生者の町(Ⅱ)

 イリーナは眠りから覚めた。体が重い。(さすがに闇の妖精の毒。そう簡単には癒してくれないか)そう思いつつもイリーナには相変わらず王女が気掛かりだった、強いて身を起こそうとして、少女が体に覆い被さっていることに気が付く。「……なにしてるの?」毒のせいではなかったか。どうやらラナも共に眠っていたようだ。

 イリーナの声でラナはむくりと起き上がり、その瞳から一筋、頬に涙が伝った。「どうしたんです、ラナ。泣いたりなんかして……」「……あなたのせいよ」ラナは何事もなかったかのように涙を指で拭い取り、イリーナの上から退いた。己のせいと言われれば気になるのが人の性だが、訊ねてよい雰囲気でもない。「私のことは気にしなくていい。それよりも、捜すんでしょう。あの王女を」問われ、イリーナは頷きかけて首を振った。

 いま彼女たちが居る生者の町は侵攻を受けたばかり。そして一度助力すると決めた以上、簡単に動くべきではない。「ケイ卿は無事でしょうか……」思わず不安が口を突いて出た。先の合戦がどのような結果に終わったか、いま一度状況を検めなければならない。

 折よく使用人の女が部屋を訪ねた。「お体の方は平気でしょうか」と訊ねられイリーナは、「ええ、もうすっかり」と健やかな顔色を見せる。対し、使用人はどこか落ち込んだような表情をしていた。イリーナは訊ね返す。「ケイ卿は……」「……安静が必要です。アルマ様のお薬によって一命は取り留めましたが」

 イリーナは知らず苦い顔をしていた。名を捨てた騎士……あの亡者との戦いは無事には終わらなかったか。(私に、もっと力があれば)そう思わずにはいられない。だが、ありもしないものを求めても仕方がなかった。ケイ卿に言われたことだ。いまはこの状況で、己に何を為せるのか……それを考えなければ。ケイが動けない以上、イリーナはこの町に留まらなければならないだろう。いつ敵が再び攻めてくるやもしれないのだ。しかし……。

 オフィーリアのことが脳裏に浮かぶ。イリーナはかぶりを振った。「ケイ卿との面会は叶いますか」そう訊ねると使用人は浮かない表情のまま一礼し、「確かめて参ります」と、それのみを告げて部屋を立ち去っていった。

 時が過ぎた。イリーナもラナも何も言わず待ち続ける。「あなたは」唐突にラナは口を開いた。そしてまた口を噤み、解き、ようやく言葉になる。「あの王女を、愛しているの」それはどれほど滑稽な問いだったか。イリーナは丸く眼を見開いていた。そして、笑った。「愛……愛か。ラナ、きみもそういうことを気にするのね」「ええ、とても」少女の声に険が篭もる。「たとえ自分を傷つける人でも、あなたは愛するの?」

 イリーナは困ったように眉を下げる。口元は微笑したままだ。「たしかに王女は困ったお人です」それでも何ら問題はないのだと、そう言うように。「愛って少し難しいですね。改めて言われれば、そのようなもののために戦っているのかという気がします。けれど、きっと特別なことではありませんよ、それは。だから平気です。何てこともありません」

 随分取り繕っているのだとラナは感じた。あれほど嘆いていたではないか。あれほど傷ついていたではないかと。しかしラナにはそれ以上、何も言えなかった。おそらくそれが人というものなのだろうと、すでに知っているのだ。ゆえに少女は口を噤んだ。その髪をイリーナは優しく撫ぜる。「ありがとう、ラナ」「……何てことない。こんなこと」

 また時が過ぎ、使用人は戻ってきた。ここには彼女しか仕えていないのだろうか。少しばかり息が上がっている。「閣下がお目覚めになりました。すぐにでもイリーナ様とお話したいとの仰せです」頷き、イリーナは立ち上がった。「ありがとうございます。すぐに向かいましょう」「では、私が案内をいたします。廊下は暗いので、道中お気を付けを」カンテラを片手に使用人は部屋を後にする。イリーナは彼女の後ろに付いていき、ラナも当然のようにその後に続いた。

「どうしてこの屋敷は暗いのでしょう」廊下を歩きながらイリーナが問うと、前を歩く使用人は「蝋が足りないのです。屋敷は広いので、使う場所も限られます」と振り返らずに答えた。「掃除が大変そうです。人手も足りていないのでは」「いいえ。私一人ですべてこなしております」「それは、なぜ……」「閣下は身の周りに人を置きたがらないのです。ご自分が貴族のように扱われるのを嫌っているのだと思います。この屋敷も、復興の際に私たち町の住民から無理矢理押し付けたようなものです。私は閣下の身の周りのお世話を勝手に預からせていただきましたが、本来この屋敷に雇われた使用人は一人もいません」

 風変わりな屋敷の事情を聞きながら歩いていると、廊下に燭台の明かりが徐々に増えていき、やがて一行はケイの私室の前へと辿り着いた。「閣下。お客様をお連れしました」「……通せ」返事を聞き使用人は重厚な扉に手をかけてゆっくりと押し開ける。「どうぞ、お入りください。私はここに控えております。帰りの際はどうかお声がけくださいませ」「助かります。とても」イリーナは微笑み、部屋に足を踏み入れた。

 扉が重く閉まる。イリーナは息を呑んだ。部屋にいたケイの顔色は見るによからぬものだったからだ。彼は寝間着のまま寝台から語りかけてくる。「すまない。このような形で」「いえ……」イリーナはゆるりと首を振った。「そなたの方が先に快復したか。よもや、城に篭っていた闇の妖精が出るとは思わなんだ。そなたを危うい目に遭わせてしまった」「気にかけないでください。戦うと決めたのは私の意思です。至らなかったのは私です」

 ケイは眼を細めた。「初め、私はそなたを若く無謀で未熟な騎士だと思い込んでいた。だが、いまのそなたを見てそうは思えぬ。私の眼が曇っていたのか。あるいは、そなたが短い間に変わったのだろうか」

「いいえ。どちらも違います。あなたの眼は曇ってなどおらず、私も変わっていません。いつまでも半端者で、未熟な騎士のまま。それが、悲しいほど続いてゆく私の現実です」イリーナの答えは寂寥に満ちたものだった。取り返しの付かぬ道に思いを馳せるように、噛み締めるように述べた言葉だった。

「……そうか。では、変わったのは私か。否。私はただ己を騙し続けてきたのだ」ケイの口元には皮肉な笑みが浮かぶ。「優れた騎士たらんとしていた。それが今の私に残された役目ならばと。だが、所詮私は臆病ゆえに生き残っただけの騎士だ。私より優れた騎士は多くいた。その事実から目を背けていたがゆえの、このざまだ。ここが冥界である以上、かつての同胞と相見えることもあるとは、わかっていたはずだというのに」

「ケイ卿……」それはあるいは、イリーナにとってのオフィーリアや、戦で散っていった多くの騎士のような。そのような同胞が彼にもあった。そして今は、ただ独りでこの町を背負っている。それは如何ほどの……。「すまない。辛気臭くてな」ケイは肩を竦めた。「生きているのだ。後はどうとでもなる。そなたも、もはやこの町に関わらずともよい。見つけたのだろう、そなたが尋ねてきた者を」「……ええ。しかし」イリーナは話した。王女は再び姿を消したこと。そして、その去り際に言い残した言葉を。

「闇の妖精を殺す、か」ケイは唸りを上げた。「彼奴らは各々の城に篭っている。落とすのは容易ではない。それを単身で、か」疑いを持つのも無理からぬこと。だがイリーナは確信を得ていた。「あの方ならやります」「ああ、そうだろう。元より暗黒山脈へ行くと豪語していた騎士。一国の王女とは思えぬ蛮勇だ」「遺憾ながら、そういう御方です」

 ケイは溜め息を吐く。「この町を脅かす敵の将が討ち倒されるならば、我々にとっても都合のいい話だ。しかし、いかに優れた騎士であっても闇の妖精は油断ならぬ大敵。かの騎士が上手く成し遂げるとは限らぬぞ、イリーナ殿」「私は、どうすれば……」

「本懐を果たせ」その言葉は鋭くイリーナの胸を突く。だがこれは簡単に決断すべきことではない。「伏兵が居るかもしれません。動けぬあなたを放って町を出て行くことなど」「動く。来る時にはな。だが町の兵士とて精強だ。たとえ私がおらずとも充分に戦える。そのように鍛えてきた」ケイの声には自負が満ちる。この町を背負う者としての自負だ。

 イリーナの思惑を遮るように、扉の向こうから何やら声が聞こえてくる。「お待ちを、急に入られては……」「ええい、あたしは医者だ。邪魔するな」使用人の声を退くようにもう一方の声の主……魔女アルマは堂々と扉を押し開いた。

 ケイの私室には一時の沈黙が満ちる。「話は聞かせてもらった」「どうしたんですか、アルマさん」イリーナの問いに魔女は不敵に笑みを浮かべながら寝台の淵に腰をかける。「ああ、ケイ。薬を渡しておくよ。しっかり飲んでおくといい」片手間に放られた薬瓶をケイは不承不承受け取った。「あの……」イリーナは未だ困惑を露わにしている。

「いや、なに、あたしも困ってたんだ。冥界探索の拠点にしているこの町が、こう何度も敵に脅かされるようではね。敵の城に奇襲をかけるならいい機会だ。あたしも手を貸そう、イリーナ」ようやく話されたアルマの意はそのようなものだった。「何なら騎乗用の魔獣を貸してやる。ここら辺の地勢はおおよそ把握済みさ。敵の城までひとっ飛びで行けるよ」

 魔術師の力を借りられるのならば心強い限りだった、しかしイリーナにはわからぬことがある。「アルマさん。あなたの目的を訊いても」「目的? 簡単だよ。この地に起きた異変の調査と、その解決。言ってしまえばケイと同じだ。この地に、光を取り戻すことさ」「光を……」イリーナの傍でラナがぽつりと呟いた。「可能なのですか。冥界に満ちる、あの大いなる闇を掃うだなんて……」イリーナの困惑はますます深まる。それはもはや、闇の妖精一匹がどうこうの話ではない。

「アルマ・モロウ。彼女はスラファトの地にある賢者の学院に在籍する魔術師だという」ケイは静かに述べた。スラファト。その名を特に重んずるように。イリーナは驚嘆した。「スラファト、伝説の地……! 実在したのですか」「あたしから言わせれば伝説なんて呼ばれる方が驚きだよ。どれだけ閉鎖的な環境に生きてきたんだか、シェリアクの民は」

 イリーナは息を呑む。シェリアク平原。それこそが彼女が知る世界の名。その前に冥界や現世の境など小さなものに過ぎない。アーズブルグ国、エストラム国、ウェザラント国、多くの大国が樹立し長きに争い続ける、広大なる平原。人の足に切り拓かれし地であった。

 その最果て、未踏の領域にスラファトの地ありという伝承がある。遥かかつて、シェリアクの民はスラファトの地より来たのだと。シェリアクで死した者はスラファトへ還り、黄金の野で永遠に暮らし続けるという一種の楽園信仰に語られる土地の名でもあった。

「楽園なんて言われることもあるけど、きみたちの平原と何ら変わらない普通の土地さ。まあわからなくもない。シェリアクの民は長きに亘って争っている。何かに取り憑かれたようにね。その過酷な歴史に比べればスラファトはまだしも平穏だった。楽園と言っても差し支えなかろうさ」アルマは眼を眇める。「それどころか、シェリアクは冥界に呑まれようとしている。このホルンの地を起点にして」「冥界に、呑まれる?」イリーナの声は震えた。いま、己は恐ろしい事実を聞かされているのだ。そのことをにわかに感じ取る。

「当然のことだろう。ここもかつては人の国だった。そのはずが、夢と現の境界が壊れて混じり合い亡者の世と化したんだ。本来私たちに踏み込めない領域が侵食し生まれたのがこの冥界だ。きみの祖国も無事でいられるとは限らない。この異変がどこまで広がるかは未知数だ。スラファトに及び、その外に広がる大地にまで冥界が侵食するかもしれない。あらゆる大地から生という観念が失われ、現世そのものが消え去る可能性もあると学院は予測を立てている。これは世界の危機だ。それくらいの出来事なんだよ」

 もはやイリーナの頭には追い付かなかった。ただ愛する人を追いかけて冥界に来ただけなのだ。話が大きすぎる。世界など。幼き頃は確かにそのようなものを夢見ていた。この地平はどこまで広がっているのだろう。どこまで旅していけるのだろうと。王女と二人で話し合っていたことをよく覚えている。だが、すべては夢物語だ。それが世界の危機など。どのように受け容れればよいものなのか。『大変ですね』と笑えばいいのだろうか。

 イリーナの混乱しきった心境と裏腹に、アルマはつまらなさそうに自分の髪をいじくる。「まあ、あたしは世界の危機とかどうでもいい。そんなものは様々な場所で起きてるし、あたしが関わらなくとも勝手に収束するものだろう。だけど今回は学院からの命令でね。講義を抜けてばかりいたからこればかりは従わないといけない。調査を終えるまで学院に戻ることさえ許されていないんだ」

「それは……大変ですね」「そうなんだよ!」アルマは憤慨した。「あたしは切実なんだ。ここで話してる暇も惜しい。行くなら行くとさっさと決めてくれ」「わ、わかりました」気圧されたようなものだが、イリーナは心を決める。王女を連れ戻すことが己の目的だ。そのためになりふり構っては居られない。この魔女のように、そして未だ目的も知れぬ、王女その人のように。そうでなくば、また置いて行かれるばかりだ。

 イリーナは隣の少女をちらと見やる。「ラナはどうしますか。危険そうですが」少女はただ頷きを返す。「難しいことはわからない。けれど、この地に光を取り戻すというのはとても大切なことのように思う。そのためなら、私も戦えるよ」

「話は纏まったか」ケイは三者を見渡した。「この町の命運を託すとは言わない。これは私個人の願いだ。無事を祈っている」「……ありがとうございます。ケイ卿」イリーナの言葉に、彼は微かな笑みを浮かべる。「礼ならば戻ったときにすればよい。私の祈りにも意味があったのだと知れるだろう。それで、充分だ」


 ……その後。生者の町の上空には、一匹の魔獣の姿があった。前半身は鷲、後半身は馬、あり得ざる姿の幻獣の妖精、ヒッポグリフ。その背に乗るのは三人の旅人。午前の陽光がにわかに落ちる空を羽ばたき、幻獣は北壁を越える。空には塗り替わるように闇が満ちた。

 イリーナは再び、常夜の地に発っていく。

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