第36話 大胆
年末年始、飲み会が増えるのはお互い様だ。
会社関係の集まりなら夫婦そろって出席する事が殆どだが、プライベートになると別行動が当然増える。
今日も佳織は職場の女子会だった。
金曜日だし、いつもの飲み会より遅くなると思う、という宣言通り帰って来た時には11時半を過ぎていた。
玄関からご機嫌な声がして、ソファで寛いでいた紘平が迎えに出ると佳織がブーツを脱ぎながら手招きしていた。
「ただーいまー」
「おかえり・・つーか、相当酔ってんな・・」
「飲み会って言ってたでしょ?飲み会で飲まないでどーすんのよ!」
美味しいお酒飲みながら楽しくおしゃべりしましょうってのが女子会なのよ!と拳を握られて、紘平が苦笑する。
かくいう自分も、ついさっきまでダイニングで一人酒を楽しんでいたので、文句を言うつもりなんてさらさらない。
散らかしっぱなしの部屋を見て、佳織が小言を言うかと思ったが、この調子なら気にしないに違いない。
脱いで、そのまま放置しているスーツのことが頭を過ぎったが、今更かと諦めた。
それよりも、今は目の前の佳織だ。
ふらつく腕を掴んで、支えてやると何とかブーツのジッパーを下した。
冷えたコートから、どれだけ外の気温が下がっているか伺える。
本人は全く寒さ何て気づいていないようだが。
「佳織、歩いて帰って」
「まっさかー、贅沢してタクシー拾ったわよ」
「だよな。ならいい」
この足で寒空の中歩いて帰ってきたのかと思ったが、賢明な判断を下したようでホッとする。
飲みに行くのは構わないし、楽しくお酒を飲めるなら何も言うことは無い。
ただ、酔った時はタクシーを拾う事、これだけは約束させていた。
自分が一緒の時なら構わないが、ひとりで夜道を歩かせるのは心配だったのだ。
「で、お前がこの状態ってことは、他の子たち、ちゃんと帰れてんのか?」
潰れる事なんて滅多にない佳織は、自分の酒量をきちんと見極めているし、一人の時は尚更無茶な飲み方はしない。
気心知れたメンバーで集まると羽目を外して酔う事もあるが、それは紘平や亜季が傍にいるときだ。
今日は亜季のほかに、直純の妻である暮羽と、東雲専務の義理の娘である和花、佳織のお気に入りである相沢睦希も参加している筈だった。
亜季はともかく、他の女子が佳織たちと同じ量を飲んだとしたら・・・想像するだに恐ろしい。
ふらつきながらも両足のブーツを脱ぎ終えた佳織が、廊下に上がる。
ヒールがなくなった分離れた視線を追って、紘平がわずかに俯いた。
心配そうな夫の腕を叩いて、佳織が胸を張る。
「あたりまえでしょ!飲ませた分、ちゃんと責任持って面倒見るわよ」
「・・・飲ませたんだな」
「いいじゃない、可愛い女の子と一緒にお酒飲めるなんてそうそうないんだから」
「何飲んだんだ?」
「なんだと思う―?」
「ワイン?」
「それもねー思ったんだけど、今日はちょっと趣向を変えようと思ってー」
佳織が人差し指を立てて嬉しそうに報告する。
「亜季と、色々探してー・・・美味しい日本酒を飲んできました!」
「・・日本酒」
それでこのふらつきか!!
多少絡む事はあっても、こんな風に足元がおぼつかない事は滅多にない佳織が、今日に限ってふらついている原因はこれだったのだ。
合点が行った紘平が、歩みを進めた途端傾いた佳織の腕を掴む。
「あー・・日本酒が足元来るってほんとだったのねー」
こてんと紘平の肩に頭を預けた佳織が、しみじみと感想を述べる。
若干舌足らずな喋り方が、酔っている事を克明に表していた。
すっかり体重を預けてもたれかかってくる佳織を抱えて、紘平が天井を仰ぐ。
さすがに飲み過ぎだ、と咎めようとした途端これだ。
毒気を抜かれてしまう。
こういう時だけ素直なのは憎らしくてたまらない。
とはいえ、お出かけ用に巻かれた艶やかな長い髪が首筋を擽るのは心地よくもあって、冷えた後ろ頭に掌を回してしまう。
「暮羽ちゃんは、帰る頃合い見計らって相良が迎えに来たわー。あいつ、うちらが飲ませすぎるんじゃないかって予想してたらしいのよー。私と亜季の顔見るなりやっぱり、って!」
「まあ長い付き合いを考えたら、わかるんじゃねーの、さすがに」
これまで同期の飲み会で亜季と佳織がどんな風に酔って絡んだかを思い出して、紘平はふかぶかと溜息を吐いた。
「相良が私と亜季を送るって言ってくれたんだけど、どーせ車乗ったらお説教されるに決まってるから、断ったのよ。暮羽ちゃん本格的にふらふらだったから、早く帰してあげたほうがいいし。そしたら、相良がタクシー何台呼ぶの?っていうから、私と亜季で一台と、和花ちゃんで一台呼んで貰ってー帰ってきた」
面倒見の良い同期の相良が迎えに行ってくれた事に感謝しつつ、飲み過ぎるな、と釘を刺しておいてくれたら良かったのにと思う。
年下の妻を溺愛している相良の的確な処置のおかげで、皆無事に帰宅の途につけたらしい。
「東雲のとこは、親父さんも慧も迎えに来なかったのか?」
「迎え呼べば飛んでくるんじゃない?って言ったんだけどねー。飲み過ぎバレたら困るから、タクシーで帰るって言ってたわ」
「タクシーで帰っても、あの父親と旦那だぞ、玄関先で待ち構えてるに決まってるだろ」
「そうよねー、でも、悪あがきはするみたいよ」
くすくす笑った佳織が、無邪気に額を擦りつけてくる。
堪らなくなった紘平が、佳織の額にキスを落とした。
そこで、名前の挙がっていない人物に気づいた。
「あれ、相沢は?」
「あの子ねー、日本酒ぜんぜんダメだったのよ。飲みやすいの勧めたんだけど、美味しくないって言って。だから、あの子はいつも通りビールで乾杯して、一番素面だったわー。相良先に返したから、代わりに仕切ってくれて、タクシー見送って貰っちゃった」
「さすがしっかり者」
「そーよねー」
ああいう子が一人いるとほんとに助かる、と呟いた佳織が、甘えるように紘平の腕を掴んだ。
綺麗に密着した佳織の身体から、ほのかに香るのは愛用の香水。
そのなかに残る僅かな煙草の匂いに、紘平が眉を顰めた。
自分のものではない。
「店、喫煙?」
「え、うん。普通の居酒屋だったから・・・あ、匂い気になる?」
「ちょっとな・・」
すぐに消すからいいけど。
静かに答えた紘平が、佳織の瞳を覗き込む。
「で、このままベッド行くか?」
指先で首筋を辿ると、頷きかけた佳織が慌てたように首を振った。
別の意味だと理解したらしい。
「ち、違うのよ」
「違うってなにが・・」
いい具合に酔った佳織が、自分から身体を預けてきた。
これのどこが違うと言うのか。
俯いた紘平が耳たぶを甘噛みする。
首を竦めた佳織が吐息を漏らした。
火照る頬を包み込んで、唇の端に触れる。
「っ・・ほ、ほんとに歩けそうにないのよっ」
潤んだ瞳で告げられた事実に、紘平が一瞬固まった。
試しに背中に回した腕の力を緩めると、あっさり佳織の身体が床に沈みかけた。
慌てて腰を抱いて抱え直す。
「・・・珍しく大胆だな、と思ったんだけどな」
「だ、大胆って・・何考えてんのよっ」
胸を叩いて抗議する佳織髪を撫でて、紘平が苦笑する。
「この状況で考えない男がいるかよ」
「~~っ」
「さんざん期待させられた俺は、どうすりゃいい?」
「大人しく私を寝かせてくれればいいと思うけど?」
佳織が強気な眼差しで切り返した。
だって本当足がふらついて歩けそうにないのだ。
目の前の紘平に頼って何が悪い?
「こういう時に正攻法で返すな・・ったく」
苦虫を噛み潰したような表情で、紘平ががしがしと頭を掻いた。
寝室はすぐそこだ。
佳織を抱き上げて連れて行くことは容易い。
冗談半分でベッドに押し倒したら、もう止められる自信がなかた。
「風呂入るんだろ?」
化粧も落としたいだろうし、シャワーを浴びずに眠ることは考えにくい。
紘平の問いかけに、佳織が頷いた。
「ちょっと横になったら平気だから、ソファに連れて行って?」
「・・へいへい・・ほら、腕回せよ・・抱えるぞ・・っと」
少し屈んで膝裏に腕を回した紘平が、佳織の身体を抱き上げる。
首に腕を回した佳織が、ぎゅっとしがみついた。
「あーやだ・・すっごい視界揺れるわ、これ」
珍しい反応に、紘平が眉を上げた。
「なんだよ・・・怖いのか?」
「・・ちょっとね」
「落とさねぇよ」
「知ってるわ」
当然のように言い返した佳織が、紘平の肩に頬を押し当てる。
かわいらしい仕草に、行先を変えてしまおうかと一瞬だけ逡巡して、けれど大人しくリビングへ向かう。
ソファに佳織を下ろすと、紘平が水を取りにキッチンに入った。
こうなったらさっさと酔いを冷まさせるしかない。
「なあ、明日土曜だよな?」
唐突な質問に、肘掛けに凭れた佳織が怪訝な顔で頷いた。
「そうだけど?」
グラスを片手に戻った紘平が、佳織の隣に腰掛ける。
「なら、夜更かししても平気だよな」
「・・うん・・そうだけど・・なに・・?」
無言のままで、紘平が佳織の膝の上に手をついた。
僅かに腰を浮かせて、顔を近づける。
次の言葉を待つ、無防備な佳織の唇にキスをした。
「・・・っ・・ん」
柔らかい唇の感触を楽しむ様に何度も唇を食んで、啄む。
キスの合間に紘平が囁いた。
「酔いが冷めるまで、待ってやるよ」
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