第34話 正しい夜の過ごし方
クソバカ上司ぃいいい~!!!
地団駄踏みそうになるのを何とか堪えて階段を駆け下りる。
机の上に置いておいた未決済書類を、間違ってシュレッダーにかけてしまううっかり上司だと理解していた筈なのに。
なんできっちり書類の提出期限チェックしてなかったのよおおわたしぃ!!
いつもは忘れずその日のうちに回収している書類を、あの日に限って回収し忘れていた。
それが、今日になって発覚して部署はパニック。
期限ぎりぎりに駆け込みで予算申請を提出し終えて、漸く遅すぎる昼食を取ったところだ。
「いやあ、ほら、樋口さんがいっつもしっかり管理してるからー」
二重顎のお人よし部長がスマンスマンと片手を上げて謝っていたけれど。
私だって忘れることくらいあるんですっ!!!
いや、でもあの書類は忘れちゃ駄目だろ、絶対に。
カレンダーに○付ける勢いで確認しなきゃだったよ、間違いなく。
後になって、自分の管理能力の甘さに凹んだり、部下任せの部長に苛立ったりと大忙し。
しかも、あの日何があったかと言えば、出張に行った紘平からの定期連絡が一度も無くて、あり得ない事態に半ばパニック状態だったのだ。
決してマメでない夫だが、戻らない日は、必ず一度は連絡をしてくる。
それが、朝から一度も無し。
何かあったのではと一人でヤキモキしていたのだ。
何のことは無い、自宅にスマホを忘れて行っただけだったのだが。
「あーもうっ思い出しても腹が立つううう!!!」
紘平のおおばかやろー!!!
非常階段を降りきって、人気のない裏口を抜ける。
紘平が休憩がてら煙草をふかすその場所は、今は無人だ。
周りに誰もいない事を確認して、佳織は壁を蹴りつける。
右足が壁を打って、予想以上に大きな音が響いた。
「っはー・・・」
これでちょっとは気が晴れた。
息を吐いて足を下す。
どうせここに来るなら、ジュースの一本も買ってくれば良かった。
とにかく、一刻も早く一人になりたい。その思いだけでここまで来てしまった。
かといって、今から自販機まで行くのも面倒くさい。
食後に勢いよく走ったので、横腹まで痛くなってきた。
焦っていた気持ちが、少しほぐれて、さらに疲労感が増す。
もうやだ、今日は帰りたい・・・
どっと押し寄せる疲れに肩を落とすと、砂利を踏む足音が聞こえてきた。
「険しい顔してー」
軽口を叩きながらやってきたのは元凶1ともいえる紘平だ。
「紘平っ!」
思い切り睨み付けてやると、片眉を上げていつもの笑みが返ってきた。
その飄々とした態度にさらに腹が立つ。
「探してたんだぞ?色々大変だったらしいな、こっちまで噂が流れてきた。お前が必死の形相で経理部駆け込んだって」
「・・・そーよ、あと数分遅かったら経理部のお局連中に死ぬ気で頭下げなきゃなんなかったんだから!」
「そっち行ったら、部長がお前の事労ってやってくれってさ・・・ほらよ」
隣までやってきた紘平が、コンビニ袋を掲げて見せる。
恐らく中に入っているのはデザートのシュークリーム。
佳織の好きなバニラビーンズ入り。
「っ・・・もおおお!!!」
手を伸ばしたいけれど、苛立ちも消えなくてどうして良いか分からずに立ちすくむ。
こういう時、素直に甘えられたらいいのに。
今更のように自分の面倒くさい性格が嫌になる。
「あー、はいはい、分かったよ・・・」
紘平が複雑に歪んだ佳織の顔を見て、呆れたように笑った。
「よし、来い」
そんなセリフと共に両手を広げてみせる。
「来いって何よぉもおおおお!!私を何だと思ってんのよっ!そこらへんのペットと一緒にすんじゃないわよ馬鹿!」
「ばーか。大事なお嫁様だと思ってるよ」
紘平の腕が佳織の頭を抱え込んで抱き寄せる。
こうして腕の中に閉じ込められると、嘘みたいに落ち着くから不思議だ。
ここが仕事場という事も忘れて、抱きしめ返したくなる。
佳織が自分からいけない事を承知で、こうするのだから憎めない。
今、一番欲しかったものが目の前に落ちてきて、泣きそうになる。
「よーしよし、えらかったな」
「誉められても嬉しくないわよっ」
「でも、こうやって誉めてやるの俺くらいだろ?」
髪を撫でる手は、佳織を労う優しい手つきだ。
「そうよっそうだけどっ」
それ以上何も言えずに黙り込む佳織の頭の上で、紘平が吐息で笑った。
「だから、大人しく撫でられとけよ」
「なによっ」
唇を噛み締めて、ごちゃまぜの感情が収まるのを待つ。
ガサガサにひりついていた心が、ゆっくり潤いを取り戻して丸くなっていく。
「なあ・・・」
「なによ」
「今は、泣くなよ?」
「っは?」
「家でなら、いくらでも泣いていいからさ」
昼間のやり取りが嘘のように落ち着いた佳織を前に、ベッドに入った紘平が不服そうな顔を見せた。
「なんだ、泣かないのかよ」
「なんで残念そうなのよ!?泣かないわよっ・・あんたがあんな事言うから、泣く気も失せたっての!」
「いや・・だってなあ・・」
紘平が困り顔でうつ伏せになる。
ベッドに腰掛けて振り向いた佳織の手首を掴んで、引っ張った。
「だってなに・・っちょ・・」
支えをなくした体が傾いて、シーツに倒れ込む。
隣に倒れた妻を覗き込んで、紘平が頬杖を突いた。
「あそこで泣かせたくなかったんだよ」
「・・・」
泣かなかったわよ!と言い返せないのは、紘平を見つけた時本気で涙目になったからだ。
ひとりになってホッとした時以上に、もっと、ずっと、ほっとした。
周りの人間全部が敵に見えて、八方ふさがりでどうしようもない時でも、紘平だけは、絶対に味方でいてくれる。
そんな安心感をいつも佳織に与えてくれる。
「わ・・私だってねぇっ・・・赤い目でフロア戻るつもりなんてなかったしっ・・・子供じゃないんだから、メソメソ会社で泣いたりしないわよ」
「うん・・・そう言うとは思ったんだけどな・・・俺が、見せたくなかったのよ、他の誰にも」
「・・・は?」
突然の告白に佳織が目を瞠る。
そりゃあ、泣き顔なんて見せられたもんじゃないですけど。
「お前さあ、限界まで我慢して泣くから、子供みたいになるだろ?」
「こ、子供みたいって失礼ね!」
綺麗に涙を流せるのなんて女優位のものだ。
誰だって多少なりとも取り乱すに決まってる。
赤くなった佳織の輪郭を指で辿って紘平が笑う。
「完全無防備状態で、全身で泣くからさ・・・」
「・・・」
「そういうのは、俺の前だけにしとけよ」
「み・・みっともないから・・・?」
恐る恐る尋ねたら、紘平が遠慮なく額を指で弾いた。
「あ痛っ!なんでよぉ!」
「この話の流れでなんでそうなるんだよ」
「え、だって・・」
涙でぐしゃぐしゃの顔なんて、見せられたものじゃないし。
眉根を寄せる佳織の指先を絡め取って、紘平がそっと爪の先を撫でた。
確かめるのでも、伝えるのでもない触れ方に、緊張が走る。
指先を伝う甘いしびれがゆっくりと全身を包み込む。
目を細めた紘平が、佳織の耳元で囁いた。
「可愛いから」
「・・っ」
真っ直ぐ見下ろされて、目を閉じる事も出来ない。
瞳の奥に宿るのは、佳織だけが知る静かな炎。
「一日我慢した分、盛大に甘やかして泣かせてやろうと思ったのに・・泣かないなら・・・別の事しようか」
「大人しく寝るっていう選択肢もあると思うけど?」
負けてたまるかと佳織が反旗を翻す。
だって本気で今日はぐったり、クタクタになったんだから。
心地よい布団の中で大好きな人の隣でゆっくり、ぐっすり眠りたい。
「こら、人がせっかくいい夢見せてやろうとしてんのに」
「・・・思ってもないこと言わないでよ」
どうせ紘平の頭を占めているのは、この後の二人だけのヒミツの時間。
「心外だな」
「夢なんて見られるわけないでしょ」
いつも夢を見る暇もないくらい疲れ切って熟睡してしまうのだから。
唇を尖らせた佳織の首筋に唇を寄せて紘平が笑う。
「今日はちゃんと手加減してやるって」
「今日は、じゃなくて、今日も、にしてよ」
翌朝の疲労感を味わわせてやりたいと心底思う。
それ以上に幸福感の方が大きい事は内緒だ。
「・・・そうさせてくれないのはお前だろ?」
絡めた指を解いて、紘平が楽しそうに唇にキスを落とした。
オヤスミのキスじゃない、始まりのキス。
「ええ、何よそこで責任転嫁するわけ?」
それこそ心外だわよ、と佳織が憎まれ口を返す。
「ギリッギリでセーブして堪えてる俺を、さんざん煽ってくれてるのはどこの誰なんだか」
他人事のように言って、紘平の手が佳織を抱きしめた。
言葉とは裏腹に背中を撫でる手は、いつもよりずっと優しい。
労ってやる、というのは本当のようだ。
「・・・明日、仕事なのよ?」
「知ってるよ、俺朝から会議」
佳織の数倍ハードワークをこなす夫からの報告に、これ以上の反論は無駄だと決定付ける。
「いい夢、見せてくれるのよね?」
再確認すれば、もちろんだと笑顔が返ってきた。
「信じてる・・わよ・・・?」
「俺はお前を裏切った事ねぇよ」
豪胆な笑みとともに熱いキスが降り注ぐ。
紘平の腕は佳織を包み込んで離さない。
こうなったら多少の寝不足は仕方ない。
覚悟を決めて、佳織は紘平の背中を抱きしめ返した。
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