第29話 巨大な手に捕まって

 鞘に収めていたレイピアを抜き、彼女は光属性の付与魔法をかけ始める。詠唱を終えたレイピアには速さの加護が与えられていた。それを思いきり振りかぶり、巨大な鎧目掛けて投げる。


 びゅう、という音がした時には、すでにレイピアの先端が悪魔騎士の肩に命中し砕け散っている。騎士達に止めを刺す寸前、獰猛な怪物が動きを止めた。


 彼女が予想した通り、羽虫に刺された程度でしかなかったのだろう。しかし悪魔騎士はこちらに気がつき、悠然と歩みを進めたのは目論見通りだった。


 右手に持った剣が震えていた。しかしリナリアは意を決して、とうとう悪魔騎士の正面に立つ。近づくほどに不気味で巨大な怪物を見上げ、足がすくむ。大きすぎる影に、奮い立たせた勇気までもが覆われた気がした。それでも逃げることだけは拒む。悪魔騎士の兜の奥が赤く光り、小さな少女を睨みつける。


『君の力は凄い。頼りにしてるよ』


 リナリアはキーファの言葉を思い出していた。彼女にとって、自分の力を期待してくれることなど人生で初めてだった。忌み嫌われてきた本来の力を、今は求められている。


「グオオオオァ!」


 時として人は恐怖を超える。喜びが勇気に変わる。悪魔騎士が唸り声とともに振り下ろした斧が、まるで止まっているように遅く感じた。彼女はギリギリで斧の一撃を横にかわすと、そのまますれ違いざまに重心が乗っている左足を切る。


 剣が水平に太すぎる脛を通過したところで、上空から熊よりも大きな左手が追いかけてくるが、彼女は逆に両足の間に入り込むことで逃れつつ、今度は背後に廻った。


 苛立たしげに体を揺らしながら振り返る怪物に、リナリアはある種の手応えを覚える。


「いける。私でも、きっと」


 聖剣の一撃は確かに脛を切った。だが、そもそも小さすぎて致命傷にはならない。それなら、もっと大きく、もっと攻撃に特化したものでいくしかない。


 悪魔騎士はすでに怒りの権化となり、右手に持った斧をめちゃくちゃに振り回して、虫のように小さな人間を殺しにかかる。しかし、リナリアには当たらない。戦闘経験がほとんどなかった少女は、しかし決して楽な毎日を過ごしていたわけではない。


 常に父や母、姉達の様子を伺わなくてはならなかった。兄が三人、姉が三人という環境の中、わがままは決して言えなかった。セルフィール家にとって忌まわしき力を持ってしまった彼女は、これ以上辛辣な評価を受けないよう、いじめられないよう、周囲と常に同調している必要性があった。


 特に三人の姉は、自分がドラーガ王子に好意を持たれていることを知ると、途端に攻撃的になった。リナリアはひどく困惑しつつも、それでも彼女達から目を逸らすことはしなかった。


 いうならば、彼女は常にありとあらゆる人々を観察して生きてきた。その目が今になって戦うことに活きている。


「オオオ! グオオオ!」


 時に殴りかかり、踏みつけようともする巨人は、狂っているようにか見えない。その全てをかわした彼女は、またも巨人の背後を取る。


 しかし、今までよりもずっと俊敏に悪魔騎士は振り返り、予想よりも腕を長く伸ばしてくる。

 リナリアの視界が闇に染まった。


 全身に冷たく重苦しい圧力が加わり、逃げ場がどこにもないことを痛感する。彼女は今、悪魔騎士の左手に握り締められているのだ。とうとう捕まってしまった。善戦を一気に無惨な負け戦に変えてしまうほどの圧倒的な差。その違いを感じたところで、もう遅い。


「リ、リリーナさん!」


 騎士の一人が朦朧とする意識の中で叫ぶ。既に動くことさえままならないが、この絶望的な状況をなんとかしなくては。悲鳴のような叫びは、確かに彼女の耳に届いていた。


 湖の悪魔と呼ばれていたかつての王子には、もう意識など残っておらず、ただ殺意と痛みだけに支配されていた。だから、掴んだ獲物を握り潰すことになんの躊躇もない。


 殺してやる、殺してやる、殺してやる——

 怨念深き声が、少女の耳に聞こえるようだった。強く強く、内臓が飛び出して原型をとどめなくなるまで潰すべく、握り締め続ける。


 これで目障りな者が一人消える。そう王子の霞んだ魂は安堵するはずだった。

 だが、奇妙な違和感が左手の中で広がっていく。


 岩ですら握り潰せるほどの握力を持ってして、なぜか潰すところでまで締めることができない。それどころか、徐々に何かが大きくなっている予感がある。


 巨大な怪物は訳も分からず自らの左手を見つめると、そこには両手を使って指をこじ開けてくる小さな人間の姿があった。このような細い体のどこに、そんな力が?


 考える力をほぼ失っていた殺意の塊でさえ、心の中に動揺が広がり——続いて激痛が走った。


「オオ、ウオオオオ!?」


 左手の指があらぬ方向に曲がっている。思わず放したことで、少女はそのまま大地へと逃げおおせた。息を弾ませてはいるものの、彼女に怪我はない。騎士達はその様子を見て、自分たちが夢でも見ているのではないかと疑ってしまったほどである。


 一体どうやったのか。騎士達はなんらかの魔法で、怪物の指を破壊したという予想に落ち着いたのだが、実はこの時にリナリアが行ったのは、単なる腕力によるものだった。


 常識では考えられない身体能力の高さもまた、彼女が与えられた才能。その力もまた忌むべきものだと決めつけれ抑圧されていた心が、徐々に解放されていく。


 力で勝ったという事実が自信につながり、勇気を奮い立たせる。息を整えた少女は右手の剣を空に掲げた。今度は震えていない。


 ようやく動けるようになった騎士達は、この時の光景を忘れることができなかったと言う。


「大聖剣オロチ」


 全てを圧倒する黄金色の輝き。その中にあって、細い体を包んでいた防具や額当てが外れて宙に浮かぶ。それらはバラバラな動きを取りながら、天に向けて突き出された聖剣に飛び込んでいった。


 彼らは一人と一体の攻防を見守り、驚きの声を上げた。ほんのわずかな間だが、少女の頭上には髪の長い、筋骨隆々の大男の姿が確かに見えた。それはかつての英雄であり、大剣を振り回し千の兵をも上回る力を誇った豪傑の姿。


 リナリアの右手にある聖剣は長く、太く変形していく。やがて彼女自身よりも大きい、黄金と銀が混ざり合ったような大剣へと姿を変えた。


 彼女の姿は、大剣を持っている以外には普段と変わりがない。防御を捨てて攻撃に特化した、聖剣の一つの姿だった。


「終わらせます……ここで!」


 メガネを外し、聖剣を両手に握りしめて彼女は走り出す。少女はこの時、あらゆる心の束縛から確かに解き放たれていた。

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