滅びし城

 高い、怖いとイリーナが半べそをかきながら騎乗させられた幻獣ヒッポグリフの背は意外に快適であった。たとえ空の上であっても、鷲の翼を広げた騎獣の姿勢に狂いはない。その背に括られた革張りの鞍の後席にイリーナは座し、彼女にしがみ付く形で少女ラナも空の旅に身を預けている。心情的にはイリーナがラナにしがみ付いているようなものだ。ラナの表情は涼しかった。「窮屈だろうが我慢してくれ。この騎獣は二人乗りだからさ」前席で手綱を握るアルマがさほど申し訳もなさそうに言った。

「問題なく飛べてるけど、やはり少し重い。時間がかかりそうだ」その言葉にイリーナは若干焦りを覚える。「急ぎたいところではありますが……。これより速く飛ばれたら、気を失ってしまうかもしれませんね」「情けないな、騎士さまが!」アルマは笑った。

 情けなくとも騎士は空を飛ばぬのだ。慣れろと言う方が無理な話である。イリーナは不満を感じつつも、腕の中の少女をしかと抱き留めておく。「……どうしたの、イリーナ」ラナは背中越しにそう問いかけた。彼女にはイリーナの不安が伝わってしまうようだった。空が怖いと言うのは戯れにしても、気掛かりなのはけっして王女のことばかりではない。

「闇の妖精とは、いったい何なのでしょう。なぜ、生者の町を襲うのでしょうか」疑問は言葉にしてみればますます深まった。「亡者は甦るため生者を襲うというのはわかります。では、彼らを従える闇の妖精は……」「そこまでにしておきな」アルマは言葉を遮った。「理解できないものを無理に理解するべきではない。それは只人にとって破滅の道だ」

 もっとも、とアルマは付け加える。「もっとも、あたしはきみに明かした。世界の危機だと。これは警告のつもりだ。それを知ったうえで踏み込みたいというなら、話は別だよ」「あなたは、知っているのですか。アルマさん」「推測はできる。だが、まだ不充分だ」「教えてください。……王女が闇の妖精を狙う理由も、わかるかもしれません」

 アルマは小さく肩を竦めてみせた。「いいだろう。あくまで仮説と思って聞いてくれ。まず亡者は自然に生まれた存在ではない。闇の妖精の魔力によって作り出された存在だ。死した人間の魂を核としてね。この冥界の闇も魔力を源とし亡者を媒介に広がっている。生者の町が明るいのは亡者の数が極端に少ないからだろう。この闇の中でなければ亡者は存在を保てない。それゆえに、亡者は受肉による復活という欲求とは別に闇の妖精に従う義務を課せられているんだ。そして亡者が受肉のために生者から奪い取った血を、親元の闇の妖精は魔力の源として己の内に還元する。ホルンという国に亡者を解きはなつことでそのような搾取機構を構築し、人々から血を搾り上げ膨大な魔力に変換するということ。それこそが闇の妖精の、当初の目的だったとあたしは見ている」

 イリーナは既に後悔していた。ひどく複雑で、だが明瞭に残酷な話だった。問うたのは己だ、聞かずにはおれない。「当初の、とは」「この地の人間はほとんど滅んだからね。やつらの真の目的はこの先にある。膨大な魔力を使って何かを成そうとしている。これがまだ不明瞭だ。しかし何かがある。生者の町に残る人々は言わば食べ残し、林檎の芯だ。その町を襲うのは単に目的の遂行の邪魔になるからだろう。後片付けのようなものなんだ」

「ひどい……」イリーナは歯噛みしていた。「亡者が生者を忌むことは当然かもしれないと、心のどこかで思っていました。何をのうのうと生きているんだと。けれど、そうして苦しいままで何者かに囚われているのだとしたら、あまりに救われないではないですか。この地に生きる人々もそのような邪悪な意思の食い物にされたというのですか。それは、あまりにひどすぎます。どのような目的でも、ろくでもありませんよ、こんなことは……」「真面目になり過ぎるな。仮説だと言っただろう。きみの目的を忘れるなよ、イリーナ」「……わかっています」イリーナはすっかりと項垂れる。アルマは後方をちらと見やり、「やっぱり話すべきじゃなかったな」と、小さく呟いた。

 イリーナは思う。王女が闇の妖精と戦うのは正義のためなのか。それは違うのだろう。そうであれば、生者の町に留まっていたはずだ。そして今頃は共に戦ってくれたはずだ。かつてのように、正義のための戦いを……。(オフィーリア様。あなたは今、どうして)それは、この先に行けばわかる。幻獣は大いに羽ばたいた。闇の妖精の城を目前にして。


 グリフィスは、己は生き残れぬだろうとはじめから知り得ていた。闇の妖精として生を受け、その使命を悟ったその間際から。己が生まれてきた意味は死ぬことにのみあると、そう自覚したのだ。

 彼らには過去も、未来もなかった。未来と呼べるものがあるならば、それは冥界の主に選ばれた時。だが、それは行き止まりだ。そこに辿り着くことは彼らの本質ではなかった。玉座とは死へ邁進するため用意された空虚な器に過ぎない。

 グリフィスは己の運命を粛々と受け容れ従順な使命の遂行者たらんとした。廃都に息を潜める生者たちの『掃除役』を担ったのもそのような意識からだった。生者たちは予想外の抵抗を見せた。軍として結束し、グリフィスが送った亡者の兵を幾度も撃退せしめた。生者を率いていたのは一人の騎士である。

 騎士……その存在には過日にも苦しめられた。初めは十二人いた闇の妖精も、その内の五人が討ち取られた。彼らが侵略した国に仕える騎士たちの手によってである。グリフィスはその戦に生き残り領地を割譲され、儀式への参加も叶ったが、あるいは己もいつの日か騎士の手によって討たれるやもしれぬという予感は常にあった。その予感は正しかった。外部の騎士が儀式の参加者として己を討ちに来たという慮外の出来事を除いては……。

 最奥の大広間の椅子に腰かけグリフィスは時を待つ。生者の町近くに残した伏兵は少数。残りはすべて城中に配した。待ち構えるべき敵は闇の妖精にあらぬ八人目の儀式の参加者。既にかの騎士の手に二人の同胞が討たれた。ここで必ず止めねばならぬ。

 ……城が騒がしい。既に攻め寄られたか。構うまい。道中の亡者とてここへ誘うための餌である。憎悪と呼べる感情が彼の七色の毒を混じり合わせ、黒い毒の霧として大広間を満たしていた。その重い扉が何者かの手で今まさに押し開けられようとしている。(さあ、来い騎士よ。我が毒は魂すら侵す。ここが貴様を永遠の死に誘う揺籃となろうぞ……)


 闇の妖精の城は河畔に建てられた水城であった。それはかつて人の手に造られし古砦を修復したものか。闇の中で篝火は煌々とし、威容たる城砦の輪郭を川面に映して揺らめく。城へ通じる道は川に架けられた大橋一つのみ。その一つの大橋はいまや霜に覆われ尽くし川面に向けて氷柱を落としていた。巨大な剣が天から吹雪と共に振り落とされたように。それは一種の災厄となってこの橋を襲ったのだ。橋上の亡者たちは氷漬けとなっている。この驚異の光景を眼下に一体の鷲馬が空中を翔け抜けていった。

「この様子は……」ヒッポグリフの背でイリーナは恐ろしげに呟く。「きみが追っている王女とやらの仕業か」アルマは問いかける。慄きと共に頷きを返し、「間違いないかと。しかし相当な無茶をなさっているはず。いくらあの方と言えど、これほどの魔力を……」イリーナはもはや気が気でないという風にかぶりを振った。「無事でいてくださればよいのですが……」「それを確かめるために来たんでしょう」静かに述べたのはラナである。「大丈夫だよ。きっと」不思議なものであった。この少女が話す言葉にはそれが真実になるかのような力がある。イリーナは此度は力強く頷いた。「……ええ。行きましょう!」

 ヒッポグリフが飛び、城壁に近づく。数多の亡者兵がそこに待ち構え、此方に向け弓を一斉に構え引き絞った。「当たるか!」アルマは強くヒッポグリフの脇腹を蹴りつけた。速度を増し、矢の雨を掻い潜って鷲馬は突撃する。同時、アルマは杖を掲げ雷を呼んだ。黄雷が弓兵を薙ぎ払ってゆき、事もなく一行は城の中庭に到着した。

「無事か、きみら」ヒッポグリフの背を降りてアルマは問いかける。イリーナは見るからにおぼつかない足取りをしていた。「少し気持ち悪いです……」不調を訴えるイリーナに対しラナの顔は相変わらず涼しい。「しっかりしろ、これからだぞ」アルマは叱咤する。

 その言葉どおり、闇から亡者兵が染み出した。すでに王女の手によって相当数の亡者が倒されたはずと思しいが、未だ数は尽きぬようだった。すべてを相手にしてはいられない。「任せて……」ラナは身に纏う光を増し片手を掲げる。光の糸は波のように夥しく放射し、亡者どもの動きを封じた。

「……束縛の魔力か」アルマは魔術師としての眼を光らせる。(触媒もなしにこの魔力はいかれてるな。本人は意識しているのか。これをすべて破壊に転ずればどれほどの……)「アルマさん?」どうやら調子を取り戻した様子のイリーナの声にアルマは頷きを返す。「ああ。すばらしい力だと思ってね。先に進もうか」今は思索に耽るべきときではない。城の中枢は既に目の前であった。


 大広間の扉を開いた騎士は即座、毒の霧を全身に浴びた。そして静かに果てる。もはや一歩もそこから先に進むことはない。……勝ったのだ。グリフィスはその様を幻視した。

 だが、現実は異なる。騎士オフィーリアは一歩を踏み出した。黒い毒の霧に満たされた部屋の内へと。歩みを進めるごとに黒い霧を塗り潰すかのように白い霜が空間に満ちゆく。グリフィスの眼の前に辿り着く頃、大広間は白銀の世界へと変わっていた。

 眼を潰すかのような白銀の光の源にあるのは炎の剣。揺らめく焔を手に掲げ、騎士はそこに佇んでいる。「貴様は……」グリフィスの眼が濁った。「貴様は、なぜ……!」剣が闇の妖精の胸を穿つ。グリフィスは炎の刀身を握り締め、憎悪を吐き出した。「我々にも誇りがある。冥界神の子としての自負が! なぜ人間などに、玉座を譲らねばならない。我々に残された唯一の意味を。呪われよ、人間。呪われよ、騎士……!」断末魔とともに炎の柱が昇り、赤き塵と七色の羽根が無惨に散らばった。もはやこの城に、主はいない。

 突き立てた剣を杖とし、オフィーリアは休息のように膝を突く。「オフィーリア様!」声が響く。氷雪に覆われた広間に視線を巡らせ、そこにいる旧き友の姿を騎士は認めた。その者の後ろには二人の同行者が付いている。だが、オフィーリアは意に介さなかった。「来たか……イリーナ」オフィーリアの声は掠れている。魔力の行使によって精根すでに尽き果てているのは明らかだった。それでも彼女は立ち己を追ってきた騎士と対峙する。

「なぜ……なぜあなたはこのようなことをなさるのです。もうやめましょう。私とともに現世へと……」「それは、叶わない。私は王を甦らせねばならないのだ」オフィーリアは頑なにイリーナを拒絶した。もはや、かつての彼女とは違うのだというように。

「一つ、教えよう。この冥界ではある儀式が執り行われている。即ち闇の妖精同士の闘争。冥界の主の玉座を懸けた覇権争いだ。冥界神の子である彼らは互いに争い合う宿命にある。そしてこの私も儀式に加わった。現世において冥界神の化身となった我が王の嫡子として」「何を仰っているんですか……」イリーナは呻いた。「私にはまったくわかりませんよ。神が何だと言うのです。どうか正気にお戻りください、王女よ。あなたの父君はあなたを殺そうとしたんですよ。なぜ甦らせようなどと。私はただ、あなたに……」

 オフィーリアは帯から懐剣を抜き放った。刃の閃きとともに足元に突き立ったその剣をイリーナは見降ろす。何のつもりだろうか。動揺を隠せぬイリーナを前にオフィーリアは己の剣を構え直す。「剣を抜け。私を止めたいのならば」

「まさか……」イリーナは唖然とした。「そんなボロボロの状態のあなたと戦えなどと」「何を言う。私とおまえは、これでようやく五分と五分だ」オフィーリアの眼には気迫が篭った。イリーナは息を呑む。殺すつもりでかからねば殺される。その覚悟を迫られた。

 息をゆっくりと吐きイリーナは足元の剣を拾う。「イリーナ……」ラナが気遣わしげに声をかけた。アルマは無言だ。振り返らぬままイリーナは彼女らに告げる。「お二人とも、ありがとうございます。私をここまで導いてくださり。おかげで、王女と再び会うことができました。……けれど、ここからの手出しは無用です」彼女は盾から手を離して背負い、両手に剣を構えた。これでなければ王女の膂力には打ち勝てぬ。久しき剣術の試合……否、決闘だ。全霊で応えねば。「あなたを止めます、王女よ。たとえ御身を傷つけてでも!」

「……よく咆えたもの。私はおまえを許さぬ。イリーナ、最愛の友にして父の仇よ。ゆえにおまえも私を許すな。愛ならず忠義を取ったこの私を」両者、前に踏み出した。滅びし城に干戈の音が響き渡る。

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