っている永峰千佳に小さく手招きする。

 部屋に入ってきた永峰に春木が耳打ちして事情を説明すると、永峰千佳は呆れたように溜め息を吐いて、丸テーブルの所までやってきた。そして、言った。

「じゃあ、とりあえず、皆さんのウェアフォンを立体画像式のチャット通話にして、それで先輩とお話しましょう。私がリンクさせてみますから」

 先輩たちは気まずそうにポケットからウェアフォンを取り出した。四人はそれぞれ膝の上にウェアフォンを置いて立体通話の準備をする。丸テーブルの横に屈んで立体パソコンを操作していた永峰千佳が、全員で同時立体通話ができるように設定し直した。春木が差し出したフェアフォンと立体パソコンの操作アイコンを見比べながら、彼女は言った。

「よしっと。では皆さん、私が合図したら自分のウェアフォンの通話スタートボタンを押して下さい。あ、永山さんはそのままでいいです。じゃ、いきますよ。さん、に、いち、はい、スタート」

 記者たちは一斉に自分の携帯端末の通話ボタンを押した。皆で不安そうに顔を見合わせる。永峰千佳は永山のホログラフィーに尋ねた。

「どうですか。四人とも、ちゃんと別々に映ってますか」

『ああ、オーケー、オーケー。小さいけど、映ってるよ。サンキュー、千佳ちゃん』

 春木陽香は小さく拍手をした。

 永峰千佳はそれを制止しながら、小声で言った。

「じゃあ、うえにょデスク、私はこれで。今日の分の記事があるんで。また何かトラブったら呼んで下さい」

 神作真哉から順に永峰に礼を言った。

「悪かったな」

「ごめんね、助かった」

「さっすがですね、永峰先輩」

「ありがとな……ていうか、『上野』だ。いい加減に覚えろ!」

 永峰千佳は出て行った。

 上野秀則が閉まったドアの方を見て呟く。

「それにしても、意外と便利なヤツだな。『パソコンおたく』だから、独身なのか」

 他の三人が上野に冷ややかな視線を送った。

 三方からの蔑視に晒された上野秀則は、失言したことを気まずそうにしながら、咳払いしてテーブルの上を指差した。

 永山哲也のホログラフィー画像が周囲を見回している。

『改めまして、こんばんわ……じゃない、おはようございますですね』

 永山哲也は腕時計を見た。それは春木が空港でプレゼントしたものだった。それに気付いた春木陽香は、顔を少しほころばせた。

 神作真哉が言った。

「どうだ。もうすぐ、そっちに行って二週間だが、そろそろ帰りたくなってきたんじゃないか」

 永山哲也のホログラフィー画像は苦笑いをする。

『まあ、正直、そんなに遠くに来たって実感が無いですね。こうして、立体通話で毎日家族とも会話できますし、ここの生活も普通の観光地と変わらないですからね。ゲリラ軍の攻撃はここまでは来てないですし、世界中のメディアが交代で入ってきていますから、経済効果もすごくて。この十年で完全にリゾート地になっちゃっていますよ。この街の様子や実情も、先輩に送ったでしょ』

 神作真哉が答えた。

「だな。あんな立派なカジノや保養施設が整った街で快適なホテル生活をしながら、世界中の同業者が、さももっともらしく戦争のレポート記事を書いているんだな。南米戦争が終わらないはずだ」

 ホログラフィーの永山哲也は頷く。

『そうなんですよ。誰も戦闘区域に行こうとしない。協働部隊から貰った画像データや動画データをネット新聞にアップしたり、ニュースで流しているだけですからね。裏取り取材も、この辺にいる非番の兵士たちから話を聞いてるだけですし』

 山野紀子が身を乗り出して言った。

「だからって、哲ちゃんが戦争の現場をレポートする必要は無いんだからね。今回の出張は、あくまで、真明教団の戦地での難民救済活動の取材って名目なんだから。変な気を起こすんじゃないわよ」

 永山哲也は笑いながら答えた。

『分かっています。許可された業務外で死んだら、保険も労災も下りないでしょうから。祥子と由紀を困らせることはしません』

 上野秀則が真顔で言った。

「保険と労災が下りても家族は困るだろうが。無茶はするなよ」

『はい。毎回、温かいご忠告をどうも』

 永山哲也のホログラフィー画像は、上野に手を振ってそう言った。

 春木陽香が精一杯に可愛い声を出した。

「永山先輩。えっと、栄養はちゃんと採るようにして下さい。――」

 山野紀子が笑いを堪えながら、こっそりと自分のウェアフォンの立体カメラのレンズを隣の春木に向けた。それを見た神作と上野も同じようにした。

 ホログラフィーの永山が四方を大袈裟にキョロキョロと見回しながら言った。

『おお、ハルハルだらけ。前後左右、四人とも全部ハルハルだ。ああ、元気だった? ああ、これ、使わせてもらってる』

 永山哲也のホログラフィー画像は、山野に向かって腕時計を見せた。山野紀子はウェアフォンのレンズを自分に向けて、永山に言った。

「この子、哲ちゃんが結婚して子供までいることを知らなかったんですって。あんたも罪な男ねえ」

『ゲッ、こっちのハルハルはノンさんか。あのですね、誤解の無いように言っておきますが、僕は隠してないですよ。普通に接していたんですけど』

 上野秀則もカメラを自分に向けながら言った。

「よーし、おまえが居ない間に、永山がハルハルをたぶらかしたって、言いふらしてやるか」

 ホログラフィー画像の永山哲也は困惑していた。

『ちょっと、ちょっと、人聞きの悪いことを言わないで下さいよ。ハルハルも、何か言えよ』

 春木陽香は先輩たちに向けて必死に手と首を振った。

「あ、違います。私が勝手に独身だと思い込んでいただけで……」

 神作真哉が悪ノリする。

「冗談だよ、永山。心配すんな。カミさんには黙っといてやるから」

『ちょっとキャップ、頼みますよ』

 山野紀子が話を戻した。

「ほら、馬鹿なことばかり話してないで、仕事の話」

 春木陽香は、もっと永山と話したかったが、仕事なので我慢した。

 神作真哉が真顔に戻って永山に尋ねる。

「で、高橋博士の家族が南米に入ったという情報が出てこないというのは聞いたが、その後、何か分かったのか」

『いいえ。ボコタの旧国際空港にまで足を運びましたが、入国した痕跡は無いですね』

 上野秀則が小さな目を丸くして言った。

「ボコタって、大陸の北部じゃねえか。大丈夫だったのか」

『ええ。太平洋上を船で移動しました。物資の運搬船が、海岸線からの短距離ミサイルの射程範囲外を周って、北部と南部の都市を往来していますから、それに乗せてもらって』

「そうか……難儀だったな」

『とにかく、空港の監視カメラの映像を簡易スキャンしてもらいましたけど、類似の人物は一人もヒットしませんでしたね。三日かけて過去十年分の全記録を調べてもらいましたが、何も出てきませんでした』

「他に空港はないの?」

 質問した山野の方を向いて、永山哲也のホログラフィーは頷いた。

『もちろん、カヤオとかイロとかにも生きている空港はあるみたいですが、ゲリラ軍の支配域ですしね。それに、南部のどの空港でも、アメリカ本土からの発着便はありませんから、可能性があるとすれば、北にあるボコタでしょうね』

 神作真哉が言った。

「陸路と海路は」

『まず、海は無いですね。物資の運搬船以外では、民間人を輸送する船は出ていませんから。南アフリカかニュージーランドでも経由すれば別ですけど。南部の港から上陸していれば、もうとっくに手掛かりが見つかっているはずです。東洋人の情報なら、結構、ピックアップしやすいですからね』

 神作真哉は永山の立体画像を指差して言った。

「だが、おまえみたいに物資運搬船に潜り込んで入国しているのかもしれんぞ」

『それならすぐに、情報が出てくると思うんですけどね。ここは今、かなり強力なブローカーが仕切っているみたいですから』

 上野秀則が険しい顔をして言った。

「マフィアか」

『ええ。ゲリラ軍の基になった連中ですよ。その後、肥大したゲリラ軍から追い出された彼らは、各難民都市に流れてきていて、その町のダークサイドを仕切っています。彼らの情報網はかなり緻密なようですから、もし高橋博士の一家が船を使えば、その情報がまた金になる情報として出回るはずです。ですが、それが全く出てこない』

 神作真哉は言った。

「じゃあ、陸路か」

『メキシコ周辺は、戦争とは別に、もともと治安が悪いですからね。だから、記者連中もアメリカから来る場合は、空路でそこを飛び越えて来て、ボコタを利用するんです。そこからなら、アマゾン川流域の北部にある軍人街までも移動路が確保されていますからね』

 上野秀則がしかめて言った。

「そのボコタ空港を使っていないとすれば、まだ、アメリカ国内に居るってことか……」

 永山哲也は改めて周囲を見回して山野の位置を確認すると、彼女に顔を向け直してから言った。

『ノンさん。別府さんの方、どうでした。何か分かりましたか』

「あ、そうだった。ハルハル、別府君、来てた?」

「はい。なんか、アロハシャツを着て、パナマ帽を被っていましたけど。真っ黒に日焼けして。連休でミクロネシアに行ったとか……」

 神作真哉が舌打ちして言った。

「あの野郎。こっちは連休なんて無かったんだぞ。紀子も紀子だ。なんで会社の金であの馬鹿を行かせたんだよ。ハルハルでも行かせてやればよかったのに」

 春木陽香は何のことか分からず、首を傾げた。

 山野紀子は立ち上がると、神作と上野のソファーの間を通って上野の机の方に向かいながら、神作に答えた。

「だって、彼なら英語は話せないし取材も下手だから、司時空庁からも他社からも完全にノーマークでしょ。まず、重要な任務を任されるとは思われていない。だから、あえて彼に行かせたのよ。うえにょ、この電話、借りるわね」

 春木陽香は神作と山野が話している間、永山に話しかけた。

「だけど、お話を伺っていると、永山先輩、やっぱりすごく危ない所に居るんですね」

『まあね。でも、心配は要らないよ。こうやって、ニューサンティアゴのホテルに居る時は、ガラナとかチリビールを飲んで寛ぐことも出来るくらいだから。ほら』

 永山哲也の姿が一瞬下に消え、再び現われた。その手には種類の違う二本の瓶が握られていた。それを見て上野が言った。

「おまえな。飲みながら仕事の報告すんなよ」

『まだ飲んでませんよ。これが終わったら、一杯やりますけど』

 上野の机の横で、受話器を耳に当てた山野が言った。

「そう、分かった。あ、会社からは、別府君の分の出張旅費しか出せないからね。そのつもりで。それじゃ」

 山野紀子は電話を切った。

「やっぱり、ミクロネシアまで船で移動したという話は、本当みたいね」

 席に戻ってくる途中でそう言った山野紀子に、神作真哉が尋ねた。

「ロスの港での目撃情報か。キリバスの人工島行きの船に乗っていたという」

「ええ。別府君が集めた情報では、現地のタクシー運転手が、アメリカから来た日本人の親子連れの顔を覚えていたって。ランダムに十数枚の顔写真を見せて、その中から高橋博士の奥さんと子供たちの写真を選び出したそうよ。その話、信用できるわね」

 上野秀則が尋ねた。

「どこまで乗せたんだ」

「乗せたのは、空港までだって」

 神作真哉が言った。

「空港? そこから飛行機で、またどこかに移動したのか」

 上野秀則は再び尋ねた。

「ていうか、保険なしで飛行機に乗れるのか? 日本で加入していた旅行保険はアメリカの支店で解約したんだろ。その後も新規加入した形跡は無いと」

「船だって同じよ。保険なしでは、普通は乗せてくれない。何か裏の手を使ったのね」

 そう山野が言った後、春木陽香が尋ねた。

「つまり、足取りを探られたくないということですか」

「そうね。マスコミから逃れるためか、あるいは……」

 神作真哉が言った。

「何者かに命を狙われているということかもな」

 上野秀則は神作の顔を見て言った。

「そのままアメリカに帰ったなんてことは無いはずだよな。第三国に向かったか……」

「あそこの空港からは、アメリカ本土以外にも世界中に飛行機が出ているそうよ」

 そう言った山野の後で、ホログラフィーの永山哲也が言った。

『じゃあ、とにかく高橋博士の家族はアメリカからは出ているんですね。そして、ミクロネシアから第三国に移動したということでしょうか』

 山野紀子が頷いて答えた。

「そうみたいね。でも、この話が本当なら、あの三人がどこに行ったか、もう分からないわね」

 神作真哉が椅子から身を起こして言った。

「そうなると、後は二つか。永山、例のタイムマシンを作ったとかいう謎の科学者の話、何か掴めたか」

『ええ。たしかに、こっちの現地人の間では、そういった噂話があります。ただ、どれも都市伝説の域を出ないものばかりで。明日、こっちの日系人の集まりに出てみようと思っています。彼らなら、何か知っているかもしれません』

 神作真哉は顎を触りながら言った。

「そうか。じゃあ、残りはこっちだな。ハルハル、何か田爪健三の身辺で新しく分かったことはあるか」

 すると、ホログラフィーの永山哲也が春木の方を一瞥してから言った。

『いや、キャップ。もうハルハルは新日風潮の記者ですから、僕らと違ってゴールデン・ウィークだったはずでしょう。休みの日くらい、休んでいて当然じゃないですか。しかも新人だから、労組の方でメーデーの集会とかに引っ張り出されたんじゃないですか。忙しかったはずですよ。そんな意地悪な質問をしなくても……』

 神作真哉は鼻先で春木を指してから言った。

「こいつ、連休もほとんど出社して、タイムマシン関係の記事を読み込んでいたんだ。心配しているのは、こっちだよ。おまえからも、少しは休むように言ってくれ」

 永山哲也は優しい口調で春木に言った。

『そうなんだ。駄目だよ、ハルハル。休養も取らなきゃ』

 春木陽香はホログラフィーの永山に御辞儀して言った。

「ありがとうございます。でも、永山先輩も頑張っているので、私も……」

 休養など要るはずもなかった。今の永山の一言で春木陽香は元気百倍だった。

 山野紀子は春木を見て困った顔をしていた。それを見た神作真哉がホログラフィーの永山を指差しながら、春木に言った。

「こいつ、ビールを飲みながら仕事してるんだぞ。そんな先輩に義理立てすることはないだろ。ハルハルも少し休め。な」

『だから、まだ飲んでませんって』

 春木陽香は更に張り切って答えた。

「私の方で分かったことは、田爪健三博士には妻の瑠香るかさんがいて、その人も科学者だったということです。それから、瑠香さんは、ストンスロプ社の会長の娘だということも分かりました」

 山野紀子が腕組みをしながら言った。

「それは知ってるけど、彼女、科学者だったの?」

「はい。大学では物理分野を専攻していて、専門は量子物理学の応用理論。学位は修士号まで取得しています。司時空庁がまだ実験管理局だった頃に、そこに中級研究員として勤務していて、上級研究員だった田爪博士の助手を務めていました。その後、二人は結婚して、瑠香さんは管理局を退職したそうです」

「子供は?」

 山野紀子の問いに、春木陽香は急に小声になった。

「すみません。そこまでは……」

 そして顔を上げて言った。

「でも、彼女と田爪博士の子供のことに触れている記事は、一切ありませんでした」

 上野秀則が神作の顔を見て言った。

「あの論文を書くとしたら、ドンピシャの人物像だな」

 神作真哉が首を傾げながら言った。

「だが、そうだとしたら、田爪博士が姿を現さないのは、変じゃないか。やっぱり、死んでいるのか」

 山野紀子が言った。

「その田爪瑠香さんが、例の上申書に添付された論文を書いたのであれば、いくら科学者だったとはいっても、その内容が科学的に支離滅裂である可能性があるわよね。死んだ自分の夫の恨みというか、名誉を回復するという思いが強過ぎて、あんな長い論文を書いてしつこく司時空庁に送り続けた。あの論文に書かれていた『田爪健三博士に捧ぐ』って、結局、夫に捧げる鎮魂論文ってことじゃないかしら」

 上野秀則が天井を見上げながら言った。

「鎮魂論文かあ。だとすると、話が変わってくるなあ」

 神作真哉は納得が行かない顔で山野に言った。

「専門家が読んでみて、内容がまともじゃなかったから相手にされなかったというのか」

「その可能性もあるじゃない」

 春木陽香が言った。

「科警研の技官さんの読み込みで、はっきりするんじゃないでしょうか」

 神作真哉は答えた。

「ああ。だけど、まだ読み終わっていないだろう。あの論文の精査と内容の検討には時間が掛かるぞ、きっと」

 永山哲也が地球の反対側から意見を述べた。

『そんなに時間は掛けられないですよね。もし、ドクターTの論文の内容が正しければ、司時空庁は事実の隠蔽に取り掛かるはずですから。きっと我々にも何かしてきますよ。こっちはその前に、記事を書けるだけの証拠を集めておかないと』

 神作真哉は永山に言った。

「そうだな。それに、たぶんあの論文は間違ってねえぞ。その証拠に、さっそく圧力を掛けてきやがったからな。なあ、うえにょ」

 神作真哉は腕組みをしたまま、上野の方に視線を向けた。

 山野紀子が尋ねた。

「何かあったの?」

 上野秀則が説明する。

「連休中にな、黒木編集局長から呼び出されたよ。神作と永山に別事件を当てろって。本社からのお達しらしい。業務遂行分析によれば、社会部の記事の仕上がりが遅いんだと」

 山野紀子は憤慨した。

「夕刊にも朝刊にも穴は開けてはいないでしょ。記事の原稿データだって、真ちゃんたちの班は、大抵は締め切り時刻までには出しているじゃない。どうしてよ」

 上野秀則は両肩を上げて、呆れ顔で説明を続けた。

「人員不足が社会部のスピードと記事の質を落としているんじゃないかって言うんだよ。人手が足りていないはずだって。だから、神作に別の班の記事を手伝わせろだと。なのに、海外に行っている永山に帰国命令を出そうとはしない訳だ。おかしいだろ」

 山野紀子は神作を見て言った。

「津田が手を回したのかしら」

 神作真哉は頷いた。

「たぶんな」

 上野秀則は山野を指差して言った。

「山野の所にも、きっと何かを言ってくるぞ。気をつけとけよ」

 一度春木と顔を見合わせた山野紀子は、再び神作の顔を見た。

「で、どうするのよ、真ちゃん」

 神作真哉はソファーに倒れると、頭の後ろで両手を組んで言った。

「そうだなあ、どうするかな。とりあえず……」

 神作真哉が急に大きな声を出した。

「ドウスル五」

 すぐに山野紀子も叫んだ。

「ドウスル四!」

 ホログラフィー画像の永山も言った。

「三!」

 上野秀則と春木陽香は何が起こったのか分からず、キョロキョロしていた。

 山野紀子が春木を急かした。

「ハルハル、早く」

「――え、ええ?」

 危険を察した上野秀則が叫んだ。

「何だか分からんが、ドウスル二!」

 春木陽香もとりあえず言ってみた。

「ど、どうする……いち……で、いいんですか」

「なんだよ、これ」

 上野の問いに山野紀子が答えた。

「子供の頃、やらなかった? 何人かで集まって遊ぶ時とか、これから何するか方針が決まらない時に、後ろから順に番号を言っていくの。で、前から番号順に案を言っていく。言えなかったら、しっぺ」

「しっぺ?」

 そう春木陽香が聞き返すと、神作真哉は人差し指と中指を揃えて立てた手を、音が鳴るほどのスピードで上から下へ振り下ろして見せた。それは枝を落とす大ナタのようであった。焦点が飛んだ春木陽香は、笑顔のまま米噛みに汗を流した。神作キャップが素振りして見せたのは、手の甲とか手首などにパチンとするアレだ。神作キャップの長身から振り下ろされる「しっぺ」は強烈であるに違いない。昔、祖母から食らった「アックス・ボンバー」よりも痛いはずだ。ていうか、ホログラフィーの永山先輩がどうして参加しているのか。先輩には「しっぺ」できないでしょうが……などと春木陽香は色々と考えて混乱していた。そこへ、山野の声が飛んできた。

「はい、じゃあ一番のハルハル、どうする?」

「はあ……」

 マズイ、これは何か言っておかねば。

 そう思った春木陽香は、思いついたことをそのまま言った。

「ええと、とりあえず私は田爪瑠香さんの現住所を探してみます」

 神作真哉は頷いて言った。

「それ、採用。次、うえにょ」

 力強く「しっぺ」の素振りをしている神作を見ながら、春木陽香は胸を撫で下ろした。

 上野秀則は考えながら慎重に答えた。

「あ、んー、そうだなあ、俺はだなあ……」

「はい、不採用。後でしっぺね。次、哲ちゃん」

 すぐにそう言った山野を指差して、上野秀則は必死に訴えた。

「まだ、何にも言ってないぞ」

 ホログラフィーの永山哲也が言った。

『僕はこっちで、このまま、タイムマシンの製造の噂を追ってみます。都市伝説とは言っても、火の無い所に煙は立たないでしょうから』

 神作真哉は、永山が話し終えると同時に言った。

「採用だ。じゃあ、四番さん」

 山野紀子が提案した。

「NNJ社について、少し調べてみようと思うの。どうして、あの会社が司時空庁に介入したがるのか。高橋博士の家族の転居にも絡んでいるし、どうも、この件と何か関係があると思わない?」

 神作真哉はあまり聞いていなかったようで、上の空の様子で頷いた。

「ああ…うん。そうだな。採用だ」

 その後、暫らく間が開いたので、春木陽香は訊いてみた。

「あれ。神作キャップは、どうするんですか」

 神作真哉はまたソファーにもたれると、頭の後ろで手を組んで投げやりな感じで言った。

「俺は暫く通常業務でもやるかあ。このままじゃ、うえにょにも、シゲさんや千佳ちゃんたちにも迷惑がかかりそうだからな。うちの人事規定だと、キャップ以下の立場の兵隊は、全国転勤は当たり前だし、しかも出向もアリだから、たぶん、地方局の販売あたりに回されるかもしれん。ま、その時は、外部からでも協力させてもらうさ」

「真ちゃん……」

 山野紀子は心配そうな顔で神作を見た。彼女が心配しているのは、司時空庁の津田幹雄が新日の上層部に圧力をかけて、神作が転勤になったり、系列会社に出向になるよう仕向けるかもしれないということではなかった。そのようなことは、神作真哉という男は覚悟している。そして、そのような理不尽と戦うのが神作真哉であるし、実際にこれまでもそうしてきた。しかし、今回の神作真哉は違った。販売に回されるだの、外部から協力するなどとは、これまでの神作からは聞いたことがなかった。神作真哉は弱気になっているようだった。そしてそれは、この前のタイムマシンの発射で五人の命が安否不明となったことで、それを阻止できなかった神作真哉が記者としての自信を失っている証拠でもあった。山野紀子は、その点を心配していた。

 すると上野秀則が口を尖らせて言った。

「おいおい、俺を飛ばしているぞ。まだ、なーんにも言ってないですけどね」

 山野紀子は少し苛立った調子で怒鳴った。

「うるさい。あんたがボーっとしてるから、真ちゃんが左遷されそうになっちゃったじゃない。どうすんのよ」

 上野秀則は少し胸を張って言った。

「じゃ、ドウスル二だ。神作真哉キャップ、それから、南米の永山哲也記者、俺の次長権限で君ら二人を『司時空庁情報隠蔽疑惑記事の特任取材チーム』の配置とする。神作、おまえがそこの臨時デスクだ。社会部のチームのキャップと兼任しろ。永山は、とりあえずデスク代理」

「うえにょ……」

 神作真哉は少し驚いた顔で上野を見ていた。

 神作の一言にいつもどおり反応した上野秀則は、神作を指差して言った。

「上野デスクだ。少しは俺にもデスクらしい仕事をさせろ。それに、臨時でもデスクはデスクだからな。神作、これでおまえの転勤も出向も無しだ。ウチの人事規定では、デスク以上は本社勤務となっているからな。社会部のおまえらの穴は、『動物』と『芸能』の各部屋から一人ずつ応援を借りてくるよ。社会部に来たがっている奴、けっこう多いからな」

「うえにょデスク……」

 そう呟いた春木を指差して、上野秀則は言った。

「だから、上野だっつうの」

 そして神作と山野の顔を見て言った。

「とにかく、これで正々堂々と動けるだろ。どうだ、不満か?」

「……」

 神作真哉と山野紀子は顔を見合わせた。二人同時に両眉を上げる。

 神作真哉はソファーから立ち上がり、伸びをしながらドアの方に歩いて行った。

「いやあ、これで俺も、ようやくデスクかあ。少しはデカイつらが出来るな。よかった、よかった」

 山野紀子も立ち上がり、春木の肩を叩いて言った。

「そうと決まれば、仕事、仕事と。ほら、ハルハル、行くわよ」

 彼女はスタスタと歩いていく。春木陽香は山野の背中と上野の顔を交互に見ながらその後を追った。

 神作真哉と山野紀子、春木陽香は部屋から出て行った。少し暗いままの部屋に一人だけ残った上野秀則は、ソファーに座って腕組みをしたまま何度も頷いて呟いた。

「なるほど、そうか、おまえら、俺の英断も無視か。――」

 パソコンのスピーカーから音がする。

『ぷしゅっ』

「プシュじゃないだろ! なにビール開けてんだ、永山あ! こらっ、通信を切るなあ」

 丸テーブルの上の立体パソコンに怒鳴りつけている上野秀則に、ドアを開けて顔だけを出した神作真哉が一言だけ発した。

「上野、サンキューな」

 立ち上がった上野秀則は、ドアの方を指差して怒鳴った。

「だから、うえにょだ! ……しまった」

 神作の姿はもう無かった。ホッとした上野秀則が疲れたようにソファーに腰を降ろすと、ドアの所から今度は春木陽香が顔を出して、言った。

「聞こえましたよ。うえにょデスク」

 上野秀則は必死に手を振りながら言った。

「間違いだ、間違い。俺は『上野』だ。うー、えー、の」

 春木陽香は一言だけ彼に贈った。

「かっこよかったです」

 上野秀則は照れを隠して、わざと春木に怒鳴りつけた。

「いいから早く自分の会社に戻れ、ハルハル!」

 春木陽香はニヤニヤしながら、次長室のドアをそっと閉めた。



                  4

 上層階の新日ネット新聞社フロアからエレベーターが下りていく。エレベーターに乗っているのは春木陽香と山野紀子だけだった。二人は会話を交わすことなく黙っている。

 山野紀子は変化するデジタル表示の数字を見つめながら、今後の編集計画について検討していた。司時空庁の隠蔽事実については、まずは週刊誌の記事掲載から切り離して取材するべきか、連載記事としてある程度の人数の記者を確保するべきか。これ以上、春木に無理はさせられない。別府やライトも、週刊号の取材と兼務させ続けるのは負担が大き過ぎる。個人的には専属で集中的に取り組みたいし、春木たちにもそうさせてやりたい。しかし、客観的に考えれば、その記事内容は「週刊新日風潮」の売上げ部数を大きく伸ばすものではない。しかも、上野の話では、外部からの圧力が予想されるという状況だ。山野紀子は希望する取材体制について新日風潮社の上層部が納得しないだろうと懸念していた。一方、山野の少し後ろに立っていた春木陽香は、上を見上げたり、下を見たり、山野の後姿に目を遣ったりしながら、何か嬉しそうだった。

 暫らくすると、春木陽香がニコニコしながら山野に言った。

「うえにょデスクって、いい人ですね」

 山野紀子は振り向かずに前を見たまま応えた。

「そうねえ、ハルハルに掛かれば、みんな『いい人』かもね」

「悪い人なんですか」

「そうは言ってないけど……」

 エレベーターのドアが開いた。新日風潮社編集室があるフロアである。エレベーターが三機ずつ向かい合わせに並んでいる廊下の端のホールには、突き当たりにはめ込まれたガラスの大窓から強い日光が射し込んでいた。

 眩しそうに目を細めてエレベーターから出てきた山野紀子は、広い廊下へと移動しながら、後ろを付いてくる春木に言った。

「ま、あいつは悪人ではないわね。でも、善人かどうかは分からない。しんちゃんと哲ちゃんを残して、社会部として取り掛かったこの件を何としても記事にしないと、自分の首が飛ぶと思ったのかもしれないわよ。真ちゃんが処分されたら、管理責任を問われるのは、うえにょだから。早めに火を消しとかないとヤバくなるって考えたんじゃない?」

 広い廊下の中央を歩いていた山野紀子は、壁に取り付けられた火災時用の緊急箱を指差した。春木陽香が通りすがりにその箱を見ると、火災報知機の下のガラスの蓋の向こうに、赤い鉄斧が固定されていた。その下には消火器が格納されている。

 春木陽香は立ち止まって少し考えると、頷きながら呟いた。

「――なるほど」

 春木陽香は先に歩いていく山野を追いかけた。春木が横に歩いてくると、山野紀子は言った。

「でも、そうならないように、真ちゃんは、わざとうえにょを無視して私たちに指示を出しているのかも」

「うえにょデスクが管理責任を問われないように、ですか」

 廊下の中ほどにあるドアの横で、首に提げた社員証を電子ロック装置に翳しながら、山野紀子は答えた。

「そうね。うえにょも、それが分かっているから、ちょっと頑張ってみたんでしょ」

 ドアを開けた山野紀子は、新日風潮の編集室に続く細い廊下に入る前に、こう言った。

「ま、あの二人、向いてる方向が同じなのよ。って言うの」

 山野紀子は一瞬だけ両肩を上げると、壁際にダンボールが積み上げられている狭い廊下を奥へと歩いていった。

……ですか……」

 山野に続いて細い廊下に入った春木陽香は、思い回しながら山野の後ろを歩いた。

 その細い廊下を抜けて編集室内に入ると、記者は別府しか残っていなかった。皆、連休でたまった取材に出払っている。

 室長席に戻ってきた山野に別府博が半泣きの顔で言った。

「編集長、マジですか、僕の分の出張旅費しか出ないって。この前の冬のボーナス分を全部使っちゃったんですよ」

 山野紀子は自分のハイバックの椅子に腰を降ろしながら言った。

「仕事なのに家族分まで出せる訳ないでしょ。でも、心配しなくても、ちゃんと『出張』の扱いになってるから、その分、余計に日給も出るわよ。半日勤務で計算されるだろうけど、休日出勤だから割高で算出されるんじゃないかな。それで賄うしかないわね」

 別府博は落胆した顔で山野に言った。

「そんなあ。安心して、めちゃくちゃお金を使っちゃいましたよ。子供たちと遊覧ボートに乗ったり、妻はエステを頼んだり。ファイヤーショーも見たんですよ。せめて土産代くらい必要経費で落ちないですかね」

 山野紀子はパソコンを操作しながら答えた。

「知らん。取材にエステもファイヤーショーも必要ない」

「そんなあ……」

 困惑した顔で別府博は嘆いた。

 机の上に載せてある箱に気付いた山野紀子は、それを持ち上げながら言った。

「でも、このお土産は、ありがと。別府君の気持ちだと思って、ありがたく頂戴しとく。いっただっきまーす」

 山野紀子は箱の包み紙を破り始めた。別府博はふて腐れた顔で言う。

「どーぞ、どーぞ。召し上がって下さい」

 春木陽香は腰を降ろしたばかりの椅子から再び立ち上がると、急いで給湯室にお茶を入れに行った。

 春木の背中を一瞥した山野紀子は、箱の蓋を外しながら別府に尋ねる。

「あ、そうだ。別府君、連休前の特別号の売り上げ、どうだった? 伸びてた?」

「ええ、もちろん。前年度平均の一割増し、先月平均の約二割増しです。やっぱ『堤シノブ効果』ですね」

 蓋を持ったまま天井を見上げて、山野紀子は言った。

「二割かあ、弱いわね。元アイドルの清純派女優だから、もう少し行くと思ったんだけどなあ。明日の連休明け特別号にも載せるのよね。もう一度ゲラを見れる?」

「ええ。編集長のパソコンに送ってあります。印刷所には行ってますから、あとは編集長のゴーサイン待ちです」

 蓋を横に置いた山野紀子は、机の上の立体画像アイコンを指先で触って操作した。

「どれどれ……」

 山野の机の上に、勇一松が撮影したヌード・グラビア写真が宙に浮いて並んだ。椅子の背もたれに倒れた山野紀子は、そのグラビアのホログラフィー画像を見ながら、腕組みをして首を傾げた。

「うーん、五割増しくらいは欲しいのよねえ。そうじゃないと、製作局長を説得できないもんねえ」

「何の説得をされるんですか」

 お茶が注がれた「トゲトゲ湯飲み」を山野の机に置きながら、春木陽香が尋ねた。

 山野紀子は答えた。

「うん、今月末あたりにもう一本、堤シノブでいけないかなあって。アンコール企画ってことで」

「また、ヌード写真ですか」

 春木陽香は顔を曇らせた。山野紀子はあっけらかんとして答える。

「そ。だってこれ、写真を載せるだけだから、楽じゃない。その分、こっちの手が空く。だから、今月末あたりに巻頭で十ページ、そのうち七ページは袋とじってのが、ベストなんだけどなあ。それには、売り上げがねえ……。堤シノブ効果が、もっとはっきりと出てないと、局長も納得しないでしょ」

「はあ……」

 春木陽香は山野の説明を聞きながら、別府の机の上にも湯気を立てた湯飲みを置いた。

 山野紀子がボソリと呟く。

「いっそ、今週の特別号はモザイク無しで行くかあ」

 それを耳にして、春木陽香は思わず湯飲みを倒した。

「アチッ、あっつい、熱い」

 別府博が椅子から飛び上がる。

「すみません!」

 春木陽香は慌てて別府の机の上に置いてあった「台拭き」らしき物を手に取ると、それで彼のズボンを拭いた。別府博が更に慌てて叫んだ。

「ああ! それ、一階ロビーの受付の子たちに渡すお土産のハンカチ」

「ええ! すみません。すみません!」

 春木陽香は、その「台拭き」にしか見えないハンカチを別府の机の上に戻すと、彼に何度も頭を下げた。すると、電話のベルが鳴った。ほぼ同時に山野紀子が呟いた。

「でもねえ、それじゃあ、ただのエロ本だもんね。やめとくかあ」

「当たり前でしょ」

 そう反論した別府博は、山野に怒鳴られる前に電話に出た。

 山野紀子はパソコンの上のヌード・グラビアのホログラフィー画像を消すと、一度手を叩いて言った。

「よし。とにかく、ゲラはこれでオーケーっと。後は、隅の方に予告文をつけるわよ。堤シノブの立体ヌード画像のパスワード付写真を近日掲載のって。夢が叶うかどうかは本誌の売り上げ次第だって正直に書いて。そしたら、彼女のファンが一人三冊くらい買ってくれるかも」

 自分の席についた春木陽香は、不安そうな顔を山野に向けた。

「でも、製作局長の許可無く勝手なことはしない方が……。怒られるんじゃないですか」

「既成事実を作るのよ。それしかない」

 そう片笑んで答えた山野紀子は、腕時計を覗くと、春木に手を振った。

「ほら、仕事、仕事。別府君も、いつまでも連休ボケしてたら駄目よ。明日も『特別号その二』の発刊日なんだから」

 子機の通話終了ボタンを押した別府博は、山野に言った。

「はいはい。でも、さっそく製作局長が編集長をお呼びですよ」

 山野紀子は椅子から立ち上がって言った。

「ほーら来た。そろそろだと思ってたのよね。ハルハル、私が戻るまでに田爪瑠香の足取り調査、さっさと始めなさいよ」

「あ、はい。分かりました。……」

 春木陽香は局長室へと向かう山野の背中をじっと見つめていた。山野が予見していた編集局長からの呼び出しは、おそらく司時空庁の件に関するものだろう。司時空庁から新日風潮社の上層部にも圧力がかかったに違いない。春木陽香はそう考え、山野のことを案じていた。

 編集室で別府と二人きりになった春木陽香は、椅子を回して後ろの席の別府に言った。

「別府先輩……」

「ん、なに」

 椅子を回してこちらを向いた別府に春木陽香は尋ねた。

「心のベクトルって、何ですか」

「ベクトル? 物理とか数学で出てきたアレでしょ。力の向きがあっちだとか、こっちだとか。傾きがどうとか、こうとか」

「そうじゃなくて、ベクトルです。編集長が、神作キャップとうえにょデスクは『心のベクトル』が同じだって」

「ああ……考えていることが同じってことでしょ。同じ方向を向いているとか。新聞社の内部のことはあまり知らないけど、たしか、あの二人は同期だから。上野さんは、前は東京本社の政治部で編集長の先輩記者だったんだ。あ、そうか。ハルハルが上に居た頃も、上野さんは政治部で取材キャップしてたんだよね」

「ええ。よく、神作キャップと喧嘩してました」

「だろ。でも、何かあったんだろうね。結局、上野さんが社会部のデスクのポストに就いた。噂では、神作さんが譲ったらしいけどね」

 春木陽香は少し考えた後、再度別府に尋ねた。

「どうして、神作キャップはデスクのポストを譲ったんでしょう。同期なら、出世のライバルですよね」

「ま、なんて言うのかな、男の友情って奴? ハルハルには分からないだろうなあ」

 春木陽香は少しムッとした顔で言った。

「女にだって友情はあります」

「怒るなよ。でも、まあ、何か同じ目的があって、妥協し合ったんじゃないの? 神作さんも上野さんも、結局は現場の記者だから、そういう意味では仲間だしね。競って互いの足を引っ張り合っていたら、出来ないこともあるでしょ。でも、同じ方向を向いて、同じ目的に向かって走っているから、ライバルでもある。うーん、かあ、なかなか深いなあ。それ、いただき」

 別府博は春木を指差した後、椅子を回して自分のパソコンに向かった。

「同じ方向、ですか……」

 自分の机の方を向いた春木陽香は、パソコンに手を載せたまま暫らく考えていた。

 やがて、ふと顔を上げた彼女は、机の下の一番大きな引き出しに手を掛ける。中を覗いて少し考えると、その引き出しを閉め、足下に置いていた黒い革の鞄を膝の上に載せた。机の上の立体パソコンをその鞄に押し入れた彼女は、慌ただしく出かける準備を始める。準備が終わると、一度深く頷いてから立ち上がった。春物の少し厚手の上着の裾や中のブラウスの襟を整えた春木陽香は、鞄からベルトを出してそれを肩に掛ける。

 背後での春木の様子に気づき、再び椅子を回した別府博が彼女に尋ねた。

「あれ、どこ行くの」

 春木陽香は細い廊下の方へと駆けていく。

「私、ちょっと出かけてきます。調べたいことがあるので」

 厚手のジャケット姿の新人記者は何かに急きたてられるように編集室から出て行った。



                 5

 文字盤の上にホログラフィーで浮かべられた針が時刻を表示している。音もなく動く秒針は時の流れを感じさせないまま、ただ情報としての「時刻」とその変化を伝えるだけである。その無音の時計の下には窓がある。そして、少し背を曲げた人影があった。

 タキシード姿の年老いた男が杖にもたれて立ったまま窓から景色を眺めていた。海原の向こうには青い空が立ち上がり、手前では岸壁からその窓の下までの斜面を丸い葉の緑が埋めている。その部屋の中は薄暗く、静かだった。ロダンの彫刻やモネ、ピカソといった歴史的絵画が飾れたその部屋は、床に靴の踵が埋まるほどに毛足の長い絨毯が敷かれ、天井には豪華なシャンデリアが吊られている。そのシャンデリアの下に、ブランド物のスーツに身を包んだ金髪の西洋人女性と、詰襟の服を着た背の高い東洋人女性、光沢のある派手な背広を着た中年の東洋人男性が立っていた。

 窓の前の老人は杖先で強く床を突くと、三人に背を向けたまま言った。

「もうよい。さがれ。愚か者どもが!」

 三人は老人の背中に向けて、ほぼ同時に頭を下げると、それぞれ恐縮した顔でその場を去ろうとする。老人は杖に体重を掛けたまま、言った。

「待て」

 三人は足を止め、再び老人の方を向いた。老人は振り返り、部屋の中央にゆっくりと歩きながら言う。

「やはり、あの方の言われた通りじゃ。今後の日本での対応は、あの方の言われる通りに進めるのじゃぞ。よいな」

 三人は再び頭を垂れた。老人は杖を振り上げると、一番端の派手なスーツの男の肩に強く振り下ろした。男は腰を折った状態で、痛みに顔を歪めている。

 男の肩に杖を載せたまま、老人は言う。

「奴の監視も怠ってはならぬ。よいな」

 男は声を震わせた。

「か、かしこまりました」

 杖を降ろした老人は言った。

「行け」

 三人は視線を下げたまま、部屋から出て行った。

 ドアが閉まると、老人は大きな裸婦像を一瞥した。

「居たのか」

 女性の裸体の彫刻の後ろから白い革靴が絨毯に踏み出す。白いズボンに白いジャケットのその男は、胸のポケットに紫のチーフを挿している。男の片方の目の上には大きな刀傷があった。隻眼の男は手に持った青い花の匂いを嗅ぎながら言った。

「まあ、品定めは必要ですから」

 老人は言った。

「まだ手は出すな。何も動いてはならぬ。計画通りに進めるのじゃ。計画通りに」

 刀傷の男は口角を上げた。

「分かりました。ですが、閣下もそういう御意向で?」

 老人は杖で床を強く突いた。

「ワシの意見が、あのお方の意見じゃ。忘れるな!」

 男はニヤけた顔をして言う。

「了解です」

 そして、片方だけの目を部屋の奥のドアに向けた。

「おっと、噂をすれば、ですな。では、私はこれで」

 刀傷の男は前の三人が出ていったドアの前で振り向き、軽く手を振ってから退室した。

 男がドアを閉めると、その対角の位置のドアが開き、上半身を前に突き出した背広姿の老人が杖を突いて歩いてきた。その老人はメイドに支えられながら部屋の中央まで小さな歩幅で歩いてくると、執事の男が置いた椅子に腰を降ろした。メイドと執事に退室するよう手で合図をした彼は、膝の間に立てた杖の上に両手と顎を乗せて、擦れた声で言った。

「どうじゃ。計画通りか」

 その老人の前に杖をついて立っているタキシード姿の老人は頷く。

「ええ。計画通りです」

 背広姿の老人は満足そうに瞬きしながら言った。

「よし、よし。順調じゃ。それでいい。それでいい」

 彼は鋭い視線をタキシードの老人に向ける。

「じゃが、まだ残っておるの。全てを計画通り進めなければならん。分かるな」

 タキシードの老人は片笑んで言った。

「もちろん、そのつもりです」

 背広の老人は頷いた。

「では、行くのじゃ。準備は出来ておる」

 タキシードの老人は言った。

「では、行って参ります」

「うむ。よろしく頼むぞ」

「ご心配なく」

「心配はしておらん。する訳がない。我々はを知っておる。その同じを同じ方向に共に歩んできた我々じゃ。何もたがうはずがあるまい」

 タキシード姿の老人は口角を上げて頷くと、杖を突きながら、背広の老人が出てきたドアの方へと向かった。彼が退室すると、椅子の上の背広の老人はニヤリと笑う。

「計画通りじゃ。計画通り」

 広い部屋の中に一人残った老人は、静かにそう呟いた。



                 6

 快晴の空。太陽に熱せられたアスファルトが空気を揺らす。視界の先には、綺麗に舗装された広い幅の坂道が遠くまで続いている。坂の終わりが微かに見えてはいるが、どうせまた、そこから反転して次の坂道が続くに違いなかった。九十九折つづらおりの角を何度曲がっても道の終わりは見えてこない。その坂道を徒歩で上っていた春木陽香は、独り言を発しながら、重くなった足を一歩ずつ前に出している。

「ひい。ふう。――暦の上では春とはいえ……こりゃ……まるで夏ですな……ひい、ふう、ひい、ふう……」

 立ち止まり、ハンカチで額と首の汗を拭きとった彼女は、重い鞄を肩に掛け直して再び坂を上り始めた。


 五月の太陽が高い角度から彼女を照らす。

 

 随分と長い時間その坂道を上り続けた春木陽香は、また立ち止まり横を向いた。道路脇の林の隙間から新首都の街が見える。遠くに小さく見える高層ビル街の中に新日ネット新聞社ビルを見つけた。その手前のAB〇一八がある巨大な施設は、ここから近くに建っているかのように感じられた。その前にはかおる区の高級住宅街が広がっている。

 暫らく景色を眺めていた春木陽香は、再び進行方向に視線を戻した。黒光りした路面が蜿蜒えんえんと続いている。彼女は汗で濡れたブラウスの襟を指先で摘まんで引っ張り、ハンカチで首元を拭いた。そのハンカチで紅潮した顔を扇ぎながら、また独り言を発する。

「と、遠いなあ。疲れた。しかも、今日、暑いし。少し寒くなるって、昨日の天気予報で言ってたのになあ。はあ……」

 項垂れた春木陽香は、顔を上げ、先を見つめる。

「それにしても、まだ上まであるのかなあ。門の表札には確かに『光絵』って書いてあったけど、本当にここなんだよね。こんなに上の方に建てなくてもいいのに……。ああ、どこまで続くんだろ、この坂……」

 肩を落として項垂れ、下を向く。

 長く深く息を吐いた春木陽香は、顔上げると、「よし」と掛け声を発した。頑張って右足を一歩前に出すと、気力で左足を前に出し、次に右足、左足と、彼女は一歩ずつ前に、また歩き始めた。

 熱に揺らめく坂道を必死に歩く小柄な女を、太陽は容赦なく真上から照らし続ける。

 春木陽香がふら付く足取りでようやく坂を上り切った頃には、太陽は頂点から少し下りかけていた。やっと水平な土地に立った彼女の少し厚手のジャケットと長袖のブラウスは汗でぐっしょりと濡れている。額から垂れた汗が目に入った。春木陽香はハンカチで額を拭い、目を擦る。

 彼女が目を開けると、前には明るい緑色に輝く柴が広がっていた。が、徐々に全体が白く霞んでくる。春木陽香は何度も瞬きして視界を確認した。奥に大きな建物と黒い小さな人影が見えた気がしたが、目が霞んで、よく見えない。

 春木陽香は虚ろな目で遠くを見つめながら、呂律の回らない口で言った。

「はあ、はあ……たぶん着いら、着いらぞ。頂上ら、ばんざーい、ばんらーい。はあ、はあ、はあ……」

 向こうの人影が少しはっきりしてきた。スーツを着た白髪の老人が、ホースで花壇に水を撒いているようだった。

 春木陽香はヨタヨタと前に出ると、手を伸ばした。

「あ、暑い……水……水……み……」

 足を踏ん張って姿勢を保った春木陽香は、頭を何度か振る。

「いかんいかん。これから取材ら。こんら所で倒れている場合れはない……場合れは……場合……」

 春木陽香はその場に倒れた。白く輝く芝が彼女を受け止める。

 よく手入れされた広大な庭園の隅で、ジャケット姿の若い記者は日に照らされたまま横たわっていた。

 近くの花壇の薔薇の葉が風に揺れ、いつまでも蕾を揺らしていた。



                 7

 ゆっくりと瞼を上げた。長いまつ毛の隙間から白一面と煌く光源が見えた。徐々に輪郭が明瞭になってくる。正方形に縁取られた升目が並ぶ白い天井、豪華なシャンデリア。

 涼しい。エアコンがよく効いている。額の上には冷たい物が乗せられていた。濡れたタオルだった。自分は横に寝かされている。そう自覚した春木陽香は、その体勢のまま視線だけを動かした。

 細い窓枠が丁寧に取り付けられた出窓が見える。その窓から柴の広場と自分が上ってきた坂道の終点、林の木々が見えている。広場の前には池があり、その周囲では薔薇が美しい花を咲かせていた。出窓の手前には重厚で豪華な木彫りの飾りが施された両袖の大きな書斎机があった。それが相当に高級な机であることは、その時の春木にも一目で分かった。書斎机の向こうには、出窓を背にして誰かが座っていた。春木陽香は目を凝らした。山野が座っているようなハイバックのパーソナルチェアーに洒落たスーツ姿の痩せた白髪の老女が腰掛けている。その老女は机の上に本物の書籍を広げ、凛とした姿勢でそれを読んでいた。

 視線に気づいた老女は、老眼鏡と額の間からこちらを覗くと、すぐにその眼鏡を外して言った。

「あら、お目覚めのようね」

 春木陽香は体を起こした。彼女はブロケード張りの豪華なカウチに寝かされていた。

「あの……」

 落ちたタオルを拾うのも忘れて、カウチに足を放り出して座ったまま、春木陽香は周囲を見回した。壁一面を本が埋めている。どうやら、ここは書斎のようだ。視線を部屋の奥に向ける。三人掛けの厚みのあるソファーが左右の壁の本棚をそれぞれ背にして向かい合わせに置かれていた。突き当りの壁には水墨で描かれたきじの大きな絵が掛けられている。

 本棚に目を戻すと、その下の方は人の腰くらいの高さで少しせり出していて、その棚の上に小さな額に飾られた写真が幾つか立てられていた。その一つには白いドレスの美しい女性が花束を持って写っている。フラッシュに眩しそうに目を細め、笑顔はない。その隣に立てられた写真には、その髪の長い女性と白髪の女性が一緒に笑顔で写っていた。その二人はよく似ていて、上品であった。

 他人の家でキョロキョロとするのは非礼であるとの祖母の教えを思い出し、春木陽香はその広い部屋の中を見回すのをやめた。

 春木陽香はカウチから両足を降ろして床に着いた。足の裏に心地よい柔らかな感触を覚える。彼女が下を見ると、足からは靴が脱がされていて、カウチの横に揃えて置かれていた。春木陽香は思わずまた自分の足下から部屋全体の床を見回し、そこに敷かれた毛並みの良い絨毯を観察した。広い書斎の床全体に合わせて仕立ててある一枚のペルシャ絨毯のようであった。彼女の拙い見立てによっても、その絨毯は最高級品に違いなかった。

 自分が居る場所に気付いた春木陽香は、急いで靴を履いた。慌てている彼女に、書斎机の向うから老女が穏やかな声で言った。

「軽い脱水症状だそうよ。気分はどう?」

 春木陽香は髪を整えながら答えた。

「えっと、あの……すみませんでした。ご迷惑をお掛けしました」

 春木陽香は平身低頭した。

 老女は本を閉じて言う。

「今、執事が冷たい飲み物を運んでくるわ。少しお待ちなさい」

「あ、いえ、そんな……」

 春木陽香は視界の隅に映った物に目を遣った。カウチの横の小さなテーブルには水滴をつけたガラス製のコップが銀製の盆の上に置かれている。その中には半分溶けた氷と少し溜まった水が残っており、ストローが差されていた。

 春木陽香は微かな記憶を辿った。白髪の老紳士に担がれてここに運ばれてきた後、白と黒に点滅しながら回転する天井を見ながら、口に当てられたストローから冷水を吸い上げてとにかく必死に飲んだことまでは何となく覚えていた。

 春木陽香が自分の鞄を探して辺りを見回していると、老女が部屋の奥を指差した。鞄は応接ソファーの上に置かれていた。春木陽香はカウチから立ち上がり、それを取りに行った。その途中、本棚に飾れたポートレートに再び目がいった。白いドレスを着た美しい女性。その女性の若い頃の写真も並んでいた。年齢は今の自分と同じくらいの頃だろうか。だが、自分とは何かが違う。この女性には貴賓があり、高い知性も感じられる。そして、その目を細めた顔は、どこか寂しげにも感じられた。

 春木陽香は、その写真の女性が、自分が探している女性であると直感的に悟った。

 ソファーの横で立ったまま背を丸めた春木陽香は、鞄の中を漁り、名刺入れを探した。突っ込んだ両手をゴソゴソと動かしながら、彼女は頭の中で事態を整理した。

 春木陽香は、田爪健三の妻・瑠香るかの行方を知ろうと、彼女の実家を訪ねてみることにした。田爪瑠香はストンスロプ社グループの会長・光絵由里子みつえゆりこの養女である。ストンスロプ社は日本が世界に誇るグローバル企業で、配下の研究開発会社GIESCOジエスコを中心に数々の技術革新を行ってきた巨大企業である。その進出分野は、自動車、ロボット、宇宙開発、建築、医療、軍事など多岐に渡っていた。日本経済を影で支える大企業体であるこのグループが国内で大きな権力を握っていることは周知の事実である。春木陽香はそのストンスロプ社グループのトップの自宅を訪ねようとしたのだった。

 会長の邸宅が建っているのはかおる区の中の菊永きくなが町である。薫区は新首都圏でも群を抜いた高級住宅が建ち並ぶ地区で、その中の菊永町は国内有数の資産家と権力者たちが豪邸を構えている町である。その町の面積の三分の一は新首都圏の北と西に広がっている下寿達山かずたちやまの峰々の麓の一画にあたる小さな山で占められていて、その小山の中腹から少し上の所に光絵邸は建っている。光絵邸の門は菊永町の高級住宅街を抜けた先の林の奥に建てられており、その門から山の上の邸宅までは舗装された私道を何キロも登らなければならなかった。つまり、その小山そのものが光絵邸の敷地なのである。通常の人間は門から車で上に進み、巨大な邸宅の前の広い庭を回って、正面玄関前のロータリーまで車で移動した。「通常の人間」と言っても、それは自分で車のハンドルを握ることなどは無い人々で、国家元首クラスかそれに相当する要人たちである。実際のところ国内でこの私邸を訪れることができるのは、現職の内閣総理大臣・辛島勇蔵からしまゆうぞうくらいのものであろう。その彼でさえも、光絵会長と面会する時は最大限の礼を尽くし、事前の予約とスケジュール調整を必要とするはずだった。それは巨大企業「ストンスロプ社」の会長・光絵由里子が女傑として知られ、それ程に恐れられている証である。巨大企業の頭首としてグループを統率する彼女は、その才知と胆力、そして冷徹さを広く知られていた。だから、彼女の家に事前の許可も無く足を踏み入れる人間など誰もいない。一介の週刊誌記者に過ぎない春木陽香が光絵邸に何の事前連絡も入れずに訪れても、光絵会長との面会が許されるはずが無いし、仮に事前の連絡をしても、面会の申し入れの時点で断られて当然であった。春木自身もそのことは十分に分かっていた。だが、彼女は何かに突き動かされるように新日風潮の編集室から飛び出して、光絵邸に向かったのだった。

 春木陽香は都営バスに乗り、南北幹線道路を北へと進んだ。バスは東西幹線道路との合流点である「大交差点」を左折し、そのまま西へ進むと、薫区に入った。区内の循環バスに乗り換えた春木陽香は薫区の西の菊永町の入り口でバスを降り、そこから光絵邸の門まで歩いた。菊永町の住人は運転手付の高級車で移動している人物がほとんどであるから、町の中にバス停は無い。町に建っている一軒一軒の邸宅の敷地も広く、文化財のような立派な塀がどこまでも続いた。彼女はその塀の横をひたすら歩いた。

 春木陽香が三軒目の塀を通り過ぎた時点で既に一キロ以上は歩いていた。彼女はヘトヘトになっていた。それでも炎天下を歩き続け、ようやく林の手前に辿り着いた。そこからまた数百メートル進むと、ついに光絵邸の門を見つけた。鉄製の大きな門扉は開いていた。巨大な門を通り、春木陽香はアスファルトで舗装された坂道を歩いて上り始めた。彼女は、少し登れば邸宅が見えてくるだろうと思い込んでいた。だが、どれだけ坂道を歩いても、いつまで経っても邸宅は見えてこなかった。邸宅どころか坂の終わりすら見えない。途中で引き返そうかとも考えたが、彼女は半ば意地になって坂道を登り続けた。午前十時前に会社を出た彼女であったが、腕時計を見ると、とっくに昼休み時間も過ぎていた。彼女は空腹と喉の渇きに耐えながら、滝のように流れる汗をハンカチで拭きつつ、照りつける五月の太陽の下をひたすら歩いた。少し寒くなるという天気予報を信じて着てきた厚手のジャケットがかえって熱を溜め、更に彼女の体を熱した。

 熱気に意識が朦朧とする状態で春木陽香がようやく光絵邸を視界に入れることかできる所まで辿り着いた時、彼女を目眩が遅い、急に足の力が抜けた。彼女はその場で倒れ、そのまま意識を失ったのだった。

 自分の無謀な行動を思い出した春木陽香は、赤面した顔を隠すように、ソファーの上に置かれた合皮の鞄の中を覗き込んで名刺入れを探した。よくやく名刺入れを見つけ出した彼女は、上半身を起こして上着の裾を整えると、バッグを肩に掛けて振り向いた。春木陽香は名刺入れから自分の名刺を取り出しながら書斎机の前まで歩いていった。机の前に立った彼女は足下に鞄を下ろすと、深々と頭を下げ、両手で持った名刺を机の向こうに座っている老女に丁寧に差し出した。

「本当に、ご迷惑をお掛けしました。私は、新日風潮社の春木陽香と申します。失礼をして、申し訳ございません」

 老女は椅子に深く座ったまま右手で名刺を受け取ると、それを読みながら言った。

「誰でも自分の家の庭先で人が倒れていたら救護するわ。でも、今度取材に来る時は、下の門からは車で来ることね。もし、また歩いて来るつもりなら、登山の用意でもしていらっしゃい。水筒もちゃんと持って」

「はい……すみませんでした。門から思った以上に遠くて。こんなに広いとは思わなかったものですから……」

 光絵由里子は口角を上げて微笑んだ。

 重厚な木彫りのドアが外からノックされた。光絵由里子は低い声で返事をする。

「はい。どうぞ」

「失礼致します」

 ドアが静かに開けられ、綺麗に整えられた白髪に白い口髭を蓄えた老紳士が、白い手袋をした手でワゴンを押しながら入ってきた。彼は皺の無いスーツに新たに余計な皺を作るのを避けているかのように、姿勢よく丁寧な動きであった。彼が押していたワゴンの上には、ガラス製の大皿に盛られたカットフルーツと美しい模様の金縁の小皿、畳まれた白いナプキンの上に逆さに伏せられたコップ、水滴を付けた銀製の小さなポットなどが並べられていた。

「お目覚めでございましたか」

 そう言って机の少し手前でワゴンを止めた白髪の老紳士は、一度、春木の顔色を確認すると、机の向うに座っている光絵会長の方を向いて言った。

「お飲み物とフルーツをお持ちしました」

「そう。向うのテーブルに置いてちょうだい」

「かしこまりました」

 老紳士は、書斎の奥の応接ソファーの方にワゴンを押していった。

 机の上の本を引き出しに仕舞った光絵由里子は、横に立て掛けてあった杖の銀細工の握りの部分を掴んだ。そして、杖に体重をかけて椅子から腰を上げながら春木に言った。

「ハーブティーだけと、よかったかしら。それから、果物でも食べて少し体を冷やすといいわ」

 春木陽香は慌てた様子で老女に言った。

「そんな。どうぞお気遣い無く。助けて頂いたうえに、もう、これ以上は……」

 光絵由里子は杖を突きながらも真っ直ぐとした姿勢で、ゆっくりと歩き出す。彼女は春木の前を歩きながら言った。

「そう。なら、帰りなさい。ただ、私は頂くわ。三時のティータイムですから。自宅で記者と話しをしたことなんて無かったから、楽しみでしたけど、仕方ありませんね。ま、今後も記者の取材に応じることは、まず無いでしょうから、残念だわ」

「あ、ええと……」

 春木陽香が何かを言おうとした時、彼女の鳩尾の下から音が鳴り、彼女の本音を晒してしまった。それに気付いた白髪の執事が振り向いて、口角と共に白い口髭を少し上げた。春木陽香は一層に顔を赤らめた。そして、素早く深く腰を折った。

「し、失礼しました」

 彼女は自分の腹部を押さえたまま、光絵会長に対して下げた頭を暫らく上げなかった。

 白い口髭の老紳士に支えられながらソファーに腰を下ろした光絵会長は、手招きしながら言った。

「せっかく小杉こすぎが準備してくれたのだから、早く来て、お座りなさい」

 少し顔を上げた春木陽香は、もう一度だけ頭を深く下げると、ソファーの所まで遠慮気味に移動し、執事の小杉に促されてようやくソファーに座った。彼女の前には白いクロスが掛けられた応接テーブルと、その上に置かれたカットフルーツが盛られた大皿、綺麗な模様の取り皿と銀製のフォーク、ソーサーに乗せられたガラス製のティーカップ、ジュースが注がれたコップ、そして、その向こうに座る白髪の老婦人の姿があった。

 執事の小杉は、まず春木の前のティーカップにハーブティーを注いだ。春木の鼻の前をミントの澄んだ香が流れる。小杉はテーブルを回り、光絵会長の前のティーカップにも丁寧にハーブティーを注いだ。

 テーブルの向うのソファーに姿勢よく座りながら、カップを口元に運んで香を楽しんでいた光絵由里子は、春木に目を向けずに言った。

「どうしたの。飲まないの。香が消えてしまうわよ」

「すみません……。では、いただきます」

 春木陽香はカップに手を伸ばした。カップを手に取って口元まで近づけると、ミントの他に仄かに桃の甘い香がした。それまでの緊張が幾分か解れた気がする。カップに口を付けると、中のハーブティーは熱過ぎもせず、ぬる過ぎでもなく、人肌のような心地よい温度であった。口の中に広がったハーブの香は彼女に安らぎと幸福感を与えた。目を閉じて、花畑の中央で大の字に寝転び、そよ風に吹かれる自分を思い浮かべながら、春木陽香は溜まった疲れを吐き捨てるように、音を立てて息を吐いた。そして、ゆっくりと目を開ける。そこにはティーカップを口に当てたまま、目線のみをこちらに向けている光絵会長の姿があった。

 我に帰った春木陽香は、また慌ててカップをテーブルの上のソーサーに戻し、頭を下げて言った。

「すみません。失礼しました」

 光絵会長は笑いながらカップをテーブルの上に置くと、軽く右手を上げて小杉に合図を送った。

 白髪の老執事は深く一礼をすると、ドアの方に姿勢よく歩いていき、再度一礼してから退室してドアを閉めた。

 光絵由里子は背筋を正して春木を真っ直ぐに見据えると、彼女に尋ねた。

「それで、何を訊きに来たのかしら」

 光絵由里子は七十六歳という年齢に似合わない攻撃的で威圧的な空気を漂わせた。

 春木陽香は椅子の上で少し姿勢を整えながら、考えて答えた。

「実は、娘さんの瑠香さんについて、ご連絡先をお教え願えないかと……」

「娘の何をお調べなのかしら」

「いえ、別に何かを調べているという訳ではなくて、その……よくある『あの人は今』的な企画でして、ご本人の承諾が取れれば、瑠香さんの今のご様子を記事に……」

 春木陽香は鋭い目でじっとこちらを見つめている光絵会長に気付いて、嘘をつくのをやめた。彼女は頭を下げると、正直に言った。

「すみません。実は、ある人物の特定をしています。そのために、可能性のある人に全てお会いして、お一人ずつ確認しているところです」

「命を助けてあげた恩人に嘘をつくのは良くないわね」

「ごめんなさい……」

 春木陽香は悛として頭を下げた。

 光絵由里子は姿勢を正したまま春木に言った。

「要は、消去法で絞りを掛けている、そういうことね。それで、その『ある人物』とは、何をした人なの」

「それは……言えません。ネタ元が判明してしまいますから……。すみません」

 春木陽香は申し訳無さそうに、再度頭を下げた。

 光絵由里子は言った。

「いいわ。大目に見てあげましょう。でも、娘が関与しているということは、タイムマシンの実験のことかしら。だとすると、あなた方が探しているのは、田爪健三か、高橋諒一博士。違う?」

「あ、えっと……その可能性も……」

 春木陽香は図星を指され、動揺した。

 光絵由里子はティーカップに手を伸ばしながら言った。

「それなら、ここへ来たのは間違いね。私は娘の行方を知らないわ。もう十年以上、会っていないから」

「十年以上……ですか」

 春木陽香は光絵の背後のポートレートに目を遣った。春木の顔が曇る。

 光絵由里子は春木の顔を見ながらハーブティーを一口だけ啜ると、視線を落として言った。

「そうよ。あの子が田爪健三と結婚して以来ね」

 光絵由里子はティーカップをソーサーごと膝の上に置いて、奥の壁の雉の水墨画に顔を向けた。そして、春木に質問を投げ掛けた。

「あなた、『きじ頓使ひたづかい』という言葉は、ご存知かしら」

 春木陽香も光絵の視線を追ってその水墨画に顔を向け、それを見つめながら答えた。

「ええと、たしか、行ったきりで戻ってこない使者のことですよね」

 光絵由里子はティーカップを持ち上げた手を止めて春木を見た。その顔は少し驚いたような表情をしていた。光絵由里子はカップに口を付けず、そのままソーサーを添えてテーブルの上に戻すと、春木に言った。

「驚いたわ。あなた、よく勉強しているのね。大学での専攻は何を学んでいたの?」

「基礎法学とジャーナリズム論です。でも、こんなに本は読んでいませんけど……」

 春木陽香は光絵の背後の本棚に目を遣った。そこには、理化学の専門書や法律書、哲学書、歴史書などが並べられていた。理化学の書籍は、物理学、特に量子力学の書籍が多く並んでいた。その他にも電気工学や機械工学、生物学の本が並び、その下の段には、会社法、特許法、民法、憲法の分厚い本が並んでいた。歴史書も多く、近代史の研究にも熱心なようであった。哲学は宗教哲学の本が多く、中でも仏教に関する書籍が多かった。そして、どの本も古く、その背表紙の痛み具合から、それらが相当に読み込まれた物であることが分かった。それは光絵由里子の博識と、彼女が勉強熱心である事実を物語っていた。

 本棚の書籍を熱心に見回している春木に光絵由里子は言った。

天照大御神あまてらすおおみかみから地上に派遣されたにもかかわらず、八年経っても復命しない天若日子あまわかひこの所に問責使として遣わされたのが、雉の鳴女。ところが天若日子は天照神から賜った弓矢でその雉を射殺してしまう。たしか、そういう話だったかしら」

 光絵由里子は春木の顔をじっと見ていた。

 春木陽香はそれに気付かないまま、部屋の奥の雉の水墨画に視線を戻し、すこし記憶を辿ってから、そのまま答えた。

「はあ……。たぶん、そうだったと思います。それで、帰ってこない使者のことを『雉の頓使』って言うのですよね。でも、その言葉がどうかされたのですか」

 今度は春木陽香が光絵の顔を見た。

 光絵由里子は視線をテーブルの上に落として、取り皿に手を伸ばしながら言った。

「瑠香も同じだということよ」

「瑠香さんも?」

 春木陽香は聞き返したが、光絵由里子は黙っている。春木陽香は考えながら老女の答えを待った。しかし、光絵由里子は、ただ静かに、大皿の上に綺麗に飾られたマンゴーの欠片を、スプーンとフォークを器用に使って小皿の上に移しているだけだった。

 マンゴーを移し終えた光絵由里子は、その小皿を膝の上に置くと、向かいの春木に言った。

「果物は食べないの。お腹が空いているんでしょ」

「――あ……それじゃ、遠慮なく。いただきます」

 緊張していた春木陽香は、すこし手間取りながら、桃を一切れだけ小皿に乗せ、その小皿を膝の上に置くと、フォークを刺して口に運んだ。

 その様子を見ていた光絵由里子が言った。

「美味しい?」

「もぐ……はい。とっても、美味しいです」

 光絵由里子は目を細めて言った。

「よかったわ。あの子も桃が好きだから」

「あの……」

 桃を飲み込んだ春木陽香は光絵に尋ねようとした。

 光絵由里子は先にマンゴーが刺さったフォークを小皿の上に留めたまま言った。

「何かしら」

「さっきの『雉の頓使』の話ですけど、それで、この絵を飾っておられるのですか」

 光絵由里子は黄色い果肉を一切れ上品に口元に運ぶと、それを食べた。そして、小皿の上にフォークを置いてテーブルの上に戻すと、再び奥の水墨画を見ながら言った。

「雉はね、この国の国鳥に指定されているわ。だから、飾っているの。それだけよ。いろいろと忘れないように」

「国鳥だから……ですか……」

 光絵由里子は、水墨画の方に向けていた顔を春木の方に戻して尋ねた。

「あなたは、この絵を見て、どう思うの」

「はあ、いい絵だと思いますけど……」

「浮かんだ言葉は?」

 その問いに、春木陽香は咄嗟に答えた。

「桃太朗の鬼退治……ですかね」

「吉備団子の? フフフ。面白い子ね。他には?」

 春木陽香は少し考えた。

「ええと……雉焼豆腐とか、雉飯、雉鍋……」

 光絵由里子は笑みを浮かべて言った。

「食べ物ばかりね」

「すみません……」

 恥ずかしそうに頭を下げた春木に、光絵由里子は言った。

「『雉の隠れ』という言葉は」

「雉の隠れ……」

「頭隠して尻隠さず、という意味よ」

「へえ……。『雉の隠れ』って言うんですか。勉強になりました」

 春木陽香は口を尖らせてコクコクと何度も頷いた。

 光絵由里子はティーカップを口に近づけながら、目線だけを春木に向けて言った。

「記者さんなのだから、言葉は勉強しないといけないわね」

「あ……はい。――すみません」

 春木陽香は座り直して、また謝った。

 その後、二人は暫らく黙ってフルーツを食べた。食べながら記憶を辿っていた春木陽香は、ふとある事を思い出し、膝の上で小皿を持ったまま再び雉の水墨画に顔を向けた。春木陽香は口を開いた。

「あの……」

 光絵由里子はナプキンで口を拭きながら、春木を見つめた。

 春木陽香は言った。

「たしか、『雉の頓使』の神話には、続きがありますよね。雉を貫いた矢は別の神様の所に飛んでいって、その神様がその矢に呪文を唱えて投げ返したら、天若日子の胸に当たって、天若日子は死んでしまったのですよね」

 春木陽香は前を向いて光絵由里子の顔を見た。

 光絵由里子は視線を膝元に落として微笑んでいた。そして、春木に言った。

「そうね。高木神たかぎのかみだったかしらね。届いた矢が邪神を貫いたものなら天若日子に当たるな、天若日子が邪心を抱いているなら天若日子に当たれ、そう唱えて投げ返したのよ」

 春木陽香には、どう考えても天若日子に当たる確率が高いように思えたが、その点は指摘せずに老女に尋ねた。

「それも関係がありますか」

 光絵由里子はハーブティーを一口啜ってから答えた。

「――どうかしらね。ただ、覚えておきなさい。雉に関する言葉には、こういうものもあるわ」

 光絵由里子は春木の目を見て、低い声で言った。

「雉も鳴かずば打たれまい」

 一瞬固まった春木陽香は、すぐに光絵から視線を外すと、膝の上の小皿をテーブルの上に戻した。

 もう一口ハーブティーを飲んだ光絵由里子は、ゆっくりとした口調で春木に言った。

「あなたも、無用なことを書いたり言ったりしなければ、禍を招かなくて済むわ」

 春木陽香は座り直しながら答えた。

「はあ……でも、記者ですから、一応……」

「危険を承知の上ならいいけど」

 そう言ってティーカップをテーブルの上に戻した光絵由里子は、少し声を大きくして続けた。

「だけど、よく覚えておきなさい。世の中には、自分が思っている以上に広く複雑な世界があるの。思いもよらない危険や困難が待ち受けていることもあるわ。でも、大抵の人間はそれを事前に察知しないまま先に進む。あなたが下の門からここまでの距離を考え違いしたようにね。それはとても危険なことよ。それだけは忘れないようにしなさい。いいですね」

「はい……」

 春木陽香は目線を落として小さく頷いた。

 部屋の中には、壁に掛けられた大きな時計の秒針の音だけが聞こえていた。


                 8

 夕刻の新日風潮社編集室では記者たちが忙しく業務に追われていた。週刊新日風潮の「連休特別号第二段!」の発刊は明日である。自分の机の前に立って記者たちの行動に目を配りながら、山野紀子が左目を青く光らせている。彼女は買ったばかりの新型通信端末イヴフォンをブラウスの胸の辺りの釦と釦の間に挟んで春木陽香と通話していた。浅く腰を載せている机の上には、さっきまで使っていたウェアフォンが放り置かれている。新機種に買い替えてはみたものの、全く新しい仕組みのケータイを使いこなせるか自信がなかった山野紀子は、とりあえず使用中のウェアフォンの契約もそのまま残してダブルユーザーとして様子を見ることにした。しかし、今朝の永山の立体通信で、結局のところ従来機種のウェアフォンも十分に使いこなせていないことを痛感した彼女は、旧式機種に見切りをつけてイヴフォンの使用に専念することにした。そうと決まればすぐに動くのが山野紀子である。オンラインで契約手続きをイヴフォン一機種へと変更したのは昼休みの事であった。連休中に購入したばかりのイヴフォン。自宅で電源を入れて娘と交互に試用してはみたが、本格的に他人との通話に使用するのはこれが初めてである。山野紀子は最新式の小型通信端末での通話を楽しんでいた。

 イヴフォンから脳内への直接投影によって、慌しい編集室の中に居ないはずの春木陽香が不自然に浮かんで見える。山野紀子は自分の脳内の視覚野に展開される春木のイメージが春木の声の抑揚に合わせて口を動かす様子に奇妙な感覚を覚えながら、イヴフォンでの通話を続けた。すると、横から別府博が遠慮気味に肩を叩いてきた。別府の方を向くと、彼の前に春木陽香が移動し、こちらを向いて話している。別府博は春木の体の中から手を出して、広告記事の原稿を山野に差し出した。山野紀子が受け取った原稿に視線を落とすと、手に持った原稿の前で、春木陽香が笑顔で話しを続けている。春木の像が邪魔で原稿が読めなかった。山野紀子は伸ばした手を高い位置に上げて原稿を掲げ、顔の角度を横にして目線だけを原稿に向けた。読みたい原稿の前で春木陽香がニコニコして話している。山野紀子は煙か虫を払うように、原稿の前で手を振った。春木陽香は消えなかった。

 横に立って返事を待っていた別府博は、山野が宙を手で払ったり、原稿を天井に翳したり、素早く下ろしたりしている様子を見て、首を傾げていた。

 山野紀子は読むのを諦め、そのまま別府に原稿を返すと、自分の机の端に浅く腰を載せたまま、腰の横に両手をついた。中央に向かい合わせに置かれている机の「島」の上で、春木陽香が笑顔で話している。

『――そうなんです。それで、田爪健三博士はNNC社への義理立てから、ライバル会社のGIESCOジエスコには近づかなかったようなんです。だから、彼と結婚した瑠香さんも同じように……』

 山野紀子は宙に向かって独り言を発するように、春木に言った。

「養母と縁を切ったというの? 養母がGIESCOの親会社のストンスロプ社の会長だから? うっそおー」

『ですが、光絵会長さんは、瑠香さんは田爪健三博士との結婚を機にあの邸宅から出て以来、光絵家とは往来も連絡も無かったと言っていました』

 机から腰を上げた山野紀子は、左右の手を腰に当てて一人で空中に向かって話した。

「ええー。信じられないなあ。だいたい、田爪博士もさ、自分がNNC社から同社製のバイオ・ドライブだっけ、あと、その他の研究機材とかを貸してもらったからってだけで、そこまでNNC社に肩入れするかなあ。まして、GIESCOは自分の嫁の実家が経営する会社よ。普通なら、そっちの味方をするんじないかしら」

 外から電話している春木陽香は、冷静に山野に説明した。

『会長も言っていましたけど、田爪健三という男は、そういう人らしいです。例えばバイオ・ドライブという物は、生体型コンピュータのAB〇一八を製造したNNC社しか、そのテクノロジーを知り得ない物らしくて、そのバイオ・ドライブじゃないと、あのAB〇一八に接続して情報を出入力することは出来ないそうなんです。つまり、唯一AB〇一八と接続できる、ものすごい価値のある物だと。それをNNC社はタイムトラベルの仮想空間実験用にポンと提供してくれた訳ですから、田爪健三博士としては相当に恩義に感じていたのかもしれません。とにかく、当時ストンスロプ社もGIESCOも、自社が開発した量子コンピュータ・IMUTAイムタの競争機種であるバイオ・コンピュータのAB〇一八を開発したNNC社や管理会社のNNJ社と相当に反目していたのは事実だそうです。あと、契約。田爪博士はNNC社と提供機材についての守秘契約のようなものを締結していたそうです。NNC社は田爪博士たちに提供した当時の最新機器の技術情報がストンスロプ社側に漏れるのを惧れていたそうなんです。それで、田爪健三博士はNNC社側から疑われないように、あえてGIESCOから距離を置いたんじゃないかと会長は仰ってました』

 山野紀子は春木の話を聞きながら、室内の部下たちがこちらに怪訝そうな顔を向けているのに気付いた。少し恥ずかしくなった彼女は、目の前の春木の机の前まで移動すると、その席の椅子を引いて、そこに腰を降ろし、部下たちに背を向けて通話を続けた。

「だからって、奥さんまで、そうする? ハルハルだったら、そこまでする? 実家と縁を切る?」

『分かりませんけど……』

 山野紀子は壁の時計に目を遣った。イヴフォンのイメージ通話にも少し慣れてきた。春木陽香の像は絶えず視界の中央に浮かぶ。それと時計が重ならないように、視界の中央から横の位置で物体を捉えれば、周辺視野で見ることはできそうだった。山野紀子はそうしてみた。彼女は何とか時計の文字盤を春木の横で見ることができた。五時になろうとしていた。山野紀子は春木の机に視線を戻すと、尋ねた。

「で、あんたは、これからどうするのよ」

 机の上に立っているように見える春木陽香が、真顔で答えた。

『とにかく、養母だった光絵会長さんが瑠香さんの行方を知らないのなら、こっちで一から探すしかありません。まずは、住所から』

 少し笑いを堪えながら、山野紀子は両足を上げて椅子を回した。宙に浮かぶ春木の背後で景色が横に流れる。山野紀子は、自分の机の方を向く角度で床に足をついて止まった。春木陽香は、やはり目の前に立っている。その背後には、向かいのビル群の窓が並ぶ景色を背にして置かれた茶色い気取った机に、偉そうなハイバックの重役椅子、机の上のトゲトゲ付きの湯飲みが見えた。春木がいつも見ている景色である。山野紀子は、その前に立つ春木陽香の像を見つめながら、少し間を置いた。

 山野紀子は春木の像に言った。

「住所からって、その住所をどうやって探すのよ。区役所に行っても、他人の住民票は簡単には取れないわよ。それに、そもそも何区の役所に行けばいいか分からないじゃない」

『いえ、区役所じゃありません。でも、たくさんの人の住所情報が保管されている所なら他にもあります』

「たくさんの人の住所情報? どこよ、それ」

 山野紀子は春木の椅子にもたれて首を傾げた。空中で直立した春木陽香も斜めに倒れる。同時に背後から春木の生の声がした。

「ここです」

「わ! びっくりした」

 飛び上がるように立ち上がった山野紀子は、後ろを振り向いて春木に言った。

「あんたね、そこに帰ってきてるなら、直接伝えなさいよ。なんでいちいち携帯で電話してくんのよ。通話料金がもったいないでしょ」

 春木陽香の像の横に立っている本物の春木陽香は、頭を掻きながら言った。

「すみません。編集長はご自宅かなって思ったので……」

「ああ、普段なら一旦帰っている時間だからね。でも、連休明けの増大号の発行が明日なのよ。そうもいかないじゃない」

「――でも、朝美ちゃんの夕食を……あ、編集長、イヴフォンに替えたんですね。いいなあ」

 イヴフォンでの通話を終了した山野紀子は、ブラウスからイヴフォンを外すと、上着のポケットに仕舞いながら春木に言った。

「そんなことより、ここにあるって、どういうことよ」

「正確には、ここじゃなくて、下の……」

 ポケットにイヴフォンを入れていた手を止めて、山野紀子は春木の顔を見た。そして、声を上げる。

「ああ! そんな……駄目よ、駄目。絶対に駄目。下って、新聞の販売部でしょ。ネット契約情報から探そうってことじゃないでしょうね。それ、個人情報使用規約違反じゃないの。そんなの、絶対に駄目。反則よ、反則」

 そう言いながら、山野紀子は自分の席に歩いていった。

 春木陽香は山野を追いかけて歩きながら言った。

「ええー。ちょっとくらい、いいじゃないですか。ちょっとだけ」

 ハイバックの椅子に腰を降ろした山野紀子は、ストレートの黒髪が水平に広がるほどに首を横に振りながら言った。

「駄目、駄目、駄目えー。絶対に駄目。あのね、取材方法とか、情報の入手ルートとかが後々問題になるのよ。うちの契約者の個人情報を使って取材した記事だって知れたら、その記事は出せなくなるじゃない」

 山野の机の横に立っていた春木陽香は、膨らませた頬の先で口を尖らせた。

「会社が違っても駄目ですか。あっちは新聞社なのに」

 山野紀子は立てた人差し指を春木に向けて何度も振った。

「系列会社なんだから、同じでしょうが。だいたいね、個人情報保護法を何だと思っているのよ」

 口を尖らせたまま下を向いた春木陽香は、上目で山野を見ながら言う。

「でも、編集長はこの前、あの法律は出来の悪い法律だって……」

 山野紀子は指先を揃えた左右の手を平行に立てたまま、右に左にと動かして、声を荒げた。

「それはそれ! これはこれ! 『悪法も法なり』なのよ! 法律は守りなさい」

 山野紀子は何度も春木の顔を指差す。

 壁際の前の席で話を聞いていた別府博が口を挿んだ。

「ちょっと教えてもらうだけでも、ですか。同じ系列会社の人間同士ですし、同じビルに入っているんですから、ちょっとくらいなら……」

「駄目に決まってるだろうがあ! 別府う!」

 山野紀子は春木の後ろの別府を指差して怒鳴ると、春木を追い払うように手を振りながら言った。

「はい、記者は楽しようとせず、自分の足で調べる! はよう、行かんかい!」

「ええー。行けって、どこに行ったら……それじゃあ、どうやってボソボソボソ……」

 小声で愚痴をこぼしながらトボトボと自分の席に戻った春木陽香に、山野紀子が大声で言った。

「コうルァ、ハルハルう。まーだ、ぶちぶちぶちぶち言っとるのかあ。ガルルルル」

 狂犬のような顔で睨みつける山野に、春木陽香は慌てて頭を下げた。

「す、すみません。行ってきます」

 再び立ち上がった春木陽香は、とにかくその場を退散しようと、置いたばかりの鞄をまた肩に掛けて、廊下の方へと向かった。すると、廊下への入り口から胡麻塩頭の初老の男が現れた。

「よお、ハルハルちゃん、まだ居たかい」

 手を上げた彼は、皺が刻まれた顔に笑みを浮かべた。

 春木陽香は御辞儀をした。

「あ、シゲさん。お疲れ様です」

 重成直人は、ズボンのポケットから何かを出そうとしながら言った。

「ハルハルちゃん、田爪夫婦の線を追うんだろ。販売の方から田爪家との契約時の情報が手に入った……から……」

 視線を感じた重成直人は、山野の机の方に目を遣った。椅子から腰をあげて机の上に両手をついた山野紀子が、目を吊り上げた顔を前に突き出していた。

「しーげえーさあーん……若い子の教育に良くないですよねえ、それ!」

 両目から殺人光線でも発するかのような顔の山野を見て、重成直人は右手をポケットの中に入れたまま、肩を上げて言った。

「あ、ああ、そうだな。――また、出直してくるわ。ははは」

 重成直人は細い廊下の方に戻っていった。

 編集室の中は静まり返っていた。記者たちの視線が山野に集中している。鼻の穴を膨らませた山野紀子は、彼らに対し一言だけ発した。

「仕事!」

 記者たちは一斉に机を向くと、目の前の仕事を続け始めた。春木陽香も駆けていく。

 編集室への細い廊下の先のドアを開けて、エレベーターホールへと続く広い廊下に出た春木陽香は、重成の姿を探した。彼は廊下の突き当たりのホールでエレベーターを待っていた。春木がそこへ向かうと、それを察していたかのように、重成直人は既にズボンのポケットから取り出していたMBCを春木に差し出した。両手でそれを受け取った春木に重成直人は小声で言った。

「これな、中に例の契約データが入ってるから。山野ちゃんには内緒な」

「すみません。でも、一応は編集長にも……」

 心思うらおもっている春木に重成直人は言った。

「どうせ十年以上前の住所だから、すぐには役に立たんさ。黙っておけばいいよ」

 それを聞いて、春木陽香は顔を上げた。

「十年? じゃあ、田爪博士が第二実験でタイムトラベルしてからは、瑠香さんは新聞購入契約の更新をしていないんですか」

「ああ。紙もネットもな。東京の昔の仲間にも尋ねてみたが、契約者の中にヒットする名前は無いそうだ。うちの会社の新聞は、ここ十年は取ってないということだな」

「解約の手続自体は、しているんですか」

「ああ。第二実験で田爪健三博士がタイムトラベルした半年後に解約手続をしている。ということは、その頃に引っ越したか、何かあったのかもしれんな」

「田爪瑠香さんが……」

 そう何かを言いかけた春木の背後から山野の声が飛んできた。

「コルァ、ハルハル! 何をそこでコソコソしとるかあ! さっさと取材に行けい!」

 春木陽香は首をすくめると、すぐに振り向いた。肩を怒らせた山野紀子が大股でこちらに歩いてきていた。怪獣映画のテーマソングが聞こえてきそうだ。

 春木陽香はMBCを握ったまま下を向いた。すると重成直人が目の前の春木に言った。

「ハルハルちゃん、今日はもう帰んな。倒れたんだろ?」

「え、なんで知ってるんですか」

 振り返って重成の顔を見た春木に、重成直人は自分の右耳に右手を当てて見せた。

「さっき携帯で話しながら下のロビーを歩いてたじゃないか」

「ああ、編集長と……痛っ」

 食らった。頭を押さえて前屈みになった春木陽香は、ゆっくりと振り向いた。タイトスカートを張って両足を肩幅に開いた山野紀子が、腕組みをして立っている。

 山野紀子は春木をにらみ付けて、低く太い声で言った。

「いーつまで、立ち話しとるか。あんたは商店街をうろつくオバちゃんか。聞き込みは外でしなさい! ほら、取材、取材!」

 重成の前のエレベーターが開いた。重成直人はそれに乗らずに山野に言った。

「山野ちゃん、もう、とっくに五時は過ぎてるじゃないか」

 山野紀子は腕組をしたまま言った。

「雑誌記者に定時なんか、ありまっせん! サービス残業は記者の誇りよ。自分の仕事に誇りを……」

「それじゃ、お先に失礼しまーす。お疲れサマーナイトお」

 背後から聞こえた別府の声に、山野紀子は頬を引き攣らせる。

「まーだ五月じゃ、別府う! コラッ、逃げるなあ! 発売日は明日だろうがあ!」

 別のエレベーターに乗り込もうとする別府を山野紀子が追いかけていった。

「やれやれ、年寄りには賑やか過ぎる職場だな。心臓に悪そうだから、帰るわ」

 そう言いながらエレベーターに乗り込んでいく重成に、春木陽香は慌てて言った。

「あ、これ、ありがとうございました」

 胡麻塩頭で頷く重成の前でエレベーターのドアが左右から静かに閉じていった。

「さっさと仕事せい、ハルハル!」

 振り向くと、山野が別府を引っ張って編集出に向かっていた。鞄を抱きしめたまま襟を掴まれて引きずられていく別府博が、指先で春木が握っているMBCを指しながら、口だけを動かした。彼は「資料室で見ろ」と言っているようだった。春木陽香は別府に一礼すると、閉まりかけの扉の隙間に飛び込んで、別府が乗りそびれたエレベーターに乗った。

 別府を編集室までの細い廊下の中に放り込んむようにして押し入れた山野紀子は、振り返って春木の姿を探した。

「ん。ようやく行ったわね。――ったく……、トゥン!」

 その最後の言葉に特に意味は無い。

 山野紀子は編集室へと続く廊下に入りドアを閉めた。エレベーターホールの突き当たりのガラス窓から射す夕日が、そのドアを強く照らしていた。



                 9

 窓際のブラインドが閉められた。向かいのビルに反射した夕日がまともに差し込んでくるからだ。ブライドの下の棚に置かれたデータバックアップ用のドライブ・ボックスの受信ランプが激しく点滅している。しかし、そのフロアからは、ついさっきまでの喧騒と緊張は消え去っていた。新日ネット新聞社編集局社会部の広いフロアでは、今日の夕刊の原稿データをサーバーに送信し終えた記者たちが安堵した様子で帰り支度を始めている。ワイシャツの裾をズボンの中に入れ直したり鞄に薄型の立体パソコンを仕舞ったりしながら、流行のレストランの話をしたり晩酌の打合せをしたりと、記者たちはそれぞれに緊張の糸を弛めていた。

 永峰千佳も、お気に入りのショルダーバッグに愛用のヘッド・マウント・ディスプレイを入れて、帰宅の準備をしていた。すると、彼女の横を通って、向かいの席に重成が帰ってきた。

 永峰千佳はバッグのチャックを閉めながら言った。

「あ、シゲさん。お帰りなさい。ハルハル、大丈夫そうでした?」

「ああ。心配は無いようだ」

「渡せました? さっきの田爪家の契約情報」

「ああ、何とかな。千佳ちゃんの言ったとおり、山野ちゃんがコレだったけどな」

 重成直人は胡麻塩頭の上で両手の人差し指を立てて見せた。

 永峰千佳は首をすくめて言った。

「やっぱり。山野編集長、ああ見えてド真面目ですからねえ。――ああ、今のと、さっきのは、山野編集長には内緒ですよ。私が言ったって言わないで下さいね」

 重成直人は笑いながら言った。

「千佳ちゃんが大型の生命保険にでも加入したら、山野ちゃんに話してやるよ。それより神作ちゃんは?」

「あ、別室です」

 永峰千佳は重成の後ろのドアを指差した。そのドアの向こうは谷里素美たにさと もとみ部長の部屋である。ドアの向こうからは激しい怒鳴り声が微かに聞こえていた。耳に手を添えて音を拾っていた重成直人は、呆れ顔で言う。

「ああ、ありゃ、やってるな。デスクも一緒かい」

「みたいです」

「かあ……」

 重成直人は苦虫を噛み潰したかのような顔をして首を横に振った。

 永峰千佳は腕時計を見ながら言う。

「じゃあ、私、お先に。お疲れ様でしたあ」

「おう、お疲れい」

 重成直人は反射的にそう答えたが、彼が顔を上げた時、向かいの席に永峰の姿はなかった。彼は溜め息を吐くと、机の上の書類を分類しながら呟いた。

「やれやれ……いいねえ、若いって」

 彼の後ろのドアからは、しきりに机を叩く音と上野秀則の怒声が響いていた。


「どうして駄目なんですか、部長! デスクとしての、僕の正式な決定権でしょうが!」

 部長室の中で、上野秀則が怒りに顔を紅潮させている。

 横に向けた椅子に座ったまま、机の上に片肘をついている年配の女が、肩に乗った自分の髪を触りながら気だるそうに答えた。

「だから、そんなに怒鳴らないでよ。上が決めたことなんだから、仕方ないでしょ」

 その「別室」の中は上野の次長室よりも広く、立派だった。壁は簡易式ではなく、ちゃんとビルの設計段階から予定されて作られたものだ。大きな鉢に植えられた人工の観葉植物が隅に置かれ、窓際には重厚な応接セットも置かれている。向かいの壁際の棚には、加湿器や空気清浄機が置かれていた。応接ソファーの後のスペースには窓を覗く形で最新型のルームランナーとサイクリング・マシンが並べられている。その奥には窓を背にして大きな姿見が立ててあった。部屋の突き当たりの壁には、見慣れぬ絵画が飾られていて、その隣に打ち込まれたフックにはハンドバッグが掛けてあった。その前に、部屋の主の幅の広い執務机が置かれていて、さらにその前に二人の記者が立っていた。上野秀則と神作真哉である。

 机の上に両手をついた上野秀則は、紅潮した顔を前に突き出して谷里に怒鳴った。

「上が、上がって、この会社にはルールってものが無いんですか。社内規則では、臨時の特別チームの編成権と、そこの臨時デスクの決定権は、次長の僕にもあるはずでしょう。それが認められないって、どういうことですか!」

 谷里素美たにさともとみはそっぽを向いて爪のマニキュアに息を掛けている。その様子に冷ややかな視線を送っていた神作真哉が隣の上野の肩を叩きながら言った。

「ああ、もういいよ、うえにょ」

「上野だ!」

 上野秀則が大声で怒鳴る。

 神作真哉は面倒くさそうな顔で小指を耳に入れて掻きながら、社会部部長の谷里に言った。

「とにかく、俺の人事の件は別として、その、という命令には従えませんね」

 谷里素美は一度時計に目を遣ると、ゆっくりと椅子から腰を上げながら、二人の記者たちに言った。

「従うも何も、会社の方針なんだから仕方ないでしょ。まったく、二人ともいい歳して我がままなんだから。我慢しなさいよ」

 上野秀則は両手で谷里の机の上を叩いて反論した。

「何を我慢するんです。どうせ我慢するなら、取材を続けることに対する圧力や妨害に耐える我慢をするべきでしょう。人の命が懸かっているかもしれんのですよ。我慢するべきものが違うんじゃないですかね」

 谷里素美は髪を荒く掻きながら上野に答えた。

「分かってるわよ。私だって、杉野すぎの副社長の人形面や黒木くろき局長のくだらないオヤジギャグには、正直、もうウンザリなのよ。これでも精一杯我慢して、あの人たちの話を聞いているんだから」

「そういうことじゃなくて……」

 お門違いの返事をした谷里に呆れたように、神作真哉は両手を腰に当てて項垂れた。そんな彼を指差しながら、上野秀則は必死に訴えた。

「僕はコイツに、臨時デスクになるよう正式に辞令を出しましたからね。この件で会社から人事的介入があれば、間違いなく不当人事ですから、労働組合に訴えて戦いますよ。いいんですね」

 壁のハンガーに掛けたハンドバッグに手を掛けていた谷里素美は、少し振り返って上野を見たが、そのまま再び後ろを向いて帰り支度をしながら、吐き捨てるように言った。

「労働組合って言っても、うちの会社で加入している社員はほとんどいないじゃない。そんなことしたって、無駄よ、無駄」

 その谷里の後ろ姿を見ながら、神作真哉が上野に言った。

「うえにょ、この人は報道の人間じゃないんだよ。何を言っても、それこそ無駄だ。この仕事をする責任ってのが、まったく分かってない」

 それを聞いた谷里素美は振り返った。彼女は眉間に皺を作って神作をにらみ付けると、彼を指差しながら言った。

「確かに私は事務部門からここに昇格してますけどね、そんなことをあなたに言われる筋合いは……」

 上野秀則は横の神作の顔を見上げて言った。

「そうだな。杉野副社長か社長に――あれ、名前は何だっけ……自分の会社の社長なんだけど、マズイな。ええと……ま、いいや。杉野副社長か社長に直接訴えた方が早いかもな。あの人たちも昔は記者だからな」

 それを聞いて一度深く溜め息を吐いた谷里素美は、その場で立ったまま腕を組むと、上野に視線を向けながら言った。

「どうしても取材を続けたいというのなら、一つだけ方法があるわよ。上野君、あなたが辞表を書けばいいのよ。そしたら、次長ポストが空く。神作君がそこに座れば、それで問題ないでしょ」

 神作真哉は憤慨した顔で前に出た。

「あんたな……」

「神作」

 神作の腕を掴んで止めた上野秀則が、谷里の目を見て言う。

「分かりました。じゃあ、早速書いて出しますよ。それでいいんでしょ」

 するとドアが開き、年配の大柄な男が入ってきた。

「待ちたまえ、上野君」

 ワイシャツの上にベストを着たその大柄な男は、上野に厳しい視線を送ると、谷里にも軽蔑的な眼差しを向けた。

 谷里素美は笑顔を作って、その男に言う。

「これは、これは。黒木編集局長。お疲れ様です。何か御用ですか」

 黒木健治くろきけんじ編集局長は、苛立った顔で言い返した。

「御用ですかだって? 谷里君、君は何を言っているんだね。――上野君も上野君だ。少し落ち着きたまえ」

 上野秀則は両手をズボンのポケットに入れると、下を向いて少しだけ首を縦に振った。それを確認した黒木健治は、上野の後ろを通って神作の横に来ると、彼の高い位置の肩を叩きながら、宥めるような口調で言った。

「まあ、神作君。こんなことは、よくある話じゃないか。そう、カッカするなよ。な」

 そして二人と谷里の間に立つと、腕組みをしながら言った。

「いいかね、上は司時空庁への取材を禁じているだけだ。誰も『事件の真相を追うな』とは言ってはいない。そうだろ、谷里君」

 谷里素美は渋々と答えた。

「ええ、まあ……」

「どうだ、神作君。ここは一つ、表向きは、この前のほら、例の黄色いジャージの新興宗教団体……」

「真明教ですか」

「そうだ。その真明教にまつわる使途不明金の流れでも追うことにしたらどうだ。そうすれば、君の首も繋がるし、記者としても活動できる。上野君も辞めなくて済む。たしか永山君は、その真明教の件で南米に行っているんだろ。丁度いいじゃないか」

「つまり、表向きは真明教の取材と記事作りをして、裏で司時空庁の取材をしろと」

「ま、そこまでは言っていないがね。何も聞こえなかったよ、僕は。ただ、司時空庁への取材は不味い。だったら、他を当たればいいじゃないか。外堀から埋めていくのは取材手法の基本だろう」

 腕組みをしたまま床に視線を落として口角を上げている黒木に、谷里素美が抗議した。

「それでよろしいんですか。社の方針と違いますけど」

「上のニーズには合っているだろう。谷里君、君も管理職なら、何事も現実的な対処をせんといかんよ」

 黒木健治は、今度は上野に厳しい視線を向けて言った。

「その代わり、上野君、君が取材情報をしっかりまとめて、逐一私の所に報告するんだ」

「え、局長に、ですか?」

 少し驚いた様子の上野に黒木健治は言った。

「いざと言う時に君に辞表を書かれたんじゃ、その後は誰が記事をまとめるんだ。首を切られた挙句に、苦労してネタ集めした記事までお蔵入りか。そんなのは納得いかんだろ。ではどうするか。――簡単だ。私が責任を取ればいいだけの話だよ。記事を世に出すためには、上野君か神作君のどちらか、できれは両方が生き残ればいい。だが、その場合は、既成事実が無いと困る。処分を編集局長である私の所で止めておくには、私からの指示という形にしておいた方がいい。だから形だけでも、社内ネットで私のパソコンに逐一報告書を送れ。いいな」

「――分かりました。では、毎日、退社前に必ず」

 上野秀則は納得した訳ではなかったが、とにかくそう答えた。それを聞いて黒木健治は満足気な笑みを浮かべて頷きながら言った。

「うん。じゃあ、この件は解決だ。さあ、仕事に戻ってくれ」

 黒木健治はそう言って、神作と上野の段違いの肩を同時に叩くと、その間を通って「別室」から出ていった。

 ドアが閉まるとすぐに谷里が口を開いた。

「上野君、神作君。あなたたちのパソコンの取材データは、私のパソコンからも見ることが出来るようにしとくのよ」

「どうしてですか」

 振り向いた上野秀則が不満気にそう尋ねると、谷里素美は鏡の前に歩いていきながら答えた。

「保険よ、保険。こんな危ない舟に保険無しでは乗れないわ。もし、私に隠して行動しようなら、今の話を私から杉野副社長に報告するわよ。それでもいいの?」

 髪を整えていた谷里素美は、鏡越しに上野をにらみつける。

 上野秀則は口を尖らせて不満そうに返事をした。

「分かりました。後で、ファイルのパスワードを送りますよ」

 神作真哉は谷里に聞こえるように溜め息を大きく吐いた。項垂れて、首を横に振る。

 二人は「別室」から出ていった。


 部長室からフロアに出てくると、夜勤の記者を残して多くの記者たちは既に帰っていて、閑散としていた。重成も永峰も帰っている。

 後手で部長室のドアを閉めた上野秀則は、隣に立つ神作に小声で尋ねた。

「どう思う」

 神作真哉は自分たちの机の「島」を見つめながら答えた。

「さあな。黒木局長は元記者だ。話に食らい付くのは分かるが、どうも只の正義感や親切からの発言とは思えんな。だが、厄介なのは事務畑を耕うん機に乗って進んできた谷里部長の方だよ。ありゃ、この件を出世の駆け引きに使う魂胆だな」

「さて、どうするかね」

「ま、とりあえずは黒木局長の言うとおり、真明教だな。司時空庁の件は空いている時間で取り掛かるしかねえだろ」

「しかし、真明教の件も公金の使途不明金絡みとなれば、その金の流れやら何やらで結構に時間を取られるし、一筋縄じゃいかんぞ。おまえらのチームだけでやれるのかよ」

 神作真哉は自分の椅子に腰を降ろしながら答えた。

「やるしかないさ。何であれ、動けなくなるよりマシだ。それに、優秀な別働隊もいるしな。今はそっちに期待するしかないだろ。こういう時のために新聞各社は別働隊として週刊誌社を作ってるんだからな」

 上野秀則は頭を掻きながら言った。

「別働隊ねえ。大丈夫かね」

 神作真哉は背中を丸めてホログラフィーのキーボードを操作しながら言った。

「丁度いい時に、期待のオールド・ルーキーが入ってきたじゃないか。あっちに賭けてみるってのも、有りかもしれねえぞ」

「オールド・ルーキー? もしかして、ハルハルのことか?」

 そう尋ねた上野に顔を向けて、神作真哉はニヤリと片笑んで見せた。


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