邂逅せし戦場

 冥界は幾つかの領地に分かれている。各地を闇の妖精が管理し、その下で多くの亡者が過酷な役目を与えられていた。生前が男であれば兵士として、女子供であれば石を積んで城壁を高くするなどの奴隷労働に従事している。中には積んだ石を崩して亡者が嘆く様に愉しみを見出す妖精もいたが、これらの労役はいずれ来る戦に備えるためのものであった。

 その最中で奇妙な出来事が起こる。各地の城に籠る闇の妖精が相次いで殺されたのだ。今は戦を仕掛けるときではない。暗黙の了解であり、これを破った城主は未だいなかった。事態を察した闇の妖精たちは遠見の魔術で会合を開き、事態は冥界の外から訪れた騎士の仕業であると巫女から告げられた。そしてそれは、かの騎士が持つ正当な権利であるとも。

『……では、巫女殿はその騎士を八人目として認めたというのか』闇の妖精グリフィスの問いに、水鏡に映る巫女は微笑みを湛えながら頷いた。『ええ。その通りでございます』この答えはグリフィスにとり不満であった。人間などに王の座を渡すつもりではあるまい。だが巫女の言葉は父の言葉であり、すべてに優先する。不信を口にしてはならなかった。

 更に巫女はキロスの死を告げた。これもまた、現世より訪れたる騎士の仕業だという。残る闇の妖精は四人。審判の時は近い。『生者の町への侵攻を速める。私に兵を寄越せ』グリフィスの言葉に、巫女の声は笑みを含んだ。『ええ。とびきりの亡者を贈ってあげる。うまく使うといいわ、グリフィス』


 生者の町の内外を繋ぐ北壁の門の外には多くの兵士が隊列を成し、敵襲に備えていた。イリーナはケイと共に前衛に付く。ラナはイリーナの傍にいた。この少女の存在を訝しむ兵士とていたが、彼らの士気には一部の乱れも来たさなかった。

「敵襲! 敵襲!」と斥候の声が届く。続いて煌々と焚かれた篝火の向こう、闇の内より夥しい亡者の軍勢が姿を現した。その手のひとつひとつに槍や剣を携え、行進する妖精の奴隷兵。此方も隊列を崩さず進み、両軍は相見えた。

 生者と亡者の間に交わす言葉はない。先んじて亡者の軍が仕掛けるや、生者の軍は矢を放ってその足を喰い止めた。ケイは槍を掲げ、兵士たちに号令をかける。「かかれッ! 一体たりとも、壁を越えさせるなッ!」彼は馬の腹を蹴り、真っ先に敵陣に駆けていく。その背に勇気を得たように兵士達は鬨の声を上げた。

 轟く怒号と共に駆ける兵達。イリーナは嵐のような戦場を駆ける。その棍は剣を折り、亡者を屠った。ラナはその背に隠れながら共に前進していく。二人の間にあるのは奇妙な信頼であった。もはやイリーナにとりラナとはただ庇護すべき存在ではない。その魔力に救われた、ただそれのみが彼女にとっての事実だ。ならば共に往こう。互いの力があればこの冥界で恐れるものなどないと彼女達は無言の内に了承し合っていた。

 一人の兵士が亡者に囲まれ窮地に立たされている。ラナは光糸の矢にてその足を止め、すかさずイリーナの棍が亡者を打ちのめした。「す、すまない。あんた達は」助けられた兵士の問いに「通りすがりの騎士です」とイリーナは短く返す。「私は……」ラナは悩み、イリーナに倣った。「……通りすがりの魔術師かな」「アルマと同じか! なんてこった、助けられたよお嬢ちゃん」怪我を負った兵士は感謝を告げて後陣に退がっていった。

 まだ敵は数多い。しかし此方が確実に押していた。前線にあるは騎士ケイの姿。大槍を振るい、数多ある亡者を討ち果たしている。凄まじき騎士、その力あればこそ生者の町が脅かされたことは未だ嘗て一度もなかった。イリーナはケイが切り開いた道を前に進み、肩を並べる。過たず亡者を大地の染みに変えるその棍の威力を見てケイは不敵に笑んだ。「なるほど、闇の妖精を追い詰めるだけのことはある!」

 イリーナは己を英雄と思えたことなどない。現世では常に彼女の先を行く騎士がおり、その者達と共に戦うことはイリーナの喜びでもあった。冥界においてもそのような強者と出会えたことを彼女は幸運に思う。「光栄です、閣下」「閣下はよせ!」馬上の槍が悉く亡者を薙ぎ払ってゆく。敵陣は見る間に瓦解し騎士に道を開けた。

 その道を悠々、此方に進み出る亡者がある。甲冑に身を包み、剣は身丈を越える異形。ケイは険しく眉間に皺寄せ、馬の背を降り同じく前に進み出た。「下がれ、イリーナ殿。こやつは、そなたの相手ではない」両者睨み合う。やがてケイは、己から名乗り出した。「我はケイ・ドラン。この名を忘れたわけではあるまい」亡者は生気を感じさせぬ顔で、その口を開く。「……かつての名は捨てた。ここに在るは妖精の奴隷に堕した、唯一人の亡者と知れ」その騎士は異形の剣の切っ先を向け、踵は地を抉った。

 響き渡る干戈の音。繰り出された刺突をケイの大槍が逸らしていた。火花が両者の間で踊り咲く。その間合いは並の戦士の眼には測れぬほどに遠い。亡者と生者。二人の騎士は大得物を振るい、両者の間に局地的な嵐を生ずる。

 名を捨てた騎士の剣は疾い。その凄まじき勢いに喰らい付く形でケイは槍を操っている。「そんな……」イリーナは絶句していた。辛うじて両者の力は拮抗を保っている。しかしいつ崩れされるか。それほどに敵の剣技は卓越していた。ケイが降されれば、あの亡者に打ち勝てる者はいない。畢竟、生者の町の危機となる。

 ラナが光を纏う腕をかざした。名を捨てた騎士はその眼を眇める。イリーナは気づき、前に出た。片手間に放たれた剣圧から少女を守り、鉄の音と共に大盾から白煙が生ずる。「イリーナ……」信じがたい距離からの斬撃。ひとつ取り違えれば、少女の目の前に立つ騎士は容易く斬り殺されただろう。ラナは魔法を止め指を震わせる。「イリーナ、私……」「離れましょう。これは、私達には立ち入れぬ領域の闘いです」

 このような光景をイリーナは知らぬではない。戦場において突出した強さを持つ騎士が二人、対峙した場合に起きる凪めいた膠着状況。それはもはや戦ではない。決闘となる。常人ならぬ騎士が相争う現世の戦場においては決して稀ならぬ光景であった。敵も味方も固唾を飲み両者の拮抗が崩れる瞬間を今かと待ち望んでいる。このような光景を見るたびイリーナは騎士として限界まで鍛錬した己も一介の雑兵に過ぎないのだと自覚していた。

 今はケイを見守る他ない。そう思われた。だが。「何を手間取っている?」その声は、空より届いた。イリーナは、生者の兵たちは見上げる。闇の空に極彩色の鳥の翼を広げる麗しき妖精の姿を。「哀れな亡国の騎士よ、生者など疾く斬り捨ててみせよ。どれ、私が手を貸してやろうか」妖精は七色の羽根を矢の如く撃ち出す。その矢は名を捨てた騎士と干戈を合わせ睨み合うケイに向かった。「これは七種の猛毒。喰らえば到底動けまい!」

 だが七色の毒の雨が到達するより速く、光の糸が蜘蛛の巣のように空高くに広がった。羽根は糸に刺さり互いの魔力に焼け落ちる。ラナの眼は嫌悪にも等しい色を湛えていた。妖精は再び極彩色の翼を広げる。「させない」光糸の矢が次々に上空へ向けて放たれる。七色の毒を制しながら闇を切り裂く光は極鳥を捕らえるべく空に螺旋を描いた。

 二人の騎士の決闘は依然として続く。ケイは極度の集中を保っていた。迫り来る剣から眼を離してはならない。正確に逸らし、必殺の一撃を叩き込むべし。その隙を見せるまで何が起ころうとこの槍を振るい続けるのだ。(すまぬ、イリーナよ。この場は……!)

 光の螺旋が極鳥を捕らえ地に叩きつける。「イリーナ!」少女に呼ばれ、騎士は戦棍を握った。戦わねば。己が、この手で。相手がどれほど異様で力の及ばぬ怪物であっても。焼け爛れた翼で光の糸を解き立ち上がった闇の妖精は七色に濡れる細剣をその手に掴んだ。「我はグリフィス。その娘はなんだ?」「我はイリーナ・マクレガン。それを知る前に、勝負です。妖精よ」「……まあいい。女騎士よ、貴様も我が配下に加われ。あのつまらぬ町に住む生者の血を共に啜ろうではないか」「やはり、闇の妖精とはそのようなもの!」

 イリーナは突進し戦根を叩きつけようとした。しかし何かが彼女の足を捉える。それは蔦であった。七色に濡れる細剣から滴る毒が神秘的な作用により地に生命を与え、魔木を生じさせたのだ。魔木の蔦はイリーナの腕に、胴に巻き付いて徐々に動きを封じていく。「私は騎士の恐れを知らぬ愚昧ではない。ゆえにその足を止めた。貴様は私には敵わぬ」「ほざいてろ!」イリーナは強いて前進し蔦を引きちぎった。その時には既に七毒の刃が眼前へと迫っている。それを辛くも躱した騎士は棍棒を振り上げ……。

 その腕が、痺れた。棍棒と大盾を取り落とし、イリーナは目の前が白くなっていく様をぼうっと見ている。グリフィスは冷たい笑みで見降ろしていた。イリーナを苛んだのは、その細剣から揮発した毒である。目の前を掠めるのみで、確かな効能をもたらしていた。

「あ……れ……」なぜだ、と白い頭でイリーナは問う。ここは戦場だ。武器を取らねば。戦わねば。だが、体が言うことを聞かない。手足は作り物めいて動かない。(なぜ……)イリーナの目の前に、戦場が広がっている。それは、彼女がかつて駆けた戦場であった。悲嘆の声が聞こえる。憎悪の叫びが聞こえる。イリーナはすべてを聞き、眼に映していた。(ちがう。私は……)何が、違うというのか。私はすべてを見ていながら逃げ出したのだ。すべてから眼を背け、捨て去ったのだ。夜闇に横たわる数知れぬ亡者の屍がその瞳だけを此方に向けて、言葉で責め苛んでくる。(なぜ死ななかった。おまえは。おまえだけが)

「あ、あ」イリーナは何かを口にしようとしていた。だが漏れ出るのは短い息遣いのみ。ラナは彼女の名を叫び駆け寄ろうとする。グリフィスは再生した羽根の矢を飛ばし少女を牽制した。光糸の矢で相殺しながらラナはグリフィスに向けて叫んだ。「私を見ろッ!」七毒の刃が突き立てばイリーナの命は終わる。ラナは光糸の矢を絶え間なく放ち続けた。一瞬でも長くその注意を引き付けねばと……。

「イリーナ殿!」ケイは名を捨てた騎士の剣を弾き、イリーナを助けに向かわんとした。その隙が命取りになると知っていながら。名を捨てた騎士は、断じて彼を逃さなかった。その剣の切っ先がケイの胸の板金を穿つ。異形の剣は大橋の如く両者を繋ぎ、静止した。

 一瞬の後、ケイは血の赤に濡れた口元を開き、猛々しき叫びを上げた。大槍は真直ぐに放たれ、かつての戦友の頭を刺し貫かんとする。……名を捨てた騎士は受け容れるように、その槍に頭部を砕かれた。首を失ったその身で、その腕、その脚までも赤き塵に変わる。もはやそこに、かつての騎士の影はなく。役目を終えて亡者は消え去った。

「くだらんわッ!」グリフィスは極彩色の翼を以って、すべての光糸の矢を掻き消した。七色に濡れる細剣をその手に、イリーナに突き立てようとする。ケイは駆け付けんとし、血を吐く。その脚に力を失い、騎士は地に倒れ伏した。(間に合わなんだか……!)

 イリーナは幻毒に苦しんでいた。戦場に立つのは、彼女一人のみ。否。共に戦った友が居たはずだ。その者を、己は今でも追い求めている。揺れる視界に誰かの背を映し出す。死の刃が喉元に突き立たんと閃いた、そのときイリーナを庇うようにして、現れた影を。

 ケイはその眼で見ていた。一人の騎士が散る瞬間……否である。意識を手放す間際に、彼が見たのはこの場に駆け付けたもう一人の騎士の背中であった。彼には見覚えがある。たなびく金色の髪。魔力の光を帯びるその剣。「なぜ、ここに……」掠れた声を残して、ケイは重く瞼を閉じた。

「ケイ卿をお助けしろ! 絶対に死なせるな!」兵士の声が戦場の空に響く。その最中、イリーナは未だに悪夢を見ているのだと思い込んでいた。己は夢の中で、確かにその者の名を呼んだのだから。彼女は闇の妖精と剣を合わせ、イリーナの目の前に庇い立っている。「オフィーリア様……」

 騎士オフィーリアは魔力によって剣に霜を纏わせた。その一撃が七毒の剣を弾き返し、グリフィスを後退せしめる。(愚かな。我が毒は風に乗り武器を交えたのみで敵を侵す。騎士がこの私に挑んだのが運の尽きよ……!)突如現れたこの騎士にも闇の妖精の余裕は崩れぬ。彼は己の勝利を確信し剣を構え直した……その時、我が身の愚かを思い知った。「馬鹿な!」剣は七種の毒ごと凍り付いている。死の刃はもはや、なまくらに等しい。

 オフィーリアの魔法剣の絶技である。霜の刀身から放つ冷気が毒の拡散を封じたのだ。麗しき女騎士は泰然と剣を構え、歩み出す。グリフィスは転進した。彼を守るようにして魔木の蔦が不気味に蠢き、鞭のように放たれる。瞬間、オフィーリアの剣の刀身は霜から炎へと変じた。炎の刀身は蔦を容易く断ち切り、広がる炎が魔木を瞬く間に焼き尽くす。(この者は……!)グリフィスは確信した。この騎士こそ『八人目』であると。

 極彩色の翼を広げグリフィスは既に空高くへと飛んでいた。その先に待つのは彼の城。闇の妖精はこの戦を捨てたのだ。その眼には地上から己を睨む騎士への恐れが入り混じる。彼を追うように亡者たちも闇へと消え、脅威はもはや過ぎ去った。戦場に横たわるのは、残された生者たちの沈黙のみ。その中でイリーナは、呻きとも感嘆とも取れぬ声を上げ、縋るようにオフィーリアに歩み寄った。「ああ、ああ……ご無事だったのですか、王女。あなたにひと目お会いしたいと、どれほど願っていたことか。ようやく……」

 オフィーリアが振り返る。その剣が、無造作に振るわれた。

 イリーナは鎧に斬撃を受け後ずさる。いま何をされたのか、彼女には暫しの間、理解が追い付かなかった。わけもわからぬまま、王女は剣の切っ先を向けてにじり寄ってくる。「あ……え……オフィーリア様? 何を……」イリーナはようやくにわかに理解し始めた。オフィーリアの眼には怒りの色が差している。これは、拒絶だ。「なぜここに来たッ!」王女は怒気を孕んで再び剣を振るった。イリーナは大盾を拾い上げ辛うじて追撃を防ぐ。「やめてください、王女! 私が一体、何をしたと……」「おまえに冥界は過酷すぎる。大人しく現世にいてくれればよかったものを……!」

 剣圧に負け、イリーナは大盾ごと吹き飛ばされる。その傍にラナが駆け寄るが、もはやイリーナに立ち上がる気力は残されていなかった。「わかりません、王女。なぜこのような理不尽に遭わねばならないのです。これほどむごい仕打ちはありません。私はあなたを捜すためにこのような場所まで……」オフィーリアは答えずに背を向けた。イリーナは、血を吐くような思いで叫ぶ。「いったい、あなたはどこへ行くのですか、王女よ……!」「あの闇の妖精を殺す」決断的な言葉にイリーナの瞳は大きく揺らいだ。熱に浮かされ、歌うように王女は語る。「門は未だ開かない。最後の一人のみが玉座へと至る……」

「待って、待ってください。オフィーリア様」イリーナは王女の背を見ながら砂を掻く。その瞳からはボロボロと大粒の涙が零れていた。「みんな、みんな死んでしまった……!」その嘆きはもはや独白にも等しく。彼女は運命を呪うように、何者かに呼びかけ続けた。「立派な領主であられたアーロン様も、私を拾い育ててくださった養父のコンラッド様も、厳しい武芸の師だったマクシム様も、詩と楽器が得意だったデリックも、老いてるけれど庭の手入れは怠らなかったトビーも、ドジだけど優しい使用人だったアミーナも……! みんな、いなくなってしまった……。なぜですか。なぜ、みんな行ってしまうのですか。私にはもう、あなたしか残されていない。いないんですよ……オフィーリア様……!」

 もうオフィーリアの背は見えない。遠い昔にすでに失われていたもののように消えた。幻であればどれほどよかったか。だがあれは真実なのだ。あの輝きを求めてやまなかった、イリーナにとってただひとつの光だったのだ。

 虚ろな闇に向かいイリーナは嘆き続けていた。誰にも理解できなかった彼女の苦しみ、そのすべてを吐き出すかのように。闇はその嘆きすべてを受け容れ虚空に溶かしていく。光を纏う少女はその傍に居続けた。嘆きがやむまで、ただその傍に在り続けた。

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