第35話 横顔
いつも予約で埋まっている創作和食の小料理屋。
ひと月待ちで漸く週末の金曜日を押さえる事が出来た。
外食になるとつい馴染みの店に行ってしまいがちだから、たまにはデートらしい事をしよう、と佳織が提案したのだ。
季節の野菜をふんだんに使った限定メニューはリピート客を呼ぶほど好評らしく、楽しみにしていた。
朝からお気に入りのワンピースとパンプスを用意して、持ち歩くポーチには、いつもの化粧直し用のパウダーとリップのほかに、アイシャドウにビューラー、マスカラと明るめのチークまで詰め込んだ。
完全外出仕様の荷物に、紘平が呆れ顔になった位だ。
”お前がそこまで気合入れるの久しぶりに見たわ”
結婚してから確かに、ちょっと、気を抜く日が多かったけれど!!
今日位は”いつも以上に綺麗な奥さん”でいたいと思った。
思った、のに。
★★★
昼休みの食堂で、丁度休憩時間の重なった亜季とランチを取っていると見慣れないスーツの集団が入ってきた。
「あれ・・・あの人って・・・畑野さん・・?」
以前、本社勤務だった営業を見つけた佳織に、亜季があんかけ焼きそばを口に運びながら頷く。
「あーなんか、会議で九州支社の営業が来てるらしいわよ」
「へえ・・・中部行ったの知ってたけど、今は九州なんだ」
「みたいねー、子供さん小学校だから、単身赴任って言ってたわ」
「わー・・大変だ」
「辞令には逆らえないもんねー・・・その点、樋口はついてたわよね、こっち戻って来るの早かったし。あいつがいつまでも向こうにいたら、あんたいつまで経っても煮え切ってなかっただろうし」
「・・・無いって言い切れないのがむかつくわね」
「佳織には、あいつが一番しっくり来るわよ。見ててあたししも安心できるしね」
「喧嘩しても?」
「痴話喧嘩じゃないいっつも。まあ、愚痴の電話かけてくるのはやめてほしいけどさ」
「いいじゃん、他に言うとこ無いんだから聞いてよね」
「聞いてるっつの!」
「ま、あんたが丹羽さんと喧嘩したら愚痴聞くからさ・・っていうか、喧嘩しないわよね、亜季のとこ」
「ん・・・喧嘩にもならないのよ・・・あたしが言いたい事言って、向こうが飲み込んで終わり、みたいな」
「はー・・大人だ、丹羽さん」
「・・・最近じゃ、あたしより先にあたしのイライラに気づいてるわ」
「うっそ」
「ほんと」
亜季の返事に佳織が吹き出した。
口喧嘩でも負けない亜季が、ここまでやり込められるなんて珍しい。
さすがは山下亜季を落とした男、と心の中で称賛しておく。
「丹羽さんって、亜季が可愛いのね」
「・・・あんたまでそういう事言う?」
「あ、なに言われてるんだ、日常茶飯事?」
「ち、違うけど・・」
「ええ、いいな!そういうとこ紘平にも見習わせたいわよ!」
興味津々で佳織が身を乗り出す。
親友夫妻の甘ったるい会話なんて、滅多に訊けるものじゃない。
「もういいってば、佳織も紘平に言われてる・・・で」
赤い顔で矛先を帰そうとした亜季が、何かに気づいて言葉を止めた。
佳織もつられて亜季の視線の先を伺う。
「畑野さん」
昔の馴染みを見つけた畑野が、笑顔でこちらに歩いてくるところだった。
「久しぶりだな、山下、辻・・・あっと今は樋口だっけ」
「お久しぶりです、そうですよー。とうとう樋口に落ちたんです」
「ちょっと、亜季・・・もう・・ご無沙汰してます」
からかうような口調の亜季に、咎める視線を一瞬送って、昔馴染みに向き直る。
畑野は昔と変わらない穏やかな笑顔でしみじみと言った。
「いやー、良かったなあ・・・漸く樋口も報われたわけか・・・部長の縁談蹴っ飛ばして、九州まで飛ばされた甲斐があったよな」
「・・・え・・?」
一瞬耳を疑った。
佳織と一緒に亜季も怪訝な顔になる。
二人の顔を見た畑野が意外そうな顔になった。
「え・・・あれ・・・聞いてない・・?」
「な・・なにも」
声も出ない佳織に変わって亜季が答える。
「山下も知らないって事は、同期も知らないのか・・・てっきりお前ら仲良かったから、筒抜けなのかと・・・悪い。昔の事だし、忘れてくれ」
「え・・・ちょっと、畑野さん!」
納得できないと立ち上がった亜季の言葉を遮る様に、畑野が重ねた。
「まあ、とにかくお前らが幸せそうで安心したよ。樋口のやつ、九州にいる間も一度だって他の女と付き合おうとしなかったし。それくらい、辻の事を大事に思ってるんだよ。イイ男選んだと、俺は思うよ。じゃあ、またな」
同僚の待つ廊下に向かう畑野を見送りながら、佳織は混乱しきった頭を整理しようと必死になった。
★★★★★★
「なあ、マジでどうした、楽しみにしてたのお前だろ?」
この日の為に必死に仕事を片付けて、定時ダッシュの権利をもぎ取ったというのに、隣を歩く妻は浮かない顔だ。
いったいなにがあったというのか?
さっきから何を言っても上の空で、かと思えば難しい顔で黙り込む。
待ち合わせの社員用出入り口を出るなり、紘平が差し出した手をすんなり繋いだ事もおかしい。
いつもの佳織なら、社内の誰に見られるか分からない場所で手を繋ぐなんてありえない。
”馬鹿!こんなとこで繋げる訳ないでしょ!”
いつもの調子で言い返されると思っていたので、華奢な指が自分の指に絡みついた時には動揺してしまった。
全く予想外の展開だったのだ。
今日は飲むつもりにしていたので、車は置いてきて来た。
こうして仕事帰りに二人で並んで歩くのも久しぶりだった。
付き合っている頃に戻ったようなくすぐったい感覚。
折角佳織が”仕事帰りに夕飯デートしたい!”と意気込んで予約した店なのだ。
今日は恋人気分に浸るのも悪くない、なんて思っていたのに。
「・・・ん・・・」
小さく頷いたきり再び黙り込んだ佳織と、駅から歩く事10分。
石畳の風情のある路地に出た。
”レトロ通り”なんて呼ばれている、古民家風の店が並ぶ通りにその店はあった。
上品な提灯が灯された、純和風の店は個室専用になっている。
案内された部屋は、庭に面した景色の良い畳式の和室だった。
この他に年配向けの椅子とテーブルが設置されたモダンな洋室もあるらしい。
お茶を用意した店員が、食事の用意をするために席を外すと、紘平が改めて佳織を呼んだ。
「仕事で何かあったのか?」
窓際で、ライトアップされた庭を見つめていた佳織が、紘平を振り返る。
「・・紘平、私と結婚した事、後悔してない?」
「っは?」
とんでもない質問が飛んできて、紘平が素っ頓狂な声を上げる。
対して佳織は、今にも泣き出しそうな顔だ。
「おまっ・・なにをあり得ん質問してんだよっ」
慌てて佳織のもとに駆け寄ると、なじるように腕を掴まれた。
「だ・・って」
何か佳織を怒らせるような事をしただろうか、と無意識にここ最近の行動を遡る。
「この間飲み会でスナック行った事は正直に言っただろ?他にまだ心配な事でもあるのか?」
後で他のところから耳に入ると面倒なので、上司に連れられてスナックを二軒梯子した事は告げてあった。
他に、佳織が紘平に対して不信感を抱く様な行動は何もしていない筈だ。
佳織の顔を覗き込むと、呆れたように首を振って佳織が言った。
「ちが・・・」
「じゃあなんだよ、なんでそんな事疑問に思うんだ」
「九州に・・異動になる時・・わたし・・・ちゃんと理由訊かなかった」
「は・・・それがなに?」
どうして今更昔の異動話が出てくるのか。
「畑野さんに、会ったわ」
「ああ・・・俺んとこにも挨拶に・・・って・・・あ!」
昼間、紘平のもとに挨拶にやってきた畑野が不用意な一言で佳織を怒らせたかもしれない、と言っていたのだ。
「ぶ・・部長の縁談断る代わりに・・・転勤とかっ」
「あー・・その話な、もういいだろ、昔の事だし」
焦りよりも、佳織の悩みの原因が分かってほっとした。
今こうして結婚して幸せに暮らしている自分達にとっては、全く持って無用な話だ。
それくらい、紘平にとっては全部過去だった。
上司から、自分の娘との縁談を勧められたが、気乗りしなかったので断った、その後で偶然辞令が下りた、それだけの事だ。
けれど、佳織にとっては今さっき聞かされた話しで、冷静に受け止める事なんて出来ない。
ただの人事異動で紘平は九州支社に転勤になったと、そう信じていたのだ。
あの頃、佳織は報われない恋に疲れ果てて、自分の未来も、新しい恋も、何もかも受け入れられなかった。
漠然と繰り返す日常を乗り切るのに精いっぱいだった。
紘平の好意は、嬉しかったけれど、素直に甘える事なんて出来なかった。
また誰かに縋って、その相手と離れることが怖かった。
「良くないわよ!ちゃんと話してくれたら、私だって・・」
とうとう泣き出した佳織が、唇を噛み締めて俯く。
続きを口にできない佳織に、紘平が困ったように微笑んだ。
「あの時、この事話したら一緒に九州に行ってたって?」
「・・・そ・・れは・・」
「責任感強いお前だから、言ったら俺と結婚してくれただろうな。自分のせいで、俺が異動になるなんて知ってて、ほうっておけるはずないもんな。でも、俺は同情で結婚して欲しくはなかったんだよ」
言ってしまえば、佳織は自分のものになる。
同情でも、偽善でも、事実上夫婦になることは可能だ。
どこにもやらずに閉じ込めてしまう一番手っ取り早い方法。
最強の切り札。
でも、それをすれば、永遠に佳織は紘平の手に入らない。
”形だけの夫婦”になる事を承知で告白して、連れていくか、一人でそばを離れるか。
紘平は後者を選んだ。
迷うまでもない、当然の選択だった。
紘平がどうしても諦めきれないと思ったのは、紘平を真っ直ぐに見つめる、そのままの”辻佳織”だった。
「佳織自身に・・・俺を選んで欲しかった。そりゃあ、連れて行きたい気持ちも無かったわけじゃあ・・ない。向こうに居る時も、何度もお前の事思い出したよ。傍に居てくれたらな、とも思った。けど、俺は自分の選択に後悔してない」
「なに・・・強がってんのよ」
佳織がゆっくり紘平の肩に頭を預けた。
その後ろ頭を撫でながら、紘平が溜息を吐く。
「ったく・・・ちょっと位強がらせろよなぁ・・・俺なりに考えて、出した結果だよ」
「バカね・・・あんたが部長の縁談蹴って、九州に行くって言ったら、私からプロポーズしたげたのに」
あの時の紘平に、何か自分が出来る事があるとすれば、それはずっとそばにいると約束をすることだった。
紘平が一番望んでくれていた事。
「それも・・・悪くはなかったけどな。そうすりゃ、もーちょっとお前もしおらしい奥さんになってたかもしれねぇし・・」
笑った紘平が、佳織の目尻にキスをする。
零れた涙が頬を伝うと、温かい指がそれを掬った。
「遠慮なんて、してやらないわよ・・・」
「そっか・・・」
「もうちょっと狡くなってもいいのに」
「そういう俺を、お前は好きにならないだろ」
佳織の気持ちが今何処にあるか、紘平はいつもそれを気にする。
ただ隣にいるのではなく、自分の意思で隣にいたいと望んでほしい。
それが、あの時の紘平の答えだった。
「ごめん・・・」
「なんで謝る」
「だって・・・一人にして・・・ごめん・・私のせいで」
「別にお前のせいじゃねぇよ、言っただろ、ただの異動だ。現に、すぐにこうして戻れたし・・・お前も俺の事待ってたわけだし・・離れてる時間があったから、俺は改めて佳織に気持ちを伝える事が出来た。ちょっと距離をあけて、恋しがる時間が必要だったんだよ、あの頃の俺たちには。お前も、俺に会いたくて泣いただろ?」
腕に納めた佳織の背中を撫でる。
聞こえてくる鼓動はいつもより少しだけ早くて、閉じた瞼にキスをすれば、佳織が小さく吐息を零した。
返事を待つのがもどかしくなって、キスをする。
「ん・・・っ」
唇を重ねるといつもの感触と違った。
佳織が化粧直しの際に塗り直したグロスのせいだ。
外でするキスが久しぶりだと、改めて気づく。
唇を離しても、反論の言葉は出てこなかった。
”泣くわけないでしょ!”
という強気な返事を期待したが肩透かしを食らったらしい。
「・・紘平・・」
潤んだままの瞳で、佳織が紘平の唇に指を伸ばす。
移ったグロスに気づいた紘平が、伸びてきた佳織の指先を捕まえた。
「後でいいよ」
「え・・でも・・・」
そろそろ店員が料理を運んでくる頃だ。
泣きはらした顔の佳織と、グロスが唇に移った紘平。
何があったかなんてすぐに分かる。
「無断で入ってきたしないだろ」
「そう・・だけど」
「いいから、お前はこっち向け」
顎を捕まえた紘平が、もう一度佳織の腰を引き寄せる。
キスされると気づいた佳織が、慌てて胸に手を突いて突っぱねる。
「っ・・・やだ」
「やだっつっても、するけどな」
「も・・強引・・」
「こういう俺が好きなんだろ?」
「・・・」
赤い顔で黙り込む佳織に、紘平が笑いかける。
「佳織が自分の意思で今の俺を選んだんだからな・・・こういう俺でも、文句は言わせない」
眦を吊り上げる佳織の頬をするりと撫でて、唇にキスをする。
「んっ・・」
思わず漏れた吐息が甘くて、佳織が身を捩る。
紘平がさらにキスを深くした。
仰のいた佳織の腰をさらに引き寄せて密着させると、紘平がわずかに唇を離した。
「こんなことで泣くなよ・・・こうして佳織を抱きしめてる今の俺が、一番幸せだ。だから、昔の事はもう忘れろよ、いいな?」
「・・・うん」
「大人しい佳織もいいけど・・・やっぱりちょっと物足りないな・・」
「何よ、人をじゃじゃ馬みたいに言わないでよね」
「なんだ、自覚あるんじゃねぇか」
瞬きをした紘平が意地悪く微笑んで、佳織の火照った頬にキスをする。
「そうそう、強気な位が俺にはちょうどいいよ」
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