追憶

 イリーナはマクレガン家の養子であった。親が誰か、どこで生まれを受けたのかすらも覚えがなかった。記憶に薄い何処かの孤児院から引き取られたイリーナはその後の人生をマクレガンの子として、養父とともに領主たるクロムウェル家の下で暮らすこととなる。

 養父のコンラッドは冷たい人間に見えたが、確かな愛情もあった。ただ、イリーナとの距離を測りかねていただけなのだろう。彼はイリーナが彼と同じように騎士になりたいと言っても止めることはなかった。父としてではなく隣人のように彼女と接した。それは、正しくはなくともイリーナにとってかけがえのない幼年期となっていた。

 養父から手ほどきを受けたイリーナは幼くからたぐい稀な素質を見せ、優秀な師も得て騎士として成長していった。剣は得意になれなかったが、体は丈夫で怪我もたちどころに治したことから、幸運のイリーナ、頑丈なイリーナと渾名されるようになる。

 そのように育ったイリーナには、幼い頃からの友がいた。名は、オフィーリアという。クロムウェル領が属すアーズブルグ国の王女であった。幼くは体の弱かった王妃に代わりクロムウェル家の乳母に預けられて育った王女は成長した後もたびたび導師の手を借りてクロムウェルを訪ね、家臣の子供らの遊び相手となっていた。イリーナとオフィーリアが初めに出会ったのも、またそのような折の出来事であった。

 やんちゃだったオフィーリアとイリーナは、子供の頃から非常に気の合う仲であった。オフィーリアの方はイリーナに会うためにクロムウェル領へ遊びに来る節さえ持っていた。身分には差があれど、宮中に友が少なかったオフィーリアはイリーナを得がたい親友だと感じていた。そしてそれは、イリーナにとっても同じことだった。イリーナは幼くから、クロムウェル家こそが己の世界のすべてのように感じていた。だがオフィーリアと出会いそれは間違いだったのだと気づかされた。オフィーリアが不満混じりにイリーナに語って聞かせていた宮廷の出来事は、近しくともまったく異なる世界のことのように感じたのだ。『それでも、私も外の出来事のほとんどを知っているわけではないんだ』と王女が話すと、いつか二人で世界を冒険をしてみようとイリーナは眼を輝かせながら言ったものだった。まだ幼かった二人は希望とともに世界を夢想して語り合い、長い夜を明かすこともあった。

 二人は王国において稀な女の騎士となった後も、互いを好敵と見て剣術試合に臨んだ。オフィーリアは強かった。父王譲りの剣技に、国の守護神たる赤竜の加護をも得ている。剣の腕でイリーナがオフィーリアに敵うことはついになかったが、かえって彼女に対するイリーナの憧憬は深まっていた。公然とは言わないが彼女たちは互いを姉妹として尊敬し、また、寵愛していた。それがオフィーリアとイリーナの秘めたる関係だった。

 だがその関係が続くのは、オフィーリアが姿を眩ませるまでのことだった。さる日から彼女は人々の前に姿を見せることはなくなり、あるいは死んだものとすら囁かれていた。失踪した王女の身を案じ、人々は悲しみに暮れた。そしてその頃のアーズブルグ国には、もう一つの暗雲が立ち篭めていた。国王スマウグが、乱心したのだ。

 王は戦に腐心し、名誉に溺れた。数々の小国を己が国へ呑み込んでいき、その戦のたび貴族は疲弊していった。公と称され王家と親交を持つクロムウェル家も例外ではなかった。領主は戦に参じず多額の税を納めて息を潜めた。苦しくなりゆく財政に民も貴族も等しくひもじい思いをしながら暮らし、クロムウェルの城では薄い麦粥が主な食事となっていた。

 イリーナは今すぐにも王女を捜しに行きたかった。オフィーリアがいれば、国に希望が戻るはずだと。あるいは自らがそう望んでいただけなのかもしれないが。しかしこの時の彼女は旅に出ることすらままならなかった。己が生まれ育ったクロムウェル家を捨てて、傭兵にでも身を落とせば旅を続けられたか。そのような不義など、彼女には働けぬのだ。そうまでして王女に会っても、イリーナは己を許せなくなっていただろう。

 それゆえにイリーナは王女を待ち続けていた。やがてそれは意外な形でもたらされた。数年もの間行方を眩ませていたオフィーリアが王の配下に突如舞い戻り、戦に出たのだ。やがてスマウグが起こしたあらゆる小さな戦は終息を見せ、アーズブルグは一時の平穏を取り戻した。オフィーリアを含む王の騎士達の活躍によって。その名声は広く轟いた。

 だが、平穏はやはり一時のことだった。平原で有数の大国となったアーズブルグ国は、諸国の統一に向けて動きを見せる。クロムウェル公アーロンはこの段に至って決断した。王へ反旗を翻すことを。このままでは多くの血が流れる。平原の統一を為せば後の世には英雄として伝わるだろうが、今の時代に生きる彼らにとってスマウグは暴君に過ぎない。正義は此方にこそあるのだと。

 領主アーロンが説くその道理をイリーナは理解していたが、心では恐れを抱いていた。オフィーリアは王の配下だ。反旗を翻せば、いずれ戦うことになる。そのときが来れば、己は王女と相対して戦えるのだろうかと。答えは出なかった。かつてオフィーリアに憧れ騎士として鍛錬を重ねたが、それはこのようなときのためであったのだろうか……。

 イリーナの苦悩は深く、心を病んでさえいた。このままでは騎士としては荷物となり、戦いには出られなくなる。それは彼女が歩んできた道程の否定にも等しかった。糸を紡ぎ、厨房に篭もり、神に祈る。そのような生活は平穏で幸福だろう。だが、もはやイリーナは騎士として生きると誓っていた。それは平穏な人々の生を守るための誓いだったはずだ。戦うための武器とそれを扱う術を持ちながら、騎士の道を棄てることなどできなかった。

 そのような彼女に救いの手を差し伸べるように、ある客人がクロムウェル家を訪ねてきた。それはイリーナがもっとも待ち望んだ人物……王女オフィーリア、その人であった。オフィーリアは王宮を抜け出し、数年来にクロムウェル家を訪ねてきた。もはや王の下で戦う意思は彼女になく、クロムウェル家と共に、暴君へ反旗を翻すのだと。

 イリーナは王女との再会を心から喜び、そして共に戦うことを誓った。何があろうとも最後までこの戦を戦い抜くと。正義のために。正義を重んじた、オフィーリアのために。それがイリーナの騎士として生きる二つ目の原点となった。

 戦を仕掛けるまでオフィーリアは名と姿を偽り、クロムウェル家の家臣として仕えた。その一方、己を材料に他国と秘密裏に交渉し援軍を頼むという大役を果たす。来る戦では自身が旗頭となり叛逆の狼煙を上げるという覚悟を以って。それはどれほど晴れがましい戦となるだろうか。正義を負う王女が今こそ悪しき王を打ち倒し、国に希望を取り戻す。大義も備えも盤石であった。クロムウェル家はついに狼煙を上げた。

 姿を消したと思われたオフィーリアが旗頭に立って反旗を翻した事実に国は揺らいだ。クロムウェル領は東の大国エストラムへ陸路で繋がる要衝。平原の統一には欠かせぬ地。この上で王が戦に応じぬわけにはいかぬ。スマウグの軍勢はすぐさまクロムウェル領へと攻め込み、城を囲んだ。後は決戦を待つのみ。野戦であれば大勢相手にも勝ち目がある。クロムウェルは籠城戦を続け、約定を交わしたエストラム国の援軍を待った。

 だが。援軍が彼らに駆け付けることはなかった。エストラムの属州たる小国コーデルがアーズブルグに寝返ったのだ。コーデルがエストラムの側にあればこそ援軍は陸路を通じクロムウェル領に駆け付けることが敵う。その可能性が潰えたのだ。では、船はどうか。川を通じて援軍を送ることは不可能ではないはず。しかしそれを信じて待ち続けるのか。

 かねてよりエストラムから送られていた軍備はクロムウェル家の守りを堅くしている。それを押して王の軍勢は苛烈であった。イリーナは幾度も戦場に出て敵勢を追い払った。幾度も、幾度も。月日が経ち、季節が過ぎても東から援軍が駆け付けることはなかった。兵は長い戦いに疲弊していった。だがイリーナは信じていた。諦めぬ限り負けはないと。まだ決戦にすら至ってはいないではないかと。オフィーリアと共に戦い暴君を打ち倒す、その理想を叶える日が来ることを、イリーナは信じて疑わなかった。

 オフィーリアは、決戦を唱えた。王はすでに姿を見せている。彼女自身が前線に出れば打って出てくるはずだと。その際に遊撃隊を出して背後から敵陣に迫り、王を直接討つ。それしか彼女らに残された手はなかった。遊撃隊を率いるのはイリーナの師マクシムだ。彼を信じ、イリーナはオフィーリアと共に城を出て守りに着いた。

 スマウグは、確かに前へと出てきた。圧倒されたのは、その巨躯である。とても尋常の人間とは思えぬ、王という存在を体現するかの如き威容の騎士。騎士の中の騎士であった。

 マクシムは駆け付けた。挟み撃ちに動揺する兵を蹴散らし、スマウグとの決闘に至る。そのはずであった。イリーナが見たのは、血の霧となって上体が消し飛んだ師の姿だった。一振りだ。ただの剣の一振りでマクシムは死んだ。そして次々に多くの騎士が殺された。

 誰も王に敵わなかった。イリーナは絶望と共に見ていた。あれこそが真の強者だった。いままで彼女たちがしてきたことは、すべてが茶番だった。積み上げてきた軍略も大義も何ら意味を為さなかった。あの王には勝てぬ。勝てないのだ。

 イリーナは王女の張り裂けるような叫びを傍で聞いていた。あのとき駆けていく彼女を止めていれば、何かが変わったか。否。そのとき露わとなっていたオフィーリアの憎悪は並々ならぬものだった。イリーナに止められようはずもなかったのだ。

 オフィーリアはスマウグに敗北し捕らえられた。即ち、大敗であった。クロムウェルの未来は永劫に閉ざされた。もはや降伏は許されず、彼らに待ち受けるのは死のみだった。妻子に至るまで捕らわれ、城の中で焼き殺されたと王への畏怖と共に広く伝わる。

 ……しかし。その中にイリーナはいなかった。彼女は一人、落ち延びていた。

 表から姿を消したイリーナが次に現れたのは、王女の処刑の日取りだった。処刑の直前、民がオフィーリアの死を見守る中、彼女は処刑台に乗り込んで王を撲殺した。

 あの時の記憶はおぼろ気だった。滅びゆく城から落ち延び、王女が処刑されると耳にし、人が群がる王都の広場まで辿り着く、そのときまで己がどのように生き、歩んできたのか、ひどく曖昧だった。ただ殺さねば。王を殺さねばと、その想念のみ彼女を支配していた。気がつけばイリーナの手にはべったりと血に塗れた鉄の棍棒があり、王は死体となって、目の前に仰臥していた。その呆気ない最期に、ああ、このように容易いことだったかと、何の感慨もなくそう思えていた。

 イリーナは捕らえられた。彼女の行為には大義も道理もなかった。ただ殺したい人間を殺しただけの暴力であった。それで構わなかった。オフィーリアの命を救えたのだから。後には何も残らなくてよかった。だが叶うならば、王女の罪と共にすべてが洗い流され、赦されてほしかった。

 あなたを救うために私は駆けた。あなたとまた笑い合うために戦ったのだから。そこに少しの救いくらいは、あってもいいはずだ。

 そう願いを抱き、イリーナは冷たい牢獄の底で明日を待ち続けた。


 暗い屋敷の一室でイリーナは眠っている。魔女アルマの霊薬を施されたものの、いまだ幻毒の影響が抜けきらぬ彼女は深い夢の中へ落ちていた。

 そのイリーナに覆い被さるように、ラナはともに眠りに着いている。否、彼女のそれは眠りなどではなく。少女は眠りを必要としたことなどなかった。それはただ、イリーナと同じ夢に落ちているだけのこと。その強く大きな精神の波に攫われたように。

 それは夢というには整然としており、記録というには不完全であった。取りこぼされて空白になった部分があり、彼女自身には観測し得なかった事象があり、あるいは重く蓋で閉ざされているような箇所もある。彼女が実際に生きてきた時間に比べれば遥かに短く、瞬きの間に過ぎてゆく追憶の時。その夢を俯瞰し、少女は思う。イリーナの願い。それは素朴であり誰しも持ち得る純粋な祈り。ラナはその祈りを何時か聞いた気がしていた。


 やがてイリーナは牢を出た。そしてすぐに、オフィーリアがいなくなったことを知る。それを伝えたのは、幼くからオフィーリアの導師として仕えていた魔術師であった。彼はイリーナに告げた。王女は冥界へ行ったと。王の魂を、現世に呼び戻すために。

 その意味も、理由も、イリーナには理解し得なかった。ただ知らねばならないと思う。あの日々には、何の意味があったのか。己がしてきたことは、すべてが無駄だったのか。

 ……そのようなはずはない。その先にあるはずの、一縷の救いを求めて。イリーナは、冥界にくだったのだ。

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