第2話

四月十三日 火曜日

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 大理石が敷き詰められた床は綺麗に磨かれていた。その先の金縁の自動ドアは最新式の虹彩認証式電子ロックで閉ざされ、不必要な訪問者の侵入を許していない。ガラスの向こうの広いエントランスには、中央に枯山水の庭が作られていて、そこを望む大窓の前に大きな生け花が飾られている。その手前には高そうな革張りのソファーが置かれていた。

 ここは新首都新市街で最高級と噂される高層マンション「ハリーカイ・ヒルズ」の一階である。住人の出勤や子供たちの登校登園のピークの時間も過ぎ、エントランスは落ち着きを取り戻していた。この時間帯を狙ってやってきた春木陽香は、エントランスの隅で清掃服姿の中年女性に取材していた。モップの柄を握ったまま早口で話す女の前で、左手に握った電子メモ帳の上にホログラフィー専用のペンを走らせて熱心にメモを取っている。

 女は言った。

「うーん。よく分からないけど、何か服装は派手だねえ。ここの住人からもあまり評判はよくないんだよ。ゴミ出しのルールも守らないし」

「ふんふん。そうなんですか……」

 春木陽香は頷きながら、ホログラフィーを表面に浮かせた電子手帳にメモをした。

 モップの柄を握った女は片方の手を振りながら言った。

「あ、そうそう。よく夕方前になるとさ、こう、派手な背広を着た色男が迎えに来てさ、一緒に高級車に乗って出かけていくよ。あの子、本当に大学生なのかね」

「その時、彼女はどんな服装ですか」

「そうねえ。短いスカートで胸の谷間なんか出して、いかにもって感じよ」

「いかにも……」

 春木陽香は唇を蛸のように突き出して、目をパチパチと瞬きさせた。

 女は春木を横目で見ながら言った。

「分かるでしょ。商売女って感じの服装。私も帰りが遅くなった時しか見ないから、毎日かどうかは分からないけどね。それにしても、このマンションにあんな人が住んでいるなんて、ああ、汚らわしい」

 春木陽香は、前司時空庁長官・時吉総一郎のスキャンダル記事の取材に来ていた。彼女が訪れたこの「ハリーカイ・ヒルズ」には、時吉総一郎の不倫相手の二人の女子大生のうちの一人が居住している。春木たちはそれら女子大生の顔も指名も把握していたが、記事にするためにはその生活実態を掴む必要があった。上司の山野紀子は春木が「ドクターTの論文」に記者としての好奇心を募らせているのを見て、この時吉総一郎の記事原稿の提出を明後日の四月十五日木曜日の午前中まで待つと言ってくれた。しかし、「週刊新日風潮」の発売日は金曜日である。山野は原稿提出のリミットぎりぎりまで猶予してくれたわけだが、万一に春木の原稿の提出が遅れたら紙面に穴が開いてしまうし、春木自身も別件を優先させた後で提出期限までに原稿を提出できる自信がなかったから、まずは本来業務である時吉の記事作成に必要な取材を急ぐことにした。それで彼女は今朝出勤するとすぐに編集室を飛び出し、ここへとやって来たのだ。到着した春木陽香がマンションビルの外から、豪華なガラス張りの玄関を出て高級リムジンに乗り込んでいく三つ揃えのスーツに身を包んだ園児たちを少し羨ましそうに見ていると、子供たちを見送る若い母親たちの向こうのガラス戸の前で、モップで床を熱心に磨いている清掃員が目に留まった。彼女は母親たちが誰も声を掛けないその女に声を掛け、挨拶をした。玄関の外で暫らく世間話をした後、自分が記者であることを明かし、目的の女子大生の名前をその清掃員に告げて、その素行を調べている旨を伝えた。勿論、時吉総一郎との不倫のことは伝えなかった。すると、その清掃員の女は春木をエントランスの中へと通し、まるで我が家であるかのように中を案内して回り、その後、その高級マンションの住人たちの恥部をあれこれと語り始めた。春木陽香は目的の女子大生の話が出てくるまで辛抱して話を聞いた。そして、ようやくその女の口から女子大生に関する情報が出てきた。それは春木が予想していたものとは随分とかけ離れたものだった。

 一通りの話を聞き終えた春木陽香は、電子メモ帳にタッチペンを戻して肩に掛けた鞄の中に仕舞うと、深々と御辞儀をして言った。

「どうも。貴重なお話をありがとうございました。失礼ですが、お名前を伺っても」

「私? 鳴子なるこ雲雀口鳴子ひばりぐちなるこ。ヒバちゃんって呼んでちょうだいな。あ、子供の頃からの知り合いはナルちゃん、飲み友達はピーちゃんって呼んでるのよ。この前ね、間違えてパーちゃんって言う人がいたもんだから、二本指で眉間をチョンってしてやったわ。チョンって。私ね、こう見えても、幼稚園の頃に少しだけ空手をやっててね。その時の稽古相手の子が可愛くて、今でもテレビでアイドルの男の子とかを見ると、似た子を探しちゃうのよね。あ、そうそう、アイドルって言えば、五十三階に住んでる社長さん。時々、その人の部屋に若い女の子が出入りしててね。どこかで見たなあって思ったら、ほら、あの、短いスカートで踊ってる人気アイドルの女の子たち、ええと、ラスト・ガールズ。あれの右っ側の子だったのよ。あの子、この前まで七十階のパイロットさんのところに……」

「どうも、失礼します。ありがとうございました」

 雲雀口の話は終わりそうになかったので、春木陽香は隙を見て、その場を退散した。

 てくてくと歩道の上を歩く春木陽香。まだ雲雀口の声が聞こえる気がする。立ち止まった彼女は一度頭を振ってから、再び歩き始めた。歩きながら、春木陽香は思案する。

 ハリーカイ・ヒルズから新日ネット新聞社ビルまでは近い。同じ高層ビル街の西と北である。歩いて帰っても三十分というところだろう。それを近いと表現するべきか否かは別として、彼女はそのまま会社に戻るべきか、次の取材対象者の住所に直接向かうべきかで迷っていた。

 時吉総一郎のもう一人の不倫相手である女子大生の住居は寺師町だ。寺師町は新市街の東部に位置する新首都圏一の繁華街である。この高層ビル街からは、新首都の中央に広がる昭憲田池を挟んで、ほぼ反対側に位置している街だ。そこまでの移動手段は、昭憲田池の周りを一周する地下リニア鉄道や、地下高速道路を通る都営高速バス、昭憲田池を横断するシャトル船、普通に陸上を循環している都営バスを乗り継ぐなど、幾つかが考えられる。シャトル船以外は、どれもそう高額な運賃の乗り物ではない。当然、時間が一番短いのはシャトル船だ。次が地下リニア。だが、最寄りの地下リニアの駅である「スカイタウン東駅」は総合駅の地下にある。ここから向かうとすれば、その手前にある新日ビルの方が近い。先に編集室に戻り、いま雲雀口から聞いた話を編集長に報告するべきだろうか。それは一向に構わない。問題は、その次だ。次に取材に向かう先を言えば、きっと編集長に止められるだろう。そうなると、出発に時間がかかる。ここは何としても午前中のうちに取材を終えておきたい。できれば、十一時半までには帰社したいものだ。今日は火曜日である。火曜日は社員食堂で人気の海老ドリアがメニューに並ぶ日だ。火曜日の社員食堂は、この海老ドリアを目当てにした女子社員たちが長い列を作る。そして早々に売り切れとなってしまうのだ。少しでも早く帰って並ばなければ!

 春木陽香は本社に戻らず、直接、次の取材先に向かうことにした。彼女はそこから少し南に歩き、最寄りのバス停から路線バスで、昭憲田池の縁に沿って走っている国道沿いにあるバスセンターへと向かった。そこで有多町行きの中距離都営バスに乗り、官庁街まで移動すると、その中心部を突き抜けている東西幹線道路の道沿いにあるバス停の一つでバスを降りた。そして、今度は寺師町へと向かうバスに乗り替え、繁華街へと向かった。

 バスの中は混んでいた。他の乗客の背中に挟まれて立っていた春木陽香は、ようやく確保した吊り革になんとか掴まることができた。彼女はずれ落ちる鞄を肩に掛け直すと、人の隙間から窓の外の景色を眺めて、また考え始めた。

 「ハリーカイ・ヒルズ」は超高級マンションである。大学生が自分の財力で買えるはずは無い。彼女は実家が裕福なのだろうか。いや、そのような情報は無かった。大学生とは言っても、第一就職での経験を元に在学中に起業し、成功する者も稀にいる。彼女も何か事業や投資で儲けたのかもしれない。商売女のような服装? 雲雀口がパーティー用のカクテル・ドレスを見てそう思っている可能性もある。もともと露出系の服が好みであるだけかもしれないし。単にその子のファッションセンスと常識感覚の問題なのではないか。いや、一応、その女子大生が通っているという大学に問い合わせてはみたが……。

 窓の外に緑色の葉を付け始めたイチョウの木が見えた。寺師町のメインストリートのイチョウ並木だ。春木陽香は他の乗客を押し分けて降車口の方へと向かった。

 バスから降りた春木陽香は、デパートのショーウィンドウを鏡にして髪を整えると、鞄から「ウェアフォン」を取り出した。「ウェアフォン」は今一番普及している携帯電話である。それは春木たちの親の世代が愛用した「スマート・フォン」と似た機能を多く備えていたが、違うのは、基本的に超骨伝導式の通話方式が採用されていることと、ホログラフィーの投影による立体通話機能が搭載されていること、そして何より、立体パソコンと同じ可接触式ホログラフィー技術を採用しているので、情報の表示にパネル式画面を必要としないことである。その形状も多種多様で、腕時計式やネックレス式、ズボンのベルト式など様々な物が存在するが、「物を握って耳に当てて話す」という従来の電話の方式に慣れ親しんだ人々は、やはり依然として手持ち型のウェアフォンを選んで使っていた。春木陽香のウェアフォンも掌サイズの楕円形をしたシンプルなノーマルタイプだった。色は、ちょっと大人のワインレッド。背面には薄っすらと薔薇の花が描かれている。春木陽香は歩きながらそれを操作し、ウェアフォンの表面に立体の地図を映し出した。彼女はその半透明の立体地図を回転させながら目的地を探した。

「ええと、中裏なかうら地区、中裏地区……」

 寺師町中裏地区はあまり評判が良くないと聞いていた。新首都の西に広がる旧市街で生まれ育った春木陽香であったが、昭憲田池の周囲に広がる新市街には用事がある時以外に出て来ることは無かった。都会に住んでいても意外とそんなものである。もちろん、たまに寺師町の繁華街でショッピングを楽しむことはあったが、中裏地区には近づかないよう両親や祖母から言われていたので、その地域には行ったことが無い。未知の世界・中裏地区。春木陽香は記者として少しだけ冒険してみようと思った。

 中裏地区はイチョウ並木通りの裏手に網の目のように走る細い路地街の奥にある。彼女はウェアフォンの上の立体地図を見ながら、その細い裏通りへと入って行った。路地の奥は周囲の高いビルによって日光が遮られていて、暗く湿っていた。立体地図を見ながら角を何度も曲がり、路地を更に奥に進む。少しだけ広い通りに出た。通りに置かれた自動販売機や左右の雑居ビルの裏手の壁は落書きだらけだ。カラースプレーで思うがままに文字や数字、図形が描かれている。春木陽香はそれらを観察しながら、その裏道を歩いた。

 落書きを見回しながら歩いていると、その中に矢印の落書きを見つけた。何気なくその矢印が指す方角に顔を向けると、そこには別の矢印が記されていた。その矢印が指し示す先の場所にも、別の矢印があった。矢印は連鎖して、中裏地区の奥へと誘っていく。その方向が、自分が目指している住所の方角と同じであったので、彼女はその矢印の落書きを目で追いながら、路地を進んだ。

 春木陽香は暗い裏路地の奥へ奥へと導かれていった。

「あれ、おかしいなあ。地図ではこの辺りに賃貸マンションがあるはずなのに……」

 暫らく進んだ後、路の途中で足を止めた春木陽香は周囲を見回した。ウェアフォンから投影された地図に表示されているマンションが見当たらない。キョロキョロと辺りを見回しながら歩いていた彼女は、道の脇に組み立てられている小さな屋台小屋を見つけた。その中に置かれた台の向こうには、鼻の大きな老女が背中を丸めて座っている。老女は黒いマントで身を覆い、大きなフードを頭に被っていた。

 春木陽香は、どこから見ても占い師にしか見えないその老女に訊いてみた。

「あの、すみません。ちょっと道をお尋ねしてもよろしいですか」

 老女は低い嗄れた声で言った。

「未来に進む道かい。過去に歩んできた道かい」

「――あ、いえ、その……そういうことじゃなくて、単純に『道』をお伺いしたいのですけど……」

 老女は黙っていた。

 春木陽香はウェアフォンの上に浮かんだ立体地図をその不気味な老女に見せて、恐る恐る尋ねた。

「あの……この地図の場所って、この辺ですよね。あの路地の突き当たりを曲がった先に賃貸マンションが在るはずなんですけど、えっと……住所からすると、あのビルなんですけど、あれでいいんでしょうか」

 春木陽香は路地の突き当たりに建っている極端に細いビルを指差した。老女は春木が指差した方にフードの奥のギョロリとした目を向けた後、下を向いてタロット・カードを並べ始めた。

「ああ、そうさ。アレだよ。でも、止めときな。あんた、今日は行くべきじゃないよ。少しだけ恐い思いをすることになるから」

「はあ……」

 春木陽香は老女が台の上に並べたタロット・カードに目を遣った。骸骨が縛り首で吊られている。しかも松明らしき物の炎であぶられているではないか。「こ、これはいかん」と春木陽香は思った。

 老女はその横で何枚かのカードを動かすと、その手をピタリと止めて、春木に言った。

「それに、あんた。これから随分と難儀が待ち受けているよ。気をつけな」

 白骨化するまで直火焼きされること以上の難儀が思い浮かばなかった。そもそも、そんなウルトラ級の難儀にどう気をつけろというのか。

「だけど、運もいいね」

「それは、どうも」

 全然フォローになってないぞ。縛り首だけでも不運でしょ。

 春木陽香が不気味な老女の前から立ち去ろうとすると、彼女の前に老女が手を突き出して、その先で親指と人差し指を何度も擦って見せた。その意を察した春木陽香は言った。

「あ、そっか。そうですよね。――お幾らですか」

 老女は台の隅に置かれた小さな箱型の機械を指差した。マネーカードの清算機だ。二〇三八年現在では、大抵の支払は「マネーカード」と呼ばれるカードに記憶された電子マネーでの決済が主流であったが、春木陽香は、まさか占い師への支払までもマネーカード決済になっているとは思わず、目を丸くした。しかも、さらに驚いたのは、その古い清算機の液晶パネルに表示されていた金額である。

 春木陽香は思わず口にした。

「たかっ……」

 老女のフードの奥からギョロリトした目がこちらを向いた。

 視線を逸らした春木陽香は、財布からマネーカードを出そうとしたが、手を止めて、老女に言った。

「あの、ついでに他にも訊いてもいいですか。ちゃんと質問できなかったので」

 老女は黙って春木の顔を見ていた。

 春木陽香はパチパチと瞬きしてみた。

 老女は溜め息を吐いてから、言った。

「仕方ないねえ。何だい。私には何でも全てお見通しだよ。但し、質問は一回だけだよ」

「一回……」

 春木陽香は少し考えると、一度深く息を吸ってから、それを一気に吐き出すようにして言った。

「もしこのまま、今の職場で今の仕事を続けたら、友達とかできて、結婚もできて、幸せになれるかどうか、一つずつ具体的に教えて下さい。はい、質問一回です」

 今度はフードの奥の老女の目がパチクリしていた。老女は大きな鼻から息を吐き捨てると、下唇を出しながら呟いた。

「まったく、欲張りな子だね」

 春木が求めているものが多過ぎるのか、春木の質問内容が多過ぎたのか。老女は不満そうな顔で黙ってタロット・カードを並べ始めた。そして春木に言った。

「仕事は天職だね。向いてるよ。友達もできる。いい子だ。大事にしな。きっと親友になるから」

 春木陽香は手にマネーカードを握ったまま言った。

「結婚は? 幸せになれますか」

「それは、あんたが決めることだよ」

「そんなあ……」

 肩を落とした春木陽香は、納得いかないまま、渋々顔でマネーカードを読取り機に差し込んだ。領収データのボタンを押してカードに領収情報を記憶させると、それを機械から抜いて、老女に御辞儀をした。

「――ありがとうございました」

 薄い財布にカードを仕舞いながら春木陽香は背中を向けた。すると、声がした。

「ちょっと、お待ち」

 鞄に財布を仕舞いながら振り向いた春木に老女はゆっくりとした口調で言った。

「あんた。これから、随分な難儀が待ち受けているけど、挫けちゃ駄目だよ。あんたによって救われる人が居るからね。いいね」

 春木陽香は自分の顔を指差して言った。

「私が、人を……ですか」

 老女は深く頷いてから続けた。

「そして、最後に、全てを戻す。それが、あんたの宿命さ」

「全てを戻す……」

 唇を尖らして言葉の意味を考えている春木に、老女は尋ねた。

「それから、あんた、本当に、この先のビルに行くつもりかい」

「あ、はい。仕事なので……」

「そうかい。じゃあ、身の危険を感じたら、一度目を閉じて開いた後、誰でもいいから、最初に目に入った人に助けを求めるんだよ。その人があんたを助けてくれる。忘れるんじゃないよ。最初に目に入った人だよ」

「はあ……どうも……」

 意味不明の助言をする老女に軽く頭を下げた春木陽香は、老女に背を向けると、首を傾げながら薄暗い路地の奥へと進んで行った。

 路地の突き当たりの手前まで辿り着いた春木陽香は、その「賃貸マンション」であるはずのビルを下から上まで観察した。どの窓にも鉄格子や鉄板が取り付けられていて、ベランダの間にはレーザー光線が格子状に走っている。再び下に視線を戻すと、その細長いビルの一階入り口の前に、胸の下まで釦を外した赤いワイシャツの上から白いスーツを着た金ブチ眼鏡の若い男が、木刀を肩に担いで立っていた。彼の背後の壁には縦長の木製の看板が掲げられている。そこには力強い書体で「奥乃目組」と記載されていた。

 春木陽香は一度唾を飲み込むと、胸の前で拳を握って自分に言い聞かせた。

「この仕事、天職なのよね。天職。よし、頑張れ陽香。恐くない、恐くない」

 春木陽香は前に進んだ。

 その白いスーツの男は近くで見ると意外と小柄であった。彼の前に立った春木陽香は慎重に話しかけた。

「あの……すみません」

 白いスーツの小男は身構えた。

「あ? なんだ、おまえ。ナニモノだ」

「あ……えっと……私、週刊新日風潮の……」

「ああ? しゅうしんかん……はああ?」

 小男は急に肩を怒らせて近づいてきた。彼が春木に威圧的な表情をした顔を近づけてきたので、春木陽香は後ろにさがった。そのまま隣のビルの入り口の横壁に背中を付けた彼女は、男から顔を逸らしながら必死に言った。

「あの、ちょっと、人に会いに……」

「人に会いにだと? ああ? ここをドコだと思ってるんだ。ナメてんのか、コラ」

 この男の「コラ」よりも、入社して以来連日のように聞いている、山野の「コルァ!」の方が迫力があった。だから春木陽香は少しだけ頑張ってみた。

「いえ、別に大袈裟なことではないんです。ただ、ご本人にお会いして、少し確認したい事がありまして。その人の住所がこちらのようですので、中に入れないものかと……」

 男は春木の上着の襟を掴むと、斜めにした顔を更に前に出して春木に怒鳴った。

「ああああ? 長々としゃべってんじゃねえよ。いみ分かんねえだろうが! 分かりやすくしゃべれよお。オレ、あたまワリいんだよお。ケンカうってんのか、このヤロウ!」

「いえ、別に、そうじゃなくて。ちょっ……」

 男が木刀を振り上げた。春木陽香は首をすくめる。

 するとその後ろで、さっきの細いビルの玄関エントランスから、派手な柄のスーツを着て赤いマフラーを首から垂らした若い女が出てきた。例の取材対象の女である。黒い尖ったサングラスを掛けているその女は背後に二人の大柄な男を従えていた。外に出てきた女は、明らかに季節はずれのマフラーが暑かったのか、それを外して、後ろに立っているスーツ姿でオールバック頭の男に渡した。日当たりの悪い暗い路地では足下が見えにくかったのか、尖った黒いサングラスも外して、もう一人のスーツ姿のスキンヘッドの男に渡す。女はそのままスタスタと歩いてくると、春木を壁に押さえつけたまま女に頭を下げた白いスーツの小男を押し退けて、言った。

「ちょっと、何してんのよ。邪魔よ」

「へい。すみません」

 そういった白いスーツの小男に、オールバックの男が尋ねた。

「どうしたんだ」

 白いスーツの小男は木刀の先端で春木の顔を指して言った。

「ああ、アニキ。この女がカチこんで来まして。なんでも、『シンカンセンカンチョウ』とかいうヤツらしくて」

「しんかんせんかんちょう?」

「週刊新日風潮です」

 これは本当にいかんと思った春木陽香は、壁に押さえつけられたまま真顔で訂正した。

 スキンヘッドの大男が言った。

「週刊新日……ああ、あの週刊誌か。おい、堅気の方に手を掛けるんじゃねえ。放せ」

 白いスーツの小男はヒョコリと頭を下げた。

「へい。すみません。――はなせ、コラッ」

 依然として春木の襟を掴んで顔を近づけている小男の頭を、オールバックの男が叩く。

「お前だよ。その手を放せ」

「あ……へい。分かりやした」

 小男は春木から手を放した。

 会話の途中で踵を返して戻ってきたスーツ姿の女が言った。

「待って。週刊新日風潮って言ったら、時吉の爺さんのことを記事にした週刊誌よね」

 春木陽香は答えた。

「はい。今日はその件で伺いました。あなた、やっぱり大学生ではなかったのですね」

「うるさいわねえ。ちゃんと大学生よ。学生証だって持ってるわよ」

 目を剥いた若い女に、春木陽香は言った。

「でも、今時、遊んでいる大学生なんて、まず居ませんよ」

「遊んでないわよ! 何なのよ、このオバサン、生意気ね。妹より腹立つ。ちょっと、押さえときな」

「へい。――ナマイキだぞ、コラ!」

 女の指示を受けた小男が、また春木を壁に押さえつけた。

 女は澄ました顔で左手に二本の指を立て、オールバックの男の前にその手を上げた。男はスーツのポケットから煙草の箱を取り出すと、そこから一本の煙草を取り出し、女の指の間に挿した。女は指で挟んだ煙草を口に運び、目を瞑って構える。

 暫く間があった。

「んー、んんん」

 そう言いながら、女は煙草を咥えた顔をスキンヘッドの男の方に向けた。オールバックの男が目で合図を送る。スキンヘッドの男は慌ててライターを取り出し、女の口元の煙草の先に火を点けた。女は煙草を吸ってその先端を赤く輝かせると、すぐに口から煙草を離し、白い煙を吐きながら、苦しそうに何度も咳をした。

 様子を見ていた春木陽香は、思わず呟く。

「吸えないなら、無理しなくても……」

 女の後ろで、二人の大男は呆れたように顔を見合わせていた。

 女は咳込みながら、煙が沁みた目で何度も瞬きして、言った。

「ゴホッ、ゴホッ。――あんたたちの記事のせいでね、せっかく入るはずだったお金が入らなくなったんだからね。その責任はとってもらうわよ」

 女は煙草の先端を春木の顔の前に近づけてきた。

 春木陽香は顔を精一杯に遠ざける。

「姉御。もう、その辺で……」

 オールバックの男が女を窘めたが、女は首を横に振って応じなかった。彼女は言う。

「うるさい。私がなんで、あんなジジイと温泉プールになんかに行ったと思ってるのよ。新しい水着まで買ったのよ。飲めないお酒まで飲んで。全部、組のためでしょ。あんたたちがしっかりしないから、私が頑張って稼ごうとしているんじゃない! それなのに、それをこの女たちが邪魔して……」

 少し目を潤ませた女は、春木の顎を右手で掴み、左手の煙草の火を近づけた。

 春木陽香は顔を煙草の先から遠ざけながら尋ねた。

「お、お金って、誰からですか。時吉さんですか」

 女は眉を吊り上げた。

「馬鹿にしてんの。それじゃ、まるで売春じゃない! 私は売女ばいたじゃないのよ。あの看板が見えないの。私はね、億乃目おくのめ組の三代目組長、森ルナよ。そんなことするわけ無いじゃない。白々しい女ね。本当はもう調べてるんでしょ」

「じゃあ、やっぱり……むぎゅ……」

 森ルナが春木の顎を右手で強く掴んだ。春木の両頬がムギュっとなる。

 春木陽香は占い師の言葉を思い出し、自分が頑張って誰かが救われるのならと、精一杯に声を出した。

「ひゃっはひ、あにょかいひゃへしゅか?」

 森ルナは首を傾げた。春木の発言の意味が理解できなかった彼女は、少し振り向き、助けを求めるようにスキンヘッドの男の顔を覗いた。スキンヘッドの男は自分の顎の下で手を動かして見せてから、春木を指差す。

 また、暫らく間があった。

 やっと意を察した森ルナは、春木の顎を掴んでいた手を弛めた。春木陽香はもう一度、言い直した。

「やっぱり、あの会社ですか?」

 普通に日本語を理解した森ルナは即答する。

「そうよ。NNJ社よ」

「姉御……」

 後ろに立っていたオールバックの男が、春木に必要以上の情報を提供してしまったルナを制止した。男たちは困ったような顔をしていた。

 森ルナは二人の男の顔を交互に見ながら、春木を煙草で指して言った。

「何よ。このオバサン、『あの会社』って言ったでしょ。やっぱりウチの組がNNJ社から仕事を引き受けたことを知ってたんじゃない。何よ、何が悪いのよ」

 オールバックの男は額に手を当てて項垂れた。スキンヘッドの男も空を見上げている。

 春木陽香はその女に、悪いのはあんたの頭だ、と言いたかったが、状況が悪化しそうなので、やめた。

 森ルナは再び煙草の火を春木の顔に近づけながら言った。

「とにかくね、せっかくの仕事をおじゃんにしてくれたんだからね。ちゃんとオトシマエはつけるからね。これがこの世界のルールなの」

 すると彼女の背後から、またオールバックの男が言った。

「姉御、『落し前』は下手を打ったモンが『つける』ものです。この場合、『落し前をつけろ』あるいは『つけさせる』が正しいかと……」

「いちいちうるさいわね。どっちでもいいじゃない。とにかく、私はあの変態ジジイから散々に屈辱を受けた挙句、二股まで掛けられていて、おまけにあんたたちの記事でそのことが世間に知られたんだからね。よくも人を笑いモノにしてくれたわね。その恨みがどれほどのものか思い知らせてやるわ。覚悟しなさい。まずは、これを、ホレ、ホレ……」

 森ルナは煙草の火を春木の顔に少しずつ近づけた。

 春木陽香は恐怖に目を瞑った。さっきの占い師の嗄れた低い声が脳裏を過ぎる。

  ――身の危険を感じたら、一度目を閉じて開いた後、誰でもいいから、最初に目に入った人に助けを求めるんだよ。その人が、あんたを助けてくれる。――

 春木陽香は期待を込めて目を開いた。彼女の視界に真っ先に飛び込んできたのは、少し向こうの古い自動販売機の前で必死に音声認識機能と格闘している初老の男の姿だった。古びた上着を着ているその初老の男は、自動販売機のカメラとマイクに向かって何度も「お茶!」と連呼している。

 春木陽香は心中で叫んだ。

(占い師い、お金返せえ!)

 だが、目の前に赤く輝く煙草の火を近づけられていた春木陽香は、中途半端に高額な占い料金に運命を託してみることにした。彼女は自動販売機の前の男に大声で叫んだ。

「すみませーん。助けて下さーい!」

 灰色のガンクラブ・チェックの上着を着たその初老の男は、こちらを向くと、片方の手を耳に添えて、音を集めようとしていた。よく聞こえていないようだった。

 春木陽香は再び心の中で叫んだ。

(聞こえてなくても、見れば分かるでしょ。助けてよ。ていうか、お爺ちゃんだし……。はあ、駄目だこりゃあ!)

 春木陽香が諦めかけたその時、その季節外れの厚手の上着を着た老人がトボトボと、春木を囲んでいた男たちの顔を見ながら歩いてきた。

「姉御……」

 老人に気付いたスキンヘッドの男がそう言った時、春木を押さえていた白いスーツの男が木刀で地面を強く叩いて老人を必要以上ににらみながら怒鳴った。

「おい、コラ。あっち行け、ジジイ。来るんじゃねえ! じゃまだ!」

「おい……」

 オールバックの男がその白いスーツの小男を制止したが、小男は老人に威嚇を続けた。

「あっちに行けって言ってんだろ。なに近づいて来てんだ、コラ」

 老人は、また片方の耳に手を添えて、聞き取りにくいと仕草で示した。

「ちょっと、ボーっとしてないで、さっさと追い払いなさいよ。なにやってるのよ」

 ルナの指示を受けて、白いスーツの小男は春木から手を放すと、一目散に老人の前に駆け寄り、そのガンクラブ・チェック柄のヨレヨレの上着の襟を掴んで大声を上げた。

「おい、コラあ。きこえねえのか。あっち行けって言ってんだろうが!」

 春木陽香も声を上げる。

「お爺さん、逃げて下さい! あ、出来たら、警察も呼んで下さい。いや、絶対、呼んで下さい!」

 老人は、目の前の白いスーツの小男の頭を手で横に退けると、大柄な二人の男たちに顔を向けて言った。

「だとよ。どうする?」

 大柄な男たちは無理に笑顔を作り、頭を掻いていた。

 森ルナは火の点いた煙草を路面に投げ捨てると、春木を放し、肩を上げて老人の方を向いた。そのまま老人を指差して癇声かんごえを上げる。

「ちょっと、あんた、何なのよ。ここが何処のシマか分かってるの? 私は奥乃目組三代目組長の森ルナ……」

 それを横からスキンヘッドの男が止めて、首を左右に振りながら言った。

「姉御、あの御方は……」

 白いスーツの小男は、老人の上着の襟を持ち上げた。

「テメエ、いきがってんじゃねえぞ!」

 すると、老人の上着の中に、脇にぶら下がっている革製の容器に挿された、銀色の物が見えた。白いスーツの男は木刀を両手で握って構え直すと、その場から腰を引いて後退しながら叫んだ。

「あ、アニキ! このジジイ、ちちち、拳銃チャカをもってますよ。やべえ!」

 オールバックの男はその白いスーツの小男の頭を上から強く叩くと、その耳を引っ張り寄せて何かを耳打ちした。白いスーツの小男は血相を変える。慌てて木刀を投げ捨てた彼は、飛び込むように老人の前に膝を着き、土下座をした。

「すみませんでしたあ! 失礼しましたあ!」

 老人は下で額を地面に押し付けたまま動かない白いスーツの男には目もくれず、恐縮して立っている大柄な二人の男たちの顔を強くにらんだ。

「テメエら、教育がなってねえんじゃねえか。なに一般人に手を出してんだ、コルァ!」

 今度の「コルァ!」はドスが利いていた。それは山野のそれよりも明らかに大きく、太く、本格的であった。その迫力ある怒声に大柄な男たちは下を向いて肩をすぼめている。さっきまで春木を脅迫していた森ルナは涙目になっていた。

 春木陽香は鞄を両手で抱えたまま、腰の抜けた猫のように壁沿いをヨタヨタと歩いた。その場を離れた彼女は全速力で駆け出す。必死で走って逃げていた春木は気付いていなかったが、さっきの占い師はもう居なくなっていた。

 春木陽香は無我夢中で狭い路地を駆けた。黒く真新しいリクルートスーツを着た若い記者は、イチョウ並木の大通りから差し込む光を目指して、暗く湿った狭い路地を脱兎のごとき勢いで走っていった。


                    2

 午後の新日風潮編集室は閑散としていた。記者たちはそれぞれの取材先に計画通りに出掛けている。室内には、春木陽香と別府博、山野紀子が残っていた。もう一人、会議室との仕切りの壁際に置かれた机の椅子を並べて、その上に寝そべっている男もいる。

 少し遅い昼食を済ませたばかりの山野紀子は、棘が付いた奇妙な湯飲みでお茶を飲みながら、机の上に浮かべた領収データのホログラフィー画像を覗いていた。彼女の机の向こうでは、春木陽香が椅子を回して山野の方を向いている。彼女は上着を脱いで白いブラウス着一枚のまま、不安気な顔で山野を見ていた。壁際の角の机の横で同じく椅子を回してこちらを向いている別府博が、腕組みをしながら言った。

「へえ。じゃあ、その爺さんのお蔭で助かったんだ。占い、当たってたじゃん」

「ええ。ですけど、料金が高くて。経費で落ちるかなあ」

 そう呟いた春木に、領収データのホログラフィー表示を閉じた山野紀子が言った。

「落ちるわけないでしょ」

「ですよね、やっぱり。――はあ」

 春木陽香は椅子に座ったまま項垂れた。山野紀子は呆れ顔で春木を一瞥した後、椅子の背もたれに身を倒し、険しい顔を彼女に向ける。

「あんたね、馬鹿じゃないの。寺師町の中裏地区って言ったら、新首都の新市街では一番危険な地域じゃない。色んな部類の恐い人たちが多い場所なんだから。そんな所に一人で行くなんて、どうかしてるわよ。それに『億乃目組』だって、今は弱体化しているとはいえ、かつては新首都圏を席捲した指定暴力団なのよ。生きて帰って来られただけ運が良かったと思いなさい。普通なら今頃、昭憲田池に沈められているわよ」

 春木陽香はしゅんとして下を向いた。山野紀子は続ける。

「あのね、私たちは警察や軍とは違うの。何も持ってないのよ。撃たれたり刺されたりしたらどうするのよ。記者に無茶は禁物だからね。次からは、ヤバイと思ったら、現場に飛び込む前に連絡を入れること。いいわね」

「はい。すみませんでした」

 山野に念を押されて、春木陽香はチョコンと頭を下げた。別府博が言った。

「しかし、あの女子大生が『億乃目組』の三代目組長だったとはなあ。もう一人は超高級マンション『ハリーカイ・ヒルズ』に住む水商売風の女か。こりゃ、記事のタイトルは決まりだな。『組長、キャバ嬢、司時空庁。三者の黒い繋がり。前長官時吉総一郎の不倫相手だった女たちの知られざる正体』。どうです、編集長」

 手で宙の文字を並べるような仕草をしながら自信あり気にそう言った別府を無視して、山野紀子は春木に尋ねた。

「その組長さん、NNJ社からお金が入る予定だったと言ったのよね」

「はい。そう言っていました。もう一人の女子大生も、実家が富豪という訳でもないようなのに、生活は随分と派手。パトロンらしき男の影もあります。ちなみに、組長の女子大生の方と違って、こっちの方は大学在学すら確認できません」

「つまり、『女子大生もどき』ってこと? 組長さんとの関係はないの」

「この二人は相互に関係は無いようです。お互いの存在を知らなかったようですから」

 春木の報告を聞いて、別府博が顔をしかめた。

「不倫で二股か。時吉めえ……」

 山野紀子は再度春木に尋ねた。

「そのパトロンの正体は?」

「法務局で『ハリーカイ・ヒルズ』の当該物件の名義を調べてみましたが、そのニセ女子大生の名義に直接、所有権移転登記が了されていて、他の人間の名前は出てきませんでした。住宅ローンを組んだ痕跡もありません」

 山野紀子は目を丸くした。

「新築で購入してるってこと? 女子大生が? ああ、『もどき』か……」

 春木陽香は頷いた。

「ええ。二年前に建築された新しいマンションですから。販売業者が所有権保存登記をしている以外、他に登記名義人になっている者はいませんでした。担保権の設定実績もありません。登記上は」

「だいたい、女子大生が住宅ローンを組んで高級マンションを買えるはずないものねえ。じゃあ、そのニセ女子大生は、あの新首都圏一の高級マンションを誰かからポンと買ってもらったということかしら」

「はあ。断言は出来ませんが、たぶん、そうだと思います。少なくとも、商店街の福引で当たったなんてことは無いと思いますので」

「そうよね」

 山野紀子は首を傾げた。その「女子大生もどき」は、氏名と現住所は判明していたものの、大学に進学する前の「第一就職」での勤務先や、出生地などの詳細なことは判明していない。謎が多かった。

 山野紀子は春木の顔を見ながら再度尋ねた。

「ま、憶測で構わないんだけど、ハルハル、あんたは誰が、そのニセ女子大生に高級マンションを買ってあげたと思う?」

「おそらく、NNJ社ではないかと。組長女子大生と同じで、何らかの報酬として」

「報酬かあ……。若い女を時吉に接触させて、スキャンダルを作出する。それが狙いだとすると、典型的なハニー・トラップね」

 視線を春木に戻した山野紀子は、続けた。

「だけど、時吉総一郎が現職の長官ならともかく、彼が退官したのは八年前よ。在野の人間となって久しい時吉に対して、NNJ社がそこまでの工作を施した理由は何かしら」

 別府博が横から口を挿んだ。

「時吉総一郎が引き受けている事件と関係があるのかも。パパ時吉も、一応はまだ弁護士登録をしているんですよね。その関係じゃないですかね。あ、もしかしたらNNJ社が関係している裁判で、相手方の代理人がパパ時吉だったとか」

 別府博は時吉総一郎を息子の時吉浩一弁護士と区別するために「パパ時吉」と称した。それをすんなりと聞き流した春木陽香は、別府に反論した。

「どうでしょうか。裁判に関係するのなら、相手方の代理人を脅しても意味が無いですよね。それに、弁護士を脅迫すること自体が、NNJ社のような大きな会社がとる対処としては、あまり現実的ではないような……」

 山野紀子が頷きながら言った。

「うん。それもそうね。私もそう思う。それに、一民間人の時吉に二重にハニー・トラップを仕掛けた理由としては説得力が無い。時吉が弁護士として受任している事件絡みという線は薄いわね」

「民間人……」

 そう呟いた後、床に目を落として少し考えていた春木陽香が、顔を上げて言った。

「逆に、時吉総一郎が民間人で無かったら意味があるということですよね。彼から司時空庁内の情報を得るとか……。そっか、情報かあ。NNJ社は時吉総一郎前長官から、彼が司時空庁長官時代に知り得た何らかの情報を得たいがために、女性二人を接近させた。あるいは……」

 山野紀子が言った。

「時吉を再び司時空庁の長官に据えるため。たしか、今の津田長官の任期はもうすぐ終わりよね。彼は二期連続して長官職を務めているから、次は司時空庁の長官にはなれない。女好きで野心家の時吉総一郎なら、若い女の子たちに煽られたら、すぐに返り咲きを狙って次期長官候補に名乗りを上げるかもしれないわね」

 春木陽香はコクコクと頷いた。

「NNJ社に弱みを握られた時吉総一郎が、傀儡かいらい長官として司時空庁を治めてくれれば、結局、NNJ社が司時空庁を支配することが出来ますよね」

「ええ。それに、今の津田長官は外国企業を毛嫌いしている。NNJ社もフランスのNNC社の日本法人に過ぎないからね。津田が退官しても、その思想の継承者が長官職に就いたら、やはりNNJ社は司時空庁には関与できなくなる。だから、時吉総一郎を送り込む必要があった。時吉なら、一年余りで退いたとはいえ、長官職の経験者だし、しかも、パラレル・ワールドの有無について田爪説と高橋説のどちらが正しいのかと世間を騒がせた『時吉提案』をした張本人。タイムトラベルについての哲学的な考察も深い。おまけに現役弁護士で弁護士界でも重鎮の一人ともなれば、彼が次期長官候補者に名乗り出れば、他の候補者を突き放してリードするでしょうからね。傀儡長官にするために擁立するには打って付けの人物ね。それなら、彼に二重にハニー・トラップを仕掛けた理由も十分に頷けるわ」

 二人の会話を聞いていた別府博が疑問を投げ掛けた。

「でも、そこまでしてNNJ社が司時空庁にこだわる理由は、何なんです?」

 山野紀子は首を傾げた。

「うーん。たぶん、あそこに何かあるからじゃないかしら」

 春木陽香が山野の推理に補足する。

「少なくともそれは、長官職じゃないと知り得ない極秘情報か、長官職じゃないと関与できない極秘事項、ということですよね」

「そういうことになるわね」

 大きく頷いてそう言った山野紀子は、春木を指差した。

「とにかく、その二人の女子大生の情報は、ハルハルの方から時吉浩一弁護士に送って。いいわね」

「はい。すぐに送ります」

 春木陽香は椅子を回すと、机の上の立体パソコンに向かった。山野紀子は部屋の中を見回して叫んだ。

「ライト、ライトお。居ないのお」

「はい、はーい。ここよ、ここ」

 会議室との仕切りの壁の辺りから声がした。山野がそちらに目を向けると、黄色いタオルをクルクルと回している手が見えた。その下から日焼けした男がムクリと起き上がり、疲れた顔で山野に言った。

「もう、今、目を休ませていたところなのよ。カメラマンは目が命なんだから」

 勇一松頼斗は湿った黄色いタオルを肩に掛け、目頭を押さえながら、そう言った。

 山野紀子は彼に尋ねた。

「例の論文は、読んだ?」

「ええ、読んだわ。もう、徹夜で読みまくったわよ。何回も。さっきまで読んでたんだから。あれ、物理の専門用語ばっかりじゃないの。あんなのネイティブでもすんなりとは解かんないわよ。死ぬかと思ったわ」

「すみません……ご迷惑おかけしました……」

 深々と頭を下げた春木に、勇一松頼斗は気にするなと手を一振りした。

 山野紀子は真顔でさらに尋ねる。

「それで、大体の内容は?」

 椅子を並べたベッドから立ち上がった勇一松頼斗は、気だるそうに自分の肩を揉みながら答えた。

「主に、タイムマシンの発射システムに関わる構造的な欠陥を指摘した論文みたいね。それと、現行のタイムマシンをモデルケースにして問題箇所を指摘してる。タイムトラベルの成功自体を否定しているわ。一つ一つの論点を丁寧に説明していて、論文としては、結構ちゃんとしたものだと思うわよ。たぶん、物理学系の研究者が書いたものでしょうね」

「発射システムの欠陥……」

 山野紀子が眉間に皺を刻む。

 伸びをしながら山野の机の前に歩いてきた勇一松頼斗は、欠伸を交えながら続けた。

「でも、欠陥の指摘だけで、どうすればいいかまでは書かれていない。一応の修正図のようなものは載っていたけど、実験では成功してはいないみたいね。今後の研究課題だと書いてあったわ。AT理論についても同じ。間違いだと思われる点の指摘で終わっている。数式の部分はよく分からなかったけど、結局、計算から間違いを見つけ出したみたい。なのに、間違いを修正した計算式の『確かめ』は、なされていないのよ。変よねえ」

 山野紀子は深刻な表情で聞いていた。彼女を一瞥した春木陽香が、勇一松に尋ねた。

「問題点だけが指摘してあるということですか」

 勇一松頼斗は質問した春木の方を向いて答えた。

「指摘っていうか、正確には証明ね。間違いを証明しているの。その間違い自体は、実験でも再現できたと書いてあったわ。どんな実験か分からないけど」

 別府博が腕を組んだまま呟いた。

「それが、あの立体動画の内容かあ……」

 すると、山野の声が飛んできた。

「別府君、堤シノブのヌード企画、どこまで進んでるの。進行予定は?」

 別府博は慌てて椅子を回すと、すぐに自分のパソコンの上にスケジュール表の立体画像を浮かべて、それを見ながら答えた。

「ええと、これからライトさんと打ち合わせて、今週中に撮影場所の選定とか、ロケバスの手配とかを済ませます。それから堤さんの事務所と打ち合わせて、撮影環境について本人の了解をとったり……」

 山野紀子は言った。

「ライト。近場のスタジオで至急、撮影できる? 今週号に載せたいの。頁は多めで」

「そんな、無茶言わないでよ。デジカメで記念撮影するのとは訳が違うのよ。準備だって大変なんだから」

「予告写真的な感じで、まとめて欲しいのよ。連休前と連休明けに臨時企画として巻頭カラーで本格的にいくから。中頁にも七頁当てる。ゴールデン・ウィークを挟んでの二週連続企画よ。どう?」

「え、二週連続? 巻頭と中七頁? マジ?」

「マジよ。今週は、その予告写真を載せたいの。趣旨は分かるわよね」

 勇一松頼斗は鼻息を荒くする。

「もちろん。やるわ、すぐ取り掛かる。見てなさい、男の好奇心をくすぐる芸術写真を撮ってやるから」

 勇一松頼斗は速足で会議室の入り口の横にある自分の机へと向かった。

 山野紀子は視線を変えると、次々と指示を発した。

「ハルハル、時吉の女子大生不倫の記事、とりあえずストップね」

「え? ――あ、はい」

「別府君、時吉総一郎関係の連載記事、今週から中断。読者に向けてのお詫びの記事を書いて、後日再掲載する旨を一文だけ入れといて。今週は、そこの分を堤シノブで埋める」

「ええー。今から差し替えですか。これ、特別号までの連載記事ですよ」

 椅子を回して山野の方を向いた別府博は、机の隅に置いた先週号の「週刊新日風潮」を指差しながら、そう言った。

 山野紀子は椅子から立ち上がっていた。彼女は腰を折って机の引き出しから何かを探しながら言った。

「うん。だから、これから製作局長と掛け合ってくる。ハルハル、時吉弁護士にデータを送ったら、昨日のデータの立体画像と論文の不明箇所の確認を資料室でしてきなさい。はい、これ、あんたの入室パス」

 机を回って春木と別府の前に来た山野紀子は、引き出しから取り出した認証機能付きの入室許可証を春木に差し出した。春木陽香は椅子に座ったまま、キョトンとした顔でそれを受け取った。そのパスカードには春木の氏名がアルファベットで印字されていた。「記者」という記載と共に。

 山野紀子は春木と別府の椅子の間を通りながら、パスカードを見つめている春木の肩をつついて言った。

「それから、あんたは暫くこの件に集中よ。別府君も。いいわね」

 別府を指差した後、山野紀子は速足で廊下の方へと歩いていく。

「はあ……」

 連れない返事をした春木の後で、別府博が不満そうに頬を膨らませて言った。

「ええー。せっかく堤シノブのヌード撮影なのに。あーあ……残念」

 彼はカクリと首を落とした。

 廊下の入り口の前で立ち止まった山野紀子は、振り向いて大声を出した。

「気を引き締めなさい! 二人とも」

 ビクリと肩を上げた春木陽香と別府博は、椅子に座ったまま山野の方を向いた。遠くの席の勇一松頼斗も椅子を回して山野に視線を向ける。

 山野紀子は春木の机の上を指差しながら真剣な顔で言った。

「もし、その論文に書いてある事が本当なら、来週の金曜日に司時空庁の発射施設から飛び立つ人々は、欠陥のあるシステムを使ったタイムマシンで時空間移動をすることになるのよ。それまでに真相を明らかにして、問題があるなら、すぐにでも発射を止めさせないと。この記事にはが懸かっているかもしれないの。もっと記者としての自覚を持ちなさい!」

 山野紀子はヒールの音を鳴らしながら、肩を上げて廊下の奥へと歩いていった。

 春木陽香は椅子に座ったまま、彼女の背中をじっと見つめていた。



                   3

 新日ネット新聞ビルの上層階にある社会部フロアの一番奥には、質素な次長室がある。隣の部長室は四方をしっかりとした壁で囲まれているが、この次長室は直角にビルの角を作る二面の窓壁と部長室との境の壁に囲まれた空間に寸足らずのパーテーションで蓋をして記者フロアから区切られているだけである。そのことを部屋の主である上野秀則はいつも不満に思っていた。彼はせめて室内の雰囲気だけは次長室らしくしようと、斬新なデザインのソファーや大きな観葉植物を置いたり、本棚に重厚な雰囲気の気取ったオブジェを飾ったりして、それらしい雰囲気を繕っている。しかし、その統一感の無いアンバランスな組み合わせが却って室内を雑多な空間にしてしまっていた。

 その次長室に、大き過ぎて座り心地の悪いハイバックの椅子に嵌め込まれたようにして座っている小柄な上野秀則デスクと、彼の机の前に立つ筋肉質な永山哲也記者、車座に置かれた四脚の流線形のソファーの一つを反対に向けて、それに難儀そうに腰を下ろしている長身の神作真哉キャップが居る。

 上野秀則が椅子から身を乗り出して言った。

「ドクターTの正体を調べる?」

 ソファーに不安定な感じで腰掛けたまま、神作真哉が答えた。

「ああ。あの時吉ジュニアがここを訪れたのも、単に交換条件の提示のためだけじゃないと思うんだ。それなら直接、下の風潮の方に行ったはずだろ。あいつがここに来て、わざわざ俺たちに文書の一部を立体再生までして見せたのは、何か理由があるからに違いない。たぶん奴も、この件が何か大事おおごとだと感じているんだよ」

 上野秀則は平坦な顔に困惑を浮かべる。

「いや、だがな、ストンスロプ社とアキナガ・メガネ社の特許争いの記事はどうするんだよ。時吉弁護士は、その件を突っ込んで来たんじゃないか。放り出す訳にはいかんぞ」

 神作真哉は落ち着いた様子で答えた。

「分かってる。だが、それは裁判が始まってからでもいいんじゃないか。それに、経済部の連中にでも回せば、向こうが株価情報欄で特集するかもしれんぞ」

「経済部かあ。奴らでちゃんと追えるかね。特許内容の概説に終始しそうだが……」

 上野秀則はしかめて頭を掻いた。

 永山哲也が上野に進言する。

「あの物理論文の内容が何かによりますが、司時空庁が何かを隠蔽していることは確かだと思います。しかも、相当にディープなネタじゃないかと。だからあの論文の筆者は、わざわざ『ドクターT』なんていうペンネームで投稿したんですよ」

「匿名での投稿くらいで、どうしてディープなネタだと言えるんだ」

 上野の問いに神作真哉が答えた。

「実名を明かせば、命を狙われる可能性があるってことかもな。それほど、やばいネタだってことさ」

「投稿者の方に実名を明かせない事情があるのかもしれんじゃないか」

「だから、それを探るんだよ」

「くだらん理由かもしれんぞ。若い学者が他人の論文を盗用して、自分の売り込みのために司時空庁に送ったとか、自信が無かったから匿名で送ってみたとか。ただのイタズラかもしれんし」

 神作真哉はソファーに座ったまま、上野に説明した。

「売り込みのためなら実名で書くだろう。自信が無ければ、いきなり司時空庁になんか送りはしないさ。あそこは文部科学省や新理研もびっくりの最先端科学を扱っている特殊官庁だ。博士号を持った専門の技官が揃っている。いい加減な論文なんかを提出しても、すぐにバレて相手にされないということは、俺たち科学の素人にも分かるじゃないか」

「まあな。確かに、新聞記者の俺たちには全くの専門外だよな。じゃあ、その俺たちがどうやって論文内容の真偽を判別するんだよ。詳しい内容も掴めずに記事は……そうだ、ウチの科学部の方で見てもらったら。あそこなら、理系の大学院出の奴が揃ってるから」

 上野秀則がそう提案すると、神作真哉は首を横に振りながら立ち上がった。

「いや、それはマズイ。あいつらに回したら、すぐにどこかの大学の研究室に持ち込むに決まっている。権威ある専門の教授たちに読ませて、その意見を集めてくるはずだ。そうなると、この筆者が匿名で提出した意味がなくなるぞ。科学者連中なら、作者が誰か特定してしまうだろうからな。そしたら、その作者の身に危険が及ぶかもしれん」

「そうか……そうなれば、ウチの責任だな。記事は載せられなくなるな」

 永山哲也が付け足した。

「それに、仮に学者からの意見を集めたとしても、それをどこまで信用できるか分かりません。司時空庁が教授たちに手を回すことは十分に考えられますから」

 神作真哉は深刻な顔で上野に言った。

「司時空庁はタイムトラベルに関する国内の研究を全て管理している。その司時空庁の長官は、あの津田幹雄。野心の固まりだ。今期で長官職を終えたら、次は政界に進出すると専ら噂されている男だぞ。政治部の連中が言っていたが、辛島からしま総理の次の政権での閣僚入りも噂されているらしい。その次の総理の椅子まで狙っているとか。もしこの論文の内容が奴にとって都合の悪い情報なら、こんな時にそんな情報が外に漏れることは何としても防ごうとするはずだ。科学者連中の口を封じたり曲げたり、何をするか分からんぞ」

 上野秀則は机の上に手を乗せると、重心を掛けて立ち上がりながら言った。

「まいったなあ……じゃ、どうすりゃいいんだ。こっちは科学の素人じゃねえか」

 神作真哉は自分の足下を指差しながら言った。

「下の『風潮』が手に入れたメールの添付データを全て俺たちに渡してくれれば、それを俺の知り合いに見てもらおうと思う。そうすれば、論文の内容が単なる冷やかしや悪戯のレベルかどうかが分かるだろ」

「知り合い? 誰だ」

 上野秀則は怪訝な顔で尋ねた。

 神作真哉は、今度は北の方角を軽く指差して言う。

楼森ろうもり町の科警研、あそこに俺の同級生が勤めているんだ。幼馴染でな。大学は別だったが、たしか専攻は物理。しかも、量子力学だったはずだ。そいつに読んでもらえば、信憑性のある論文かどうか分かると思う。ついでに、正確な内容も聞ける」

 永山哲也が尋ねた。

「岩崎さんですか」

 神作真哉は黙って頷いた。

 上野秀則は、永山の顔を見て尋ねた。

「なんだ、永山も知ってる学者か」

 永山哲也は首を横に振る。

「いいえ、直接お会いしたことはありません。ですが、信用は置けますよ。あの警察庁の科学捜査研究所の中で一番優秀な技官だって、僕がサツ回りをしていた頃から有名でしたから」

 上野秀則は短い腕を組んで、眉間に皺を寄せた。

「でも、いくら優秀だからって学生時代に量子力学を専攻していたくらいじゃ、タイムトラベルに関しては素人なんじゃないのか。司時空庁に送りつけられたってことは、論文の中身はそっちの方面のことだろう。その技官の専門外じゃないのかよ。警察の捜査でそんな技術は使わないだろうし」

 神作真哉が少し声を落として言った。

「確かにそうだが、ただ、こいつは、あの田爪健三博士と同じ大学の出身なんだ」

 上野秀則は驚いた顔で言った。

「タイムマシンを作った科学者の一人の田爪健三か。たしか彼も、もともとの専門は量子力学だったな。そうか……」

「いけるんじゃないですかね」

 永山の発言に背中を押されて、上野秀則は言った。

「うーん。そうだなあ。司時空庁も科警研にまでは手は回せないだろうからなあ。――よし、いっちょ、やってみるか」

 上野秀則は丸くした小さな目の上で眉を上げて、神作の顔を見た。

 神作真哉は上野に頷いて返すと、続いて彼に言った。

「とにかく、うえにょから下の『風潮』に、急いでその論文データを渡すように言ってくれないか。俺からじゃ、ほら、例の調子で駄目だから」

 上野秀則は椅子に腰を下ろしながら言った。

「ま、別れた元女房が相手じゃ、お前も……ていうか、うえにょって言うな。『上野デスク』だろうが!」

 永山哲也も上野に頼んだ。

「あと、僕たちをこの件の専属に当ててもらえませんか。うえにょデスク」

「専属? お前らをか。ていうか、『上野デスク』だ!」

 上野秀則は机を叩く。

 神作真哉は天上との間に隙間を開けたパーテーションの壁に目を遣りながら言った。

「ああ。本当はシゲさんと千佳ちゃんも欲しいところだが、二人には必要な時に手伝ってもらうとして、とりあえず今は、俺と永山で追ってみるよ」

 上野秀則は神作を指差した。

「当たり前だろうが。シゲさんと永峯まで付けたら、おまえらのチーム丸々じゃねえか。そしたら、社会面のトップ記事は誰が書くんだよ」

 神作真哉は上野の机の上に右手をついて前屈みになると、椅子に座っている上野に顔を近づけて言った。

「久しぶりに記者の腕が鳴るんじゃないか」

 上野秀則は横を向いて口角を上げると、照れくさそう手を振った。

「おいおい、ふざけんなよ。俺に記事を書けって言うのかよ。まあ、書いてもいいが、急に記事のレベルが上がると、読者も戸惑う……おい、コラ、待て!」

 神作真哉と永山哲也は黙って上野の部屋から出て行く。ドアを閉めた神作真哉は永山に言った。

「さて。あの論文の方は岩崎に読んでもらうとして、その返事をただ待ってる訳にはいかねえな」

「ですね。とりあえず僕は下の資料室で、タイムトラベルに関する研究をしている他の学者をリストアップしてみます」

「分かった。俺は、科学部の連中から、それとなく、タイムトラベルにも詳しい他の分野の学者たちの名前を聞き出してみるわ」

 そう言いながら席についた神作に重成直人が尋ねた。

「どうだった、神作ちゃん。デスクは聞き入れてくれたかい」

「ええ、何とか。理解のあるデスクですから。あ、そうだ。シゲさん、ウチの社内でタイムトラベルに詳しい奴、誰か知りませんか」

 重成直人は胡麻塩頭を撫でながら言った。

「タイムトラベルねえ。科学部なら、前に特集記事を年間で組んでいたから、皆詳しいと思うがね。前原デスクが一番詳しいかもな。ああ、経済部の小川君とか、司時空庁設立のゴタゴタを追った政治部の永池君、彼らも詳しいかもな」

「そうですか、ありがとうございます。小川と永池は……この時間じゃ、居ねえよなあ」

 壁の時計を見ながら神作真哉が肩を落とした。記事データをサーバーに送信する時限まではまだ二時間以上あり、大抵の記者たちは手払っている時間帯だった。実際、社会部の編集フロアの中も、ほとんどの記者が出かけていて、人は疎らだった。

 重成直人が神作に言った。

「俺が聞いといてやろうか」

 神作真哉は手を振って答える。

「ああ、いや。自分で電話してみます。それより、シゲさん。司時空庁の中に誰か親しい人は居ませんかね。つまり、その……」

「リク元かい」

 小声で返した重成に、神作真哉は細かく頷いて答えた。「リク元」とは情報を外部にリークする人間である。大抵の古い記者たちは官庁内に信頼する、あるいは弱みを握っている「リク元」を情報源として抱えている。当然、そういった情報源の類となる人物は古参の重成が社内では誰よりも多く知っていて、いつもならすぐに誰某の氏名があがるはずだが、今回は彼もしばらく記憶を探る必要があった。腕組みをして「うーん」と唸った後、彼は言った。

「司時空庁ねえ……いや、あそこは国のタイムトラベル事業の開始に合わせて設立された新しい官庁だからなあ、まだ出来て十年ってところだろ。ちょっと、居ないねえ」

「そうですか。シゲさんで居ないとなると、ウチの社内で、あそこの内部に情報源を持っている奴は居ないですね。困ったな……」

「何を探るんだい」

 二人の間に座っている永山哲也が小声で答えた。

「例の論文ですよ。どこから送られてきたのか。発信元を知りたいんです」

「発信元って、じゃあ、偽装されたメールだったんですか」

 重成の向いの席から永峰千佳が尋ねたが、永山も神作も答えなかった。答えられなかったのだ。彼らの様子を見て、重成直人が再び尋ねる。

「なんだ。メールじゃないのかい。ってことは、今時、郵送?」

 永山哲也は首を傾げる。

「さあ。時吉ジュニアがウチに持ってきたのは、津田長官からのメールに添付されたデータ形式でしたけど、その津田長官の所にどういった方法で届いたのかは分からないんです。送られてきた紙文書をスーパーPDFとかでデータ化して取り込んだものかもしれませんし、もともとデータ形式でメールに添付されて司時空庁に送りつけられたのかもしれません。オリジナルがどういう形状だったのかは、さっぱり」

 重成直人は更に尋ねた。

「直接に持参したという線は?」

 神作真哉が手を振った。

「いや、そりゃ、無いですね。司時空庁ビルのセキュリティーは異常なくらい徹底していますから。国防省並みです。実際、国防軍から出向している兵士たちで構成されたSTS(Space Time Security)とかいう連中が完全武装で常駐していますし、防犯カメラも多角レンズで撮影していて死角がない。論文を出した人物も、それくらいのことは知っているはずですよ。なあ、永山」

 永山哲也は頷いた。

「ですね。それに、勝手に侵入して論文を置いていった人物がいれば、まず捕まっているでしょうしね。仮に掴まらなかったとしても、防犯カメラの映像で面が割れるはずです。ところが、司時空庁のビル内で不審者が捕まったとか、後日不法侵入者が逮捕されたという類の話は聞いたことが無いですからね。提出方法は郵送又は宅配、あるいはメールだと思います」

 重成直人は立ち上がると、上着を腕に掛けて言った。

「じゃあ、郵便の方は俺が訊いといてやるよ。つてがあるから」

 神作真哉はベテランの先輩記者に頭を下げる。

「助かります。宅配業者は俺が当たってみます。メールの線は……」

 神作からの視線を察知した永峰千佳が、自分の顔を指差しながら言った。

「え、私ですか。またですか」

 永山哲也が期待を込めて言った。

「何か方法を考えてよ。千佳ちゃんなりに」

「そ。千佳ちゃんなりに」

 そう言った神作と永山を指差しながら、永峰千佳は言った。

「キャップも永山さんも、その、いかにもハッキングしろっていう目、やめてもらえませんか。司時空庁相手に不正アクセスなんて、やりませんよ。自殺行為じゃないですか」

 永山哲也は首を横に振りながら言った。

「いや、ウチの社員がハッキングは不味いでしょ」

 永峰千佳は口を尖らせて言う。

「前は、やらせたじゃないですか」

「あの時は、ほら、緊急事態だったし。それより、ウチの社員じゃなければ、問題はないよね、千佳ちゃん」

 永山哲也は、含みを込めてそう言った。

 神作真哉が眉間を摘まみながら下を向き、わざと永峰に聞こえるように言う。

「お友達の、ああ、何て言ったかな、あの天才ハッカー。ええと……」

 永峰千佳がその名前を出した。

「アクアKですか」

 神作真哉は額を叩いてから、大袈裟な素振りで言った。

「そう。そのアクアK。謎の天才ハッカー『アクアK様』。ペンタゴンとかインターポールのサーバーにも侵入した凄い奴、アクアK。いやあ、そうだった、そうだった」

 永峰千佳は流し目で神作を見て言った。

「わざとらしい。知りませんよ。それに私は友達じゃありません。あの人、犯罪者じゃないですか」

「でも、世界中の国の諜報機関が探している、あの『アクアK様』を見つけて直接通信したの、千佳ちゃんぐらいしか居ないじゃないか」

 そう言った永山の方を見て、永峰千佳は少しむきになって答えた。

「あれは、たまたまです。私は彼の呼子よびこじゃありません!」

「そう言うなよ。暇な時に、ちょっと頼んでくれるだけでいいから」

 神作真哉は永峰に向けて顔の前で手を合わせて懇願してみせた。永山哲也が腕組みをして天井を見上げる。

「ああ、キャップがこんなに頼んでるのになあ」

 そして、上を向いたまま涙を拭く素振りを見せる。

 永峰千佳はそんな二人の下手な芝居を交互に見ると、溜め息を吐いて観念した。

「もう。――じゃあ、一回だけですよ。返事が来るかどうか、分かりませんからね」

 神作真哉は顔の前で数回拍手をして言った。

「サンキュウ! ああ、シゲさんも、この件は仕事の合間でいいですからね。専属は俺と永山だけらしいですから」

「あいよ」

 そう返事をした重成直人は、出口の方に向かって歩いていった。それを見て、永山哲也も椅子から腰を上げる。

「じゃあ、さっそく僕も、下の資料室に行ってきます」

「おう、頼んだぞ」

 神作真哉はワイシャツの胸のポケットから取り出したウェアフォンをいじりながら返事をした。

 永山哲也は忘れ物がないか確認すると、腕まくりしたワイシャツの胸ポケットに資料室の入室パスカードを入れながら、社会部フロアの出口ゲートへと歩いていった。

 神作真哉はウェアフォンを耳の下に当て、永峰千佳はヘッドマウント・ディスプレイを顔に装着し、それぞれの仕事に取り掛かる。

 フロアのゲートを通ってエレベーター・ホールに出た永山哲也は端のエレベーターの前に立っていた重成に声を掛けようとした。すると、目の前のエレベーターの扉が開き、中から山野紀子が出てきた。彼女は挨拶をしようとした永山と重成の前を無言で通り過ぎると、ヒールの音を鳴らしながらゲートを通っていった。そのまま壁際の本棚沿いに、肩を上げてフロアの奥まで歩いていく。

 永山哲也と重成直人は顔を見合わせた。

 フロアの奥の「島」までやって来た山野紀子は、永峰の後ろを通り、永山の向かいの散らかった机の前に立った。その机の上を強く叩いた彼女は、神作に怒鳴る。

「ちょっと、データ渡せって、どういうことよ。渡さないって言ったでしょ!」

 ウェアフォンを顎から離した神作真哉は、首を反らして上野の個室の方を覗いた。上野秀則が半開きのドアの隙間から申し訳なさそうな顔を出して神作に両手を合わせている。

 溜め息を吐いて項垂れた神作真哉は、ワイシャツの胸ポケットにウェアフォンを仕舞いながら、山野の方を向いた。

 机の上に手をついたまま、反対の手を腰に当てた山野紀子は、顔を傾けて言う。

「あのね、私たち、この件で緊急特集を組むことにしたのよ。上層部とも話をつけてきた。だから、その記事がウチの雑誌に載った後なら、あのデータはそっちに回してあげてもいいわ。でも、今は渡せないわよ。時吉弁護士に情報を渡したのは、ウチなんですからね。分かった?」

 神作真哉は、両手をポケットに入れて椅子にふんぞり返ったまま、言った。

「あのさ、おまえ、もう少し落ち着いて話せないのかよ」

「うるっさい! 父親らしいこともしない元夫の顔を見てると、余計に腹立つのよ! とにかく、時吉弁護士に渡した情報はウチで調べた情報ですから、それと交換で貰ったデータを新聞の方に渡す訳にはいきません。じゃ、そういうことで」

 山野紀子はくるりと踵を返すと、そのまま帰ろうとした。

「ちょっと待て!」

 今度は神作真哉の怒鳴り声が響いた。

 首を窄めて立ち止まった山野紀子は、少し驚いた顔で振り返る。

 神作真哉は落ち着いた口調で、山野に諭すように言った。

「いいか、紀子。司時空庁は単身搭乗用のタイムマシンで、これまでに百人以上の人間を『過去』へと送っている。今月からは家族搭乗用の四人乗りマシンも飛ばし始める予定だそうだ。これからは、毎月、一人と一家族が司時空庁のタイムマシンで『過去』へと送られていくんだぞ。最多で五人だ。五人の命が毎月、司時空庁に託されることになる。その司時空庁に謎の物理論文が送り付けられてきた。そんなネタを掴んだ以上、真相をはっきりさせる義務が俺たちにはあるんじゃないか」

「だからって、どうしてそっちに……」

「分からんのか。場合によっては、あの論文の内容はタイムトラベルの安全性にかかわるものかもしれんだろ。新聞だの週刊誌だのと言っている場合か。が懸かっているんだぞ。データはコピーでいいから、こっちにも渡せ。新聞部門の方が情報網は広いし、早い。現実問題として、表層的な情報の収集は俺たちの方がそっちより早いんだよ。今月の発射日まであと十日しかない。それまでに真相をはっきりさせる必要がある。お互い、くだらんことで意地になっている場合じゃないだろう。こっちで調べた情報は全てそっちにも回す。だから、データをすぐに渡せ。今すぐだ。いいな」

 山野紀子は少し動揺した。さっき自分が春木たちに言ったこととほぼ同じ内容が、神作の口から発せられたからである。

 山野紀子は口を尖らせて言った。

「な、なによ。分かってるわよ、そんなこと。仕方ないわね。渡すわよ。但し、コピーだからね。真ちゃんのパソコンに送ればいいんでしょ」

「ああ。頼む」

 神作真哉は自分のパソコンに顔を向けたまま、無愛想にそう答えた。

 再び神作に背を向けた山野紀子は、ブツブツと独り言を発しながらゲートの方に歩いていく。

「何なのよ、あの態度。ちょっと、まともなことを言ったからって、カッコつけて。元夫だからって、調子に乗るんじゃないわよ。送ってあげるわよ。送ればいいんでしょ。言っておきますけどね、ウチの情報網だって、あんたたちの広く浅い情報網とは違うんですからね。ずーと深いんですから。週刊誌を馬鹿にしないでよね」

 ゲートの前で立ち止まった彼女は、また振り返り、フロアの奥の神作に叫んだ。

「下からすぐに送るからね。ちゃんと確認しなさいよ。いいわね」

 神作真哉は黙って手を上げて応える。

 山野紀子はプイと前を向くと、ゲートを通り、エレベーターの方へと歩いていった。



                    4                  

 新日ネット新聞社ビルの資料室は新日新聞社系列の全ての法人に共用されていた。入室用の電子パスさえあれば、系列会社の記者は誰でも利用できる。新日風潮社に入社したばかりの春木陽香は親会社の資料管理本部から個人パスワードを交付され、指紋情報の登録も済ませていたが、肝心の入室用パスカードが手許に届いていなかった。媒体の雑誌販売にこだわり続けて売上げが低迷している系列子会社の社員の悲しい現実かと思っていたが、今日やっと、そのパスカードを手にすることができたのである。春木陽香は自分が正規の記者として扱われていることに少し満足しながら、資料室の入り口で自分の氏名とパスワードを入力し、最後の入室ゲートで、そのパスカードを読み取り機に翳した。ドアのロックが解除され、「記者・春木陽香」の入室が許可された。春木陽香は胸を張って資料室の中に入っていった。

 資料室の中は広い。ビル中層階のワンフロア全てが資料室になっていて、系列会社の全ての取材記録や資料などの電子情報から、専門誌、他社の雑誌・新聞の類まで揃えられている。資料図書の蔵書量は巷の図書館よりも充実していた。資料室の約四分の一は閲覧フロアになっていて、長い机が何列も並べられ、その上に立体パソコンが等間隔で置かれている。奥の壁際には旧式のキーボードを備えた古いラップトップが数台並べられていた。プリンターも新旧様々なタイプの物が揃えられていて、困ることは無い。大容量検索用にタワー型コンピュータも設置されていて、予約さえすれば、社員は誰でもそれを利用できた。しかし、この資料室はいつもガランとしていて、ほとんど人の気配は無い。理由は単純である。世界最高水準の安全性と安定性を誇る「SAIサイファイブKTケーティーシステム」が国内に構築されたからだ。このシステムが構築された二〇二〇年以来、日本国内のネットワークは同システムによって一元管理され、過去のようにコンピューター・ウイルスに犯される心配は皆無となった。ハッキングによる国内被害が激減すると、世界各国の通信会社が自国のメインサーバーを日本に移転させたので、ネット情報のソースが日本国内に集中するようになり、机の上でダイレクトに安全に世界中の情報を検索することができるようになったのだ。インターネットそのものが数種類に分かれて多次元化し、それらが複雑に絡み合いながら情報世界が構築されるようになった二〇三〇年台において、二〇〇〇年代初頭のように一つのブラウザでスムーズにネット検索ができることは画期的である。それに加えて可接触式ホログラフィー技術が普及して以来、書籍のほとんどがホログラフィーによる疑似電子書籍となったために、わざわざここに足を運ばなくても、ネットを通じて電子情報として取得した疑似書籍をホログラフィーとして投影すれば、通常の書籍と同じように机の上で頁を捲ることができた。つまり、感覚的にも現物の本を手にする必要がない。それで、資料室で本物の紙製書籍を手にしたり、情報を検索してモノを調べる必要性など誰も感じていなかった。だから、新日社の記者たちも、ここを利用する者はほとんどいない。今や、この立派な社内資料室は「過去の遺物」または「無用の長物」と言っても過言ではなかった。

 春木陽香は、誰も使わないこの資料室が好きだった。新日ネット新聞で記者アシスタントをしていた時も、永峰や永山にパスカードを借りて、よくここに足を運んだ。もちろん永峰の特別なサポートがあってこそ出来たことだったが、とにかく、彼女はよくここへ来ていた。ここには「匂い」があり、春木陽香はそれが好きだった。何かを検索する度に、その検索結果の一覧から先輩記者たちの汗と涙が染み込んでいるような、そんな泥臭さが感じられた。古い紙の書籍も、ここに来れば揃っていた。一般の書店や町の図書館でも生の紙の書籍はまず見かけない。大抵はホログラフィーによる立体画像の本で、本物の紙でできた書籍と言えるのは再生紙を利用して発行することが認められている「週刊新日風潮」のような短期継続発行の雑誌の類のみである。子供の頃に見ていたような紙の分厚い書籍は有料の高級図書館か、国に高額の許可費用を払わずに営業している、いわゆる「闇本屋」くらいにしか置かれていない。ところが、ここには、その「紙の本」が壁一面に並んでいた。ここに来ると本の匂いがする。幼い頃に通った図書館で嗅いだ匂いだ。その匂いを嗅ぐと、なぜだか少しだけ幸せな気分になる。そうは言っても、彼女が特に「紙の本」に執着ている訳ではない。彼女も実際のところ、高校を卒業する頃には、ネットで検索した電子書籍データをクリック一つでダウンロードして取得し、ホログラフィーの擬似頁を擬似的に捲って読書していたし、今もそうしている。春木陽香はそういう世代だった。彼女にとって「紙の本」の香りは単に幼い頃の記憶を呼び覚ます触媒に過ぎない。彼女は今も若いが、もっと若い頃の頑張りを思い出して、ここで仕事に集中することが好きだった。謙虚に、粘り強く、丁寧に取り組む。それだけだった。彼女は本の香りが漂うここで仕事に取り組めば、昔のようにそうすることができ、昔のように仕事の効率も上がると信じていた。彼女にとって資料室は、そういう場所だった。

 春木陽香は今日も一人、誰も居ないこの資料室で資料検索用の端末に向かい、熱心に仕事に取り組んでいた。

「ええと……キュービットっていうのが、情報単位かあ。それで、アンサーティン……確定しない、不確定な、原理、不確定な原理。前方一致で検索……あった、不確定性原理かあ。なになに、量子力学の根本原理……量子力学?」

 寂しくなると独り言を発するのは人間の習性であるが、独り言は彼女の癖でもある。春木陽香は、目の前にホログラフィーで浮かんだ検索結果の一文に目を凝らしながら、またブツブツと独り言を発した。

「精密精度を高めた一系の二物理量は、双方を正確に測定することが原理的に不可能な場合があり……はあ……」

 干された洗濯物のように椅子の背もたれに寄りかかった彼女は、カクリと項垂れた。

「高校の時に物理の授業をちゃんと聞いとけばよかったなあ。こりゃ、参った」

 しばらく俯いていた春木陽香は、急に顔を上げて、その前で拳を握り締めた。

「うんにゃ。諦めちゃ、いかん。誰かのためになるって、占いのお婆ちゃんも言ってたしね。よし。これは私の天職、天職。頑張れ。――ええと、この本はどこにあるのかな」

 春木陽香はホログラフィーに表示された本の書籍番号と書架番号を電子メモ帳に書き出していった。

「お、やってるね。調べ物?」

 背後から男の声がした。振り向いた春木陽香はその男の顔を見て少し顔を赤らめた。

「あ、永山先輩。お久しぶりです」

 久しぶりに会った永山哲也は相変わらずスポーツマンといった感じで、ワイシャツを着ていても、その鍛えられた体がよく分かった。爽やかな感じも変わっていない。春木陽香は四十を前にしても若々しい憧れの先輩を見て少し安心すると共に、やはり資料室に来て良かったと思った。

 永山哲也は春木の顔を覗き込んで言う。

「なんだよ。出社しても、前の先輩たちには挨拶も無しかい」

「すみません。顔を出そうと思ってたんですけど、週刊誌も思った以上に忙しくて」

 というのは建前で、単に恥ずかしかっただけなのだが……。

 永山哲也は頷きながら春木の隣の席に座った。春木陽香は頬を少しだけ赤くしたまま暫らく黙っていたが、やがて意を決したように永山に言った。

「あの、先週の金曜日にうえにょデスクとシゲさんに廊下で偶然お会いして、その時に聞いたんですけど……永山先輩と神作キャップ、私の採用のことで黒木局長に掛け合っていただいたそうで。いろいろ、ありがとうございました。お蔭で、こうして……」

 頭を下げようとした春木を制止するように、永山哲也が口を開いた。

「ああ。ホントになあ。あんなに頑張ってたハルハルをどうして採用しなかっただろうな。僕もキャップも抗議したんだけど、ヒラの記者だからさ、どうにもできなくてね。なんか、悪いことしたなあって」

 永山哲也は人差し指の先で米噛みを掻きながら、そう言った。

 春木陽香はプルプルと首を横に振る。

「いいえ、とんでもないです。先輩たちのお蔭で、こうして記者になれましたから」

 春木陽香は首に提げた入室用パスカードを見せた。

 永山哲也はパスカードに印字されている春木の名前を確認して、口角を上げる。椅子の背もたれに肘を載せた彼は、眉を寄せて言った。

「人事の連中がね、販売の方なら採用してもいいとか言っていたんだよ。それを聞いて、君んとこの山野編集室長様がブチ切れちゃったわけ。そっちが採らないんなら、ウチで貰うわよ、バカタレがあって。あの人、キレると恐いから。だろ?」

 春木陽香は返答に窮した。既に山野に毎日のように叱られているからではなく、山野から聞いていた話とは微妙に違ったからである。春木陽香は少し考えた。

 椅子のキャスターを転がして春木の横に近づいて来た永山哲也が、焦点が合っていない春木の顔を覗き込んだ。

 春木陽香は、ハッとして、グッときて、パッと慌てて話題を変えた。

「き、キャップや永峰先輩も、お元気ですか。なかなか、お会いできなくて」

「だろうね。記事を書いてない時は、大抵、みんな取材に出かけているからね。ウチのチーム、人が足りなくてさ。ハルハルの後に二人入ったんだけど、すぐ居なくなっちゃったからなあ。――ああ、そうそう、みんな元気、元気。千佳ちゃんは、いつも通りのスタンスだし。神作キャップは相変わらず、君んとこのボスとガンガンやってるよ」

「はあ……」

 この四年間で、神作のチームも色々とあったのだと思い、春木陽香は永山に事情を尋ねようかと思ったが、今は自分は別会社の社員なので、と思い、詮索するのはやめた。

 永山哲也は春木の机の上のMBCを一瞥して言った。

「どう? 週刊誌の方、慣れた? あっちはあっちで、色々と大変だろ」

「まあ、頑張ります」

 春木がそう答えると、永山哲也は春木の机の上を指差して言う。

「それ、例の時吉弁護士が持ってきたデータだね」

「はい……あ、駄目です。室ち……編集長が、新聞の人には見せるなって」

「あら、もうすっかり週刊誌の人になっちまったな」

「私は風潮社の社員ですから。――でも、まあ、永山先輩なら……」

 春木陽香は机の上のMBCに手を伸ばした。

 永山哲也は言う。

「あれえ、それでいいのかい? 取材の秘密は死んでも守らなきゃ。まあ、死ななくてもいいけど」

「はあ……じゃあ、向こうに行ってください。――」

 春木陽香は頬を膨らませた。

 永山哲也は笑いながら言う。

「冗談だよ。さっき、うえにょデスクがノンさんに電話していたみたいだから、話がついたんじゃないかな。ノンさんも、上の編集フロアに来てたし。こんな顔して」

 永山哲也は仁王像の様な顔をしてみせた。春木陽香としては、よく理解できたが、一応、惚けた顔をする。それを見た永山哲也は、また笑いながら言った。

「たぶん、キャップの所にデータを持ってきてくれたんだと思うよ。だから、僕に見せても、問題なーし」

「そうなんですか。なーんだ」

 春木陽香は、ほっと息を吐いた。

 永山哲也は片笑みながら言う。

「なんだかんだ言っても、元夫婦だからね、あの二人。考えることは一緒なんだよ」

「ふーん……よく分からないですけど……。あ、じゃあ、どうぞ。見てください」

 春木陽香はMBCを永山の前に差し出した。

 永山哲也は受け取らない。

「あれ、僕の発言のウラは取ったの。確認しないと、僕が嘘を言っているかもよ」

「それは……分かっていますけど……私は先輩のことは信じていますから……」

 永山哲也は少し厳しい顔をして見せて、言った。

「それは駄目。ちゃんと確認しなきゃ。ノンさんに電話してみなよ」

「ああ……はい……」

 春木陽香はウェアフォンを取り出すと、その表面にホログラフィーで電話帳を表示させて、山野の携帯電話の番号を検索した。

 新日風潮の編集室で自分の立体パソコンを操作していた山野紀子は、机の上で突如として振動し始めたウェアフォンに驚いて少し声を出した。室内を見回して他に誰も居ないことを確認した彼女は、咳払いをしてからウェアフォンを耳の下に当てる。

「はい、山野です。――ああ、ハルハル、どうした?」

 春木陽香は要件を述べた。話を聞いた山野紀子は、頷きながら言った。

「ああ、いい、いい。見せてあげなさい。こっちもたった今、コピーをあの馬鹿男に送ったばかりだから。あ、でも、見せるだけよ。あんたが哲ちゃんにコピーデータそのものを渡す必要は無いからね。どうしてもデータのコピーが欲しかったら、哲ちゃんにも、直に私の所に来るように言いなさい。ムヒヒヒヒ」

 山野紀子は満足そうに片頬を上げる。

 ウェアフォンから発せられた春木の声が顎骨を伝わって届いた。

『はあ……分かりました』

 山野紀子は更にニヤリとして、春木に言った。

「それから、哲ちゃんからも、ちゃんと情報を取るのよ。あんたもいい歳なんだから、女の色気くらい使えるようにならないと。フェロモンを出したり引っ込めたりして、相手から情報を引き出すくらいのテクは身に付けなさい」

『はあ……フェロモンですか……』

「そうよ、フェロモンよ。いいわね」

 春木に無理なアドバイスをした山野紀子は、ウェアフォンを肩に当てて、必死に笑いを堪えた。すると、そのウェアフォンから永山の声が鎖骨を伝って聞こえてきた。

『山野編集長、笑い声が聞こえてますよ。ていうか、新人の女子社員に、その教育は良くないんじゃないですかねえ』

 山野紀子は慌ててウェアフォンを頬骨に当てた。

「ゲッ、哲ちゃん。聞いてたの? コルァ、ハルハル! ボスとの通話をハンズフリーでするな!」

 永山哲也のわざとらしい声が聞こえてくる。

『うわあ、ノンさんのフェロモン、強烈なだなあ。女の色気がケータイを通じて伝わってくる。僕も騙されないように気をつけまーす』

 山野紀子は一人で顔を赤くして怒鳴った。

「うるさい! テツ! あんた、ウチのハルハルを虐めたら、承知しな……」

 春木の横に立っていた永山哲也は、ニヤニヤしながら、春木の前の机の上に置かれているウェアフォンのボタンを押して通話を切った。隣の席に戻った彼は、椅子に腰を下ろしながら春木に言った。

「ちゃんと、ここまで確認とってから行動しなきゃ。もう、ハルハルも記者アシスタントじゃないんだから、記者としての自覚と責任感もって行動しないと」

「はい……すみません」

 春木陽香は少しションボリとして頭を下げた。

 永山哲也は小さく微笑むと、椅子に座ったまま春木の前の机の上を覗き込んだ。

「それで、何を調べているんだい?」

 春木陽香は少し慌てながら答える。

「ええと、この物理論文の中の不明な単語の意味を調べて、整理しています。でも、分からない言葉だらけで。正直、逃げ出したい気分です」

「始めて知る言葉を理解して、内容を整理して、事実関係を正確に読者に知らせるのも、記者の仕事だからね。やるしかないさ」

 そう言った永山哲也は、椅子の背もたれに身を倒すと、頭の後ろで手を組んで言った。

「でも、僕なら、アレを使うけどね」

「アレ?」

「前にさ、プロ野球選手の賭博詐欺をウチがスッパ抜いたことがあったでしょ。キャップと僕で試合の流れを分析して、千佳ちゃんがパターンを見つけ出したやつ。覚えてる?」

 春木陽香は記憶を辿った。以前、新聞社に勤務していた頃に神作のチームの一員として皆と協力して解決した事件が何件かある。その中の一つだ。野球……。永峰先輩……。

 春木陽香は口を開けて大きく頷いた。

「――ああ、私がホームランボールを捕っちゃった、あれですか」

「そうそう。あの時、野球のことを何も知らなかったハルハルは、どうやって野球用語を調べた?」

「ええと、ここでスポーツ用語の抽出エンジンを使って……あ、そっか。そうですね」

 春木陽香は、立体パソコンのホログラフィー・キーボードに手を伸ばすと、すぐに作業に取り掛かった。横で永山哲也が言った。

「あの時と同じようにすればいいのさ。その論文の中の用語とネット上の科学用語を照合して、一致しているものだけ、用語辞書から抜き出すようにソフトにやらせればいいんだよ。横にウチで保管している過去の関連記事の番号を並べたらいい。その番号のリンクを貼っていく方が簡単だろ? 実物の書籍はそれを手ががりに紐解いたらいいさ」

「そうですね。忘れてました。なるほど、そうか、そうか」

「コンピュータは道具だからね。うまく利用しないと」

「ありがとうございます。あ、データが完成したら、先輩にも渡しますね」

「オーケー。助かるよ。ああ、そうだ。こっちは今頃、キャップがノンさんから貰った論文データのコピーを科警研に送っていると思うから、その返事が来たら、ハルハルにも教えるよ」

 春木陽香は作業の手を止めて、永山の顔を見た。

「科警研に、ですか?」

 永山哲也は頷く。

「うん。そこの技官がキャップの同級生だそうで、この分野に明るいかもしれないんだ。だから、その人に読んでもらって、正確な論文なのか判別してもらうことになった」

「そうなんですか。ウチでも、ライトさんって人に読んでもらったところですけど……」

「カメラマンの勇一松頼斗さん? ああ、あの人、帰国子女だからね。英語は堪能かあ。だけど、論文の意味は分かったの?」

「大まかに、タイムマシンのシステム構成の否定とAT理論の間違いの指摘だって言っていました。文章としては、ちゃんとしていて、整っているって」

「大まかにねえ……」

 永山哲也は勇一松の感想に懐疑的な様子であった。彼は言った。

「でも、それって、タイムマシンに欠陥が有るってことかい? やっぱり、キャップのにらんだ通りだ……」

 今度は永山が宙を見上げて、何かを考えていた。

 春木陽香は、わざと永山の顔を覗きこんで、彼に言った。

「永山先輩は、何を調べに来たんですか」

 春木から顔を離した永山哲也は、言った。

「ああ、タイムトラベルの研究をしている学者を調べようと思って。こっちは、その論文の筆者『ドクターT』の正体を明らかにしようって」

「あ、じゃあ、先輩たちと共同取材ですね」

 春木陽香は嬉しそうにそう言った。

 永山哲也は首を傾げて答える。

「どうかなあ。個人的にはその方が効率がいいと思うけど、ウチのキャップと君のボスのノンさん、表面上は仲悪いからねえ。どうなることやら」

「ええー。また皆さんと仕事が出来ると思ったのに。キャップと編集長、どうして別れちゃったんですか。お子さんもいるのに」

「さあ。夫婦には色々あるからね。ほら、仕事、仕事。タイム・イズ・マネーだよ」

 永山哲也は急に椅子を元の位置に滑らせて、机の上のパソコンに向かった。春木陽香は口を尖らせて、少し物足りなそうな顔でパソコンに向かう。二人は、それぞれの作業に取り掛かった。



                    5

 資料室の中には永山哲也と春木陽香の二人だけだった。永山哲也は検索用パソコンの上に何冊もの分厚い資料をホログラフィーで表示させ、そのあちらこちらの頁を開きながら黙々と作業をしている。春木陽香は視界に入る永山を横目でチラチラと見ながら、満足気に笑みを浮かべていた。自分の机の上に並べた紙の本が視界に入って我に返った彼女は、その頁を捲りながら頭をプルプルと振って、仕事に集中するよう自分に言い聞かせた。ホログラフィーのキーボードの上で必死に指を動かす。少し入力しては横目で永山を見てニンマリとする。また頭を振る。キーを打つ。チラリと見てニンマリする。キーを打つ。彼女はそれを繰り返していた。

 暫らく作業をしていると、永山が声を上げた。

「うわっちゃ。結構いるなあ、こんなに居るのかよ」

「どうしました」

 春木陽香は永山に顔を向けた。今度はしっかりと彼の顔を見ることができた。

 眉を八字にした永山哲也は、椅子の背もたれに背中を押し付けるように当てて、机の上に浮かんでいるホログラフィー文書を指差した。

「いや、タイムトラベルの研究者をリストアップしようと思ったんだけどさ、調べてみたら、ウチの社で把握してるだけで世界中に二千人以上はいるんだよ。ネットの検索でヒットした人物は、プラス約八百人。参ったな、こりゃ」

 春木陽香は怪訝な顔をして言った。

「でも、『ドクターT』さんは日本人なんじゃないですか。日本の官庁である司時空庁に送ったってことは」

「うん……その可能性が高いとは思うけど、一応、世界中で調べとかないとね。でも、これじゃあ、絞りようがないなあ。マニアで個人的に研究している人間も世界中にいるみたいだし。戦争中の南米にもいるらしい。こりゃ、二八〇〇人どころじゃないな」

 永山哲也は顔をしかめて、短髪の頭を掻いた。

 春木陽香は永山の椅子に自分の椅子を寄せ、その幾つかのホログラフィー文書に顔を近づけて読みながら言った。

「世界中でも、タイムトラベルに成功して正式に国家事業としてやっているのは日本だけですからね。それに追いつこうと、どの国の学者さんも、国の支援を受けて必死に研究しているんですね」

 永山哲也は机の上のホログラフィー・キーボードの上で指を動かしながら言った。

「だな。夢のマシンだしね。日本はタイムトラベルに関する研究情報を技術検疫の対象に指定しているから、研究成果を国外へは持ち出せない。ああ、やっぱり。国内のどの研究者も、司時空庁の管理下で研究をしているんだ」

 永山が使っているパソコンの上に投影されたホログラフィー文書には、人物名と所属団体名が並んでリスト表示されていた。どの科学者の氏名の横にも「司時空庁下」という文字の後に各研究団体の名前が記載されている。タイムトラベルあるいはタイムマシンに関する研究をしている人間は全て、司時空庁主催の何らかの団体に所属していた。

 春木陽香は首を傾げて言った。

「でも、そうなると、『ドクターT』さんは司時空庁の管理の目を盗んで研究をしている人ってことですよね。司時空庁が把握している研究者なら、正規のルートを通して本名で司時空庁に論文を提出すればいい訳ですから」

「うーん。それが出来ない事情があるのかもしれないけどね」

「でも、技術検疫で国外に情報を出せないってことは、やっぱり、国内の研究者じゃないですか。だって、司時空庁が飛ばしているタイムマシンの構造的な欠陥を指摘しているということは、その構造内容を知ることができる人物だということですよね」

「確かにね。だけど、外国に技術情報が漏れた可能性も否定できない。違法に入手した情報を基にした論文だから、匿名で出したってことも考えられるだろ」

「そっかあ。それもあり得ますねえ。うーん」

 春木陽香は腕組みをして頬を膨らませる。

 永山哲也は、そんな春木を一瞥して言った。

「そっちは、終わった?」

「あ、はい。お蔭様で。ほとんど一瞬で終わりました。今、整理していたところです」

「でも、羅列された単語には目を通さないと駄目だよ。機械任せじゃ」

「はい。そうします」

 春木陽香は席を立って、机の向かいに置かれている、街の自動販売機くらいの大きさの鉄製の箱の前に向かった。その様子を見て永山哲也が言った。

「あれ、何やってんの」

 春木陽香は、その横に置かれた小さな机の椅子を引きながら答えた。

「このタワー型のコンピュータを使って、立体動画の再生をしてみようと思って。動画の解像度が高すぎて、ホログラフィーに使うメモリー数が多いらしいんです」

 永山哲也は春木が手に持っているMBCを指差して尋ねた。

「その論文の?」

「はい。論文中の実験データの証拠動画みたいです。一緒に付いてました。ああ、それに消費電力も相当に高いらしくて、外部電力型のパソコンじゃないと無理だそうなので」

 春木陽香は机の上に置かれた立体パソコンの電源を入れると、横の鉄製の箱から伸びたケーブルをその立体パソコンの横のソケットに差し込んだ。そこへ、椅子を持って永山哲也がやって来た。

「ふーん。じゃ、僕も見てみようかな」

 椅子を春木の席の横に置いた永山哲也は、その上に腰を下ろした。

 春木陽香は、ホログラフィー再生のソフトを起動させながら、また少し顔を赤らめた。

 MBCを立体パソコンに差し込んだ彼女は、コピーした立体動画の圧縮ファイルをその大型コンピュータの中で解凍した。春木陽香が先に映し出された再生ボタンのホログラフィーに触れると、机の上の立体パソコンが空中に高画質のホログラフィー画像を映し出した。

 二人は、その立体動画から椅子を引いて少し離れると、横並びに座った。

「あ、始まった」

 春木陽香は恋人と映画でも見るように少し緊張しながら椅子に座って、目の前で始まった立体投影の動画に目を向けた。

 金属の箱の中に入れてある小さな植木鉢の植物が現われた。その中央に一瞬だけ緑色の光が集まり拡散する。その植物は一瞬で変形し、植木鉢ごと縦に割れた。そこで動画は終了し、停止した。

 永山哲也は停止した立体動画を怪訝な顔で見つめたまま、春木に尋ねた。

「たったこれだけ? これ、何の実験?」

「ええと……」

 春木陽香は立ち上がり、机の上のアイコン・ホログラフィーに手を伸ばした。動画ファイルに添付されていたリンク・ファイルを開き、実験について記載されている論文データの該当箇所を動画の横に表示させてみる。立体動画の斜め奥に、少し厚い冊子がホログラフィーで表示された。それは該当箇所の部分で頁が開かれた状態だった。手でそのホログラフィー画像の向きを変えた彼女は、その英文を目で追いながら、後ろの永山に答えた。

「実際に有機物をタイムトラベルさせる実験みたいです。ええと……」

 論文の立体画像の頁を捲りながら、春木陽香は必死に実験の趣旨を掴もうとした。暫らくホログラフィーの頁を捲っていた彼女の手が止まる。

「あ、カーボン・フォーティーン法による測定結果……アイソトープをなんちゃら、かんちゃら……この植木鉢の植物を炭素測定したみたいですね。測定箇所は……十六箇所。比較用のタイムトラベルさせていない植物と、ええと、一、十、百、千、……十億分の一レベルで一致。タイムトラベルしてないってことですかね」

「みたいだね。あ、ほら、次の立体動画だ」

 振り向いた春木陽香は自動で始まった次の実験映像に目を向けた。それは立方体の金属の塊だった。その下に直線定規のような合成された目盛りが浮かんでいる。それを見て、永山哲也が言った。

「これ、小さいね。拡大できる?」

「はい。たぶん、この目盛りを……」

 春木陽香は目盛りの上の小さな三角に触れて摘まむと、目盛りの上を右に動かした。すると、それに合わせて立方体の立体画像が等倍で拡大された。拡大しても、その立体画像の画質は全く荒れることは無かった。その画像は本物と見間違えるほどに鮮明で正確なものだった。

 永山哲也は拡大された金属塊の前で腕組みをしたまま、言った。

「すごいな。超精密解像度だね。まだ拡大できるみたいだよ」

 春木陽香は永山に指差されたとおり、小さな三角を更に右にずらしてみた。すると、三角が端に移動する度に、その隣に目盛りの先が追加されて、更に拡大することを許した。

 春木陽香は金属の塊をどんどん大きくさせながら、言った。 

「ですね。ナノレベルまで拡大できるみたいですね。すごい、すごい」

「あ、戻して。何か出てきた」

 永山の指示に従い、春木陽香は金属の立方体を全体が視界に入る大きさに戻した。すると、立方体の六面に向けて金属の棒が延びてきて、その立方体を六面から支えた。

 春木陽香はドキドキしながら言った。

「何が始まるんだろ」

「シー」

 六本の柱で各面の中央を押さえつけられて支えられた立方体を緑色の光が一瞬包んだ。その瞬間、右側と下と奥の金属棒が折れて、立方体が落下した。

 永山哲也が大きく首を傾げた。

「なんじゃこりゃ」

「何の実験でしょうね……」

 春木陽香は、さっきと同じように論文データから立体動画の提示箇所を探そうとした。

 永山哲也は、その立体動画をもう一度再生させようと、ホログラフィーの操作ボタンの立体画像に手を伸ばした。その時、何かに気付いた彼が春木に言った。

「ああ、ハルハル、それより、この金属が折れた面のところ、拡大してみて」

「あ、はい。この辺ですか……」

 春木陽香は永山が指定した箇所をズーム機能で拡大した。

「限界まで大きくしてみようか」

 永山に言われたとおり、該当箇所を最大倍率で拡大してみた。その赤や青が混ざったザラついた面を見て、春木陽香は正直な感想を口にした。

「うわ、気持ち悪い。金属の表面って、こんなにデコボコしてるんですね」

 永山哲也は立体動画を一時停止させた。傷だらけの金属表面の上に、四方から紫色の細い光線が当てられている。永山哲也は言った。

「うん。それより、このレーザー光線みたいなの、一、二、三、四本。これ、何」

「ええと……」

 春木陽香は中腰のまま手を伸ばして論文データ画像の頁を捲り、該当箇所に書いてある文章を読みながら、内容を翻訳した。

「十五ペタヘルツの紫外線の光線……ですね。EHF……ええと、EHF、EHF……」

 春木陽香は、さっき座っていた机に戻り、整理した専門用語の中からそれを探した。

「EHF……ああ、『ミリ波』かあ」

 論文データ画像の前に戻ってきた彼女は、その該当箇所を自分なりに翻訳してみた。

「ええと、二百九十六ギガヘルツのミリ波を……の一定間隔での照射も行っている……位置変化、位置の変化、ん、座標かな……厳密に測定して……とか、何とか」

 永山哲也は腕組みをして、拡大されたまま停止している立体画像を眺めながら言った。

「要するに、超精密に、この金属体の位置を測っているってことかあ。で、また、タイムトラベルの実施実験?」

「ええ。そうみたいです。フェーズ・エイトに則して、ナントカカントカ……」

 永山哲也は春木の翻訳を諦めて、次に進めた。

「まあ、いいや。拡大した状況で、もう一度、再生してみよう」

 永山哲也が立体表示された再生ボタンに触れた。春木陽香が隣の席に戻る。

 立体動画が始まった。周囲が緑色の光に包まれた後、一瞬、金属体の輪郭がぼやけたかと思うと、支えていた金属棒の先端に近い部分が白く輝いた。そこからは、線香花火の最後のような赤く輝く塊が落下し、その金属棒も折れて落下した。

 永山哲也は瞬きしながら春木に確認した。

「んん? 今、動いたよね。一瞬、右に。そんな感じがしたけど」

「ええ。私にも、そう見えました。ほんの少しだけ、右に動いたような」

「動いたっていうか、重なって見えなかった? 一瞬だけ」

「ええ。もう一度、再生してみましょうか」

 春木陽香は再生ボタンの像に手を伸ばした。二人は椅子の上で前屈みになり、もう一度再生された立体動画に目を凝らした。再生が終わると、永山哲也は停止したままの立体像を見ながら、春木に言った。

「だよね。重なって見えるよね。ほんの一瞬だけ。で、その重なった所の方の面を支えている金属棒が一瞬で溶けて折れた」

「ですね。論文では……」

 春木陽香は椅子から立ち上がり、再び、立体画像の横に浮いているホログラフィー画像で表示された論文の頁を捲った。該当頁を開いて内容を読んでいた春木陽香は、それを永山に伝えた。

「位置……場所の移動が確認できる。マイクロレベルの、ええと、零コンマ零二マイクロメートルを基準として、三ブロックの移動が確認された……」

 永山哲也は、また自動で始まった新しい立体動画を指差しながら、春木に言った。

「次の動画は?」

 慌てて席に戻った春木陽香は、それを見て眉間に皺を寄せた。二人の前にはカプセル錠剤のような形状の軟体らしきモノが浮かんでいた。その端からは何本もの紐状のモノが垂れていて、ウネウネと動いている。

 春木陽香は顔をしかめながら、永山に言った。

「何でしょうね、これ。この表面とか、微妙に震えてますよ。うえ、気色悪い」

 上下左右に体らしき部分を震わせながら動くそれは、やはり緑色の光に包まれると一瞬で輪郭がぼやけて、ごく少しだけ右に移動した。すると、それの右側の縁に近い縦一列の部分が四方に飛び散り、その欠片が二人に向かって飛んできた。二人は反射的に上半身を後ろに逸らす。その砕片は撮影の際のレンズに付着したらしく、二人の前には、停止した緑色のカーテンのようなモノが宙に浮かんでいた。永山哲也は、彼の肩に手を掛けてしがみ付かんばかりに身を寄せたまま目を瞑っている春木に尋ねた。

「これを提示している部分は?」

「あ、はい、ええと……」

 春木陽香は慌てて永山から離れると、顔を紅潮させたまま逃げ出すように論文データのホログラフィーの前に向かった。彼女は左手で髪を耳に掛けながら、必死に頁を捲る。

「ああ、ええと、その……また、タイムトラベルの実証実験です」

「それは分かってるよ。また、移動してるって結果だろ。下に目盛りが付いているところをみると」

「ええと……はい。そうですね。ええと……。ゲッ!」

 論文データのホログラフィー上の説明文を読んでいた春木陽香は、口に手を当てると、動きを止めた。そして、クルリと振り向き、今にも泣き出しそうな顔をして立体動画を指差しながら言う。

「これ、大腸菌だそうですう」

 永山哲也は呆れ顔で言った。

「いや、これは立体動画だから。こんなデカイ大腸菌は無いし」

「そ、そうですね。すみません」

 再び論文データに顔を向けた春木陽香は、それを読みながら、難解な用語で書かれた英文を必死に永山に翻訳した。

「ええと、rRNA……って何だ。それから、ペプチド結合の崩壊が……んん? カルボキシルの消失により、――ええと、云々かんぬん……細胞が死滅した。――だそうです」

 永山哲也は一度首を傾げると、腕組みをして天井を見上げながら考えた。

 隣の席に春木が戻ってくると、彼は横を見て春木に言った。

「要するに、さっきの金属と同じだ。少し横に動いたから、細胞のタンパク質の構成が崩れて、死滅した。ていうか、砕けて飛び散った」

 春木陽香は永山の顔を見たまま、何度も瞬きして言った。

「どういうことなんでしょう」

 永山哲也は深刻な顔をして考えている。そして、言った。

「こりゃ、大変だぞ。司時空庁が飛ばしているタイムマシン、中の人間は死んでいるかもしれない。もしかしたら、とんだ失敗作のマシンに人々は乗せられているのかも」

「ええ! し、死んでるって、この大腸菌みたいにですか」

 春木陽香は再び停止している緑色の板状のホログラフィーを指差して、そう大きな声で言った。

 永山哲也は顔を軽く左右に振ると、深刻な顔をしたまま春木に言う。

「いや、もっと酷いことになっているかもな」

「……」

 さっきの細胞の立体動画を思い出しながら、それが生きた人間だったらと考えている春木に、永山哲也が尋ねた。

「ハルハル、お昼、なに食べた」

「海老ドリアです……ウッ」

 春木陽香は口を押さえたまま、永山の反対の方に顔を向けた。

 永山哲也は停止したホログラフィーの像に顔を向けたまま、隣で彼に背中を見せて嘔吐えずきを堪えている春木に言った。

「でも、この実験、どれも小さいもので実施しているなあ。普通、この手の実験は重粒子線の照射装置とか、巨大な物理実験施設で実施したりしないか。なのに、この実験は、なんか、こう、間に合わせの実験って感じだなあ」

 涙目になりながら、春木陽香は必死になって答えた。

「うう……そ、そうですね。しかも、絶対に自分が映らないように、撮影位置を……固定して……始めていますし。人目に付かない様にして実験したって印象は、うう……受けますね。ウプッ……」

 口を押さえて嘔吐の欲求と闘っている春木の横で、永山哲也は椅子から腰を上げた。

「だろ。ちょっと待てよ……」

 永山哲也は、さっき座っていた閲覧用の机に戻り、使っていた立体パソコンのホログラフィーのキーボードの上で指を動かし始めた。春木陽香は必死に深呼吸しながら、目の前のホログラフィーを消し、頭に浮かんだ昼食の海老ドリアと粉砕した大腸菌の像を忘れようとしていた。暫らく南国の美しい海の景色を頭の中に描いた彼女は、もう一度深く呼吸をしてから、永山の方を見て言った。

「ふう……。あ、永山先輩、何やってるんですか」

 永山哲也は、目の前に浮かんだ人名リストを指先で摘まんで二つに切り分けたり、軽く叩いて消したりしながら、春木に答えた。

「さっきの大量の科学者のリストから、大学や研究所に所属している人物を除いているんだ。どうも、そういう所で実施した実験ではないような気がして」

 暫らくすると、動かしていた手を止めた永山哲也が言った。

「あら。駄目だ。全員が、どこかの研究機関に所属してる。残りゼロ。そうなると、モグリの研究者を……ん?」

「どうしたんですか」

 永山哲也は、ホログラフィーの隅に浮かんでいる小さな張り紙を拡大すると、それに目を向けながら春木に言った。

「いや、ここ、タイムトラベルの研究者が集う外国の学会のウェブサイトなんだけど、この書き込み……」

 大型コンピュータの片付けを済ませた春木陽香も、さっきの閲覧用の席に戻ってきた。そのまま永山の隣に移動した彼女は永山の横に立って、彼が指差したウェブサイトの文章を覗き込んだ。

「ええと……これ、スペイン語ですか。私、英語以外は全くですので」

 永山哲也は春木の顔を一瞥すると、その文章に目を置きながら言った。

「いや、ポルトガル語だね」

「分かるんですか」

「少しね。サッカー好きだから」

「なんて書いてあるんです?」

 永山哲也は腕組みをして言った。

「こう書いてある。『我々にも、神がいる。必ず過去に戻って、日本の爆発の真相を明らかにする。彼は我々の味方だ。我々は既にタイムマシンの製造に成功した』、だって」

 ポルトガル語をスラスラと翻訳した永山に驚きと尊敬の眼差しを向けながら、春木陽香は彼に尋ねた。

「彼って、誰ですか」

「さあ。書き込まれているのはこの文章だけだからね。でも、学者の文章じゃないね。文体が軽過ぎる気がするし、何となく扇動的だ。内容もいい加減だし、神がいるって……。きっとこれは、学会に対する挑発文だろう。ていうか、世界に対するね」

「日本の爆発って、二〇二五年のあの核テロ爆発のことですかね。タイムマシンの実験施設が破壊された」

「たぶんね。だとすると、この文章を書き込んだのは、南米ゲリラの人間だろうな。あの攻撃を仕掛けたのは、彼らだから」

 春木陽香も腕組みをして言った。

「でも、真相を明らかにするって、どういうことなんでしょう。今の南米戦争はあのテロ攻撃をきっかけとして南米連邦政府が始めたゲリラ掃討作戦に環太平洋諸国が相乗りしたのが始まりでしたよね。戦争が始まって十年になるのに、今頃、やったのは自分たちじゃないと言うのでしょうか」

 視線だけ春木に向けた永山哲也が言った。

「もしそうなら、何年経とうが、言い続けるだろうね。やってないことはやってないってね。もし、そうなら」

 春木陽香は、さらに尋ねた。

「タイムマシンの製造に成功しているって、その『彼』がですか。本当でしょうか」

「分からないけど、神様扱いされている人物だというのは、分かるね。現地ゲリラの人々から、かなり崇拝されているのかもしれない。ということは、よほどの天才か、とんでもないペテン師か」

「まさか、この人が『ドクターT』さん……」

 両手の人差し指でそのホログラフィー文書を指差した春木陽香に、永山哲也が言った。

「いや、まだ分からないけど、何か気になるね。ちょっと他でも調べてみよう」

「場所は分かるんですか」

「南米連邦の公用語はスペイン語。だけど、旧ブラジル連邦共和国だった地域だけは、ポルトガル語が使われているんだ。南米大陸では唯一ポルトガル語を使用する国だったからね。つまり、このメールは南米大陸の北部、戦闘地域の真っ只中から発せられた可能性が高い。そう考えると、文面もそんな感じだ」

 永山哲也は、再びホログラフィーの前で手先を動かし始めた。春木陽香はその様子をじっと見つめた。永山哲也が手を止めて、怪訝な顔で言う。

「なんだ? 『日本』を検索ワードに加えると、『真明教』のことばかり出てくるぞ」

「『真明教』って、あの、黄色いジャージの人たちですか。教祖は、南正覚みなみしょうかくさんでしたっけ」

 永山哲也は、ネット上の情報を読みながら答えた。

「ああ。彼、予言者らしいからね。――ふーん、現地で布教活動と戦争難民の救済活動もしているんだ」

 永山哲也は空中に並んだ画像のサムネイルの一つに触れた。その画像が拡大されて表示され、目の前に大きな写真が浮かぶ。

 錆びたトタン屋根の小屋が犇いて建っている街の一角で、現地の子供たちと触れ合う男性の姿だった。その少し太った初老の男は、丸刈り頭で、黒い法衣を着て、手には閉じられた大きな扇子を持ち、首に大粒の数珠を提げていた。その数珠と白い襦袢の上には、偽善的な笑みを浮かべた顔が据えられている。彼は子供たちに、赤い包装に緑色のリボンが巻かれた箱を渡していた。彼の後ろには、肩から手先にかけてと脇から足先にかけて黒く太い線が走った黄色いジャージを着て、白いボンボンが先端に付いた赤いとんがり帽子を被っている小太りの女性と、白い大袋を肩に担いでいる、茶色い全身タイツ姿で鼻に赤い玉をつけ、頭に角の玩具を乗せた、痩せた長身の男が写っていた。和装の法衣の男が子供に手渡しているのは、どう見ても、クリスマスのプレゼントのようだった。

 永山哲也は、その宗教の枠を超越したご都合主義的妥協を鼻で笑った。

 永山の横からその画像を覗き込みながら、春木陽香が呟いた。

「この南正覚さんが、タイムマシンを作った『神』なんでしょうか」

「まさか。あの男にそんな高度な科学知識は……おや?」

 永山哲也がまた何かに気付き、腕組みをしたまま顔を前に出した。写真の隅に映っている子供の一人が、貰ったばかりのプレゼントの箱を高く上げて、嬉しそうに他の子供たちに見せていた。永山哲也はその子の高く上げられた右手ではなく、下に降ろしている左手に握られている物に注目していた。何かの乗り物の玩具である。それは木彫りの玩具で、側面に手書きで日本の国旗が描かれていた。

 永山の視線を追って同じくその子の玩具に注目していた春木陽香は、昨日、別府から見せてもらったホログラフィー画像を思い出し、永山に言った。

「これ、司時空庁のタイムマシンに似てますよね」

「だね。マシンの外観については司時空庁が規制をかけているから、国外には出回っていないはずだけど」

「今度から新しく発射が始まる家族乗り用のタイムマシンの外観も、結局、司時空庁が配布した立体画像の資料でしか分からないんですよね。別府先輩が言っていましたけど」

「うん。でも、それは重要な部分がマスキング加工されて隠してあるインチキ画像だろ。あのホログラフィー・データも、報道には使わない、つまり直接掲載はしないという守秘協定の下でマスコミに配布されたものだし。どうしてその形の玩具を南米の子供が……。あの立体画像を入手できたのは僕らマスコミの人間くらいのはずだ。しかも、国内の大手マスコミ関係者だけで、データそのものにも外部に発信することが出来ないようにロックが掛けられている。どうして外国の、しかも、戦争で混乱しているスラム街の子供たちが日本のタイムマシンの外観を知っているんだ」

「ネットで見たのかも」

「いや、司時空庁の情報検疫はすごいからね。インターネット上でタイムマシンに関係する画像を見ることは、まず出来ないね。つまり、現地の子供が目にするはずがない」

「真明教の人たちが教えたとか」

 永山哲也は大きく首を傾げた。

「どうかなあ……その線も否定は出来ないけど、だとすると、どうして真明教の人間がタイムマシンの外観を知っているのか……。一般に流布されている情報じゃないからね。とにかく、何か、ますます気になるよね、これ」

 永山哲也は、改めて、さっきのタイムトラベル学会への書き込みのページを表示したホログラフィー像を指差した。

「……」

 春木陽香は、考えていた。

 誰か他にタイムマシンを作っている人間がいるのだろうか。その人間が「ドクターT」なのだろうか。司時空庁や時吉総一郎とどう関係してくるのだろうか。

 すると、立体パソコンの電源を落とした永山哲也が椅子から腰を上げ、春木に言った。

「よし。後でノンさんと一緒に上に来てよ。何度も説明するのは面倒だから」

「あ、はい。分かりました」

 春木陽香は椅子を元の位置に移動させようとした。顔を上げると、永山哲也は既に閲覧室の出口の前まで移動している。椅子を押していた春木陽香は彼の後姿に暫らく見とれていた。十分な上背と広い肩幅で颯爽と歩いていく永山哲也は春木にとって理想的な「男らしさ」を有している。久々に目にした理想の男性に思わず溜め息が漏れた。

 永山が出て行き、資料閲覧室に一人になった春木陽香は、小さくガッツポーズをした。そして、顔に笑みを浮かべながら、大急ぎで後片付けを始めた。



                    6

 新日ネット社会部の次長室には、上野秀則と、神作真哉、永山哲也、重成直人、永峰千佳が集まっていた。上野秀則はソファーの傍に運んできた自分の肘掛け付きの椅子に座っている。他の記者たちは、それぞれ流線形のソファーに座り難そうにして腰を下ろしていた。夕刊の記事原稿データの送信を終えた彼らは、その日の緊張から解かれ、少しリラックスしているはずだったが、ソファーの座り心地の悪さは彼らに違う緊張を与えているらしい。皆、顔をしかめていた。

 ドアがノックされた。

「はい、どうぞ」

「なんでおまえが……いいぞ、入れ」

 上野秀則が神作を意識して急いで返事をする。

 ドアがそっと開き、春木陽香が顔を覗かせた。

「失礼しまーす」

「よう、ハルハル、久しぶりだな」

 神作真哉は手を上げると、春木を室内に招き入れた。

 春木陽香は皆の所に駆け寄ってくると、まず神作に一礼した。

「あ、神作キャップ、お久しぶりです」

 神作真哉は悪戯っぽく笑みを浮かべながら春木を軽く指差す。

「なんだ、随分と大人っぽくなったじゃないか」

 春木陽香は照れくさそうに笑った。

「へへへ。あ、永峰先輩、お久しぶりです」

「久しぶり。元気だった」

「はい。あの、本当に、皆さん、いろいろとご迷惑をお掛けしました。皆さんのご尽力のお蔭で、こうして、また新日で働くことができました。本当に、ありがとうございます」

 改めて深々と御辞儀をした春木に、重成直人が言った。

「なーにを、そんな改まって。アシスタント時代のハルハルちゃんの頑張りを見て、みんな声を上げただけだよ。ねえ、デスク」

「――あ……。――うん。そうだな」

 気まずそうに答えた上野を指差しながら、神作真哉が言った。

「ここに居る中で、コイツだけ、何も言わなかったからな」

 上野秀則は顔の前でパタパタと手を振りながら春木に言った。

「あ、違うよ。俺は心の中では、君が再雇用されるように祈ってたから。だけど、ほら、部署が違ったでしょ。俺、君がここに居た頃は政治部のキャップだったからさ。君のことを上に訴えても、説得力がね」

 永山哲也は腕組みをすると、深刻な顔を作って言った。

「まあ、デスクになれるかどうかって時でしたからねえ」

「黙ってろ永山。おまえらのせいで、俺は政治部を追われたんだぞ。ったく」

 腕組みをして口を尖らせた上野の前で、永峰千佳が年上の先輩らしく落ち着いた口調で春木に言った。

「それよりハルハル、早く新聞に戻ってきてよ。私がパシリばっかりやらされて、困ってるのよ。それに、会社が第一就職の学生まで雇用するのを控えてるでしょ。私、三十三にもなって、まだ一番下っ端なのよ。これじゃ叱る後輩が居なくて、つまんないじゃない」

 その時、ドアが開いて山野紀子が入ってきた。彼女は入室するなり口を開いた。

「冗談じゃないわよ。この子はウチの大っ事な新戦力なんですからね。そう簡単に渡せるものですか」

 ズカズカと歩いてきた山野紀子は上野の横に立つと、彼を何度も指差しながら言った。

「コルァ、うえにょ。うえにょ、うえにょ、うえにょデスク!」

「な、なんだね、山野君」

「山野君じゃないわよ。私はもう、あんたの部下じゃない! 山野編集長よ。デスクよりも編集長が上。その編集長が、どーしてデスクの部屋に呼び出されなくちゃならないわけ。ここはそんなに偉い人の部屋なんですかあ」

 両手を腰に当てて顔を突き出してきた山野から身を反らして体を離した上野秀則は、視線を横に向けた。

「いや、呼んだのは俺じゃなくて……」

 上野の視線を指先で辿った山野紀子は、到達した先の永山をそのまま指差した。

「テツ! おまえか」

 永山哲也は呆れ顔で答えた。

「テツって……。ああ、僕です、僕。お呼びしたのは、僕です。すみませんでした」

 山野紀子は上野の椅子の背もたれに手を掛けて寄りかかると、納得したように頷きながら言った。

「分かればよし。――で、哲ちゃんの見つけた事実って、なに?」

 神作真哉がつい、ボソリと言う。

「どうして、おまえはいつも、そう、ガツガツしてんだよ」

 それが聞こえた山野紀子は、神作に怒鳴った。

「ガツガツとは何よ。記者なら情報に敏感になるのは当然でしょ。ボーっとしてるから、こんなアホにデスクの座を持っていかれるのよ」

「ボーっとはしてないだろ。俺は俺なりに……」

「アホとはなんだ、アホとは!」

 ムッとした顔で振り返った上野を宥めるように、重成直人が言った。

「まあ、まあ。とにかく、永山ちゃんの話を聞きましょうや」

 端のソファーに座っていた永峰千佳は横に立っている春木陽香と顔を見合わせた。彼らがこうした遣り取りをするのは毎回のことだった。

 永山哲也が山野に確認する。

「その前に、ノンさん、ハルハルから実験映像の話とタイムトラベル学会への書き込みの話は聞きました?」

「ええ。聞いたわよ。映像は後で私も見てみるけど、もう一つの方も気になるわね。南米でタイムマシンを作っている人物がいるかもしれないんですって」

「ええ。まだ、はっきりとはしませんが。ただ、その人物が『ドクターT』である可能性は否定できません」

 上野秀則が言った。

「南米から送ったってか。だとしたら、メールだな」

 神作真哉が調査した事実を報告した。

「俺の方で、司時空庁ビルへの宅配を担当している奴に、『ドクターT』とか、無記名の差出人からの宅配物を運んだことはないか訊いてみた。答えはノーだ。だが、他人名義で送っている可能性もあるから……」

 神作の話の途中で、重成直人が口を挿んだ。

「いや、それがね、私の方で妙な話を聞いたんだよ」

「妙な話?」

 重成直人は、聞き返した永山に顔を向けた。

「郵便集配人に知っている奴が居てね、そいつに、ちょっと調べてもらったんだ。そしたら、司時空庁ビルがある有多町を管轄する郵便局に、いつも、『T』とだけ差出人の記載がされた封筒が回ってきていたらしいと言うんだよ。毎回違う、新首都内のあちこちのポストから回収されて、そこの郵便局の配達部門に回ってきていたらしい。毎回、郵便切手もちゃんと貼ってあったそうで、そのまま司時空庁ビルに届けていたそうだ。中身はたぶん、信書と何らかの記録媒体じゃないかって」

 永峰千佳が重成に尋ねた。

「記録媒体って言うと、やっぱり、MBCですか」

「たぶんな。長形三号の封筒らしいから、MBCだろうね。DVDディスクじゃ、この大きさの封筒には入らないからね」

 重成の回答を聞いて、山野紀子が呟いた。

「今時、DVDって……さすがシゲさんね……」

 神作真哉は、大先輩に失礼な発言をした山野を目で叱ると、春木の方を見て言った。

「ハルハル、その立体動画の容量は、圧縮して三ペタバイト以上あったんだろ」

「はい。動画一つの容量は、だいたいそのくらいです。展開用の拡張子も別に組み込んでありましたから、論文データと合わせた全体容量でも、たぶん最低でも十ペタはあると思います」

 神作真哉は腕組みをして言った。

「そうなると、何らかの記録媒体に入れるとすれば、やはりMBCしかないな」

「MBCって、たしか、メモリー・ボール・カードの略だったかな」

 重成直人は確認するように山野の顔を見て尋ねた。

 山野紀子は無神経にも平気な顔で重成に返事をする。

「ええ。――確かに、MBCのような記憶球体を集積した情報記憶媒体なら、大容量の立体動画情報も入れられるわね」

 神作真哉は黙って重成に頭を下げると、山野を一にらみした。山野紀子は口だけを動かして、神作に「何よ」と言う。その態度に苛立ちを覚えた神作が歯を剥くと、重成直人が手を振って彼を宥めた。

 三人の動きをキョロキョロト見ていた春木の横で、永峰千佳が疑問を提示した。

「でも、外付けのハードってこともあるんじゃないですか。ウチの各チームが使っているようなボール式の記憶ドライブ・ボックスなら五百ペタくらいは余裕で入りますから。郵便の方は、その論文データだけが別口で届いたのかもしれませんよ」

 上野秀則が言った。

「だが、そうなると、どうしても立方体の箱だろ。小包になる。小包は無記名では送れないはずだ」

「偽名で送ってるとか」

 そう言った春木に重成直人が答えた。

「いや、小包についても訊いてみたが、そういつも司時空庁に小包を届けることは無いそうだ。偽名なら、受取人の司時空庁の方で心当たりが無ければ、受け取らんはずだしな。危険物の可能性があるから」

 腕組みをしたまま上野の椅子の肘掛の上に腰を乗せた山野紀子が怪訝な表情で言った。

「でも、シゲさん。『いつも』とか『毎回』って、どういうことよ。何回も届いているってこと?」

 重成直人は報告内容の核心部分を話し始めた。

「そうらしい。その集配人が聞いた話だと、司時空庁ビルへの配達を担当している集配人は、ここ三年近くの間、差出人が『T』となっている封筒の配達を続けたそうなんだ」

 上野秀則が声を裏返す。

「三年近くだって?」

 小さな目を丸くしている上野を余所に、神作真哉は向かいの女に尋ねた。

「なあ、千佳ちゃん、例の奴から返事は来たか」

「いえ、まだ、連絡もしてませんけど。夕刊の記事の提出が終わってからと思っていましたから」

 神作真哉は左右の手の人差し指でバツ印を作って言った。

「じゃあ、それ、キャンセルな。いいわ」

 永峰千佳は胸に手を当てて息を吐く。

「はー。よかった。犯罪の片棒を担がずに済んだあ」

 隣に立っている春木陽香が尋ねた。

「犯罪? 永峰先輩、何しようとしたんですか」

 神作の隣に座っていた永山哲也が目で永峰にサインした。

 永峰千佳は春木に言った。

「ああ、また今度、ゆっくりね」

 神作真哉が眉間に皺を寄せて永山に言う。

「その配達の最初の時期と、合計で何回配達されたのか、正確に調べる必要があるな」

 永山哲也は真剣な顔でしっかりと頷いた。すると、重成直人が神作の目を見て言った。

「それがな、続きがあるんだよ」

 山野と春木は視線を合わせた。全員が重成に注目する。

 重成直人はゆっくりとした口調で話し始めた。

「その三年近くも続いた差出人不明の郵便の配達が、先月は無かったそうなんだ。だが、その代わり、総理官邸に郵便物を届ける担当者の方で先月と今月、差出人欄に『T』とだけ記載された郵便物を官邸に届けたというんだよ。だから集配人同士でも話題になっていたそうなんだ」

「総理官邸に……」

 元政治記者である山野紀子と上野秀則は顔を見合わせる。二人は、外部から官邸に郵便を送り付けることが如何に困難で危険であるかを知っていた。不用意に官邸の住所を記載した封書類を何らの根回しも無く送付すれば、差出人は間違いなく治安機関にマークされるはずだ。それでも嘆願書の類を送ってくる者は、大抵の場合が、他の省庁と散々に折衝した末に埒が明かないので総理に直訴するというパターンだった。しかし実際には、その郵便物そのものも外部に設置された検査所で徹底的に検査され、開封されて中の信書類を検閲された挙句、結局、担当省庁の末端部署に回されるというのが常だった。それは細菌テロや添付型の薬品爆弾による「紙の文書による攻撃」、そして、電子媒体による「ウイルス・プログラム攻撃」が実在するこの時代において、ごく当然のことであった。一般の外部からの一つ一つの郵便物についての情報が末端の官公署から多忙な総理官邸に上がってくることなど、まず無い。まして、郵便物その物が総理の目に触れることなど、あろうはずもなかった。政治記者時代に官邸に出入りしていた山野と上野は、そのことを熟知していた。そして、経験上、どのような境遇に立たされた人間が官邸に助けを求めるかも知っていた。

 そのような事情を気にかけることもなく、春木陽香は思いついた疑問を投げ掛けた。

「その二通も、投函されたのは都内からなんですか」

「ああ、都内各所のポストであることは確かだそうだ」

 重成の答えを聞いた春木陽香は、永山の顔を見た。永山哲也は眉を寄せて考えていた。

 永山の様子を見ていた神作真哉が言った。

「どうした、永山。おまえの考えを言ってみろ」

 顔を上げた永山哲也は、口を開いた。

「ええ。まず、どうして『T』なのか。普通、『X』とか、もっと別の名前にするとかではないでしょうか。どうして差出人はアルファベットの中から『T』を選んだのか」

 上野秀則が答えた。

「おそらく、受け取った人間に差出人の名前を連想させるためだろうな」

「哲ちゃんの意見を聞いてるの。うえにょは黙ってて」

 肘掛の上に大きなお尻を乗せて上からにらみ付ける山野に、上野秀則は不満そうに口を尖らした。

 永山哲也が言った。

「いや、でも、うえにょデスクの言う通りでしょうね。差出人の名前を連想させるため。つまり、最終的な受取人となる津田長官が知っている名前。タイムトラベルに関係する主な人間でイニシャルがTである者は……」

 神作真哉が上を見ながら言った。

「赤崎教授はA、殿所教授がTか。高橋博士と田爪博士もTだな」

 永峰千佳が付け足した。

「時吉総一郎もTですよ」

 上野秀則が言った。

「司時空庁長官の津田幹雄もTじゃないか」

 永山哲也は頷いた。

「ええ。そのうち、赤崎教授と殿所教授は既に亡くなっている。高橋博士と田爪博士も第一実験と第二実験でそれぞれタイムトラベルをしていて、この時間軸上には居ない。残るは津田長官と時吉総一郎ですが、津田長官は封書の最終的な受取人だから、自分が『ドクターT』ではないことは分かっている。そして、その封書は新首都内から投函され、消印が押されている。となれば、津田長官としては、『T』が時吉総一郎だと考えるのではないでしょうか。それで、その真偽を確かめるために、時吉にメールで論文データを送りつけてみた」

 神作真哉が続けた。

「ところが、当の時吉は女子大生二人との二股不倫に夢中でそれどころではない。――おい、うえにょ。時吉ジュニアは、津田からのメールは既読にはなっていたが、返信された形跡は無いと言っていたよな」

「ああ、そうだな。いきなり添付データの動画をパパ時吉が自分のパソコン内で再生しようとしてメモリーがパンクしたんだろ。で、壊れたパソコンの修理を頼んでおくように奥さんが言われて、業者に修理してもらう過程で奥さんが浮気のメールと一緒に見つけたらしい。裏が取れている事実だから、パパ時吉が論文や実験動画を読もうとして読めなかったことは確かだ。でも、もう一つ重要なことが一つある。俺は『うえにょ』じゃないぞ。『上野』だ!」

 上野の発言の最後の部分を無視して永山哲也は話を進めた。

「つまり、時吉総一郎は論文の存在を知っていて、あえて返事もコメントもしていない。完全に無視。もし彼が『ドクターT』の正体なら、そんな対応はしないでしょう。論文や上申書を送りつけた意味が無い。だから、時吉総一郎は『ドクターT』ではない。少し乱暴な推理ですが……」

 神作真哉が腕組みをして言った。

「まあ、時吉総一郎は、あの『時吉提案』で名を売った人物だ。紀子たちが調べたとおり奴が司時空庁長官に返り咲こうと狙っているなら、ここで名乗り出るはずだろ。とすると、偽名で投函する意味が無い。『ドクターT』は奴じゃないな」

 山野紀子は両手を肩まで上げて言った。

「じゃあ、誰なのよ。他に居る?」

 春木陽香が意見を述べた。

「それぞれの親族かも。もしくは、下の名前が『T』で始まるとか」

 山野紀子は片笑んで言う。

「哲也とかね」

 永山哲也は笑いながら言った。

「僕が『ドクターT』なら、もっと楽なんですけどね。ですが、残念ながら僕にはタイムトラベルに関する基礎理論の知識も、量子力学に関する知識もない」

「振り出しだな……」

 重成直人がそう呟いた。全員が沈黙する。しかし、永山哲也は次の話を用意していた。彼は話を続ける。

「そこで、さっき話した南米からの書き込みです。あの内容が本当なら、誰かが地球の反対側の戦地でタイムマシンを作っているということです」

 神作真哉がソファーに身を倒しながら言った。

「ただの悪戯じゃねえか。ゲリラ軍は最新鋭兵器を揃えた環太平洋諸国の協働部隊相手に十年も戦っているばかりか、近頃は優勢になってきているって話じゃないか。調子に乗ったゲリラ兵士か、その支援者が、適当なハッタリを書き込んだんじゃねえの」

 山野紀子も永山に言った。

「それに、高橋博士と田爪博士が居なくなってから十年になるというのに、まだ一人も、タイムマシンの製造に成功した科学者は居ないのよ。今、司時空庁で飛ばしているタイムマシンも、田爪博士が作ったものをコピーして作っているだけで、オリジナルの機体ではないでしょ。そんな物を戦地の南米で作れるのかしら。物資も乏しいのに」

 山野の指摘はもっともだった。永山哲也は腕組みして考える。

 春木陽香が横から山野に言った。

「二人の博士が書いた設計図や論文とかの資料は残っているんじゃないですか。それで勉強しても、誰も解からないのですか」

 神作真哉が春木に言った。

「外部に残っている訳ないだろ。タイムマシンに関する情報は司時空庁がガチガチに管理してんの。学者たちの行動もな。それに、仮にどこか外部に残っていたとしても、あんなクソ難しい理論は誰も解からないだろうよ」

 春木の横から永峰千佳が言った。

「解っても、応用までは出来ないんじゃないの。まして、オリジナルのタイムマシンを作るなんて、自動車や航空機を作るのとは訳が違うんだと思うけど……。ああ、そっちも大変か」

 永山哲也が口を挿んだ。

「だが、作れる人間が居る……のかもしれません」

「誰よ」

 山野の問いに永山哲也はすんなりと答えた。

「高橋博士か、田爪博士です」

 山野紀子は眉間に皺を寄せる。

「ふたりとも、別の時間軸に行っちゃったじゃない」

「そうじゃなかったとしたら」

 永山の発言を聞いて、神作真哉は身を起こした。

「どういうことだ」

 永山哲也は自説を述べた。

「国は、高橋説が正しかったと認定して、タイムトラベル事業を開始しました。ですが、本当は田爪説が正しかったのでは。つまり、タイムトラベルをして過去に行っても、同じ時間軸上を同じように進むのではないでしょうか。それが真実なのでは」

「パラレル・ワールドは存在しないってことか?」

 上野秀則の発言の後、山野紀子が言った。

「じゃあ、過去に行った人々は、この時間軸上で生きていて、下手をすれば、どこかで会うかもしれない人もいるってこと?」

 永山哲也は冷静に答えた。

「その人たちが何年前に向けてタイムトラベルしたのかは、それぞれ違いますし、公開されてもいませんから、一概には言えませんが、彼らが近い過去に行っていて、生きていたら、会う可能性はありますよね。ですが、死んでいる可能性が大きい。あ、はい、ハルハル、これ」

 永山哲也は横に置いてあったゴミ箱を春木に渡した。

 春木陽香はその意図が分からず、不思議そうな顔で、その洒落たデザインのゴミ箱を両手で受け取った。

 永山哲也は話を続けた。

「さっき僕とハルハルが資料室で見た実験映像では、植物も、金属の塊も、細菌や細胞の集まりも、悲惨な結果になっていました。まあ、分かりやすく表現すればグチャグチャです。あれが生きた人間だったら、どうなるか。想像するのも恐ろしいです。もしかしたら海老ドリアみたいになってしまうかもしれませんね」

 春木陽香は抱えたゴミ箱に顔を埋めて嘔吐えずきながら、急いで部屋から出て行った。

 山野紀子が永山をにらみ付ける。

「てーつー」

 永山哲也は頭を掻きながら言った。

「すみません。面白くて、つい……」

 神作真哉が話を戻した。

「まあ、だが、真剣な話、この『ドクターT』の論文が正しければ、そうなる可能性も有るということだろうからな」

 涙目の春木陽香が鼻を啜りながら部屋に戻ってきた。山野紀子が黙ってハンカチを差し出したが、春木は遠慮して自分のハンカチで口元を拭いた。

 永山哲也が再び真顔で話を始めた。

「司時空庁に送りつけられている論文の指摘内容が田爪型マシンの欠陥なら、そのマシンに乗った人々は死んでいるでしょうね。実験できちんと証明されているようでしたから。つまり、田爪型マシンを採用した司時空庁のタイムトラベル事業でタイムマシンに乗った人々は、全員死んでいる可能性がある。だが、田爪型マシンに乗っていない人間が、一人だけいます」

 神作真哉が言った。

「高橋諒一博士か」

「そうです」

 永山哲也は神作の顔を見て頷いた。

 胡麻塩頭を撫でながら、重成直人が確認する。

「彼は、自分が設計したマシンで過去に行ったんだったな。あのマシンには欠陥が無かったと」

 永山哲也は再度頷いた。

「ええ。あくまで推論ですが。それと、高橋博士は二〇二七年の九月十七日から一年前に飛んだのですよね。もし、田爪博士の説が正しく、『パラレル・ワールド』など存在しないのだとしたら、つまり、高橋博士の主張が間違っていたのなら、彼が姿を現さないのは当然かもしれません。論争をリードしていたのは、田爪博士より彼の方でしたから」

「全国民を巻き込む議論の一方の論説を立てておいて、それが間違っていたから、今さら人前には出られないってことかあ」

 そう呟いた山野の横で、上野秀則が言った。

「それで南米に身を隠したか。高橋博士は二〇二七年から二〇二六年に飛んだわけだ。その頃は、まだ協働部隊が南米連邦政府のゲリラ掃討作戦に協力する前で、戦争が本格化するちょっと前だからな。行こうと思えば行けるし、戦争が始まれば、その混乱で身を隠すには持って来いの場所だな」

 重成直人が永山に再度確認した。

「しかも、高橋博士ならタイムマシンを作れる。そういうことだろ」

「はい。それと、もう一つ補強事実があります」

「補強事実? 何よ」

 尋ねた山野の方を見て、永山哲也は言った。

「南米でも布教していて、全世界で信者の数を爆発的に増やしている日本の新興宗教団体『真明しんめい教団』です。彼らの教義は、教祖の南正覚の予言を信じ、それにより危険を回避したり困難に対処したりすること。つまり、未来を変えることです。これは高橋諒一博士のパラレル・ワールド肯定論に親和性がある考え方です」

 腕組みをした上野秀則が頷きながら言った。

「なるほど。田爪健三博士のパラレル・ワールド否定論だと、人は時間の流れの中で決められた過去を過ごしていくわけだからな。未来を変えるという希望は無い訳かあ。タイムトラベルした先から別の時間軸に分派していって新しい未来があるとする高橋博士の説の方が、真明教の信者たちには受け入れられ易い訳だ」

「さっき言ったタイムトラベル学会のウェブサイトへの書込みでは、タイムマシンを作ったとされる人物のことを『神』と称していました。それは、高橋博士のことだとは思いませんか」

 永山の問いかけに、神作真哉が独り言を発するように答えた。

「確かになあ。現地のゲリラ兵士の多くは真明教に入信しているらしいからな。実際に現地でタイムマシンを作った人間がいるとすれば、その人間を神と崇めても不思議じゃねえなあ」

 永山哲也は神作に言った。

「それに高橋博士なら、田爪博士のマシンの欠陥を暴くことに執念を燃やしていたとしても、それこそ不思議じゃないですよね」

 すると、山野紀子が一つの疑問を提示した。

「だけど、封筒は都内で投函されているのよ。南米からじゃ無理じゃない。そもそも、あの状況で国際郵便を出せるのかしら。戦争中よ。やっぱり衛星ネットか何かを利用した電子メールじゃないと、無理なんじゃないの」

 永峰千佳が山野に言った。

「でも、メールだと、IPアドレスから足が付いちゃうと思いますけど」

 永山哲也は眉間に皺を寄せて息を吐いた。彼自身、自分の推理に自信があった訳ではなかったようで、腕組みをして何度か頷いている。

 すると、上野秀則が椅子の肘掛けを叩いて言った。

「あ、そうか。誰かが日本国内でメールを受け取って、それをMBCに格納して、司時空庁に送っていたんじゃないか」

 重成直人は三度確認した。

「誰か、南米にいる高橋博士の協力者が日本国内に居るってことですか」

 一同は顔を見合わせた。永山哲也は腕組みをしたまま微かに首を傾げる。

 暫らくの沈黙の後、山野紀子が言った。

「うーん。まずは、あの論文の正確な内容次第ね」

 神作真哉が手を一度だけ叩いて言った。

「よし。永山、おまえは、その南米の『謎の科学者』の正体を探れ。紀子とハルハルは、高橋諒一博士と田爪健三博士の家族を洗ってくれ。他に、国内で協力者になりそうな人物もだ」

「わかった」

 山野紀子はそう返事をして、上野の椅子の肘掛から腰を上げた。

 春木陽香はキョトンとした顔で山野を見ていた。

 上野秀則は焦った顔で神作を指差す。

「おいおい、何でおまえが仕切っているんだ。ここは俺の部屋だぞ」

 座っていた記者たちは立ち上がった。神作真哉が上野に言う。

「うえにょは時吉ジュニアに事情を説明して、親父さんの身辺で『ドクターT』と思われる人物がいないか、念のため聞き出してくれ」

「は? 俺が訊くのか。ていうか、上野なんだが……」

「弁護士との交渉はデスクの仕事だろ。シゲさんは、真明教の資料を集めてもらえますか。千佳ちゃんは、タイムトラベル学会のウェブサイトに書き込んだ人間が何者なのか、特定に取り組んでみてくれ。俺は、その『ドクターT』からの封書が司時空庁に何時いつから何回送られたのか詳しく調べてみる。ああ、官邸の方は、うえにょ、おまえが頼む」

「だから、上野だ!」

 怒鳴った上野秀則に目を向けることなく、記者たちは皆、その次長室から出ていった。

 春木陽香は何かが引っ掛かっていた。「ドクターT」が高橋博士だと推理した永山自身が、その説明をしている途中から自分でも疑問に思っているように見えたからだけではない。春木自身の中でも整理されてはいないが、どこかの歯車がずれているような気がした。何か重要なピースを忘れている気がしてならなかった。

 考えながら部屋から出てきた春木陽香は、ふと立ち止まり、顔を上げた。そしてドアの横に立ち、上野の部屋から出てくる先輩たちに頭を下げながら神作を待った。最後に部屋から出てきた神作に彼女は声を掛けた。

「あの……」

 神作真哉はそれに気付かずに、永山たちの方を向いて大きな声で言う。

「夕刊の原稿を上げ終わったこれからしか、動く時間がないぞ。みんな急いで取り掛かってくれ」

 話すタイミングを失った春木陽香は、少し項垂れて呟く。

「――まあ、いいか……」

 彼女は、エレベーターホールの方に歩いていく山野を追いかけた。

 部屋から出てきた春木の様子をじっと見ていた永山哲也は、帰っていく彼女の背中をしばらく目で追っていた。そのまま何かを考え込むような険しい顔をホログラフィーの画面に向けると、パソコンのキーボードを叩いて検索を始めた。横の資料の山の向こうで、重成直人がどこかに電話している。彼の向かいの席の永峰千佳はヘッド・マウント・ディスプレイを顔に装着すると、机の上で手を動かし始めた。上座の机に座っている神作真哉は、パソコンの上のホログラフィー画像を見ながら電話機のボタンを押し始めた。

 春木陽香は社会部のフロアと外を区切っているゲートの間をトコトコと歩いて通った。口を尖らせて少しうつむいたまま、時々首を傾げる。エレベーターホールに出てきた彼女は、顔を上げた。エレベーターを待つ山野紀子が目に映った。

 ホールで山野と二人きりになった春木陽香は、勇気を出して山野に声を掛けた。

「編集長」

「ん、なに?」

「珍しく黙ってましたね。神作キャップが指示を出していたのに」

 山野紀子は首をすくめて舌を出した。

「あ、しまった。つい、言うこと聞いちゃった。いかん、いかん」

「本当は、嬉しかったんじゃ……痛っ」

 やっぱり叩かれた。

 エレベーターのドアが開く。

 山野紀子は春木に手を振りながら、中に入っていった。

「ほらほら、高橋諒一と田爪健三の身辺調査よ。結婚暦やら子供やら、田舎の親族。いろいろ調べないと。ボサッとしない。急ぎなさい」

「はーい」

 春木陽香は少しニヤニヤしながら、そのエレベーターに乗り込んでいった。


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